カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

必殺仕事人はつらい   ワース 命の値段

2024-09-19 | 映画

ワース 命の値段/サラ・コランジェロ監督

 911テロ事件の被害者とその家族に対して、米国政府は基金を設立して救済のための保障費を捻出することにした。ところがその分配に当たっては、なかなかに難しい命の値段の計算という問題が持ち上がる。悲しみに暮れる家族にとって、そうしてお金に関する交渉を極端に嫌がる人たちもいる。中には事実上の同性婚の問題があったり、被害者の人間関係において、一つだけの残された家族でないケースなど、なかなかに複雑だ。多民族国家だし、移民問題もあるし、外国人もいる。分配ができるだけ公平になるように配慮がされているとは考えられているとはいえ、それを納得して受け入れられるには、人間感情というのはなかなか複雑なところがあるのである。
 担当の弁護士は、そのような保障に対するプロであって、ある程度このような交渉には自信を持っていた。ところが交渉は難航続きで、説明すらまともに聞いてくれない人々と対峙する毎日を送ることになる。保証するにも期限が設けられていて、タイムリミットは刻々と近づいていくのだったが……。
 テロで亡くなった人々の家族にとっては、その補償金を手にすることは、本来はありがたいことに違いない。しかしながらその前に、死に至った悲しみや不条理に対する怒りが先行している。そういう強い意見がある中で、実際には保証金に対する話に耳を傾けてもいい人たちはいるのである。そういう空気感に抗えなくて、話し合いの場に立てない人もいる可能性が高い。だからふつうに外国人などは、保証に対して何の支障もなく、早々に交渉に応じてくれる。もっともそれはアメリカ人よりも所得が低く、思ったよりも保証額が高いということが示唆されている訳だが……。しかし、値段を交渉で釣りあげたいだけでゴネているようには思われたくない。この辺りが、本音と建前が違う外国人らしい反応という気もする。日本だとこの辺りは、相手に悟られることを嫌うというよりは、相手が譲歩しあうところがあるのだが、彼らは建前が先行する(見た目の正当さというか)ので、どうしても本音の部分でどうしたいというのを悟られたくないのである。そうすると、相手を攻撃して罵倒したり、極端に拒絶したりする。いつまでもそうしている訳には、いかない問題なのであるのだけれど……。
 しかしその気持ちは、もちろんわかる。人間の悲しみや怒りは、時にぶつけ場所が無ければ迷走する。悪いのはテロリストで、補償金を支払おうとしている弁護士ではない。しかしながら目の前に現れたのは、弁護士の方だけなのだ。
 その悲しみを共有しながらも、しかし公平さを担保しながら、時には納得のいかない人を前にしながら、坦々と仕事をしなければならない。こういう立場は、出来れば他の人にやって欲しいものである。しかし主人公は、プロとしての矜持もある。逃げることもできないのである。仕事をやるということの本当のつらさは、そういう事なのかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

埋もれていた稀覯本の復刻ホラー   フランケンシュタインの男

2024-09-18 | 読書

フランケンシュタインの男/川島のりかず著(マガジンハウス)

 稀覯本として何十万かで取引されるようになっていたとされる幻のホラー漫画。復刻できたのは、著者の家族の消息がわかったからである(解説にあった)。著者は既に筆は折っており、故郷の静岡に帰り結婚して別の仕事をしていた。その後肺癌を患い亡くなった。本作は86年に発表されたもので、川島作品の中でも特に著名なものだった。夏になるとホラー作品の再評価と、あらたに紹介されることがある訳で、僕はそれで今作品を知った。なんとなく気になる画風で、今風の漫画では無いが、僕が中高生くらいの時に、確かにホラー作品は結構読まれていた覚えがある。少女漫画もホラーは多かった。書下ろし作品で、サイコチックな雰囲気が、また何とも言えないものになっている。
 勤めていた会社の女社長が亡くなり、仕事に張り合いを感じなくなっている男がいる。そんな中男は顔が黒くなっていてはっきりしない少女の幽霊を見るようになる。男は恐ろしくなって何もできない。精神科に行って先生に相談すると、その黒い顔をしっかり見るように言われる。そうしてその顔の少女のことと、過去の少年時代の恐ろしい出来事を思い出すことになる。そこにはいじめられてばかりいる気の小さな自分と、丘の上に住んでいるお金持ちのひ弱だが気の強い少女との恐ろしい関係があるのだった……。
 フランケンシュタインは、ご存じ継ぎ接ぎの人造人間であるが、少年は少女が絵にかいたフランケンシュタインに興味を持ち、自分で三日かかってフランケンの被り物を作る。そうして公園で遊ぶ子供たちをその被り物をかぶって脅かして遊ぶようになり、だんだんとそれがエスカレートしていくのだった。
 だいたいの行動が何だか異常で、はっきり言って何かのタガが外れている。そういうところが何とも面白いところではあるのだが、行きつくところは破滅しかないようにも思われる。しかしそうであったとしても、ちゃんと行き着くところまで行こうとする姿勢がみられて、そういうところが凄まじい気迫を持つ。高揚感があって、なんだかバットエンドなのに、いい話のような、妙な感慨を抱かされるのである。奇妙なものを読んでしまったということもあるのだが、こういう作家が後に埋もれて行き、死後に再評価されたのだ。そういった解説文も含めて、このホラー作品は現代によみがえったのだ。そうして僕のような人間も手に取って読んでいる。ちょっと面白い運命に加担したような、そんな気分にもなろうかというものである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

不幸を背負った女の生涯   市子

2024-09-17 | 映画

市子/戸田彬弘監督

 長く同棲していた様子のカップルだったが、男が婚姻届けを見せてプロポーズする。女はとても嬉しそうにしていたのだが、翌日突然失踪してしまう。当然探すのだが手掛かりは見つからず、警察に届けを出すと警察も探している様子。さらに市子という名前ですらなかったことが分かる。警察はともかく、市子の過去をさぐり、関連のありそうな人々を訪ねて、市子だったはずの女性を探し求めていくのだったが……。
 なぜ市子は失踪してしまったかのミステリはある訳だが、基本的にこの不思議な運命を背負っている市子の、生い立ちから現在までを綴る物語である。そもそも子供のころから魅惑的な女で、男を手玉に取ることに長けていた。しかしながら母子家庭の上にひどく困窮していて、さらに母親が超だらしない女で、これで不良にならなければ異常だ、というような環境で育っていた。そうして男の子や男をたぶらかして生きていかざるを得ないところもあるし、仲のよくなった金持ちの女の子(とその環境)に憧れるような複雑な幼少期を送ることなどが、市子自体を形成していくことになっていった、ということになるのだろう。
 時系列が多少錯綜するような演出にもなっているが、これだけ不幸な境遇にあるということは言えるけれど、幼少期の女としての魅力のある状態と、大人になってからの、また不思議なキャラクターである魅力が、なんとなくかみ合っていない感じもする。子供の頃の、なにか力強い線のようなものが、大人になってから消えてしまっているのである。
 しかしながらこのような女性に出会ってしまった男たちはたまったものでは無く、自分の生き方そのものを変えられてしまう訳だ。まさに魔性の女なのだが、まあ事情があって表の世界では生きられない身の上になっている。周りの大人たちも悪い訳で、法律がどうだというよりも、情状酌量の余地が大きいので、表に出ても支障は無かったのではあるまいか。
 そんなことを言っても映画が成り立たなくなるのから仕方がない。僕としてはミステリとしての興味が先立って観続けているのに、なんとなく放り出されてしまったような印象も受けた。不思議だけれど魅力的な女、を描きたいのは分かるが、やはり人間どこかで努力はしなければならない。相手の善し悪しだけではダメなのである。
 でもまあ惚れた男同士の対面というのは、なるほどそうかもな、とは思ったことでした。何かの参考にはなるかもしれません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いろいろと理想と偏見の錯綜した物語   私の家政夫ナギサさん

2024-09-16 | ドラマ

私の家政夫ナギサさん

 子育てのために仕方なく専業主婦として苦手な家事をやらざるを得なかった母の怨念を背負った女性が、仕事はフルに頑張るものの、やはり家事までは手が回らなかった。そんな母と折り合いがつかず疎遠になっている妹から、スーパー家政夫ナギサさんを派遣してもらうことになる。しかしながら男性家政夫には抵抗が強く、なかなか受け入れる気になれない。仕事では、ライバル製薬会社のイケメン男性から、仕事を奪われる危機に瀕している。女性として何もかも完璧にこなすなんてことはそもそも無理な話で、実際に家政夫が家のことをやってくれているおかげで、徐々に生活にゆとりが出で来ることも確かなことである。それにナギサさんというおじさんは、人間的にも素晴らしすぎるくらいの人で、さまざまな面で精神的にも助けられるようになっていくのだったが……。
 設定が逆なら、きわめて普通のラブコメなのだが、それが逆ではなくこのようなことになると、いろいろと現代にも残る偏見などとも戦わなければならない問題となる、ということなのだろうか。僕なども昭和的に家のことはつれあいにまかせっきりなので、正直言って何も言う権利の無い立場であろうけれど、ドラマ的に批評するとすれば、こういう事に頓着する人々がいまだにいることは、ちょっと不思議な感じもする。するけれど、やはり独身女性の部屋に深夜まで出入りするおじさんは、なんだかあり得ないのは確かそうにも思う。下着などの問題もあるし、派遣する会社としても、少しくらい問題意識があっても良さそうである。もちろん独身男性が家政婦を雇う場合であっても、相手がセクシーすぎるなどすると、問題があるということにはなろうが……。
 勤めているが製薬会社だから、顧客が医者で、それがまたイケメンの独身男性だったりもする。仕事も頑張るが、恋の対象にもなり得る。ライバルも当然恋仲の対象になり得る。年頃の美しい女性周りは、なかなかに大変なのである。それで家でも仕事の準備のために調べものや勉強をして、朝は化粧したり服を整えたりしなければならない。当然ご飯もバランスよく食べて、同僚の指導もする。すべてを完璧にする必要が、いったいどこにあるのだろうか? 
 周りに求められているものもあるし、それにこたえるだけでなく、自分自身もそうありたい姿がありそうだ。そこのところが何となく僕には分からないだけのことで、おそらく若い女性には共感のあるところなのだろう。そうしなければ、この物語は成り立たない。しかしそれは極めて夢物語に僕には思える。まあ、それでいいのだろうけれど……。
 もちろんナギサさんも幻想である。こんな人は、おそらく日本には存在しない。だからこそ、ドラマには存在価値がある。そういう風に物語は観るべきなのである。でもまあ、料理を上手く作るってのは、なんとなく憧れるな。それを美味しいと言って食べてくれる人がいるというのは、しあわせそうである。これは男女に関係なく、そういうものなのでは無いだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

父は突然死ぬ。何も言わずに……   花椒の味

2024-09-15 | 映画

花椒の味/ヘイワード・マック監督

 過去の両親の離婚の件などもあり、疎遠にしていた父が亡くなった。比較的近くに住んでいる長女がすぐに駆け付けるが、身の回りのことは詳しく分からず、とりあえず父の携帯に入っている知人らしい人などを含め案内を起こし、仏教徒だった父を、そういったことも知らなかったので神道の葬儀で見送る(でも結果的には父はたぶん気にしてないだろう、とは考えている)。離婚で一旦家を出ていった父は、母の病気の折に帰ってきたが、長女としてはそんな身勝手な父を許す気になれず、ずっとギクシャクした関係を続けていたのだった。
 父は生前火鍋の店を開いており、それなりに客のついた名店と言われる店だった。離婚後かその前後の関係で、妹が二人いることも判明する。一人は重慶、一人は台湾だ。台湾の妹は、引き取られた新しい家族のもとで、ビリヤードのプロとして生活していた(そこの母とはギクシャクしている)。重慶の妹は、祖母と暮らし、ユーチューバーなのか、自分のブランド品をネットで売っているようだ。
 父は何も言わず、火鍋の店だけを残して死んだ。元従業員も、なじみの客も、この店に愛着がある。なんとか父の作っていた火鍋の味を再現させたいと姉妹は奮闘することになるのだったが……。
 間に三人にまつわる群像劇のような感じの挿話が挟まれる。父へのわだかまりの感じ方には、それぞれの姉妹の性格と感受性に違いがあり、一様ではない。父も悪いのかもしれないが、何かその事情もそれなりに複雑なことがあったようだ。それでお互い不幸にされたという恨みが残っているわけだが、何しろ父はもう死んでいなくなってしまった。残された父の血の関係でこうしている姉妹と、どう折り合いをつけていくのか、ということにもなっていくのであろう。
 また、残された娘たちの運命も、基本的にはどうしあわせになれるかだ。父の呪縛を一番に受けて、母の恨みの再現に恐れを持っている長女は、結婚する男に対しても、そのあいまいな言葉遣いが気に入らない。もっと主体性をもって、自分を奪ってほしい訳だ(ちょっと強くいうとだが)。父の生前付き合いのあった医者との関係もあり、いい感じの天秤をかけて自分の愛を確かめていく。台湾は母とのわだかまり、重慶は祖母との関係をそれぞれ修復する(と思う)。残されたものが大切で、これからのことがもっと大切だからだ。
 かなり意外だったが、最終的には火鍋の店は再建を断念した、ということのようだ。ここらあたりはなんとなくわかりづらいのだが、車の免許も取ったことだし、自由な生き方をするという隠喩なのかもしれない。おそらく本人には向かない生き方には違いないが、そんなの関係ないということなのだろう。まったく不思議な余韻の残る作品であった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人前であがらなくなる方法

2024-09-14 | つぶやき

 人前で話す機会というのはそれなりにあるせいか、ときどき人前で話す時にあがらない方法が無いかと聞かれることがある。方法があると考えている時点で、何かそういうものでは無いような気もするのだが、いちおういくつかは答えらしいものはある。一つは求められている答えでない事は分かっているのだが、経験を積むことである。要するに、慣れてしまうというのがある。芸能人やアナウンサーなどになれば、いつも人前に出ることになるので、最適な訓練になるだろう。
 もう一つは、人前で話す練習をすること。知った人とか家族とか、そういう人に頼んで話すのを見てもらう。家族は時々辛辣な批評をしてくる場合があるので注意が必要だが、そういうのにいちいち気にすることをしないで、とにかくそういう環境で練習をする。なんで話す機会があるのか、事前にその内容が分かっているのなら、いちおうメモなどに話す内容を箇条書きにしておいて、それに沿って話してみる。原稿を書いてそれを読むのも、必ずしも悪くは無いのかもしれないが、俳優のように丸暗記する気が無いのであれば、読まない方がいいと思う。書いてある通り話せないと、失敗した感じになって残念な気分になる。失敗体験を積むことは、この際あんまりよくない気もする。ますます話すのが嫌になるかもしれないし……。
 メモに書いた内容を、なんとか言葉に出して言ってみる。そういうのを10回くらい繰り返していると、だいたい形が整ってくる。できればそれを100回くらいやれたらいいのだが、おそらくそんな根気は無くなるだろうし、聞く方もかなり大変になる。何回か聞いてもらったら、シャドーボクシングみたいに、自分だけで話を繰り返してみる。車の運転中とか、散歩とか、何かをやりながらでかまわないので、出来る限りたくさん繰り返してみる。そうしてもう一度知人や家族の前で話してみる。前回よりも必ずうまくなっているはずなので、まずまずOKが出るのではないか。いや、話してみるだけを目的にして、評価してもらわなくてもいいかもしれない。だいたい話をしたからと言って、相手がどう思うのかなんて考えてはならない。それも一つのあがらないコツでもある。うまく話せなくて笑われたとしても、ウケたんだからそれでいいのだ。お笑い芸人だったら合格である。
 そもそもスピーチというのは、うまく話せるときもあるし、いまいちの時もある。だけど話した後に、そんなことをいつまでも思い返す時間がもったいない。どのみちどうにもならないことだから、次の機会の経験になっただけでももうけもので、忘れてしまうのが一番だ。そうして次に機会がありそうだったら、また再度練習をする。そういうのを何回かやってみると、まあそんなに得意にはならないかもしれないまでも、いちおう何とか話せるのではないかという、度胸のようなものが付いてくるはずなのだ。いつまでも嫌だというのはあるかもしれないが、その時が来たってなんとかなると思えたら、それでいいのである。
 噺家さんだって人前で話すのが商売だろうけど、よく聞いてみると、あんがい話が下手な人も多い気がする。じょうずに話せないのに、なんとなく面白みがあったりするのが不思議なもので、まあそんな感じで芸になっていくものなのではないか。それに普通の人は、話を芸にまでする必要なんてない。その場しのぎでいいのだったら、何を話したところで気にすることなんてないのである。
 という感じになっていくと、不思議とあんまりあがらなくなるものである。という話を聞いたところで、おそらく今あがりたくないと考えている人に最適の答えでないことは分かっている。でも、だから何もしない人は、結局いつまでもあがり続けることを気にして生きていくことになるのではないか。それでいいのなら、別段かまわない事ではあるのだけど……。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

卒業でナーバスになる人々   少女は卒業しない

2024-09-13 | 映画

少女は卒業しない/中川駿監督

 高校卒業式までの2日間の出来事を、群像劇にしてある。一つは答辞を読むことになった女生徒の話で、生徒会でもないのに答辞を務めることを(すでに進路が早々に決まった子らしい)先生にすすめられる。それでその気にはなった訳だが、何か彼女には秘密がある。毎日彼氏に弁当をつくってやっている様子が描かれていて、料理クラブの活動のようなものをしていたようだ。もう一つは東京の大学で学びたい思いが強く、地元の大学に進学すると決めている彼氏とギクシャクしてしまっている。卒業後は進路が違うので、長い別れにはなるが、こういう形で関係がおかしくなったままでいるのは心残りだ。せめて別れる前に、仲直りしておきたいと考えている女生徒の話。卒業式の後に恒例となっている生徒会主催のバンド演奏会が催されるらしい。そこでの出演順は投票制になっていて、口パクのなんちゃってパンクバンドが人気投票で一番になってしまう。要するに本当には実力が劣るバンドが、何かの冗談のような投票結果の末に(そのような悪意のあるような組織票が働いたと示唆されている)、本当にトリを務めていいものか、という話。最後に、学校に慣れずに友人もいないが、図書館に詰めている先生が好きでなんとか学校に通うことができた女生徒の話。という4人分である。
 卒業前にナーバスになっている人たち、ということが言える。さらに卒業後にこの校舎は取り壊されることが決まっており、多くの備品は既に新校舎に引っ越し準備が進んでいる。いわば慣れ親しんだ校舎が無くなることは、地元に居続ける人と地元を離れる人とに、微妙な分断を生む背景ともなっている。しばらく離れた後に帰って来る懐かしいところが無くなることと、生活の中で新しく生かされる旧校舎後に期待する地元民との感覚の違い、というのだろうか……。
 高校生の感覚なんてものは遥か彼方の昔のことで、とても思い出すことなどできないが、卒業後友人と遠く離れてしまう寂しさを感じないものなどいないだろうし、新たな進路に胸を躍らせない(または一抹の不安も)ものもいないだろう。心残りもあるが、清々する気分もあるかもしれない。中心は女生徒を据えてあるので僕には分からないだけのことかもしれないが、皆考え方がちょっとした大人のようなもの分かりの良いものばかりで、なんだか不思議かな、とも感じた。対して男たちは、やはり幼いという事か。もっとも原作は男性のようだし、これも一種の幻想なのではなかろうか。
 映画とは関係が無いが、高校時代に戻りたいなんて言う感慨は抱いたことが無い。たいして面白くない時代だったこともそうかもしれないが、閉塞感が大きくて、早く自由になりたかったというのがあるからかもしれない。先生も大変だったろうけど、生徒でいることはもっと大変だったのである。卒業後に自由になって却って戸惑うというのは無いでもないが、その後社会人になって、自分で収入を得ることになって、もっと自由になっていく。やっぱり子供時代より大人の方がいいのである。彼ら彼女らには、そういうことをわかって欲しいものである。もうすぐわかることにはなるんだろうけれど……。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

回る卵はジャンプもする   ケンブリッジの卵

2024-09-12 | 読書

ケンブリッジの卵/下村裕著(慶応義塾大学出版会)

 副題「回る卵はなぜ立ち上がりジャンプするのか」。
 ゆで卵と生卵を見分ける方法は、特に裏ワザと断るまでもなく、手でくるりと回してみるとすぐわかる。ゆで卵なら勢い良く回り続けるが、生卵は不規則に揺れてうまく回らない。中身が固まっていないと、中心が揺らいでよく回らなくなるのだ。そうしてそのよく回る茹で卵を、両手を使った方がいいと思うが、交差させながら勢いよく回すと、立ち上がって回りだすだろう。多少コツは必要だと思うし、テーブルの広さにも気を付けなければならないが、立ち上がったゆで卵を眺めてみるのも、なかなかに愉快である。僕は昼にゆで卵を食べることが多いのだが、食べる前に儀式のように卵を回している。卵の形は様々だから、簡単にきれいに立つものもあれば、苦労するものもある。遊びと言えばそうかもしれないが、この現象を物理的に証明した人がいる。それがほかならぬ著者である。少し前まで知らなかったが、こんなに凄いことだったとは、ほんとに呆れました。
 難しい数式が書いてあるわけでは無いが、卵を回したら立ち上がることを証明する計算は複雑怪奇らしく、誰でも知っているし簡単に目にすることのできる物理現象であるにもかかわらず、これまで誰も証明することができなかった難問だったのだ。下村先生はケンブリッジに留学中に、この現象とかかわりがあってのめり込み、当初の目的では無かった研究にもかかわらず、モファット教授という偉大な研究者と共に(基本は下村先生が計算していることは、これを読めば分かるが)、この現象の究明に没頭する。そうして何故、多くの人がこの謎を目にしながら計算に成功しなかったか、という苦難の苦労をすることになる。この卵のような形の物体を回転させたとしても、そのうける摩擦の計算などを勘案したものであっても、簡単には立ち上がる解が求められないようなのだ。下村先生は何度も何度も計算をやり直し、何度も頭を抱え込む。モファット先生と議論し、時には疑問がさらに深まり、的外れではないかという疑念も浮かぶ。いい感じのアイディアも浮かぶが、そのままではやはり何かうまく行かない。そうしてやっと行けそうだという計算が成り立っていくが、それから派生してさらに高速の回転になると、立ち上がるだけでなく卵はちょっとだけジャンプしていることも突き止める。しかしその実験結果を目に見える形にするのがまた困難なのである。何年もかかって論文に書き上げ、権威ある科学雑誌へ掲載される道のりも長く遠く面倒も多い。それらの顛末を、ケンブリッジの素晴らしいキャンパス行事体験などを交えながら回想した物語である。
 題名がケンブリッジの卵というのは、基本的にケンブリッジ時代の体験記を軸に語られているからである。下村先生の日本の活躍ぶり(授業のやり方なども)も書かれているし、物理や化学というものの考え方を、楽しく紹介したものでもある。実際にはものすごい計算能力のある次元の違う人間であることは見て取れるものの、また英国で別の言語を操りながら苦労しただろうこともあるのだが、実に楽しそうに苦労をしている様子だ。一言でいうと、何か本当に純粋な驚きに満ちた楽しさなのである。目の前にある物理現象で、まだまだ計算上謎に満ちた出来事がたくさんあるという。そしてそれらはまだ、研究の題材にさえされていないのかもしれない。僕に証明できるとまではとても思えないが、少し子細に周りを見てみようという気分になることは間違いない本である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

猫の命は一つではないらしい   長ぐつをはいたネコと9つの命

2024-09-11 | 映画

長ぐつをはいたネコと9つの命/ジョエル・クロフォード監督

 何かよく分からないが、大宴会というかコンサートのようなことをして大騒ぎをやっていることで巨人を目覚めさせてしまい、さらに混乱を深める中、なんとか巨人を退治することができるが、自らは死んでしまった猫の英雄がいた。しかしながらこの猫は、実は9つの命が授けられていて、これまでに8つが亡くなったということであるらしかった。最後の命を大切にして、余生は猫好きのおばさんに飼ってもらうよう医者から諭されるのだが、何しろ無頼派で鳴らした剣士である。ところが恐ろしいオオカミの姿をした死神のような賞金稼ぎに襲われ、とても力の差があることもあり、恐ろしくなってなんとか逃げ出して難を逃れる。すっかり気落ちして猫好きおばさんに、その他大勢の猫たち共に共同で飼われてみることにしたのだったが……。
 子供の頃に長靴をはいた猫というのは、物語として知っていたが、それの派生らしい造形があるものの、別の猫のようである。ただし民衆をはじめ、なんとなく舞台はフランスっぽい。演出は完全にアメリカ的なんだが。ともあれアニメらしい激しい展開と、さまざまな世界観が展開されていて、目まぐるしい中にも、漫画的なギャグやアクションが繰り広げられていて、楽しい作品になっている。敵も多いのだが、それぞれキャラクターがはっきりと描かれていて、何か敵っぽいけど仲間であることも示唆されている。やっつけるべき強大な悪のようなものに立ち向かいながらも、いわゆる残酷さというものはあくまで危機的な状況のみで、大団円に向かい安心して観られる構成になっているようだ。ちょっとそれはなんでだろうという疑問が無いでは無かったが(特に死神に対しては)、まあ、平和が一番である。海外アニメなんだし仕方がなかろう。
 いちおう恋愛劇もあるし、なんとなくの大人テイストも無いでは無いが、あちらのアニメにありがちの子供向け倫理観のようなものがあって、やはり西洋人は、殻から抜け出すのが困難な精神性があるのが見て取れる。自ら限界を超えることができないようだ。そういうものは宗教なのか文化なのか、それともその両方なのかわからないが、共同体として抗いがたいものがあるのかもしれない。特にアニメのように、子供にふさわしい大人の考えというのが確固たるものとしてあるというのが、東洋とは違う価値観なのだろう。子供も大人の所有物、ということなのかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

不幸な争いの時代に生まれた大統領

2024-09-10 | ドキュメンタリ

 いまさらながらゼレンスキー大統領に関するドキュメンタリを見た。ゼレンスキーはウクライナ東部の生まれのロシヤ語圏で育ち、ロシヤ語しか話せなかった。若いころからアマチュアのコメディ番組には出ていて、人気が出たのはロシヤの勝ち抜きコメディ番組からであった。だからすでに十代から人気があったらしい。番組ではチャンピオンになったりして頭角を現し、コメディを中心とする俳優として活躍する。大学は出ているが、卒業後本格的にコメディアンとして仕事に打ち込んだとされる。
 それらはすべてロシヤ語で行うものだったようで、あちらの事情がはっきりしないところもあるが、両国で人気があったということかもしれない。プーチン大統領もこの番組は見ていたと言われ、大統領選挙の前には、番組を観客としても見に来ており、いわば選挙活動の一環としてテレビの露出する戦略も取っていたようだ。もっともその放送時には、ゼレンスキーは予選落ちしており、一緒にテレビの画面に登場してはいない。
 ゼレンスキーはコメディアンとして人気があったものの、ウクライナの国民的な人気を博すことになったのは、なんといっても「国民の僕(しもべ)」と言われるドラマで主演してからである。大統領役を演じ、真に国民のために働くヒーローを演じた。まだその頃にはノンポリのようで、個人的には政治的発言はしていなかったが、ドラマの役柄と同様に、政治家として期待を集めるようになり、徐々にその気になっていったようだ。もっともその頃にはまだ、大統領候補者としては泡沫に近く、支持率も10%も無かった。苦手なウクライナ語を短期間でマスターし、徐々にウクライナ語で演説を行うようになる。それでもまだ、東部のロシヤ寄りの候補者と見られていて、真に信用されてはいなかった。当時は俳優時代にテレビ番組で、(相次ぐ犠牲を防ぐため)国民のためにならロシヤに跪く(和平のためという意味だろう)という発言が問題視され、現職の大統領からもそのことを公開討論会で批判された。ところがゼレンスキーはこれを逆に利用し、戦闘でなくなった犠牲者の母親のために跪く、と発言し、実際に跪くパフォーマンスを行い形勢を逆転した。要するにコメディ番組で鍛えた機転の利く行動で、さらに人気が出たということにようだ。
 大統領になってからドイツやフランスの仲介でロシヤのプーチンと会談する機会を得るが、交渉はまとまることは無かった。共同での会談を終え、ゼレンスキーはロシヤ国民に向け、争いをやめてウクライナの独立を認めるよう演説をした。一方のプーチンもウクライナに向けて抵抗をやめてお互い理解すべきだと訴えた。つまるところ平行線のままゼレンスキーは、欧州との関係を重視する方向性を示し、結局はロシヤが今世紀三度目のウクライナへの侵攻に至ったという訳だ。
 この戦争の結末は見通せないが、ロシヤとウクライナの関係は、はるか先の時代にならない限り解決をしないことが明確になったとされる。結果がどうあれ、恨みを深める時代が長く続き、その後の関係改善の道は閉ざされたと言えるだろう。それは我々が生きている間には、決して成し遂げられることのない暗黒の歴史であるということになるのだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする