○○190『自然と人間の歴史・日本篇』江戸時代前半期の農民一揆(美作での元禄一揆など)

2017-01-26 21:36:14 | Weblog

190『自然と人間の歴史・日本篇』江戸時代前半期の農民一揆(美作での元禄一揆など)

 1699年(元禄12年)、津山藩で元禄一揆(げんろくいっき)が起きる。その頃、江戸では「元禄」という爛熟の世が出現していた同じ時代に、美作の地では百姓たちが結束して強訴しないでは収まらないだけの騒憂があった。ここでいう津山藩とは、江戸時代の最初に幕府により布置された森家のことではない。百姓たちに相対峙していたのは、同家が改易となった翌年、新たに封じられた松平家のことである。その家柄は、始祖に二代将軍徳川秀忠の異母兄にして、北の庄の徳川秀康を戴く徳川将軍家親戚筋として「親藩」(しんぱん)に列せられていた。
 ついては、これより十数年前の1681年(元和元年)、越後(えちご)高田藩26万石が改易処分となる。「家国を鎮撫すること能わず。家士騒動に及ばしめし段、不行届の至り」(『廃絶録』)との理由で、所領を没収される。これを受け、藩主の松平光長は稟米(りんまい)1万石を与えられ伊予松山藩に預けられていた。その光長が1687年(貞享4年)に幕府から赦免されると、従兄弟の子に当たる陸奥白河藩松平直矩(まつだいらなおのり)の三男を養子に迎えたのが、この宣富(矩栄(のりよし)改め)にほかならない。
 この松平氏が美作の新領主となって封に就き、領主として初めて年貢を徴収しようとした際、領民が幕府天領時代の「五公五民」への年貢減免を求め、強訴を起こした。この事件は、江戸期の美作において最初の大がかりな惣百姓一揆である。その背景には、年貢の変更による増徴があった。森藩が断絶してから松平氏が入封する1698年(元禄11年)、旧暦正月14日までおよそ10か月の間に幕府の天領扱い、代官支配下での年貢収納は「五公五民」の扱いになっていた。それが松平氏の支配となるや、その年貢率が反古にされ、森藩自体と比べても厳しめの「六公四民」になったことがある。具体的には、美作の歴史を知る会編『みまさかの歴史絵物語(6)元禄一揆物語』1990年刊行に収録の「作州元禄百姓一揆関係史料」に、こう解説されている。
 「一六九八年(元禄一一年)旧暦八月、領内に出された年貢免状によると、年貢量は森藩時代と同じような重税の上、森藩の時認められていた災害時の「見直し」や、「奥引米制」という値引き等が、全く認められない厳しいものでした。」
 この一揆では、大庄屋の責任で百姓たちが藩に嘆願する形式をとる。百姓の代表格の
東北条郡高倉村の四郎右衛門、佐右衛門、東南条郡高野本郷村の作右衛門らは、郡代の畑(?)田次郎右衛門、山田仙右衛門に、年貢を幕制時代に戻すよう主張する。これに対し郡代は、諸藩は独自の税法を有する。だから、願いの筋を聞き届けることはできないと突っぱねた。代表は、これを村に持ち帰った後、大衆の力をもって要求を通すしかないと衆議一決してから、1698年(元禄11年)旧暦11月11日大挙して津山城下に侵入した。
 これはてごわいとみた藩は、同旧暦11月12日、いったん農民たちの要求を受け入れる。これにより、百姓達の強訴はかわされて鎮静に向かい始める。その後の津山松平藩は、すでに足並みが乱れて始めていた庄屋の団結を破壊し、百姓たちから完全離反させようと画策を重ねる。そして、百姓たちが強訴を解いて退散したところへ約束を撤回し、最後まで百姓に味方した大庄屋の堀内三郎右衛門(四郎右衛門の兄)を含め、一揆の首謀者を捉える挙に出る。翌1699年(元禄12年)旧暦3月27日、四郎右衛門ら8人は死刑に処せられ、事件は収束を見た。彼らは、「幕藩体制」という封建社会において、その与えられた人生を力強く生き抜いて死んでいった。そうした彼らの志の高さに比べ、正義のため立ち上がった百姓達に対抗するため、藩側が一貫してとったのは武士の名分をかなぐり捨てた騙しの戦法であった、と言われても仕方がない。
 この元禄一揆により、さしもの年貢率にも修正が加えられ、「翌元禄十三年よりは、森家時代の年貢より弐割下げにして定められる」(『三間作一覧記』)とある。その水準がいかほどであったかは、『鏡野の歴史・鏡野町山城村年貢免定』の事例が明らかにされている。これによると、元禄九年(森)の毛付け高が三一八石に対し、年貢高は一八五石にして、年貢率は五八・二%。元禄十年(幕府)の毛付け高が三四三石に対し、年貢高は一五八石にして、年貢率は四六・三%。元禄一一年(松平)の毛付け高が三四三石に対し、年貢高は二五一石にして、年貢率は七三・二%。元禄一一年(松平、しゃ免引き)の毛付け高が三四三石に対し、年貢高は二〇二石にして、年貢率は五九・二%。そして元禄12年(松平)の毛付け高が三四三石に対し、年貢高は一七七石にして、年貢率は五一・五%であったと見積もられる。

(続く)

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○○193『自然と人間の歴史・日本篇』江戸時代前半期の農村・農民

2017-01-26 21:34:02 | Weblog

193『自然と人間の歴史・日本篇』江戸時代前半期の農村・農民

 江戸時代の前半期、農民たちはどんな生活を送っていたのだろうか。宮崎安貞は、畿内の農村を歩き回って、肥料の選び方、そのやり方、農具の選択、耕作の作法、播種(はしゅ)など、農事全般にわたる広範なノウハウをまとめ、1697年(元禄10年)、これを出版した。
 「惣じて農具をゑらび、それぞれの土地に随つて宜きを用ゆべし。凡農器の刄はやきとにぶきとにより其功をなす所遅速甚だ違ふ事なれども、おろかなる農人は大形其考なく、纔の費をいとひて能き農具を用ゆることなし。さて日々にいとなむ仕事の心よくてはか行くと骨おり苦勞してもはかのゆかざると、一年を積り一生の間をはからんには、まことに大なるちがひなるべし。」(宮崎安貞『農業全書』農事総論・耕作(かうさく)・第一28節)
 「殊に土地多く餘りありて人すくなく、其人力及びがたき所にては、取分け牛馬農具に至るまで勝れてよきを用ゆべし。されば古き詞にもたくみ其事をよくせんと欲する時は、先づ其器をとくすとみえたり。」(同)
 「但右の内牛馬は其あたひおもき物なれば、貧民心にまかせぬ事多かるべし。只をのをの其分限にしたがひて力のをよびよきを用ゆべし。」(同)
 ここにあるのは、「農具を選ぶ事」、「効率を上げるの為の道具」そして「分限に合った道具の選択」へのきめ細かな案内であって、畿内の農業の発展にさぞかし貢献したのではないか。
 さらに農学者の大蔵永常(おおくらながつね)が、1842年(天保13年)~1858年(安政5年)に刊行した、農村における商品作物の栽培について紹介した農学書には、こうある。
 「公室を富ましめんとて、其の城下の町人等の商売に仕来るものを領主より、役所あるひは会所をたて其の所にて売買の沙汰を致し、農家より商家へ直うりを禁じなど仕り給ふ事あり。其の益つもりては大ひなれば、忽ち御勝手向よくなり、かゝるにしたがひ、部下の智恵あるもの其の元締がたにかやうかあああやうに成られなば、つもりては是ほどの益と相成り候など申出づれば、其の趣きを取用ひぬれば其の益又少からず。
 然るに又別人よりかやうかやう成られ候へば御益となり候など申出づる故、又取用ひ候まゝ、いつとなく御益すぢと号する事多く出来るものなり。是等は多く部下の商人の利益と相成るべきを領主にて奪ひ上げ給ふなれば、ひそかに恨むといへども威勢に恐れ誰ありて申立てるものなく、変あるを待ちて元のごとくならん事を願ふもの夥しくして、終には騒動を引出す基となりたる事まゝ聞及びぬ。全く御勝手を早くよくせんとて斯く行はせらるゝ事なれば、悪法とは云がたけれど、元来天理に戻り、先ず下民を安富せしむる事を勤めざるゆゑに、却りて手もどりするを見及ぶ事多し。
 部下にて取扱ふべきものを領主より売買し給ふ事は勘弁のあるべき事なり。前にも云ふごとく国の益筋を取扱ふ人なれば、此の位の事は弁へなくして人も帰伏せざれども、右いふごとく脇より追々御益筋と号しすゝむるを一ツ用ひ二ツ用ひ、終に種々に手を廻し行ふやうになり行くものと見ゆれば、努々おろそかに見はず計り、つらつら考ふべき事ぞかし」(大蔵永常『広益国産考』)
 ここに木綿の元となる綿花の栽培が行われていたことが、わかる。それまでも各地で綿、麻などが栽培されていたものが、この史料では、綿花の生産がはっきりした商品生産として始まった。収穫した綿花の流通から、商人などの媒介から織物生産、販売に至るまで、地域経済の発展へと繋がって行った。
 さらに加えて、当時の大衆文学の巨匠・井原西鶴(いはらさいかく)は、こんな話を載せている。
 「鉱(あらがね)の土割(つちわり)、手づからに畑うち、女は麻布を織延(おりのべ)、足引(あしびき)の大和機を立、東あかりの朝日の里に、川ばたの九助(くすけ)とて小百姓ありしが、牛さへ持たずして角屋(つのや)作りの浅ましく住みなし、幾秋か一石二斗の御年貢をはかり、五十余迄同じ額にて、年越の夜に入りてちひさき窓も世間並に鰯(いわし)の首(かしら)柊(ひいらぎ)をさして、目に見えぬ鬼に恐れて、心祝ひの豆うちはやしける。夜明けて是を拾ひ集め、其中の一粒を野に埋みて、もし煎豆に花の咲く事もやと待ちしに、物は諍(あらそ)ふまじき事ぞかし。
 其の夏青々と枝茂りて、秋は自から実入りて、手一合にあまるを溝川に蒔捨て、毎年かり時を忘れず、次第にかさみて、十年も過ぎて八十八石になりぬ。是にて大きなる灯篭を作らせ、初瀬海道の闇を照らし、今に豆灯篭とて光を残せり。諸事の物つもれば、大願も成就する也。此九助此心から次第に家栄え、田畠を買ひ求め、程なく大百姓となれり。折ふしの作り物に肥汁を仕掛け、間の草取り水を掻きければ、自から稲に実のりの房振りよく木綿に蝶の数見えて、人より徳を取る事、是天性にはあらず。
 朝暮油断なく鍬鍬の禿る程はたらくが故ぞかし。万に工夫のふかき男にて、世の重宝を仕出しける。鉄の爪をならべ、細攫(こまざらえ)といふ物を拵(こしら)へ、土をくだくに是程人の助けになる物はなし。此外、唐箕(とうみ)・千石通し、麦こく手業をとけしなかりしに、鉾竹(とがりたて)をならべ、是を後家倒(ごけだお)しと名付け、古代は二人して穂先を扱きけるに、力も入れずして、しかも一人して、手廻りよく是をはじめける。
 其後女の綿仕事まだるく、殊更打綿の弓、やうやう一日に五斤ならでは粉馴ぬ事を思ひめぐらし、もろこし人の仕業と尋ね、唐弓といふ物ははじめて作り出し、世の人に秘して横槌にして打ちける程に、一日に三貫目づゝ雪山のごとく繰綿を買込み、あまたの人を抱へ、打綿、幾丸か江戸に廻し、四五年のうちに大分限になりて、大和に隠れなき綿商人となり、平野村・大坂の京橋富田屋・銭屋・天王寺屋、いづれも綿問屋に毎日何百貫目と言ふ限りもなく、摂河両国の木綿買取り、秋冬少しの間に毎年利を得て、三十年余りに千貫目の書置して、其の身一代は楽といふ事もなく、子孫の為によき事をして、八十八にて空しくなりぬ。」(『日本永代蔵』)
 ここに「朝日の里」は、畿内(現在の奈良県天理市)を指す。この地域では、農具の発達があったものと見える。新たな生産手段を手に入れた農民を、「新興農民」と呼ぶことにしたい。「大和機」は、麻布を織る械(はた)のことだ。「唐箕」とは、羽の入った送風機の外側にハンドルが付いている器械であって、上から玄米と籾殻と埃などの入り交じったものを落とし、そのハンドルを回して羽を動かし風を起こす。その勢いで玄米を選別する。「千石通し」とあるのは、斜め上から金網が下までかかっており、上からごみ混じりの米を流して、いい、悪いを餞別していた。以上の二つは、日本の高度成長期までは使っていた。また「後家倒」は「千歯こき」の異名であって、櫛歯状の鉄串に稲束を通すことにより籾(もみ)を落とす器械。そちらの専門家では無いはずの西鶴は、どの筋から一地方の、こんな最先端な話を仕入れることができたのだろうか。
 器械ばかりでなく、肥料の方も一大劃期を迎えつつあった。江戸中期の民政家で、荒川や酒匂川(さかわがわ)の治水に功績のあった田中兵隅(たなかきゅうぐ)が、8代将軍の徳川吉宗に提出した農政に関する著作(1721年(享保6年))の中に、次の下りがある。
 「夫れ田地を作るの糞(こや)し、山により原に重る所は、秣(まぐさ)を専ら苅(かり)用ひて田地を作るなれば、郷村第一秣場(まきば)の次第を以て其の地の善悪を弁べし。近年段々新田新発に成尽して、草一本をば毛を抜ごとく大切にしても、年中田地へ入るゝ程の秣たくはへ兼る村々これ有り。古しへより秣の馬屋ごへにて耕作を済したるが、段々金を出して色々の糞(こや)しを買事世上に専ら多し。仍て国々に秣場(まきば)の公事絶えず、又海を請たる郷村は、人を抱へ舟を造りて色々の海草を、又は種々の貝類を取てこやしとす。
 其外里中の村々は山をもはなれ海への遠く、一草を苅求むべきはなく、皆以て田耕地の中なれば、始終金を出して糞しを買ふ。古へは干鰯金一両分を買ふて粉にして斗り見るに、魚油の〆から抔は四斗五六升より漸く五斗位にあたりて、いかやうの悪敷も六斗にはあたらず。是享保子年まで五六年の間の相場なり。是を一反三百歩の田の中へふりて見れば、大桶の水へ香薫散を一ぷくふりたるにひとし。よって能入るゝと言者は、一反へ金弐両の内外入ざれば其しるしなし。惣て一切の糞しは皆干鰯(ほしか)を以て直段の目あてとす。」(田中兵隅(たなかきゅうぐ)(田中兵隅『民間省要』)
 これにあるように、従来の刈敷や堆肥といった有機肥料に変えて、金肥といって、干鰯(あぶらかす)、油粕(ほしか)といった現代農業にも通じる、地力を大きく肥やす肥料を使うようになっていく。彼はその後、代官に取り立てられたとか。

(続く)

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○196『自然と人間の歴史・日本篇』江戸時代前半期の江戸と大坂

2017-01-26 19:04:24 | Weblog

196『自然と人間の歴史・日本篇』江戸時代前半期の江戸と大坂

 世に言う「明暦の大火」は、江戸(東京)を襲った史上最大規模の火災であった。おりしも、1657年3月3日(明暦3年旧暦1月18日~20日)の冬は乾燥していた。そこに立て続けに3件の火事が起こった。まずは本郷丸山の本妙寺から出火した。翌日小石川から出火。さらに翌日、麹町から出火した。
 「扨(さて)も明暦三年丁酉、正月十八日辰の刻ばかりのことなるに、乾のかたより風吹出し、しきりに大風となり、ちりほこりを中天に吹上て、空にたなびきわたる有さま、雲かあらぬか、煙のうずまくか、春のかすみのたな引かと、あやしむほどに、江戸中の貴賎門戸をひらきえず、夜は明けながらまだくらやみのごとく、人の往来もさらになし。やうやう未のこくのおしうつる時分に本郷の四丁目西口に、本妙寺とて日蓮宗の寺より、俄に火もえ出で、くろ煙天をかすめ、寺中一同に焼あがる。折ふし魔風十方にふきまはし、即時に、湯島へ焼出たり。はたごや町より、はるかにへだてし堀をとびこえ、駿河台永井しなのの守・戸田うねめのかみ・内藤ひだのかみ・松平しもふさの守・津軽殿・そのほか数ケ所、佐竹よしのぶをひじめまいらせ、鷹匠町の大名小路数百の屋形、たちまちに灰燼となりたり。(中略)
 扨又、右のするがだいの火、しきりに須田町へもえ出て、一筋は真直に通りて、町屋をさして焼ゆく。今一筋は、請願寺より追まはして、押来る間、江戸中町の老若。こはそもいかなる事ぞやとて、おめきさけび、我も我もと家財雑具をもち運び、西本願寺の門前におろしをきて、休みけるに、辻風おびただしく吹きまきて、当寺の本堂より始めて、数か所の寺々,同時に鬨と焼たち、山のごとく積あげたる道具に火もえ付しかば、集りゐたりし諸人、あはてふためき、命をたすからんとて井のもとに飛び入、溝の中に逃入ける程に、下なるは水におぼれ、中なるは友におされ、上なるは火にやかれ、ここにて死するもの四百五十余人なり。
 さて又はじめ通り町の火は、伝馬町に焼きたる。数万の貴賎、此よしを見て、退あしよしとて、車長持を引つれて、浅草をさしてゆくもの、いく千万とも数しらず。人のなくこゑ、くるまの軸音、焼くずるる音にうちそへて、さながら百千のいかづちの鳴おつるもかくやと覚へて、おびただしともいふばかりなし。親は子をうしなひ、子はまたおやにをくれて、おしあひ、もみあひ、せきあふ程に、あるひは人にふみころされ、あるひは車にしかれ、きずをかうぶり、半死半生になりて、おめきさけぶもの、又そのかずをしらず」(『むさしあぶみ』)
 この火事による被害がいかほどであったかには、諸説があって数ははっきりしていない。
「今度焼失の覚
一、万石以上類火、百六十軒。但し、万石以上焼失の残りは五十四軒。
一、物頭・組頭・番頭類火、二百十五軒。
一、新番組火、二百十軒。
一、小十人組類火、六十三軒。
一、御書院番組類火、百九十軒。
一、大御番衆、百四十軒。
一、町屋の類火は両町にして四百町、片町にして八百町、但し道程二十二里八町三十六町壱里にしてなり。間数四万八千間。但し六尺一間積。
一、家主知らざる町屋八百三十軒余。
一、橋残りたるは呉服町丁の一石橋、浅草橋ばかり、此の外は皆焼失す。
一、焼死者三万七千余人、此の外数知らず、牛馬犬猫をや」(『明暦炎上記』)
 当時の江戸には町家に約28万人、武家に約50万人の人々が暮らしていたとの推定があり、当時の欧州諸都市と比べても「ダントツ」の人口規模であった。人々は風に煽られて燃えさかる炎に追われて逃げ惑ったらしい。江戸城の天守閣も焼け落ちた。そんな中でも東へ逃げた人々の前には、隅田川があった。当時は橋が架かっていなかったので、そこまで来て多くの人が焼かれたり、煙に巻かれたりして死んでいったらしい。死者数には諸説あるも、数万人は下らなかったのではないかと言われている。
 その当時の大坂については、江戸のような大災害は伝わっていない。江戸と異なり、「天下の台所」として、物資が集散する賑わいを増しつつあった。井原西鶴は、北浜の米市の模様をこう伝える。
 「惣じて北浜の米市は、日本第一の津なればこそ、一刻の間に、五万貫目のたてり商も有事なり。その米は、蔵々にやまをかさね、夕の嵐朝の雨、日和を見合、雲の立所をかんがへ、夜のうちの思ひ入れにて、売人有買人有、壱分弐分をあらそひ、人の山をなし、互に面を見しりたる人には、千石万石の米をも売買せしに、両人手を打て後は、少しも是に相違なかりき。世上に金銀の取やりには預り手形に請判慥に『何時なりとも御用次第』と相定し…契約をたがへず、其日切に、損得をかまわず売買せしは、扶桑第一の大商。人の心も大服中にして、それ程の世をわたるなる。
 難波橋より西、見渡しの百景。数千軒の問丸、甍をならべ、白土、雪の曙をうばふ。杉ばへの俵物、山もさながら動きて、人馬に付おくれば、大道轟き地雷のごとし。上荷・茶船、かぎりもなく川浪に浮びしは、秋の柳にことならず、米さしの先をあらそひ、若い者の勢、虎臥竹の林と見へ、大帳、雲を翻し、十露盤、丸雪をはしらせ。天秤、二六時中の鐘にひゞきまさって、其家の風、暖簾吹きかへしぬ。 商人あまた有が、中の嶋に、岡・肥前屋・木屋・深江屋・肥後屋・塩屋・大塚屋・桑名屋・鴻池屋・紙屋・備前屋・宇和嶋屋・塚口屋・淀屋など、此所久しき分限にして商売やめて多く人を過しぬ。昔こゝかしこのわたりにて纔なる人なども、その時にあふて旦那様とよばれて置頭巾、鐘木杖、替草履取るも、是皆、大和・河内・津の国・和泉近在の物つくりせし人の子供。惣領残してすゑずゑをでっち奉公に遣し置、(以下、略)」(『日本永代蔵』)

(続く)

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