(1)大学院博士課程在籍中(黒古研究室所属)の山川恭子さんが研究の一環として1年かけて作成していた『戦前期「週刊朝日」総目次』(全3巻 全75.000円)が、この度「ゆまに書房」から刊行されました。総クロス張りの立派な本です。山川さんは、修士課程の時、テーマは「戦前期の婦人解放運動」だったのですが、その時は「付録」として『婦人公論』(戦前版)の総目次を作成した実績があります(この『婦人公論』の総目次も刊行するに値する仕事だったのですが、すでに「新組み」ではなく「コピー版」の総目次が作成されている途中だったので、刊行が断念されたという経緯があります)。山川さんは、その時の経験を生かして、今回の「偉業」をなしたのですが、これまで誰も手をつけなかった戦前期の週刊誌メディアの研究も、山川さんの仕事を第一歩としてこれから発展していくのではないかと思っています。「書誌・書目」作成が近代文学研究の基礎を形成するものだという認識も、ようやく近代文学研究者の間にも定着しつつありますが、「基礎」をないがしろにした研究が、所詮時代の表層に振り回された「砂上の楼閣」でしかないことを、最近つくづく思います。
因みに、この「総目次」には「索引」と僕の「序」、そして山川さんの「解説」がついています。少し高価ですが、役に立つ本だと思います。
(2)少し時間がとれたので、前から「大法輪」に頼まれていた「文学と救い」シリーズを書くことにし、前から書きたいと思っていた大岡昇平の「野火」について「戦時における“殺人”は許されるのか」というタイトルで16枚ほど書いた。『野火』については、作中に出てくる「人肉喰い」があまりにも有名であるが、フィリピン戦線の敗残兵が人の肉を食べて生き延びた(フィリピンだけでなく、パプア・ニューギニア戦線の人肉喰いも、映画『行き行きて神軍」で取り上げたように、あまりにも有名である)という戦争中でなければ考えられないような出来事も、実はその前に主人公が行った「理由無き殺人」(主人公が無辜の原住民を射殺した事件)がなければ起こらなかったのではないか、というのが一編の趣旨である。詳しくは、近々刊行される「大法輪」を読んで頂くとして、ゴーマニズム宣言の小林よしのりに代表される「ネオ・ナショナリズム」(アジア・太平洋戦争を賛美し、「国を守るため」「家族を守るため」と称して戦争を肯定するエセ愛国者たち)の跋扈に対して、全共闘世代の一人として「異議申し立て」を行わなければならない、と思っていたので、今回の批評は時宜を得たものだと思っている。どこかで雑誌「大法輪」を見たら、立ち読みでもいいから読んでほしいと思う。
(3)スロベニアで「沖縄文学」を講義してきたことは、このブログの読者は先刻承知のことと思うが、先月の北海道新聞に引き継ぎ、今度は朝日新聞の「文化欄」にそのことを書くことになった。近々(6月初旬)掲載される予定であるが、帰国してから1ヶ月半、改めてスロベニアと日本、そして沖縄のことを考えると、僕らの現在はあまりにも弛緩しているのではないかと思わざるを得ないことが多い。特に若い人たちの想像力が枯渇しているような言動には、危機感すら感じることが多い。若い人には若い人の事情があるのだろうが、何とも不安を感じざるを得ない。これが年寄りの「危惧」であればいいのだが……。
因みに、この「総目次」には「索引」と僕の「序」、そして山川さんの「解説」がついています。少し高価ですが、役に立つ本だと思います。
(2)少し時間がとれたので、前から「大法輪」に頼まれていた「文学と救い」シリーズを書くことにし、前から書きたいと思っていた大岡昇平の「野火」について「戦時における“殺人”は許されるのか」というタイトルで16枚ほど書いた。『野火』については、作中に出てくる「人肉喰い」があまりにも有名であるが、フィリピン戦線の敗残兵が人の肉を食べて生き延びた(フィリピンだけでなく、パプア・ニューギニア戦線の人肉喰いも、映画『行き行きて神軍」で取り上げたように、あまりにも有名である)という戦争中でなければ考えられないような出来事も、実はその前に主人公が行った「理由無き殺人」(主人公が無辜の原住民を射殺した事件)がなければ起こらなかったのではないか、というのが一編の趣旨である。詳しくは、近々刊行される「大法輪」を読んで頂くとして、ゴーマニズム宣言の小林よしのりに代表される「ネオ・ナショナリズム」(アジア・太平洋戦争を賛美し、「国を守るため」「家族を守るため」と称して戦争を肯定するエセ愛国者たち)の跋扈に対して、全共闘世代の一人として「異議申し立て」を行わなければならない、と思っていたので、今回の批評は時宜を得たものだと思っている。どこかで雑誌「大法輪」を見たら、立ち読みでもいいから読んでほしいと思う。
(3)スロベニアで「沖縄文学」を講義してきたことは、このブログの読者は先刻承知のことと思うが、先月の北海道新聞に引き継ぎ、今度は朝日新聞の「文化欄」にそのことを書くことになった。近々(6月初旬)掲載される予定であるが、帰国してから1ヶ月半、改めてスロベニアと日本、そして沖縄のことを考えると、僕らの現在はあまりにも弛緩しているのではないかと思わざるを得ないことが多い。特に若い人たちの想像力が枯渇しているような言動には、危機感すら感じることが多い。若い人には若い人の事情があるのだろうが、何とも不安を感じざるを得ない。これが年寄りの「危惧」であればいいのだが……。