黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

「氷点」(三浦綾子作)について

2008-09-15 09:18:01 | 文学
 小谷野さんから、(たぶん、僕の著書『三浦綾子論ー「愛」と「生きること」の意味』<94年 小学館刊 今年中に80枚ほど増やした「増補版」が出ます>を意識しての質問だと思うのだが、『氷点』で主人公の「陽子」が物語の終盤になって「自分は犯罪者(殺人者)の娘である」と意識するようになったことに関して、「犯罪者の娘もまた犯罪者のごとくに想定する点で差別的な小説だと考えており、……いかがお考えか、お聞かせ下さい」との質問があった。
 そのことについてお答えしたい。僕は、三浦綾子の文学について考え続けてきた批評家の一人として(また、何度か直接お会いして彼女の人間観・文学観についてお話を伺う機会を持った人間として)、基本的に三浦綾子という作家は「差別意識を持たない作家」、あるいは「内なる差別意識を排除しようと努力してきた作家」と言えるのではないか、と思っています。その意味で『氷点』において『差別』を増長するような意図は全く三浦綾子の中にはなかった、と僕は思っています。ただ、小谷野さんが指摘するような意味での「差別」は、三浦綾子の「無意識部分」にはあったかも知れません。僕も含めて誰でも、「無意識」のうちに他者を「差別」することがあるからです。特にプロテスタントの熱心な信者であった三浦綾子の人間観の根底には、「性善説」があったと僕は見ており、殺人=悪、犯罪=悪と単純に見ていたのではないか、とも思っています。これが、小谷野さんのような考え方も「あり」かな、と思う理由です。
 ただし、僕自身は「陽子」が「人間の中には<氷点>がある」(要旨、つまり「犯罪者の娘もまた犯罪者である」という考え方を許す三浦綾子の思想)と言った意味は、小谷野さんがいうようなことではなく、自分が存在することによって自分を育ててくれた「辻口家」やその関係者に言うに言えぬ精神的負担をかけたことの全体=総体に対してであって、「犯罪者の娘もまた犯罪者」という考え方とは違うのではないか、と思っています。つまり、「人間の心の中には氷点がある」という考え方は、キリスト教で言う「原罪」から導き出されたもので、そうであるが故に『続氷点』において、実は「陽子」は犯罪者(殺人者)の娘ではなかったことが証されるようになったのだと思います。この『氷点』から『続氷点』へ移行する際の「差違」について、僕はやはり小谷野さんが言うような三浦綾子の「差別」意識(思想)に基づくものではないのではないか、と考えています。
 詳しくは、拙著を読んでいただくしかないのですが、これでいいでしょうか。
 なお、一つだけ訂正があります。それは僕の著書は昨年までで「21冊」(編著書・共著は別。因みに、自費出版は1冊もありません)、「10冊以上」(僕の解釈では12,3冊)ではありません。今年は、(僕の努力次第ですが)先の「増補版」も含めて3冊出る予定です。

(昨日のこの欄に「農水省」と書くべきところ年金のことを考えていたので「厚労省」と書くなど「重大な間違い」がいくつかありました。気が付いたところは訂正しておきました。読者の皆さん、ご了承下さい。)