本日は6月30日。随分と早いものである。光陰矢の如し。もう新年を迎えてから半年経過した。本当にこんなに経過したんだろうか?
私は日記を付けている。記録をざっと見直してみて、確実に新年から半年生きていた。
日記は今はパソコン上で作るから、毎年新しい日記帳に手をつけるなどと言った高揚感はなく、淡々と日々の断片の記録が続いていく。だから、長続きしているのだ、と思う。
確実にこの間私は生きてきた。
私の日記は大まかな日常の時間的行動記録になっている。これは過去の嫌な経験、「職務質問」に端を発している。1日ごとのアリバイ証明のためである。大した詳しい内容ではないが、これに加えて、仕事上の記録、他の私的な記録などを組み合わせればなんとか立体的なデータになるだろう。
私の日記には1000字くらいのミニエッセイがつく。普段考えていること、読んだ本など、他愛ないことを綴る。食事の内容は書かない。
現役を引退後、根が出不精で引きこもり状態の私だから、動きのない似たような日々の繰り返しである。
フランス文学者の宮下志朗氏は某紙のエッセイ欄に、16世紀のフランスに出不精の田舎貴族がいた、と紹介している。シェルブール近郊に暮らし、農作業など日常のできごとを綴っていた。19世紀に偶然発見された日記は5000日分に及び、そのうちに3310回も屋敷を動かず、と記述している、という。いささかも文学的ではないし、もちろん他人に読まれることも、発表も想定してはいない、逆にそこが魅力という。
ドナルドキーン氏は、有名無名の日記を読み解き、非文学的、天候や知人の往来など一見意味のないことを綴った日記は読んでて退屈であるという。しかし、この非芸術性こそ真実性の証明であり、そこに書き人の本心を見る、と書いている。全くその通りとおりだと思う。
名のある有名人の日記は基本的に読まれることが前提になっている。逆に、だから面白くもない。
モンテーニュは、余生は世間から離れてのんびり過ごそう、最も素晴らしいのはありふれた人間的な形にぴったり合ったもの、奇跡もなく逸脱もなく過剰もない生活である、という。
私の心はこのような考え方に響きあう。たいていの人が目立たない人生を歩む。この私もまた、そのようにして生きて死んでいくのだ。それでいい。
中高校生の頃はメモ程度の日記帳をつけていたが、内容に固有名詞も多く、血気盛んな時期でもあり、エッチなことを書いたり、友人の何人かを殺してしまいたい、などと生々しい表現を含んでいたので高校卒業の頃に焼却した。いま考えると惜しい事をした。
今のような生活記録を再開したのはほぼ30年前である。電子媒体に記録している。自分自身の行動を検索するのに便利である。
私にとって毎日の小文作成は息抜きの時間であったが、最近は苦痛になってきた。これが加齢なのだろう。
私は日記を付けている。記録をざっと見直してみて、確実に新年から半年生きていた。
日記は今はパソコン上で作るから、毎年新しい日記帳に手をつけるなどと言った高揚感はなく、淡々と日々の断片の記録が続いていく。だから、長続きしているのだ、と思う。
確実にこの間私は生きてきた。
私の日記は大まかな日常の時間的行動記録になっている。これは過去の嫌な経験、「職務質問」に端を発している。1日ごとのアリバイ証明のためである。大した詳しい内容ではないが、これに加えて、仕事上の記録、他の私的な記録などを組み合わせればなんとか立体的なデータになるだろう。
私の日記には1000字くらいのミニエッセイがつく。普段考えていること、読んだ本など、他愛ないことを綴る。食事の内容は書かない。
現役を引退後、根が出不精で引きこもり状態の私だから、動きのない似たような日々の繰り返しである。
フランス文学者の宮下志朗氏は某紙のエッセイ欄に、16世紀のフランスに出不精の田舎貴族がいた、と紹介している。シェルブール近郊に暮らし、農作業など日常のできごとを綴っていた。19世紀に偶然発見された日記は5000日分に及び、そのうちに3310回も屋敷を動かず、と記述している、という。いささかも文学的ではないし、もちろん他人に読まれることも、発表も想定してはいない、逆にそこが魅力という。
ドナルドキーン氏は、有名無名の日記を読み解き、非文学的、天候や知人の往来など一見意味のないことを綴った日記は読んでて退屈であるという。しかし、この非芸術性こそ真実性の証明であり、そこに書き人の本心を見る、と書いている。全くその通りとおりだと思う。
名のある有名人の日記は基本的に読まれることが前提になっている。逆に、だから面白くもない。
モンテーニュは、余生は世間から離れてのんびり過ごそう、最も素晴らしいのはありふれた人間的な形にぴったり合ったもの、奇跡もなく逸脱もなく過剰もない生活である、という。
私の心はこのような考え方に響きあう。たいていの人が目立たない人生を歩む。この私もまた、そのようにして生きて死んでいくのだ。それでいい。
中高校生の頃はメモ程度の日記帳をつけていたが、内容に固有名詞も多く、血気盛んな時期でもあり、エッチなことを書いたり、友人の何人かを殺してしまいたい、などと生々しい表現を含んでいたので高校卒業の頃に焼却した。いま考えると惜しい事をした。
今のような生活記録を再開したのはほぼ30年前である。電子媒体に記録している。自分自身の行動を検索するのに便利である。
私にとって毎日の小文作成は息抜きの時間であったが、最近は苦痛になってきた。これが加齢なのだろう。