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黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

中国に来ています(4)

2007-06-30 22:54:38 | 仕事
 6月30日午後9時10分。昨日は朝から孔子の生まれた曲阜という世界遺産に登録された都市(孔子廟や孔子林などの遺跡・建物が広大な土地に広がる地域)に行き、今日は同じく世界遺産に登録された中国五大名山の一つ「泰山」に行ってきた。思いがけず1泊2日の「観光小旅行」になったのは、当初村上春樹の翻訳者として有名な林少華教授が勤める中国海洋大学を訪れ、林教授と村上春樹について王ハイランを交えて意見交換・情報交換をする予定でいたのに、突然林教授に急用ができてあえなくなったと連絡が入ったためである。昔から国内外どこへ行っても、自分から観光旅行をするという習慣のない僕としては、珍しい決断に属するが、それは出発の直前、1ヶ月ほど中国に滞在していた立松和平から電話があって、「父親が一番最初に中国で住んでいた済南に行ってきた、曲阜へも行き、泰山に登ってきた、黒古さん是非行ってきなさい」と言われたことも大いに影響し他のではないか、と思う。
 両方とも比較的近くにあるのだが、それぞれ中国人の思想・宗教観に大きな影響を与えた場所(遺産)として、行ってよかったと思っている。孔子やその後継者が「儒教」という中国独特な思想=道徳を説いた場所や建物には独特な雰囲気があり、古い建物とともに現代人の私たちにも何かしらのものをもたらしてくれるのではないか、ということを実感した。もっとも、どこでも同じだなと思うったのは、客引きや観光馬車への勧誘が激しく、それへの対応で疲れると言うこともあった。それに料金が高い(ほとんど日本の文化遺産見学の観覧料と変わらない)というのも、気になった。ただし、60歳以上と学生は半額なので、どこでも僕はその恩恵に浴し、良かったのやら悪かったのやら、複雑の気持ちであった。
 そして今日、名峰と言っていい泰山だが、域は昨日の疲れもあったのでケーブルカーで途中まで登り、そこから歩いて頂上(1800メートル近い)を目指した。しかし、頂上の伽藍までは登っていく勇気がなく、帰りを徒歩で、と思ったのが不幸の始まりで、急峻な坂道につけられた1600段以上の階段を下りると言うことの大変さを味あった。200メートルほど降りたところで、膝が笑い出し、泣き言を言うこともできないので、ゆっくりゆっくり降りたのだが、途中何度も休んだので2時間ほどかかってしまった。中国人曰く、泰山は「登りは徒歩で、帰りはケーブルカーで」が常識とのこと。しかし途中から引き返すことなど恐ろしくて考えられず、そのまま降りた。充実感と爽快感はあるのだが、体の方がガタガタ。
 南阜と泰山、この2カ所の訪問で、中国4000年の文化・習慣・宗教心の一端に触れたような気がした。仏教あり、儒教あり、道教あり、の「混沌」とした精神世界、何でも飲み込んで自分たち独自な世界観を作り上げてしまう。それに、このような大地を治める権力の強大さも痛感した。特に泰山には頂上近く、大きな伽藍がいくつも建設されているのだが、その材料をどうやって運んだのか?急峻な坂道を一歩一歩持ち運ぶ以外に方法がないのではないかと思ったのは、下り坂で登ってくる「強力(ごうりき)」に何人もあったのだが、流れる汗をものともせず登っていくその姿に何千年か前の寺院建設に従事した民衆の姿を重ね、何とも不思議な気持ちがした。
 明日は北京、清華大学の先生と会い、再び中国社会科学院の許先生と会い、それですべてのスケジュールが終わる。どのような成果があったか、帰ってからじっくり考えなければならないが、それなりに充実した今回の中国体験だったと思う。
 明日は忙しいので、このブログが書けるか、どうか。
 では、、また。

中国に来ています(3)

2007-06-29 00:52:55 | 仕事
 今日は午前9時から山東師範大学の大学院生とそれとは別に日本語・日本文化を習っている学生、併せて40名ほどを前に、2時間の講義および30分の質疑応答。国外の大学と気宇こともあっていつまでも高揚感が消えないためか、いくら話しても話し足りない感じで、終わるとどっと疲れるのだが、やっている最中は少しも疲れを感じず、快調に話しが続く。聞き手の目を見ているとわかるのだが、ほとんどが話し手の目を見て、一つも聞き逃すまいとしているその態度に、話すこちらが頑張らなくてはと思ってしまう。こちらに来て「授業」「講演」の何たるかを思い知らされた感じで、筑波大生も見習ってほしいと、ついつい愚痴がでる。
 午後4時からは大学の「日本語科」の先生方と情報交換・質疑応答、ここには王海藍も参加して村上春樹について発表したのだが、痛感させられたのは、こちらが中国の日本語・日本文学教育についてほとんど知らないのと同じように、日本や日本文学に関する「情報」が中国側にも十分かつ正確に伝わっていないのではないか、という疑念が消えなかったと言うことである。これは大げさに言えば、日中関係における「歴史認識」の違いとも連動しているもので、他国とよりよい関係を築くために必要なものは何か、つくづく考えさせられた。よく識者は「民間外交の積み重ね」などと言うが、個人の努力でどこまでできるか、はなはだ疑問である。あまりにも僕らは「相手=中国」のことを知らなすぎるのではないか、「無知」からは何も生まれない。デマゴギーに振り回されるのも、「無知」故である。
 このことは、料理一つとっても同じである、と言わねばならない。北京から山東省に移ってまず驚いたのは、その料理の「うまさ」である。僕らは日本にいて中国料理について「北京料理」とか「四川料理」だとか「上海料理」だとか言っているが、僕の今回の経験では北京料理よりも山東省の料理の方が圧倒的に日本人の口に合い、おいしく食べられると言うことである。饅頭にしても餃子にしても、あるいは海鮮料理(今日食べた「烏賊の天ぷら」のうまかったこと)にしても、北京ダックにしても、いくらでも食べられ、太るのではないかと心配になるほどである。僕らはあまりにも山東省について知らなすぎる。戦前、「山東出兵」を行い、「済南事件」を起こし、青島を植民地状態にしたことがあり、最大で青島に5万人、債南に数万人規模の日本人が暮らしていたという「歴史的事実」があるにもかかわらず、である。「悪いこと」に目をつぶって、真の関係は成立しない。僕らはそのことを思い知るべきなのである。
 明日は孔子のふるさとを訪れ、そいて山東省の名山・泰山に行く予定である。次回は、そこから帰ってから、ということになる。
 お休みなさい。

中国に来ています(2)

2007-06-27 23:36:48 | 仕事
 中国からの第2信。
 今日は午後4時から山東師範大学の新キャンパス(済南市の大学がいくつか集まっている、まさに「大学城」という名前にふさわしい大学地域、難点は市内からかなり離れていて、車で40分ぐらいかかること)で、日本語・日本文学科の2年生・3年生相手に「日本の現代文学」について話しをした。女子学生が8割ほどで、集まった学生は150名余り。こちらのジョークも通じるほどの日本語力を持っており、僕の話が新鮮で珍しかったせいか、みんな集中して聞いてくれ、筑波大学で講義しているときよりも、気持ちよく話ができた。気がつてみたら約束の1時間半が過ぎ、次の予定もあるということで引き上げたのだが、久しぶりに興奮してしまった。
 帰ったらすぐに「国際交流センター」のメンバーと日本語日本文学の先生、それとハイランの恩師たちが集まっての「宴会」、食べるものがおいしかったせいか、中国語と日本語が飛び交う宴会になり、これも久しぶりに心から喜んでビールを飲みことができた。地ビールと言うことで、青島ビールとはまたひと味違った味がして、特に山東省料理と合い、すべてがおいしかった。黒島伝治の「武装せる市街」や太田洋子の「真昼の情熱」の舞台はどこか、その場所に立つことを楽しみにしているのだが、中国の他の都市と同じように日々変貌する都市の中で、果たして60年以上前の市街が残っているか、なければないでいいのだが、黒島伝治や大田洋子について、論文や解説を書いている身としては、どうにかしてその場にたってみたいものだと思う。中国の日本文学研究者は当然として、日本の文学研究者でさえ日本と山東省との関係についてほとんど関心を持たない現在、誰かがきちんとその関係を考察すべきなのではないかと思う。そうすることが日中関係にとって障碍となっている「歴史」問題を根源的にとらえ返す端緒になるのではないか、と思う。
 マイナーなことに手を出さない近代文学者の姿というのは、これまでにもいやというほど見てきたが、済南という現地を歩いてみると、日本の近代文学研究もまだまだだと思わざるを言えない。利益(昇任、その他)に結びつかないような研究を捨象して、何になると言うのか。「研究」というものを根源から考え直さなければならないのではないか。漱石のことしか知らない漱石研究者、芥川のことしか知らない芥川研究者、などという存在はもういらないのではないか。この時代が求められている文学研究者(批評家)は、グローバルな視点を持ち、かつきちんとしたメッセージをもった人物なのではないか。今日の目を輝かして僕のつたない話に聞き入る中国の学生たちの姿を見ていると、つくづくそのように思った。
 これからは心して考えていかなければ、と思った。

中国に来ています(1)

2007-06-27 01:34:51 | 仕事
 6月24日(日)に成田を発って、その日の夜に北京に着き、世話役の許金龍先生の出迎えでホテルへ。
 25日は、朝早くから見学を希望していた万里の長城へ、一度秦の始皇帝が始めた「偉業」というか「愚行」というか、信じられないような外敵(夷敵)への防御態勢を見学したかったので、許先生にお願いして実際に自分の足で歩いてみたのだが、これがとんでもない代物で、山頂から山頂へまさに「万里」に連なっているのだから、「歩く」といっても一部分にすぎず、起伏に富んだその回廊を歩くのは、実に疲れる。普段運動をしないせいもあるのだろうが、ともかく少し歩いただけでへとへとになってしまった。ただ、長城から眺める景色は山頂の防壁と言うこともあって、最高の気分にさせられた。
 午後は、これも希望した「故宮博物館」の見学。以前台湾の故宮博物館を見学したとき、「さすが中国4000年の文化遺産」と感心したので、北京の故宮博物館にどれほどの「お宝」が展示してあるか、みたかったのである。元より、すべての展示物を半日でみるなどというのは、無謀そのものであり、それは承知していたのだが、何よりも「紫禁城」(故宮博物館)の広さとその権力意識丸出しの構造に驚かされた。中国の権力者がどれほどの「力」を持っていたのか、それは故宮博物館を歩くだけで、すぐに了解できる。故宮博物館ではどこかの国のお偉いさんが見学することになったということで、展示室をしばし追い出され、見学できたのは青銅器室と陶器の部屋、および清朝の武器だけだったが、気分としてはそれで十分であった。見学しながら、許先生の専門である大江健三郎の話をずっとしていて、全く観光客ではないことを思い知らされた。
 そして今日(26日)は朝9時から中国社会科学院で「日本の現代文学-大江健三郎から村上春樹まで」という題で1時間半ほど話し、その後は質疑応答。興味深かったのは、参加者が僕の話を正面から受け止めてくれて、真摯な(切実な)質問をしてくれたことである。元よりこの種の講演(報告)を「きれい事」ですますつもりはなかったので、日頃考えていることを正直に話し(答えた)ので、活発な議論となり、1時間半も質疑応答に費やした。自分としては充実した3時間だった。参加者もおおむねそのように感じてくれたのではないだろうか。何よりも、大江健三郎や村上春樹の研究者が参加してくれたので、議論は盛り上がり、時間が足らないほどであった。そして、この3時間の僕の「日本現代文学論」が成功したのは、何よりもすばらしい通役をしてくれた北京大学講師の翁さんがいたからであった。彼女は大江の研究者とのことで、僕が1989年に出した「大江健三郎論」をだして、サインを求められた。
 それが終わって、夜には明日とあさって講演することになっている山東省済南に新幹線で移動(3時間半)、ホテルに到着して、ネット環境の整っている部屋でこれを書いている。疲れてきたのでシャワーを浴びて、もう寝よう。明日は朝7時半から行動開始である。
 ではまた。

中国へ行ってきます(2)

2007-06-23 15:48:21 | 近況
 いよいよ明日(24日)中国へ出発です。中国へは1985年に1度行ったきりなので、今度で二度目になりますが、この20年余の間の「変化」がどのようになっているのか、そのことに興味があります。僕の「中国」観は、新婚早々の大江健三郎が「革命中国」の息吹に触れ(1960年5月)、そこで「絶望の虚妄なること」を自覚し、以後本格的に戦後民主主義の申し子としての自己を踏まえ「反体制・反権力」的な言動を繰り広げるようになったこと、及び学生時代に否応なく考えざるを得なかった「文化大革命」から培われたものが基底にあり、その後の高度経済成長下の中国の「変容」については、関心があっても、正直に言えば「夫子、お前もか」といったシニカルな物であったと言えます。「情報」も留学生から得るものが大半で、それも個々の出身(民族)や境遇によって千差万別なので、もっぱらマスコミジャーナリズムの伝えるものに頼らざるを得ず、表層的にしか捉えられないもどかしさを感じていました。
 その意味では、今回の訪中が北京と山東省に限られているとは言え、観光旅行とは異なる形での訪問なので、自分の目でいろいろ確かめてきたいと思っています。本当は、今中国で一番訪問した場所は上海なのですが、上海は次の機会にしたと思っています。それも、林京子さんが0歳から14歳まで過ごした場所が「開発」によって姿を消してしまわない前に、訪れたいと思っています。
 1月にベトナムに行って、今度は中国へ、ちょっと外へ出すぎだなと自分でも思っているのですが、外国(アジア)の人とつきあい、そのような経験を基に日本の在り方を見るというのは、経験的に言って、内にいて外を眺めるのとは違った考え方になります。単に客観的に日本を見るというのではなく、外国人(アジア人)の目線で日本を見ることができるようになり、それは国内にいるのとはまた別な考え方を要求するようになる、ということでもあります。
 夏目漱石の「満韓ところどころ」をはじめとして芥川や佐藤春夫、横光利一といった文学者がアジアから何を受け取ったのか、あるいは15年戦争下にあって「ペン部隊」として戦争協力を惜しまなかった文学者が、何故そのような事態に陥ってしまったのか、国内で得た「情報」だけでは十分ではないというのを、最初にベトナムを訪れたときに思ったものである。ハノイからホーチミン(サイゴン)へ飛行機で移動する際、窓の下に広がるジャングルを見て、ベトナム戦争においてどんなにアメリカ軍が近代兵器を用いても、核兵器などを使って全土を焦土化しない限り、決して生活人として存在したベトコン(北ベトナム軍)に勝てないのではないか、と思ったのである。米の二毛作・三毛作が当たり前で、種を蒔けば野菜類がたちまち育ってしまう風土に、どんなに大量の爆弾を落としても、土地はすぐに「再生」し、戦いを継続できる、「近代国家」アメリカはそのことの厳しさを完全に見誤ったが故に、「敗北」したのである(もちろん、彼らが人間の尊厳を踏みにじる「枯れ葉剤=ダイオキシン」を撒き散らし、現在もなおベトナム人がその後遺症で苦しんでいる、という現実も存在するが)。イラクでアメリカがベトナム戦争と同じ過ちを犯していること、またそのことにほとんど無自覚な日本人の有り様を見ていると、人間の「愚かさ」を痛感する。
 同じことを最初の中国訪問の時も感じた。北京からバスで移動中、見渡す限り地平線の彼方まで麦畑が続く光景を目にしたとき、こんな広大な大地を日本軍は占領できると本気で思ったのか、点と線しか確保できなかったのは当たり前ではないか、日本軍は「机上の作戦」であの無謀な15年戦争(アジア・太平洋戦争)を始めてしまったのではないか、と痛感したのを思い出す。戦争の愚かさは、昔も今も、「現場・現地」の現実を知らない者が、論理とバーチャルな像とを基に作戦を立て、何も知らない下級兵士の犠牲の上に成り立つものであるということを、戦前の中国大陸における日本軍の在り方、ベトナム戦争・イラク戦争でのアメリカの姿を見ていると思い知らされる。「国のため」「家族のため」というようなことを言って、戦争を肯定する輩は、みな後方(安全地帯)にいる者の「戯言」と考えるべきである。その意味では、小林よしのりなどという戦無派のエセ愛国者(漫画家)が「大東亜戦争肯定論」を唱えるのは、笑止としか言いようがない。
 小林よしのりの名前が出たのでついでに言っておけば、大学の講義で猪瀬直樹のことを話したとき、授業が終わったあと学生がきて、前にNHKで十代の若者と一緒に討論会に出ていた猪瀬直樹を見たが、その時から「この人、うさんくさいな。えらそうな物言いが気に入らなかったが、今日の話を聞いて、納得できた」と伝えてくれた。猪瀬直樹のマヌーバー的な在り方、権力志向、見る者にはわかるのだな、と思ったものである。
 では、中国へ行ってきます。帰国後の報告(向こうで、インターネットが使えれば、途中経過を報告しますが)を楽しみにしていてください。

腹立たしいこと、あるいは不可解なこと

2007-06-19 00:59:13 | 近況
 摩訶不思議なことが起こるものだ、というより彼の言動を見ていれば当然の成り行きと言っていいのかも知れないが…。
 しばらく前から「ニュース」として流れていたことだけど、ついに猪瀬直樹が東京都副知事就任を承諾したという。この「承諾」を知って、最初に思ったのは「だから、団塊の世代=全共闘世代はだめだと言われるんだ」ということであった。もちろん、そこには「何故」という気持ちもないわけではなかったが、よりによって石原慎太郎ウルトラ・ナショナリストの下で副知事を務めるというのは、どういう神経をしているのだろうか。猪瀬は、物書き(あえて「作家」とは言わない)としてデビューした当初、信州大学全共闘の幹部という履歴を隠さず、むしろそのことを「売り」にさえしていた感があったが、40年近く前のこととは言え、少なくとも一度は「権力・国家」と対峙し、密かに「革命」を遠望したはずの人間が、国家主義丸出しの輩の軍門に下り、いずれは首都の権力を自分のものにしようとする「野望」を隠さない猪瀬という人物、「節操」がないなどというレベルを超えて「破廉恥漢」としか言いようがないのではないか。彼がこれほど「権力」志向の持ち主であったとは、『ミカドの肖像』を読んだときには考えもしなかったことであるが、それにしても腹立たしい。
 もっとも彼が小泉内閣が推し進めようとした「改革」という名の「合理化」の目玉であった道路公団改革の委員になったときから、その「うさんくささ」を感じていたのだが、これほどとは思わなかった、ということがある。歴代の保守政権が「利権」の温床としてきた道路公団を「改革」しようというのは、小泉パフォーマンス内閣にとって見映えの良い政策であり、高い高速料金を払わされてきた国民の感情に訴えるには好都合な「目玉政策」であった(その証拠に、「改革=凍結・中止」されたはずの高速道路建設は、小泉が首相を退陣した今、各地で続行されている。どだい、高速道路建設で使っていた予算=国民の税金を別な箇所(たとえば、防衛省予算:あのばか高いイージス艦を何隻買ったのか?ミサイル防衛と称してどれほどの金を使おうとしているのか?)で「無駄遣い」しているだけで、決して国民に還元されてはいない。そんな「改革」の実態を見れば、猪瀬直樹が「国に文句を言える人物」(石原発言)などとは口が裂けても言えないはずなのに、石原慎太郎は猪瀬に自分と同じ「権力志向」を嗅ぎ取り、自分の後釜として考えたのかも知れない。
 猪瀬直樹という人間がいかに「いい加減」な権力主義者であるかという例として、数年前、広島の「インチキ歌人=豊田清史」が「嫉妬(たぶん)」からでっち上げた井伏鱒二の『黒い雨』盗用説を真に受けて、井伏批判を行ったときから己を高見かにおいて物を言うやつだなと思っていたのであるが、豊田が「でっち上げた」「黒い雨」盗用説を見抜けなかった(実証的に批判できなかった)、ようするに彼は「いい加減」な物書きだったのである――豊田のでっち上げについては、筑摩書房から出ている『重松日記』や井伏鱒二研究会刊行の『尊魚』誌上で相馬正一や筆者が本質的な批判を行っており、今では周知のことに属するが、猪瀬直樹や谷沢永一などという輩が豊田の手の込んだ実証風のやり方にだまされ、現在もその過ちを認めようとしていない。豊田は『黒い雨』の基になったとされる『重松日記』を、遺族が公表しなかったのをいいことに、自分で『黒い雨』の内容に即して改竄し、井伏は「盗用」した、と言い募っていたのである。――
 そんな「いい加減」な権力志向だけが強い人物が東京都副知事になるという。恐ろしいことである。猪瀬直樹が副知事になってどのようなことを言い、どんなことをしようとするのか、これから注視していかなければならないと思うが、4年後の東京都知事選で彼が知事になることだけは避けるようにしなければならない、と今から危惧を表明しておきたい。「腐っても全共闘」という気概を忘れたら、己の存在価値が足下から崩れてしまうではないか。猪瀬直樹よ、恥の上塗りだけはしないで欲しい、と願うのは、夢のまた夢か。

「林京子論」ができました。

2007-06-15 14:05:32 | 近況
 版元が約束したように、今日(15日)「林京子論」の見本(といっても、200部ぐらい刷っている)ができてきた。前もってカバーの装丁は、司修さんから頂いていたので、ある程度の予想はついていたのだが、本体の表紙、これにはびっくりした。書店で手にとって見てもらえばわかるが、長崎に原爆が落ちた11時02分を指す壊れた懐中時計が大写しになっている装丁で、カバーとはまた一味違ったものになっている。
 どうぞ、手にとって見てほしい。僕の本もこのような装丁によってずいぶんと引き立ったのではないかと思っている。考えてみれば、62年前に長崎の地で起こった惨劇を伝えることができるのは、いまや「遺物」と「生き残った人の証言」、あるいは文学者が書いた作品を通じて、という限られたものになってきてしまっている。まだ、「証言」する人が存在するうちはいいが、さらに時間が経ってそのような「証言者」がいなくなったときのことを考えると、「ヒロシマ・ナガサキ」の出来事を受け止めて次世代に伝える役割を担っているはずの僕らの立場の重要性を考えないわけにはいかない。
 特に、「核武装論」や「集団的自衛権」などという戦争準備としか思えない考え方を平気で持ち出すようになった昨今、「ヒロシマ・ナガサキ」をどのように継承していくかは、緊急かつ重要な課題といえるだろう。
 今度の本「林京子論」は、作家論ではあるが、そのような今日的課題を紙背に潜めた僕自身の問題もあわせ考えた本、ということになる。「2400円+税」という高い本になったのだが、今年も62年目の「暑い夏」を迎えようとしている今日この頃です。ぜひお買い求め頂き、ともに「林京子の文学」や「ヒロシマ・ナガサキ」のこと、また中国やアメリカのことを考えようではありませんか。

中国に行きます。

2007-06-13 16:09:51 | 文学
 月末のことになりますが、6月24日~7月2日まで、中国の北京、山東省の済南・青島に言ってきます。北京では中国社会科学院外国文学(日本文学)研究所で「日本の現代文学ー大江健三郎から村上春樹まで」について、山東省(済南)では山東師範大学日本研究所で、同じ内容で講演(基調報告)をします。
 僕の大学院(博士課程)に在籍中の留学生王海藍さんも、「中国の置ける村上春樹の受容」というような内容で発表します。王さんの研究については、先日興味を持った朝日新聞文化部の記者が取材にきたので、近いうちに紙面にその内容が載ると思いますが、世界的に人気を博している村上春樹が具体的に中国ではどのように受け入れられているのか、調査(350人の学生対象)を基に実証的に研究した彼女の論文は、博士課程でもっと緻密な研究を展開するはずなので楽しみである。
 僕の講演は、どうも「文学主義・芸術主義」的に受け取られている傾向にある中国での日本文学研究に、僕なりの考えを対置して、現代文学と日本社会の有り様との関係を協調した話になるのではないか、と思っている。まだ、ノートもとっていない状態なので、これから来週にかけて準備しなければならないのだが、「資料」も作らなければならず、しんどい気持ちも同時にある。
 北京だけでなく済南に行きたかったのは、ここが黒島伝治の長編「武装せる市街」の舞台であり、太田洋子の「真昼の情熱」(戦時中の連載、戦後改稿して出版)の舞台だからでもある。機会があれば、ぜひ行ってみたい、と長年願ってきたのだが、今回の学会(研究会)への招待で長年の夢がかなうと思うとわくわくする。今から楽しみにしているのである。
 一度中国ずくとそれは続くようで、先週4月末から1ヶ月中国に行っていた立松和平氏から電話があって、遼寧大学の日本研究所の所長から頼まれたのだが、日本の現代文学について論文集を出すので原稿を書いてほしい、ついては適任者として黒古さんを推薦しておいたから、よろしく」とのこと。もとより立松氏の頼みを断ることなどできはしない。僕も彼にいろいろ無理なお願いをきいてもらっているからである(今度の本「林京子論」のパンフレットにも「推薦文」をもらっている)。ちょうど北京や山東師範大学で話す内容と重なると思うので、それを生かせばいいかな、判断したのである。昨日の連絡によると、約60枚ほどの長さ、だという。今年の夏はこの論文の執筆で終わりそうだが、外国のアンソロジーに文章を寄せるのは二度目なので(1度目は、アメリカの本で「日本とフランスの戦後」というタイトルのものに、であった)、楽しみにしている。
 僕の経験によると、外国人の研究者はもとより日本の近代文学研究者は、だんだん専門性が強くなって、グローバルな発言(考え)ができなくなってきているようで、僕などが留学生などをよく頼まれるのも、批評家としての仕事柄、広い視野で文学を考えているためなのではないか、と思っている。今度の中国での講演も、そのような広い視野からの発言を求められているのではないかと思うと、しっかり準備して臨もうと思う。

初校(著者校)ゲラの「校正」終了

2007-06-11 10:36:57 | 仕事
 以前からこのランでお知らせしていた「村上春樹」に関する新刊の初校ゲラの校正が終わり、後は「再校」を待つだけになった。この間、編集者といろいろ話し合って、今度の本に関して次のようなことを決めた。
1.タイトル:『村上春樹―「喪失」の物語から「関係」の再構築へ』
2.刊行期日:9月中旬
 刊行日を9月中旬と決めたのは、6月末に『林京子論』(日本図書センター刊)が出るためで、同じ時期に同一著者の本が立て続けに出るよりは、少し遅らせた方がいいのではないか、と考えたからである。
 内容に関しては、「第1部 「喪失」の物語群」「第2部 「関係」の再構築へ」というもので、第1部には『風の歌を聴け』から『ダンス・ダンス・ダンス』までの村上春樹の「原点」とも言うべき作品について論じたもの、これは基本的な部分で書き直す必要を感じなかったので、旧著『村上春樹―ザ・ロスト・ワールド』(1989年 六興出版)を小幅修正して収録し、第2部は書き下ろしとして140枚ほどで1990年代から現在までの作品について、村上春樹の「転換=変身」について、またその不十分さ・限界にを軸に論を展開した。
 第2部について具体的に言えば、村上春樹自身が述べている90年代以降に「デタッチメント」から「コミットメント」へ転じたということ言葉を頼りに、その「転換・変身」の意味を探り、かつ『スプートニクの恋人』や評判になった『海辺のカフカ』などが露呈している不十分さ・限界を指摘したものである。
 村上春樹も今や58歳、世界での認知度第一位の日本の作家として、彼について論じる多くの人が「オマージュ(賛美)」しか送らない現状に対して、どう考えているのだろうか、という疑念を底意に持って論じた今回の本、自分では面白い本になったのではないか、と思っている。村上春樹論者の第一人者と目されている加藤典洋などとは全く異なった「村上春樹論」になったと自負している。面白い本になったというのは、余り類書のない本になったという意味もある。
 それがどれだけ実現しているかについては、実際に本を手にとって読んでもらうしかないが、校正していて自分でもワクワクするような、そんな本になったことだけは確かである。21冊目の自著となった今回の本、どれだけの人が手に取ってくれるか、今から楽しみである。
 この欄の読者の皆様、どうか1冊お買い上げになっていただき、忌憚のないご意見・ご批判をいただければ幸いです。
 昨夜は半徹夜、これから一眠りしてから庭の草むしりをしなければならない。

壊れているのは、何?(その3)

2007-06-06 17:39:31 | 近況
 前回「ジコチュウ」のことを書いたが、書き終わった後、思い出したことがひとつある。それは、現在は文芸誌はもとより新刊本のコーナーでも全く名前を見なくなった「増田みず子」が書いた『シングル・セル』という小説のことである。たぶん、このブログの読者のほとんどは、増田みず子の名前を知らないかもしれないが、80年代から90年代にかけて1年に単行本を何冊も出した売れっ子の作家で、現代作家に比せば、さしずめ角田光代をもう少し純文学ぽくした作家で、団塊の世代に属する。なぜ、現在「沈黙」しているのか、理由はよくわからないが、病気だといううわさもあり、気にしているのだが、さて『シングル・セル』の話。タイトルからもわかるように、この言葉の意味するものは、タイトルを生物学用語(ちなみに、彼女は受験のとき東大が入試を中止したので東工大を受けたという変り種である)の「弧細胞」から借用したことが象徴しているように、誰とも関係を持たず自分の「セル=個室」に閉じ籠もる、現代風に言えば「引きこもり」の青年を主人公に、簡単に内容を紹介すれば、「一人では生きることができないことを確認する物語」ということになる。
 前回書き忘れたというのは、「ジコチュウ」現象は、まさにこの「シングル・セル」に閉じこもることと同義と思われ、それはまた、この社会が「病んでいる」ことの一つの証なのではないか、ということである。増田みず子の「シングル・セル」も最終的には「悲劇」を迎えるという話なのだが、あれから20年余り経って、やはりこの社会(世界)はどこか壊れ始めているのではないか、と実感せざるを得ない現実が続いている。
 ともかく、他者に対する好奇心(関心)がものすごく希薄になっている、と日々学生たちと接していて、痛感する。教師に対してだけなら、身に覚えがあるので、こんなには嘆息しないのだが、一時的に男が女を求め(あるいは、女が男を求める)ことはあっても、他者への関心が希薄になっているということは、前回も書いたことだが、「共生」への意識がほとんど感じられないということで、このようなニヒリズムとしかいえないような現象がまだしばらく続くとすると、由々しき事態になるのではないか、とさえ危惧される。
「自分さえよければ」あるいは「自分は何も悪くない、悪いのは自分以外の人だ」という発想が結果的に何をもたらすか、想像するだに恐ろしい。「いつか来た道」を歩むことにならなければ、というのは、年寄りの世迷言ではない。この世を憂う人の「忠告」だと考えるべきだと思うが、どうだろうか。