東京新聞の「左翼はなぜ勝てないのか」という「論壇時評」(7月30・31日 担当:大澤真幸京都大学大学院教授)を読んでいたら、「竹島」問題や北京オリンピックに関して僕の発言(ブログ)を批判するコメントを寄せる人たち(若い人たちが多いのではと推測している)が、なぜそのような「批判」が導き出されるのか、その一端が分かったような気がした。大澤真幸は、ネット上における若者達の言動を観察して、「広義の右翼的なものが蔓延しており、左翼は揶揄や嘲笑の対象である」とした上で、最近創刊された雑誌「ロスジェネ」(就職氷河期と言われた90年代に学校を卒業した世代の代名詞で、「失われた10年」世代とも言われる)に載った編集委員(大澤信亮)の短編「左翼のどこが間違っているか?」を素材にして、次のように書いている。
<左翼は、「戦争被害者、在日外国人、女性、フリーター…」といった弱者を 次々と見つけ出し、それら弱者に同情し、同時に弱者差別を批判する。問題は、 こうした弱者への同情が、常に「安全な場所」からのみ発せられているというこ とである。自分自身は弱者の渦中にいない限りで、つまり弱者に真に近づかない 限りで、弱者の味方になろう、というわけである。「同情」が、むしろ、弱者と の間の安全な距離を保証している。左翼は、弱者を「応援」することで、自分自 身の善き心、麗しい魂を確認し、ナルシスティックに陶酔しているように見える のだ。>
なるほど、そうか。確かに、僕も大澤真幸と同じように大学の教授であり、大学からの給料と原稿料などを加算すれば、そこそこの年収があり、そのような観点から考えれば、僕の言説(ブログの文章)など「勝ち組」の好き勝手な言い草に聞こえるだろうし、石原慎太郎や小泉・安倍などを「ネオ・ファシスト」「ネオ・ナショナリスト」呼ばわりする批判など、まさに「左翼」のそれに他ならなず、「非正規労働者」の中心をなしている若者にしてみれば、鼻持ちならない典型に映ると思われても仕方がないと言えるかも知れない。
しかし、大澤真幸の先の論理で一つだけ間違っているのは、僕ら(敢えて「僕ら」と言う)が現体制や政府与党、あるいは「ネオ・ファシスト」や「ネオ・ナショナリスト」を批判するのは、「負け組=非正規労働者・弱者」に「同情」してであるかのような言い方をしている点である。僕らは、「弱者」に「同情」して発言しているのではなく、大きな目で見れば「勝ち組」も「負け組」も共に非抑圧的な状況にあることは変わりないのだから、両者がいかに「共闘=共生」できるかを問わない限り、状況は変換できないのではないか、と言っているだけなのである。
また、以上のこととの関連で大澤真幸の「総括」でやはり間違っていると思うのは、僕らは大澤が言う「自分自身は弱者の渦中にいない限りで、つまり弱者に真に近づかない限りで、弱者の味方になろう」などというような「体験主義」に組みすることよって、この世の中の仕組みが転換するなどとは決して思っていないにもかかわらず(たぶん、大澤だってそんなことは思っていないだろう)、若者達の「左翼批判」の論理をそんな形でまとめ上げていることである。
気鋭の社会学者(思想家)として彼の書く物に注目し、読者にもなっていたのに、昨今の若者弱者たちの言説(右翼大好き・左翼嫌い)に引きずられてしまったのか、大澤も僕と同じように「次なる目標」が見いだせないまま、「分析」「解釈」だけしかできない状況にあるのかも知れない。しかし、大澤はともかく、僕が未だによく分からないのは、なぜ「非正規労働」を強いられている若者達は、自分たちをそのような境遇に押し込んだ張本人の一人「規制緩和派」の小泉純一郎に批判の刃を向けないで、逆立ちした「左翼批判」を行って事足りてしまうのか、ということである。マゾイズムとは言わないが、昨今の「無差別殺傷事件」が象徴するような、「弱者が弱者を襲う」ことでガス抜きされてしまう。ほくそ笑んでいるのは誰か? 本来なら「怒り=批判」の刃を向けられるはずの権力者=為政者なのではないか。だとすれば、昨今の若者の「右傾化」を喜んでいるのは、紛れもなく保守派に他ならない。
このパラドクスをどれほどの若者が理解しているか。いつか矛先が「僕ら」にではなく、確実に権力を握っている者に向けられることを願って……。
<左翼は、「戦争被害者、在日外国人、女性、フリーター…」といった弱者を 次々と見つけ出し、それら弱者に同情し、同時に弱者差別を批判する。問題は、 こうした弱者への同情が、常に「安全な場所」からのみ発せられているというこ とである。自分自身は弱者の渦中にいない限りで、つまり弱者に真に近づかない 限りで、弱者の味方になろう、というわけである。「同情」が、むしろ、弱者と の間の安全な距離を保証している。左翼は、弱者を「応援」することで、自分自 身の善き心、麗しい魂を確認し、ナルシスティックに陶酔しているように見える のだ。>
なるほど、そうか。確かに、僕も大澤真幸と同じように大学の教授であり、大学からの給料と原稿料などを加算すれば、そこそこの年収があり、そのような観点から考えれば、僕の言説(ブログの文章)など「勝ち組」の好き勝手な言い草に聞こえるだろうし、石原慎太郎や小泉・安倍などを「ネオ・ファシスト」「ネオ・ナショナリスト」呼ばわりする批判など、まさに「左翼」のそれに他ならなず、「非正規労働者」の中心をなしている若者にしてみれば、鼻持ちならない典型に映ると思われても仕方がないと言えるかも知れない。
しかし、大澤真幸の先の論理で一つだけ間違っているのは、僕ら(敢えて「僕ら」と言う)が現体制や政府与党、あるいは「ネオ・ファシスト」や「ネオ・ナショナリスト」を批判するのは、「負け組=非正規労働者・弱者」に「同情」してであるかのような言い方をしている点である。僕らは、「弱者」に「同情」して発言しているのではなく、大きな目で見れば「勝ち組」も「負け組」も共に非抑圧的な状況にあることは変わりないのだから、両者がいかに「共闘=共生」できるかを問わない限り、状況は変換できないのではないか、と言っているだけなのである。
また、以上のこととの関連で大澤真幸の「総括」でやはり間違っていると思うのは、僕らは大澤が言う「自分自身は弱者の渦中にいない限りで、つまり弱者に真に近づかない限りで、弱者の味方になろう」などというような「体験主義」に組みすることよって、この世の中の仕組みが転換するなどとは決して思っていないにもかかわらず(たぶん、大澤だってそんなことは思っていないだろう)、若者達の「左翼批判」の論理をそんな形でまとめ上げていることである。
気鋭の社会学者(思想家)として彼の書く物に注目し、読者にもなっていたのに、昨今の若者弱者たちの言説(右翼大好き・左翼嫌い)に引きずられてしまったのか、大澤も僕と同じように「次なる目標」が見いだせないまま、「分析」「解釈」だけしかできない状況にあるのかも知れない。しかし、大澤はともかく、僕が未だによく分からないのは、なぜ「非正規労働」を強いられている若者達は、自分たちをそのような境遇に押し込んだ張本人の一人「規制緩和派」の小泉純一郎に批判の刃を向けないで、逆立ちした「左翼批判」を行って事足りてしまうのか、ということである。マゾイズムとは言わないが、昨今の「無差別殺傷事件」が象徴するような、「弱者が弱者を襲う」ことでガス抜きされてしまう。ほくそ笑んでいるのは誰か? 本来なら「怒り=批判」の刃を向けられるはずの権力者=為政者なのではないか。だとすれば、昨今の若者の「右傾化」を喜んでいるのは、紛れもなく保守派に他ならない。
このパラドクスをどれほどの若者が理解しているか。いつか矛先が「僕ら」にではなく、確実に権力を握っている者に向けられることを願って……。