福田の雑記帖

www.mfukuda.com 徒然日記の抜粋です。

新年からもう半年経過 かつては息抜きであったが最近は苦痛になってきた日記記述

2020年06月30日 05時29分52秒 | 近況・報告
 本日は6月30日。随分と早いものである。光陰矢の如し。もう新年を迎えてから半年経過した。本当にこんなに経過したんだろうか?

 私は日記を付けている。記録をざっと見直してみて、確実に新年から半年生きていた。
 日記は今はパソコン上で作るから、毎年新しい日記帳に手をつけるなどと言った高揚感はなく、淡々と日々の断片の記録が続いていく。だから、長続きしているのだ、と思う。
 確実にこの間私は生きてきた。

 私の日記は大まかな日常の時間的行動記録になっている。これは過去の嫌な経験、「職務質問」に端を発している。1日ごとのアリバイ証明のためである。大した詳しい内容ではないが、これに加えて、仕事上の記録、他の私的な記録などを組み合わせればなんとか立体的なデータになるだろう。

 私の日記には1000字くらいのミニエッセイがつく。普段考えていること、読んだ本など、他愛ないことを綴る。食事の内容は書かない。
 現役を引退後、根が出不精で引きこもり状態の私だから、動きのない似たような日々の繰り返しである。

 フランス文学者の宮下志朗氏は某紙のエッセイ欄に、16世紀のフランスに出不精の田舎貴族がいた、と紹介している。シェルブール近郊に暮らし、農作業など日常のできごとを綴っていた。19世紀に偶然発見された日記は5000日分に及び、そのうちに3310回も屋敷を動かず、と記述している、という。いささかも文学的ではないし、もちろん他人に読まれることも、発表も想定してはいない、逆にそこが魅力という。

 ドナルドキーン氏は、有名無名の日記を読み解き、非文学的、天候や知人の往来など一見意味のないことを綴った日記は読んでて退屈であるという。しかし、この非芸術性こそ真実性の証明であり、そこに書き人の本心を見る、と書いている。全くその通りとおりだと思う。

 名のある有名人の日記は基本的に読まれることが前提になっている。逆に、だから面白くもない。

 モンテーニュは、余生は世間から離れてのんびり過ごそう、最も素晴らしいのはありふれた人間的な形にぴったり合ったもの、奇跡もなく逸脱もなく過剰もない生活である、という。
 私の心はこのような考え方に響きあう。たいていの人が目立たない人生を歩む。この私もまた、そのようにして生きて死んでいくのだ。それでいい。

 中高校生の頃はメモ程度の日記帳をつけていたが、内容に固有名詞も多く、血気盛んな時期でもあり、エッチなことを書いたり、友人の何人かを殺してしまいたい、などと生々しい表現を含んでいたので高校卒業の頃に焼却した。いま考えると惜しい事をした。

 今のような生活記録を再開したのはほぼ30年前である。電子媒体に記録している。自分自身の行動を検索するのに便利である。
 私にとって毎日の小文作成は息抜きの時間であったが、最近は苦痛になってきた。これが加齢なのだろう。


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本 谷川俊太郎著「母の恋文」 1994 新潮社

2020年06月29日 16時45分46秒 | 書評
 先日NHKラジオ深夜便にが設けられでいる<特選:母を語る>のコーナーに詩人谷川俊太郎氏が登場、「母を語る」というインタビューの再放送があった。
 初回放送は1995年5月2日。この時も聞いていた。

 この番組に氏が登場する機会が多くなっているようである。高齢者の気持ち、世界の平和について、淡々、枯淡の語り口は、言葉の美しさと相まって聴いている者に安らぎを感じさせる。
 その番組を通じ「母の恋文」という著作を出されていることを知った。

 谷川氏は(1931- )は89歳、日本の詩人、翻訳家、絵本作家、脚本家などの肩書きを持つ。17歳頃から詩作を始める。現在までに出版した詩集・詩選集は100冊以上におよぶ。著作権擁護に熱心に取り組んでいる方でもある。
 私は、近年になって谷川氏の詩集を4冊ほど購入し、紐解いている。なかな良い。

 氏の父は谷川徹三、哲学者で法政大学総長を務めた哲学者。母は多喜子、代議士の娘、同志社女学校専門部英文科卒の才媛(?)で、この二人の間で交わされた膨大な量の書簡が母の遺品から見つかっている。
 氏はこれらに大正時代社会背景を知る資料として、当時の若い男女の交際を知る資料としての価値もあると認め、整理して出版した。

 私は恥ずかしながら、ラブレターを書いたことももらったこともない。他人のラブレターを読みたいとも思わない。よくわからないが、最近ではこのような「恋文」を交わす恋人たちもほとんどいないのではないか。
 
 なんでこの本を求めて読む気になったのかを考えると、谷川氏の意向に共感したことがある。詩人とか歌人というのは自分の心の内をさらけ出す職業である。氏の作品も心情が吐露されており、本書も同様である。とはいえ自分のものではない、両親間で交わされた「恋文」を公開するには何か抵抗がなかったのか??最高の親不孝でないのか??

 「恋文」だから期間限定で大正10年8月から結婚するまでの2年間だけ。537通残っていた。
 331Pには、多喜子の記載として、「昔は会わないでもあなたのことを想っていれば良かったのに。昔は会ってもただそばに居られるだけで満足しておれたのに。昔は手と手を触れるだけで心ときめいたのに。あなたの髪の毛が、かりそめに私の頬にかかった時、私は思わずも身を震わせたのにーーーー」と徐々に親しくなっていく過程を可憐な言葉で紡いでいる。

 本のラストには「多喜子から徹三へ;30年後の手紙」が収められてる。夫を慕いながら、別の女性の影がちらつく夫への思いを垣間見ることができる。

 他人のラブレターを見るという、覗き見的な、稀な機会を与えてくれた本である。
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議員不祥事2020(4) 金品を出す側、受け取る側双方に問題

2020年06月28日 16時48分12秒 | 政治・経済 国際関係
 川井夫婦の罪状はまだ全て明らかにされていないが、東京地検特捜部は、先日6月18日公選法違反の疑いで夫妻を逮捕した。票の取りまとめなどを依頼して地元県議ら96人に現金計約2570万円を渡した買収容疑である。

 内訳は首長3人を含む地元政治家42人、選挙スタッフら6人、後援会関係者46人となっている。つい先日までは授受を否定していたが、一転受領を認めている。中には頭を丸めて会見に臨んだ首長もいる。支持者や後援会に相談して決めた、というが、相談など不要、自分で決めるべきだ。往生際が悪い。ここまで明らかになる前に認めていれば・・と思う。これら受け取りを否定したり隠蔽していた地方政治家にはもう明日はない。

 これまでの任意聴取で夫妻は買収を否定しているが、選挙にあたっての金銭授受、票集め以外の何があるのか? なんで買収を否定できるのか??実に往生際が悪い。この二人にも明日はない。

 これら関係者たちには、良識、常識、倫理観はないのか??

 ところで「公職選挙法」の名称」を改めるべきである。公職を好色に置き換えれば「金銀」、「桃色やピンク」、「紅色」、「腹黒」などとつながる。

 国政をはじめ地方政治を担う方々はつくずく特殊な考えの方々だと思う。選挙に出るのも大変。良識、常識、倫理観を失っているのではないか。
 それに、政治家というのはそんなになりたいものなのか??当選すれば好き勝手なことができるからなのか??利権もある??

 選挙において勝利ということも不適な言葉だが、当選者は「バンザイ、万歳・・・」と叫ぶ。本来ならば当選することは先に横たわる責務のことを考えれば「万歳・・・」などと言っておられないはずだ。

 思想家吉本隆明氏がいう共同幻想状態におしなべて陥っているのではないか?と思う。





 
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議員不祥事2020(3) 首相の任命責任 あまりにも軽い マスクのごとく使い捨て 

2020年06月27日 15時45分53秒 | 政治・経済 国際関係
 河井法相が辞任した。
 昨年10月の内閣改造にの参議院選挙時、妻である河井杏里参議院議員院の選挙に絡み違反行為をマスコミで報じられたのを受けてサラッと辞任した。私は実に潔い、と感心したが、本人はことの重大さを知っているだけに、当然の行動であった。

 これほどの身をわきまえない多額の収賄行為に関わっていたのだから初めから入閣、法相になるべきではなかった。
 7選も果たしており、大臣経験こそないが副大臣などを歴任し、自民党内でのキャリアは十分なように思われる。

 自民党には当選回数などから見て70人ほどの入閣待機組がいるとされる。法相は今までの歴任者の顔ぶれを見ると大臣経験をさせるためのポストの一つに用いられているのではないか?とも思う。

 安倍首相は、最近比較的簡単に「任命責任は私にあります」、と言う。安倍首相は今回も「法相に任命した者として責任を痛感している」と陳謝、「総裁として一層襟を正し、説明責任も果たしていかなければならない」などと述べるにとどまった。
 私は、失言閣僚の言葉も軽いが、首相の言葉も軽くなった・・、と感じている。しかも、「任命責任」の意義を取り違えている。

 首相の任命責任とはなんなのか?口先だけでいいのだろうか。

 首相は「責任を取るということは、めげずに職務を果たしていく・・」ということだ、と答弁している。それは違う。

 「任命責任」とは人事権をもつものの責任である。それが見えない。すげ替えして「任命責任は私にあります」と言えば一件落着に見える。実に便利な言葉であるが、そんなに軽いものではない。

 「任命責任」とは何か。

 誰かを任命する時に、その人の資質が職務に適合するかどうかについて、事前に十分に調べ、資質を認めて指名する要がある。日本における「任命責任」は、不祥事等の「結果責任」という意味で使われる。
 「任命責任」があるか否かは事前に十分な審査をしたか否かであって、事前に情報を得られなかった場合には「任命責任」は生じない。首相は就任打診の際に入閣候補者に直接面談しているのだろうか??

 その上で、「結果責任」が問われたら、本人の問題である。
 「任命責任」は任命者の職務の大きな責任事項であり、「任命責任」を問われたら任命者自らの資質が問われていることになる。首相は長期政権の中で何度「任命責任」を負ったのだろうか。「任命責任」不適格者と言っていい。

 「結果責任」は任命者が問われる必要はない。この辺我が国の考え方はおかしい。隔靴掻痒の感じである。

 大臣候補者は資質や技能に関係なく当選回数などから派閥の長から推薦される。多分、首相は個々人の情報はないだろうし、派閥からの推薦を拒否できないだろうと思う。
 だから、推薦した派閥の長の方に問題がある。
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議員不祥事2020(2) 河合夫妻問題、昨年は他にどんなことがあった??

2020年06月26日 05時56分53秒 | 政治・経済 国際関係
 昨年2019年秋は、菅原経産相、河井法相の二人が相次いで辞任した。
 今回、河井氏の行動を調べたが、その過程で、出てくる政界の不祥事があまりにも多いことを再確認した。
 その中のかなりが忘れ去られている。この機会に2019年の政界不祥事を、私が集めたファイルから一部であるが抽出してみた。内容の詳述は省略した。

順不同
秋元議員逮捕 12月 カジノIR関係で中国への便宜
萩生田文科相 10月 身の丈発言
河野太郎 10月28日 雨男発言 防衛そうになってもう台風が3けきた
北村地方創生相 09月27日 地方創生はこんな風台風でビクともしない
菅原経産相 11月25日 辞任 支持者にカニ・メロン・香典など贈り辞任
二階自民党幹事長 10月13日 この程度の台風でよかった
桜田五輪相 4月 復興より選挙が大事
河井法相 12月 法の番人は担えない
菅官房長官 2月26日 あなたに答える必要ないです
丸山穂高 9月竹島を戦争で取り返すのは?
丸山穂高 5月北方領土を戦争で取り返すのは?
麻生副総理 2月子供を産まなかった方が問題
麻生副総理 4月24日 福田淳一前事務次官 セクハラ問題何かにはめられた
麻生副総理 5月4日 セクハラ罪はありません
麻生副総理 5月4日 文書改ざんは個人の資質による
N国立花党首 9月アホみたいに子供産む奴は虐殺さう
塚田一郎 4月 総理の意向を忖度した

 今回の河井夫妻の逮捕そのものも衝撃的であるが、このような発言が飛び出す背景には政治家である前に、個人としての良識、常識、倫理観が問われるところである。私にはなんとしてでも理解できない。
 私どもとは一線を画する別世界の人種のようだ。
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