黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

新々・武漢便り(7)――元気になりました。

2013-09-29 12:10:19 | 仕事
 前回から今日まで、何をしていたのか。
 もちろん、何もしていなかったわけではない。授業はもちろん、毎日、決められた仕事(それ以外の仕事も)は、それなりにこなしてきた。例えば、中秋節(19日~21日)の最後の日には、外国語学院の「招待」に応じ、アメリカからやって来たKenny・Gというサックス奏者のコンサートに行ってきたし(久しぶりにジャズを聞いたが、僕らが学生だった頃は、楽器にしろ歌にしろ「生な音」が中心だったが、今は「電子音」(電気で増幅された音)が中心になっているようで、やたら「大きな音」がホールに響き渡り、耳障りで仕方がなかった。若い人が結構目についたが、彼らは演奏に驚喜していて、世代の差を感じざるを得なかった。それにしても、高度経済成長を象徴するような巨大なコンサート・ホール(しかも、ツイン)、しかし椅子はちゃちで、前の席に100キロを超すであろう女性(ソプラノ歌手のようであった)が座っていたが、彼女が身じろぎするたびに、ぎしぎしという音と共に椅子が揺れていた)、3月26日(木)には、今年の3月に行われた修士論文の「着手発表会」に参加できなかった大阪大学に留学していた3人の「着手発表」があり、きちんと対応してきた。
 そして、今日(29日)は午後5時30分頃から湖北省の「国慶節」祝賀会があり、去年もそうであったが、今年も楚天学者(湖北省が給料を払っている特別招聘教授)として招待されているので、参加することになっている(その模様については、また次の機会に報告したいと思う。日中関係が一向に改善されない現在、地方や民間ではどのようになっているのか、祝賀会で知ってきたいと思っている)。
 その間、現在「大法輪」に連載中(10月号から上・中・下・下の2の4回、興味のある人は見てください)の「中国体感・大観」(下の2)を書き上げ、添付写真も必要ということで、学生の手伝ってもらって編集部の所に送る、という作業もしてきた。この連載は、いずれふくらませ、また別な記事も加わえて1冊の本にする予定があり(出版社は決まっている)、その軸となる文章になるのだが、第1回を読んだ知り合いからは、普段の文芸評論とは違う感じで、読みやすいという評をもらっているので、このままこちらにいる内に書きためていこうと思っているのだが、連載の副題に「葦の髄から中国を感じる・考える」としたように、出歩くのが余り得意でない僕としては、武漢という「定点」に居続けての観測ということになり、それで果たして読者は満足するのか、いささか「不安」でもある。
 というような10日間を過ごしてきたのだが、10日間もこのブログを書かなかった「別な理由」は、こちら(武漢)から日本の状況を眺めていて、「アベノミクス」なる虚像に踊らされている経済界とそれに追随している日本国民の現在、あるいはフクシマの「汚染水問題」や原発再稼働問題、等々、何とも「虚しく」思え、僕が何を言っても「負け犬の遠吠え」と同じなのではないか、という思いが強まり、その結果、ブログに向かう「気力」が失せていたからであった。それと、昨日中国のテレビと日本のテレビ(何とNHK総合を除いてすべてのテレビが、ネット状況が良ければ視聴できる)を見ていて、防衛省が中国の無人偵察機が領空侵犯した場合、撃墜するプログラムを検討中、ということを知り、中国について、安倍首相はじめ日本政府及び防衛省は「甘く」見ているのではないか、アメリカ(日米安保条約)に頼りすぎているのではないか、と思ったからである。
 前から言ってきているように、中国のテレビを見ている限り、中国政府(人民解放軍)は「日中戦争も辞せず」という態度で、尖閣諸島問題に対処してきている。どこから来た「自信」なのか分からないが(いや、高度経済成長の成功がもたらしたのだろう)、汚職問題や貧富の格差問題などの「内憂」を抱える中国は、領土問題(外患)に対して相当「敏感」になっている。その点は、虎の威(アメリカ)を借りて威勢のいいことを言っている安倍首相は、もっと現実を見るべきである。核兵器も最新式ミサイルも持っている中国の軍事力を「なめて」はいけないのではないか、とこちらに来て痛切に感じた。先に記した「中国体感・大観」でも書いたのだが、日本の指導者や「南京大虐殺はなかった」「支那に馬鹿にされるな」などと未だ嘯いている、例えば石原慎太郎など、もっと真摯に現代中国の「現実の姿」を見るべきである
 そうでないと、僕らは自己陶酔的な指導者によって「また再びの道」を歩まされることになるのではないか、と思う。
 元気になりました。また書いていきます。


新々・武漢便り(6)――今日は9月18日・満州事変勃発の日

2013-09-18 11:36:10 | 仕事
 朝起きてテレビを見ていて気付いたのだが、今日(9月18日)は満州事変勃発の日であり、それはまた中国人にとっていくつかある「屈辱の日」であるということであった。たぶん、「歴史に疎い=歴史に関心のない」大方の日本人は、そんな82年前の中国大陸への侵略が本格化した満州事変の起点となった「柳条湖事件」など覚えていない(知らない)かも知れないが、被害~屈辱を受けた側である中国では、「記念日」としてメディアが大々的に報じている。
 ここにも日本と中国の「歴史認識」の違いが出ているが、加害者の側はその加害の事実をすぐに忘れる(忘れたがる)が、被害の側は「痛み」が消えないためいつまでも忘れない、という加害ー被害の原理的(本質的)な関係が、この満州事変を巡る歴史認識にも表れているようで、中国(武漢)にいるから言うわけではないが、昨今の日本人の「歴史」感覚の異常さがここにも表れている、と思わざるを得ない
 今日の授業は午後からなので学生たちに会っていないが、たぶん小さいときから「歴史教育」(抗日戦争=日中戦争史)を受けてきた中国人は、全員今日が満州事変が始まった日であることを知っているのではないか、と思う。それで思い出すのが、昨年の今日、新入生歓迎会(留学生歓送会)を学生食堂の三階(学生向けの食事よりも少し高価な本格的な中華料理を出す食堂)で行っていたとき、会話のほとんどが日本語であったこと、しかも宴会で大声での会話であったためだったのか、かなり離れた席で会食をしていた大学の教員か職員の一人が突然立ち上がって、大声で「柳条湖事件を忘れるな!」と中国語で叫んだことである。我々が大学の日本語科大学院の学生や教員であることを知りながらの発言であったようで、日本語科の中国人教員が何事か「反論」して事なきを得たが、「歴史認識」の難しさ、具体的には「歴史教育」の難しさ(重要性)をあらためて思った。
 折しも、昨日から今日に掛けての日本の報道によれば、「(中国の)無人偵察機撃墜を検討」とか「集団的自衛権の(憲法解釈)可能性の本格的検討」というような、いかにも日本が「戦争をしたがっている=好戦的」かのような政権の姿勢が明らかにされており、本当にこのおっさん(安倍首相のこと)は日本を破滅に導こうとしているのではないか、と思わざるを得なかった。前から言っているように、本当に分からないのは、このおっさんの政治理念である。「美しい日本」だの「日本を取り戻せ」だの、実態が曖昧模糊=抽象的なスローガンを叫びながら、「戦争のできない国=平和憲法遵守の国」から「戦争のできる国」への転換を強力に推し進める、何故そのようなアナクロニックな政治理念に固執するのか、その本当のところがよく分からない。
 あの首相は「(悪い)歴史を作った」、と後世に名を残したいのか、それとも「戦争」をゲームのように考え、子どものようにそんなゲームを楽しんでいるのか、全く分からない。どう見ても「聡明」とは思えない「お坊ちゃん総理」、そんな人間に僕らは日本の現在と未来を託してしまったこと、これは痛恨の極みである。
 最後に付け加えておけば、昨年から1年、中国(武漢)で生活して実感したことが二つある。一つは、政治(外交)と国民の意識には「ずれ」があるということ、もう一つは「歴史」に多面体であり、見方によってどうにでも見えるということである。

新々・武漢便り(5)――やっぱりね。「東京オリンピック」について……

2013-09-10 10:37:35 | 仕事
 どこまで「本気」なのか、それとも「深慮遠謀」なのか、あるいは根っからの「脳天気」なのか、はたまた誰かの「操り人形」になっているだけなのか、「美しい国」とは「日本を取り戻す」とか、全く具体性を欠いた「抽象的な言葉」しか発せず、それで国民を扇動して悦に入っている安倍晋三という総理大臣、僕らはいかにも恥知らずな指導者を持ったものだ、と思わざるを得ない――そこで思い出すのが、大学院時代、その前の学生運動に関わっていた時代に覚えた「スローガン的」「抽象的言語」(学生運動用語)を知らず知らずに使っていた僕に、師は「論じる対象を本当に理解できていないから、抽象的な言葉でごまかそうとしているのだ」とたしなめてくれたことである。余談がだ、もっとも多感で難しいことにこそ「真理=本当のこと」があると思いこんでいた若き時代の僕には、師の言葉の意味を理解し実践するまでに時間がかかり、できるだけ「わかりやすい言葉」で批評することができたと思えるようになったのは、いつのことであったか――。
 ことに、フクシマについて「万全の体制でコントロールしている」とか「東京は完全に安全だ」とか、「抜本的な解決に向けてプログラムを着工している」(「プログラムを着工している」ということは、フクシマに問題があるということの証で、「万全の体制でコントロールしている」「東京は安全だ」ということと矛盾している)などと世界に向けて宣言したが、その安倍首相の発言から一夜明けた昨日、フクシマに関して最大の責任者(問題をもっとも把握しているはずの当事者)の東電が、「汚染水が海中に流出している」、「地下水が高濃度の放射能に汚染されている」、「地下水がメルトダウンした核燃料と接して汚染されているのではないか」などと、フクシマが「万全の体制でコントロールできていない」ことを明らかにしたのだから、本来なら安倍首相の「面目丸つぶれ」なはずなのだが、そこは「鉄面皮」な安倍さん、全く知らない振りをして、そのことについては沈黙を守っている(もしかしたら、経済産業省あたりの部下を使って、東電に「余計なことは言うな」と命じているのかも知れないが、他人の瑕疵(失敗)については口汚く避難するくせに、自分の「失敗」については口をつぐんで嵐の通り過ぎるのを待っている「姑息」な安倍首相のことだから、アンダーグランドで相当なことをしているのだろう、と推測される)。
 それにしても、世界に向かって「フクシマは安全だ」と公言してしまった安倍首相や猪瀬東京都知事をはじめとする招致委員会の面々、7年後もフクシマが相変わらずの状況だったら(あるいはもっと状況が悪化する可能性だってある)、どうするのだろうか。たぶん、安倍首相も猪瀬東京都知事も7年後には今の座にいないだろうが、「金=経済」のためにフクシマ(の被曝者・避難民、そして被曝地)の現実を「隠蔽」し、フクシマを「売った」罪を、どのように償おうとするのか。今僕が、7年後も生きていたいと切に思うのは、彼らが7年後に何を語るか興味があるからに他ならない
 安倍首相の言動が「姑息」であるのと軌を一にするように、東京や大阪で顰蹙を買い続けた「ヘイト・スピーチ」が売り物の「在特会」(「在日韓国人・朝鮮人の特権を許さない会」? 彼らが、日の丸の旗を振って安倍首相の演説会場を賑わせ、安倍首相もそれが自分への支持の表れだと喜んでいたとされる、民族派右翼からも疑問視される団体)が、党許オリンピックの招致活動期間はなりを潜めていたのに、東京オリンピック賀に決定するやいなや、またぞろ新宿(新大久保)で「反韓デモ」を繰り広げたという。
 そんなことだから、韓国や中国のメディアが、「もし、日本の右傾化が進めば、2020年東京おりピックをボイコットする国が増えるだろう」などと警告を発したものと思われる。安倍さんも「浮かれてばかり」はいられにだろう。「歴史認識」についても、「従軍慰安婦」についても、また「憲法改正(改悪)」についても、「2020年東京オリンピック」が足かせになると思われるからである。
 そういう意味では、「2020年東京オリンピック」も、もしかした「悪くない」かも知れない。

新々・武漢便り(4)――東京オリンピック、喜ぶべきか悲しむべきか

2013-09-08 14:36:17 | 仕事
 今朝からネットのニュース及び日本のテレビ(日本の新聞は読めない)は、一般のニュースやスポーツニュースだけでなく、ワイドショウやバラエティー番組でも「2020年東京オリンピック・決定」のニュースで沸き立っている。テレビのニュースでは新聞社は「号外」を出したという。
 確かに、明るいニュースが少ない昨今、経済効果が「3兆円」というビッグ・イベントであるオリンピックが「7年後」にやってくるというニュースは、誰もが喜ぶべきことかも知れない。
 しかし、今回の「2020年東京オリンピック・決定」というニュースは、果たしてスポーツ界や経済界のように両手をあげて喜ぶべきことであるのか、いささかというより大いに疑問がある。
 それは、先にも(3)で書いたように、フクシマとの関係で、今回アルゼンチン・ブエノスアイレスで招致委員会や安倍首相が言ったように、東京は本当に「安全」なのか、フクシマの汚染水は100パーセント海への流出は遮断されているのか、廃炉に向けた作業は順調に進むのか、事故を起こした原子炉の再臨界(再爆発)は本当にないのか、これまでの政府(経済産業省や原子力規制委員会を含めたかつての原子力ムラに巣くう学者や官僚たち)及び東電の「後出しジャンケン」のような問題発生に関する発表を見ていると、にわかには「信じられない」。高濃度汚染水の「漏れ」の発表が象徴しているが、「情報操作」のにおいがしてならないのである
 ブエノスアイレスで安倍首相は、汚染水の海への流出は原発港内の0.3平方キロメートルに限定されていると断言していたが、海(海底)の放射能汚染は、事故当時からのものを含めて、広範囲に広がっていて、福島県や茨城県の漁師たちが操業できずに困っている事実に対して(とうことは、東京で生活する人は福島産や茨城産の魚類は食せないということであって、福島の漁民が竹田招致委員長の「東京は安全だ」発言に、「福島県差別だ」と怒っていたという報道に、まさにその通りだと思った)、招致委員会や安倍首相は、どう思っているのだろうか。「復興」をオリンピック招致の目玉にしていたはずなのに、フクシマは2020年までに「復興」しているとでも言うのだろうか。東日本大震災で大きな被害を受けた岩手県や宮城県(他に福島県、茨城県等)なども、それまでには「復興」が実現しているということか
 取り沙汰されている「アベノミクス」が大企業中心の経済再生計画であり、一部を除いて中小企業はどんな経済的効果も得られていないことを考えると、「2020年東京オリンピック」も、フクシマや東北を置き去りにして、「首都・東京」とその周辺だけが潤う、いびつな経済効果をもたらすのではないか、とも思われる。
 そして何よりもフクシマとの関係で懸念されるのは、「世界が東京の安全を認めた」(日本の原発の安全を世界が認めた)ということで、フクシマが収束していないにもかかわらず、原発の再稼働や原発輸出が加速されるのではないか、ということである
 スポーツが「健康」(心身の)と関係あるとすれば、原発の存在(フクシマの事実)は、まさに「核」の存在によって「生命」が脅かされる事実を僕らに突きつけるものである。
 その本質がどこかに置き忘れられたような今回の「2020年東京オリンピック」・決定」のニュース,7年後と言えば、僕も70代半ば、果たしてゆったりした気持ちで各競技を見ていられるだろうか
 

新々・武漢便り(3)――東京オリンピックとフクシマの汚染水問題

2013-09-05 12:41:33 | 仕事
 「スポーツの世界的祭典」と言われるオリンピックが、「スポーツ」の名を冠しているが、その内実は「スポーツ」からほど遠い「政治」や「経済」の問題であることは、何十億円ものお金を掛けて行われる「オリンピック招致活動」一つとってみても明らかであるが、あと3日で2020年の開催国が決まるという現在にあって、しかも「オリンピック招致狂想曲」からほど遠い武漢から、ネット情報やテレビのワイドショウ(何と、昨日、学生から武漢でも日本のテレビがほとんど見られるということを聞いて、試みたところ、BSを含めて12チャンネルのテレビが見られることが分かった。PC事情に疎い僕としては、青天の霹靂に近い驚きである)から得た情報を頼りに、あの「転向者」猪瀬東京都知事が、例の斜に構えたポーズで、明らかに「無理をしている」と思われる態度で、「可能性は80パーセント」などと言うのを見ていると、何とも複雑な気持ちにさせられる。
 というのも、以前、石原慎太郎が東京都知事時代に「2016年東京オリンピック」と言い出したときも、日本の経済・社会が疲弊しているときに、いくらオリンピックの経済効果が望めるかと言って、自殺者が毎年3万人を超える社会の現状を全く鑑みることなく、己の欲望(有名であり続けたい)を満たすためだけの「2016年オリンピック招致」なのではないか、と違和感を抱いたものだが、それが失敗する(何十億円もの招致費用が無駄になった)と、性懲りもなく「2020年招致」を言い出し、しかも「フクシマの復興」と抱き合わせにしたその破廉恥さにあきれるしかなかったのだが、やはりというか、当たり前だが、今回の「2020年招致」に関して、「フクシマの汚染水問題」がクローズアップされた。
 政権(政治)が躍起となって、あたかもフクシマが「収束」したかのように振る舞っている(世界に向けてアピールしている。その典型が安倍政権による「原発輸出」の動きだろう)が、「核」の問題に敏感な世界は、フクシマが依然として「収束」しておらず、高濃度の「放射能汚染水」がだだ漏れして、その一部が海に流れ出している現実に対して、「厳しい目」で見ていることについて、鈍感である
 その鈍感さは竹田オリンピック招致委員長の「東京は安全である」という言い方によく表れている。「収束」していないフクシマの原発が、「内部」の点検さえできない現状に置いて、いつ再臨界を起こして、高濃度の放射能をまき散らすか分からない状態にあり、もしそのような状態になったら「東京は安全」などと言ってられないことを、竹田氏は全く分かっていない。世界のメディアが「フクシマの汚染水問題は大丈夫か」と質問を集中したというが、「権力」に弱い国内のマスコミと違って、率直にもの申す海外メディアがフクシマの現状を放置して「安全だ、安全だ、」と連呼する日本の招致委員会の言い分に納得しないのは、当然である。 そもそも、「東京オリンピック」はフクシマや東日本大震災の「復興」に役立つという論理が、怪しい。確かに一部のゼネコンなどは「経済効果」を当てにできるかも知れないが、震災(フクシマ)から2年半、フクシマは元より、東北地方の「復興」はまだしも、という状態である。素朴な感情で言うならば、オリンピック招致運動に何十億円もの大金を使うのであれば、そのお金を「復興資金」として寄付し、また人材を派遣する方が、どれだけましか。
 「狂想曲」はまっぴらである

新々・武漢便り(2)――卒業生と会う

2013-09-04 07:01:53 | 仕事
 昨日(3日)の朝、今年の6月に卒業した教え子から「会いたいが、都合はどうか」と電話があり、夕方7時に食事をすることになった。武漢に来た当初事情が分からず、紹介されるままに何度か買い物に行った「高級デパート」の前で待ち合わせすることにしたが、時間通りに4ヶ月前とほとんど変わらぬ姿で、2人(途中で学部時代からの同級生を誘ったとのことで)やって来た。
 一人は、日系の銀行に、もう一人は学生たちが「三流大学」と言う「民営・私立大学」――中国では高度経済成長に伴う大学進学率の上昇に、旧設の国立大学や省立大学(共に、一流、二流大学ということになる)では学生たちを吸収できず、各地の一流大学(国家重点大学、例えば、武漢では武漢大学とか華中科学技術大学など)が系列大学を設立し、教師を派遣したり、経営にあたる。それを「民営大学」と言ったり「私立大学」と言ったりする――の日本語教師に就職した者で、さっそく中国で全国展開している「九州ラーメン(豚骨味ラーメン)」の店「味千ラーメン」で夕食を摂りながら、同級生たちのその後について聞いた。
 僕が直接関わった卒業生13名の内、希望していた日本語教師に就職した者8名(うち、一人は来年4月に国費留学生として日本へ行く予定)、日系企業3名(三菱銀行、ユニクロ、イーオン)、中国企業2名(銀行、流通業)、とのこと。日本語科に学び、日本文学や日本文化で修論を書きながら日本語教師にならなかった者の内2名も、実は当初日本語教師に決まりながら、家庭の事情や自分の性格を鑑みて、企業に就職を決めたということがあり、最近の中国の大学教師募集では「博士号を持っている者」という条件が付けられていることを考えると、「三流大学」とは言え、修士号だけで半数以上の卒業生が日本語教師になれたというのは、なかなかの出来映えということになる。
 僕の勤める華中師範大学外国語学院日本語科(大学院)では、積極的に「日本への留学」を進めていて、これから(10月以降)の予定を含めると、新潟大学に8名、長崎純心女子大学に1名、大阪大学に3名、東京学芸大に4名、計16名が留学することになり、大学院生は新入生を含めて52名(留学する学年である2,3年生は35名)だから、全体の3分の1弱、2,3年生に至っては半数近くが留学するということになる。ただ、日本文学の「研究」「講義」ということになると、正直言って留学中のブランクが気になるが、昨年の途中から、日本留学中に修論のための資料をできるだけ集めるように、指示を出すことにしているが、真面目に資料集めする者と「いい加減」な者がいて、帰国してから反省しきる、という者もいる。
 日本文学で修論を書くにしろ、また日本文化で書くにしろ、僕の知る限り、中国の大学(図書館)に十分な資料(先行研究)はなく、また中国側の論文も、その多くは修士論文(修士論文は、そのほとんどがネット上にアップされている)で、博士論文が少々、研究者(大学教師)の論文となると、本の数える程度しかなく、そのため華中師範大学以外の修士論文のいくつかを見たのだが、近代文学の修士論文に「作家論」はほとんどなく、その大部分が「作品論」、それもせいぜい50枚(2万字)程度で、日本で言えば私立大学における学部の卒論と同程度のものである。
 当局(中国政府及び省政府の教育部)は「業績を上げる」ということで、毎年教師たちの「業績審査」をしているようだが、日本語科の教師の中で「現役」の研究者として研究を続けている(論文を書いている)者は少ないようで、ちらっと「業績審査」の一覧を見た限りでは、この5年間で論文を1本も発表していない教師がかなりの数存在するようである。
 自分が論文を書かずに学生の指導はできない、というのが僕の持論だが、「学生の書いた論文」からも何らかの刺激を受けるというフレキシブルな感性を持ち続けない限り、十分な修論指導はできないのではないか、ということを改めて思った。
 そんなことを思ったのも、昨日会った卒業生たちが、それぞれ「坂口安吾の女性像」(12万字)、「宮地嘉六の労働者像」(9万字)の堂々たる修論を書いたことを思い出したからである。彼女たちの悪戦苦闘は、僕の1年間に及ぶ武漢での生活と重なるのだが、来週からまた新たな1年間が始まると思うと、卒業生たちと会ったことはいいことだったな、と思った。
 彼女らと食べた「味千ラーメン」、日本的な味で、なかなかおいしかった。一緒に食べた「いかのリング揚げ」も、海の幸に縁遠い武漢では珍しく、また懐かしく味あうことができた。