黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

「政治」に倫理を求めるのは無理なのでしょうか?

2013-06-30 10:54:52 | 仕事
 通常国会が「首相の問責決議」という形でおわり、いよいよ7月21日投票の参議院選挙に突入したが、各マスコミはこの安倍首相の問責決議に対して「重要法案が廃案になった。野党の責任は重い」などと、例えば明らかに弱者いじめの「改悪」としか思われない「生活保護法改正案」が廃案になったことの意味などを考えずに、自公政権寄りの論に終始したが、それらの言論の在り方を見ていても、またそれに加え手先の都議選の結果を見ても、この国の「倫理(モラル)」が地に落ちている、という実感を持たざるを得なかった。
 それは、この間に次々と公表された各党の「選挙公約」を見ていても、共産党や社民党はある意味「ぶれない政党」(内実は社民党など、いつも分裂気味な状態にあるようだし、共産党も真に政権を任せられる政党かといえば、相変わらず自分たちと少しでも意見の違う者を「排除」する体質のようだし)、「憲法改正」や「原発依存(原発再稼働・新設推進)」や「弱者対策」を見ただけでも、本当にこれが「3・11(東日本大震災・フクシマ)」を経験した国の政治家であり(彼らを支持する)国民であるのか、と思わざるを得ないような「公約」が並んでいる。
 何よりも、「憲法改正(改悪)」をはじめ「原発再稼働」「原発輸出の推進」、「教育改革(改悪)」等々の「弱者切り捨て」の公約を堂々と掲げている自民党は論外として――実は一番「罪」が重いのは彼らであり、「経済再建」を旗印に、「弱者」「少数派」を切り捨てていくその様は、何ともおぞましい――、「平和の党・福祉の党」を標榜する公明党が、何故「戦争を肯定」し「福祉予算を軽減する=弱者切り捨て政策を推進する」自民党と連立を組むのか、そのことがよく分からない。自民党に荷担して彼らが「多数派」をよいことに、憲法も改悪し、原発政策をフクシマ以前に戻す政策を次々と打ち出すことを容認するならば、「創価学会」を最大支持母体とする公明党は「平和の党」でも「福祉の党」でもなく、単に「宗教」を否定するマルクス主義を手放さない共産党に対する対抗意識だけで存在する、「第二自民党」と言われるような自民党の「補完政党」でしかなくなるのではないか。そうであるならば、公明党はまさに「倫理」無き政治家たちの集まり、ということになってしまうが、果たしてそれでよいのか。
 僕は、今からでも遅くないから、公明党は「憲法改悪」や「原発推進」を目論む自民党と手を切り、創価学会の会員は僕の知る広島や長崎の学会員が明確に「反核」の立場に立っていることの意味を深く理解し、「フクシマ」の避難民(被害者)に身を寄せ、「反原発」の立場に立つべきなのではないか(原発を推進しようとしている自民党の候補者に「NO」を突きつけるべきではないか)、と思う。
 自公に代表される政党(一時「ブーム」となった日本維新の会も、橋下徹大阪市長の「従軍慰安婦=性奴隷」を巡る発言から共同代表の石原慎太郎と橋下との考えが違うことが明らかになり、「ブーム」は急速にしぼんでしまったように見える)がこんな体たらくだから、たぶん選挙民もせいぜい「選挙に行かない=棄権する」という消極的な姿勢しか取り得ず、それで「抵抗」している気持になっているのだろうが、それでは何も変わらないと言うことを考えれば、ここにもまた「倫理」の欠如を感じざるを得ない。
 もちろん、「選挙を棄権する」ということが意味を持つこともある。しかし、現今のように安倍内閣がますます「右傾化」している城にあるとき、心の中だけで「不服従=抵抗}しているのではダメなのではないか、今こそ「ニヒリズム」を克服して、例えば大江健三郎のように「ヒロシマの心」を己の在り方に対する「ヤスリ」にしながら、何ともし難い今日の状況のただ中に降り立つ必要があるのではないか、と思う。
 息苦しくなっていることに気付かず、気が付いたら自分の息子や娘、そして自分が「戦争」に関わっていた、という事態を招かないためにも、今が正念場なのではないか、と思う。
 深く、深く、考えよう。「倫理」とは何か、を。

「民主主義」の危機?!

2013-06-24 09:19:29 | 近況
 昨日(6月23日)が「沖縄慰霊の日」であったことと昨夜判明した「東京都議選」の結果とを併せ考えると、悲観的になり杉なのではないかと言われそうだが、この国の「民主主義」が危機的な状況にあるのではないか、国民が都民と同じようにこのままの精神状態で参議院選挙の投票行動を行ったら、その結果は「とんでもないこと」になるのではないか、と思わざるを得ない。
 戦後最大の国民行動といわれた「60年安保闘争」を経ても、なお「保守」派がこの国の政治を担い続ける政治の世界を経験して、多くの政治学者や思想家が「この国は、未だ民主主義が未成熟だ」と指摘してきたが、先の「政権交代」劇がいとも簡単に崩れ去り、今また経済政策の「見せかけの成功」を見せられた国民が、内実は「弱者切り捨て」「格差社会の増長」にもかかわらず、その「表層」の経済政策=カネ中心主義に目を奪われて、自公政権の復権を許す光景を見ていると、この国の未来に薄ら寒い思いをしないでもない
 確かに、「口先ばかり」で何もしなかった(できなかった)にもかかわらず、「生活の党」との党内分裂劇に執心したばかりではなく、経済界(と一体になった官僚)の要請に応えて「消費税増税」だけを実現しようとした民主党政権の責任が重いことは、重々承知している。民主党政治家たちの「理念無き政治」がもたらした「失望感」が、いかに深いものであったか。先の衆議院選挙及び今回の都議選の「結果」が全てを語っていると思うが、しかし、日本人というのはもっと「賢い」人間ではなかったか、とも思う。
 何よりも、今回の都議選の投票率が「43.50パーセント」という低い数字になったこと、これは何を意味するのか。自公は、「完全勝利」(確かに落選者を一人も出さなかったというのは驚異的なことだ)と手放しで喜んでいるが、「自民大勝」となった先の衆議院選挙でも自民党の得票数は、前回より何百万票も減らし、得票率も変わらなかったことを考えれば、今回の都議選で10パーセント以上投票率が下がったことの意味を、僕らは真剣に考えなければならないのではないか、と思う。つまり、「低投票率」は、自公政権に「批判的」「否定的」な人が、「投票先がない」ということで投票行動に移らなかった(棄権した)とも考えられるからである。もちろん、全て棄権した人が自公政権に「批判的」「否定的」とはいうわけではない。砂金の全ての選挙(地方選を含めて)が「60パーセント」を超えない低投票率であることを考えると、それだけこの国に「ニヒリズム」が浸透している現実を認識せざるを得ないのだが、それでも多くのメディアが伝えるように、多くの場合国民が「政治」に参加できるのは「選挙」しかないことを考えると、やはりこのことからもこの国の「民主主義」が危機的な状況にあるのではないか、と思わざるを得ない。
 それは、今回の都議選で、自民党の候補が、まさに「表層」としか思えない「アベノミクス=経済効果」だけを前面に押し出し、自公政権(自民党)が押し出している「憲法改正(特に第96条の改正から第9条の改正へ)」や「TPP参加」、「普天間基地移設」、「消費税増税(時期)」等々の重要問題についてほとんど触れない(隠している)の何故か。また、そのような重要課題を隠しながら、結果が出たら小泉郵政改革の時と同じように、「信任された」ということで、やりたい放題を行う。そういうことが分かっていながら、それでも「目先の・表層の」経済政策だけに目を奪われて、自公政権に「信託」してしまう。本当にどうなっているのか。
 「二枚舌」を使うのは、昨日沖縄の慰霊祭に参加しながら、安倍首相はじめ外務大臣・防衛大臣共に「普天間基地の移設問題」について一切発言しなかったことが象徴するように、安倍政権の常套手段だが、そんな「二枚舌」に惑わされる国民も国民だ、と思わず毒づきたくなるような政治状況にあるのが、今日である。
 僕らは、直接的には(間接的は、実は密接に関係していると僕は思うが)「フクシマ」の被害者ではないし、沖縄県民でもない。だとしたら、僕らが彼らと「連帯」できるのは、おのれの「想像力」と「感性」、つまり「思想」を鍛えて、自公政権のやり方に「反対」することなのではないか。言い方を換えれば、選挙時に自公の候補者に投票することは、フクシマやオキナワに対して「加害者」になることである、という認識を持つべきだということである。この際、「沈黙」(棄権行為)も、もちろんそれはそれなりの「意思表示」ではあるが、今はそのような悠長に構えているときではない、と僕は思っている。誰も己の意思を今こそ表明するときだ、と思う。「あのとき、黙っていなければよかった」という後悔だけはしないように、と今の僕は思っている。

「保守」であることの意味

2013-06-21 09:46:45 | 近況
 先のこの欄でも書いたように、この頃は「倫理的であること」の難しさ・意味について、ずっと考え続けているような気がする。気が付くと、「管理主義的」で余り好きな言葉ではないが、自分はどれほど「倫理的」であるかを自己点検しているのである。今更何を、という気もしないでもないのだが、「核」、つまり「核兵器」や「原発」に関する内外の動きを見ていると、本当に内外の指導者(政治家たち)は「倫理的」ということを考えているのか、何のために政治家(国家の指導者)になったのか、本気で考えたことがあるのか、と思えてならないのである。
 日本の安倍首相が、国内では「脱原発社会を目指す」(昨年の衆院選時の公約)と言いながら、海外(開発途上国)へは「トップ・セールスマン」よろしく原発輸出に積極的になっている「矛盾・パラドクス」についてすでに指摘してきたが、他人の批判には、全く馬耳東風に振る舞い、少しでも自分を批判する者には「左翼」呼ばわりして排除し、あまつさえ拉致家族の帰国問題に関してかつては「蜜月」関係にあった元外務省幹部(今は民間人)を名指しで、「外交を語る資格なし」などと非難するなど、以下に彼が「インモラル」な人間――たぶん、彼はこの国の戦後社会をリードしてきた岸信介(とその弟の佐藤栄作)―安倍晋太郎、といった政治家の一族の中で、僕ら庶民の「モラル」とは異なった価値観を育成されたのだろう。日本国憲法の「平和主義」を認めない彼のあの「右翼」ぶりは、戦後の「平和」と「民主主義」とは別な価値観を持って(「優秀」な内務官僚から東京裁判で「A級戦犯」の身になった岸信介にかわいがられたと言うから、僕らとは異なった「戦前」的な価値を持った政治家になったのだろう)彼が育ったことの証でもある。その意味では、「格差社会」の落とし子である(被害者でもある)「ネトウヨ」(ネット右翼)が自分たちとは対極に存在する安倍晋三を「熱烈」に支持しているというのは、何とも皮肉である。
 このような安倍晋三の在り方は、昨日発表された「自民党選挙公約」にもよく現れている。「アベノミクス」などといった「虚構」的な経済政策を前面に押し立て、それを実現するためには「原発再稼働」も推進し、原発輸出も加速化する。そのためには使用済み核燃料の再処理工場も、また「もんじゅ」も継続させる。何もかもフクシマ以前の戻すことを意図しているとしか思われない政策を「公約」として提出する。安倍内閣の区支持率をバックに、国民を愚弄しているとしか思われない政策を平気で提出する。あの顔を見るのも嫌らしい高市女史の「フクシマの死者は一人もいない」発言も、各種のメディアが伝えるように、結局は自民党の「傲り」が言わせたものだと思うが、あれやこれらをを見ていると、現在の安倍政権(自民党)は、真の意味での「保守」ではないのではないか、と思えてならない。
 辻井喬の小説に『茜色の空』という第68・69代総理大臣大平正芳をモデルにした作品があるが、この評伝小説を読むと、当時の自民党には宮沢喜一や大平など「リベラル(民主主義的)」であることを誇りに思っていた政治家が、自民党「右派=タカ派」の動向を押さえていたことが如実に伝わってくる。「健全な保守」というのは、嫌な言葉だが、「保守派」の中にも「編和憲法」を守るという意思を持った政治家が存在していたこと、安倍晋三氏にそのことを思い出して欲しいと、切に願う。
 実を言えば、同じことを自民党支持者の人たちにも言いたいのである。来るべき参議院選挙では、安倍「右翼」的政権に「全て」を託すのではなく、「原発再稼働」に反対であれば、あるいは「憲法第9条」を改正して「戦争のできる国」にしようとすることに批判的(否定的)であるならば、、「経済」のことは1度目をつぶって、自分の投票行動についてよく考えてもらいたいと思う。このまま参議院でも自公(あるいは自民党だけ)が過半数を獲得してしまえば、将来の日本はどうなるのか。よくよく考えてもらいたいと思う。
 莫大な金をつぎ込んでも、未だ稼働していない核燃料再処理工場や高速増殖炉「もんじゅ」を存続させる一方で、庶民の懐を直撃するインフレを目論見ながら、生活保護費を5パーセント以上も削減する。つまり、大企業(電力業界や原発建設企業)には税金を惜しみながらつぎ込みながら、弱者からはなけなしのカネをむしり取る、こんな「政治」(自公政権)が横行していいのだろうか。よーく、考えてもらいたい。
 また、「核」と「倫理」との関係を言うならば、昨日のベルリンにおけるオバマアメリカ大統領の「核兵器削減提案」ほど、非倫理的なことはない。アメリカに対抗する核大国ロシアが、すぐに「否定的」なコメントを出したのも、僕はロシアを支持しているわけではないが、頷ける。オバマは、核弾頭の数を削減しようと言いながら、もう一歩で「臨界前」という名の核実験を繰り返し、(日本やヨーロッパを巻き込んで)ミサイル防衛にも力を入れている。彼がノーベル平和賞を受賞したときも、ノーベル小委員会は何をしているんだ、と思ったものだが、核抑止力論に則って、自国の「優位」だけを目論んだベルリンにおける「核削減スピーチ」、核が削減されることはいいことだが、オバマの演説で核が削減されるとは、とうてい思えない。オバマの軍需産業に後押しされた「インモラル」な姿勢が見え見えだからである。茶番(パフォーマンス)としか思えないからである。
 安倍晋三氏にしろオバマ大統領にしろ、「保守」であることに変わりないのだが、どうもそれは「底の浅い」保守のように思えてならない。反対派が弱体化している今日、もしかしたら期待すべきは「デモクラシー」や「リベラル」の意味を理解する「真の保守」派であるかも知れない。
 僕らはもう一度、表層の華やかさとは別に、危機的ではあるが、「保守」の意味を考える必要があるのかも知れない。

「倫理」的であることとは、何か。

2013-06-17 10:34:30 | 近況
 今僕は、仕事の合間に、「朝日新聞」に連載中の「プロメテウスの罠」の単行本(第1~第4巻 朝日新聞特別報道部編 学研刊)を読んでいるのだが(現在、第4巻進行中)、「反原発」の立場を鮮明にしている「東京新聞」のフクシマ関連の記事を併せ読み、さらにはヤフーに掲載される「産経新聞」(明らかに保守的であり、政府寄り)や「毎日新聞」の記事にも目を通しての判断をいえば、フクシマは「未だ収束していない」というのが現実(事実)であると思う以外の判断はないと考える。
 にもかかわらず、自民党は来る7月の参議院選挙における「公約」に公然と「原発再稼働」を掲げ、フクシマ以前のように原発の新増設も認めるような方向に舵を切り、2,3日前に「G8」のためにヨーロッパに飛んだ安倍首相は、「トップセールス」と称して、ヨーロッパの「開発途上国」と言われる東欧諸国に「原発輸出」を行おうとしている。
 テレビで、原発再稼働や原発輸出の話題が報道されるた旅に、我が家で語られることは、「何を考えているのだろうか」「フクシマをもう忘れたのかしら」「生命よりお金が大事なのかね」、である。たぶん、大方の家庭でも我が家と同じように反応していると思う一方で、世論調査などで、原発再稼働に反対する人が60パーセント以上存在するにもかかわらず、原発の再稼働を目論み、原発輸出の邁進する自民党政治を支持する人が相変わらず60~70パーセント占める、この「ねじれ」については先にこの欄で記したが、どうもこの「ねじれ」の底の底には、日本人の「倫理観」が崩壊しつつあり、「将来」を考えない刹那主義(今がよければ、それでいい)が蔓延し、そのような刹那主義が国民の間に「定着」してしまった結果なのではないか、と考えているが、どうだろうか。
 大江健三郎は、かつて『ヒロシマ・ノート』(65年刊)の中で、「われわれには〈被爆者の同志〉であるよりほかに、正気の人間としての生き様がない』(エピローグ)と書いたが、大江に倣って言えば、「僕らには《フクシマの被曝者の同志》であるよりほかに、正気の人間としての生き様がない」と考えるべきである。自民党の政治家及び安倍首相は、悲しいかなフクシマを忘れた「正気でない人」に他ならない。
 僕が「倫理」を問題にするのは、「倫理」とはまさに「正気で生きようとする人」の最低綱領だと思うからである。
 腹立つが止まない。
(追加)
 さらに言うならば、問題になった復興庁幹部職員(官僚)の「左翼の馬鹿ども」といった発言、あるいは「原子力広報」の約7割が、天下り・電力会社からの出向社員で構成される法人が受注するといった、相変わらず「原子力ムラ」の健在ぶりを見せつける事件、等々、フクシマや原発に関するニュースを見ていると、本当にこの国には「倫理(モラル)」がないのか、と思ってしまう。
 そのようなモラル・ハザード状態を作り出している元凶は、安倍晋三首相を代表とする保守派の政治家であるにもかかわらず、その保守派(自民党)の「タカ派」と言われる文教族を中心に「道徳教育の教科化」が画策されている。道徳教育について国語や算数と同じように「点数化」して成績を点けろ、というのである。その言動がもっとも「非道徳的=モラル・ハザード」な政治家によって唱えられる「道徳・モラルの重視」、このパラドクスな有り様こそ現代のモラル・ハザードを象徴していると思うが、このようなパラドクスは氷山の一角であって、この国全体がどうもおかしな状態になっていることだけは確かなようで、どうやったらこんな酷い状況は打破できるのか、せめて自分だけはできるだけ「倫理」的であろうと思うが、それは僕らのこれからの生き方に掛かっているということでもあり、非常に「難しさ」と「虚しさ」を感じざるを得ない。
 何もかも投げ出して「享楽」的な生き方を選んだら、どれほど洛かなとも思うが、一方で子供や孫たちの「未来」を考えると、ここで「倫理」的であることを放棄するわけにはいかない、とも思う。
 ジレンマの日々は続く。

「ねじれ」を解消するためには……

2013-06-11 09:36:57 | 近況
 「ねじれ」の解消、と言っても、それは7月に予定されている参議院選挙で「与党」の自公政権が多数派を占めるためにはどうしたらいいか、というような話ではない。僕自身は、安倍自公政権が「憲法改正」や「教育再生」などで、これ以上暴走させないためにも、逆に参議院での「ねじれ」は必要だと思っている。右派政権やその同調者へのせめてもの「防波堤」、それが参議院の「ねじれ」だ、と僕は思っているということである。
 だから、僕が言う「ねじれの解消」は、その参議院(選挙)のことではなく、各種世論調査などに見られる人々(国民)の「ねじれた意識」をどうしたら解消できるのかということである。
 例えば、どのメディアの世論調査でも(保守よりの産経新聞や日経新聞でも)、「原発の再稼働反対」は60パーセント前後であり、「原発輸出」に対しても50パーセント以上の人が反対しているにもかかわらず、原発の再稼働を画策し、総理大臣が先頭になって原発輸出に精を出している安倍内閣に「60~70パーセント」という高い支持を与える。この国民の「ねじれ」意識はどこから来ているのか。
 原発輸出に関しては、フクシマが未だ収束せず、フクシマの「原因」究明もままならず、さらには福嶋第1原発の「廃炉」プロセスもはっきりいない現在の段階で、また高濃度放射性廃棄物の最終処分場も決まらず、核燃料サイクルも実験段階で泊まったままで、金食い虫の「もんじゅ」もそのずさんな管理で、「実験」の予定さえ目処が立たない現段階で、何故安倍首相は「フクシマを経験した<高い安全技術>」などと、どの面下げて言えるのだろうか――面白いのは、安倍首相の夫人「昭恵さん」は「反原発」だということ、もちろん夫婦だからといって「同じ考え」を持たなければ行けないというわけではないから、その意味では安倍家は大変な「民主的家族」と言うことになるが、原発を各国に「売り込む」首相の夫人が「反原発」というのは、いかにもご都合主義で、安倍自公政権が「経済(アベノミクス)」のことしか考えていないことを、よく露呈していると言える。
 あるいは、憲法改正についても、憲法改正の1丁目1番地である「第9条(戦争放棄・平和条項)」の改正についてはもちろん、憲法改正手続きの「第96条」の改正についても、「反対」が60パーセント近いのに、何故「戦争のできる国」を目指して、「国防軍の設置」や「集団的自衛権を認める」ことに躍起となっている安倍政権に、先のような高い支持を与えるのか。
 このような「ねじれ」は、知る限り今回の自公政権がが初めてで、その理由は二つあり、一つは言わずと知れた「政権交代」で浮かれきった鳩山由紀夫に始まり菅直人を経て野田佳彦に至る民主党政権が、いかに「ダメ」であったか、つまり「政権交代」によって生まれた人々の「夢・希望」をいかに彼らが潰してきたか、にある。
 もう一つは、これが中心だと思うが、現在に日本人(国民)は、「倫理(モラル)」よりは「カネ(モノ)」の方を大事と思う生活を送っており、「論理(理想)」など二の次、三の次の「経済優先社会」になっており安倍自公政権は、そのような「モラル・ハザード(倫理崩壊)」の現状の上に乗った政権というだ、ということである。
 「金で何でも買える」「カネで何でも手に入る」と豪語したライブドアの堀江貴文が登場したのが、いつ頃からだったろうか。彼の登場は、「論理・倫理」よりは「カネ」の風潮を増長し、現在のような国民意識の「ねじれ」を生み出したものと思われる。
 原発再稼働に反対する人もアベノミクス(経済・カネ)には何となく期待する、ここに「ねじれ」が生じる最大の理由があるのだが、「生活に困らない年金生活者が何を言うか」という批判を承知で言えば、ここはじっと「我慢」して、「核と人間は共存できない」という核問題の原点に立ち返って、人間の「未来(将来)を見据えた選択をする以外、現在の「ねじれ」を解消する――安倍政権からの「政権交代」を実現する。あるいは、「タカ派」の安倍政権から「健全保守」の別な政権にする――方法はないのではないか。僕らは、ここで「貧」を甘んじてう引き受けるという「決意」が必要なのではないか、と思う。
 つまり、安倍自公政権に断固「ノー」を突きつける必要がある、ということである。
 

書評『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』

2013-06-07 04:46:03 | 文学
 以前にお知らせした村上春樹の新作『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の書評(「図書新聞」2013年6月8日号)が出たので、お約束通り、転載します。多くの人の「意見(反論)」「感想」を待っています。
 なお、この書評を基に約4倍の長さ(20枚ほど)の小論を、今夏台湾で発行される『国際村上春樹研究』(研究誌)に寄稿しました。

「リアリズム否定の創作方法は現代文学の本質に適うのか―「読む」楽しさを味わせてくれるストーリー・テリングは健在」(村上春樹著『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』)                                                               黒古一夫

 これまでどのくらいの数の小説を読んだか分からないが、この発売後一週間で一〇〇万部という驚異的な刊行部数を記録したとされる村上春樹の新作ほど、読み始めてから最後まで次々と既視感(デジャビュ)に襲われる小説を読んだことはなかった。
 まず、「過去に囚われ」、「喪失感と孤絶感」を内に抱え込んだ主人公という設定は、あの単行本・文庫合わせて一〇〇〇万部を売り上げたベストセラー『ノルウェイの森』(八七年)の主人公ワタナベトオルの在り様とそっくりだし、その主人公の「内面」が「空っぽ」であり「死」を内在させているというのは、デビュー作『風の歌を聴け』(七九年)から『羊をめぐる冒険』(八二年)を経て『ダンス・ダンス・ダンス』(八八年)に至る一連の作品を想起させ、その物語の「謎」――それは主人公や登場人物が心の内に抱え込んだ「闇」と言ってもいいのだが――を解くミステリー仕立ての展開は、『ねじまき鳥クロニクル』(第一部~第三部 九四・九五年)や『海辺のカフカ』(〇二年)、あるいはエンターティンメント性を追求するあまり、物語の展開に無理が生じた失敗作と言っていい『1Q84』(〇九~一〇年)と同様の方法を彷彿とさせるものであった。
 もちろん、今度の新作もまた、これまでの長編と同じように読者を物語の世界に惹きつけていくストーリー・テリングは健在で、その意味ではこの『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』は、「読む」楽しさを存分に味わえる作品と言うことができる。例えば、高校時代に形成された「乱れなく調和する共同体みたいなもの」である五人組(赤松慶、青海悦夫、白根柚木、黒埜恵理、そして主人公の多崎つくる)から、大学二年の時に「絶交」を言い渡された主人公は、一六年後に恋人木元沙羅の勧めもあって、その絶交の「真の理由=謎」を解く旅(巡礼)に出るが、その展開は読者を物語の内部へぐいぐい引き込んでいくもので、そのストーリー・テリング(物語の展開)に関しては、さすが、と思わざるを得なかった。
 しかし、主人公の名字に「色」が付いていないから他の四人「アカ」「アオ」「シロ」「クロ」から絶交を言い渡されたとでも言う「思わせぶり」な物語の設定、あるいは四人から絶交を言い渡されて「死ぬこと」ばかりを考え、その結果体型も含めて全く別人のようになった主人公が、いくら恋人の勧めがあったからといって、何故「一六年後」にその絶交の理由を尋ねる「旅=巡礼」に出ることを決意したのか、更には絶交の理由が「シロ」の狂言だったと知った「クロ」は、何故その時点で「好き」だった主人公にそのことを告げなかったのか、また大学で知り合い「心許す仲」になった、これも思わせぶりな黒と白を混ぜた「灰色」を名前の一部に持つ「灰田文紹」は、何故理由もなく物語の途中で消えてしまったのか、等々、いくら小説というものが「虚構(フィクション)」だからといって、現代小説が必須とするリアリズムを否定するような創作作法は、果たして人間の生き方を問う、あるいは大江健三郎風に言うならば「(歴史的存在である人間の)生き方のモデルを提出する」現代文学の本質に適うものであるのか。
 また、この何年か、村上春樹はイスラエルのパレスチナ(ガザ地区)への圧倒的な武力による理不尽な攻撃(侵攻)の直後に行われた「エルサレム賞」の受賞記念講演「壁と卵」で(〇九年二月)、自分は作家として「壁」(強権)の側に付くのではなく、「卵」(弱者)の側に立つ者だと大見得を切り、また東日本大震災(及びフクシマ)の二〇一一年六月のカタルーニャ(スペイン)国際賞受賞記念講演「非現実的な夢想家として」では、東日本大震災について「無常」を語り、同時にフクシマに関して「我々日本人は核に対して『ノー』を叫び続けるべきであった」などと発言してきたが、このような言葉とこの新作『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』は、どのように連関しているのか。
 作家の「発言」などその場限りで、にわかに信じるべきではないと思いつつ、それでも余りに恣意的な物語の展開及びその社会的発言と実作との懸隔とは、どこかで繋がっているのではないか、とも思わざるを得なかった。ネット上のみならず中央紙の書評欄でも、この村上春樹の新作に対して「謎解き」もどきの批評が横行している現状を知るにつけ、ハルキストとしてではなくデビュー作からずっと村上春樹の文学に付き合ってきた一批評家としての評者には、余計そのように思えてならず、作家が今後何処に向かって進んでいくのか、疑問が残った。

「政治」にうんざりしながら、「晴耕雨読」の日々

2013-06-04 09:53:17 | 近況
 株価の乱高下に一喜一憂している(ように見える)日本経済界と、そのような状況と深い関係を持つ「円安」による諸物価高騰を素知らぬ顔で「虚構」の経済政策=アベノミクスを賞賛するマスコミと、さらにはそれに踊らされている(ように見える)国民の「浅はかさ」にうんざりしながら、まるで現在の日本を象徴するような「異常気象」(雨が降らない状態)に抗うように、この頃はつかの間とは思いながら「晴耕雨読」の生活を送っている。
 「雨読」の方は、雨が降らないので、『立松和平全小説』第24巻の「解説・解題」が終わった現在では、目下「週刊読書人」に頼まれた玄侑宗久の新作短編集『光の山』(新潮社刊)を、なかなかのできなので、味わいながら読み進めているだけだが、「晴耕」の方は、連休中から今日まで、ずっと苗の植え付け、種まき、除草、タマネギの収穫、水やり、等々、体を使い続けている。
 因みに、今我が家の家庭菜園に育っている野菜は、昨日収穫したばかりのタマネギの他、日々の食卓を飾るサラダ用のキャベツが食べ頃で、他に収穫間近な赤カブ(2種類)とネギ、今ぐんぐん育っているナス、ピーマン、ミニトマト(3種類)、キュウリ、ジャガイモ(これはもしかすると今年は霜害と乾燥で収穫量は激減しそうである)、サツマイモ、日々の水やりが欠かせない里芋、芽が出たばかりのにんじん、水菜、インゲン、枝豆、モロヘイヤ、ごま、レタスの混合種、トウモロコシ、自分でも欲張っているなと思いながら、家人が要求するままに(あるいは、僕のこだわりで)苗を植えたり、種を蒔いたり、結構大変である。
 幸い家人が積極的に手伝ってくれるので、僕の方はもっぱら「棟作り」やミニ耕耘機の駆動、雑草の処理、といった力仕事を担当しているのだが、毎回毎回思うのは、素人が「無農薬・有機農法」で野菜作りをするというのは、実に難しいことで、「晴耕雨読」というのは、専門家(農民)から見れば永久に「素人」の農業でしかないということであり、「農業を馬鹿にするな」「(素人の)分を弁えろ」ということの「戒め」なのではないか、と思ってしまう。もちろん、自分で作った、スーパーで売っているハウス栽培の野菜類に比べて「新鮮で」、「味が濃く」「季節の臭いがする」、そしてたぶん栄養価も高いであろう野菜を食したときの感動を味わいたくて、近所のお百姓さんにいろいろ教えてもらいながら栽培しているのだが、いつもいつも思うのは、「生物相手は難しい」ということである。
 この「生物相手は難しい」の「生物」には人間も含まれており、それは筑波大学時代に嫌と言うほど味わい、今また武漢で味わっていることだが(筑波大学を定年退職するとき、「もういいや」と思いながら、現在武漢の華中師範大学の大学院で教鞭を執っているのは、やはり僕は本質的に「生物を育てることが好き」なのかも知れない)、「生物(を育てる)」作業は、「喜び」も伴うが、本当に「難しく」、「つらい」ことも多く、苦労が絶えないことだと痛感している。
 「生物を育てることの難しさ」、僕が今味わっているのは、野菜というのは何よりも「水」が必要で、雨がちゃんと降らないと育たない、ということである。このところ、選集の木曜日に一度きちんと降っただけで、後は毎日日照りが続いており、朝晩の「水やり」が欠かせない状態になっている。おいしい野菜を食べるにはちゃんと「水やり」をしなければならず、これが結構つらい。「水やり」が、ということではなく、「水やり」を怠ると、覿面に野菜は育たないことを知らされるからである。
 今は、「早く雨が降れ」と、毎日願っている。天気予報は無情にもしばらく雨は降らないという、野菜が可哀想だ。