黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

武漢便り(26)――武漢生活三ヶ月(まとめ)

2012-11-30 10:29:30 | 仕事
 明12月1日(土)、一時帰国する。
 また、来年三月武漢に戻ってくる予定だが、次に来るときのため、とりあえず「3ヶ月間」の武漢生活の総括をしてこの「便り」を終わりにしたい。恐らく、何年も中国で大学教師をしていた人から見れば、僕の「総括」など表面的なものと写るのではないかと思うが、とは言え「三ヶ月」という短い滞在だから見えてきた、ということもあるのではないかという思いもあり、一応いくつかの「項目」別に書いておく(偉そうに聞こえたら、ごめんなさい)。
 <学生(院生)>まず、第一印象は「まじめ」そのもの、というものであったが、三ヶ月経った今でもその「まじめさ」は変わっていないという印象を持っている。こちらの意図(考え方)を理解できず、頓珍漢な応対をする学生もいるが、与えた課題に対してはきちんと期日に提出する。欠席もほとんどなく、体調が悪く欠席する場合は必ず事前に電話で連絡してくる(中には、体調が悪いというのは「うそ」という場合もあるようだが、それは例外とだろうと思っている)。別なところ(図書新聞・海外短信欄)に詳しく書いたので、簡単に記すが、僕が働いている華中師範大学に入ってくる学生は、超一流とまではいかないが、地区では5本の指に入る難関校に入ってきた「エリート」で、そのこともあるのか、日本語科の大学院生たちは、まずは他の大学の日本語教師になりたい、という明確な目標を持って入学し学んでいるので、どんなことでも「日本人研究者」である僕から学びたい、という欲求をもって授業に臨んでいるのだろうと思っている。特に修士論文の執筆に取り組んでいる3年生は、少しでも「いい論文」を書こうと必死で、授業以外の時間に(きちんとアポをとって)質問にやってくる。このような姿は、日本の大学では久しく見られなくなった光景なのではないか。
 〈教師たち>2,3を除いて余り交流がなかったので、本当の姿がどんなものであるか、即断は危険だと思うが、「教育者(日本語の)」はいても、「研究者」は余りいないのではないか、という印象を持っている。日本(新潟大学)において中島敦で博士号を取得した主任(外国語学院副院長)の李俄憲教授だけが、「最近5年間の業績一覧」を垣間見たのだが、数多くの研究論文を発表し、学会報告をしていたが、そのほかの先生については、その「研究実績」に触れることはなかった。中国において、巷間ささやかれている、日本文学の翻訳者(多くが日本語科の教師)はごまんといるが、研究者は数えるほどだ、ということの現実を目の当たりにした、というのが実感である。ただ、先生たちも授業は熱心で、学生たちには厳しいようである。
 〈食事・料理>僕は、これまでにもアメリカやスロベニアでの生活、あるいは旅行に行ったヨーロッパ、アジア(インド・ネパール・タイ・ベトナム、など)でも、「食事・料理」に困ると言うことはなかったのだが、ここ武漢での食事に関して正直に言えば、その「辛さ」には閉口した。改めて僕が「辛さ」に弱いということを認識したのだが、宿舎で行う料理の食材にしても、野菜炒めをしようと買ってきたピーマンが激辛で料理全体が食べられなかった、ということもあった。最近は、「辛くない」野菜を選んで購入しているので、辛くて困ると言うことはないのだが、どうも中国の香辛料が僕に合わないようで、学食での食事にしても、なるべく「辛さ」と「匂い」の少ないものを選んでいる。そうすると、チャーハンにしても、うどん、ラーメンもおいしく食べられるのでいいのだが、料理の幅が少なく、いつも回転寿司でもいいからお寿司が食べたい、という思いがこの3ヶ月間消えなかった。
 <街>ともかく人が多く、大学近くの大通りが今年末に開通すると言う地下鉄に向けて突貫工事をしているので、歩道が狭くなっていて、そこに交通ルール(というのがあるのか疑問に思われるような乱暴な運転・逆走、歩行者の横断道路などを無視した大通りの横断、等々)を無視した車が割り込み、大変混雑している。また、街のいたるところで古い建物を壊して新しいマンションなどが建てられていて、「猥雑」という言葉がぴったりな感じである。ただし、街を歩く人々は、日中関係が「緊張」している今日にあっても、それは「政治=外交」の問題で、私たちは関係ない、とばかりに、日本語をしゃべっている僕の存在など全く無視しており、その点で「さわやか」である。キャンパスの中の学生も、しかりである。もちろん、これはあくまでも「表層」のことで、彼らの「本音」については分からない。
 というようなことを思いながら、三ヶ月ここ武漢で過してきたのだが、今は来年3月に再訪するのを楽しみにしている僕がいることを、この記事を書きながら感じている。
 長い間、「武漢便り」を呼んでくださって、ありがとう。
 また、会いましょう。
 再見。
 

武漢便り(25)―武漢生活三ヶ月(その2)

2012-11-28 09:33:32 | 仕事
 もうわずかで一時帰国すると思うと、早く帰国してお風呂に入りたい、回転寿司でもいいからお寿司を食べたいなどと思う一方で、何とも「名残惜しい」気持ちが日増しに強くなっていることを自覚し、これは何なのだ、と思ってしまう。
 たぶん、その理由の大半は、大学院で教えることが楽しい、ということにあるのではないかと思う。ともかく、他の大学(中国の)のことは知らないが、彼ら彼女らは(圧倒的に女子が多いのだが)基本的に「まじめ」で「素直」であり、こちらの言うことを必死に聞き、(授業評価をしてみたら、僕の話し方が「早口」で理解できない部分もあった、というのがあったが)何とか理解しようと努力しており、その様子はあたかも海綿に水が浸み込むような感じで、こちらとすれば「やりがい」を感じさせるものであった。僕は火曜日の午後2時から「オフィス・アワー」を設けて、院生たちの研究に関して「相談」に応じたのだが、院生たちは実にフランクに研究室を訪れ、自分が今考えていることについて質問してくれた。
 中国の大学(学部)における「日本語科」の講義は、当たり前のことだが、そのほとんどが「日本語能力向上」に当てられ、日本文学に関しては「文学史」を学ぶぐらいで、あとは「日本語表現」の例として名前の知られた川端康成や芥川龍之介などの作品の「一部分」を読むことしか経験しないまま卒業、そして大学院二進学、そこで初めて本格的に「日本近現代文学」の講義を受けた、といわけである(大学院で「日本文学通論」と「左翼文学史」「論文指導」を担当している主任の李俄憲教授に拠れば、大学院でも「日本文学」を本格的に教えている大学は少なく、華中師範大学は日本語科大学院は、その意味では「珍しい」のだという――中国における「日本文学」に関する僕の印象・見聞については、「図書新聞」の「海外短信・中国」に10回連載中なので、興味のある人はそちらを参照してください)。
 そのような実情にある院生たちは、したがって日常的な出来事を中心に綴る「作文」(ビジネス文や感想文・エッセイの類)についてはある程度書けるが、「論文」あるいはそれに準じる「レポート」の類は、ほとんど書いたことがなく、こちらか華中師範大学の日本語科では大学院に入っていきなり「レポート」を書かせられるので、正直言ってその「稚拙」振りが目立つ。それは3年生まで引きずっていて、中には感心する「論文」を書く院生もいるが、大半は「まだまだ」というのが実情である。ただ、修士論文に取り掛かっている3年生に論文の一部(1章分)を書かせたのだが、こちらがアドバイスすれば、確実に論文の内容がよくなり、その意味では「やりがい」のある教師稼業だと実感した。
 そんな教師稼業で日々を過してきたのだが、学生たちの案内で、部分的ではあるが武漢市内を歩き回り、高度経済成長下の中国を実感することができた。現在大学近くは、新しく地下鉄が通るということで、すさまじいばかりの工事が進行中(それに伴って、デパートなども改築中。大学近くの繁華街は、武漢大学、武漢理工大学などがあり「文教地区」でもあるのだが、地下鉄が完成すると新たな中心地になるのだという。地下鉄は12月末には完成予定ということで、来年3月に再訪したとき、街がどうなっているのか、楽しみでもある。
 武漢市民は、僕の知る限り「穏やか」で、一度だけタクシーの運転手に「日本人なら乗せるのではなかった」と言われたぐらいで、普通に「日本語」をしゃべっていても、なんら「危険」を感じることもなかった。たぶん、スーパーの卵売り場のおばさんが、「買い物にきてくれる日本人は皆いい人ばかりなのに、何で尖閣問題で争うのかね」(通訳)というのが中国人の「本音」で、「政府レベル」は別にして、「民間外交」というのは、そのようなところに本質があるのではないか、と思った。
 それは、秋ごろに、日本のマスコミが「鬼の首を取った」かのように報じた「北京の書店の店頭から村上春樹の策本をはじめ日本文学の本が消えた」という、僕に言わせれば「ためにする報道」としか思えない騒ぎに関して、こちら武漢の書店では僕の訪れた二つの大型書店の「外国文学」の棚には、日本の書店と同じように村上春樹をはじめ、中国でも人気があるという東野圭吾、宮部みゆきらのエンターテインメント系の差書きゃ大江健三郎、三島由紀夫、川端康成、等々、英文学よりも広いスペースを占めて書棚に並んでいた。その意味では、村上春樹が「北京の書店から日本文学作品が消えた」という報道を受けて、「朝日新聞」に「安酒の酔いに似て」というエッセイを書いたのは、いささか「勇み足」だったのではないか、もっと情報を精査してから書くべきだったのではないか、と思う。事情をいくらか知るこちらの教師たちは、「現実とは違うね」と言って苦笑していたが、このことでは改めて「情報」というものの恐ろしさを痛感した。
 だから、総じて言えば、武漢での三ヶ月、僕は「快適」とまでは言わないが、相当充実した時間を過したと思っている。ただ、読む本が十分にないこと、食事が限られること(外食すると、大方が「辛すぎる」ので食べるものが制限され、またスーパーの食材も「魚」は淡水魚がほとんどで、海の魚はほとんどなく、あっても新鮮そうには見えないので、どうしても購入を避けてしまう)、これには少々難儀した。再訪するときには、これらのことを考えないといけない、と強く今は思っている。

武漢便り(24)――武漢生活三ヶ月

2012-11-26 11:41:33 | 仕事
 いよいよ今月末で武漢での生活3ヶ月が終わる。12月のはじめには、日本に残してきたもろもろの仕事を片付けるために一時帰国する(2月の春節=中国のお正月が終わり、新学期が始まる3月にはまた武漢に戻ってくるが)。
 中国での生活(といっても広いので、ほんの一部である武漢の生活ということであるが)三ヶ月、どこの暮らしでもその土地で1年間過さなければ、何事も理解できず、コメントなど差し控えるべきなのであろうが、かつてアメリカ6日月、スロベニアで1ヶ月、武漢でと同じように大学教師の仕事をしてきた経験に照らして、「中国生活」で感じたこと、考えたことを少しだけ述べてみれば、まず武漢で生活を始めたころから「緊張」状態が厳しくなった日中関係を反映して、その只中で生活しているという意識が絶えず付きまとい、知らず知らずのうちに「緊張」の渦に捲き込まれ、そのような状況下で日本の「政治」や人々の在り方を考える、という癖が付いた、ということがある。
 具体的には、最近の「政局」や「領土問題」に関する論議などに象徴されているのだが、そのような議論や思考に対して、どうしても「島国的思考・対応」という印象をぬぐえない、ということである。それはまた、日本の「政治」が安倍自民党総裁の「選挙公約」や石原慎太郎・橋下徹の「日本維新の会」の「政策=公約」に見られるような「右傾化現象」に対する「鈍感」な反応、「迎合振り」に見られる。象徴的には、「憲法改正論」(「第9条」の平和条項の廃止、自衛隊の「国防軍」化、など)にそれは見ることができるし、何よりも「ヒロシマ・ナガサキ」、そして「フクシマ」を経験したはずの日本人が、石原慎太郎(「日本維新の会」)の「核武装論」に対して反撃(根底的な批判)を、何故行わないのか、そしてそのような「危険」な人物が党首を務める「日本維新の会」を何故支持するのか、僕には全く理解できない。
 海を隔てて、遠いところにいるからかな、とも思うのだが、広い中国で生活しつつ、朝食時などに中国で買った「中国全土地図」などを眺めてにいると、中国と日本は本当に近い距離にあり、この地域でもし「ドンパチ=戦争」が起こったら、それは大変なことになるのではないか、と本気で思ってしまう。そういう意味では、かつて日本帝国主義軍隊(皇軍)がアジア(中国)太平洋地域で行った「蛮行」について、南京大虐殺などなかった、従軍慰安婦などの証拠があるか、と「居直り」としか思えない発言をしている石原慎太郎はじめ河村名古屋市長、橋下大阪市長は、一度中国へ来て、そこから日本の現在を眺めてみればいいのではないか、と思う。こんなことを書くと、また何処かの誰かに「中国で洗脳されたのではないか」と言われそうだが、彼らは自分の考えがいかに「愚か」で、事実に基づかない「妄想」の類であるか、と理解すると思うのだが。でも、駄目か、こんなことを言っても彼らには「蛙の面に小便」だろうから。
 そして、もう一つ、特に気になって仕方がなかったのが、「フクシマ」の風化現象である。その未曾有の原発事故に対して、放射能の影響が直ちに出るものではないからと言って、「収束」したつもりになったら、チェルノブイリの事例を見れば分かるように、とんでもないことになると思うのだが、あれほど大声で叫んでいた「原発ゼロ」を日本維新の会が「公約」から取り下げたことに象徴されるように、どうやら「風化」が一挙に進んでいるように、ここ武漢からは見える。
 由々しきこと、と思いつつ、僕に何ができるのか、こちらで完成させた村上春樹(とその同類たち)の「反核」論批判と、故人となった吉本隆明(及び、その同調者たち)の「原発容認論」批判(あわせて400枚ほど)、何とか本にして、「フクシマ」の風化に「異後申し立て」をしたいと思っているのだが……。
 3ヶ月の武漢生活に対する「総括」は、また次に。

武漢便り(23)――「暴走」老人を増長させるのは、誰か?

2012-11-21 08:27:44 | 仕事
 やはり、というか、あるいは、何故この時期に、というか、頭がどうかしているんじゃないか、と思ったのは、昨日の外国特派員協会での石原慎太郎の「尖閣列島をめぐって緊張が続く日中関係を考えれば、今こそ核兵器保有の研究(シュミレーション)が必要」(核武装が必要だということ)の発言であった。
 かねてから、この欄でも石原慎太郎が「核武装論者」であることを批判してきたが、まさか実質的に衆院選が始まったこの時期に、いくら「右派」(日本維新の会を中心とした「第3極」)の総大将に祭り上げられて有頂天になったのかも知れないが、「フクシマ」も収束していないこの時点で、「ヒロシマ・ナガサキ」のことなど全くなかったかのごとく(元作家の「想像力」を働かせず)「(日本の)核武装論」=核抑止力論を説く、「偏狭なナショナリズム」に凝り固まった老人政治家の「暴走」が止まらない、と思ったのは僕だけだろうか。
 それにしても、この石原慎太郎の「核武装論」について、「権力」を手にするための方便だったとしても、一度は「原発ゼロ」を公約に掲げていた旧日本維新の会の代表・橋下徹大阪市長は、どう考えるのか。「僕も本当は石原氏と同じ考えだ」と言うのか、それとも「石原氏と違う考えを持っている」と言うのか、いずれ何らかの表明をするだろうが、先にも書いたように「権力亡者」の橋下徹のことだから、「権力」を握るためには、党是であった「原発ゼロ」の看板さえ下ろしてしまったことからも分かるように、「核武装論」であろうがなかろうが、なんでも許容するのではないだろうか。
 恐ろしいことだ,と思う。この「暴走老人」石原慎太郎の「暴言」は、東日本大震災が起こった際に「天罰だ」と嘯いたことと全く同じもので、最初の「核」被害者であるヒロシマ・ナガサキの犠牲者や被曝者、更に言えば「フクシマ」の被災者(避難民・被曝者)という「弱者」に対して一顧だにしない(想像力を全く働かせない)権力者の言に他ならない。
 しかし、何故このような「暴走老人」をこの国は生み出してしまったのだろうか。一義的には、石原慎太郎を国会に送り出し、また東京都知事に選んた選挙民(国民・都民)の責任であるが、それとは別に、今の日本社会が石原や橋下のような「ネオ・ナショナリスト」=「ネオ・ファシスト」を容認(歓迎)するようなものになっていること、それが一番の問題なのではないか、と思う。言い方を帰れば、高度経済成長期からバブル経済期を経て「お金が全て」という思想(金権主義)が「上」にも「下」にも浸透しきってしまい、「ヒューマニズム=人間(生命)尊重主義」がどこかに吹っ飛んでしまった結果なのではないか、と思えて仕方がない。
 それ故に、僕としては今こそ「ヒューマニズム」の復権を! と叫ぶしかないと思っているのだが、衆院選を控えて実施された各種の世論調査で「比例」では自民党を選ぶという有権者が一番多いことを知り、正直に言えば、絶望的な気持ちになっている。いくら民主党が「失政」を重ねたからと言って、「美しい国」など現実的には在り得ないのに、古臭い道徳心によって「美しい国」ができると思っている元首相の総裁が率いる自民党に「期待」するこの国の人々、それを「国民のバランス感覚」といってしまえばそれで済むかもしれないが、そんなバランス感覚を満悦している間に、石原や橋下といった「権力亡者=ネオ・ファシスト」が跋扈するようになってしまったら、どうしようもない社会になってしまうのではないか。
 ともあれ、石原慎太郎の「図に乗った」核武装論発言だけは、断固として許してはいけないという気持ちこそ大切、と僕は思っている。子供の、孫の「将来」を考えれば、「核廃絶」しか未来を保障する方法はないのではないか。
 最後に付け加えておきたいのは、最大の核保有国アメリカの大統領(オバマ)さえ、2年前にオタワで「核軍縮→核廃絶」が必要と言わざるを得ない状況に現在あるということ、それを考えれば、石原慎太郎の「核武装」発言は「時代錯誤」もはなはだしいと言わねばならない、ということである。

武漢便り(22)――「権力」亡者たちの狂想曲(2)

2012-11-17 10:11:47 | 仕事
 衆院解散を受けて、次の総、選挙(12月16日投票)で「第三極」としての位置を確保するために弱小政党の「連携・合併」を模索する(画策する)が加速している様子について、それはまるで「権力」を目指して群がる亡者たちの「狂想曲」だ、と昨日書いたばかりだが、昨夜から今日にかけて「太陽の党解党へ、維新に合流、「減税」とは破談」のニュースが踊っているのを見て、「政治」(理念)というものが、個々まで堕落したか、と驚かざるを得なかった。
 保守中の保守「たちあがれ日本」を改組して「太陽の党」が成立したのが4,5日前、その太陽の党と「減税日本」が「小異を棄て大同につく」ということで、「合流する」と石原慎太郎と河村たかしが記者会見したのが2日前、という状態の中で、急転直下(もちろん、橋下徹と石原慎太郎との間では「密約」めいたものがあっての結果だと思うが)、「太陽の党解党、維新へ合流」が現実のものになった。
 昨日も書いたが、憲法に対する考え方、TPPへの対応、原発問題に関しても、「日本維新の会」と「太陽の党」とでは、その政策(綱領的立場)が、基本的に異なる。にもかかわらず、「権力」に近づくために、「政策の違い」などかなぐり捨てて、「野合」としか思えない「解党―合流」を実現した石原氏太郎と橋下徹、この「ネオ・ファシスト」たちの考えることは、分かりすぎて笑ってしまうが、しかし、「太陽の党」党首石原慎太郎の都知事時代から続く「国民・都民」を愚弄し、「政治」を私物化したような振る舞い、誰か「阻止」する者はいないのか。
 批判勢力が衰退したとき(衰退させられたとき)、そこに現れるのは国民を「抑圧」するファシズムである。石原も橋下も、表面的には「きれいごと」を並べているが、本質的には「弱者切捨て」思想に凝り固まった「ネオ・ファシスト」としか言いようがない人物である。東京都知事選に、石原の尻馬に乗って出馬表明した猪瀬直樹も、全く同じ体質を持った人間のように、僕には思える。
 僕らは、彼らにこの国の将来を託すわけにはいかない。今こそ、ニヒリズムから脱却して、様々な方法で彼らに応接しなければならないのではないか。
 この「歯がゆい思い」は、どうしたら解消できるのだろうか。昨夜から今朝までずっとこのことを考えてきたのだが、この思いは外国(武漢)にいるから余計に強調されているのかもしれないとも思ったが、しかし、やはりそうではなく、これまでずっと「時代と文学(人間)との在り方」を考えてきたことの結果だと、これを書く前に納得することができた。
 それにしても、嫌な時代になりそうで、不気味な感じがする。

武漢便り(21)――「権力」亡者たちの狂想曲

2012-11-16 10:35:34 | 仕事
 あと何時間後(16日の午後)かに野田ドジョウ首相は衆議院を解散し、総選挙で国民の「信を問う」ということだが、ここ武漢から少ない情報ではあるが、それらを基に今回の「解散―総選挙」をめぐる各政党の動きを見ていると、まさに「権力亡者たち」の狂想曲としか思えない体たらくで、「国民不在」もここまでくると、もう一度原点(アジア太平洋戦争の敗北を受けて成立した「日本国憲法」の精神)に帰って「政治」とは何か、と考えなければならないのではないかと思わざるを得ない。
 そもそも、今から3年前「政権交代」が成って民主党政権になったとき、この政党が元自民党から元社会党までの「寄せ集め集団」であり、例えば改憲派から護憲派までを含む「危うい」政党であることは分かっていたが、政権交代時に掲げていたマニフェストを次々と破棄し(修正し)、ついにはマニフェストになかった「消費税増税」だけを実現した時、この政党が瓦解状態になることであろうことは、十分に予想できることであった。でも、これほどに「酷い」政党とは、誰もが思わなかったのではないか。
 マスコミ各紙が「破れかぶれ解散」とか「追い詰められ解散」とかの表現で、今回の解散が民主党政権の「勝算なき」解散(総選挙体勢)であることを指摘していたが、各種の世論調査の政党支持率を見れば、明らかに「負ける」と分かっている選挙を、野田首相は何故決断したのか。まさに「破れかぶれ」で消費税を上げるための法案を自公と3党で合意したときの約束「近いうちに(解散)」という発言を守るため、つまり「嘘つき首相」という非難を避けるため、というのが解散の信の理由であったなら、何百億円という税金を使って行われる総選挙を「自己都合」で行った首相として、野田首相は歴史に名を残すのではないか。
 それにしても、民主党を離脱する(した)議員のうち、自己の政治理念と民主党の在り方が違うからというのは、なるほど、と納得できなくはないが、橋下徹「日本維新の会」や石原慎太郎「太陽の党」(何じゃ、この党名は! 本人はご満悦至極のようだが、70代、80代の右派老人たちの組織に「太陽」の名を冠する感性、とても信じられない)、あるいは「減税日本」などの「第三極」が人気がありそうだという「時勢」に便乗したかのような離党、何ともおぞましい光景である。
 だが、現実政治の混迷・堕落を物語るのは、まさにその「第三極」と言われる「権力亡者たち」の在り方で、全く方向違いの「政策」、たとえば、脱原発―原発容認、消費税増税容認―減税、日本国憲法破棄―改憲、等がありながら、「政権を獲る」という一点で、まさに「野合」としか思えない行動をとっている連中の姿を見ると、「昭和維新」を叫んで蜂起した(反乱に決起した)皇道派の青年将校(石原の「太陽の党」はみな70歳代か80歳を超えた老人たちだが)を思い出し(それでも彼らは戦争で「疲弊」にあえぐ農民や市民たちのことを思っていた)、何とも不気味な感じがする。
 もう一度書くが、今一度「原点=日本国憲法の精神」に戻って、表層の「威勢のよさ」や「格好よさ」に惑わされることなく、今こそ冷静な判断が求められるのではないか、と思う。
 またしても、それにしてもとしか言えないが、もう一人の「権力亡者」猪瀬直樹のことも言っておかなければ成らないだろう。彼が学生時代、信州大学全学共闘会議の議長であったことは、よく知られていることだが、まさか首都の権力を一手に握る「都知事」になろうという野心を持っていたとは、驚きを越して、「無念」としか言いようがない。昔は「反体制」、今は「権力の側」というのは、よくあるパターンだが、ノンフィクション作家として「権力の悪」を暴露してきたと豪語していた男の「完全なる転向」、それほどに「権力」というのは魅力的なものなのかと思うが、彼は信州大全共闘議長して学生大衆の前で「反権力」を叫んだ「責任」をどう考えるのか。もちろん、大学教師になった僕も、そんなに偉そうなことは言えない身であるが、「言論」を使っておのれの信じることを表明し、「権力」にはなるべく近づかないことを「最低綱領」として生きてきたつもりである。なのに、猪瀬直樹は、どうしたのか。あのふてぶてしい物言いは、たぶん全共闘議長として学生大衆の前に出たときのものと同じだと思うが、何ともやりきれない。
 ここ何日か、「不快な」日々が続いている。

武漢便り(20)――博物館見学

2012-11-12 10:54:37 | 仕事
 ここ武漢にきて二ヶ月余り、生来の「出不精」ということもあって、武漢市内の「見学」と言えば、先にも記した戦前『日本租界」があった漢口(商業の中心地)へ行ったきりで、他には家人がいた時に、武漢一の名所と言われる「鶴閣楼」へは行ったが、その他にはどこも行かなかったので、かねて一度は訪れてみたいと思っていた「湖北省博物館」へ、院生三年生の案内で行ってきた。
 中国各地に散在する「省立博物館」は、これまでの情報で北京や上海にある「故宮博物館」のミニチュア版ということであったが、「湖北省博物館」を訪れてみて、確かに「故宮博物館」のミニチュア版だという思いと、また別に湖北省独特の「文化遺産」が展示してあり、広い会場の隅々まで歩いて、かなり疲れたが、その展示品は僕の興味関心を満たすもので、満足して帰ってきた。
 特に、『三国志』(戦国春秋時代)などでおなじみの「楚国」は、湖北省と湖南省にまたがる地域のことで(武漢からは西南の方向に当たる。毛沢東が生まれ育った長沙(湖南省の省都)近郊の町もこの「楚国」に含まれていたようで)、この日は通常の展示の他「楚特別展」が開かれていて、4000年(5000年)の歴史を誇る中国にあっても、独特な位置を占めていた「楚国」のことが一望できた。中でも、埋没していた戦国時代の戦に使った「戦車」(馬に引かせる文字通り「戦いのための車」)を復元したものは、秦の始皇帝の力を見せ付けた「兵馬俑」を思い出させ、その規模が圧巻であった(いつか、中国で仕事をしている間に西安を訪れ、いずれ「兵馬俑」を見学したいと思っている)。
 展示は日本の博物館と似ていて、「北京原人」からは少し後になるが中国各地(湖北省も含む)で発掘された「原人」の頭部レプリカに始まって、旧石器時代や新石器時代の遺物から清朝時代を経て辛亥革命、共産主義革命に至るまでの文物(人物)が、広い展示室を自在に使って、きれいに展示されていた(展示の仕方について、時代が前後しているのではないか、これでは「歴史」を正確に把握することができないのではないか、と思われる箇所が何箇所かあった)。特に、「青銅器時代」の様々な青銅器は、さすが中国と思えるものが多く、併せて日本にもその技法が伝わった「漆器類」の多様さには目を見張るものがあった。
 また、僕の家にも「お土産」のミニチュアがあるのだが、「曾」という一地方の楽器(鐘を連ねたようなもので、大きさによって音色が異なる。石でできたものもある)の実物大模型には圧倒された。高さ2メートルほど、幅5,6メートルの巨大な楽器、これはまさに「湖北省」が生み出した独特の楽器で、実物は北京の故宮博物館にあるということだが(僕はずっと長い間、この楽器は中国の王朝で使われたもの、と思っていた)、実際の音色を聞いてみたいものだと思った(いつか、そのような機会があったら、必ず聞きに行きたいと思っている)。
 それにしても、中国の博物館は5月に訪れた「南京大虐殺記念博物館」も、また「南京博物館」もそうであったが、どこも市民に「無料」で開放されており、昨日は日曜日ということもあって、団体や白人観光客も含め、大勢の人が見学に訪れていた。カメラでの撮影もOKで、「大陸的」な感じも受けた。恐らく、博物館見学は、高度経済成長の成功によって「豊か」になった一般市民の「娯楽」の一部になっているのだろうと思うが、このような形で自国の「歴史」を知り、また自国の歴史を「誇り」に思うのは、「歴史教育」が疎かにされているように思える日本のことを思うと、変なところで「ナショナリズム」を発揮する日本という国はどうなっているのかとも思い、複雑な気持ちにさせられた。
 疲れたけれど、充実した1日であった。

武漢便り(番外編)――「コメント」に応える

2012-11-08 07:41:10 | 仕事
 昨日(7日)は、前日に投稿された「unknown」氏二人による(もしかすると一人かもしれないが、その辺りは定かでない)「コメント」2通に対して、改めて僕の考えを書いたのだが、何故か、応接した文章(コメント)が2回とも記録されない(「投稿する」をクリックすると、何処かに原稿が消えてしまう)というPCの不具合が生じ、その対策にだいぶ時間をとられてしまった。
 前から言っていることだが、「匿名」のコメンテーター(投稿者)には原則的に応接しないのだが、今回の二人(一人)に対しては、僕の基本的認識を改めて明らかにする必要があると思ったということがあり、応接することにしたのである。
 昨日書いた僕のコメントは、それぞれ以下の通りである(原稿を保存していなかったので、昨日と全く同じということではないが、趣旨は同じである)。
 まず、古い方(19回)から。投稿者は、「日本が焦土と貸すほどの攻撃なら、在日米軍も当然被害に合います」、だから「アメリカが在日米軍・及びその家族が攻撃を受けても黙っている「平和的な」国家だと思えない」と言っていますが、僕は、第一に現代の戦争は、何の「前触れ」もなく始まることはなく、自国民の安全を最優先に考える(アメリカが圧倒的に有利な「日米地位協定」を見ればすぐ分かるのではないか)アメリカだから、フクシマが起こったときの対応(八〇キロ圏内のアメリカ人に対して半強制的な退去命令を発した)を見ても分かるように、日中間が本当に「きな臭くなれば」米軍基地から兵員はもとより家族も、それこそオスプレイなどの大型輸送機を使って安全地帯へ引き上げるのではないか、と僕は考えています。
 それに、アメリカが本質的に内在させている(と僕は思っている)「モンロー主義」を、そのような日中関係が「きな臭くなった」時にこそ発揮して、「不介入」を宣言するのではないか、とも思っています。アメリカは、日米同盟を理由に「日本を助ける=日本と友中国と戦う」ほど、「お人良しの国」ではないとも、思っています。
 また、投稿者は「そもそも、中国に日本を焦土にするだけの戦力は全くありません」と言っていますが、何を根拠にそのようなことを言っているのでしょうか。すくなくとも、人工衛星や宇宙ロケットを打ち上げるだけのミサイル(アメリカの宇宙開発ロケットが本来は軍事用に開発されたものであることを、ここで改めて想起する必要がある)を保持している中国です。原爆を使用しないとしても、日本の主要都市を焦土化するのに十分な戦力を持っていると思います(朝鮮戦争、ベトナム戦争時における中国人民解放軍の「力=役割」を投稿者はどう考えているのでしょうか)。
 次に(14)の投稿者についてですが、基本的に僕は全ての国の「覇権主義」に反対の立場であるということを前提に、いくつか「言葉」についての疑問を呈しながら、僕の考えを再度明らかにしたいと思う。
 まず、「中国の『右派』」ということについて、そもそも中国の「右派」とは具体的にどのような勢力をさすのか、僕は全く知りません。中国に「国内政策」を重視する指導者と「覇権主義」的な方向に重点を置いている指導者がいることは分かりますが、そのどちらが僕の言う意味での「右派」なのか、考えたことがないので、分かりません。
 また、「中国の軍事費は年に10兆円以上で日本の倍以上、……」と言っていますが、人口比や国土の広さ、接している国の多さ、などを鑑み、また本来日本国憲法第9条で「戦力は保持しない」と内外に言明しながら、今や世界第7(6)位の戦力を保持している自衛隊の現状と「日米安保条約」によって自衛隊を上回る戦力を持つアメリカ軍の基地が国内に多数存在することを考えるとき、単純に「中国の軍拡」を「右派」の動きとして非難していいのか、僕には分かりません。
 なお、自衛隊が「仮想敵国」として、旧ソ連(ロシア)、北朝鮮、中国を想定して「軍備増強」に精出してきたこと、そのことも忘れるわけにはいかないでしょう。
 また、僕が問う後者の言葉で分からないのは、僕はこのブログでは一貫して「右派」「右傾化」という言葉を使ってこなかったのだが、投稿者は何を勘違いしたのか(あるいはあえてそのようにしたのか)「右傾化」という言葉の代わりに「右翼化」という言葉を使い、その結果あたかも僕が「左翼」であるかのように決め付け、その上で「批判」する方法をとっているが、「右傾化」(国民の「自由」を制限し、歴史的事実を歪曲し、国内的には国民に犠牲を強いる圧政を敷こうとする考えや動向)と「右翼化」(「左翼」に対置される「右翼」であり、今は民族派右翼と圧力団体としての右翼に二分される国粋主義者たち)とは似て非なるものであること、僕はこの違いを前提に「右傾化」という言葉を使っていることを、改めて確認したいと思う。
 それに、「反体制的・反権力的」な発言をすると、「左翼=悪・古い」とレッテルを貼って片付けてしまうような傾向、これは一種の思考停止であり、最近のよくない傾向だと僕は思っていること、改めて言っておきます。
 以上が、昨日書いた僕のコメントの趣旨です。
 改めて、僕は全ての国の覇権主義に反対ですし、いかなる戦争への道も認めたくないと思っています。もちろん、原発を含めた核存在の全てに反対します。

武漢便り(19)――「日中が軍事衝突の可能性」?

2012-11-04 06:00:08 | 仕事
 毎日「可もなく不可もない」というのが一番相応しいような外国(中国)暮らしをしていると、ついつい「惰眠」を貪ってしまいがちになるが、外国にいるが故に「危機的」な状況にあるのではないかと思われる日本のことが、余計「見えてくる」ということがある。これは、12年前にアメリカで半年ほど過したときも、またスロベニアで1ヶ月と少し過したときにも感じたことであるが、自分の立ち位置が自動的に「客観的」になるが故の、ある種の「過剰反応」と言っていいかもしれないが、どうもそれだけではなく、言葉が十分に通じない外国で「一人暮らし」をしていると、自ずから「危険」に対して敏感になる、ということがあるのかも知れない、と現在は思っている。
 というのも、昨日(11月3日・文化の日)いつものように「ヤフー・ニュース」を見ていたら、ショッキングな「尖閣をめぐって日中が軍事衝突の可能性」という文字が飛び込んできたからである。記事は、例の「知日派」(実は、日本を自分たちの思い通りにしようとしている連中)として知られるアーミテージ元国務副長官らの「安全保障専門家チーム」が、日中の双方に取材して、上記のような「日中間に先覚をめぐって軍事衝突の可能性がある」という報告書をクリントン国務長官に提出した、というものであった。もちろん、この報告書が巨大な軍需産業をバックにしたネオコン(新保守派)の、日本にオスプレイのような最新高額兵器を売りつけようとする策謀の一環だとする見方もできるが――石原慎太郎がアメリカに行き、ネオコンの巣窟で「尖閣列島の購入」を言い出したことの「裏」がここからも読み取れるが、アーミテージが世界の各地で「紛争・戦争」を仕掛けてきたアメリカの諜報機関CIAと深いつながりのあることを考えると、CIAが仕掛けて「日中の軍事衝突」が起こらないとも限らない、という切迫感もないわけではない――、「11・8 第18回全国人民大会」を控えて、連日「日本問題」が」話題となるテレビ報道を見ていると、万が一にも、もし日中が「軍事衝突」したら、日中の両国民はどうなるのか(中国に滞在している「20万人以上」といわれる在留邦人はどうなるのか)、と思わざるを得ない。
 中国のテレビには「軍事」専門のチャンネルがあり(ドラマもやっているのだが)、そこでは最新の中国人民軍のい兵器や艦船が紹介されたり、実戦さながらの軍事訓練を連日披露しているのだが、それを見ていると、もし日中が軍事衝突したら、世界で7番目の軍事力を誇る自衛隊のことを考え合わせ(たぶん、アメリカはこれほどまでに「日米同盟」を強調していても、最終的には「不介入」を宣言するだろうと思う。アメリカの狙いは、日中が軍事衝突して、両国とも「疲弊」し、自動的にアメリカの「優位」が確保されることだと思うからである)、両国(特に日本)が焦土と化すのは、目に見えている。
 こんな単純なことが、日中関係の「悪化」を歓迎しているように見える日本の「右派=ネオ・ナショナリスト=ネオ・ファシスト」の連中(例えば、先の石原慎太郎や安倍自民党総裁、日本維新の会の橋下徹、そして彼らを支持する政治家たち及び国民)には見えないのか、と思うが、見えていても敢えて「危機感」を募ることで自分の存在を大きく見せようとする「戦術」なのかもしれない。
 しかし、そんな「戦術=政治的駆け引き」に翻弄されてしまう自分も含めて日本の国民というのも、何とも情けないが、それよりもそのような現実に対して「大勢に従う」というような国民のあり方にも、不満を感じないわけには行かない。もちろん、国民の多くは「日々の生活」に追われ、「政治」などどうでもよい、と思っているのだろう。しかし、先のアジア太平洋戦争の時がそうであったように、国民が「惰眠」を貪っているあいっだに、「政治=軍事」は暴走する。これは、何年か前「戦時下の文学」についての本(『戦争は文学にどのように描かれたか』八朔社刊)を書いている時に、実感したことである。
 前回書いたように「運動会」に興じる武漢の学生たちや市民の姿を思い浮かべると、彼ら(及び日本国民)の頭上に爆弾やミサイルが飛んでくること、そんなことは考えられないが、今こそ「想像力」を総動員して日本の、そして世界の「右傾化」を阻止しなければならないのではないか、と思う。

武漢便り(18)――運動会

2012-11-02 10:52:06 | 仕事
 大学が行う大きな行事の一つに「運動会」があるとは聞いていたのだが、昨日(11月1日)から今日、明日の3日間、全学休校にして催される運動会、院生に案内されて、昨日のぞきに行ってきた。
 参加者の中心は、全学部(学院)ともに1年生ということで、はつらつとした若い学生の姿が目立ったが、参加している学生や見物に来ている地域の人たちの顔を見ていると、この運動会が大学にとって一大イベントだということの意味が、よくわかった。
 まずは、各学部(学院)ごとに、これはベトナムへ行ったときにも感じたことであるが、社会主義国独特な宣伝方法と思われる「赤い布」にそれぞれ「がんばろう」とか「青春の炎を燃やせ」といった意味の文字そ染め抜き、自分たちの席いっぱいに飾り、その他にも小さな看板にお互いを「励ましあう」言葉やチームを「鼓舞」する言葉の書かれたものが数多く立ち並び、「応援」もにぎやかである。皆自分たちの「作品」を記念してか、写真を撮っている人たちも多く見受けられた。
 聞くところによると、大学の職員も全員参加が「義務」ということで、幼稚園や小学生の子供を連れた教職員の姿も目立ち、何だか昔僕らが小学生だった頃の地域ぐるみの運動会を思い出した。グランドにいくつものアドバルーン(大きな風船)が上がっているのも、にぎやかだった日本の「昔の運動会」を髣髴とさせ、これも懐かしい気持ちにさせられた一因であった。
 ただ、日本の学校における運動会と圧倒的に違っていたのは、参加者の中に多くの外国人がいたことである。今僕が住んでいる「外国人専門家宿舎」の隣は留学生会館(宿舎)になっており、宿舎の前は留学生の多くが学ぶ「国際文化学院」の校舎なので、毎日外出するとアフリカ系黒人の留学生に数多く出会うのだが(他に、多いのは「華僑」と思われる東洋人)、彼らは運動会の開会式に時刻の国旗を持って参加し、競技(僕が見たのは100メートル走だったけれど)にも多くの留学生が参加していた。
 アフリカからの留学生が多いのは中国政府のアフリカ政策(援助や協定)の見事な反映と思われるが、彼らが自国のエリートであることは、彼らの何人かは自動車を持ち、また電気オートバイを持っていることからも、窺い知れる。白人や東洋人(日本人も何人かいるらしいが、僕には中国人華僑や韓国人と見分けが付かないので、誰が日本人なのか、わからない)で、車やバイクに乗っている学生は見たことがないので、彼らが「エリート」であるかどうかは、わからない。
 ともあれ、多数の留学生も参加している「全学運動会」、一つだけ日本のその種のイベントと決定的に違っていたのは、運営の母体がどこなのか、プログラムの進行はどうなっているのか、見学者には一向に理解できない進み方だったということである。選手と応援団の区別も付かず、傍目から見たら「混沌」のうちに少しずつ競技が進んでいるとしか思えなかった。「混沌の中の秩序」、これはまさに現代中国の姿でもあるのではないか、と勝手に思いつつグランドを去ったのだが、帰りに学生と食べた学食のチャーハンが、やけにおいしかった。
 こんな「平和」な光景と、嫌にこじれ長引いている「冷え込んだ日中関係」は、どうもそぐわない感じがしてならない。10日ほど前にも大学が関係している日本の財団(渋沢栄一財団)から派遣されてきた宗教学者山折哲雄の話を学生と一緒に聞いたのだが(その後、僕が編集し解説も書いた『立松和平 仏教対談集』二登場していただいた一人なので、ご挨拶したのだが)、ここでも政治(外交)世界と市民レベルの交流の違いを痛感したことがあり、この違いの意味するところを考え抜かない限り、これからの日中関係は成立しないのではないか、と思った。日中両国政府の意向を反映してか、観光客は激減しているようだが、今年の文化功労者に選ばれた辻井喬さんも、訪中前に聞いていたスケジュール(10月の末に中国東北部を訪問する)で、秘書の人の話では無事訪中して帰国したとのこと。「民間交流」は、企業はもちろん、僕ら大学で働く日本人教師たちや文化人たちの間でも確実に行われていること、このことをもっとアピールする必要があるのではないか、と思った。