福田の雑記帖

www.mfukuda.com 徒然日記の抜粋です。

東京裁判の見直しに賛成(1) 政治的判断と歴史認識とは同じでない

2015年08月29日 02時44分49秒 | 時事問題 社会問題
 稲田政調会長は6月中旬に、連合国が日本の戦争指導者を裁いた極東国際軍事裁判(東京裁判)を検証する組織を党内に立ち上げたい、との意向を述べた。具体的には、安全保障関連法案を9月中旬に成立させた後に、東京裁判を検証する機関を発足させ、東京裁判で裁かれた満州事変以来の歴史について、占領期間も含めて政治家自身で総括、検証し、反省すべき点をしっかり明らかにして将来に生かしたい、とのことである。

 日中戦争、太平洋戦争を日本人が客観的に総括することは歓迎すべきことだ、と思う。
 例えば、原爆投下に至る過程にも、終戦前夜の土崎空襲にも、日本の戦争指導部の判断ミスが絡んでいると思うが、日本人自ら検証もせず東京裁判という身勝手な評価に任せたままにしていることである。東京裁判は、法廷の設置自体も判断基準も曖昧である。東条首相らA級戦犯らに罪を無理やり押し付けている不当な裁判である。

 戦争の総括をめぐっては、終戦直後の1945年末、当時の幣原首相が「戦争調査会」を内閣に設置。連合国の了承を得て活動していたが、作業が具体化するとソ達や英国が中止を求め、翌9月に廃止されている。だから、日本人の手になる公式の総括はない。あるのは歴史家の個人的な総括である。もう70年も経った。新しい情報も公開されている。もう歴史を見直す時期である。

 この東京裁判の正否をめぐって歴史学会だけでなく、言論界、時には政界で論争が繰り広げられ、今なお議論が続いている。しかし、この論争はどんなに繰り返しても限界がある。議論か収斂していかない。その理由の一つは日本人の手による総括がないこと、もう一つは日本政府がサンフランシスコ平和条約で東京裁判を受け入れていることである。

 私は歴史の評価と政治的判断を分けて考えればいいと思う。平和条約で東京裁判を受け入れた事の問題点を蒸し返すのではなく、より納得いく検証と評価である。その時代時代に行われた政治的判断の過程は多様であり、意義は重い。しかし、政治的判断があるからと言って、より客観的な歴史の評価を放っておくのには納得できない。

 あの戦争は日本人にとって何だったのだろうか。個々人が考える問題でもあるが、そのためにも頼りになる拠り所が欲しい。
コメント
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