○○114『自然と人間の歴史・日本篇』荘園制の拡大(~12世紀)

2017-01-13 20:19:57 | Weblog

114『自然と人間の歴史・日本篇』荘園制の拡大(~12世紀)

次に院政期に移ろう。1106年(嘉承元年)、白河法王の治世、紀伊の国の在庁官人により作成された土地事情に関する報告書には、こうある。
 「当国(紀伊国)は七箇郡を管する也。この七箇郡のうち、牟ろ(むろ)、日高(そだか)、海部(すいふ)、在田(ありた)、伊都(いと)、那賀(なか)の六箇郡は毎都(どの郡も)十分の八か九はすでに荘領(荘園)也。公地いくばくもあらず。(公地として)僅かに残るところは、名草一郡ばかり也。」(歴史資料「高野山文書」より)
 この期になってからの土地所有の本質については、前述の西谷氏の論説にこうある。
 「院政期に成立した中世荘園が、中世前期における領主的土地所有の典型である。荘園公領制の規制が消滅した結果、中世後期には公領所属の所領が荘園と同質化(荘園化)し、中世の領主的土地所有は完成段階に達した。また中世後期には、下級土地所有の分野で顕著な発展がみられる。畿外では作手が(狭義の)土地所有権として確立し、畿内では「職の分化」が生じた。近世の検地を通じて中世の下級土地所有権は領主の権利に組み込まれ、近世的な領主的土地所有が成立した。」(西谷正浩氏の前掲書)
 この当時は、摂関家である藤原氏と、設けられたばかりの院庁の勢力とが拮抗していた。この資料によると、その国(現在のほぼ和歌山県に当たる)の田畑のうちおよそ8~9割は荘園主のものと化しており、班田である公地は僅かになりつつあった。おまけに「この報告書を作成している在庁官人というのが、いわゆる地方豪族で事実上荘園の所有者である」(「人物日本の歴史3王朝の栄華」小学館の配本に付属の月報(15)にあるM氏の論考より抜粋させていただいた)というのだから、奈良期からの中央政府の土地施策は、この地域においては事実上瓦解していた。
 同氏はこの状況を評して、つぎのように慨嘆しておられる。
「公地を維持すべき国衙(こくが)の役人が、同時に荘園の所有者であったのだから、律令政治の矛盾もここにきわまれり、といえる。
 それでも受領(ずりょう)(遥任国司(ようにんこくし)の代官として、実際に任国に赴任する国司)たちは、その残り少ない公地の農民(公民)から思うままに搾取し、中央貴族に劣らない財をなすことが多かったのである。(M)」
 こうした土地を巡る所有を中心とする諸関係に関連して、鎌倉幕府の基本法とされる御成敗式目の42条に、農民の社会的地位を伝えるこんな下りがある。ここでの話の前提としては、農民たちは農地にはりつくようにして暮らし・生計を立てているとしよう。西洋においては、これを「農奴」と呼ぶ。彼らは、領主から貸与された土地を耕作し、作物を収穫をなす。その収穫の中から、領主や国家に対し地代その他の税等を納め、また数々の賦役をこなす。彼らには、奴隷と異なり人格は路米良レ邸他ものの、移動や転業の自由が奪われている場合が多かった。
 「百姓逃散の時、逃毀(ちょうき)と称して、妻子を抑留して、資財を奪ひ取る。所行の企てはなはだ仁政に背く。もし召し決せらるるの処、年貢所当の未済あらば、その償ひを致すべし。然らずんば、、早く損物を糾(きゅう)し返さるべし。ただし去留おいてはよろしく民意に任すべきなり。」
 つまりこの条では、領主に年貢をきっちり払い込めば、「去留おいてはよろしく民意に任すべきなり」となって「去就の自由」が認められることになっている。それまでは、「百姓逃散の時、逃毀(ちょうき)と称して、妻子を抑留して、資財を奪ひ取る」ことになっていたのが、「仁政に背く」として改められ形だ。
 藤原明衡は、11世紀に著した自身の評論集の中で、既に手広く行われていた大規模名田経営(みょうでんけいえい)につき、こういう。
 「三の君の夫は出羽権介田中豊益。偏に耕農を業となし、更に他の計ない。数町の戸主、大名の田堵なり。兼ねて水旱の年を想い、鍬・鍬を調え、暗に腴迫の地を度り、馬把・犁を繕う。或いは堰塞・堤防・□渠・畔畷の功に於て田夫農人を育み、或いは種蒔・苗代・耕作・播殖の営に於て五月男女を労うの上手なり。作るところの□・□・粳・糯の苅頴、他の人に勝り、舂法、毎年増す。
 しかのみならず薗畠に蒔くところの麦・大豆・大角豆・粟・黍・稗・蕎麦・胡麻、員を尽くして登り熟す。春は一粒を以て地面に散らすと雖も、秋は万倍を以て蔵内に納む。凡そ東の作より始めて、西の収に至るまで、聊も違誤なし。常に五穀成就稼穡豊膽の悦を懐き、未だ旱魃・洪水・蝗虫、不熟の損に会わず。検田・収納の廚、官使送迎の饗、更に遁避するところなし。況や地子・官物・租穀・租米・調庸、代稲・□米・使料・供給・土毛・酒直・種蒔・営料・交易・佃・出挙・班給等の間、未だ束把合勺の未進を致さず」(『新猿楽記』)
この文中に「出羽権介田中豊益」(でわごんのすけたなかのとよます)なる人物は、国司から数町歩の名田(みょうでん)を請け負って耕作の責任を負うという意味で、大名田堵(だいみょうたと)と呼ばれる。この仕組みでは、10世紀初め頃からはもはや多くの地域で律令制に基づく、個人賦課方式としての「班田」は行われていないことが事実上の前提。そのため、中央から派遣される国司、すなわち通称「受領」(ずりょう)は、国の定める諸税の徴収などの多くを彼らに請け合わせ、自らは彼らを束ねたその上にあぐらをかいてその地方の支配を行う。その生態をありありと伝えている一つが、「受領ハ倒る所ニ土ヲツカメ」(源隆国か『今昔者物語』)、つまり「受領というものは転んでも(土をつかむくらい)ただではおきない」との下りであろうに。

(続く)


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