黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

なるほど、そういうことですか。

2008-09-20 08:52:06 | 近況
 身内に葬儀などがあり、忙しくてこのブログを見ている時間がなかったのだが、この5日間、「劇場(芝居や映画、など)」を眺める如くに自分のブログに書き込まれた「コメント」類を読むと、(たぶん、またいきり立つ人が出てくるかも知れないと思いながら)「神学論争」やら「サヨク談義」やら「知識人論・大学教授論」やら、僕に直接関係ないと思われる(間接的には関係あるのだろうが)論議が起こっていて、「賑々しいことだ」と思わざるを得なかった。
 しかし、同時に思ったのは、何故人はこれほどまでに他人を攻撃することに浮き身を費やすことができるのだろうか、ということでした――と書くと、お前だって石原慎太郎とか小泉純一郎とかを批判しているではないか、と批判されるのは眼に見えているが、僕は彼ら「個人」を批判したつもりは全くありません。読者に伝わったかどうかはわかりませんが、彼らの言動が示す「思想」について批判したつもりですが、俺達だってお前個人ではなくお前の考え方(思想)を批判しているのだ、同じではないか、という批判がまた山のように寄せられるのだろうな――。他人を「批判」するというのは、経験的に言うのだが、ストレス解消にもなるし、自己顕示欲を満足させるということもある。その限りにおいて、どうぞ「後勝手に」に言いたいところだが、自分を「安全地帯」(自分はブログやホームページを持たないから、ということで)に置いて、人のブログ内で勝手に「論争」(非難合戦)するのはいかがなものだろうか。
 そもそも、思い起こして欲しいのは、事の起こりは僕がこの欄で栗原裕一郎氏の「<盗作>の文学史」に対して、僕が関与した「盗作問題」に関する事件に鑑みて「感想」を書いたに過ぎない、ということである。そして、その「感想」に小谷野敦氏が「異議」を呈し、現在に至っているのだが、そのような「発端」から現在のような状況に至るとは、誰が予想したでしょうか。これが、「ネット社会」の現実であるとするならば、僕らはとんでもない「未来」を生きなければならないのではないか、と危惧する。――この欄にコメントを寄せてくる人たちがどのような「未来図」を描いているのか知りたいものであるが、こんなことを書くとまたどっとコメントが寄せられることが予想されるので、今は御免被りたい。
 また、以上のこととも関係するのだが、「見解(見方・考え方)の相違」ということを認めない人がこの世の中にはたくさんいるんだな、ということも理屈ではなく実感として知ることができました。――僕がいちいちのコメントに答えなかったのは、この「見解の相違」に基づいた「論争」は、水掛け論になると思い、それは消耗だ、と思ったからです。それ以上でも、以下でもありません。なお、国語学者の方が「況や・言わんや」について黒古が答えないのは卑怯だ、と他の人も巻き込んで執拗に僕の返答を待っているようなので、この際僕の考えを述べておきますが、この「言わんや・況や」について、僕が「況や」の方が正しい言い方だ、といったのは、辞書的な意味では僕の間違いだったようです。しかし、今ここで具体的事例を書けないのが残念ですが(時間があれば調べられるのですが)、明治以降の文学作品の中には結構頻繁に「何をか、況や」が使われていたと記憶しており、僕もそのような使い方をするようになった、ということです。弁解するつもりはありませんが、小説などに使われる言葉には「誤用」「正当な使い方」が混在している場合が多々あり、それらが転換してしまうことなどが多々あります。――
 ただ、僕が「匿名」の人のコメントには答えないという「原則」を破り、僕の判断で「特定の匿名者」には答えたこと、これは完全に僕の「判断ミス」でした――どなたかコメントにもありましたが、「実名」を装って僕の返答を引き出し、それに反論を加えるという「高等戦術」について僕が無知だったということ、また「匿名性」に拘る余り、これもどなたかが言っていたことに従って、僕の「恣意」(勝手な選択)によってコメントに返答する、と言えば良かったのかも知れません。――
 以上が、「雲隠れ」や「逃亡」していなかったことを明らかにするための僕の見解ですが、現状を憂えていろいろとアドバイスしてくださった方々には、ここに感謝の意を表したいと思っています。いろいろ心配してくださって、ありがとう。でも、僕は元気です。ただ、このような状況が依然として続くようでしたら、僕を「潰そうと思っている人」の思うつぼかも知れませんが、何らかの手段を考えたいと思っています。
 では。