○○240『自然と人間の歴史・日本篇』日本人(18~19世紀、二宮金次郎)

2020-07-16 23:19:29 | Weblog

240『自然と人間の歴史・日本篇』日本人(18~19世紀、二宮金次郎)

 二宮金次郎(1787~1856)をご存知な方は、日本国中あまたおられるのではなかろうか。相模国(さがみのくに)小田原の栢山村(かやまむら、現在の小田原市栢山)の農家に生まれた。

 そこそこの農家であったのかもしれない。それが、洪水で酒匂川(さかわがわ)が氾濫し、田畑を流され、過労により両親は亡くなり、兄弟はばらばらに親戚の家に預けられたという。16歳で叔父二宮萬兵衛の家に引き取られたものの、18歳には名主の岡部方に、19歳には二宮七左衛門方に住み込む。
 20歳には、生家に戻る。それからの金次郎は 、懸命に働き、その間余裕ができればわずかな時間も無駄にせず勉強をしたという。
 それからは、荒地を開墾して収穫を上げお金を貯め、質に入れていた田畑を少しずつ買い戻し、それが効を奏して24歳までに一家を再興した。

 そこ頃流布されるところでは、読書をするための油代を稼ぐために荒地に菜種を植え、他人が捨てた苗を荒地で丹精こめて育てた。
 26歳にして、小田原藩家老の服部家の若党となる。31歳の1817年(文化14年)には、中島キノと所帯を持つ(約2年後に離婚)。32歳の時には、同家の財政再建を引き受け、その才能を認められたようだ。1820年(文政3年)の34歳になると、岡田波と再婚する。この年、小田原藩の藩士に対し、「五常講」が創設される。

 そしての35歳の1821年(文政4年)には、藩主大久保忠真候の依頼により、分家宇津家の旗本・桜町領(現在の栃木県二宮町)の復興を担う。36歳になっては、小田原藩に登用され、名主役格となる。これだけの「お膳立て」の上で、同年、同桜町領復興事業の開始し、その第一期としては5年が充てられる。

 以降は、自分の体験をもとにして大名、旗本などの財政再建と領民救済を引き受けては、尽力して回るのであった、具体的には、1833年(天保4年)に天保の大飢饉が起きる。そこで、藩命により下野国をはじめ小田原、駿河・相模・伊豆などを転々としたという。
 1842年(天保13年)には、幕府に召され、御普請役格とのこと。この時、56歳。この頃から、諱(いみな)を尊徳と名乗る。
 翌1843年(天保14年)には、真岡代官の陣屋手付となる。北関東から東北にかける各藩の農村総合的復興事業(仕法)を行う。1844年(弘化元年)には、日光神領の報復事業方針書の作成を命じられる。こちらは、1846年(弘化3年)に、全64巻が完成したという。これだけでも、大仕事であったに違いなかろう。


 1845年(弘化2年)には、陸奥国相馬藩(むつのくにそうまはん、現在の福島県相馬市)
の復興事業を開始する。その場合、復興は60年をかけてのものであり、しかも、実施が10年毎の6次にわたる計画を立てたというから、大胆不敵というべきか。


 1847年(弘化4年)、61歳の時には、真岡代官の配下に戻るのだが、その実ははっきりしない。1853年(嘉永6年)には、日光神領の復興事業が開始となる。
 
 その後のことはご存知であろうか、まさにその頃の世の中にあっては誠に慌ただしく、「老体」に鞭打っての粉骨砕身だったのではないだろうか。70歳にして、日光の現場で倒れたというから、その頃までに相当な疲労が溜まっていたのは間違いなかろう。

 さて、このような激しい仕事ぶりの金次郎は、どんな経営哲学に立っていたのだろうか。それには御仕法というのがあり、これは、至誠・勤労・分度・推譲から成り立っていた。このうち、分度というのは、個人でも団体などでも、その生計を保つためには、一定の要素を備えた枠がなければならない。それゆえ、復興事業に携わる際には、まず「分度」を定めることにしていたという。

 その分度とは、各自にふさわしい支出の限度を定めることであり、これを中心に、将来に備える意味合いでの推譲とかが出てくる。

 しかして、かかる理論は実践と結びつくべきであって、それゆえ、同法の実施にあたっては、村民たちの投票により働き者を表彰して、そうでない人々を正しい道へと導いて止まない。また、資金や鎌・鍬などの農具を与えることにより、農業への意欲を高める、その他にも、困窮者の救済、家の修理、新築への助成などを行なう。それらに合わせ、堤や用水路などの普請、修理も行うということであり、なかなかに手堅いやり方と言えよう。

 そんな彼の人物像については、大方がつまびらかてはない。豪胆なところも伝わるが、几帳面な性格が窺えるところも伝わっていることから、面白い。

 珍しいところでは、勝海舟の『氷川清話』に、「二宮尊徳は一度会った事があるが、至って正直な人だったよ。全体あんな時勢には、あんな人物が沢山出来るものだ。時勢が人を作ったんだよ」とある。

 一説には、1846年(弘化3年)の江戸において、金次郎が前小田原藩主の大久保忠真慰霊のため霊碑を作成して江戸・青山の教学院に納めたというのだが、その関連での江戸の宇津木邸で入浴中に暗殺されかかったという。この滞在中に金次郎が勝と会ったとすれば、その時の勝は24歳頃にして、はたしてどんな場面で出くわしたのであろうか。

 できれば、もう少し長生きをして、自伝のりを記してほしかった。死後に、その功績を称えられ、明治政府より従四位が贈られたらしい。たしかに、生涯で手掛けた村々の再興は600以上にわたるというから、それらでの類い稀な働きを称賛してのことだろう。

 しかしながら、彼は、そのような話に、必ずしも喜ばない人物だと推察するのだが。そんなことよりもっと根源的でひたむきな生き方を、日本人に残したのではないだろうか。そして、そのことこそが、欧米人をして、「日本で最初の民主主義者」とさせる所以ではないかと。

 ともあれ、金次郎という人を巡っては、私たちはまだまだ勉強して足りないところが多いのではないだろうか。


(続く)

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♦️249『自然と人間の歴史・世界篇』アヘン戦争と三角貿易(19世紀)

2020-07-16 08:59:41 | Weblog

249『自然と人間の歴史・世界篇』アヘン戦争と三角貿易(19世紀)

 1840年~1842年、イギリスが中国の清国に仕掛けたのが、阿片(アヘン)戦争だ。清朝8代・道光帝(どうこうてい。在位1820~50)の治世の1834年、イギリス商人の活動が活発化し、アヘンはより大量に中国に流入した。

 これにより中国はイギリスに対して輸入超過に転じる。中国茶などの輸出品だけでは足りないため、これに加え銀を支払った。中国からの銀の流出には歯止めがなくなった形だ。一説には、1839年には国家歳入の約80%の銀が流出した、とも言われる。
 道光帝から、1838年に特命による欽差大臣(きんさ)の任命を受けた林則徐(1785~1850)は、1839年2月4日に広州に行き、そこにあったアヘン1425トンを没収の上、焼却した。3月には、イギリス領事や英米のアヘン商人を商館に監禁して、所有アヘンの引渡させ、英米商人のアヘン2万箱分を没収して焼却する。それから商館区の封鎖を強行する。イギリスは、この清国な処置を不当として、清国に圧迫をかけていく。
 イギリスの清国に対するいらだちの背景には、イギリス綿製品(綿布およびその加工品)の中国への輸出がなぜうまく伸びないかがあった。開港場が広東(カントン)だけで港の数が少ないからだろうか。

 いや、それについては一言で片付けられない。それよりも別の話に目を向け、活路を見つけるべきではないか。1773年の東インド会社による、インド産アヘンの専売が開始された。

 以来、中国のアヘン市場も緩やかなペースながら開拓されてゆき、1790年に生産地の植民地インドから中国・広東へ輸出されたアヘンは4054チェスト(箱)であり、専売開始時の約20倍に伸びつつあった(加藤裕三「イギリスとアジアー近代史の原画」岩波新書、1980)。一方の輸入では、1780年代から茶貿易が急速に伸びつつあった。
 1825年で見た三国の貿易概念図が加藤裕三氏の「19世紀のアジア三角貿易ー統計による序論」:「横浜市立大学論叢」(30巻Ⅱ、Ⅲ号、1979)によりつくられていて、それにはこうある。

 すなわち、イギリスからインドへは綿製品(822千ポンド、表記製品の比率27.0%)、インドから中国へはアヘン(1196千ポンド、49.6%)と綿花(1042千ポンド、43.2%)、そして中国からイギリス本国へは紅茶(2934千ポンド、95.2%)がそれぞれ輸出されていた。
 これからすると、イギリスは中国との貿易不均衡を改善するすべを、この時点で既に思い付いていたのではないか。
 そして迎えた1840年、イギリスは中国に軍艦16隻を差し向ける。現地に到着した攻撃軍は、さんざんに清国をたたき、屈服させることに成功した。

 1842年には、南京でアヘン戦争終結のための平和条約(全13か条)が締結される。その主な内容は次のとおり。1番目に香港島割譲。イギリス人の居住、監督官、領事官の居住許可も。

 2番目には賠償金、2100万ドルを四年の分割で支払う。

 3番目には.広州(グァンヂョウ)、福州(プーヂョウ)、廈門(シャーメン、アモイ)、寧波(ニンポー、ねいは)、上海(シャンハイ)の5港を開港。そして4番目は、従来の「公行」の廃止による貿易完全自由化。

 この4番目の項目については、南京条約の附属協定として「五口通商章程」と「虎門寨追加条約」(1)領事裁判権(治外法権)(2)片務的最恵国待遇(3)清国側の関税自主権の放棄などがあった。

 この一連の不平等条項を盛り込んだ本条約により、それまで交易を広州港1本で対外貿易管理を行っていた体制が崩れた。これに、アメリカ、フランスも便乗。同じ条約を結ばせる。

(続く)

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