新43『美作の野は晴れて』第一部、初秋の風3

2014-10-08 18:51:56 | Weblog

43『美作の野は晴れて』第一部、初秋の風3

 夏休みには宿題が幾つもあった。大変なのは自由研究で、工作とかをして、2学期の始めに持ってくるように先生が言われた。あれは5年生のときの自由研究だったか、船を造ることにした。父に母が知恵を出すようたのんでくれて、父が私にそれをやったらどうかと言ってくれたのかもしれない。
 我が家の前の坂を上がったところに、桐の木が大きく育っていた。父がその木を切ってわたしに与えてくれたのか、すでに切ってあったのをもってきてくれたのかは知らない。あの軽くてすべすべした手触りからいって、あの船に使った材料が桐の木であったに違いない。船体を作るのは一仕事だった。設計図はつくらなかったと思うが、完成したものを頭の中に描いて、最初に鋸を使って、桐の丸太から20センチメートルくらいの円柱に切り、次に縦に切り目を入れて半円柱の形にした。二つできたので、形のいいものを素材に選んで、加工のための線引きをすることにした。素材の丸くなった面を船底に見立てて、それに鉛筆で船の流線形を書き入れてやる。
 それから先は、描いた線に沿って彫刻刀を使って船首の部分を削り出したり、乾電池とモーターを入れる溝をくりぬいたりの地道な作業がしばらく続く。少しずつ、注意深く作業を進めていかないと、うっかりミスをしかねない。2、3日がかりで船体の部分を仕上げることができた。ありがたかったのは、桐の木は柔らかくて加工がしやすかったことだ。
その後は、船尾にスクリューを取り付けるための加工を施し、錐を使ってモーターからスクリューまでをつなぐ連結穴を開ける。
 さあ、これで全部がつながったという訳で、さっそく父とともに家の前の坂下にある共同の堀に行って、できたての船を浮かべてみた。モーターのスイッチを入れると、乾電池からの電力でスクリューが回って、船がゆっくり動き出した。船の進み具合が少々斜めで、船体も傾き加減であったが、なんとか浮かんで動いてくれた。あのときの小さな感動は今でも忘れない。それにしても、船のモーターとスクリューの一式はどこから調達してきたのだろうか。今にして思えば、それもまた、あの厳格で無口な父が私に与えてくれたものなのかもしれない。
 長いとされる夏休みが終わりにさしかかる頃、8月も下旬となると、となる。そんなとき、どういう訳か、前線が西日本に長く居座って、よく強い雨が降ったのを覚えている。2014年8月18日、西日本に大雨が降って、広島では山の斜面が崩れ、多くの家と人が埋まった。
 その雨は、太平洋高気圧がいつもより寄ったとき、その高気圧のへりに沿って、南からの風に乗って高く湿った空気が豊後水道(ぶんごすいどう)を通って広島市などに多量に流れ込み、、その空気がさらに山に当たって上昇して上昇することで積乱雲ができたことになっている。さらに、その雲が南西からの風に乗って直線上に次々と並んで、雨を降らせては風下へ移動し、その空いたところに次の積乱雲が発生し、その帯状になった辺り全体に長時間、大量の雨を降らした、といわれる。
 今と、その当時の集中豪雨の降り方とは異なるのかもしれないが、そのような運びで、当時のみまさかも大雨に見舞われていたのだとしたら、頷ける。
 9月になると、学校が再開する。2学期の始まりだ。久方ぶりの登下校は楽しいことばかりではない。この頃になると、天候はいいときと、そうでないときの差が出てくる。いいときは、誠にさわやかな秋晴れとなる。風があるときでも、薄い雲がゆっくり流れていて、たおやかであった。その季節には、稲はかなりの大株となっている。それくらい大きくなっても、台風の到来で取入れ前の日に風向きのあった方角になぎ倒されてしまう。
 台風の頃には、よく「広戸風」(ひろどかぜ)が吹いた。この地では、台風や低気圧が四国沖(土佐湾)を東に進んだときや、台風が紀伊半島沿い(紀伊水道)を北上するときに、この風が横仙の大地によく吹き下ろす。名前にある広戸だけではなく、私たちの新野や、津山の東部でもたいそう吹く。私の家から狐尾池の方へと坂を下ったところ、「あがいそ」と呼ばれる田圃の中を流尾地域から外へとつながる道がある。そこにさしかかると、「ゴオゴオ」、「ヒューヒュー」の音とともに風が北から吹きつけてくる。子供には、余程前屈みになって両足に力を込めないとよろけるほどの風だった。
 広戸風は、なぜこの辺りだけに吹くのだろうか。中学生になってからの何かの授業のとき、学内に岡山大学の先生たちが研究用につくった岡山の地形の模型を持ってこられた。そのとき、みんなで車座になって話を聞いたが、内容までは覚えていない。今の岡山地方気象台のホームページ(二〇一四年一〇月現在)にこうある。「広戸風は、那岐山のふもとにある奈義町、勝央町、津山市のごく一部(数Kmの範囲)で吹く局地風で、日本海から鳥取県の千代川に沿って風が吹き込み、そのV字谷で収束され、那岐山を越えた時に吹き下ろすおろし風の一種です」といわれている。
 683年(天武11年)、当時みまさかの地も含んでいた頃の「吉備国」のことを、『日本書記』は「吉備国言す。霜降り亦大に吹きて五穀登らず」と、この地方最古の災害記録に数えている。これにあるように、農業というものはよいときはよいのだが、天変地異のことゆえ、うまくいかないときも多い。そんな時は、親に面と向かって言われなくても、家族で過ごす労働の場で手伝いをしている中でなんとなく、以心伝心という類で子供心にもわかるものだ。一番困ったのは、東北のような夏の冷害のためではなくとも、夏の一番日照の必要な時期に涼し過ぎると稲の実入りが少なくなってしまう。水が足らなくても同様の結果をもたらす。
 台風が通り過ぎると、「台風一過」の日和となることが多い。そのときは、かごを持って栗を拾いに行った。栗は普通の大きさのものと、「丹波栗」と呼ばれていた大ぶりの栗があった。ここ関東では茨城が栗の産地らしいが、西日本はどこなのだろう。丹波栗の木は、我が家に隣接する森や林にはなかった。たまによその家の敷地林でそいつを見つけても、取ってたり、拾ったりしているところをその土地の持ち主に見つかったら叱られる。だから、近づくことは遠慮した。普通の栗でも、結構大きいのが、台風の風などに吹かれて、そこらに転がっている。その「いが」が割れたところに鎌の背を押し込んで広げると、殻がうまくむけて、中から栗の実がコロッと転げ落ちるから、そいつを手で拾っていく。全体的に丸みを帯びた、重量感のあって、つやつやしているものがよい。
 家に持ち帰り、下校後、母が栗ご飯を作ってくれていた。栗ご飯は、米9割にもち米1割を混ぜて、それに栗を入れて炊く。栗の実は、少しゆでて皮をむいてから水につけておくと、自然にあくがぬける。炊くときは日本酒をいれていたのかもしれない。味付けは薄いのがよい。その方が栗の風味がよく感じられるからだ。
 ついでながら、昔の貴族は、栗には粥も合うと考えていたらしい。
「火を山の如く起こして、大いなるかなへ立てて、栗を手ごとに焼きて粥にさせ、よろづのくだものくひつつ、人々の御もとなる人に賜びいたり」(『宇津保物語』嵯峨院)
 栗のおいしさは、正味の味もさることながら、その口当たりにもある。ふっくらした栗ご飯を食べるときは、幸せ感に包まれるから不思議だ。古来から、「山の幸」とは、おそらくこのことをいうのだろう。
 里芋もまた、混ぜ御飯に入れると、本当においしい。春に種芋を植えたものが9月から10月にかけて収穫の時を迎える。里芋の子供は初めはその親芋の養分を吸収して育つ。芋煮会や芋の子鍋の風習がなかったのが惜しい。母の混ぜご飯にときおりこの里芋が入れられるときは、最高に美味であり、このうえなきごちそうであったことを、いまでもありありと想い出す。

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