黒古一夫BLOG

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歴史から学ぼう(12)――「モラル・ハザード」はどこまで進むのか!

2017-04-24 10:08:47 | 仕事
 安倍自公政権の閣僚や政務官の「モラル」がいかに低下しているか、これをマスコミ・ジャーナリズムは政権の「緩み」「傲り」の表れだといっているが、確かに安倍首相自身の「軽口」や「虚言=事実に基づかない空言」がそもそもの始まりであったとしても、閣僚や政務官たちが「公然」とジャーナリストたちに暴言を吐いたり、世の中の流行を追っているのか「不倫騒動」を起こしているその一番の原因は、「政治のプロ」であるはずの彼らが余りにも「勉強しない」、つまり「不勉強」であることにあるのではないか、と傲慢に思われるかも知れないが、僕は今そのように思っている。
 言い方を換えれば、世の中全体から自分以外の「他者(物・人)」に対する想像力が決定的に枯渇しているのではないか、全てが「ジコチュウ」(自己中心的)になっていて、「他」のことなど全く考えない、つまり「自分さえよければ」という風潮が余りにも世の中に蔓延しすぎているのではないか、ということである。
 例えば、現在問題になっている「北朝鮮」問題にしても、アメリカや日本は北朝鮮のミサイル実験や核実験を問題視するが、核兵器を世界で一番保持しているのはアメリカ(とロシア)であり、日本も世界からは「余りかの傘の下」に存在するというだけでなく、核兵器の材料であるプルトニウムを大量に保持しているところから「潜在的核保有国」とみなされていて、北朝鮮の核実験を非難する権利など、アメリカと共に持っていないことを、どうして誰も指摘しないのか。さらに言えば、北朝鮮を擁護するわけではないが(僕は、「反核・反原発」の立場から、いかなる国の核兵器保有を認めない氏、原発の存在も認めない)、目と鼻の先で自国を「敵」とみなす「米韓(日)合同演習」なる軍事演習が日常的に行われ、また核弾頭を装備した巡航ミサイル・トマホークを積んだ原子力潜水艦が自国領海内に潜んでいる事実(現実)を「無いものとして」、北朝鮮の核武装を一方的に非難することも、また安倍首相のように「悪者」扱いにできないのではないか、と思っている。
 もし、アメリカ軍、あるいは韓国軍、さらには集団的自衛権をこうして自衛隊(日本軍)が北朝鮮を「先制攻撃」した場合、まず北朝鮮の反撃はミサイル(核弾頭を積んでいるかも知れない)による韓国のソウルをはじめ主要都市、そして日本のアメリカ軍基地及び主要都市であること、このことを私たちはどれだけ深く認識しているか。僕は、前にも書いたが、冷戦時代のソ連極東軍の巡航ミサイル「SS20」の標的が日本各地に存在するアメリカ軍基地だ、と副司令官が胸を張って宣言したときの戦慄を今でも忘れることができない。ヒロシマ・ナガサキの現実が如実に物語るように、核兵器が一度爆発すればターゲットだけでなく広い範囲の周辺が放射能に汚染され多くの犠牲者(死者・被爆者)が出ることとを、安倍首相をはじめとして北朝鮮との「戦争」を望んでいるように見える政治家やマスコミは、考えないのだろうか。
 核と人類は共存できない」というのは、ヒロシマ・ナガサキが僕たちにもたらした最大の教訓(教え)である。そんなことは、腹民喜の『夏の花』や大田洋子の『屍の街』から始まる原爆文学の一つでも読めば、すぐ分かることである。にもかかわらず、北朝鮮との戦争をはじめとして「戦争辞さず」と考える保守派は、もう「無知」「馬鹿」としか言いようがない。

 と書いてきて、昨日(4月23日)の朝日新聞の「読書欄」の「『核』の恐怖と破壊 そして希望』富田委sのついた文芸評論家・富岡幸一郎による「ひもとく 林京子の文学」のひどさに、呆れてしまった。呆れたのは、富岡の「不勉強」もあるが、この欄の担当者も表には出ないが、また「不勉強」を露呈したものになっていたからである。
 周知のように、富岡は保守派の言論を代表する「表現者」の編集長で、靖国神社のパンフレット「十年の歩み」(靖国神社崇敬奉賛会事務局編)に、「『A級戦犯』と何か」という文章を寄せていて、その中で「南京の真実」という映画が「『南京大虐殺三十万人』という中国政府の政治的プロパガンダの嘘」と書いた人物である
 そんな「右派」丸出しの評論家に、戦前、幼少女期を上海で送った林京子が生涯中国に対する日本(軍)の「加害責任」(その中に南京事件も含まれる)を感じ続けてきたことは、『ミッシェルの口紅」や『上海』、『予定時間』という作品を読めば一目瞭然であるにもかかわらず、「林京子の文学」wなる駄文を書かせる、編集者も「不勉強だ」というのは、林京子の「上海」体験を元にした上記のような作品を読んでいないらしく、富岡の文章に林京子文学にとって重要な「上海体験=戦争体験に関する記述が一切無いことに気付かなかったように思えるからである。
 林京子について何も分かっていない批評家(富岡幸一郎)が、あたかも何もかも分かったかのように書く、読書欄担当の新聞記者もそれを黙認する、これは政治の世界と同じようにこの世の中で「モラル・ハザード」がいかに進行しているかを物語る事例の一つである、と僕は思った。
 ますます、嫌な耳朶になってきた
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