土木の工程と人材成長

土木建設の工程管理や組織運営、そして人材成長の話題や雑学を紹介します

目標設定からフロントローディングの時代へ

2019-01-16 11:05:11 | 人生経営
 ドラッカーが1950年に「目標による管理」を提唱してから69年がたった。つい最近、ある会社で目標設定をしようとしたところ退職希望者が出たと聞いた。たぶん、会社としては、社員に目標を設定してもらうことによって、会社全体の進む方向との整合性をとり、社員には目標に向かうことによって成長してもらい、成功を味わい、仕事人生において幸せを味わってもらおうという試みであったのだろうと思う。だが、その人は会社から目標を押し付けられたと感じたのかも知れない。

 また、ある会社ではISO審査の指摘で、PDCAのC(チェック:分析)はあるがA(次の行動)が無いと指摘されたと言う。このような指摘を受けるというのは、Aが行われていないと言うよりも、しっかりとしたP(計画)が無いので有効なCや、ましてAには到達し得ないのではないのだろうかと思った。Pは目標と言い換えてもいい。

 ところで、突然話しが飛躍するが、今やAI(人工知能)の時代である。昨年10月に出た、木村駿「建設テック革命」日経BP社、2018.10.16の90頁に、「フロントローディングへの期待」ということが書かれている。これはCIM(3次元モデル)で、施工性を考えた設計や計画(ローディング:先読み)をし、品質向上や工期短縮など様々な効果を、施工する前(フロント)で得ようとするもの。それは、建設プロジェクトの序盤にリソース(資源)を集中投下して完成度を高め、後工程を楽にするというのが「フロントローディング」の考え方のようで、昔から言われてきた「先手必勝」を具体的にプロセスとして落とし込んでいくものだと思われる。この「フロントローディング」については、礒部組の宮内保人氏が十数年前から取組みを進めると言っていた。さすがに、高知県の建設工事で十数年間にわたり、連続優良表彰を受ける会社の取組み方は凄いと、今改めて思う。

 さて、近代になって人間は、それまでは上(神・権威者・親)から与えられていた職業や生き方をしてきたのだが、ここから、一人ひとりが自ら決めなければならない時代になった。言わば神からの自律であり、自由の獲得でもある。サルトルが「存在は本質に先立つ」と言ったとのこと。人として生まれたということは、本質つまり「生きる目的や目標を、自らが決めなければならない」ということでもあるのだろう。ドラッカーが、「明日を支配するもの」ダイヤモンド社、2002.5.24で言うように、現代人は「自らが経営者として、自己経営・人生経営をしていく時代」、つまり、自分で人生目的や目標を決めて生きていく自立の時代なのだと思う。

AI(人工知能)時代の人間

2019-01-06 10:26:42 | 人生経営
 バナナが1本百円、百万円で豪邸が建ち、中村市不破の八幡宮のお祭りでセスナ機の遊覧飛行が3千円の時代に育ち、貧乏百姓の次男だった私は、一生飛行機に乗ることはないだろうと思っていたし、大学のことなど頭の隅のどこにもなかった。ところが、飛行機には数百回は乗り、大学を4つも出てしまった。つくづく、大きな変化の時代を生きてきたと思うのだが、人類は常に変化の時代を生き抜いてきたのだろう。

 今後の変化は、これまで以上に、益々激しくなると言われているが、人の知性、理性、能力が追いついていない。単純労働がロボットに取って代わられるのだが、人にしかできない仕事に対応した教育がなされていないのだ。相変わらず知能指数に囚われた教育がなされているように思う。

 政治はニュートン力学の「時間と空間は均質である」という考え方で、一人一票(ひとり一人の力は均質である)が実行されている。ところが今や、核のボタンを持つ、世界の指導者の幾人かの手に人類の命が握られているというのに。つまり、ニュートン力学に代わるアインシュタインの相対性理論(質量があると時間と空間が曲がる)や量子力学の考えによる政治制度がまだ確立されておらず、捩じれた構造を呈している。

 ところで、AIの登場という時代の流れを反映して、ハラリの「サピエンス全史」や、レナードの「この世界を知るための人類と科学40万年史」が書かれたのも時代に対応した出来事なのだろう。
 
 さて、時代の大きな転換を迎えるにあたっては、これまでの価値観を変える必要があるだろう。哲学や宗教がその役割を担っていかなければならない。新しい時代の哲学を確立していくのはマルクス・ガブリエルかも知れないし、日本では竹田青嗣ではないだろうか。過去の哲学者で言えば、スピノザの考え方や、世界認識の基本原理を提示しているフッサールだと思われる。

 前に述べたように、少数の人が人類の生命を左右する力を持ち、また、少数の情報技術など先端のテクノロジーを牛耳る人達が富みを独占している今の世界。「戦争反対」「核廃絶」は、理想世界だとしても、まだその手前でやるべきことが多々あると思う。竹田青嗣の言う「羊の民主主義」ではなく「狼の民主主義」も、まだその役割を担っていかなければならないだろう。

 政治哲学ではホッブスの「リバイアサン」の「覇権」について、もう一度吟味する必要があると思う。そこから、核の時代における世界の安定の道が見出されてくるのかも知れない。いずれにしても、トランプやポピュリズムは間違っている。これまで人類は愚かなことをしでかしながら賢くなってきたし、今後もそうなのだろう。読めない時代、見えない時代を賢く生きる知恵が、ひとり一人に求められている。

スピノザの善悪

2019-01-04 16:34:25 | 人生経営
 スピノザは、デカルトが二元論を展開したのに対し、一元論で対抗している。國分功一郎は、「100分de名著、スピノザ、エチカ」NHKテキストの中で、スピノザ哲学を「ありえたかも知れない、もうひとつの近代」と言っている。スピノザが言う一元論の「神」は、「自然のことであり、宇宙の原理・原則」のことを指している。これは、17世紀の教会が力を持つ以上、神と言わざるを得なかったものと解釈できる。以下、國分のエチカからスピノザの善悪論を拾ってみたい。

 スピノザは、「善悪は組み合わせである」とする。つまり、「自然は完全であり、自然界にはそれ自体として善いものとか、悪いものは存在しない」と言う。エチカ第四部序言では、「善および悪に関して言えば、・・・我々が事物を相互に比較することによって形成する概念であって、同一事物が同時に善および悪ならびに善悪いずれにも属さない中間物でもありうるからである。例えば、音楽は憂鬱の人には善く、悲傷の人には悪しく、聾者には善くも悪しくもない」と、書いている。つまり、スピノザは、「組み合わせとしての善悪」という考え方を提示しているのである。音楽それ自体は善くも悪しくもなく、ただ組み合わせによって、善くも悪しくもなる、と言うのである。つまり、自然界にはそれ自体として善いものや悪いものはないけれども、うまく組み合わさるものと、うまく組み合わさらないものとが存在する、それが善悪の起源だと言うのである。薬も量さえ適切であれば薬になるが、量が多いと毒になり、少なすぎると毒にも薬にもならないということだろう。

 スピノザがここで言いたいことは、「人はいかに生きるべきか」ということであり、望ましい生き方と望ましくない生き方を知るために、こんな言い方をしているのである。その人が本来持っている力を発揮させてくれ、「自分の活動能力が増大すること」が、善い組み合わせであり、その反対が悪い組み合わせであると言う。

 だから、ある人には善いものがあったとしても、別の人にとっては悪いものもあるということで、よくお節介な人が、自分が善かったからと言って、無理矢理人に勧めている場合があるが、別の人にとって合わなかった場合、これほど迷惑なことはない。人は夫々に異なり、体質や価値観が違うので、万人に善いとは言えないものがあるということは理解しているはずであるが、そうでない押し付けを目撃することがシバシバある。

 そこでスピノザは、自分に合っているのかどうか、実験することを求めている。これはハイデガーの「企投」、あるいは「投企」のことと同じことを言っているのだろう。各々が企投することによって道は拓けてくるというのが「実験する」と言うことだろう。