専制主義国家では、米国の政治的混乱を見て民主主義の行き詰まりであり、やはり専制政治に勝るものはないという判断と認識がひろがっているようである。
勿論、専制主義国家よりも民主主義国家の方が、人類の進歩の歴史から言っても、自由と平等の尊重から言っても、評価されるべき社会制度だろう。
ルソーは『政府は一般意志を代表しなければならないが、社会にはそれをつねに疎外する大きな要因がある。それは「国家の内部に下部団体が存在すること」だ。それぞれの団体は自分たちの一般意志をもつので、社会全体の一般意志と対立する。したがってその場合「人間の数だけの投票数があるのではなく、団体の数だけ投票数がある」ことになる。だから一般意志が十分よく表現されるには、「国家のなかに部分的社会がなく、各市民が自己の意志だけに従って意見を述べることが肝心である」(竹田青嗣「人間の未来」ちくま新書2009.2.10,P58)』とする。
同書には具体例も述べられている。
ある専制主義国家は、法による適合ではなく、外交でも内政にも軍事力や警察力、時には暗殺までをも行使している。民主主義国ではとても耐えられるものではない。
一方、米国政治は金で動いていると言っても言い過ぎではない面がある。ナポレオン・ヒルは「プラトン哲学もいいが、金儲けの哲学が必要だ」と言った。このことにより、金中心の米国文化が爛熟している。私はこれを「ナポレオン・ヒル症候群」だと揶揄している。今こそ政治、経済、文化を含めてプラトン哲学(後に続くデカルト、ホッブス、ルソー、ロック、ヘーゲル、カント、ニーチェ、フッサールを含めて)を必要とする社会なのである。
磯田道史は、「古代は神仏、中世は暴力、近代は金銭が中心(だのみ)の世界だ。まだまだ金銭の世界が続くだろうが、もうちょっと心の中が大事にされる世の中になって欲しい」と言う(NHK、BS3、2023.5.24「英雄たちの選択」平安時代を壊した帝王 白河上皇 山法師との戦いでの最後のまとめで)。
磯田の示唆から得られるものとして、専制主義国家の人々には歴史から学んでもらいたいし、民主主義国家の人々には、こころして取り組むべき課題なのだとの認識をして欲しいものだ。竹田が言うように、資本主義が地球を消尽しつくしてしまう前に。
勿論、専制主義国家よりも民主主義国家の方が、人類の進歩の歴史から言っても、自由と平等の尊重から言っても、評価されるべき社会制度だろう。
ルソーは『政府は一般意志を代表しなければならないが、社会にはそれをつねに疎外する大きな要因がある。それは「国家の内部に下部団体が存在すること」だ。それぞれの団体は自分たちの一般意志をもつので、社会全体の一般意志と対立する。したがってその場合「人間の数だけの投票数があるのではなく、団体の数だけ投票数がある」ことになる。だから一般意志が十分よく表現されるには、「国家のなかに部分的社会がなく、各市民が自己の意志だけに従って意見を述べることが肝心である」(竹田青嗣「人間の未来」ちくま新書2009.2.10,P58)』とする。
同書には具体例も述べられている。
ある専制主義国家は、法による適合ではなく、外交でも内政にも軍事力や警察力、時には暗殺までをも行使している。民主主義国ではとても耐えられるものではない。
一方、米国政治は金で動いていると言っても言い過ぎではない面がある。ナポレオン・ヒルは「プラトン哲学もいいが、金儲けの哲学が必要だ」と言った。このことにより、金中心の米国文化が爛熟している。私はこれを「ナポレオン・ヒル症候群」だと揶揄している。今こそ政治、経済、文化を含めてプラトン哲学(後に続くデカルト、ホッブス、ルソー、ロック、ヘーゲル、カント、ニーチェ、フッサールを含めて)を必要とする社会なのである。
磯田道史は、「古代は神仏、中世は暴力、近代は金銭が中心(だのみ)の世界だ。まだまだ金銭の世界が続くだろうが、もうちょっと心の中が大事にされる世の中になって欲しい」と言う(NHK、BS3、2023.5.24「英雄たちの選択」平安時代を壊した帝王 白河上皇 山法師との戦いでの最後のまとめで)。
磯田の示唆から得られるものとして、専制主義国家の人々には歴史から学んでもらいたいし、民主主義国家の人々には、こころして取り組むべき課題なのだとの認識をして欲しいものだ。竹田が言うように、資本主義が地球を消尽しつくしてしまう前に。