新39『美作の野は晴れて』第一部、津山へ鳥取へ奈義へ

2014-11-17 09:43:05 | Weblog

39『美作の野は晴れて』第一部、津山へ鳥取へ奈義へ

 夏のちょっとした旅行で近場と言えば、小学校までは、母の実家の関本をよく訪れていたが、六年生のときの日記に「1964年8月16日(日)午前10時55分、家を出た。奈義町の親戚のところに行くのだ」と書いている。こちらの旅の圧巻は、なんといってもバスが日本原高原と那岐の連山を左手に仰ぎ見ての高揚感であったろう。ここで日本原高原といっても、馴染みのない方もおられるかもしれない。そこで、場所からいうと、国道53号線の日本原のバス停を通り過ぎるともう奈義町である。そのまま10分くらいもバスに乗って東に行くと、「上町川」のバス停にさしかかる。そこを過ぎて少し行った辺り、バスは急に左に大きく曲がってゆるゆる傾斜のある道を降りていく。
 バスに乗っていて右を見下ろすと、なだらかではあるが、すりばち状の傾斜となっていて、その景色は雄大である。左に曲がりきったところで、バスは今度はバスは思い切り右にカーブを切って、今度は元来た方向と逆を緩やかに上っていく。私は、これを勝手に「すりばち坂」と呼んで、自分の知りおきし名所の一つに数えていたものだ。その後、この天然の難所を過ぎたバスは自衛隊前、北吉野、さらに滝本へと東進していく。まだ知っておられない読者も、一度この辺りを進んでみたら、アメリカの西部劇の舞台にヨセミテ国立公園などにも似た、日本の自然らしからぬ、その荒涼で雄大な風景に驚かれるのではなかろうか。
 ここに日本原高原とは、この辺りでは知る人ぞ知る、西部劇に出てくるような大草原である。乗合バスが日本原のバス停を出た辺りから、バスからは左側、方角からは北に中国山麓に到るまでの地帯を指す。津山盆地の北東部に南北約10キロメートル、東西約3キロメートルくらいのところに広がった、概ね平坦な丘陵地帯をいうのである。その歴史を顧みるに、天文年間(1532年~1544年)の頃、、この地を訪れ、この地を気に入って住み着いたと伝えられるかの福田五兵衛(ふくだごへい)の墓碑銘(日本原の市街地の西外れにあるという)に曰く、「霊仙信士、元文五申年九月初六日、此霊者国々島々無残順廻仕依○諸人称日本五兵衛、是以所日本野ト申候、日本野元祖、俗名、福田五兵衛」と彫り込まれている、とのことである。
 これと同じ話ような話は、『東作誌』にも載っている。
「広戸野は一に日本野と言う。北の方野村滝山のふもとより、南の方植月北島羽野まで平原の間およそ三里、人煙なく、当国第一の広野なり。その中筋を津山より因州鳥取への往来となり、昔はさらに人家なかりしを、正徳のころ市場に五兵衛という農民、日本廻国して終わりに此の野に供養塔を築き、その側らに小さき家を建てて往来の人を憩わしめ、あるいは仰臥したる者などを宿めて、もっぱら慈愛を施せしかば、誰言うとなく『日本廻国茶屋』と呼びなわせしを、後に略して日本と許り唱うるごとくなれり。後にその野をも日本野と称するも時勢と言うべし。」
 これからすると、福田五兵衛なる人物は随分と徳の高い人物であったことが覗われる。
ついでながら、この辺りは、1879年(明治12年)の明治の氏族移民事業で開墾が始められたが、うまく行かずに挫折した。その後、1909年(明治42年)、その大部分が陸軍の演習場となり、第二次大戦後の占領期にはアメリカ軍がここに進駐していた。1955年(昭和30年)には、当時の勝北町に属する地域集落がその地を「日本原」と公称した。またこの年、当時の北吉野村、豊田村及び豊並村の三か村が合併しての奈義町(なぎちょう)が誕生した。1963年(昭和38年)の日本への基地返還の後は陸上自衛隊演習場として今日に到る。なお、国道53号線から南側の地域は、現在は演習場ではなく、農地の用に供されている、といわれる。
 母の実家へ着いてからのことは、こう伝えている。 
 「ぼくはここへ行くのがちばんたのしい。子どもがたくさん来るからだ。「こんにちは」と言って家に入った。おばさんが「よお来たなあ」と言ってくれた。ざしきに上がると、いつもはみんなで8人だが、今日は6人だった。いろいろなことをして遊んだ。一日泊まって次の日の午後2時35分のバスで帰った。たいへんたのしかった。しんせきで手伝いでもすればよかった。」
 母定子の実家である為季の家は、文政期から明治にかけての、分家であった。その為末姓の由来については、本家累代を語る墓碑につぎのように彫られている。
「為末家は鎮西八郎源為朝の後裔(こうえい)島次郎為末が永萬元年に此の地に居住を定め戊亥荒神(ぼがいこうじん)を鎮座し承安元年二月十五火没する初代島助十郎源為次二代甚次郎源為周三大島四郎源為経四代島五郎兵衛源為成五代島十郎治源地目近六代島久五郎源為信島久五郎兵衛源為信は永正十七年二月十五日戊亥荒神(ぼがいこうじん)三百五十年祭に当り親神源為朝先祖神源為季として社名を為季明神社と改め、姓を為季と改める」(抜粋)とある。
 「永正十七年」(1521年)といえば、今からおよそ600年を遡るのであるから、美作では戦国の争乱の最中であったろう。この地で有名な豪族に「美作菅党」がある。その創始は、990年~995年(正暦年間)、菅原道真の曾孫資忠の次男良正とされる。出家した彼は、みまさかの国勝田郡香櫨寺(?)に住み着いた。その良正から数代後の知頼が1078年(承暦二年)、美作守となって美作の国に下り、在職中に勝田郡で没した。後を継いだその子真兼(実兼)は押領使となってこの地に住み着き、「美作菅党」の祖になったのだという。「美作菅(すが)党」のその後については、嫡流の分化のほか、その地で養子縁組や婚姻関係を結んだりして、しだいに「菅家七流」と呼ばれる有元氏を筆頭に、廣戸氏、福光氏、植月氏、原田氏、鷹取氏、江見氏などの武士団を形成していった。余談ながら、かの柳生新影流の柳生氏は、「良正の孫で知頼の祖父である持賢の子永家から派生した」(『ウィキペディア』)とも言われる。
 それに比べて、「為季」の一族は源氏の嫡統の流れを汲む血筋とも読み取れる。源氏の系統が西国のこの地に住み着いたのか、これだけの資料ではその系統はつまびらかでない。その当時には、豪族の中でも支流が幾筋も別れ、各々が異なる大きな勢力について互いに相争うこともあった筈だ。ともあれ、こうした為季本家との関係で、為季幸吉(本家)から二女のせとが分家し、彼女には為末幸吉養子として東北条郡青柳村、川端熊次郎長男の喜作を迎える。その後、為末喜作・せと夫婦の三女いしが、勝田村大町の安藤久蔵家三男・平蔵と養子縁組(為末喜作・せと夫婦の婿養子)にて夫に迎える。この二人の間にできた二女の勢喜(せき)が長じて、吉野村豊久田の佐桑左太郎長男・文蔵を養子縁組み(為末平蔵・せと夫婦の婿養子の)の形で結婚する。
 その為末文蔵は、勝田郡豊波村関本に住まい、岡山県方面委員にして司法書士、保護士(青年)の名刺を携え、この当たりの人々の生活向上に尽力した人物で知られる。その名前そのままに、寸暇を惜しんで冬の火鉢の中にも書をしたためるなど勉学心旺盛な人であり、分け隔てなく周りの人に相対していたという。文蔵・勢喜夫婦には四男四女があり、私の母である定子は四女として、1928年(昭和3年)に出生した。
 夏の盆あたりには、我が家にお客さんが来ることがよくあった。夏休みのある日の日記には、こう書いている。
「1964年8月14日(金)
 津山のおじさんたちが来た。しばらくあそんで、2時半にうちの池に魚をとりに行った。ぼくはとちゅうで糸が切れた。兄といとこの幸介くん(仮の名)はたくさん取った。うちの前の池には、魚がたくさんいる。鮒とりの時に取った魚の一部を池に戻すからだ。」
 盆の行事は、「お寺さん」の来訪で最高潮を迎える。住職は檀家がいろいろある中で、我が家に来られる日時に、主に父の兄弟の親戚が集まるようになっていた。その朝は、家の者は朝から片付けや料理の準備とかで忙しい。住職を迎えると、玄関ではなく、縁側から入られる。親戚の皆さんは、それまで表の間にいて団欒していたのが、住職の後について、奥の間に移る。簡単な法要集のような小冊子を借りる。我が家は真言宗の宗徒ということになっている。それは、弘法大師(空海)が中国から持ち帰った宗派で、「顕教」に対する「密教」と呼ばれる。加持祈祷や護摩を焚き、曼荼羅絵で得度の世界をさまざまに視覚に訴える宗派である。冒頭の般若心経の他は、その法要集においては「観音経」の抜粋の他、真言密教特有の今日や念仏の類が収められている。
 住職が席に就かれると、真言密教の儀式から始められる。たぶん、その家の仏さんをあの世、天国とやらから呼んでくるのであろうか、住職は数種類の金色の「宝器」を使いつつ、途中で古代インドのサンスクリット語(梵語)の呪文のようなものを唱えるようなところもあって、それなりの仏教知識に加え、その宗派の素養がないと、何がどうなっているのか、わからないのではないか。これは余談だが、天台宗祖の最澄が空海その人に、中国から持ち帰ったそれらの「宝器」を借り受けたいと申し込んだところ、空海はその申し出を激しい調子で拒絶したことが伝えられている。このように宗教色豊かな法要であったが、それらの一つひとつが、我が家の祖先の霊なり、魂を呼んできて、現世と交通するための神がかりのものであることは、子供心にも何となく想像できた。

 

(続く)

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