黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

若者の「右傾化」について

2008-07-31 09:25:41 | 近況
 東京新聞の「左翼はなぜ勝てないのか」という「論壇時評」(7月30・31日 担当:大澤真幸京都大学大学院教授)を読んでいたら、「竹島」問題や北京オリンピックに関して僕の発言(ブログ)を批判するコメントを寄せる人たち(若い人たちが多いのではと推測している)が、なぜそのような「批判」が導き出されるのか、その一端が分かったような気がした。大澤真幸は、ネット上における若者達の言動を観察して、「広義の右翼的なものが蔓延しており、左翼は揶揄や嘲笑の対象である」とした上で、最近創刊された雑誌「ロスジェネ」(就職氷河期と言われた90年代に学校を卒業した世代の代名詞で、「失われた10年」世代とも言われる)に載った編集委員(大澤信亮)の短編「左翼のどこが間違っているか?」を素材にして、次のように書いている。
 <左翼は、「戦争被害者、在日外国人、女性、フリーター…」といった弱者を  次々と見つけ出し、それら弱者に同情し、同時に弱者差別を批判する。問題は、 こうした弱者への同情が、常に「安全な場所」からのみ発せられているというこ とである。自分自身は弱者の渦中にいない限りで、つまり弱者に真に近づかない 限りで、弱者の味方になろう、というわけである。「同情」が、むしろ、弱者と の間の安全な距離を保証している。左翼は、弱者を「応援」することで、自分自 身の善き心、麗しい魂を確認し、ナルシスティックに陶酔しているように見える のだ。>
 なるほど、そうか。確かに、僕も大澤真幸と同じように大学の教授であり、大学からの給料と原稿料などを加算すれば、そこそこの年収があり、そのような観点から考えれば、僕の言説(ブログの文章)など「勝ち組」の好き勝手な言い草に聞こえるだろうし、石原慎太郎や小泉・安倍などを「ネオ・ファシスト」「ネオ・ナショナリスト」呼ばわりする批判など、まさに「左翼」のそれに他ならなず、「非正規労働者」の中心をなしている若者にしてみれば、鼻持ちならない典型に映ると思われても仕方がないと言えるかも知れない。
 しかし、大澤真幸の先の論理で一つだけ間違っているのは、僕ら(敢えて「僕ら」と言う)が現体制や政府与党、あるいは「ネオ・ファシスト」や「ネオ・ナショナリスト」を批判するのは、「負け組=非正規労働者・弱者」に「同情」してであるかのような言い方をしている点である。僕らは、「弱者」に「同情」して発言しているのではなく、大きな目で見れば「勝ち組」も「負け組」も共に非抑圧的な状況にあることは変わりないのだから、両者がいかに「共闘=共生」できるかを問わない限り、状況は変換できないのではないか、と言っているだけなのである。
 また、以上のこととの関連で大澤真幸の「総括」でやはり間違っていると思うのは、僕らは大澤が言う「自分自身は弱者の渦中にいない限りで、つまり弱者に真に近づかない限りで、弱者の味方になろう」などというような「体験主義」に組みすることよって、この世の中の仕組みが転換するなどとは決して思っていないにもかかわらず(たぶん、大澤だってそんなことは思っていないだろう)、若者達の「左翼批判」の論理をそんな形でまとめ上げていることである。
 気鋭の社会学者(思想家)として彼の書く物に注目し、読者にもなっていたのに、昨今の若者弱者たちの言説(右翼大好き・左翼嫌い)に引きずられてしまったのか、大澤も僕と同じように「次なる目標」が見いだせないまま、「分析」「解釈」だけしかできない状況にあるのかも知れない。しかし、大澤はともかく、僕が未だによく分からないのは、なぜ「非正規労働」を強いられている若者達は、自分たちをそのような境遇に押し込んだ張本人の一人「規制緩和派」の小泉純一郎に批判の刃を向けないで、逆立ちした「左翼批判」を行って事足りてしまうのか、ということである。マゾイズムとは言わないが、昨今の「無差別殺傷事件」が象徴するような、「弱者が弱者を襲う」ことでガス抜きされてしまう。ほくそ笑んでいるのは誰か? 本来なら「怒り=批判」の刃を向けられるはずの権力者=為政者なのではないか。だとすれば、昨今の若者の「右傾化」を喜んでいるのは、紛れもなく保守派に他ならない。
 このパラドクスをどれほどの若者が理解しているか。いつか矛先が「僕ら」にではなく、確実に権力を握っている者に向けられることを願って……。

こんなに暑いのに、仕事、仕事、仕事

2008-07-30 12:03:31 | 仕事
 別にサボっていたわけではないのだが、週に1度東京まで非常勤講師の務めに出掛けていくというのは思いの外「時間を無駄」にしているもので(行き帰りの電車の中で本を読んでいるので、それなりに充実した時間の確保、という側面もあるのだが、たった1コマのために往復7時間半がつぶれるというのは、時間の無駄としか言いようがない)、そのせいかどうかは厳密に言えないが、執筆時間が極端に少なくなって、計画が滞ってしまう事態になっている。
 計画通りなら、1ヶ月も前に「村上龍論」は版元に渡してあるはずで、次の書き下ろしに罹っていてもおかしくないのに、未だに半分も書けていない。ならば夏休みに、とばかりに張り切っていたのだが、「夏バテ」気味になってしまい、能率の悪いこと、甚だしいかぎりである。
 と書くと、大学教師としての仕事はともかくとして、批評家としての仕事をほとんどしていないように聞こえるかも知れないが、それなりにやっているのであって、「村上龍論」を含めて、今年は3冊、本を出す予定になっている。1冊は「書評集」で1979年に初めて原稿料をもらって書いた書評から今日まで、正確には数えていないが200冊、300冊は書評したのではないかと思うが、前から思っていた30年間の批評家稼業を「整理し直す」という意味でも、僕にとって重要な仕事であると同時に、一人の批評家が本をどのように読んできたのか(あるいは、本はこのように読むべきだ、といった定言的な意味も含めて)、が分かるような本の構造になればいいな、と思っている。順調に編集作業が推移すれば、秋には刊行されるだろう。
 もう1冊は、14年前に出した「三浦綾子論」の増補版である。今年は三浦さんが亡くなって10年目、没後10年を狙ったわけではないが、品切れ状態ここ何年か続き、読者からぽつぽつと「再刊されないのですか」と聞かれるようになり、キリスト者でない批評家が書いた初めての本でもあり、本を出してから折々に頼まれて書いた文章が、優に100枚を超えたので、思い切って「増補版」をだすことにしたのである。こちらは、札幌の出版社が出してくれるというので、応諾したのだが、10年ぶりぐらいに蘇る本を手にする著者としては、以前の印象として自分でも満足するぐらいこの本が大変よかったということもあり、「増補版」が出るのを楽しみにしている。これはいつになるか? 晩秋になるかどうか。
 その他に、「国文学 解釈と鑑賞」の原稿が1本、単行本の「解説」が1本、9月までに書かなければならないのだが、このように書けば、批評家として仕事をしているんだ、ということになるのだろう。
 ともかく、体力勝負。頑張らなくちゃ。

何故か、夏バテ気味。

2008-07-29 06:13:43 | 仕事
 この2日ほどはそれほどでもなかったのだが、それ以前の「猛暑」のせいか、どうもこのところ「夏バテ気味」で困っている。
 先週ようやくいろいろな雑用仕事が片付いて、今週から自主的に「夏休み」をとった矢先、家庭菜園を見たら余りに雑草が蔓延っているのがわかり、里芋(の場合は、実りの秋を期待して土寄せもした)、ピーマン、蔓なしインゲン、キュウリ、の周りだけでも草むしりをしようと思ったのだが、結果的には枝が伸び放題のキュウイ・フルーツの棚の手入れ、菜園の周りの雑草を草刈り機で狩り払う羽目になって、久し振りに汗びっしょりになったのが悪かったのかも知れない。夏の炎天下での農作業、玄人は朝の涼しい内か夕方に作業をするようであるが、こちらは全くの「素人」、できるときにする、というのが大原則だから、多少へばってもやることはやってしまおうという魂胆、これが調子を崩す原因になってしまうことを毎年のことなので知っているはずなのに、「のど元過ぎれば熱さを忘れ」の類で、今年も「夏バテ」を増長させてしまったようである。
 何をしても「持続」せず、本を読んだりテレビを見たり、終日ごろごろしていた2日間、昨夜からようやく「正気」に戻って、懸案の「村上龍論」の原稿を書き始めたが、しばらく「空白期間」があったので、調子が出るまで時間がかかった。ともかく、8月末までに450枚ほど書く予定なのだが、まだまだ道半ば。今日から心機一転、という気持になっている。
 ところで、体調が思わしくないと、小説も楽しく読めず、その作品の欠点ばかりが気になって仕方がないという状態になること、またテレビも「根性もの」や昨今流行りのお笑い=「悪ふざけ」などは生理的に受け付けず、人とも余り会いたくなくなるということを、改めて認識した。「意欲が沸かない」というのではなく、「意欲」はあるのだが、どうも体の芯で何かを拒否しているような「変な気持」に陥っている、という感じで、感受性も鈍くなっているのかな、とも思ってしまった。
 それでもさすがに、昨夜のニュースで伝えられた神奈川県平塚市のJR駅構内で若い女性が次々と男性をナイフで刺したという事件については、「壊体」の進行が余りに早いのではないか、との思いを禁じることができず、だるい体をしゃきっとさせてくれた。それほどまでに「閉塞感」が社会全体に横溢しているということなのだろうが、今度の事件(だけでなく、昨今続いている「無差別殺傷事件」)は、犯行をとどめるべき「垣根・歯止め」がこの社会に本当になくなってきてしまっているのではないか、と思わせ、思わず身震いせずにはいられなかった。昨夜の段階では事件の詳細については分からなかったが(いつもは1時過ぎに床につくのに、昨夜は何故か11時頃急激に眠気が襲い、そのまま寝てしまったので)、男も女もこの時代や社会に対する「不満」や「不安」を、「殺すのは誰でもよかった」無差別殺傷事件という形で発散させてしまう、「狂っている」としか言いいようがないように思えるが、最も問題なのは、このような「事件」が頻発しても、それを家庭や教育の問題に矮小化して、根源的な責任が「数を頼り」に支持率が20パーセント台にもかかわらず、居座ってむちゃくちゃな「政治」を行っている現政権のいい加減さにあるのに、そのことは隠蔽して「安定」を装うやり方、そのような「政治」にこそ昨今の「狂った」事件の原因があると思うのだが、これも所詮「田作の歯ぎしり」か?
 このままの状態は絶対よくない。放置しておけば、ますますおかしな事件が起こるのではないかと思う。まず、「格差社会」をなくさなければ……。

どこかちぐはぐ。

2008-07-28 09:39:15 | 近況
 新聞がおしなべて面白くないのは、いつも似たり寄ったりの記事しか書かれていないからだと思っているのだが、東京新聞の2面にわたって書かれる「こちら特報部」は、その取材角度がユニークで、毎回読ませる記事になっているので、感心しているのだが、今日(28日)の記事にはとりわけ考えさせられた。
 内容は、沖縄の若者が集まるスポットとなっている北谷町に「高級マンション」(家賃が月25万円~40万円ほど)が次々と建てられ、そこに米兵家族が入居し、北谷町の総人口の3分の1を占めるようになり、北谷町と言えば米兵による婦女暴行事件をはじめとして数々の事件が起こっているところなので、旧住民が困惑しているというものであったが、この記事が面白いのは、このような米軍家族の基地外への居住が、例の日本政府による年間2300億円余りに及ぶ「思いやり予算」によって可能になっているのではないか、と推測していることである。
 何故「断定」でなく「推測」なのか。それは、防衛省もアメリカ軍当局もこの「思いやり予算」の詳細には言明せず、不明だからである。もちろん記事は「推測」の裏付けもしている。それは、米軍兵士(家族)向けの住宅は、あの広大な嘉手納基地内をはじめ各基地内にたくさんあり、しかも「空き住宅」も数多くあるというのに、基地外の新築マンションや住宅に住む米兵が多いのは、「米軍が支給する」住宅手当が高額だからであるが、元々米軍は25万円とか40万円とかという高額な住宅手当を他の国では出しておらず、日本だけ「特別」なのは、日本が潤沢に「思いやり予算」をだしているからなのではないか、というわけである。つまり、「高額」な住宅手当は、日本人が払った「税金」によって保証されているというわけである。
 格差問題やワーキングプアの問題がこれほどまでに叫ばれながら、そんな社会状況などどこ吹く風とばかりに、何が「思いやり」なのかわからないお金=税金を湯水の如く使う、おかしくないか?
 同じようなことは、国会議員たちの「海外視察」や防衛省や国交省をはじめとするお役人たちの「金銭感覚」にも言える。特に、一人300万円ほどの税金を束っての、しかも報告義務のない「海外視察」という名の海外旅行(遊び)、僕らはエコノミークラスで海外の学会に参加しても、出張旅費をもらうためには航空券の半券を添付することが義務づけられているが、そのことに比べて国会議員がいかに「優遇」されているか。「思いやり予算」と同じ構造を持った国会議員の「海外視察」、このような「無駄」があちらこちらに散在しているにもかかわらず、それらを是正することなく、安易に消費税を上げて、当面の危機を回避しようとする姑息なやり方、本当にどうにかしないとこの日本はこのままでは存続できなくなってしまうのではないか、と思える。
 しかも、そのような「歪み」のしわ寄せは、最も弱い部分(派遣労働者やフリーター、障害者、老人、子供、等)に集中し、その揚げ句に自分と他者を傷つけることでその「苦」を解消しようとする。昨今の「無差別殺傷事件」の犯人(容疑者)が必ず口にする「誰でも良かった」という台詞ほど、この時代に蔓延しているニヒリズムを象徴しているものはない。「雑草」という名前の草はなく、どんな草にも名前がついているように、どのような人間もかけがえのない生を送っているという意味で、他者から自分の命を奪われるどんな理由も持っていないはずである。
 このような現象を「価値紊乱」というのかも知れないが、「壊体」社会を早急に立て直さないと、本当に「駄目な国」になってしまうのではないか。アナクロを承知で言えば、いつでもどこでもケータイを手に持っているような生活を止めて、家族同士で顔を見合わせるような生活に戻るべきなのではないか。すべては、そこからしか始まらないのではないかと思うが、どうだろうか?

奇妙な感覚

2008-07-26 11:22:21 | 近況
 昨夜、立松和平氏の仕事がらみで、氏と共に関係する出版社の社長、および担当編集者たちと、打ち合わせが終わった後「一杯」ということになって、出版社がある神田神保町の居酒屋に行ったのだが、給料日(25日)の金曜日ということもあって、どこの居酒屋も満杯で(居酒屋でなく、もう少し高級な飲み屋だったら開いていたのかも知れないが、僕も立松氏も居酒屋が良いということで、居酒屋を探したのである)、3軒目にしてようやく席を確保することができ、そこで「慰労会」になった。
 「慰労会」の中身については、近いうちに明らかにするが、僕が書きたいのは、泡盛(久米仙)の水割りを3杯のんで、立松氏に「えっ、黒古さん飲めるようになったの」とからかわれた(僕は立松氏と何度も一緒に酒を飲む機会がありながら、いつも「余り飲めないから」ともっぱら料理を食べることに専念していたので、立松氏にしてみると、泡盛の水割りを3杯も飲む僕の姿は新鮮だったのだろう。お蔭で、帰りの満員電車の中ではかなりきつい思いしたけれど)「慰労会」のことではなく、この夜、どこの居酒屋も満杯という状態に、何故か「違和感」をぬぐい去ることができなかったということについて、である。
 というのも、夕方5時の待ち合わせまで、大学で(つくば)ある一人の学生と面談していて、その学生が経済的に追い詰められた状態にあることを知ったということ、またその前日に得た授業料免除や奨学金受給を希望する学生が年々増えてきているという情報とも関係しているのかも知れないが、嬌声を上げるサラリーマンや学生で満席の居酒屋風景と「不況」によって追い詰められている学生たちとの間に存在する「落差」、このままこの状態を放置していたらとんでもないことが起こるのではないか、という「不安」、これが酒を飲みながら感じた「違和感」であるが、強まりこそすれ全く弱まることのない「閉塞感」、これでは「政治不在」を言われても仕方がないのではないか、と実感した。
 もちろん、給料日の週末に居酒屋が満席になるというのは、裏返してみれば、それだけ社会全体の景気が悪くなっている証拠、とも言える。僕らは、宴席でつまみとして薩摩揚げ、豚の角煮、冷や奴、衣かつぎ、イカ焼き、、等を注文して食したのだが、たぶん他の席の人たちも僕らと同じように1人前数百円のつまみでワイワイ騒いでいたのだろうと思うと、僕らを含めて居酒屋で嬌声を上げている人たちが「上」で、退学するかアルバイトして当面をしのぐかの決断を迫られている学生(及び家族)が「下」だなどとは決して言えない。みんな「タダの人=庶民」はこの「閉塞」した社会にあって等しく「被害」を受けており、そのような被害者の「怨念」が集まると、そのエネルギーが最も弱い箇所(例えばそれは、秋葉原事件や八王子事件の犯人)から吹き上がる、それが今の社会なのではないか、と思ってしまうのである。
 それ故、この「閉塞感」を打破するためにも、是非とも福田首相には「内閣改造」などという小手先政治ではなく、解散総選挙を実施するようにしてもらいたいのだが、毎夜クーラーの効いた部屋で「高い料理」を食べている政治家たちには理解してもらえない要求かも知れない。虚しくなるから「悪あがき」はしないでおこうと思っているのだが、ついつい「愚痴」をこぼしてしまう、弱いね。

「口舌の徒」の論理?

2008-07-25 11:18:45 | 文学
 この時代を生きていて感じられる「漠然とした不安」について書いたら、そこに「田中冽という人から、(要約すれば)「評論家としてうだうだ言っている暇があったら、例えば洞爺湖サミットに反対するNGOの集会などに参加して、きちんと<反>の意思表示をせよ」という趣旨のコメントが寄せられたが、この「一理ある正当な」批判に対して、このブログを続けていく理由と共にきちんと僕の考えを述べておきたいと思う。
 まず、寄せられたコメントが「一理」あり「正当」だと思う理由について言っておきたいのだが、この「実践」と「理論」の相克という問題、つまり実践者は昔から(民主主義社会が形式的にも成立し、表現の自由・思想の自由が行使されるようになった時代から。経験的に言えば僕が学生時代を送った「政治の季節」の時も)、「理屈」を述べている暇があったら問題の現場に立ってきちんと自分の意思を行動で示せと主張してきて、僕もその意見=考えに与していた時期もあった。というか、今でもこのままでいいのか、「文章」を書くことで「参加(大江健三郎流に言うならば「アンガージュマン」、村上春樹流に言うならば「コミットメント」)」する以外に、僕にも何かできることがあるのではないか、と自問することが多い。
 しかし、かつて「延命」か「自爆」かの選択を迫られ(詳しいことは書けないが)、試行錯誤の末に「自爆」はやはり「卑怯」な方法なのではないかと思い、最終的に「延命」を選び、より良き「延命」を行うために文芸批評の道しか残っていないと思ってこの道を選んだ僕とすれば、例え「口舌の徒」と揶揄されても、「後ろめたさ」を引きずりながら、それでも「行動」ではなく「言葉」によってこの社会に対する「異和」を論理化していく方法しか、今は考えられないのである。それ故、僕のような方法に対して、そんなのは所詮「口舌の徒」の言い訳に過ぎないと言われれば、「はい、そうですね」と言うしかなく、この時代や社会に対する「異和」をどのように表現するのか、という方法の違いと考えるしかない、と今では思っている。
 だがしかし、考えて欲しいのは、毛沢東の「実践論・矛盾論」ではないが、「理論」なきところに「実践」はなく、「実践」なきところに「理論」は生まれない、というのも僕は真理なのではないかと思っており、その意味では「口舌の徒=理論家」(必ずしも僕という意味ではないので、誤解のないように)と「実践家=行動者」とは弁証法的な関係にあるのが理想であり、お互い「補完」しあう関係にあるのが一番いいのではないか、と思うがどうだろうか。
 ところで、戦後の反体制運動や大衆運動の歴史を繙くと、いつも運動内部の「対立」によって「敵を利する」結果になっており、その都度「小異」を捨てて「大同」に就け、と言われてきたが、僕は単に「理論家=口舌の徒」と「実践家=行動者・運動家」の対立という問題だけでなく、全ての事柄において「小異を捨てて大同に就く」ことが大切なのではないか、と思う。もちろん、「小異」の拠って来たるところを厳密に検証し、「異」を解消していくという方法も大事さであるし、そのようなことがなければ、例えば文学研究などというものは「深まらない」。しかし、「敵」が巨大な力と組織を有し、個別に対抗したのでは絶対に歯が立たないようなときは、結果的には「敗北」するようなことになったとしても、「小異を捨てて大同に就く」ことでしか、「敵」に対抗できないのではないか。「連帯」という言葉はもう古くなってしまったかも知れないが、「小異を捨てて大同に就く」ことが「連帯」の始まりなのではないか、と思う。
 だから、決してこじつけではなく、僕がこのブログ内でよく使用する「共生」という言葉には、以上のような「連帯=小異を捨てて大同に就く」という意味も含まれているのであり、そのように考えてくれると嬉しいのだが。「弱い者」が角突き合わせていても、「利する」のは権力を行使する側だけであること、このことは肝に銘じておきたいと思う。
 

なんと言えばいいのか

2008-07-24 13:23:59 | 近況
 昨日の朝、ニュースから聞こえてきた「西桐生駅で高校生が変死」という言葉と共に映し出された見慣れた光景、かつてその駅は大学を卒業して小学校の教師をしていたときに何度も利用していた場所であり、このニュースを聞いたときに先ず思ったのは、「何で?」というものであった。「西桐生」という名前は付いているが、前橋と桐生を結ぶローカル線の田舎の駅、同じ駅を僕と同じように利用していたことのある家人も絶句し、被害者の高校生が自宅からあまり遠くない中学の出身者で、加害者も(詳細はわからないが)近くに住んでいるのではないかと思い、余計に「??」という気持ちになった。「ブログ」の記事に難癖をつけた揚げ句の暴行死、いかにもネット社会の「暗部」を照らし出す事件であった(「ネット小僧」たちは、俺たちはあいつらと違うと嘯いて、今日もまた「言葉の刃」を「見知らぬ人間」に向け続けるのだろうが……)。
 同じ日に、東京八王子では書店のアルバイト学生(中央大学4年生)が「(殺すのは)誰でもよかった」という33歳の男に胸を刺されて殺されるという事件が起こった。まだあの「秋葉原無差別殺人事件」から1ヶ月余りしか経たないのに、まさに現代が「壊体」する社会であることをまたまた証明するかのような同じような事件、もうこの社会を根幹から「解体」して「再編」するしかないのではないか、と思えて仕方がない。
 もちろん、桐生の事件も八王子の事件も(また秋葉原の事件も)、一部の「不健全」な若者たちが起こした事件であり、この日本社会の大部分の「健全」な人たちにとっては「無関係」なことであるかもしれない。しかし、八王子事件の犯人が高校中退後「アルバイト」や「派遣」の仕事で10年以上を過ごしてきたこと、そして桐生事件の犯人が高校を中退したばかりの「無職少年」であったこと――この事件の被害者と加害者が通っていた高校は、高校野球の名門校で甲子園で優勝したこともあるが、(嫌な言い方になるが)偏差値的には地区で一番の底辺にあるといわれている高校である。似た名前の地区随一の進学校とよく間違われる――、また秋葉原事件の犯人も「派遣社員」であったこと、これらのことを併せ考えると、この社会の「歪み」=「壊体」現象が事件の遠因として考えられる(否、直接的な原因と言っていいかも知れない)、と誰もが認めるのではないか。
 先日、中国からの留学生と「なぜ高度経済成長下の中国で村上春樹がよく読まれるのだろうか」という話をしていて、高度経済成長によって「豊か」になった中国社会であるが、その反面経済成長の「恩恵」から取り残された若者たちの「閉塞感」「絶望感」「喪失感」は深く、そこから生じた「心の空白・空洞」を村上春樹の小説は埋めてくれる、ということを聞かされ、高度経済成長期からバブル経済期とその崩壊を経験した日本社会は、2日前の八王子事件、桐生事件が象徴するように、中国よりもさらに「人間破壊」が進んでいるのではないか、と思わざるを得ない。
 広がる「社会の格差」、増大する「ワーキング・プアー」、それに加えて、これは僕の実感であるが「希薄さ」を増しつつある人間関係(ジコチュウ人間の増大)。もちろん、全ての人間がそのような「嫌な状態」にあるというわけではない。「親和」的な関係を保ち続ける人間関係もたくさんある。先日も、(前にも書いた)立松和平氏と長野県安曇野に講演に行ったときに、僕のゼミを何年か前に卒業した女の子が学生時代と変わらない姿で「懐かしい」と言って会いに来てくれたし、昨日もドアの前にこの3月に卒業した学生のメッセージが写真(在学中に一緒に撮ったもの)と共に置かれている、ということなどもあり、この世の中そう捨てたものでもない、ということがないわけでもない。
 しかし、総体としては、どうしても「おかしくなっている」この社会、何とかしなければならないのではないか、という思いは募るばかりである(僕一人がしゃかりきになっても、また仕方ないのかも知れないが……)。

「漠然とした不安」

2008-07-22 10:09:55 | 近況
 前夜一緒にカレーを作って食した父娘が、一夜明けたら、父親の方は血だらけの死体になって横たわり、娘の方は父親を刺した庖丁を握って父の側で呆然としていた、という何とも不可解な「殺人事件」。マスコミ報道からは、父親を殺害したどんな「理由」も見えてこない。「父親とは余り会話がなかった」「父親は日頃から学校の成績にうるさかった」などというのは、14歳という年頃を考えれば、すべて「当たり前」のことで、特別に異常なことではない。もし本当に、こんな理由で子供に「親」が殺されるとしたら、世の中の大半の父親はおちおち寝ていられなくなってしまう。それに、そんな「異常」な社会になったらと思うと、ぞっとする。 犯人である女子中学生と面談したわけでも、また日頃の言動を知っているわけでもないので、その意味では全くの想像でしかないのだが、彼女は語ったという「夜中に父親が家族を殺そうとしている夢を見た」から判断するに、彼女の「頭」に何らかの人智を越える力が働き、ある種の狂乱(パニック)状態になって、「夢」の続きを見ているつもりで、「殺される前に殺せ」というような指令を脳が受け、そして父親を殺害してしまう。まるで「オカルト」だが、今は女子中学生にそのような状況を強いる社会になってしまっている、中学生だろうが社会人だろうが、この社会に生きるすべての人が、ただ「漠然とした不安」を抱いて日々を過ごしている、というのが現実なのではないか。父親と口論して家を飛び出した男子中学生がバスジャックする、ということを思い合わせると、余計そのように思えてならない。
 それに話は飛躍するように見えるが、一向に改善されることのない諸物価の値上げに集約される世界情勢の不安定さ、及び地球温暖化などの地球規模の「人類の未来」に関わる問題、等々、僕らの周りに「いいこと」は全くない。日本に限ってみても、「格差」の拡大や「ワーキング・プア」の増大、年金問題、後期高齢者医療制度の問題、等々、問題は山積され、いつ解決策が示されるのか、全く見通しが立たない状態で、「のほほん」としていろとは言えない状況にある。これもまた「漠然とした不安」を醸し出す要因と言っていいだろう。それに昔は、そのような「ヤバイ情報」は、「大人」が独占していて「子供」はシャットアウトされていたから、余程のことがない限り子供たちは自分たちの世界に自閉することができた。しかし、今や「情報化社会」、どんな情報も大人子供の区別無く、知ろうとする者には手に入る時代になった。ボーダーレス時代に相応しく、「大人」と「子供」の境目がなくなってきているのである。このような「現実=変化」を見誤ったところに、「親殺し・子殺し」が発生しているのではないか、と僕には思えてならない。 そして思うのは、「暴力」がそのような形で「外」に出るのも問題だが、「内」に籠もって「ジコチュウ」になるのも、また問題である。
 僕らが「漠然とした不安」から解放されるのは、いつのなるのだろうか。

松山市・内子町・旧大瀬村訪問(付け足し)

2008-07-21 11:53:08 | 文学
 僕の知る限り、大江健三郎は「全集は刊行しない」「記念館、記念文学館の類も建設に同意しない」という姿勢を貫いている。多くの作家が「全集」という形で自分の文学をまとめたいと思っており、またもし可能ならば「記念館・記念文学館」のタグがけ説されることを望んでいることを考えると、大江さんの「信念」は「異常」と映るかも知れない。
 今回、松山市・内子町・旧大瀬村を訪問し、大江さんの恩師や同級生、あるいは関係者の方々から話を聞いて、何故大江さんが「頑な」とも思える態度で、故郷(旧大瀬村・内子町・松山市)に対して「異和」を感じているのか、地元=故郷の「要求・要望」に何故応えないのか、の一端が理解できたような気がした。自分が生まれ育った旧「大瀬村」を原型に、「森」に囲まれた「谷間の村」とし多くの物語を創り出してきたにもかかわらず、である。
 それは、大江健三郎というノーベル賞受賞作家に対する故郷=地元の評価が「愛憎」半ばするといった感じで、極端な言い方をすると、旧「大瀬村」の人で何人が大江の小説やエッセイを読んできたか、という疑問を禁じ得ないと言うことに通じる。内子町大瀬地区には、かつての村役場が「大瀬の館」という名前の「研修・宿泊」施設があり、その中に「大江文庫」も存在するのだが、それは現在手に入る「単行本」を揃えただけで、あとは大瀬地区を訪れた大江さんのポートレイトが飾ってあるだけの、貧寒としたものにすぎなかった。大江さんの恩師という方も、社会科の教師であったということもあって、殆ど読んでいないという。
 松山東高校の同級生・同窓生についても同じようなことが言えるようで、必ずしも「歓迎」されているとは言えないという印象がある。それに先の「報告」にも書いたが、県、市が双手を挙げて「ノーベル賞受賞記念祝賀会」を松山市で開こうとしたことに対して、「否」と返事をしたということ、さらに関係者の「証言」では余り故郷=地元と関係を持ちたくないような素振りを見せたこと、等々、故郷=地元に対する大江さんの「微妙な心理」が地元の人々の「反発」を招いている、というようなことがあるように思う。
 元々、愛媛県(松山市・等々)は、戦後の教育民主化に対する「反動」の極致と言われる「勤務評定」を日教組の猛反対を押し切って(その結果、愛媛県の教員組合はズタズタに分断され、弱体化された)、全国に先駆けて実施したり、全国一斉学力テストも大歓迎するなど、「戦後民主主義者」を自認する大江さんを逆なでするような「保守県」で、大江さんがノーベル賞を受賞したから「祝賀会」というのは、政治的便宜主義の典型であった。その意味では、断るのは当たり前とも言っていいのだが、それに拍車を掛けたのが、天皇から勲章は貰えないという理由で「文化勲章」の授章を辞退したことである。「右翼」の脅しに同調するような考え方が見え隠れする地元=故郷、大江さんの足がだんだん遠のいていっても仕方がなかったのではないか、と思う。
 大江さんが「蕩児」というわけではないが、「蕩児は、故郷に錦を飾れない」の原則がここでも働いていると思い、愕然とした。
 「衣の袖から鎧がちらっ」というのが、今回の「松山市・内子町・旧大瀬村訪問」で僕が実感したことであった。いろいろ世話になって、今更こんなことは言いたくないのだが、文学者が出身地=故郷に受け入れられるのは、並大抵のことではない、と思った。

「竹島」問題について

2008-07-20 17:27:42 | 近況
 山本徳市さんからの質問に答える形で、いま日韓の間で大きな問題になっている「竹島」の領有権を巡る問題について、僕の考えを述べたいと思う。
 そこでまずお断りしておかなければならないのは、僕は外交史の専門家でも、また歴史家でも、社会評論家でもなく、(逃げを打つつもりではなく、揚げ足取りを避けるために言っておくのだが)一介の大学教師であり、文芸批評家にすぎないということです。ですから、もしかしたら僕の意見は「偏見」の塊であり、「暴論・極論」の類かも知れません。
 さて、本論に移りますが、まず僕の考えでは、領土(領有権)問題は何よりも「国家」の問題であって、「市民(民衆)」の問題ではない、ということがあります。どういうことかと言えば、最近のヨーロッパを見れば分かるように(僕にとっては3年前のスロベニアにおける1ヶ月の生活経験から実感したことだが)、「国境」は「市民」のレベルで本来は何の意味を持たなくないもの、ということがあります。「国境」付近の両国民は、僕らが県境を普段意識しないのと同じように、「国境」を行ったり来たりしながら日常生活を送っています。ですから「国境」が意識されるのは、「戦争」とか「国際紛争」があったときぐらいで、それだって市民が直接関与するものではないから、イタリア・ファシスト党やドイツ・ナチ党に対するパルチザンがそうであったように、市民のレベルにおいては「国境」を無化するような連帯行動が度々行われた。その時、例えばフランス、イタリアのパルチザンに「国境」など無かった。
 ことほど左様に、「国境」などというのは、日本の場合海に囲まれているので意識せざるを得ないのかも知れないが、「普通の市民」にとって意味のあるものではないのではないか、と僕は思っている。ですから、「竹島」問題は(かつての北方領土問題と同じように)、日本にしろ韓国にしろ、「内政」に何らかの問題が生じたときに、国民=市民の目を「外」に向ける(そらす)目的で問題化されているように思えてならないのである。内閣支持率が極端に下がっている福田政権が「竹島」問題を再燃させ、それに米国産牛肉の輸入問題で何十万人というデモ隊に囲まれた韓国政府(大統領)が応じたというのは、あまりにも分かり易い構図である。それは、「感情」抜きで言うならば、北朝鮮における「拉致問題」が小泉-安倍政権において最大限「政治利用」されてきたのと同じである。「美しい国」を作るために「拉致問題」を利用した安倍前首相、彼が「タカ」派的なパフォーマンスをウリの「ネオ・ナショナリスト」であることと、もし今解散総選挙が行われれば確実に与党(自民・公明)が惨敗し政権を投げ出さざるを得ないことを考えれば、いま何故「竹島」問題がクローズアップされているのかが、よくわかるのではないか。
 外に「敵」を作って、何とか厳しい「内政問題」を乗り越えようとする、姑息な手段であるが、そんな「危険」な外交によってとんでもない状態になるのは勘弁してもらいたいと思いつつ、僕の結論(持論・思想)を言うならば、「竹島」は日本と韓国の「共有」にすればいいのである。領海問題も、漁業水域の問題も、竹島が日韓で「共有」された地域であるという前提に立てば、何の問題もないのではないか。これは、原理的には北方領土問題でも同じ論理で解決できるのではないか、と僕は思っている。「共生」とは、本来そういうものではないのか。それを「ややこしく」しているのは、すべて「政治」であり、「ナショナリズム(国粋主義)」的イデオロギーである。「グローバリズム」とは違う(と僕は思っている)「インターナショナリズム」の思想こそ、いま必要とされているのではないか。
 山本徳市さん、言葉足らずかも知れませんが、以上が僕の「竹島」問題に対する考え方です。もし、「異論」や「反論」、「疑問」がありましたら、どうぞコメント下さい。「ネット小僧たち」のように匿名性に隠れて「誹謗・中傷」するのでなければ、僕はいつでもお答えしたいと思っています。