黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

8月も終わり……、いざ秋の陣へ

2007-08-31 09:20:04 | 仕事
 今日で8月も終わる。明日からは筑波大学は2学期が始まる。また、「研究」と「教育」の生活に突入することになるが、意識の中では「切れ目」がなく、夏から9月へダラダラと続く感じがする。
 そんなことを昨夜から今朝にかけて考えていたのだが、それではまずいと思い、文章に書く(公にする)ということで、「切れ目」を入れることを考えた。
 今現在分かっている仕事は次の通り。
9月:15日までに懸案の「さいころの空」(野間宏)論を30枚。
   月末までに「村上春樹論」と「大江健三郎論」の中国語訳用に「中国人の読   者へ」といった内容の「序」を書く。
  *月末に『村上春樹―「喪失」の物語から「転換」の物語へ』(294ページ   勉誠出版)を刊行。
10月~:今決まっているのは、半年ぐらいをかけて「村上龍論」を1冊分(だい   たい400~450枚)書く。読み直さなければならない本があといくつか   あるので、ちょっと忙しい。
   もう一つ、「少年倶楽部」の「総目次」が刊行されるに当たって、「解説」   を依頼されているが、それがいつになるか?
10月か11月:昨年「全集」を出した小檜山博が北海道文化功労賞を受賞するこ   とが決まったので、その文学について書くことを要請されている。
 あとは全く不明だが、僕のような仕事は、いつ「依頼」が来るか分からない。先に単行本にまとめた『魂の救済を求めて』(佼正出版社)の続編として「大法輪」に執筆を約束している「生きる原理を求めて」(仮題)の断続連載もそろそろ始めなければ、と思っている。他に、先日電話があって、2年ほど前に企画された俵万智のエッセイ集や対談集をまとめる仕事が「復活」したので、相談したいと言ってきた。結果はどうなるか分からないが、自分の仕事の範囲を広げるためにはいいことなのではないか、と思っている。
 このように書くと、やはり「忙しさ」は秋になっても解消されないのではないか、と思わざるを得ない。そうなると長短7編の原稿を書いた「夏休み」は、つかの間の休息だったと思うより仕方がないのかも知れない。
 しかし、恩師の小田切秀雄がそうであったように、文学の徒としては「前のめり」で日々を過ごすしか今後の生き方はないのかも知れない。それで倒れれば本望、ということになればいいのだが……。

ネット時代の文学(軽薄短小?)

2007-08-30 09:48:11 | 文学
 先日、あるところで「黒古さんはケータイ小説についてどう思いますか」と聞かれた。それまでにも、新聞や雑誌の広告でよく目にしていた「ケータイ小説」については、書店に行ったときなどパラパラとめくってみていたのだが、正直言って「へえー、これがケータイ小説か。本当にこれを小説と言っていいのだろうか」というような感想しか持っていなかった。
 そこで、遅ればせながらちゃんと読んでみた(と言っても、購入する気持ちが希薄だったので、書店には申し訳ないが「立ち読み」させてもらい、結局「購入するに値しない」と判断した)。結論的には、以前に思っていた「これが小説か?」という疑問を覆すような要素は何ら見つけることができず、「身辺雑記」(しかも、恋愛体験を綴ったものが圧倒的であった)としか言いようがないのではないか、という感想を持った。「ニューウエーブ」でも、新機軸でもなく、よしもとばななの初期作品を大量の水で薄めたようなもので、これではまったく「ポスト・モダン小説」などとは呼べない、と思った。
 こんなことを書くと、誰かに「だから、年寄りはダメなんだ」と言われそうであるが、僕は「文学の役割」というものは、大江健三郎が「歴史的存在である人間の、過去と未来を含みこんだ同時代と、そこに生きる人間のモデルをつくり出すこと」、つまり社会や世界の在りようと文学は深い関係がある、といったことより他にない、と思っているので、そのことに照らし合わせると「ケータイ小説」は、社会や世界と全く無関係であるという点において、「文学=小説」とは認めがたいのである。もちろん、「文学の役割」の一部分として、「娯楽=エンターテイメント」的要素があるということを認めつつ、やはり「ケータイ小説」はサブ・カルチャーとしての運命を辿るのではないか、と確信したのである。通勤・通学の途中で「気軽に」読めることが第一の要件である「ケータイ小説」、それはまさにネット時代の「暇つぶし」を象徴するものなのではないか、と思った。
 そのことを確信したのは、このブログをよく読んでいる人はお気づきかなと思うのだが、「コメント」欄に「abc」さんという人が何回かコメントを寄せてくれていて、そのうちの大部分は「小説を書いているのだが、読んで欲しい。ついてはメールで送るから読んで感想を」というものであった。僕は、ネット上で読むのはページを戻ったりする煩わしさのことを考えて、「プリントアウトしたものを送って欲しい。住所、等は文芸年鑑などの著作者名鑑を調べれば分かる」と返信したところ、作家希望者は貧乏だから、批評家の黒古がそれらのことは全部負担すべきだ、というような乱暴きわまりない返事をいただきたということがあったのだが、この「小事件」なども「ケータイ小説」の流行と根っこのところで繋がっているのではないか、と思わざるを得ない。
 総体的には、「想像力の欠如」=他者への無関心=「ジコチュウ」という現代社会の「病」に多くの人が冒されている、としか考えられない。そんな状況下で「文学」に関わり続けることの意味は何か、自問自答の日々が絶えることはない。
 というような「不満」だらけの日々、トルコからのメールで「文部科学省の国費留学生試験に受かったので、黒古のところで「原爆文学」の研究をしたい」と女子学生から連絡があった。日本でさえ「原爆文学」などは若い人に敬遠されがちなのに、トルコの学生が何故、と思わないわけにはいかない。来年の4月に来日するという、楽しみである。

「美しい国」とは何か

2007-08-28 05:34:01 | 近況
 参議院選挙の敗北を「反省」することから出発するはずだった第二次安倍内閣、新たに組閣された顔ぶれを見て最初に思ったのは、「何じゃ、こりゃ」であった。それに輪をかけたのが安倍首相の改造内閣に関する記者会見での発言、国民は彼が唱える空疎な「美しい国」構想に「ノン」を突きつけたのに、そのことに全く気が付かず(あるいは気が付いていながら、他に適切なスローガンがないから、古証文をまた使ったということなのかも知れないが)、またぞろ「美しい国造り」とか「改革路線の堅持」などということを声高に主張していた。
 本当にこの人は感度が鈍いとしか言いようがない。「美しい国」とは具体的には何か、「戦後レジームからの脱却」とは具体的に何を意味しているのか、安倍首相はこれらのことに何ら答えることなく「スローガン」だけを連呼するという醜態を去れけ出しながら、恬として恥じない。「美しい国造り」「戦後レジームからの脱却」を目指して突進した前国会で彼がやった「教育改革」「憲法改正への手続き」などは、明らかに国家主義的な色彩の濃い「戦前体制」へのノスタルジアを裡に秘めた、「自由」や「平等」といった基本的人権の根幹を制限する思想に裏打ちされたものであった。わかりやすくいえば、憲法第9条の制約を外して「戦争のできる国」を目指しているのが安倍内閣だということである。そして、最も怖いことは、そのような戦前回帰を戦後生まれの首相が行おうとしていることであり、自民党の面々(それに公明党の人たち)がそのことに同意しているように見えることである。何で安倍さんはそんなに「戦争好き」なのか?
 そう言えば、今度厚生労働大臣になった団塊の世代=全共闘世代に属する舛添要一が、先の参議院選挙中に「北朝鮮から飛んでくる核ミサイルに対抗するためには、憲法改正が必要です」と大声で叫んでいる姿がテレビで報道されていたが、欧米の恐怖を煽って勝算のない太平洋戦争につっこんでいった戦前の大政翼賛的政治世界を彷彿とさせ、安倍さんの「美しい国造り」と重なり、何だかとんでもない時代を迎えたと思ったものである。今「戦争好き」を表明することは、ニヒリズム(虚無主義)に冒された思考である。舛添も安倍も、みな戦後生まれのエリート(お坊ちゃん)である。彼らにこの国の将来を託していいのか、我々はよく考えなければならない。
 「改革路線」だって同じである。テレビで報道されているように今年の10月から郵便局が完全に民営化される。小泉前首相は、この「郵政民営化」一本で衆議院を解散し、選挙で圧倒的な勝利を収めた。国民は「郵政民営化」という「改革」は良いことだらけだ、と思っって自民・公明党に賛成票を投じたのだろうが、田舎暮らしをしている僕にしてみれば「郵政民営化」ほど国民の現実から遊離した「利権」追求の改革(改悪)はなかったのではないか、と実感している。今まですぐ近くにあった集配局は統合されて15キロも遠くなった本局に移ったし、それに伴って土日の速達受付や速達・書留の配達もなくなった(完全に以前の集配局は単に郵便窓口を持つ郵便局に縮小されたということである)。仕事柄、土日の速達受付や郵便物の受け取りがなくなるということは、大いなる「不便」を託つことになる。
だから、安倍さんがどんな「改革」をやろうとしているのか分からないが(たぶん、教育改革(改悪)や憲法改正なのだろうが、このような一国の根幹に関わる事柄を「郵政改革」などと一緒にされてはたまらない。このような「詐術」が本人の自覚なしに行われていることが、安倍内閣の危険なところなのである)、「改革」という美名に私たちは騙されてはならない。
 とは言いながら、頭の中を覆い尽くしているこの「ブルー」感は何なのか? その根本にあるのは、「反省」という言葉の中身が問われることなく、今度の改造人事でその「反省」が終了したと本人が思いこんでいるのではないか、という危惧である。何も変わらないのではないか、という無力感、と言い換えていいかもしれない。本当に嫌な時代である。

読売新聞の「コラム」

2007-08-25 06:29:53 | 文学
 読売新聞東京本社発行の25日の「夕刊」に以下のような僕の文章が掲載される。東京を始めとする大都会に住んでいる人は知らないかも知れないが、今は経費の問題からなのか、「夕刊配達区域外」という新聞の夕刊を購読しようと思っても、配達してもらえない区域が全国にはたくさんある(むしろ、夕刊を配達してもらえる地域の方が圧倒的に少ない)ことを考慮し、また読売新聞だけでなく、東京本社や大阪本社、中部(名古屋)本社、などの「本社」制度を取っている新聞社が多く、東京本社の記事が全て全国で読まれるかというと、そうではない場合が多いことを考え、僕の記事をコピーする。
 それにしても、発行部数世界一(約1000万部)の読売新聞に掲載された「原爆文学」の記事、読者はどのように受け止めてくれるか。少しでも「核廃絶」へ向けて役に立てれば、と思う。

「核との不協和貫く林京子」(読売新聞8月25日夕刊「コラム招待席」)
                             黒古一夫

 今年も「ヒロシマ・ナガサキ」の原水禁運動(平和祈念)に始まった「暑い夏」が、八月一五日の「敗戦記念日」で幕を閉じた。例年この「暑い夏」については、何となく横目で見ながら過ごしてきたのだが、今年はその直前に親しかった小田実さんが亡くなり、また長崎での被爆体験を軸に優れた作品を書いてきた林京子についてまとめた『林京子論―「ナガサキ」・上海・アメリカ』(二四〇〇円+税 日本図書センター刊)を上梓したということもあって、いつもとは違う忙しい「暑い夏」だった。
 特に、拙著の刊行と久間前防衛大臣の「アメリカの原爆投下は、しょうがなかった」発言とが、ほぼ同時期だったということもあって、「ヒロシマ・ナガサキ」の惨劇体験を基に現在まで書き継がれてきた「原爆(核)文学」について、いろいろと発言することが多かった。
 そもそも一九四五年八月六日・九日に出現したこの世の地獄「ヒロシマ・ナガサキ」は、決して「仕方のない」出来事などではなく、人間存在の現在と未来に関わる重大な問題を内包した、二度とこの地上に出現してはならない惨劇であった。だからこそ、この六二年間、連綿と原爆文学は書き継がれてきたのである。
 その意味で、原民喜が『夏の花』(四七年)で、大田洋子が『屍の街』(四八年)で、「このことは書き残さなければならない」と記したのも、「ヒロシマ・ナガサキ」が人類と地球の現在と未来に対する「(滅亡の)予言」を孕むものであることを、作家の直感で感受したからに他ならなかった。
 それ故に、そのような原爆文学は被爆体験を持たない作家たちによっても書かれてきた。井上光晴の『地の群れ』(六三年)、井伏鱒二の『黒い雨』(六五年)、小田実の『HIROSHIMA』(八一年)、大江健三郎の『治療塔』(九〇年)、井上ひさしの『父と暮らせば』(九八年)、等々、「ヒロシマ・ナガサキ」を原点としながら、「原爆=核」と人間との関係を根源から問う作品が次々と書かれてきたのである。
 そんな原爆文学の歴史にあって、『祭りの場』(七五年)から今日まで一貫して「被爆者の現在」を描き続けてきた林京子の作品は、「核」の存在がいかに人間と共存できないかを証する文学として、多くの人に是非とも読んでもらいたい、と思っている。

 19字×50行(約2枚半)という短い文章なので、十分に書ききれなかった部分もあるが、記者によると「原爆」や「核」についての記事の少ない読売新聞で「原爆文学」について書くというのは珍しい、とのこと。僕としては正直言って拙著「林京子論」の宣伝も兼ねてという思いもあったので、上記のような文章を掲載した読売新聞文化部に敬意を表しておきたい。

「核」の容認、許せるか?

2007-08-24 09:23:56 | 文学
 「外交」という名の経済進出のお先棒を担ぐ安倍首相のインド、インドネシア、等への外遊中の発言で、ああこの人はダメだ、と思ったのは、アメリカとインドの核(開発)協定に対して、「核廃絶」の立場から毅然として反対を唱えるのではなく、靖国神社参拝問題と同じように、明確に「意思表示」しないという態度に終始したことを知ったからである。
 御手洗経団連会長以下250人もの経済界の連中を引き連れての「外遊」、そこにおける核保有国インドに対する「核」問題に対する曖昧な表現、この人の顔はどこを向いているのか、全く理解できない。こういうのを税金の無駄遣いと言うのだろうが、「核」に対して毅然たる態度を取れない歴代保守政権の最高権力者たち。ここからは、アメリカ追随志向一辺倒でこの62年間過ごしてきた日本の戦後社会の在り方が問われてしかるべきである。
 その意味では、「作らない・持たない・持ち込ませない」の非核三原則のうち「持ち込ませない」が形骸化し、実際には沖縄を始め、横須賀・佐世保などのアメリカ軍艦船に核兵器が搭載されているのは今や常識になっているが、安倍首相は経済効果が大きい「軍需産業」と同等と見られている「原子力産業」(=具体的には核兵器を開発して日本を核武装科する)の振興を目論む経済界の思惑通りに発言・行動している、と考えられる。
 人も同植物も、核兵器が一発爆発すれば、この地上の存在が何もかも破壊される「核」に対して毅然とした態度が取れないが、「美しい国」建設などと、それこそよく言うよ、である。自分の思想(考え方)の矛盾に気が付かないのだろうか。たぶん、そんな「アホ」ではないだろうから、矛盾に気が付きながらも美辞麗句で本音(核武装論)を述べたのが、今回のインドでの曖昧な発言で、インドと日本の国民並びに全世界のこの地球の破壊を許さない人々の願いを欺くものであったといわねばならない。本当に度し難いお坊ちゃんである。
 だからこそ、A級戦犯であった祖父たちを「擁護」したとされるパル判事の息子のところへ行って、ゴマをするパフォーマンスを平気で行って恬として恥じないのだろう。パル判事が南京大虐殺や戦争中の日本軍の蛮行を認めていなかったということなどは、きれいさっぱり忘れて、「日本国民はパル判事を尊敬している」などと言ってしまう無神経さ(というか、政治的配慮)には、怒るというより、あきれてものが言えない。
 その意味で大切なのは、今回のインド訪問時における安倍首相の発言の深意は何か、想像力を働かせることに他ならない。そのような想像力を日常的に働かせることによってしか、また現代文学を批評するエネルギーも生まれてこないのだと思う。本当に腹が立った。

「晩年」(立松和平)について

2007-08-22 09:00:32 | 文学
 立松和平の久し振りの短編集(連作集)「晩年」(6月6日刊 2600円 370ページ 人文書院)を読み直す。「三田文学」(季刊)に頼まれて、6枚という書評にしては長めの批評を書くために読み直したのである。 
 立松が、ずっと以前から「三田文学」に連載していたことは知っていたが、まとまった形で読み直すと、雑誌の連載時とは違った趣があり、作者の考えが寄り鮮明に出ているように感じられた。単行本のタイトル「晩年」は、雑誌連載中の「晩年まで」から取ったのだと知れるが、それよりも今年の12月で還暦(60歳)を迎える立松の「死」や「死者」に対する考えが、この短編集にはよく現れていると言っていいだろう。
 僕の批評は「三田文学」で読んでいただくとして、60歳ともなると、親の死はもちろん、世話になった人や友人・知人の死を度々経験しなければならない。それが人間の運命だと言ってしまえばそれまでであるが、人の「死」や死者に対してどのように振る舞うか、どのような考えを持たなければならないか、若いときはそのようなことについては全く気にならなかったが、そんなに遠くないときにやってくるであろう「自分の死」との関係で安閑としていられないのが、我が世代ということになるのかも知れない。
 他者の心の中にどのくらい「記憶」として自分の死を残すことができるか。昨日(8月21日)の朝日新聞の文化欄に大江健三郎の「定義集」という連載コラムが掲載されていたが、その中で「記憶に残る人」の例として、先頃亡くなった小田実のことが書かれていた。小田さんも大江さんのことを生涯意識していたが(大江さんがノーベル文学賞を受賞したことが報じられたときに、小田さんの対応・狼狽ぶりは今でも鮮明に覚えている)、このコラムを読むと大江さんも小田さんのことを同世代の優れた表現者(作家・市民運動家)として、ずっと気にかけていたことが分かる。
 この大江さんと小田さんの関係は、戦後の文学史や作家たちの在り方を考えるときに、重い意味を持ってくるのではないかと思う。というのも、大江さんより1世代以上若い立松のことを考えると、「晩年」を読むとよく分かるのだが、同世代の文学者(との関係)について全く出てこないということがある。もちろん、「晩年」のモチーフが、「無名」の庶民の死について書く、ということにあって、文学仲間との交友を書く場所ではない、ということもあるだろう。しかし、立松の文章からどうせ大作家に関する部分がなくなってから久しい。昨年秋に北海道(札幌)在住の小檜山博の「全集」が刊行されたときに、彼のことを書いたぐらいではないか。中上健次が亡くなってからは、書くに値する同世代作家がいなくなったということなのかも知れないが、大江さんたちの世代と違って「孤立無援」な状態に置かれている立松たち(我々)の世代は、何故か悲しい。
 ただ、立松の「晩年」には文学世界の同世代は出てこないが、大学時代の友人たちや作家になってから知り合い、立松の今日を支え続けてくれた多くの友人・知人がたくさん出てくる。その意味では、「孤立」ではなく「共生」のただ中に生きている立松は、幸せなのかも知れない。
 「晩年」は、立松の人柄がもろに出ている、掛け値なしに面白い短編集であった。値段の割にボリュウム感があり、ご一読を勧める。

「出口のない海」・自爆攻撃

2007-08-20 06:14:57 | 近況
 山田洋次が脚本に参加しているということで、機会があればみたいと思っていた戦争映画「出口のない海」を昨夜、1日中庭の草取りをして疲れた体にむち打ちながら見た。
 映画の全体は、学徒動員を描いた他の戦争映画と同じように、「国家・家族のため」、「愛する人を残して」死地に赴く、というもので、その点では変わり映えのしないものであった。ただ1点、山田洋次が参加しただけの筋書きだなと思ったのは、主人公の死を、小田実流に言えば「難死」、つまり「無意味な死」「理不尽な死」として描き出していることであった。人間魚雷「回天」の乗組員となった主人公が、訓練を経て出撃したにもかかわらず「回天」の故障で戦果を挙げることができず、基地に帰って訓練に従っていた8月15日に、事故で海の藻屑となる、という結末、そこには「無意味な死」を強いられた学徒=青年たちへの「鎮魂」と共に、そのような死を強いた者たちへの「怒り」を感じ取ることができる。
 しかし、「国策」的な臭いのするこの種の映画を見ていつも思うのだが、死地に赴く若者たちを「美談」風に仕立てながら、何故このような無謀な攻撃を考案し、訓練を強制した者への「責任」を問うことを、この種の映画はしないのか。この映画でも、国家が存亡の危機にあると説き、必ず死ななければならない「人間魚雷」への搭乗を要請した指導者や、難しい「回天」の操縦を繰り返し訓練する教官たちが出てくるが、彼ら及び彼らの存在によって支えられた政治権力構造に対して「責任」を追求する姿勢を感じることができない。
 このような日本固有と言っていい「無責任」体制について批判したのは丸山真男であるが、いま大江健三郎や岩波書店を被告とする裁判になっている沖縄の「集団自決の強制」と同じように、暗黙の、しかしこれ以上の強制力がない方法で「自爆攻撃」である神風特攻隊や人間魚雷「回天」、あるいは米軍の本土上陸に備えて配備された海軍「震洋隊」を考案し実施を強いた者の誰かが、その「責任」をとっって何らかの行動を起こしたという話は、ついぞ聞いたことがない。「国のため」「家族のため」に犠牲になった若者たち、という「美談」は、今や靖国神社への首相や閣僚、あるいは超党派の国会議員たちの「公式参拝」の口実になっているものであるが、着々と「戦争のできる国」の体制を整備しつつある彼らは、もし仮に日本が再び「戦争」を行うようなことになれば、自分たちは安全地帯にいながら、繰り返し「回天」のような自爆攻撃を賞賛・強制するのではないだろうか。
 その意味で、僕らは現在アフガンやイラクで行われている自爆攻撃を批判できないのではないか、と思わざるを得ない。「聖戦」「自爆攻撃=特攻」という言葉自体、それは日本が最初に生み出したもので、何もイラクやアフガンの専売特許ではない。テレビなどに訳知り顔で、イラクやアフガンの自爆攻撃を批判するコメンテーターなどが登場するが、彼らには、日本が62年前にそのような「自爆攻撃」を若者に強いたことを知っているのか(考えたことがあるのか)、と言いたい。
 戦争はいつでも人々=庶民・民衆に「難死=無意味な死」を強いるものであること、このことを僕らは忘れてはならない。「美談」というものの危うさ、いい加減さを疑う、そこから僕らの思考を始めなければならない、それが昨夜「出口のない海」を見て、改めて考えたことである。

金融資本主義―野間宏の「さいころの空」

2007-08-18 06:10:38 | 文学
 この間、時間を見つけてはずっと野間宏の『さいころの空』(1958年)を読み直している。『経済・労働・格差』(仮題)という分かるようで分かりにくい単行本に収録される予定の論文を書くために、である。たぶん、僕に『野間宏―人と文学』という著書があるということから依頼が来たのだろうと推測しているが、前に読んだときはそうでもなかったのだが、今度単独でこの長編作品について書くために読み直しつつある現在、この長編は果たして「小説」として出来がいいのか悪いのか、そんなことをずっと考えている。
 どうも野間宏の表現方法(文章全体が何かの「比喩」になっているような、象徴主義的な表現)に対して、僕の想像力がついていかず、もっと直截的に対象に迫っていくような書き方をすれば、この3分の一の分量で済むのではないか、と思い続けている為に、小説を読む「楽しさ」をどこかに置き忘れてしまっているのかも知れない。
 そんな『さいころの空』再読なのであるが、それとは別に、この長編を読みながら、僕らが今生きているこの資本制社会が、この『さいころの空』で描かれているような株式・証券・商品取引といった、まさに「金融」資本主義と言うべきものを中核に成り立っている社会であることを改めて知り、愕然とせざるを得なかった。
折しも世界経済(為替相場)はアメリカの株暴落を受けて、ロンドン市場を始め日本、香港など軒並み暴落し、浮き足立っていると報じられた。元より「株」や「為替」の世界については全く関心も興味もない僕であるが、資本主義の原理である物作り=生産を中心とする「利潤追求」が、今やそれこそ「ヴァーチャル」としか言いようがない「株」や「証券」「為替」の取引(売買)、あるいは先物取引と言われる「商品」取引によってその根幹がしめられていることを知ると、世界経済をリードするアメリカ合衆国及び高度経済成長の真っ最中である中国が、なぜ「地球温暖化」問題などの環境問題に不熱心であるかが分かるような気がする。
 ひたすらバーチャルな「金融」取引によって「金儲け」を追求する人々にとって、「金儲け」の足を引っ張るような環境問題など基本的には議論する余地なく(そのことは、最大の環境破壊と言われる「戦争」をアメリカ主導の元、アフガンでイラクで、ソマリアで「多国籍軍」が行っていることから理解できるだろう)、そうであるが故に来年のサミット(北海道洞爺湖湖畔で開かれる)も、そこでは環境問題が議論されると鳴り物入りで報じられているが、あまりにも世界中から「先進国」の環境問題への取り組みが遅れていることを批判されていることに対して、アリバイを作ろうとする意図が見え見えで、「冗談じゃない」と言いたくなる。
 2,3年前まで「ホリエモン」とか「村上某」が時代の寵児ともてはやされていたことを思い出して欲しい。彼らは何を生産していたのか。譲歩か社会の波に乗って「情報」を操作し、莫大な利益を生み出しただけではないのか。
 彼らの存在と食糧自給率が40パーセントを割ったというニュースを、僕らはどのように有機的に考えればいいのか。それと、アメリカの石油資本の意のままになっている(と僕は思っている)アフガンやイラクの戦争とガソリンの高騰、「イラク特措法」延長を目論む日米の戦略でなければ幸いである(つまり、イラク特措法は日本の安定した石油輸入に貢献しているという論理)。
 そういう意味では、冷戦構造の中で考え出された「オルタナティヴ」(もう一つの生き方・選択)ということを、もう一度真剣に考えなければいけないのではないか、と猛暑にあえぎながらずっと考え続けている。今回は余り面白く感じられない「さいころの空」を読みながら、である。
 

戦争のことを話そう(2)

2007-08-16 05:57:27 | 近況
 昨日の「敗戦記念日」に関する報道の中心は、やはり「靖国神社」と「全国戦没者追悼会」であったが、不思議に思ったのは、靖国神社へお参りした国会議員や閣僚が「お国のために亡くなった人=兵士に哀悼の意を捧げたのだ」と言いながら、何故彼らは35万人の「無名兵士」が眠る千鳥ヶ淵霊園を訪れないのか、ということである。『林京子全集』の「解説」などで協力していただいた石川逸子さんの詩集に『千鳥ヶ淵に行きましたか』というのがありますが、沖縄で、太平洋の島々で、さらにはミャンマー(ビルマ)などの東南アジアで、未だ帰国を果たしていない無名兵士の「遺体(遺骨)」が115万もあるという現実に目をつぶって、A級戦犯を祀っている(と同時に、先のアジア・太平洋戦争を肯定している)靖国神社に参拝して、「戦死者に対して哀悼の意を捧げる」という大義名分を振りかざす政治家やその同調者たち、彼らはたぶん夫や息子を亡くした「遺族」の気持ちを政治的に利用しているだけなのだろう。
 だからその意味では、アメリカに同調して「戦争のできる国=美しい国」を目指す安倍首相が、戦没者追悼式で、「私たちは世界の恒久平和を願う」といった日本国憲法前文に似た言葉を連ねて戦没者を追悼しても、全くリアリティーに欠けるとしか言いようがない。この人の言語感覚・現実感覚は、本人がしゃかりきになればなるほど私たち庶民のそれと大きな「ズレ」を感じさせるが、大真面目な顔で「世界の恒久平和を願う」と式典で言ったときには、思わず笑ってしまった。同じことが、「靖国神社に参拝するかしないか、したかしなかったか、外交問題になっているので言わない」という言い方も、この人の政治的信念や思想はどうなっているのか、不信感を増長する何ものでもなく、参議院選挙で敗北したのも、この人のおかしな言語感覚に拠るところが大きかったことに対して、依然「無自覚」である、この悲惨、誰か「表現」指導をしてやればいいのに、と思わざるを得ない。
 そんな報道の最後にTBS・TVの「終戦特集」を見ていたら、先に記した115万の戦死者の多く(70パーセント以上)が、「餓死」による死であることを知って、愕然とせざるを得なかった。確かに、日本軍の「糧秣=食料」は現地調達主義だったから(中国大陸で「三光作戦」が行われたのも、この現地調達主義に起因する)、補給路が寸断された戦争末期にはパプア・ニューギニアや太平洋の島々で大変な「飢餓状態」になったということは、戦地での人肉食が描かれた大岡昇平の『野火』や堀田善衞の『橋上幻像』などである程度知っていたが、70パーセント以上が餓死による死であったというのは、衝撃であった。
 この事実は、「美しい国」幻想を根底から打ち砕く。僕らの現在の繁栄がその70パーセント以上の餓死による戦死者の上に成立したものであるとするならば、今一度僕らはこの「豊かさ」の本質を想像力によって点検しなくてはならないのではないか。この「内部」で消えることのない苛立ちやもやもやした感情がどこから来るものであるのか、この際だから今一度考えたいと思う(皆さんも考えてみてください)。
 僕の父親は戦争が終わって軍隊から帰ってきた。しかし、帰って来なかったK君やTさんの父親のことを思うと、本当に今こそ「若者を戦場に送るな」と叫ばなければならないのではないか、と思う。最後の戦争を知る世代として、それは責務と言っていいだろう。

戦争の話をしよう

2007-08-15 07:05:27 | 近況
 先日、拙著「林京子論」を読んだという葉書を小中学校の同級生(女子)からもらった。彼女とは、中学校以来ずっと「仲のいい友達」関係にあり、今でも時々連絡し合う仲である。彼女は、その葉書中で林京子さんが上海で育ったということに関連して、自分は旧満州の奉天で1945年8月17日(敗戦の2日後)に生まれ、生まれてすぐに日本に引き揚げてきた、現地召集された父親の顔は全く知らない、と書いていた。この彼女の境遇については、彼女と同じような経験を持つ者が同級生の中には何人かいて、そのことは同級生の誰もが知っていることであった。例えば、今でも仲の良い一人の同級生に1945年8月8日長春生まれというのがいる。もちろん父親の顔など知らない。生まれてすぐ侵攻してきたソ連軍から逃れるために、母親は二人の娘を両手に、生まれたばかりの彼を背負い、命からがら日本へ逃げ帰ったという。
 そんな同級生のいる教室で説かれた「戦後民主主義」、「平和」の大切さ、「生命」の尊さを強調するその授業が、いかに説得力あったか。家に帰れば、2度の招集を受け、2度目は茨城県の鹿島灘で「蛸壺」(敵の戦車を破壊するために、道路上に穴を掘り、兵隊が一人一人火薬を抱いて、戦車がその穴の上を通ったとき、自爆して破壊するための穴)を掘っていたという父親がいて、時々「戦友」と称する人たちが来て、軍隊や戦争の話をする。一歩外に出れば、近くに戦時中の軍需工場があったために占領軍(アメリカ兵)がジープに乗っている姿に接し、「ギブミーチョコレート」「ギブミーシガレット」と叫び、路上に放り投げられたそれらに群がる汚い僕らがいる、という風景みに出会う毎日。「戦争」に対して敏感にならざるを得ないのは、世代的な問題でもあるからと言えるだろう。
 そんな環境で育った僕らにとって、ベトナム反戦運動の時代に叫ばれた「殺すな!」は、まさに僕らの世代の論理と倫理を集約する言葉だったのである。「戦争
反対」は何の理屈でもなく、誰もが了解していたことであった。
 だから、「美しい国造り」をひっさげ、「戦争のできる国」を目指すという安倍内閣ができたとき、「このおっさん、何を言っているのか。いくらA級戦犯のじいさんを尊敬しているからといって、とんでもないアナクロニズムだ」と思ったものだが、案の定、生活感覚が全くない「お坊ちゃん首相」の率いる自民党は参議院選で惨敗した。「庶民(感覚)をなめたらいかんぜよ」と言いたいところだが、あんな厚顔無恥なお坊ちゃん首相はさておいて、僕ら日本人は先のアジア・太平洋戦争(さかのぼれば、明治以来のアジア侵略の度重なる戦争)において「加害者」であったことを、もう一度確認しておかなければならない。「ヒロシマ・ナガサキ」に象徴される「被害者としての日本」だけではなく、アジア・太平洋地区の人々に多大の犠牲と損害を与えたこと、このことは決して忘れてはならないのである。
 つまり、この先の戦争における「加害者」性を認識するところから、すべての戦争論は始まらなければならないということである。そのことを忘れると、小林よしのり(と彼のファン)のように、あるいは富岡幸一郎のように太平洋戦争を「自衛のための戦争」と位置付け、今日の保守主義者(戦争肯定者)を喜ばせることになるのである。
 今日は8月15日、62年前の今日も文献に拠れば、よく晴れていたという。今日一日、先の戦争のことはもちろん、今日のアフガン戦争・イラク戦争のこと、そしてまた(決して起こってはならない)未来の戦争のことについて考えてもいいのではないかと思う。
 畏友立松和平の近刊「晩年」(書評を「三田文学」から依頼されている)を読むと、立松の父親も中国で兵隊となり、敗戦によってシベリア送りになるところを脱走して帰国し、立松を生んだという。立松は団塊の世代の丁度真ん中、彼も僕らと同じような経験をして育っているのである。「晩年」(2600円 みすず書院刊)は本当によい本である。一読をおすすめする。