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カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

雷は困るが

2025-08-11 | つぶやき
 ひどく雨が降って、ニュースはそればかりになり心配になる。雷も酷かった。愛犬はおびえて大変だった。寝ていても瞼の裏にまで光がとどき、何度も目覚めた。実際は音も関係あったかもしれないが……。
 しかし今日は祭日で、車は少なく、混乱も特に見られない。ちょっとだけシュールな感じがするかもしれない。
 そういう日だが、このグーブログの方が、移行したものより、訪問者が多く、それもコンスタンスに続いている。それで書いているというのもあるのかもしれないが、やはりなんとなく不思議な気もする。いや、何の不思議もない事かもしれないが……。
 昼休みには傘をさして、少し散歩した。なんとなく汗ばみはするが、雲が厚く気温はそこまで上がっていない。本来だったら、もっとものすごく暑いのだろうな、と思う。被害さえなければ、これもいい日かもしれない。
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いったい誰が

2025-08-05 | 時事
 もう終了しているつもりなのだが、いったい誰が……、と思うわけだ。ありがたいような、なんというか。
 移行した側のブログは、ぜんぜん人が来ない。なんだか複雑な心境だ。これは、本当に現実のことなのだろうか。
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一旦停止。

2025-05-21 | 掲示板
 という訳で、この親元であるgooブログの閉鎖に伴い、僕のブログのここでの更新も、一応これでお終いということになる。実際は11月に閉じるそうで、膨大なアーカイブがあるので、それはそのままにしておくというだけのことだ。
 なんというか本当に残念だし、資料を使っての概ねの移行ができたとはいえ、ぜんぶは出来なかった。そういうのってもうやる気にもなれない。12年だったかの歳月のいわゆる習慣めいたものが、これで閉じるわけだ。もっともはてなとワードプレスという二か所でブログは続けようと思うが、見に来てくれる人は伸び悩んでいて、これまで通りには戻りそうにない。そういうのが歴史ということなのかもしれない。
 長い間ありがとうございました。
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風水は恐ろしいらしい   破墓パミョ

2025-05-21 | 映画

破墓パミョ/チャン・ジェヒョン監督

 いわゆる風水の話らしいが、風水上墓所としてふさわしい場所というものがあるらしいことと、墓に眠っている人に何か問題があると、生きている子孫などに影響が及ぶというのが基本設定だ。こういうのは、そういう前提が一旦あると考えないと、なかなかついていけない(僕だけの問題だろうか?)。いわゆる祟りもの、ということで考えたらいいのであろう。
 ということで、アメリカで成功している韓国のお金持ちの家系で生きている人間の体調不良があって、原因が分からなかったが、風水師がそれは墓に問題があると指摘して、韓国の祖父の墓を掘り起こすことになる。当時は風水上よい場所だとして、ある僧侶の指導でここに葬られたというが、小高い山の山頂に、実に質素な墓石のみの墓で、この風水師によると実際には最悪の場所であるという。派手なお払いと共になんとか掘り起こし作業を済ますが、火葬場へ輸送中急に雨が降り出して、こういうのは火葬にはよくないとされているので、いったん遺体安置室に置かれることになる。ところがここで職員が、おそらく中にあるかもしれない金目当てでお棺を開けてしまい、そこから何かが抜け出してしまうのだった……。
 基本的にホラーなのだが、そう怖いものでは無く、基本的にはアクションのようなものなのかもしれない。何しろ過去の憑き物が暗躍して騒動を起こすわけで、人間の力では、なかなか対抗しようがない。霊の力はすさまじく、アメリカまでひとっ飛びで移動してしまう。さらに電話もかけてしまうのだから凄いのである。
 最初の方で日本語がちょっとだけ使われるが、これは彼女が日本語ができるという伏線である。何かスケールの大きな邪悪なものが現れるので、お楽しみに。
 途中で怖くないと書いたのだが、いわゆる気持ちの悪さというのはあるので、そういうのが苦手な人は、ひどい目に会うかもしれない。それと、凄く汗をかいている人も多い。日本だと恐怖表現は寒々とするわけだが、韓国だと多汗になるのかもしれない。これは単なる恐怖表現ではあるけれど、ちょっと珍しくも感じたので、この映画だけの出来事なのか、それとも文化的な違いなのか、よく分からない。東アジアで親戚国家の間柄だけど、違うものは違っていい。それと、韓国映画では、極端に美男美女がいるわけだが、この映画ではそこまで極端な感じはしなかった。こういうのは、何かの変化の兆しがあるものなのかもしれない。もっともマ・ドンソクみたいなヒーローもいるわけだし、韓国の多様文化を楽しむという題材にもなるのかもしれない。いろいろ極端ではあるが、エンタティメントは、やっぱり韓国が一枚上なのである。
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僕はスケートができないけど   ぼくのお日さま

2025-05-20 | 映画

ぼくのお日さま/奥山大史監督

 寒い地区の話のようだ。夏は野球、冬はアイスホッケーの練習に励む、吃音のある男の子がいる。スケートリンクの中で可憐に演技に高じる少女の姿に心を奪われ、自分もアイスダンスの真似事のようなことを始める。その姿を認めていた少女のダンスのレッスンをしている男は、吃音少年にアイスダンスのレッスンを施すようになる。そうして女子のフィギュアの大会は競争が激しく難関だが、ペアを組んで大会に望む方が有利でもあるし、シングルの演技ににも磨きがかかるとして、二人をペアダンスの道に導き出すことにする。少女の方は、コーチの青年に憧れと恋心を抱いており、本当は気が乗らないまでも、いうがままにレッスンに励むことになる。しかしながらコーチの男は実は同性愛者で、パートナーとしあわせに暮らす私生活があった。ある時その姿を偶然少女は目にしてしまうのだった。
 観終わってみると、いわゆる今どきの価値観の露呈のある物語かな、とは思う。きわめて今どきなのだ。しかしながら恋愛劇のようなものと、少年少女と青年との小さなしあわせのひと時が、純粋に美しく描かれている。それが壊れるのは、残酷な少女の恋心な訳だが、まあ、それは仕方がないと言えばそうなのかもしれない。男がやれば、許しがたいパワハラではある訳なんだけどね。今どきだと、それは気づかれないのである。
 ある曲に着想を得てこの物語ができたらしいし、エンディングでも曲は流れる。歌はむしろ吃音少年にスポットが当たっているが、もちろん物語は少年を中心にしているものの、実際の話は、やはり同性愛者の生きにくい社会の事であろう。カミングアウトして強く生きる道もあるのだが、そういうものにどうしてもスポットが当たってしまって一面しか理解されない生き方よりも、むしろ静かにしあわせに生きていきたい人々の方が、圧倒的に多数だということなのかもしれない。だってふつうっていうのは、実際にはそんなことに誰も気にしない世の中のはずだからだ。
 雪があって氷が張る湖があって、緑美しい森がある。そこでスケートしたりキャッチボールしたりする。実際は何らかの不満もあろうけれど、そのような中での人々の暮らしというのは、それなりにやはり天然の贅沢さがあるのかもしれない。まあ、そんな社会を知らないので、そう思うだけかもしれないけど。
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モテる男は煮え切らない   恋のゆくえ ファビュラス・ベイカー・ボーイズ

2025-05-19 | 映画

恋のゆくえ ファビュラス・ベイカー・ボーイズ/スティーヴ・クローブス監督

 兄弟でピアノデュオの演奏をしているプロミュージシャンがいる。クラブやレストランなどで出演して糊口をしのいでいる訳だが、腕は確かでも、そこまで人気がある訳ではない。仕事の口はだんだんと減っていて、心機一転、女性ボーカルをオーディションして入れることにする。しかしながら40人弱も審査するも、それらしい人は現れない。もう時間が過ぎて諦めていたところ、大遅刻してやって来た女がいて、しかし、これがあたりだった。
 それからは客の反応が格段に良くなり、大きな箱でも呼ばれるようになる。彼女の歌声もいいが、何よりステージ上のでもセクシーなのだ。そうして兄弟同士でも彼女のことが気になるようになって、今度は恋のライバル、ということになっていくのだったが……。
 兄弟デュオは、実際にも兄弟であるらしい。弟のジェフ・ブリッジスはそれなりのスターだから他の映画でも知っているが、兄のボーのことは、正直言って知らなかった。彼らは両親も俳優という一族の出身で、子役のころから活躍していたのだという。ピアノもどうも弾いているらしい(ミュージシャンとしても活躍している)。さらにこの映画歩褒めている人がいたから観たのだけれど、ほのかな既視感がある。ブログにはあげていないようだが、何しろ古めの映画だし、20年以上前に観ているのかもしれない。終わりのころのきょうだい喧嘩の場面を見て、これは見たな、と思いました(遅いよ)。
 しかしながらなかなかいい映画で、ちょっとした悲しみやもどかしさはあるものの、当時の人間模様の在り方のようなものをあんがいに見事に映し出しているのではなかろうか。今ではとても映像化できないような煙草のぷかぷかもふんだんにある訳で、そういった恋の小道具も、古くさくていいのである。もっともこんな人々のような環境のことは、まったく共感は無い訳だが……。
 いろんなものごとの調和というのは、あんがいにもろいものである。その後のことはわかり得ないが、やはり家族はいるわけで、なにかを割り切ってやっていくしかないじゃないか。まあ、そんな映画では無いのかもしれないけれど、たった二回やっただけなんだからね! ミシェル・ファイファー、かっこいいです。
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復讐心は、すぐに芽生える   ザ・メニュー

2025-05-18 | 映画

ザ・メニュー/マーク・マイロッド監督

 不思議な感じの島の高級レストランに、少数人数のみ招待される。そこでは最高級の食材を最高級のシェフが、あらゆる趣向を凝らして調理するということらしい。どうも招待されたのは、金持ちはもちろんだが、そういう料理の分かるらしい名だたるグルメの連中のようだ。後に明かされることになるが、そういう人々だからこそ、選ばれて招待されたのである。
 このレストランに君臨しているシェフは、非常に封建的だ。それも一つの演出であると、最初は客たちも思っている。それにその趣向を凝らした意外性のある料理は、確かに食べるものを唸らせるような、そういう力のある料理ばかりだ。シェフの存在とこのレストランを含めた異世界が、客たちをある意味で魅了していくのだが、物語はどんどん、ふつうのことから逸脱していくのだった。
 途中までホラー映画とは知らずに観ていたので、確かにこれはいったい何だろう? と不思議な感じになってしまう。いくら何でもこんなことが起こってしまったら、もう後戻りはできないかもしれない。客がそのことを悟るとき、この話自体がどうなってしまうのだろうか。そんなことを考えながら観ていたわけだが、しかし、逸脱は収まらず、ヒントになるある女性も、いったいこれで本当に良かったのかよく分からないことになっていった。映画のアイディアなのでそれはそれでいいのだが、やっぱりこれはあり得ないことなのではないか。そういう訳で、残念ながら、後半はずいぶん冷めた気分になってしまった。
 狂気の一つの描き方としてはいいのである。しかしながらこれに魅了されながらも従う者たちの心情が、今一つ分からない、ということなのかもしれない。洗脳されコントロールされているのであれば、やはりそのプロセスの一旦くらいは、明かされても良かったのではなかろうか。いや、明かされてはいたのだが、いったいその憎悪は、もう少し連携できる感じになる必要性があったというか……。
 しかしながら料理というのは、そうしてレストランのような空間というのは、やはり料理人と客との一体感のようなものが、あってこそなのかもしれない。そういうものが、全体としての料理そのものだ、という捉え方なのであろう。
  現代社会には、フーディーという美食そのものに価値を求める人々がいるという。おそらくそれに対する皮肉もあるのだと思う。料理というのは、食べる側は主観でいい、というものがある。共通認識としての一定の価値観はあるが、好みというのがそもそも多様だ。いくら腕が達者な料理人であっても、つまるところその対象者なのだ。クリエイターのつらいところは、そういうところにある。文学でも芸術でも、そして映画であっても、すべてのものは、消費される側の主観にさらされる。そうして、その主観は、時に人をひどく傷つけることもあるのだ。つまるところ、復讐の要素は、いたるところに転がっているのであろう。
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三日坊主を忘れる

2025-05-17 | つぶやき

 三日坊主であることを嘆く人は多い。やや自虐的だが、同情を引いてもいる感じだ。あなたもそうでしょ、って感じだろうか。いや、素直に言って、その通りですが。
 三日坊主になってしまうのは、そもそも継続するのは、恐ろしく難しいからだ。それも何かをしたいという動機そのものが、いわゆるゴールとして、壮大に遠いところにあるというか。ダイエットはたくさん体重を減らしたいからで、勉強は、例えば英語を話せるようになりたいからだ。しかしそうなるための道のりは、険しく遠い。毎日そのために走ったり、毎日そのために英単語やフレーズを暗記したりするのを続けることが、どれだけ大変なことなのか。そんなことは三日もすれば理解できるということなのだ。
 しかしながら、普通にできていることはあんがいに多いかもしれない。毎日朝食を食べているし(これはつれあいに感謝するよりないが)、新聞も休刊日以外は読む。休刊日であってもネットでも読む。テレビだって見ているし、散歩だってよっぽど雨風が強いとかなければ行く。仕事にも行く。一応職場に行けば仕事だってする。メモは必ずつけるし、それをもとに検索もする。いや、それはいわゆる目的が壮大でなくて、ゴールが無くても習慣化しているからだ。継続のコツは習慣化にあるという訳だ。問題は、本人がやりたいとかやらなければとか思いながら、それを習慣化できないことにある。それは本当はつらいことで、自分が望んだことではないからなのか。いや、結果は望んでいるが、苦行は望んでいないのである。
 しかしものごとは程度問題で、苦行であっても小さな苦行なら、出来るかもしれないと人は言う。小さい目標をコツコツやれ、という。毎日やることが小さければ、そんなに負担に思うことは無い。理屈としてはそういう事だ。先日読んだ本にもそう書いてあった。目標が遠くにあるとして、その歩数は少なく刻め、ということだ。いつかはたどり着くのは道理だ。
 しかしあんがいそれでも上手く行かない。目標への距離感を見誤っているのかもしれない。見えているようで見えていないのかもしれない。だから近づいている実感が無い。実感が無いから見失ってしまって、自分がどこを歩いているのかさえ分からない。挫折はそのような迷いのようなものなのではないか。例えば体重は、少しは減ることもあるが、現実的には目標より程遠い。ちゃんとやることをやっている場合でも、結果が伴わないこともある。そうして飢える機会はものすごく少ない。
 そもそも既に毎日やることはたくさんあるのである。むしろ時間は限られている。隙間時間には携帯を見なければならないし、トイレに入っても実際の目的以外のことをやれることは限られている。自分以外の視線もあるので、サボりながら何かをやるにも気が引ける。平気な性格の人がうらやましい。それにいろいろ〆切があって、今はそれを優先してやらなければならないのだ。その上にある程度の完成度が必要とあっては、やはり時間をかけてやるより仕方ないではないか。
 というような言い訳はたくさん出てきて、やれる方法はちゃんと知っているのにもかかわらず、つまるところ継続の実行はできない。そうしてそれを仕方のない事にしておける。だってどうしようもないじゃないか。
 そもそも今年の初めに何を目標にしていたのか、それすら忘れてしまった。あまりにも遠い昔の事のように思える。そういうことを忘れてしまえる才能があるのだから、悔悟の念も忘れ去るべきなのである。その方が健全というものではなかろうか。
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スペイン語を学びにメキシコに行った人   60歳からの外国語修行

2025-05-16 | 読書

60歳からの外国語修行/青山南著(岩波新書)

 副題「メキシコに学ぶ」。著者は翻訳家で、たくさんの著書があるアメリカ文学である。しかしながらそんなアメリカ文学の中にも、スペイン語がたくさん混ざっている現状があるらしい。アメリカでもっとも話されている外国語は、スペイン語だと何かの本で読んだことがある(また、運転免許もスペイン語のテキストがアメリカにはあるとも聞いた)。そういう事もあって、大学で教えてもいる著者は、学校の短期留学制度のようなものを利用して、10カ月間メキシコに滞在した。その前後のことも書いてあるが、基本はその滞在記で、そうしてスペイン語と格闘した日々を、楽しく記している。
 しかしながら南米は、大国ブラジルを別にすると、ほぼスペイン語の世界だ。そうして同じスペイン語でも、実際のところ国によって少しばかり単語などは違ったりするらしい。スペインのスペイン語とも違うところがあるらしい。なかなかに複雑なのだが、それでも話になると、お互いにスペイン語としては通じる。そうしてアメリカの隣国でもあるメキシコである。英語もどうやらある程度通じるらしいが、いまだに貧しいところもあり、文化圏としてもかなり特殊なところらしい。歴史的にも迫害のものであり、混血のものだ。しかしながら人々の基本は陽気で、なにかと面白い人々がたくさん出てくる。それらはメキシコ人だけではないにしろ、メキシコにいる人々だ。著者は言葉に苦労しながらも、勉強の日々と日常を送っている。観光なども行くし、さまざまなものを観察し、楽しみながら暮らしている。何しろ10ヵ月だから、ホームステイして、食事つきで事実上普通の暮らしを送る訳だ。メキシコの食べ物を食べ、音楽を聴き、テキストや小説を読んだり、道行く人を観察したりする。翻訳家だから英語には堪能なようだが、スペイン語となるとかなり勝手が違うようで、さらに表題の通り60歳を超えている。後に分かるが、しかし上には上がいて、70代や80代の学習者だっていたらしい。苦労はするが、皆楽しんでスペイン語を学ぼうとしているのだ。
 僕は特にメキシコに詳しい訳ではないが、タコス以外にも、さまざまな影響を我々が受けていることは、ぼんやりと知ってはいた。特にメキシコを含む南米の古代文明の恩恵を、世界中が受けていると言っていいと思う。しかし白人がこれらの国を支配し殺しまくり、そうして現代ではアメリカがいじめている。とんだ迷惑に苦しめられ続けているところだろうと思っていた。それは必ずしも間違った認識では無いのだろうが、しかし基本的にメキシコの人々は明るい。僕ら日本人からすると、外国人の多くは日本人より明るく感じられるわけだが、特に南米系は端緒であるように思われる。実際言葉の上ではいろんなことを親切に教えてくれる人々だが、生活の中では不思議なことがたくさんあるようだ。道路は穴ぼこだらけだし、バス停の場所ははっきりしない。なんだか大変なところのようだが、骸骨祭りはあるし、遺跡などの観光資源もたくさんある。なるほど、行くべきはメキシコだったんだ、と改めて認識を新たにしたことであった。
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夢の世界はリアルも駆逐する   バービー

2025-05-15 | 映画

バービー/グレタ・ガーウィグ監督

 バービー人形が暮らしている夢の世界がある。女の子の友として、長年にわたって君臨してきたピンクのバービーの世界観の中にあって、これまでバービー人形で遊んできた女の子たちのリアルな心情と、その心をつかんできた人形世界のファンタジー性は、このような形で精神世界とつながっているところがある、ということなのかもしれない。しかしある時、主人公である基本的な白人バービーの心にちょっとした猜疑心のようなものが芽生えて、リアルな人間社会のようにベタ足になってしまう(ヒールを履くため、人形はベタ足では無い作りだったのに)。そういう問題を解決するために、リアルな人間世界に遠征して、原因となる女の子を探しに行くことになるのだが、現実社会でのバービーの姿や言動は、女性としても人間としても、いささか問題のあるものなのだった(当たり前だ)。さらにバービーを製造している会社の幹部は、実はずらりと男ばかりの世界になっていて、夢を作り出している頭脳の部分は、男だけの頭の中の女性像であることがあらわされている。夢の世界のバービーにあって、このリアルな世界の男社会も、同時に危険なものなのであった。そうして一緒に付いてきたケンの方も、リアルな男社会の在り方を学んで、夢の世界のバービーの世界観を、根底から揺るがすような、事実上の革命を起こすことになるのだったが……。
 こういう映画は、いわゆる女の子が観て楽しむものにはなっていないような気がする。要するにバービーで育って、現実の社会に出てきた元女の子たちが、夢の世界もリアル社会も、徹底的に風刺してやろう、というものなのかもしれない。確かに比喩ではあろうが、女の子の好む女の子の理想の人形であるバービーが、女の子の思想自体を縛る元凶であった可能性もある。女の子は望まれた形での理想を追わされていただけでなく、その殻に縛られるような価値観を押し付けられていたのかもしれない。実際に女の子は一定の低学年まではピンクを好むものの、成長につれて大きくピンクを拒絶する時代に入る子が多いことも知られている。バービー人形は、そのジェンダー的な批判の的にもなっているのである。そうした土台があってこの映画は作られているわけで、日本の映画界は、そこらあたりの事情をよく説明しないまま、この映画を上映させていた可能性がある。いや、日本の社会は、そのような成り立ちがよく分からない状況にまだ置かれている訳であって、なかなかこのバービーの物語を理解する状況下に無いのかもしれない。面白いと言えばそこのあたりであって、ケンの悲哀も込めて、夢が成り立っているということを見てみると良いかもしれない。変な映画ではあるにせよ、そのあたりのもどかしさを今も持ちながら生活しているだろう女性たちの、一部の生の感覚なのであろう。
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