今、故野上ふさ子さんの3部作を購入しました。
なかなか過激な発言もあります。
故金田一京助さんは、アイヌ語は滅びたと言っておられますが、
故野上ふさ子は、終わっていない。アイヌの精神は続いていると。
今回、ホロトロピックでアイヌの聖地の祈りの旅で、
古老フフのアシリ・レラさんにお会いして肌で感じたものがあります。
白川でロゴストロンという5次元の世界から働きかけて願望がかなえられる
アイテムがあります。
アイヌの世界にあるアイヌとカムイを理解しないといけないのではないかと思っています。
これから少しずつお話しして行こうと思います。
野上ふさ子さんの「アイヌ語の贈り物」からです。
写真の右 アイヌ新謡ユ-カラの本は、コレクション日本歌人選60からです。
この本の最初に知里幸恵編訳のアイヌ新謡集からのユ-カラの解説が載っています。
カムイは、一般的に、自然界のさまざまな生き物たちのことを
指すとともに、その生命体が持つ超自然的な力への敬意をも含ん
でいます。一般的に「神」または「神々」とも訳されますが、そ
れだと他の宗教上の神と紛らわしくなってしまいますので、本文
ではカムイという言葉をそのまま用います。
アイヌとは、あるエカシ(古老)によると、アーイーヌ(わ
れら・それを・見る、聞く、感じる)という意味だということです。
「ヌ」とは、見たり、聞いたり、感じたりする、認識の力を意味
します。「イ」とは、認識される対象を指します。
これによれば、人間(私・われら)は、人間(私・われら)以外
のものがあることを感じ、知るものだ、という意味になるでしよ
う。アイヌとカムイがつねに対語とされていることをふまえれば、
その人間以外の存在とはカムイ(自然界の生命体)のことを指しま
す。したがって、アイヌ(人間)とはカムイ(自然の森羅万象)を
感受するもの、という意味になるでしょう。
カムイ(自然界の存在)もまた、生き、語り、歌い、活動しています。
あたかも自分たち人間と同じように。雨も、風も、大地も、
花も、それぞれが生きていて、立ったり、座ったり、休んだりしています。
蚊(エド・タンネ)の話
蚊は、エド・タッネ(鼻が長い)というものだよ。どこのコタンだかに、あるエカシ
がいたんだと。人がよくて、どんなに蚊がやってきて血を吸っても、「蚊であっても人
間世界に役目があって仕事をしているものだ」と、叩きもしないで好きなだけ吸わせて
いたのさ。
ある日エカシは山へ行ったが、どうしたことか道に迷ってしまった。山の中を歩いて
いくと、ふと目の先に一軒の家が見えた。煙が立ち上っているので、人が住んでいるら
しい。戸口で咳払い(訪問のあいさつ)をすると、家の中から「入りなさい!」という声
がする。
家の中に入ると、シソ(右座=家の主人の座)に鼻がずいぶん長いエカシとフチが座っ
ている。自分がロッタ(正面の座=客の座)に座ると、鼻の長いエカシは丁重にオンカミ
(両手をすり合わせて拝すること)をして、こう言った。
「私はエド・タンネ・トノ(長鼻殿=蚊の殿様)であります。私の一族は大勢いて、人間
世界に働きに行くのですが、ウタリの半分はピセ(油袋)を持って喜んで帰ってくるの
に、あとの半分は手ぶらで体中傷だらけになって、泣きながら戻ってくるのです。
ところがアイヌ・ニシパ(人間の立派な人物)、あなたのところへ行くものばかりは少
しも追い払われたり叩かれたりしないで、思う存分、アイヌ・スム(人間の油=血)を
頂いて、大喜びで帰ってきます。あの天井にあるのは、アイヌ・ニシパからいただいた
油なのです」
天井を見上げると、ふくらんだピセ(革袋)がたくさんぶら下がって
いるので、驚き感心した。そのうち、家の戸口から、鼻の長い子どもたちがいっぱいわいわいと入ってくる。
本当にその子どもたちの半分は、喜んで大きなピセを背負って入ってくるが、あ
との半分は足や手を痛めて泣きながら入ってくる。そのとき、鼻の長いエカシはこう言った。
「われわれが人間世界にモンライケ(働き)に行くとき、あなたばかりはわれわれを嫌
わないでたくさんのおみやげを持たせてくれるのが、本当にありかたいことです。御礼
に、われわれの宝物をどうぞお持ちください」
それで、その人間のエカシは、何だか知らないが、
エド・タンネ(蚊)の宝物をどっさりもらって帰ってきたんだと。
福嶋コハナ「ウチヤシクマ」、一九七三年
とても日本の民話ではあり得ない話ですね。
ありがとうございます。