「勇気」の科学/ロバート・ビスワス=ディーナー著(大和書房)
勇気というのは、捉え方によっては文化によってかなり違う。成人の通過儀礼にバンジー・ジャンプというのがあるが、要するにそのような怖いものでも逃げずに経験したから大人として認められる。日本の場合は大人がジャンプできなくても、誰も咎めたりはしないので、本当に助かるが。しかしながら単なる文化の違いで、似たような不合理な通過儀礼は存在する。学生時代に一気飲みがあったり、集団で歌を歌ったり、教条を暗唱させられたりする。野球部のケツバットのようなものというのも(懲罰なんかの意味もあるにせよ)、何らかの勇気を試すような文化の一部ではなかろうか。従わないのは仲間では無い。できなければ退場させられるわけだ。
勇気のある人間になりたいという欲求もあろう。著者はアメリカ人だが、アメリカでは同調圧力に屈せず、自分の主張が出来るようになることを理想としているようだ。人前で堂々とスピーチするとか、いざというときに行動を起こせるなど、価値が高く重んじられていることのようだ。そういうときに物おじせずに勇気を奮うことができることが、望ましいと思われているらしい。基本的には、それは日本においても同じような感じもあるが。言葉遣いは「勇気」ということで論じられているが、要するにいかにポジティブに考え行動できるか、ということをつきつめて考えている。さらにそのような「勇気」というのは、訓練を積むことで誰でも発揮できるようになる、ということのようだ。「勇気」というものは、その人が本来持っている資質ということでは無くて、後発的に取得するような技能的な面が結構あるということのようだ。
もちろんそのような生き方ができることが、自分自身にとって望ましいからといって、見栄を張る為であるとか、誰かのための犠牲であるとかばかりではない。そのような勇気ある人が、世の中のためになるという考えもあるが、そういう人に自らなれることは、自らもしあわせを呼び込めることに繋がるという考えらしい。自分がなりたい自分になれて、さらに尊敬も集め、最終的に幸福も掴めるということになる。理想の生き方をするために、最も必要なのは「勇気」であるという考え方なのであろう。
著者は、勇気の研究をするために、アフリカのマサイ族の火の棒を胸に押し付ける儀式を体験する。彼らと打ち解けるために、彼らが考える勇気の証明とする通過儀礼を、自ら体験した方がいいと考えたのだ。まさに勇気を振り絞って、オレンジ色に熱せられた火の棒を胸に押し付けられた。そうして何とか激しい痛みに耐え抜き、火の棒は胸から離された。苦痛からやっと解放されてホッとすると、通訳は彼を励ました「ロバート、凄いぞ!今と同じことを、あと八回やればいいだけだ!」
「勇気」という言葉だけを考えると、なんとなく胡散臭い感じもちょっとだけするのだが、ある意味では、いかにもアメリカ的な超前向き思想という気もする。もっとも勇気が持てなかったがために、自己嫌悪で苦しむとか、日陰の生活を余儀なくされるとか、そういう脅しの論理ということでは無いらしい。いや、そういうことがある人生より、勇気のおかげで結果的には後悔をしたくないということは言えるかもしれないが。そのような恐怖心があること自体が、勇気を持ちたいという根本的な欲求かもしれないけれど。