黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

立松和平著「二荒」(ふたら)を読む

2007-09-30 09:11:13 | 文学
 贈られてきた立松和平の新著(書き下ろし長編)「二荒」(新潮社刊)を読む。この長編は、立松がここ何年かかけて書き直し書き直しした長編で、同じ新潮社から出た「日高」「浅間」に継ぐ<命>シリーズと言ってもいい、「自然と人間との関係」「命の尊さ」「生と死」をテーマとした作品である。
 ここ何年かは会う度に、僕の方から「新潮社のはどうなっている」と聞いたり、立松の方から「新潮社の書き下ろし、今書き直しているんだ」と言ってきたり、暗黙の裡にこの書き下ろしが作家立松和平にとって重要な作品になる、という予感がしていたのである。もちろん、周知のように立松は他にも着々と仕事をこなし(少し前に立松の「晩年」を「三田文学」に書評したことは伝えてあるはず)、最近の大きな仕事は「道元禅師」(上下巻 東京書籍刊)などがある。昨夜(29日)全く別件で電話をかけてきた立松と久し振りに長電話(20分ほど)をしたのだが、その中で「道元禅師」が5刷りになり、10000部を超えた、といって喜んでいた。その折りに、2200枚の大長編誰が読んでいるのだろう、という話になったのだが、つくばで少しずつ読んでいる僕の感想としては、まず第一に曹洞宗の坊さんを中心に、混迷・混乱する世の中にあって少しでも生きる指針を求めている人々が、「賢人・先哲」である道元の生き方(乱世を生き抜く力)から何ものかを学ぼうとしている結果なのではないか、と思う。
 混迷・混乱を「仕方のないもの」として認めるところから出発しているように思える昨今の文学に対して、ある種の「生き方のモデル」(大江健三郎の言葉)を提出することを目指している立松和平の文学、重厚長大な「道元禅師」が売れている理由は、それ以外に考えられない。
 「晩年」、そして「道元禅師」、さらには「二荒」、今度の「二荒」についてはこれからきちんと論じるつもりなので詳細はここに書かないが、「自然」に対して敬虔な気持ちを持ち、「命」を凝視しながら生きる人々の姿が生き生きと描き出されていることだけは確かである。読んで決して損はしない本だと思うし、表層=風俗にこびを売るような作品が跋扈している昨今の文学状況に対して一石を投じる作品になっているとおもうので、是非一読をおすすめしたい。
 2日で読み終わったが、今は大変に清浄な気持ちと満足感を感じている。

金、金、金、の世の中で

2007-09-29 06:27:57 | 近況
 16才の少女が警察官の父親の首にまさかりを振り下ろし殺害、15才の中学生が同じく父親の頭にまさかりを振り下ろし重傷を負わせる、何とも凄絶な事件が続き、この国の「家族」はどうなっているのか、ひと頃「家族の解体」がマスコミ・ジャーナリズムを騒がせ、書店に行くと「家族」関係の本が山積みされていたのを思い出すが、どこか根っこの方でこの国の「モラル・道徳」、あるいは「思想」が地滑り的に崩壊し始めているのではないか、と思わざるを得ない日々を過ごしている。これほどまでに「子殺し・親殺し」が流行る国は、やはりどこかおかしいのではないか。
 と思いつつ、正直に言って、自分の中で「あきらめ」なのか、それとも「慣れ」から生じた「マヒ」なのか、この種の事件が起こったときの「驚き」や「嘆き」、さらには「怒り」の感情が、だんだん薄れてきているような感じがして、自己嫌悪に陥ることがしばしばある。これではいけない、「驚き」や「怒り」はいつもフレキシブルな形で生じるようにしなければならない、と心懸けてはいるのだが……。もちろん、同時に、どんなことがあっても、人の命を抹殺するような行為は断じて許してはならない、という気持ちを堅持すべきだ、とも強く思うのだが。
 それに、この「子殺し・親殺し」の流行と同じようなことが、政治家の金銭感覚にも起こっているように思えてならない。連日、マスコミ・ジャーナリズムの世界を賑わしている「政治とカネ」の問題、ついにそれは福田首相の事務所経費の処理にまで及び、末期的な症状を呈しているように思える。保守党の政治家が、政治活動収支決算書に「1円からの領収書を添付する」という庶民にとっては当たり前の行為を何故拒絶してきたのか、理解できるような気がする。「親殺し・子殺し」の流行と「1円領収書」問題は、どこかこの社会の中では連動しているように思えてならない。
 彼ら(政治家)は、「政治」(理想を掲げ、この世の暮らしをいくらかでも良くする行為、等)をを行うために政治家になったのではなく、「名誉」や「金儲け」、あるいは「一職業」のために政治家になったのである。実態は分からないが、よほど「実入り=収入」がいいのだろう。政治家であばら屋に住んでいる人を見たことがない。みんな立派な家に住んでいる。何とかタイゾウ、という若造の政治家が代議士になった途端、料亭で食事をしたいとか、BMWという高級車を購入したいとかアホなことをいっていたが、たぶん、タイゾウ君の言葉は実は政治家の本音なのではないか、ともかく「カネ、カネ、カネ」。だからこそ彼らは、「選挙」に熱心なのだろう。あたかも「選挙」を勝ち抜くために(選挙に勝てば、「おいしい生活」が待っているから)365日を過ごしているかのようである。
 このような政治家の「醜態」を連日見せられていると、日本人の「モラル・道徳心」が地に落ちたと言われるのも、無理からぬのではないか、と思わざるを得ない。以前には小泉純一郎が、また現在は石原東京都知事が、一見「金」に関係ないようなパフォーマンスを繰り返すことで(実は石原都知事の交際費や海外出張で判明したのがだ、彼は湯水のごとく公金=税金を浪費しても恬として恥じない「金権主義者」である)、「ネオ・ファシスト」(新国粋主義者)の真姿を隠し、大衆的な人気を博している現状、私たち国民もみな「金まみれ」になっているのかも知れない。年収200万円以下のワーキング・プアーが1000万人を超えた、という現実があるのも関わらず、である。
 「怒り」はどこへ行ったのか? 「怒り」を忘れない生活をしようと思う。

日本人の心(メンタリティー)

2007-09-28 08:54:27 | 近況
 福田内閣の支持率が軒並み50パーセントを超え、中には59パーセント(日経新聞)と約6割の人が新政権を支持しているという結果を見せつけたものもある。
 正直、この国(国民)はどうなっているのだろうか、と思わざるを得なかった。確かに、派閥の論理に動かされて首相になったとは言え、福田さんの温厚そうな顔、静かな語り口は、一見私たちに何かしらの「安心」を与えてくれるかのような錯覚に陥らせる。
 しかし、考えて欲しい。この一見温厚そうな顔をしている人が官房長官をしている時(小泉政権)に、今度の臨時国会における最大の争点といわれている「テロ特措法」―自衛隊の海外派遣・集団的自衛権の実質的行使―が制定されたということの意味を、である。彼は見た目は温厚そうであるが、その内実は、小泉純一郎や安倍晋三と同じ「タカ」派的な思想の持ち主なであり、靖国神社に参拝しないというのも、単に中国や韓国との間に摩擦を起こさないため、という合理主義的な考え方から出たことで、彼の思想が「ハト」派だからというわけではないだろう。
 そもそも、テロ特措法なるものが、アフガンやイラク(あるいはソマリア等)で「戦争」を行っているアメリカ軍(とその同調者)=海軍・艦船に、わざわざインド洋まで出向いていって、国税で買った燃料を国税で養っている自衛隊の艦船がタダで提供するという法律であるということ、この明らかな憲法違反の法律を強引に等した元凶の一人が福田康夫という人だということを、私たちはよもや忘れたわけではないだろう。
 にもかかわらず、いかに前政権が幼くどうしようもないものだったからといって、その政権の跡を継いだ(閣僚が13人も再任され、新任はわずか2人ということは、福田政権は安倍政権の意図をそのまま継いだということを意味するはず)福田さんに50数パーセントの支持を与えるというのは、日本人はどうなっているのか、と思う所以である。想像力が衰えている、といわねばならない。きちんと「事実」を踏まえ、その上でその事実の関係(真実)を想像力によって見抜く、そのような力が落ちているのは、「歴史認識」について如何に日本人が貧弱なものしか持っていないかということで、これまでにも何度か触れてきたが、福田新政権誕生に際しても日本人(国民)は同じ「過ち」を犯している。
 もちろん、国民が慌ただしかった安倍政権に代わって誕生した福田政権に「安心したい」という気持ちを持つことも分からなくはない。しかし、ここでぐっとそのような安易な気持ちを振り捨てて、リアリストにならなければいけないのではないか、政治に淡い(ロマンチックな)期待を持っても裏切られるだけである。インド洋で自衛隊(海軍)がアメリカ軍やパキスタン軍に税金で買った燃料(原油)をじゃぶじゃぶ与える法律の延長(新法も同じ思想)を謀る一方で、年金などの国庫負担の増大(「赤字」)を理由に着々と準備されつつある「消費税」の値上げ、自衛隊の海外派遣(インド洋での燃料補給、イラクでの航空自衛隊のアメリカ軍支援)の費用、インド洋での燃料代、などを考えれば、消費税の値上げなどしなくても済むと思うが、どうも国民はそのように思わないようで、福田新政権に高い支持率を与える、本当にどうなっているのか、と思わざるを得ない。
 「怒り」は、どこへ行ってしまったのだろうか?

軽い言葉と軽い国民

2007-09-25 08:39:21 | 近況
 昨日(9月24日)行われた安倍首相の「お詫び会見」と自民党の総裁選の結果を受け手の新三役(四役)人事を見ていて、改めて「言葉の軽さ」を感じざるを得なかった。
 特に安倍首相の「自認の最大の理由は健康問題であった」という言い草は、ならば何故シドニーでテロ特措法の延長を「職を賭して」などと言ったのか、軽々にこんな大事なことに対して「職を賭して」などと口走るから、自らの言葉に逆襲され、辞任に追い込まれたのだろう。胃腸の弱さはずっと前からの持病とのこと、ならば胃腸病の大半がストレスから生じるということは、常識である。そのことを前提に考えれば、安倍さんは自らが唱えた「美しい国造り」構想がそもそも間違っていたのだ、と反省すべきなのである。観念的で全くリアリティーのない「美しい国」などいという世迷い言によって推進した「戦争への道」=憲法改正に道を開く国民投票法や教育基本法の改正が、一部の右翼的な人々や閉塞感に苦しむ若者たちに受けたとしても、そこにこそ健康問題=胃腸障害の原因があったことに、何故この人は気付かなかったのか?
 このことに連動して、おぞましく思ったのは、自民党総裁選の当日、自民党本部の前に集まって「麻生」を連呼していた若者たちの存在である。いくら麻生太郎がマンガ好きで、「キャラが立つ」などという若者言葉を使っているからといって、安倍さんと同じ程度に「お坊ちゃん」で右翼=保守的な麻生太郎を何故彼らは自民党総裁として持ち上げようとするのか。どう見ても安倍さん以上の政治などできるとは思わない麻生さん(福田さんもその意味では同断)を渇仰とするそのメンタリティーが、どうしても僕には理解できない。
 麻生さんも福田さも、「言葉」の重みを理解していないのではないか、その意味では小泉時代に培われた「愚民政治」=ポピュリズムが今も続いているとしか思えない。また、それに一役買っているのがマスコミ、特にテレビ。テロ特措法の延長問題とか、年金問題とか、郵政民営化の問題とか、様々な問題が山積しているというのに、国会を休会状態にして一政党の総裁選びに同調して「お祭り騒ぎ」を煽っているテレビというメディア、本当に度し難い、と思わないわけにはいかない。
 特に先日のテロ特措法に関する国連での「(日本への)謝意」が含まれているといわれる決議を受けて、「国際社会がこのようにいっているのだから、民主党もこの法律を国会で通さなければならないだろう」と公言して憚らないTBSの朝番組の司会者(みのもんた)の存在など、どうしようもないな、このようにして国民は洗脳されるのだな、と思わざるを得なかった。
 政治家の言葉が「軽い」ということは、それだけ国民が「軽く」見られているということに他ならない。このことに、僕らは怒らなくてはならない。だが、現状を見ると、必ずしも国民の「怒り」は感じることができず、残念な気持ちにならざるを得ない。「情報」の裏に見え隠れする「真実」をどのように見抜くか、それは日頃の訓練しかないのかも知れない。

歴史認識の問題(3)ー「自虐史観」という妖怪

2007-09-22 06:35:05 | 近況
 前回、石原慎太郎東京都知事の「中国憎し」の歴史観とそれを容認(支援)する「元全共闘」猪瀬直樹のことについて書いたが、「茶番」としか思えない自民党の総裁選挙に関する報道を見ていて、「なるほど」と思ったことがある。
 それは、麻生太郎というマンガ好きな総裁候補が、スローガンとして掲げてきた「誇れる国・日本」について、対立候補(福田康夫)からその意味するところを問われて、「過去においても現在、未来においても誇れる日本ということで、自分は自虐史観を持っていない」と答えたことが、きっかけであった。
 どういうことか。それは、小泉政権以降、安倍内閣に至るまで「劇場型政治」に国民が目眩ましに遭っている間に進行し続けてきた「ネオ・ナショナリズム=ネオ・ファシズム」的傾向の根っこに、小林よしのりたち「新しい歴史教科書を作る会」が画策してきた自虐史観批判=自由主義史観の提唱があったのではないか、ということである。つまり、小泉さんの靖国神社参拝も、また安倍さんの「美しい国」造り構想、「戦後レジームからの脱却」も、そして麻生太郎の「誇れる国」構想も、みな自虐史観批判、つまり先のアジア・太平洋戦争に対する真摯な「反省=総括」が、集約して言えば日本国憲法の思想・精神に繋がっていったことに対して苦々しく思ってきた勢力が、かなりの程度でこの国に受け入れられるようになったことを背景に提唱されたものであった、ということである。
 その意味で、「誇れる国」構想も、小泉ー安倍路線の継承に他ならない(それなのに、小泉さんが麻生さんを推薦しないというのは、彼ら自身も事の本質を理解していないことを意味する)。つまり、「過去も誇れる日本」という発想からは、日本人の犠牲者300万人余り、アジア太平洋各地で約3000万人(そのうち中国人2000万人)の犠牲者を出した先の戦争に対して「反省」していないということである。そう言えば、小泉さんの父親も戦時中の政治家だったし、安倍さんの祖父はA級戦犯だった岸信介だし、麻生さんの祖父吉田茂も、占領軍(GHQ・マッカーサー)の意向を汲んで戦後数々の反動政策(自衛隊の創設など)を行ってきた人である。先祖の七光りで権力の中枢に上り詰めた連中に、先の戦争への「反省」を求めること自体が無理なことなのかも知れないが、「美しい国」にしろ「誇れる国」にしろ、正しい歴史認識に基づいて構想されるのなら、それこそ「カラスの勝手でしょ」ということになるが、「自虐史観」などと小林よしのりのそれこそデマゴーグ(虚偽・自己正当化)に満ちたマンガ「戦争論」辺りから仕入れた知識で、この国の基本構想を語られたのでは、たまったものではない。
 第一、「自虐史観」という言葉ほどおかしなものはない。元々「歴史」というのは「事実」に基づいて形成されるものである。その観点に立てば、多くの記録や証言が語るように、南京を始め中国各地で日本軍が中国人を「三光作戦」の名の下で殺戮してきたのは「事実」だし、マニラで住民を虐殺したこと、戦争中のパプア・ニューギニアやフィリピンなどで「飢え」の結果、多くの人が人肉を食したことも、また広島と長崎に原爆が投下され、併せて20万人もの人が亡くなり、同数の被爆者を生み出したことも「事実」である。
 その「事実」と真摯に向き合い、二度と同じような「愚」を冒さないと誓うことが、何故「自虐史観」なのか? 真の「誇れる国」は、自分たちの先祖が犯した数々の「愚」を真摯に反省したところに成立する考え方ではないのか。いたずらに「自虐史観」などと言わないで、麻生太郎もマンガばかり読んでいないで、石川達三の「生きてゐる兵隊」(1937年)、あるいは大岡昇平の「野火」、堀田善衛の「橋上幻像」を読んでみればいいのである。いかにこの国の過去が「誇れる」ようなものではなく、反省の上にしか戦後の出発がなかったことがわかるというものである。
 それにしても、テロ特措法の問題や年金問題など、重要な課題が山積しているのに、たかだか一政党の総裁選候補に過ぎない政治家に群がってキャーキャー言い、携帯電話のカメラ向ける「主婦」という存在、もしかしたら「動員」され、「演出」された姿なのかも知れないが、それはそれとして、この国の「民度」が低いと言われるのも仕方のないことかも知れない。
 21世紀、日本では自虐史観という「妖怪」が歩き回っている。

歴史認識の問題(2)-こだわり

2007-09-21 10:58:53 | 近況
 昨日(21日)朝食を摂りながら、何気なくテレビを見ていたら、猪瀬直樹が出ていたので、この人の「不遜な顔」を見ていたらメシがまずくなると思い、チャンネルを換えようとしたのだが、タイトルが「石原都知事のツバイ訪問1550万円は高いか?猪瀬直樹副知事が真実を!」(確かかどうかは忘れてしまった。しかし、主旨としては間違っていないはず)となっていたので、切り替えず見ていて驚いた。
 知事を含む6人の出張旅費が6日間で1550万円という総額も、バカ高いと思うが、その内訳を知ってまたびっくり。通訳(1人)が6日間で180万円、今までいくつかの国際会議で通訳を雇ったことがあるが、1日30万円などというのは聞いたことがない。また、宿泊先のフィジーからツバイまで1日2往復の定期便船(片道2時間)があるのに、飛行機をチャーターして、それが500万円。税金の無駄遣いが問題になっているのに、石原慎太郎は金銭感覚が狂っているとしか思えない(そのような出張をお膳立てした役人も同罪)。
 それで、2,3時間のツバイ視察、二酸化炭素の排出量世界第4位の日本の首都東京を預かる知事が彼の地を視察したこと自体はいいとして(本当は、地球温暖化に最も大きな責任のあるアメリカへ行くことのほうが大切だと思うが)、地球の温暖化で海抜1.5メートルのツバイは国土の消滅の危機にあるツバイで、「日本の土木技術を持ってすれば、海岸線の防護は簡単だ。ODAで水爆を作っている中国への援助などは止めて、そのODAをこのような国に振り分ければいいのだ」、と言いたい放題言っていたことに対して、猪瀬がどのようなコメントをしたか。
 一言、自治体の責任者が現地を見ることはいいことだ、ということだけ。司会者が「税金の無駄遣いという都民の声もありますが」というと、「考え方の違いでしょう」と一蹴。前にも書いたが、こんな猪瀬のような「権力」に擦り寄る奴がいるから、全共闘世代はダメだ、といわれるのであって、胸糞が悪くなってチャンネルを変えた。しかし考えてみれば、先に書いたような税金の無駄遣いをするのであれば、節約して余ったお金をその場で水没の危機にあるツバイ政府に寄付すれば、たちどころに波に対する防御壁の応急処置に役だったのではないか。
 ともあれ、石原慎太郎に擦り寄っている猪瀬も見苦しいが、石原の発言「ODAで水爆を作っている中国」というのも、大衆受けを狙ったものなのだろうが、これは、石原の「南京大虐殺はなかった」という何の根拠もない発言と同じで、どんな根拠があって「中国はODAで水爆を作っている」と言えるのか。そもそも、日本政府の中国へのODAは、先のアジア・太平洋戦争における中国への日本の侵略行為の「賠償」から始まったもので、このことを否定するのは、2000万人の犠牲者を出した先の戦争を「聖戦」とするような、「大東亜戦争肯定論」を書いた富岡幸一郎や「戦争論」の小林よしのりたちの考え方に加担することになる。
 石原慎太郎は自ら「作家」と称しているが、本当はデマゴーグ(扇動家)であり、歴史改竄主義者なのではないかと思う。そんないい加減な人間に「副知事」就任を要請されたからと言って、いそいそと追随している猪瀬直樹という人間を奉らなければならない東京都民、お気の毒としか言いようがないが、しかし「悪貨は良貨を駆逐する」の喩えではないが、石原-猪瀬という「悪貨」が全国に広まってしまったら、大変なことになるのではないだろうか。
 そのようなことを考えると、1日3億円の税金を無駄にしている「自民党総裁選」を笑ってテレビで見ているどころではない、と肝に銘じなければならないのではないか、と思う。

歴史認識の問題

2007-09-20 13:00:01 | 文学
 大学に家人から電話があり、FAXで先頃亡くなった小田実さんへの追悼文執筆依頼がある、と伝えてきた。とりあえずFAXで「諾」の返事を出しておくことを頼み、帰宅してその追悼文のことを話題にしたとき、家人が職場で小田さんの死去について話をしたときのことを話してくれた。小田さんが元気だったとき、お願いして前橋で話をしてもらったことがあり、講演が終了した後突然「黒古さんの家に行こう」ということで、自宅にきてもらったことがあった。家人は、その時に会った小田さんの強烈な印象のことを話したらしいのだが、同僚の誰もが「小田さん?Who is he? 」という状態だったというのである。
 話は、小田さんのことから僕らの世代の作家たちのことになり、最近の若い教師たちは驚くほど現代文学のことを知らない、という話になった。さすがに村上春樹やよしもとばななのことはかろうじて名前だけは知っているようだが、僕らの世代の三田誠広や立松和平になると、立松などあれほどテレビに出ていながら、全く知らないと言うのである。結論は、「だから貴方の書く作家論など売れないのだ」ということになり、「そうか」ということになったのだが、このような現代文学史に関する知識のなさは、若者たちの歴史認識の「甘さ」に通底していると思わざるを得なかった。
 あまりにも身近なことにしか関心を示さない、他者(外国も含む)への関心のなさ=知的好奇心の欠如、といった現象は、実は「自己愛」=「ジコチュウ」の現れとも考えられるのだが、大学生や教師といった「知識人の卵」ないしは地域の知識人たちさえ、自分の身の回りのことにしか関心を示さないのでは、いくら文部科学省や教育委員会が躍起になったとしても、「知」のレベルは向上しないのではないか、と思わないわけにはいかない。村上龍の何年か前に話題となった『半島を出よ』(幻冬社刊)ではないが、資源を持たない日本の「国力」が落ちる最大の原因は、「人的資源の活用」がなされなくなったときに他ならない、という言い方は、最近の若者たちをみていると案外説得力があるのではないかと思わざるを得ない。
最近テレビなどでは「~力」とか「~テスト」というのが流行りのようであるが、漢字力も脳内サプリも大切かもしれないが、一人一人が自分なりの歴史認識を持ち、現代史(文学史も含む)についてもっと関心・知識を持つことが必要なのではないか、そんなことを痛感した日であった。
 因みに小田さんの追悼文を依頼してきたのは、藤原書店から出ている「環」という雑誌で、30人ぐらいの関係者が追悼文を書くという。壮観である。楽しみである。ついでに、小田さんを間に挟んで旧知から連絡があって、来年早々にも「小田実の文学を語る」という趣旨の会を開きたいと言ってきた。喜んで協力する、と伝えたのだが、僕らはもう一度小田さんの作品と志について考える必要があるだろう。

文学(芸術)至上主義の横行

2007-09-19 08:57:04 | 文学
 先頃、立て続けに比較的若い人の「論文」「批評文」を読む機会があった。それなりによく書けていると思えた反面、共通して感じられたのはその人たち(の論文)には「社会」(ということは、「読者」)というものが欠落しているということであった。言い方を換えれば、彼らの論文はおしなべて「唯我独尊」と言ってもいいぐらい「自己中心的」で、自分が21世紀の現代に生きているという意識も、またそれらの論文を読む(であろう)読者の存在も全く顧慮されていない、と感じられたということである。
 昔から、大学の「紀要」については、よく関係者など数人しか読まないものだ、紀要論文は業績をカウントするために存在するのだ、と言われてきたが、この「悪習」は未だに改善されることがないようで、論文を書く若い研究者自身に「社会」の意識はなく、従って「何のためにこの論文を書いているのか」という問題意識は当然無く、あるのは業績を一つ積み重ねるため、という意識のみ。
 批評文にしても同じで、十数年前の「ポスト・モダン論議」が華やかりし頃流行った「メタ批評」(「批評のための批評」という消耗な論議)に源を発しているのだろうが、例えば「作家論」にしても、「文学状況論」にしても、その文章を読む専門家でない人間のことは全く念頭に置いてない文章が、文芸誌などを中心に未だに横行している。
 文芸誌の売れ行きが悪く、それが「純文学の衰退」を招いたという論議は、もう20年近く前からあちこちで議論されてきたことだが、関係者(文芸誌の編集者、批評家、作家たち)のそのことに対する反省=批判なしで、今日もまた同じようなことが続いているのは、どうしたことなのか。
 昨日、メールを開いたら、旧知(以前僕の研究室で1年間学んでいた「戦後文学」「野間宏」の専門家)のアメリカ・ケンタッキー大学准教授から、来年の春に「環境問題」「農業問題」でシンポジウムを開くので、立松和平氏に「基調講演」をお願いできるかどうか聞いてくれないか、と問い合わせがあった。今授業で立松の「遠雷」(英訳本)を使っているので、そのこととも関係があって、立松氏をシンポジウムへ招待したいと考えたようである。
 これは先の中国訪問で僕も感じたことであるが、外国の日本文学研究は、多くの場合「翻訳」中心から個別の作家研究、文学史研究に移ってきているようで、外国の研究者が異口同音に言うのは、最近の文芸誌などの批評文は何を言っているのかよく分からない、日本の批評はどうなっているのか、ということである。「僕もよくわかりません」、と答えることにしているのだが、読者不在、「社会」不在の日本文学の研究・批評界、これからどうなっていくのだろうか? 文学(芸術)至上主義が横行する時代は、歴史的に見て決して「良い時代」ではない。そのことの意味を僕らはもう一度考えなければならない。
 だからというわけではないが、先般も拙著の「林京子論」を読んでくださった読者から、「読みやすい文章になった」と言われ、ここ何年か心懸けてきた「本質的なことをわかりやすく」という思いが実現して、内心大いに喜んだのだが、今度出る「村上春樹」もそのようなことを意識して書いたので、そのことをどれほどの人が理解してくれるか、期待しているのだが……。
 「村上春樹」は、前にお伝えしたように、今月28日に「見本刷」ができ、来月の半ばには店頭に並ぶことになっている。是非手にとってお読みいただければ、と思っている。

粛々と……

2007-09-17 06:05:24 | 近況
 結局は「権勢欲」(権力欲)の問題なのか、と思わせる自民党の総裁選のスタートを尻目に、自分の頭の蠅を追うべく、この2日間「敬老の日」に伴う家族サービスに付き合いながら、ひたすら締め切りの迫る仕事に没頭した。
 まず一つは、最終部分にさしかかってきた野間宏の『さいころの空』論の「結論=評価」を付けるという仕事。1959年に単行本になったこの2000枚ほどの長編は、僕の持っている単行本で刊行翌年の10月で第14刷りを数え、よく読まれたものであるが、「相場の世界」(兜町)を舞台に、作者の言葉に拠れば「戦争によってもたらされた内的な問題」と共に「資本主義社会の機構」を「記録文学的」に描いたとものということで、当時の批評家や研究者に高く評価されたものである。しかし、約50年後の読者(批評家)である僕には、「内的な世界」=「人間疎外の問題」はそれなりに描けていると思いながら、「資本主義社会の機構」に関してはほとんど踏み込むことができていないのではないかと思われ、そのような結論をどう表現するか、苦慮すること大だったのである。
 それに加えて、1926(大正15)年に書かれた宮嶋資夫の長編『金(かね)』と、その「物語の大筋」はじめ、「登場人物の配置」、「恋愛関係」、など酷似しているのに、野間宏論者(研究者)がそのことを誰も指摘してこなかったという事実をどのように考えればいいのか、そのことの扱いにも苦心せざるを得なかった。生前の野間さんには何度もお会いし、可愛がって貰ったので書きづらかったのだが、野間さん自身がこの長編には何度も言及して、兜町を取材したことの大変さなどを縷々述べているのに、『金』のことには一切触れていない不思議さ。当時の野間さんは日本共産党員であり、同時に戦前のプロレタリア文学の伝統=政治(共産党)の優位性を大切にしよう考えた文学運動を展開していた「人民文学」の中心的作家であった。その野間さんが、いくら大杉栄と仲間のアナーキスト作家であったからといって、宮嶋の『金』について知らなかったというのは、不思議なことである。現に、近代文学者の猪野謙二は、『さいころの空』評において簡単にではあるが、『金』について触れている。にもかかわらず、野間さん自身も研究者も批評家も、その存在にすら触れないというのは、どういうことか?
 文壇的配慮? それとも「権威主義」の結果?
 2つめ、いよいよに「日本語版」が刊行されることになった『村上春樹―「喪失」の物語から「転換」の物語へ』(勉誠出版 296ページ 2400円 今月の28日に「見本刷」ができ、10月半ばには店頭に並ぶ。これまで評者の多くが触れることのなかった村上春樹の「転換」と迷走・混乱ぶりを指摘した本書、本格的な作家論として読み応えがあるのではないかと思っている。是非お読みください。)とほぼ同時に翻訳刊行されることになっている「中国語版」の「序」について考える。『ノルウェイの森』が140万部以上売れている中国に向けて、どのようなメッセージを送ればいいのか、じっくり考えようと思っている。
 3つめは、藤原書店の季刊雑誌「環」が小田さんの追悼特集を組むといって依頼してきた「追悼文」をどう書くか。僕としては余り知られていない「小田さんの優しさ」について書こうと思っているのだが、それは今日の執筆状態如何にかかっている。どうなることやら……。

「小泉チルドレン」って、何?

2007-09-15 05:47:26 | 近況
 安倍首相の辞任表明を受けて、自民党の次期総裁選びが始まり、福田康夫と麻生太郎の二人が立候補を表明したが、昔から「魑魅魍魎」が跋扈するという自民党総裁選については、当面どのような結果になるかを静観するとして、安倍首相辞任狂想曲の過程で飛び出してきた「小泉チルドレン」と言われる人々の「浅はかさ」、あるいは「軽さ」については、一言しておきたい。
 と言うのも、「郵政民営化」が我々田舎暮らしの庶民にとっては決して「改革」ではなく、「改悪」であるというのは、これまでにも何回か言ってきたが、チルドレンたちにまず言いたいのは、「小泉改革」と言われる、それこそ「戦後レジーム」の根底からの否定――例えば、今問題になっている「テロ特措法」、つまり憲法第9条の縛りを解いて自衛隊の海外派遣を可能にした法律は、小泉さんの主導によって行われたこと、あるいは先のアジア・太平洋戦争を「大東亜の解放戦争」として肯定する靖国神社へ首相として公式参拝し、中国や韓国との関係をぎくしゃくしたものにした張本人は小泉さんであった――を、比較的若いチルドレンたちは、どう考えているのか。
 戦前の体制を根源から否定する林京子さんが、テレビに映る小泉さんの顔を見ると、何とも不快な思いがして気分が悪くなる、と何度も言っていたことを思い出す。そのことが何を意味し、小泉さんの言動がこの国が守り続けてきた「平和主義」を根底から否定するものであるかを考えたとき、「小泉さんの再登板」なんてとんでもない、それこそ「冗談は止めてくれ」という気持ちになることを、チルドレンたちはどう考えているのか。
 小泉劇場に乗せられて、日頃胸に抱いていた「野心」を実現しようと舞台に立ったが、観客から「大根役者」の烙印を押された人たちが、何とか自分たちの地位を保とうと「茶番」を演じているとしか、彼らのこの間の振る舞いは感じられない。チルドレンたちは、一度でも「小泉改革」(郵政民営化だけでなく、自衛隊の海外派遣や中国や韓国との関係悪化、等)について、検証したことがあるのだろうか。誰かが言っていたが、先の参議院選挙で自民党が惨敗した理由は、「年金問題」だけではなく、格差や地方の疲弊という、それこそ「小泉改革」の負の遺産が余りにも大きかったから、というようなことについて、彼らはどう考えているのか。
 僕には、彼らのこの間の振る舞い――小泉さんの再登場を願って、30数名の署名を集めたと言うが、では彼らは今度の総裁選では、小泉さんも賛成したという福田さんに投票するのだろうか。それとも安倍さんの盟友を自認する「マンガ王」の麻生さんに投票するのだろうか――を見ていると、どうしても「ジコチュウ」としか思えない。どんなに「改革」を叫んだとしても、それは所詮「保守」=資本主義体制の枠内でしかなく、そうであるならばいつでも誰かの「犠牲」の上でこの社会が成り立っているものであることを、自覚して欲しいと思う。僕らは、そのような「犠牲」者をどうするか、ということを念頭に置きながら、日々を生きていかなければならないのである。
 それぐらいの現実認識は、小泉チルドレンたちにも持って貰いたいと思うが、無い物ねだりか?それにしても、「何とかタイゾウ君」という国会議員になれば大金が入ってくると喜んでいた最年少チルドレンが、携帯電話を片手に国会内を歩き回っていた図は、何とも哀れであった。チルドレンたちがいずれも「大根役者」だということが分かってしまった現在、もし総選挙があったとして、何人が生き残れるのか、その結果こそ「小泉劇場=小泉改革」への国民の審判だと思うが、そのことについてもどれほどのチルドレンが自覚しているか? もっとも自覚していないから「小泉さんの再登場」を呼号していられるのかも知れないが……。