2,3日前、小泉政権から安部政権へと続いた保守化(偏狭なナショナリズムの称揚)の流れの中で起こった、いわゆる「沖縄訴訟」(沖縄戦において日本軍の命令による住民の集団自殺があった、とする立場から「オキナワ・ノート」を書いた大江健三郎と版元の岩波書店が、集団自殺のあった島の守備隊長の関係者と称する人から訴えられた裁判)に関する判決が最高裁から出た。「上告棄却」という最高裁の判決は、沖縄戦に関わる山のような文献の一部を読んだだけでも「当然な判決だ」と思われるが、それとは別に、「ヒロシマ・ノート」に次いで「オキナワ・ノート」を刊行して、小説とは異なるエッセイ・評論の形で時代(歴史)と人間の関係を世に問いかけてきた大江健三郎の在り方を思うと、大江たちの次の世代になる僕らの世代=全共闘世代(団塊の世代)の、時代(状況)に関する感度の鈍さ、それに伴う状況認識の甘さについて、自戒を込めて認識せざるを得なかったからに他ならない。
というのも、昨日送られてきた朝日新聞出版のPR誌『1冊の本』(5月号)に掲載されている巻頭随筆「死に神に突き飛ばされる-フクシマ・ダイイチと私」(加藤典洋)を読み、感度の鈍さを痛感せざるを得なかったからである。加藤は、東日本大震災が起こったときアメリカのカリフォルニア州・サンタバーバラにいたと言い、帰国して福島にいる親戚や友人の安否を確認した後、原発事故について「根底的に考え抜く」ということで、その「考え抜く」内容を次のように列記する(正確を期するために、そっくりそのまま引用する)。
1.原発は、今後の日本社会の存続、また世界の未来にとって不可欠なのか。資源、環境、人口、 南北格差という地球の有限性の問題のなかで、ウランという地下資源に依存し、使用済み燃料の 廃棄について汚染の問題を解決できていない原子力エネルギーが、どこまで、どのように有効な 対策でありうるのか。
2.それが持続的には有効でない場合、では、代案はどう考えられるか。もし、原発と原子力エネ ルギーを今後、太陽エネルギーに代表される各種代替エネルギーへの転換に向け、順次縮小し、 やがて廃棄にもちこむ移行策が妥当と考えられる場合、その現実的な展望とは、どのようなもの か。そのために検討、考察されるべき項目とはどのようなものか。
3.これら、地球と社会の持続可能なありようを支える、今後我々が模索すべきあり方、考え方、 哲学とはどのようなものか。
結論として、これらの項目を「すべて自分の頭で考える」以外に、この状況に対する方法はない、としている。
加藤が提示したこの1~3の「フクシマ」の事態に対して考える「内容」を見ればわかることは、第1に「フクシマ」が起こる前に加藤は原発や原子力エネルギーに関して「全く」考えていなかった、ということであり、第2に加藤は「考え抜いて」結論が出るまで日本全国に現在54基ある原発は、とりあえず「仕方がないから容認する」という立場を表明し、第3に自分は当面「考え抜く」ことに専念し、原発問題・「フクシマ」問題に関して、行動も起こさないし、立場の表明しないということを、(暗黙)に表明している、ということである。
加えて、加藤はかつて『アメリカの影』という書物で1945年8月6日・9日の「ヒロシマ・ナガサキ(つまり「原爆」)」について、日本の戦死者数との関係で論じたことがあるにもかかわらず、このエッセイで何故「ヒロシマ・ナガサキ」と「フクシマ」との関係について言及しないのか、ということがある。まさか、どこかの政党のように、原爆と原発は別なものだなどと思っているわけではないだろうが、あれほどいろいろ「考え抜く」と言明している割には、肝心要な部分が欠落している。この欠落が加藤の文学観や思想の欠落に通じていなければ幸いなのだが(僕が、最新刊自著『「1Q84」批判と現代作家論』で、加藤の『1Q84』論を批判している)。
いずれにせよ、もう少し時間を見なければいけないのかも知れないが、「最後の戦後派」と言われる大江や小田実たちの次の世代である僕らの世代とそれより下の世代の、「時代(歴史)」意識の鈍さ、状況認識の甘さ、これは早急に何とかしなければいけないのではないか。
チェルノブイリ原発からちょうど25年、未だ彼の地では原発から半径30キロが立ち入り禁止地域になっているという。「フクシマ」ではどうなるのだろうか。今生きている人間はおしなべて子孫に対して「責任」がある、と僕は思っているのだが……。
というのも、昨日送られてきた朝日新聞出版のPR誌『1冊の本』(5月号)に掲載されている巻頭随筆「死に神に突き飛ばされる-フクシマ・ダイイチと私」(加藤典洋)を読み、感度の鈍さを痛感せざるを得なかったからである。加藤は、東日本大震災が起こったときアメリカのカリフォルニア州・サンタバーバラにいたと言い、帰国して福島にいる親戚や友人の安否を確認した後、原発事故について「根底的に考え抜く」ということで、その「考え抜く」内容を次のように列記する(正確を期するために、そっくりそのまま引用する)。
1.原発は、今後の日本社会の存続、また世界の未来にとって不可欠なのか。資源、環境、人口、 南北格差という地球の有限性の問題のなかで、ウランという地下資源に依存し、使用済み燃料の 廃棄について汚染の問題を解決できていない原子力エネルギーが、どこまで、どのように有効な 対策でありうるのか。
2.それが持続的には有効でない場合、では、代案はどう考えられるか。もし、原発と原子力エネ ルギーを今後、太陽エネルギーに代表される各種代替エネルギーへの転換に向け、順次縮小し、 やがて廃棄にもちこむ移行策が妥当と考えられる場合、その現実的な展望とは、どのようなもの か。そのために検討、考察されるべき項目とはどのようなものか。
3.これら、地球と社会の持続可能なありようを支える、今後我々が模索すべきあり方、考え方、 哲学とはどのようなものか。
結論として、これらの項目を「すべて自分の頭で考える」以外に、この状況に対する方法はない、としている。
加藤が提示したこの1~3の「フクシマ」の事態に対して考える「内容」を見ればわかることは、第1に「フクシマ」が起こる前に加藤は原発や原子力エネルギーに関して「全く」考えていなかった、ということであり、第2に加藤は「考え抜いて」結論が出るまで日本全国に現在54基ある原発は、とりあえず「仕方がないから容認する」という立場を表明し、第3に自分は当面「考え抜く」ことに専念し、原発問題・「フクシマ」問題に関して、行動も起こさないし、立場の表明しないということを、(暗黙)に表明している、ということである。
加えて、加藤はかつて『アメリカの影』という書物で1945年8月6日・9日の「ヒロシマ・ナガサキ(つまり「原爆」)」について、日本の戦死者数との関係で論じたことがあるにもかかわらず、このエッセイで何故「ヒロシマ・ナガサキ」と「フクシマ」との関係について言及しないのか、ということがある。まさか、どこかの政党のように、原爆と原発は別なものだなどと思っているわけではないだろうが、あれほどいろいろ「考え抜く」と言明している割には、肝心要な部分が欠落している。この欠落が加藤の文学観や思想の欠落に通じていなければ幸いなのだが(僕が、最新刊自著『「1Q84」批判と現代作家論』で、加藤の『1Q84』論を批判している)。
いずれにせよ、もう少し時間を見なければいけないのかも知れないが、「最後の戦後派」と言われる大江や小田実たちの次の世代である僕らの世代とそれより下の世代の、「時代(歴史)」意識の鈍さ、状況認識の甘さ、これは早急に何とかしなければいけないのではないか。
チェルノブイリ原発からちょうど25年、未だ彼の地では原発から半径30キロが立ち入り禁止地域になっているという。「フクシマ」ではどうなるのだろうか。今生きている人間はおしなべて子孫に対して「責任」がある、と僕は思っているのだが……。