贈られてきた立松和平の新著(書き下ろし長編)「二荒」(新潮社刊)を読む。この長編は、立松がここ何年かかけて書き直し書き直しした長編で、同じ新潮社から出た「日高」「浅間」に継ぐ<命>シリーズと言ってもいい、「自然と人間との関係」「命の尊さ」「生と死」をテーマとした作品である。
ここ何年かは会う度に、僕の方から「新潮社のはどうなっている」と聞いたり、立松の方から「新潮社の書き下ろし、今書き直しているんだ」と言ってきたり、暗黙の裡にこの書き下ろしが作家立松和平にとって重要な作品になる、という予感がしていたのである。もちろん、周知のように立松は他にも着々と仕事をこなし(少し前に立松の「晩年」を「三田文学」に書評したことは伝えてあるはず)、最近の大きな仕事は「道元禅師」(上下巻 東京書籍刊)などがある。昨夜(29日)全く別件で電話をかけてきた立松と久し振りに長電話(20分ほど)をしたのだが、その中で「道元禅師」が5刷りになり、10000部を超えた、といって喜んでいた。その折りに、2200枚の大長編誰が読んでいるのだろう、という話になったのだが、つくばで少しずつ読んでいる僕の感想としては、まず第一に曹洞宗の坊さんを中心に、混迷・混乱する世の中にあって少しでも生きる指針を求めている人々が、「賢人・先哲」である道元の生き方(乱世を生き抜く力)から何ものかを学ぼうとしている結果なのではないか、と思う。
混迷・混乱を「仕方のないもの」として認めるところから出発しているように思える昨今の文学に対して、ある種の「生き方のモデル」(大江健三郎の言葉)を提出することを目指している立松和平の文学、重厚長大な「道元禅師」が売れている理由は、それ以外に考えられない。
「晩年」、そして「道元禅師」、さらには「二荒」、今度の「二荒」についてはこれからきちんと論じるつもりなので詳細はここに書かないが、「自然」に対して敬虔な気持ちを持ち、「命」を凝視しながら生きる人々の姿が生き生きと描き出されていることだけは確かである。読んで決して損はしない本だと思うし、表層=風俗にこびを売るような作品が跋扈している昨今の文学状況に対して一石を投じる作品になっているとおもうので、是非一読をおすすめしたい。
2日で読み終わったが、今は大変に清浄な気持ちと満足感を感じている。
ここ何年かは会う度に、僕の方から「新潮社のはどうなっている」と聞いたり、立松の方から「新潮社の書き下ろし、今書き直しているんだ」と言ってきたり、暗黙の裡にこの書き下ろしが作家立松和平にとって重要な作品になる、という予感がしていたのである。もちろん、周知のように立松は他にも着々と仕事をこなし(少し前に立松の「晩年」を「三田文学」に書評したことは伝えてあるはず)、最近の大きな仕事は「道元禅師」(上下巻 東京書籍刊)などがある。昨夜(29日)全く別件で電話をかけてきた立松と久し振りに長電話(20分ほど)をしたのだが、その中で「道元禅師」が5刷りになり、10000部を超えた、といって喜んでいた。その折りに、2200枚の大長編誰が読んでいるのだろう、という話になったのだが、つくばで少しずつ読んでいる僕の感想としては、まず第一に曹洞宗の坊さんを中心に、混迷・混乱する世の中にあって少しでも生きる指針を求めている人々が、「賢人・先哲」である道元の生き方(乱世を生き抜く力)から何ものかを学ぼうとしている結果なのではないか、と思う。
混迷・混乱を「仕方のないもの」として認めるところから出発しているように思える昨今の文学に対して、ある種の「生き方のモデル」(大江健三郎の言葉)を提出することを目指している立松和平の文学、重厚長大な「道元禅師」が売れている理由は、それ以外に考えられない。
「晩年」、そして「道元禅師」、さらには「二荒」、今度の「二荒」についてはこれからきちんと論じるつもりなので詳細はここに書かないが、「自然」に対して敬虔な気持ちを持ち、「命」を凝視しながら生きる人々の姿が生き生きと描き出されていることだけは確かである。読んで決して損はしない本だと思うし、表層=風俗にこびを売るような作品が跋扈している昨今の文学状況に対して一石を投じる作品になっているとおもうので、是非一読をおすすめしたい。
2日で読み終わったが、今は大変に清浄な気持ちと満足感を感じている。