尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「満韓ところどころ」-漱石を読む⑦A

2017年09月23日 22時30分01秒 | 本 (日本文学)
 ちくま文庫版漱石全集第7巻には、小説「行人」と紀行「満韓ところどころ」、随筆(病床回顧)「思い出すことなど」が入っている。「行人」だけで430頁もあるから、そこで挫折しそうなので、後ろの二つから読むことにした。書かれた順番ではそっちが先なんだし。両方合わせて230頁程度の作品。
 
 ということで、一応書いておくんだけど、これは「記録」という感じ。「思い出すことなど」はともかく、「満韓ところどころ」は全く面白くない紀行だった。こういう文章を漱石が書いていることは大昔から知っていた。「満州」「韓国」の当時の状況を、日本の知識人がどのように見ていたのか。非常に貴重な記録なんじゃないかと思い込んでいたけれど、まったく違った。

 時期的なことをまとめておくと、1909(明治42)年9月2日から10月14日まで、満州と韓国(大韓帝国)を旅行した。帰国後、10月21日から12月30日まで「満韓ところどころ」を朝日新聞に連載した。小説をみると、1908年に「三四郎」、09年に「それから」。10年の「門」執筆中に、胃腸病で入院した。まさか翌年死にかけるとは思ってなかったろうが、前年の旅行時も胃腸の不良が続いた。

 歴史的には、1904年に日露戦争、1905年のポーツマス条約で、日本はロシアが租借していた遼東半島を獲得した。また、ロシアの東清鉄道の奉天以南も獲得し、1906年に南満州鉄道株式会社(満鉄)が設立された。総額2億円のうち、日本政府が半額の1億円を現物出資した「半官半民」の会社である。単なる鉄道会社ではなく、事実上「満州」(中国東北部)の植民地経営を行う会社だった。漱石の帰国直後の、10月26日には、前韓国統監伊藤博文がハルピンで暗殺された。翌1910年が「韓国併合」なので、漱石はその直前の貴重な時期に旅をしていたことになる。

 だけど、「満韓ところどころ」にはそういう緊張感がどこにもない。というか、そもそも韓国旅行の部分が出てこない。連載が長くなり、12月30日になったから「もうやめ」と書いてある。なんだなんだという感じで、せめて出版時に「韓」の字を削るべきだっただろう。ただし、「社会的緊張感」はない代わりに、漱石がゼムなる仁丹みたいなものをいつも服用しながら、時には見学を休んでいる。体調不良に関する「緊張感」ならずっと続いている。こんな旅行しなけりゃ良かったのに。

 じゃあ、なんで行ったのかというと、一高時代以来の大友人、中村是公(1967~1927)が第2代満鉄総裁を務めていたからである。漱石は、是公を一高以来「ぜこう」と呼びならわしていた。多くの人がそう呼んでいたけれど、本当の読み方は「よしこと」という。これは読めない。東京帝大法科大学を卒業後に大蔵省に入り、台湾総督府時代に民政局長の後藤新平と知り合い腹心となった。

 後藤新平は初代の満鉄総裁になり、中村是公を副総裁に据えた。1908年、後藤が第2次桂太郎内閣の逓信大臣になると、是公は41歳の若さで第2代満鉄総裁になり、満鉄史上一番長い5年間を務めている。1913年に原敬によって満鉄を追われ、その後は貴族院議員、鉄道院総裁、東京市長などを務めた。この経歴は、ずっと後藤新平絡みの政官界人生だったことを示している。今はもう「漱石の友人」として知られているだけだろう。その是公が漱石を呼んだわけである。

 漱石の友人、知人、かつての弟子などがこの紀行にはたくさん出てくる。そのことの意味もいろいろ論じられている。是公は多くの日本人にはいまだ知られざる「日本人による植民地の発展」を見せたかったが、漱石は一種の「同窓会旅行」のように書いた。そこに何か意味を求めるかどうか。だけど、昔の友人や熊本時代の教え子なんかが、なんでこの時代の「関東州」に集中していたのか。

 すべてセッティングされ、お金も出してもらえる(と書いてある)「主人持ち旅行」。結局この紀行がつまらないのは、そういうことだと思う。自由に民衆の中に入っていくことはない。そういう体力もないけど、そういう発想もないと思う。それは当時の旅行というものの限界だろう。「日本人の活躍ぶり」ばかりが出てくるのも、やむを得ない。そういうとこばかり周っているんだから。セッティングされた名所めぐり。中国や北朝鮮に招待されて書かれた紀行が、昔いっぱいあったけどなんだかそんな感じ。

 「露助」や「チャン」と言った「差別語」も出てくる。中国人民衆が汚いとか、苦力(クーリー)を下に見るような表現も出てくる。それをどう見るか、さまざまな説があるようだけど、言葉を使う仕事なんだから、そういう言葉を安易に使っては困るように感じた。そもそも体調もあって、それほど乗っていた気がしない旅行記である。たった数年前に戦争があったばかりの、旅順の古戦場も訪ねている。

 日本はロシアとの大戦争を戦い、関東州を獲得した。この文章を素直に読む限り、漱石は「国家の発展」に肯定的な「帝国の作家」と言える。漱石は一高、東大を卒業、英国に留学もした「一流のエリート」である。当然、学校時代の友人もエリートである。そういう人が外地にたくさん出ていた。内地を食い詰めた人が植民地に流れる時代ではなかった。創設間もない満鉄を中心に、実務エリートが外地に集められていた時代なんだろう。そういう人の声を記録するのも意味はあるが、この紀行はそこまでの中身がない。もう少し体調が良ければ、もっと意味あるものになったかもしれないが。
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