尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

山田洋次監督の映画「小さいおうち」(2014)

2017年09月24日 21時08分41秒 |  〃  (旧作日本映画)
 神保町シアターの倍賞千恵子特集で、山田洋次監督の映画「小さいおうち」を再見した。この特集では倍賞千恵子本人のトークもあったけど、いっぱいで入れなかった。その後全然見ていなかったけど、「小さいおうち」という映画はまた見てみたかった。2014年の映画だから、旧作というには近すぎるけれど、公開当時はここで書かなかった。中島京子直木賞受賞作(2010)の映画化だが、公開時には原作の印象が強く、映画はその「絵解き」のように見えてしまった。

 この映画は、山の手の「赤い屋根のある小さいおうち」に住み込みで働いていた女中、布宮タキの目で、昭和10年代の東京の中産階級の生活を見つめている。年老いたタキ(倍賞千恵子)は「自叙伝」をノートに書いていて、その映像化という体裁である。若い時期のタキを黒木華が演じていて、ベルリン映画祭銀熊賞(最優秀女優賞)を獲得した。「6歳のボクが、大人になるまで」のパトリシア・アークエット、「薄氷の殺人」のルー・グンメイなどを抑え、よく黒木華を見出したと思う。

 黒木華以外は、奥様の平井時子役の松たか子、板倉正治役の吉岡秀隆、タキの大甥(タキの兄弟の孫)で話の引き出し役・健史役の妻夫木聡など、近年の山田映画に出た人が多い。チョイ役だけど、タキの最初の勤め口だった作家夫妻は橋爪功と吉行和子で、ここのところずっと山田映画で夫婦を演じている。そういう「既視感」が、最初に見た時に面白くなかった。

 また妻夫木聡が老いたタキの「自叙伝」を読んで、いろいろとチャチャを入れるのも、結構うっとうしい。今時「十五年戦争」なんて言葉で昭和史を教えている教師があるとは思えない。歴史に関心がなければ、南京大虐殺もほとんど知らないだろう。一方、現代史にある程度関心があれば、「満州事変」(1931)以後の昭和史が「暗黒」一色に塗りつぶされていた、なんて思ってる人はもういないだろう。どうもそんなセリフにも、山田洋次の思い込みのようなものを感じてしまったのである。

 そういう「弱点」は今回見ても同じなんだけど、今回見て公開当時より「現代性」が増している気がした。たった3年しか経っていないけれど、時代が「戦前」に戻ってしまったのか。「五輪」を前に浮かれて儲けをもくろんでいたはずが、あっという間に奈落の底に落ちる。それぞれの段階では、「何とかなる」と思っている。「近衛さんなら大丈夫だ」と根拠なく思い込みながら。男たちは「儲け」から「戦争」へと「男だけの言説空間」を持っている。そこへ入れないものはどうする?

 そこへ入れないのは、「」「子ども」と「二級男子」である。老人男性は「昔取った杵柄」で「戦争熱」をあおる方にへ入れる。だけど、徴兵検査で甲種じゃなかった病弱、障害男性は、戦時体制には不要だ。玩具メーカーの常務、平井家に出入りする社員(というより美大出の芸術家タイプの玩具デザイナー)板倉は、徴兵検査が丙種だから、普通だったら徴兵されない。(日本が「普通じゃない戦争」段階に入って召集令状が届く。)その前後に平井家に「恋愛事件」が起きる。

 この小さな「恋愛事件」をめぐって、小説と映画では少し違いがある。だが基本的なシチュエーションは同じ。もうネタを隠す必要はないから、その解釈を考えてみたい。タキは結局生涯を通して結婚しなかった。晩年に書いた「自叙伝」で、奥様と板倉との間に生じた恋愛感情、あるいは「姦通事件」を示唆した。召集令状が届いたと知らせに来た翌日、奥様は板倉に会いに行こうとする。その意味がピンときたタキは必死になって止める。代わりに自分が手紙を届けると説得し、奥様は手紙を書く。
 (黒木華と松たか子)
 しかし、結局板倉は訪ねて来ず、平井夫婦は昭和20年5月25日の山の手大空襲で亡くなる。子どもは生死不明。タキと平井一家の関わりはそれで尽きてしまうが、タキが亡くなった後で遺品の中から「平井時子」名の手紙が見つかる。タキは奥様の手紙を板倉には届けず、最後まで自分で保存し続けていたのである。それは奇跡的に見つかった平井家の息子によって、数十年後に開封された。

 さて、その意味は何かということになる。タキの行動の「コインの表側」は「女中としての職業的義務感」である。平時ならともかく、周りの目の厳しい戦時中に「姦通の手引き」はできない。雇い主は「旦那様」であり、本来の忠誠心はそちらに発揮されるべきものだ。

 だけど、それはタテマエである。「コインの裏側」には何があるか。一つは「タキも板倉を慕っていた」という解釈。板倉は前日夜に別れる前にタキをハグしている。それは同じ北国出身者としての「同胞愛」のようなものと思えるけれど。もう一つは「タキは奥様に憧れを抱いていた」という解釈である。板倉との恋愛沙汰に煩わされる奥様の様子に心配が募り、自分の考えで手紙を渡さなかった。もう一つは「タキはただ奥様と子どもとの平穏な生活が続くことだけを望んでいた」という解釈。

 いろいろと見方は考えられると思うけど、何にせよ戦後のタキはこの「小さな罪」に殉じたのだと思う。奥様はタキの将来について、自分がきっといい嫁ぎ先を見つけてあげると言っていた。平井家が戦争を生き延びていれば、奥様が勧める縁談をタキは断らなかったに違いない。だけど、自分の行動で奥様は思う人と最後に会えずに戦争で亡くなってしまった。これは自分の罪だとタキは思った。

 僕が今回見て思ったのは、タキは「周りの目」を理由に奥様を止めているということだ。米英との開戦で万歳を叫んで回っている酒屋の主人がいる。彼は板倉の下宿屋の主人と囲碁仲間で、いつか下宿を訪ねた奥様を見ていた。そのことをタキに告げて、時局柄好ましくないのではと脅迫的に告げる。それを聞いて、タキは奥様を止めるわけだけど、これはタキの「小さな戦争犯罪」だったのだと思った。人が誰に会うか会わないか、それが自由にならない。「非国民」の声にひるんだ。タキは戦後何年たっても、この小さな「恋愛事件」での自分の行動を許せなかったのだ。

 そういう見方もできるのではないか。時子の姉の貞子(室井滋)は折々に訪れて妹を諭していく。ある時期までは、山の手郊外に家なんか建てて、都心の名門校(一高、東大につながら中学に入りやすい小学校)への「お受験」はどうするのかと問う。しかし戦時下になると、新宿の中村屋で一緒にお茶を飲んでいた男性は誰なんだと問い詰めに来る。

 庶民にとってそれが戦争だったとすれば、最近の女性週刊誌などが「お受験」よりもく、「不倫」糾弾に熱中する記事が多くなっている気がするのは不気味である。戦争が始まる前に、相互監視、道徳的非難が起こっている。戦争が始まってから、どうして戦争に反対できるだろうか。戦争が始まる前の「非国民糾弾」の時点で、誰が世の中を不自由にしているのかを問わないといけない。
コメント
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