昨日、近所に住む退職してから百姓に復帰したおじさんから声をかけられ、野菜をもらいに行った。ほうれん草、白菜、大根、にんじん、ネギを、それこそ段ボール箱に入りきれないほど頂いてきたのだが、その時、ネギの出荷準備をしていたおじさんと少し話をした。
今はネギが高値で取引されているので、朝から晩まで毎日数十キロのネギを出荷するため、その準備作業に追われているということであったが、その作業を見ていて、おじさんも言っていたことだが、青い部分を3枚残し、太さもある一定の基準があるために、それ以外の部分を全部はぎ取り、また長さも決まっているので、おいしそうな青い部分を惜しげもなく切り落とさなければならない、というのは「おかしい」、と思わざるを得なかった。僕ら消費者の側からすれば、少し手間がかかるが、泥付きのネギの方が丸ごと味わえて歓迎したいのに、どこでどう誰が考えたのか、皮をむき、太さと長さもそろえないと「商品」として扱って貰えない、という不思議な現象(もちろん、泥付きのネギも八百屋さんでは売っているが、皮をむいた「白いネギ」の何分のいくつかの値段で売られ、余程でないと消費者が買わないという)、僕らの感覚がどこかでマヒしているのではないか、そのような感覚を育てたこの社会そのものも、深いところで「病」に冒されているのではないかと思わざるを得ない。
この「病」は、昨日逮捕された元防衛省事務次官夫婦が、出入りの業者から十数回のゴルフ旅行の接待を受けて、それをおかしいと感じなかったという感覚に通底しているのではないか、と思わざるを得ない。出入り業者からの接待というものが、「無償」などということは絶対になく、必ず「利権」がらみ、「利益供与」がらみであることを、何故理解できなかったのか。否、たぶんそのことは十分に承知していながら、権力の頂点に立つと「何でもできる」と錯覚してしまい、自分の立場も収入(給料)も国民の税金によって保証されていることを忘れてしまい、その結果平然と業者からの「接待=賄賂」を受けることを当たり前と思ってしまったのだろう。
このことは、安倍前首相がマスコミが騒ぎ立てた「国民的人気」を頼りに、ネオ・ファシスト(ネオ・ナショナリスト)の本領を発揮して、教育基本法を改悪し、憲法も改悪しようとしながら、そのような「過激」を好まない国民=庶民(タダの人)の反撃にあって、ついには政権を投げ出さざるを得なかった構図と、実は相似形であるということを僕らはよくよく認識しなければ行けないのではないか、と思う。「権力」というものの恐ろしさ、そのことへの畏れを持たない者は、本来「権力」を持ってはいけないのである。そのことを、みんな忘れている。
もう一つ防衛小問題に通底していると思われる話がある。2日前、久し振りに古くからの知り合いである県立図書館長(民間出身)と昼飯を食べながら話をしたのだが、彼は仕事柄よく講演を頼まれて図書館のことや本のこと、「情報」について話すことがあるのだが、先日ある私立大学の「情報」系の学生の前で「図書館と情報」という大で話をし、本を読むことの大切さを強調したが、全く反応が鈍かった、後で感想を聞くと「情報」系の学生なのに、全く本を読まない学生が多いとのこと、それらに彼はびっくりしていて、「黒古さんなど、大学でどうなの?」と聞いてきたのである。僕も「基本的には同じだよ」と答えたのだが、「情報」を技術の側面でしか考えていない人たちが急増しているのではないか、つまり「情報」を手に入れることには(技術的に)長けていても、「情報を読む」ことができない若者たち、彼らは「情報を読む」ことができないから、香川の事件や防衛省問題についても、「ふうん、自分には関係ないわ」と言って済ませてしまうのである。
「おかしい」ことを「おかしい」と感じる感受性が鈍くなっているのか、ともかく「怒り」を忘れた若者たち、これからこの国はどうなっていくのだろうか?
今はネギが高値で取引されているので、朝から晩まで毎日数十キロのネギを出荷するため、その準備作業に追われているということであったが、その作業を見ていて、おじさんも言っていたことだが、青い部分を3枚残し、太さもある一定の基準があるために、それ以外の部分を全部はぎ取り、また長さも決まっているので、おいしそうな青い部分を惜しげもなく切り落とさなければならない、というのは「おかしい」、と思わざるを得なかった。僕ら消費者の側からすれば、少し手間がかかるが、泥付きのネギの方が丸ごと味わえて歓迎したいのに、どこでどう誰が考えたのか、皮をむき、太さと長さもそろえないと「商品」として扱って貰えない、という不思議な現象(もちろん、泥付きのネギも八百屋さんでは売っているが、皮をむいた「白いネギ」の何分のいくつかの値段で売られ、余程でないと消費者が買わないという)、僕らの感覚がどこかでマヒしているのではないか、そのような感覚を育てたこの社会そのものも、深いところで「病」に冒されているのではないかと思わざるを得ない。
この「病」は、昨日逮捕された元防衛省事務次官夫婦が、出入りの業者から十数回のゴルフ旅行の接待を受けて、それをおかしいと感じなかったという感覚に通底しているのではないか、と思わざるを得ない。出入り業者からの接待というものが、「無償」などということは絶対になく、必ず「利権」がらみ、「利益供与」がらみであることを、何故理解できなかったのか。否、たぶんそのことは十分に承知していながら、権力の頂点に立つと「何でもできる」と錯覚してしまい、自分の立場も収入(給料)も国民の税金によって保証されていることを忘れてしまい、その結果平然と業者からの「接待=賄賂」を受けることを当たり前と思ってしまったのだろう。
このことは、安倍前首相がマスコミが騒ぎ立てた「国民的人気」を頼りに、ネオ・ファシスト(ネオ・ナショナリスト)の本領を発揮して、教育基本法を改悪し、憲法も改悪しようとしながら、そのような「過激」を好まない国民=庶民(タダの人)の反撃にあって、ついには政権を投げ出さざるを得なかった構図と、実は相似形であるということを僕らはよくよく認識しなければ行けないのではないか、と思う。「権力」というものの恐ろしさ、そのことへの畏れを持たない者は、本来「権力」を持ってはいけないのである。そのことを、みんな忘れている。
もう一つ防衛小問題に通底していると思われる話がある。2日前、久し振りに古くからの知り合いである県立図書館長(民間出身)と昼飯を食べながら話をしたのだが、彼は仕事柄よく講演を頼まれて図書館のことや本のこと、「情報」について話すことがあるのだが、先日ある私立大学の「情報」系の学生の前で「図書館と情報」という大で話をし、本を読むことの大切さを強調したが、全く反応が鈍かった、後で感想を聞くと「情報」系の学生なのに、全く本を読まない学生が多いとのこと、それらに彼はびっくりしていて、「黒古さんなど、大学でどうなの?」と聞いてきたのである。僕も「基本的には同じだよ」と答えたのだが、「情報」を技術の側面でしか考えていない人たちが急増しているのではないか、つまり「情報」を手に入れることには(技術的に)長けていても、「情報を読む」ことができない若者たち、彼らは「情報を読む」ことができないから、香川の事件や防衛省問題についても、「ふうん、自分には関係ないわ」と言って済ませてしまうのである。
「おかしい」ことを「おかしい」と感じる感受性が鈍くなっているのか、ともかく「怒り」を忘れた若者たち、これからこの国はどうなっていくのだろうか?