尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

東映映画と「ヤクザ」世界-東映実録映画とは何だったのか⑤

2017年05月01日 23時02分02秒 |  〃  (旧作日本映画)
 具体的な映画作品を離れて、映画と組織暴力との関わりを簡単に書いてみたい。今はもう考えられないようなことが、当時はいろいろとあったということである。そもそも芸能界はヤクザとの関わりがもともと深かった。「芸人」もヤクザと似たような存在だと昔は思われていたらしい。特に地方の興行界は大体ヤクザ組織が仕切っていたと言われる。映画館も同じである。

 そういう話はいっぱいあるけど、僕もそんなに関心はないし、そういう話をたくさん読んでるわけじゃない。でも東映映画を論じるときには落とせない観点だと思う。映画が登場した時から、撮影所でセットを組んで撮るのと同じぐらい、それらしい風景を探してロケをすることが大事だった。現代劇はもちろんだけど、時代劇だって富士山を背景にして戦ったりしている。

 今じゃロケでは各地の「フィルム・コミッション」が調整してくれる。行政が関わってボランティアを集めてくれたりする。だけど昔はそんなものがなかったから、スター目当てに集まる群衆を整理するには、地元のヤクザ組織に頼んだわけである。まあ何事につけ「ショバ代」がかかった時代であり、建築現場や株主総会にヤクザの手を借りた時代だから、映画のロケにヤクザが関わるのも当然だった。

 しかし、東映の場合はそれだけでは済まない。そもそも東映時代劇の中心スターの一人が美空ひばりだった。歌手としてと活躍したのと同じぐらい、50年代のひばりは東映の娯楽時代劇の大スターだった。そして美空ひばりと言えば、神戸芸能社所属のスターで、その社長は田岡一雄だった。もちろん山口組三代目組長である。ひばりは東映と専属契約を結んでいた。
(時代劇の美空ひばり)
 これでは東映に山口組の影響力が及んでも不思議ではない。ちなみに、美空ひばりが小林旭と結婚を望んだ時、使者にたったのが田岡社長だった。まだそこまで気持ちが高まっていなかった旭も断り切れない。結局、結婚式を挙げるがひばり側の事情で婚姻届は未提出のままだった。その後、ひばりが短い結婚生活をあきらめて離婚を望んだ時も、旭は直接会えずに田岡社長が伝えに来た。それじゃ断れない。旭の方はまだ未練があったということだけど。

 その後、60年代に入ると東映は「任侠映画」を作り始める。これは当時の岡田茂社長が受ける映画を作るために「不良性感度」の高いものを企画したことによる。そういう社の意向を受けて、のし上がってきたプロデューサーがいた。それが俊藤浩滋(しゅんどう・こうじ)である。前に書いたけど、夜の社交界として有名だった「おそめ」のママ、上羽秀の連れ合いである。店での付き合いから映画界につながりができた。(俊藤と前妻の間の娘が藤純子である。)

 この俊藤の大の幼なじみに、菅谷政雄(すがたに・まさお 1914~1981)がいた。元神戸の愚連隊のボスで、当時は山口組の№4の地位にあった大物ヤクザである。俊藤も若い時はかなりヤクザと近かったらしいが、組織に入っているわけではない。だけど、菅谷を通して、ヤクザ組織のことを知る立場にあった。任侠映画では、賭場のシーンや襲名披露などの儀式の描写が欠かせない。その場面のリアリティを高めるために、本物のヤクザの協力も必要だったのである。(なお、なべおさみ「やくざと芸能界」には、なべが菅谷に連れられて賭場の見学をするエピソードが出てくる。)

 菅谷はオシャレで知られ、自分のことをボスと呼ばせた。映画ファンでもあった。敗戦後の神戸では、「国際ギャング団」を組織していた。当時、二代目山口組若衆だった田岡一雄が朝鮮人組織ともめた際には、仲裁に入ったという。だから、その後三代目を継いだ田岡の盃を貰ったとはいえ、内心では同格意識があったのかもしれない。昔の映画に詳しい人は判ると思うけど、この菅谷政雄は田中登監督の「神戸国際ギャング」のモデルである。(あるいは加藤泰監督の「懲役十八年」も同様。)
(「神戸国際ギャング」)
 田中登(1937~2006)は日活の監督でロマンポルノで名を挙げた。「㊙色情めす市場」や「実録阿部定」で評価されて、東映に招かれて菅原文太、高倉健最後の共演の大作「神戸国際ギャング」を任された。僕は彼の日活作品が好きだったので、期待はいやが上にも高まったのだが…。でも、この映画はどう見ても失敗作としか言いようがなかった。なかなか難しいものだ。1975年10月公開。

 さて、長々と菅谷政雄のことを書いてきたけど、この人こそ前回書いた「北陸代理戦争」のモデル、川内弘の「親分」に当たる人物なのである。菅谷組は当時1200人と言われる山口組最大の人員を誇る大組織だったという。それは各地の有力組織を本部直参の組に格上げしなかったということでもある。これほど大きな組織になったため、同じ枝(ヤクザの系列)内で衝突も起こる。川内組もそんな衝突を起こしていた。しかし、それだけでなく映画ファンだった菅谷からすると、田岡親分や自分が映画になるのはともかく、自分の下である川内弘が映画になることが勘気の原因だとする説もある。

 ホントにそんなことが原因になり得るのか。だけど、川内組長を襲撃・殺害した実行犯(その日のうちに逮捕され、証拠も自白も間違いない)が菅谷組系だったことは間違いない。「映画の奈落」では、川内組から菅谷に復讐する「暁の7人」と自分たちで呼んだ暗殺グループができたことが書かれている。警戒が厳しくどうしても襲撃できないでいるとき、たまたま駅で菅谷と遭遇し、菅谷の方から声を掛けたという話が出てくる。自分は事件に関係ないと言ったということだけど…。
 
 川内殺害事件は、ヤクザ世界を震撼させたとよく書いてある。どうしてかというと、菅谷組は川内組長を確かに「破門」していた。だが、この世界で最大の処分は「絶縁」であるという。この違いは、高校の特別指導に当てはめてみれば「退学処分」と「無期謹慎」のようなものらしい。つまり、破門は無期の縁切りだけど、「反省」によっては解除がありうるということだ。その意味で破門したものを親分の側から殺害を命じるということはあってはならない。
 
 その事件後、今度は菅谷が山口組から「絶縁」される。今度は菅谷の方が絶縁だから、もう取り返しがつかない。だが、菅谷は組を解散せず、そのまま組織を維持したが、1978年になって別の事件で収監された。1981年に出所後、田岡一雄に詫びを入れてカタギになった。その時はガンで闘病中で、その年の秋に亡くなった。(田岡一雄も同年7月に死去している。)幼いころに、寺の和尚から「煩悩!」と一喝されて以来、「ボンノ」が愛称になったことで知られる「伝説のヤクザ」だった。

 このような菅谷と俊藤が幼なじみだったわけである。俊藤は任侠映画から実録映画への路線変更を納得できなかった。「仁義なき戦い」には名を連ねているが、その後の実録映画にはほとんど関わっていない。先の「神戸国際ギャング」を初め、大作「日本の首領」シリーズなどを作り続けた。この「日本の首領」シリーズのプロデューサーには、田岡一雄の息子、田岡満も加わっている。これではスターたちが山口組関係者と飲み明かしていても何の不思議もないだろう。そういうことが許された時代だったということである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする