続・中岳龍頭望

脱力系から熱血系へ。ま、志はということで…

ゲンを担いで幸福になる?

2017-04-25 | 掲示板

 勝負事、特にスポーツ選手などは、ゲン(験)を担ぐ人が多いようだ。トレーニングを積むこと以外にも、何とか自分に有利にしたいという心情がそうさせるのだろう。実力として勝てるとは思っていても、さらに精神的にもすがりたい気持ちがあるのかもしれない。連勝中は髭を剃らない、というような人がたまにいて、しかし髭ボーボーでやはり負けて剃るというのをみたことがあるが、やはり関係ないんじゃないかと傍目には思う。すっきりして試合に臨むという人だった居るだろうし。
 中にはルーティンのような動作を自分に課している人もいる。靴は左から履くとか、道路の白線を踏まないとか。まったく不合理だが、それで何かいいことがあったんだろうか? まあ、勝手にやっていいことだが、そういう話を聞くだけでも、何か滑稽かもしれない。
 しかしながら神社のお祓いなどの儀式も、ゲン担ぎのような感じも多少ある。そういう場合は権威が違うのか、特にやっている時は疑問を持たない。何か意味があるらしいとも思うし、しかしまあ、せっかく祈願してくれているものをいろいろ言っても仕方ない。
 漁師さんや農業なんかで、お神酒や塩やコメをその場に撒くような儀式もある。ちゃんとした神主さんではない人々がそのようなふるまいをすることは、やはりそれなりに重みがあるようにも思う。真剣に仕事をやる上では、そういうことも必要かもしれない。
 自分自身にはそんなものは何もないと勝手に思っていたが、なんとなくそういう気分がある場合もあるようだ。語呂合わせのような数字が並んだり(僕は7があまり好きじゃないけど)、蹴った石がコロコロいつまでも転がったりすると、なんとなく気分がいい。茶柱だっていい気分だし(茶が旨いという方が重要だが)、おまけのアタリが嬉しくない訳では無い。ふだんはそんなもの気にもかけていないつもりが、素直な感情としては嬉しかったりするわけだ。
 毎回通る道では無いが、近所に数匹ベランダのようなところで犬を飼っておられる家がある。この犬たちが一斉に吠えると、それなりに近所迷惑なレベルに達する。僕は犬が嫌いではないけれど、吠えられるのが嬉しい訳では無い。ところがこの犬たちは、僕が通ると必ず吠えるという訳では無い。おそらくふだんは寝ているのだろうと思うが、僕が通ることに気づかずにいる場合が多々あるのだ。その家の前を通る間、この犬たちに気づかれずにやり過ごすとき、何故か非常に幸運を感じる。まあ、だから宝くじを買おうかなんてことは思わないけど、そのままいいことが続くといいな、と思います。
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4月24日(月)のつぶやき

2017-04-25 | 時事
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思春期の不条理と闇がてんこ盛り   シガテラ

2017-04-24 | 読書

シガテラ/古谷実著(講談社)

 全6巻。漫画。ヒメアノールが良かったので、ついでといってはなんだが、読んでみることにした。似ているところはあるが、主人公は高校生。病的なところと自意識過剰具合が、だからかなり子供っぽい。しかし今考えるとずいぶん前にヒミズも読んだことがあって、それと比べても、同じ高校生ながら、やはり子供っぽい。これらの作品が本当につながっているのかは分からないが、一連の古谷作品の分野であることは間違いなかろう。
 主人公の荻野は学校で激しいいじめを受けており、その精神逃避としてバイクに乗ることを夢見ている。そうしてバイトをして、教習所に通う。そこで南雲という一つ上の美女に何故か好かれ、付き合うことになっていく。いじめられている、いわゆるダメな人間としての最底辺の絶望感がありながら、明らかに不釣り合いにかわいく性格の良い女の子と付き合いながら、性的な欲求に思春期らしく葛藤している姿が大きな柱になっている。
 さまざまなエピソードがちりばめられており、恋愛の危機においては、少しそれらの事件が、まとまりなく起こりすぎているきらいはある。危険が多く降りかかりすぎる上に、それらのことが、もの凄く異常すぎる。普通に進行する恋愛劇が、過激な闇のトンネルをいくつもぬけなければならないようなことになる。基本にあるいじめ問題が大きい闇へと進行していく中、子供らはそのことを誰もが知っているのに、ほとんどの大人は介入しない。新たにいじめ仲間なる一人の家庭がヤクザのために、一度ヤクザが介入するくらいである。しかしいじめの張本人である谷脇は、そういうことは意に介さないし、後に大きな殺人事件に巻き込まれながら、やはり一般社会で生き延びていく。そういう設定ではあるとはいえ、少し無理があるようにも感じた。何故ならやはり、それらの人々においても、それぞれに家庭があるはずで、そういう無理が通る為の道理のようなものがあるのではないか。また、そうでないというのであれば、特殊な事情のある一部の人が、一か所に集まりすぎているという想像が無いように思うからだ。
 もともと無理のある恋愛の形がありながら、それが壊されようとする危機が、さらに大きな問題過ぎて、まとまりに欠ける作品になってしまっている。
 例えば、谷脇の最大の危機の時に谷脇の彼女と一緒に谷脇を救うために探しに行く、というくだりがあった。一番憎んでいる人間を、一緒に虐めていたのと同然の女に頼まれたために助けなければならない。それも自分のしあわせの最大の心のよりどころの彼女との約束や、バイクを買うために溜めていた資金を使ってまで、断り切れずに引き受けなければならない。さらにそういう混乱の中で谷脇の彼女とも性的関係が起こってしまう。そのような不条理や馬鹿さ加減というのは、物語として非常に良かったと思うのだが、そういう部分が膨らみながらも、どうも持続しないというのが残念だったのかもしれない。普通なら、これは相当大きい話だと思うのだが、なんとなく、恋愛の危機の疑いの材料で済んでしまったという感じなのだ。物語を作る構成やアイディアは素晴らしいと思うが、ちょっと使い方がもったいないのではあるまいか。
 そういう意味では実験的な作品だったのかもしれない。谷脇との関係では、最後にともに殺されそうな仲にもなる。この話も大変にいいと思うので、やはり闇の部分の描き方の方に、才能のある人なのかもしれない。
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4月23日(日)のつぶやき

2017-04-24 | 時事
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手切れの高い代償

2017-04-23 | HORROR

 15年くらい前だろうか、ある先輩が遠くに見える建設中の電燈をみて、あれは何だろうと言った。かなり巨大な建物で、方角から見てピンときて、当時建設中の医療センターであろうと僕が言った。そうしたらその先輩が、そんなことは無いという。いや、他には考えられないのではないかと僕がいうと、そんなに自信があるのなら賭けをしようという。いくらだと聞くと10万だという。それはあんまり大きな数字過ぎるから止めようと言ったのだが、車を走らせる(その時は何かのイベントが終わって撤収を一緒にやっていた)と、もう賭けは成立したなどと言って勝手に確認することになった。僕は自信が無い訳では無かったが、急になんだか落ち着かない気分になった。でも、現場近くなると、先輩の方が元気が無くなる番だった。何故ならそれは、やはり医療センターだったからだ。そうして先輩は、今の話は無かったことにしてくれと、茫然とした表情で言った。僕はもともと10万が欲しくてつきあっている訳では無かったし、そもそもこの強引な流れに本当に同意していた訳では無い。もちろん無かったことでいいというと、何度も先輩は謝った。何度も何度も。これは本当に僕から10万を取る気でいたらしいと思って、まったく気分が悪かった。
 この先輩はしばらく後、僕に金を借りに来た。当時普通預金の残高が○○万くらいあって、誓約書を書いたうえで借りて行った。もちろん一銭も返してはくれなかった。一年くらいしてあるコンビニに立ち寄ると、その先輩が居た。その時も何度も謝ってきた。僕は買い物せずに店を出て、その後その店にも近寄らない。
 でも、この人が人づてに仕事の依頼などはしてくることが、何年かに一度あるのだ。もちろん、当然のこととして断っているが。
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4月22日(土)のつぶやき

2017-04-23 | 時事
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ハードボイルド、情痴殺人事件   郵便配達は二度ベルを鳴らす

2017-04-22 | 映画

郵便配達は二度ベルを鳴らす/テイ・ガーネット監督

 1946年作品。原作はハードボイルド小説らしい。4度も映画化されているうえ、舞台もあるという。子供の頃にジャック・ニコルソン主演で映画化されて話題になっていた記憶がある。その時はエロ作品として宣伝されていたと思う。いつだったかは忘れたが、その後ニコルソン主演作は観た。特にエロ作品とは思えなかったが(心情的には騙されたが、ざっくり乾いたいい映画だった)。
 流れ者の男がガソリン・スタンド兼レストランで働き出すが、経営者には年の離れた若い魅惑的な妻がいた。すぐに男と関係が出来るが、その後二人は一緒になるために主人を殺すことにする。未遂があった後殺害には成功するが、結局殺人の疑いで裁判になり、やり手弁護士の手腕で、一度は無罪を勝ち取るのだが…。
 愛に溺れて罪に手を染め、裁判などを通じてお互いの愛に亀裂が入る。様々な事件ややり取りはあるにせよ、行き当たりばったりに見える二人の情愛はことのほか深く、そのために何故か観ている側は、許されない二人の愛を認めたくなるような心情になっていく。もちろんいくらなんでも愛のために人を殺していい訳なんてなさそうだが、他に出てくる人々も、そんなに善人ばかりではない。殺された主人がある意味で一番善人だけれど、しかし同時に愚かしくもある。まあ、殺されて当然という訳にはいかないが…。
 昔の映画だから、裁判などの展開のための理屈がやや非合理な気もするけれど、二転三転する展開は、サスペンスとして面白い。魅惑的な女性が、キスをしても平然と口紅をなおしたり(しかし恋には落ちている)する描写も、なかなか見事だ。随所に非凡な演出があって、さすが名作映画という貫禄もある。ただ、最後はちょっとあっけなくて、まあ仕方ないけど、倫理観としてはそうならざるを得なかったところが残念と個人的には思う。
 僕が男だからかもしれないけど、女性の魅力に溺れて悪いと分かっていてもどうにもならないというところが、いいと思うのかもしれない。そう思わない人には、単に不条理な物語だろう。まあ、しかし、人を殺すんだったら、もう少し綿密に計画した方がいいと思うのだけど…。
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4月21日(金)のつぶやき

2017-04-22 | 時事
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運命を握っているのは北の人

2017-04-21 | 時事

 世の中には手遅になってしまっている事がたくさんあると思うが、しかし、人の命がかかわっていることで、それを自覚しながら放置されている問題というのは、そんなに多くは無いと思う。さらにそれは非常に深刻で根元的なことであるにも関わらず。もちろん、合理的に考えて、普通は考えられないくらい不合理な行動をとらない限り、有事には発展しないはずであるという考えも、一応は理解している。しかしながらそれは、自分の力の及ばない範囲での力のバランスによるものである。自分の責任として放置している理由としては、少しレベルが違い過ぎる。そうしてほとんどありえない事柄から、まったくありえないとは言えないというあいまいさへとシフトしたという現実であるとは思う。しかしそれが有事でないということとは、やはり別の問題だ。かなり明確に残念で、しかも重要なのは間違いない。しかし既に自分らではどうしようもないので、見て見ぬふりをして、単に神頼みするより無いということか。
 赤ちゃんという立場であるのなら、それも仕方がない。自分の命であっても、それは他人にゆだねるより仕方がない。しかし、赤ちゃんでは無いのである。おそらく自分で物事を考えることもできるし、そうして自由にそれらを決めても良かったのだ。
 しかしすべては手遅れだ。しかるべき時は非常事態ということで、超法規的に動かざるを得ないだろう。普通に考えて、国民の議論のないままに、そのような準備は当然なされていると考える方が自然だろう。それをやっているのは他でもなく自分自身で、そのツケを払うのも、結果的には自分たちだ。
 つまるところ、人の命を軽んじて、軽薄な態度をとりつづけていたということなのではなかろうか。そういうことが許されると思っている精神性が、人の命を素直に危うくさせたのである。つける薬は、やはり無いのだろうな。
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4月20日(木)のつぶやき

2017-04-21 | 時事
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