新61『美作の野は晴れて』第一部、そして、新しき年へ1

2014-10-04 20:37:17 | Weblog

61『美作の野は晴れて』第一部、そして、新しき年へ1

 年の瀬に入るきっかけは、12月24日のクリスマス・イブの集いであった。西下のお兄さんたちが、子供会の恒例の行事で、皆さんボランティアでクリスマスを祝ってくれた。FOS少年団の会なら緑のベレー帽を持って行くのだが、今夕はそれは要らない。会場は平井地区にある、西下の公会堂で、夕方暗くなりかけた頃には会が始まった。その日の子供会の集まりには、中学校就学前の15人位の子供が参加していて、いつもの集まりよりも盛況となった。椅子取りゲームとかで遊んだあと、みんなでささやかなクリスマス・ツリーを飾ったのかもしれない。急いで、一応の飾りつけを行う。それができ上がると、それをみんなで囲んで『ジングルベル』を大きな声で歌った。
「走れそりよ 風のように
雪の中を 軽く早く
笑い声を 雪にまけば
明るいひかりの花になるよ
ジングルベル ジングルベル 鈴が鳴る
鈴のリズムに ひかりの輪が舞う
ジングルベル ジングルベル 鈴が鳴る
森に林に響きながら」(宮沢章二歌詞、ピアポント作曲)
 クリスマス会の締めくくりに、「きよしこの夜」を合唱した。大広間の明かりを全部消すと、ろうそくの灯だけが瞬く。みんな輪になって手を結び、その所々に青年部の人たちがいる。敬一さん(仮の名)、和夫さん(仮の名)など5、6人の青年の人の顔がろうそくの明かりで、ほの紅く見える。子供たちの顔も仄暗い中に浮かび上がっている。
「きよしこの夜 星は光り
すくいのみこは まぶねの中に
ねむりたもう いとやすく」(由木康訳詞・グルーバー作曲「きよしこの夜」)
 その当時は、イエスがヨセフという大工の父と、マリアという母との子として、ユダヤの国の貧しい労働者家庭の長男として生まれたこと、ローマがキリスト教を公認してから、イエスの誕生日に切り替えてローマの冬至祭を祝うようになったとも言われ、12月25日のクリスマスの日が彼の誕生日であるということは、実際は確かなことではないこと、彼が初代皇帝アウグストゥスのローマ帝国の直轄地としてユダヤ総督によって治められ、首都エルサレムの議会によって宗教上の自治権を与えられていたユダヤの国のベッレヘムの地で生まれたこと、そして彼の誕生のときから西暦が始まったのではなく、6世紀初め頃のローマの神学者ディオニシウスが「暦をのちにくっていって、このようにきめたものであるといわれて」(赤岩栄「人間を愛しぬいた人、キリスト」岩崎書店刊、1986)いること、さらに、「この神学者の計算はすこし間違っていて、紀元前8年から4年の間にイエスは生まれたのであろうとこんにちではみられている」(同)ことは、誰からも教わったことはなく、まるで知らなかった。それでも、この歌がろうそくの灯火とともにかなでる厳粛な雰囲気だけは、たどたどしく歌う身にじんわりと伝わってきた。
 一通り歌の合唱が終わると、大広間のスイッチが入れられて、パッと明るさが戻る。クリスマス会の最後は、あのクリマスケーキが配られる。お兄さんたちが私たち村の子供に順番に配ってくれた。美作の銘菓「高瀬舟」の一舟くらいの大きさであったけれども、スポンジの菓子の上に白いクリームが被さって、その上にいちごの小片が載ってい。家でクリスマスケーキを買ってもらう習慣はなかったので、うれしくて、うれしくて、その場で食べてしまうのはもったいなくて、持って帰ろうともしたが、みんなが食べるので、その輪に入って一緒に食べた。
 いまになって思うのは、の青年の皆さんの温かい心である。みなさんは、私たちの自主性を大事にしてくれた。喋り過ぎることなく、押しつけることなく、ぞんざいな口使いをすることもなく、私たちの興味を引き出そうとしてくれた。それは、学校と異なる、その外の「学舎」(まなびや)であった。
 年の瀬になっても、大人は何かと忙しい。どちらかというと、婦人の方が忙しい。あれもこれもで、てんてこまいとは、母の言い分であったろう。母は優しく、おもいやりに溢れるばかりでなく、やることを器用にこなしていた。嫁姑の関係は、おばあさんにむしろ仕える風であった。おばあさんは、自分のことを「わし」といったり、「体は小そうても(小さくても)、山椒の実」というのが口癖の、剛胆な婦人である。母への口調もやわではないが、そこそこには思いやりがこもっていた。
 我が家では、新年が明けるや黒豆の煮たのと「つるし柿」(あんぽ柿)を食べていた。柿は飴色の地に白い粉が降ったような色をしていた。柿を食べるのは、「幸せを掻き取る」からというのが、子供にもわかる。一口噛むと、体の芯にじんわりとした甘さが広がる。魔法のような味である。黒豆は、「今年も豆に暮らせますように」との願いを込めて食べるのだとか。だとすれば、この甘い煮豆にはその願いが宿っている。縁起のいいところで、黒豆も欠かせない。母が、前の晩に水につけておいた自家製の黒豆を大なべに入れて、弱火でコトコト煮ていく。水分がなくなってきたら、あくを取る。その都度水を加えるを繰り返して、しだいに豆を煮詰めていく。何時間かたったら、落とし蓋をしたかどうか、止めてそのまま冷ましておく。何時間かたってから、蓋をあけると、ほんわかした、ある甘い黒豆ができあがるのだった。
 他の家庭では、「八方、まめで、くりくり働いて、幸せを掻き取る」とのたとえで、これに八頭(やつがしら)や栗をも加えて、年始めの神膳にしてともに頂いていたらしい。
 元旦の朝はゆっくり寝ていた。7時くらいに起きて、最初に食べる料理が雑煮であった。当時は、元旦からの三が日、家族で雑煮を食べる習慣があった。雑煮というものは、日本国中、白味噌仕立てのものがあれば、醤油仕立てのものもあるなど、美作の内はもちろん、岡山県内でも地域によってもいろいろに違うみたいだ。次に紹介するのは、御津郡御津町(現在は岡山市)の正月風景である。
「それからお正月の朝、初めて水汲むのを若水(わかみず)いうんですが、若水は井戸から汲んで来るんです。若水を早く汲んで来て、顔洗ってそれから皆一緒に新年のご挨拶をしたら、その時、梅干し一つ入れたお茶を飲み、干柿とみかんをいただいて、それからお雑煮を食べるんです。お雑煮は、一番底に輪切りの大根を一つ入れて、お餅をさまして入れて、その上に鰤(ぶり)のゆがしたのとか、ほうれん草を入れました。一日がおしょう油で二日にお味噌、三日がおぜんざいしょうたんじゃなかろうか。三箇日、それが決まりでした。」(西崎富子「楽しかった季節のうつろいーおやつは手作りで」:岡山市文化的都市づくりプロジェクト企画編集『さるすべりの花にー聞き書き、岡山女性の百年』岡山市、1990)
 我が家の雑煮は、岡山市や津山市街地などでの「白味噌仕立て」ではなく、醤油での味付けであった。雑煮に出世魚の鰤(ぶり)に塩をまぶしたのを入れるのは、西日本の正月料理の定番であるらしいのだが、我が家のものには、その変わりといっては何だが、鯨肉とするめが入っていた。鯨肉といっても、いまスーパー・マーケットで高値で売られているような薄皮のものではない。あの黒い分厚い皮と、その先に付いている脂ののった肉が少しとが、まるで切り出されたように肉のブロックになっている。鯨たちはその厚い皮下脂肪のおかげで、極北の海でも命永らえているのではないか。この小さな切れが、雑煮の餅と汁の上に2、3切れ載せられいると、「これはうまいのですよ」の値札がつけられているようで、食べる前からご満悦の気分になっていた。これに対して、するめいかの干物を雑煮になぜ入れているのかは、母にたずねたことはなかった。そのまま50年位が経過して、わからぬままに放置していた。それが、最近になって回転寿司屋のちらしでふと「神社や神棚のお供物の一つ。「寿留女」とも書く縁起もの」とあるのをみつけ、この意味だったのではないかと推測するようになっている。
 我が家の雑煮には芹(せり)がよく似合っていた。せりには、風味もある。味も雑煮の汁につけて食べると料理全部が引き立つ。実に重宝な薬味だ。芹を採りに行く場所は、我が家の西の田圃の奥深い窪地にあった。春に母とつくしを摘み取りに出かけたところから程近い。その奥まった溝から清水が「ファーッ」と砂をかき分けるようにして湧き出している。せりはその辺りに群生していた。あるだけ全部を採っては次のとき無くなるので、ほどほどの収穫ににしておいた。その芹は冷たくて、きれいな水を好み、採れるとれる場所は限られていた。人の手で栽培できるのかもしれないが、自然のものとは風味が異なっているのではないか。雑煮に入れるほか、「おひたし」にもしていた。朝に取ってきた瑞々しいのを、その朝食べると大変美味しい。あのようにかぐわしい、いい臭いがする野菜はみつばのほかに私は知らない。雑煮の濃厚な味とよく合うのはただものではない気がしていた。
 正月料理には縁起のよいものが選ばれる上、それぞれの地域の伝統を受け継いでいるようである。雑煮のほかに煮しめ各種も加えられていた。その煮しめには牛蒡、蕗(ふき)、人参、椎茸、里芋、筍(たけのこ)、蒟蒻(こんにゃく)などが多様な形で使われている。食べる前には、まず、母と祖母が仏壇と氏神、大黒さんの棚に正月料理を供える。ろうそくによる灯明は欠かせない。祖母や母は棚の前に立ち、両手を合わせてなにやら話しかけていた。それが済むと、「ちゃぶ台」の前に家族6人そろって座っての食事となる。
 このちゃぶ台というのは、ちょっとした座卓を小さくしたものであり、引出しが付いている。その中にきれいにした茶碗と箸が入れてある。ご飯の気の座る場所も決まっていて、戸棚を背にした上座は父、下座は母、両脇の一つ側には祖父と祖母、もう一つの側に兄と私が座る。ちゃぶ台の置かれていたのはお茶の間といったところか、今どきの住宅の「リビングルーム」とはだいぶん違う。その板間は6畳くらい。その東側には夜なべ仕事に使う土間がある。敷居を挟んでその南にはもう一つ土間があって、そこからは南の玄関につながっている。
 雑煮を食べるとき位、和気藹々でいられたら、どんなによかっただろう。そうであったなら、たまらなく嬉しくて涙が流れたのかも知れない。だが、我が家の食事はそうではなかった。正月といっても、食べながら話しているときつく叱られる。だから、黙って前に正座して食べるしかない。この決まりに逆らえば、大袈裟といわれるかもしれないが、命の危険も出でくるような案配にて、私は物心ついた頃から大層恐れていた。だから、正月を迎え、父の表情がゆったりしているのを見て、「これなら、普段通りしていれば怒られることはない」と安堵したものである。
 年が明けて7日目には、母が作ってくれた七草がゆを食べた。ここで七草とは、セリ・ナズナ・ゴギョウ・ハコベラ・ホトケノザ・スズナ・スズシロ」、の春の七草の名前だ。ゴギョウはハハコグサ、ハコベラはハコベ、スズナはカブ、スズシロはダイコンのこと。
これらを野に探し行くのだが、沢山の種類なので時間がとめどなく過ぎていく。結局、一つか二つを見つけて、いいことにする。七草がゆのときには、なずなまたはあぶらなだけを入れていたというが、母に聞いていないし、いちいち確かめていないので、わからない。邪気をはらう意味合いがあっ。この七草をお粥にして食べる習慣は、江戸時代に広まったらしい。
 芹(せり)は水辺の山菜で香りがよい。薺(なずな)の別称はペンペン草。御形(ごぎょう)の別称は母子草で、草餅の元祖。繫縷(はこべら)は腹痛の薬にもなった。仏の座(ほとけのざ)はの別称はタビラコ。菘(すずな)は蕪(かぶ)のこと。ビタミンが豊富。蘿蔔(すずしろ)は大根(だいこん)のこと。これは、消化を助け、風邪の予防にもなるというから誠に有難い。
 正月の遊びは、盛り沢山の内容である。大抵、我が家の外に出かけていた。凧揚げは風のあるときにやる。其の時は、「さあ、やるぞ」と気合いを入れてから、使い古した凧を持って、我が家の坂下の田んぼの中の道へと向かう。凧を担ぐようにして、その紐を手に持って、全速力で道を走り出す。風で空中に凧が舞い上がったら「しめた」もの。後は、腕を引いたり、戻したりしながら、少しずつ糸を伸ばしながら風に乗せていく。凧はさらに高く、遠くへと昇っていく。紙飛行機を飛ばすのは、飛ばすのもさることながら、それを手作りする楽しさも味わえる。きっちり作るときは翼に工夫を加えるとよい。翼の両側は内折りにして風を切れるようしておく。後ろの昇降舵の部分は念入りに、親指の腹で少し下に押して、ひねりというか、風が逃げてゆく感じに仕上げる。これらの両方とも、江戸時代にはもうあったというから、日本人の遊び心は大したものだ。
 正月に雪が降っていれば、の神社などに出かけて雪だるまを造ったり、雪合戦をしたり。雪だるまは一応の形が整った後、最後に目と鼻と口を付けて完成にするのが特に楽しかった。雪合戦では、力を抜いてやることにしていた。少なくとも、中に石を詰めて相手めがけて投げるような卑怯なやり方は、西下の仲間はしていなかったと思う。
 部屋の中での遊びも、のあちらこちらの家にお邪魔して、みかんなんかをいただきながら、いろいろとしていた。将棋にトランプ、花札もあったが、大抵女の人もいるので、「すごろく」や「かるた取り」とかが一番で、それに飽きると、「お手玉」や「おはじき」、「折り紙」などもして遊んだ。独楽回しは土の地面でもできるが、土に食い込んで勢いがつかない。コンクリートで固めたところは駒の回りがよくて、これだと2つも3つも駒がかち合う様が見られる。自慢の駒を持ち寄って「これでもか」と夢中になって廻していた。羽子板はどこかの家でちょうどやっていて、その中に入れてもらって一度させてもらったことがある。大人の人に「あんたもやってみたら」と言われて羽子板を渡され、相手の親戚の人と向かい合って2度、3度と羽子板で羽の付いた玉を打ってみたが、それ以上は的を外れて空振りとなっていた。ほかにもいろいろな正月遊びに興じていたが、現在の正月風景でめったに目にしなくなったものが多い。あの頃は、日本の子供達の正月の過ごし方はどれもこれも雅な時代からの伝統を受け継いでいたのであろう。それらの大抵は、よく知っている仲間や先輩、子供に受けのよい大人の人も出て来たりして、昼からだったら夕方までと、それはそれは楽しい時を過ごさせていただいた。

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