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大正時代(その1)

2019年11月05日 | タ行
お断り・以下の記事は2014年9月15日に載せたものの再掲です。

大正時代

 大正は大正元年(1212年)7月30日(明治天皇崩御、大正と改元)から始まります。終わりは大正15年(1926年)12月25日(大正天皇崩御)です。
(私だけならよいのですが)大正時代というものがなかなか考えにくい1つの理由は和暦と西暦とが別々に使われているからではないでしょうか。例えば、「第1次世界大戦」と聞けば、「1914年から1918年」とは考えますが、「大正3年から7年」とまでは連想しないと思います。そう考えて、一々両者を併記するようにしました。

 ① 大正時代の年表(個人的関心による年表です)

大正元年(1912)──明治天皇崩御。友愛会結成。日活設立。第1次護憲運動。
大正2年(1913)──上智大学設立認可。「新しい女」の発表。森永「ミルクキャラメル」。
        バルカン戦争。千疋屋のフルーツ・パーラー。
大正3年(1914)──戸籍簿一元化。抱月「復活」公演。宝塚少女歌劇養成会公演。
        第1次世界大戦始まる。日本、ドイツに宣戦布告。
        三越新装開店。東京駅開業。
大正4年(1915)──第1回中等学校野球大会。朝日新聞夕刊発行開始(他社も続く)。
        帝劇「ボッカチオ」、「恋はやさし~」が流行。北里研究所。
大正5年(1916)──工場法施行。吉野「憲政の本義」。活動写真、米国製が全盛。
        京都哲学会発会。タゴール来日。「貧乏物語」。レーニン「帝国主義論」。
        ウィルソン米大統領に。
大正6年(1917)──理化学研究所。室蘭日本製鉄・長崎造船などでスト。浅草オペラ。
        「主婦の友」。大正デモクラシー盛ん。
        10月、ロシア革命。
大正7年(1918)──シベリア出兵(~1922)。米騒動。
        大学令(公私立大認可)。東京女子大学。「赤い鳥」刊。
        新しき村建設開始。
        11月、第1次世界大戦終了。
大正8年(1919)──万歳事件(朝鮮の独立運動活発化)。松井須磨子自殺。五四運動。
        「カルピス」。帝国ホテル。
        ローザ・ルクセンブルグら暗殺。ワイマール憲法。
大正9年(1920)──八幡製鉄の大スト、第1回メーデー。戦後恐慌。
        大杉・堺ら社会主義同盟。国際連盟第1回総会。
        5年制高女認可。慶応大・早稲田大。
大正10年(1921)──自由学園。大本教弾圧。原敬暗殺。足尾銅山争議。「種蒔く人」。
        上田自由大学。ソ連でネップ。
大正11年(1922)──。日農。有島農場を解放。日本共産党成立。
         ムッソリーニ首相。ソ連成立。
大正12年(1923)──丸ビル。「文芸春秋」刊。関東大震災。ヒトラーのミュンヘン暴動。
大正13年(1924)──第2次護憲運動。築地小劇場。モボ・モガが銀座を闊歩。
        メートル法。レーニン死去。
大正14年(1925)──日ソ国交。普通選挙法。治安維持法。ラジオ放送開始。「女工哀史」。
大正15年(1926)──府県・市町村制。地下鉄銀座線。共同印刷争議。浜松日本楽器争議。
        福本イズム。円本開始。大正天皇崩御。

 ② 大正期の科学技術、湯浅光朝著『解説・科学文化史年表』中央公論社

 大正時代(1912~1926。大正元~15年)の科学技術を特徴づける大きな事実は、第1次世界大戦(1914~1918。大正3~7年)を境として、日本科学技術界が自主独立期に入ったことでろう。
 明治初年以来50年にわたる欧米依存からの脱却を強制された。学術雑誌が来ない、医薬品が来ない、染料が来ない、鉄鋼が来ない、工作機械が来ない、学者も企業家も一般大衆も、このないないづくしに、自主独立の必要を痛感せしめられた。

 明治初年以来の伝統たる、国内産業に対する各種保護政策──例えば、大正4年(1915)の染料医薬品製造奨励法、大正6年(1917)の製鉄業奨励法──が取られると共に、自主独立的な科学技術進展の源泉たる研究機関の整備に、官民一致の努力が向けられた。

 名実共にわが国最大の研究所である理化学研究所が大正6年(1917)に「産業の発達に資するため、理化学を研究し、その成績の応用を図ること」を目的として、御下賜金、政府補助、篤志家の寄付を得て設立せられたのを筆頭に、「鉄鋼その他の金属及び合金に関する学理及び応用の研究を掌(つかさど)る」金属材料研究所が大正8年(1919)に、「航空機の基礎的学理に関する研究を掌る」航空研究所が大正10年(1921)に、また民間研究所として最大の設備と陣容とを有する東京電機株式会社研究所(現在は分立、改称)が大正6年(1917)に、軍事科学技術研究機関の中枢たる陸軍科学研究所と海軍科学研究所が大正8年(1919)と大正12年(1923)に、それぞれ設立せられている。その他多くの官民の研究所、試験所及び技術官庁の創立があった。

 「この一大転換の由来するところは、主として国防的及び産業的見地よりする科学的研究の重要性についての認識の普及と世界戦争による我が国富のすばらしい増大と集中〔集積〕との結果」であるという森戸辰男氏の意見(『科学研究所論』)は誰もが認めざるを得ないところであろう。

 科学研究の重要性に対する社会の目覚めは学術奨励機関の続出にもうかがうことができる。著名なものだけでも、東照宮三百年紀念会(大正4年、1915年)、啓明会(大正7年、1918年)、原田積善会(大正9年、1920年)、斎藤報恩会(大正13年、1924年)等が続いている。

 文部省の自然科学奨励費、学士院の学術奨励費等も交付せられるようになり、科学技術者に対する社会の保護関心は著しく高まって来、それに相応する業績が見られる。官学万能の色彩が濃厚なのは明治初年来の伝統で、大正期に入っても大して改まるところがない。

 大正期の科学技術について一言しなければならないのは、社会科学の研究がようやくその緒についたことであろう。大正8年(1919年)、「社会問題の解決に関する学術上の調査研究を行い、社会問題の解決に資するを以て目的とす」る大原社会問題研究所をはじめとして、大正年間に8つの人文科学研究機関が設立された。これは明治年間には見ることのできなかった現象である。

 この社会科学研究機関の発展は、社会問題の複雑化と社会思想の混乱激化とを物語るものである。デモクラシー思想の普及とマルクシズムの流行(大正12年、1923年)とが最大の現象であろう。(湯浅光朝著『解説・科学文化史年表』中央公論社。160-1頁)

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