三日坊主であることを嘆く人は多い。やや自虐的だが、同情を引いてもいる感じだ。あなたもそうでしょ、って感じだろうか。いや、素直に言って、その通りですが。
三日坊主になってしまうのは、そもそも継続するのは、恐ろしく難しいからだ。それも何かをしたいという動機そのものが、いわゆるゴールとして、壮大に遠いところにあるというか。ダイエットはたくさん体重を減らしたいからで、勉強は、例えば英語を話せるようになりたいからだ。しかしそうなるための道のりは、険しく遠い。毎日そのために走ったり、毎日そのために英単語やフレーズを暗記したりするのを続けることが、どれだけ大変なことなのか。そんなことは三日もすれば理解できるということなのだ。
しかしながら、普通にできていることはあんがいに多いかもしれない。毎日朝食を食べているし(これはつれあいに感謝するよりないが)、新聞も休刊日以外は読む。休刊日であってもネットでも読む。テレビだって見ているし、散歩だってよっぽど雨風が強いとかなければ行く。仕事にも行く。一応職場に行けば仕事だってする。メモは必ずつけるし、それをもとに検索もする。いや、それはいわゆる目的が壮大でなくて、ゴールが無くても習慣化しているからだ。継続のコツは習慣化にあるという訳だ。問題は、本人がやりたいとかやらなければとか思いながら、それを習慣化できないことにある。それは本当はつらいことで、自分が望んだことではないからなのか。いや、結果は望んでいるが、苦行は望んでいないのである。
しかしものごとは程度問題で、苦行であっても小さな苦行なら、出来るかもしれないと人は言う。小さい目標をコツコツやれ、という。毎日やることが小さければ、そんなに負担に思うことは無い。理屈としてはそういう事だ。先日読んだ本にもそう書いてあった。目標が遠くにあるとして、その歩数は少なく刻め、ということだ。いつかはたどり着くのは道理だ。
しかしあんがいそれでも上手く行かない。目標への距離感を見誤っているのかもしれない。見えているようで見えていないのかもしれない。だから近づいている実感が無い。実感が無いから見失ってしまって、自分がどこを歩いているのかさえ分からない。挫折はそのような迷いのようなものなのではないか。例えば体重は、少しは減ることもあるが、現実的には目標より程遠い。ちゃんとやることをやっている場合でも、結果が伴わないこともある。そうして飢える機会はものすごく少ない。
そもそも既に毎日やることはたくさんあるのである。むしろ時間は限られている。隙間時間には携帯を見なければならないし、トイレに入っても実際の目的以外のことをやれることは限られている。自分以外の視線もあるので、サボりながら何かをやるにも気が引ける。平気な性格の人がうらやましい。それにいろいろ〆切があって、今はそれを優先してやらなければならないのだ。その上にある程度の完成度が必要とあっては、やはり時間をかけてやるより仕方ないではないか。
というような言い訳はたくさん出てきて、やれる方法はちゃんと知っているのにもかかわらず、つまるところ継続の実行はできない。そうしてそれを仕方のない事にしておける。だってどうしようもないじゃないか。
そもそも今年の初めに何を目標にしていたのか、それすら忘れてしまった。あまりにも遠い昔の事のように思える。そういうことを忘れてしまえる才能があるのだから、悔悟の念も忘れ去るべきなのである。その方が健全というものではなかろうか。