遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『マスカレード・ナイト』  東野圭吾  集英社文庫

2022-01-28 22:00:08 | レビュー
 『マスカレード・ホテル』『マスカレード・イヴ』に続く第3作。三度、ホテル・コルテシア東京が舞台となる。前2作で印象深かったのはベテランのフロントクラーク山岸尚美。その山岸尚美が今回は、コンシェルジェに抜擢されている。彼女は最後にはメイン・ストーリーに関係していくのだが、コンシェルジェとして宿泊客の要望する課題に的確に対応し活躍する姿を描くサイド・ストーリーの部分が興味深い。そのサイド・ストーリーに伏線が張られていたことに、読者は気づくことになる。一方、フロントクラークの山岸の代わりに登場するのが「フロントオフィス・アシスタント・マネジャー」肩書の名刺を警視庁捜査一課の刑事・新田浩介に差し出す氏原祐作である。彼は出世意欲が旺盛な人物。フロントクラークとしてのプロ意識が強い。それが逆に、再びフロントクラークに化けて潜入捜査に携わる新田に対し、直接にはフロント業務に携わらせようとしない行動をとらせることになる。氏原のスタンスは新田にとり都合が良い面と悪い面の両面に作用していく。読者にとってそれがどのように捜査に影響するかという関心とおもしろさになる。
 この第3作は、2017年9月、書き下ろしの単行本として出版され、2020年9月に文庫化されている。

 冒頭は、コンシェルジェとして働く山岸尚美が宿泊客のクレームに対処する場面から始まる。このミニ・サイド・ストーリーがまずおもしろいが、読者にとってはストーリーの展開が分からない。
 事件の発端は、匿名通報ダイヤルからの通報で、練馬区にあるワンルームマンションから独り暮らしの若い女性の他殺死体が発見された。被害者はペットの美容師、所謂トリマーを職業としていた。また、解剖の結果、被害者は妊娠していたと判明。捜査一課の矢口チームがこの「練馬独居女性殺害事件」を捜査していた。そこに、密告状が届いたのである。殺人事件の犯人がホテル・コルテシア東京で12月31日午後11時から開催されるカウントダウン・パーティ会場に現れるので逮捕してください、という密告だった。
 ホテル・コルテシア東京では、過去2回事件が起こっていた。それを担当していたのは、稲垣警部のチームだった。稲垣チームに所属する新田は、再びホテル・コルテシア東京での捜査に巻き込まれていく羽目になる。
 
 このカウントダウン・パーティの正式名称は「ホテル・コルテシア東京年越しカウントダウン・マスカレード・パーティ・ナイト」、通称は「マスカレード・ナイト」であるという。本書のタイトルは、この通称に由来する。

 ホテル・コルテシア東京では年末の恒例行事となっており、好評でリピーターも多いという。パーティへの参加は予約制であり、参加者は全員、顔を隠すという約束事により、仮面を付けた仮装での参加となる。昨年は400名ほどが参加したという。密告通りであれば、殺人犯人は予約をした上で、顔を隠した仮装姿でこのパーティ会場に加わるということになる。潜入捜査をする警察側にとっては、大変な人数である。捜査への負担が大きい。
 新田を巻き込んだホテル・コルテシア東京での潜入捜査は12月28日から始まった。密告通りとすると、大晦日の31日、カウントダウンが始まるまでが犯人逮捕のタイム・リミットになる。密告状の内容が本当なのか? それを本当と仮定するなら、殺人犯人がホテルに現れる理由は何なのか? 予約によるパーティ会場をなぜ選択するのか? 連続殺人事件が企まれているのか? 
 解けない謎を抱えつつ、年末にこのホテルを利用している宿泊者で不審な者の監視、パーティに参加する予約ずみ宿泊者への隠密捜査等、稲垣チームのメンバーを中心に行われる潜入捜査がメイン・ストーリーとして描き出されて行く。

 メイン・ストーリーである潜入捜査のプロセスで、事実と虚構が織り交ぜられた仮装空間である都市ホテルの実情が副産物として描き込まれていく事にもなる。これは、いわばホテルを内側から眺めた視点とも言える。この点は前2作の延長線上でもある。氏原が登場したことにより、少し視点に変化も加わっていて、ホテル利用者とその対応という人間模様が興味深い。
 
 メイン・ストーリーには、もう一つ別の糸口が織り込まれている。所轄から捜査一課に栄転してきた能勢刑事と新田がこの事件を介して、独自に情報共有・意見交換して犯人追究の行動をとる。新田がホテル内潜入捜査で行動範囲を制約されるのに対し、能勢は「練馬独居女性殺害事件」の捜査員として、外回りの捜査に加わっている。能勢・新田二人の読みに基づいた実捜査を能勢が己の担当する捜査に加えて引き受けていく。いわば、搦め手からの犯人絞り込みということになる。新田と能勢は「練馬独居女性殺害事件」と類似の未解決事件が過去になかったかという点に着目し、その捜査を重視した。
 捜査のために新田がホテルに泊まり込み拠点とする場所に、能勢が深夜に現れて捜査情報の交換と討議をする場面が興味深い。そこに「練馬独居女性殺害事件」の捜査の進展状況が反映されていくことにもなる。
 新田と能勢の共同推論をもとにした能勢の実質的な捜査行動が犯人像に肉迫する重要な突破口となっていく。このプロセスが読ませどころの一つである。

 山岸尚美は今回、いわば事件に関しては間接的に新田と情報交換をする立場になる。ここが前2作と大きく異なるところ。だが、その山岸が、やはり結果的には危機的状況に巻き込まれていく。その巻き込まれ方が読者をハラハラさせる読ませどころになる。
 山岸が、サイド・ストーリーとして活躍すると上記した。それは、このストーリーの攪乱要因になるとともに、そこには重要な伏線が敷かれていることをお楽しみいただきたい。最終ステージでやっとその伏線が分かるというところが巧みなところだろう。読者を惑わせる要素が多く織り込まれて行く。サイド・ストーリーは次のような山岸尚美の信念から始まって行く。
 「コンシェルジェは、どんな困難な要求に対してもノーといってはいけないし、逃げてはならないからです。」(p59)

 サイド・ストーリーとして、メイン・ストーリーを攪乱するものが次々と書き込まれている。山岸のとる対応策がすばらしい。それぞれが、ショートストーリーともいえ、読ませどころにもなっていく。いくつも出てくるが、ここには4例ご紹介しよう。
1.東京タワーを眺められることに加え、「部屋の壁に肖像画や人物の写真を飾らないこと」を希望して予約した客が、部屋から見える建物に男性の顔をアップにした巨大なポスターが見えることにクレームを付けた。さてどうする?
  これがこのストーリーの冒頭で、山岸が対処を迫られた宿泊客のクレームだ。
2. ロイヤル・スィートに四泊する日下部篤哉という客が山岸に難題を持ちかけてくる。
  ホテル内のフレンチレストランを貸し切りにして欲しい。二人きりの食事の場を設定し、食事後にサプライズを用意したいという、デザートが終わり、ティータイムに入ったら、ピアノ演奏で「メモリー」という曲を演奏する。明かりはテーブル上のキャンドルの火だけ。キャンドルの火を吹き消した後に、彼女を振り返らせ、彼女の背後にスポットライトを当てる。すると店の出口までレッドカーペットが敷かれていて、紅い薔薇の道ができている。併せて108本の薔薇の花束を準備しておく。花束の中央には指輪を仕込んである。プロポーズした後、薔薇の道を通り二人で退場する。この環境設定をその日の夜に実行したいと日下部は当日の昼頃に山岸に要望した。
ところが、一方、日下部と食事をする予定になっているという女性が山岸を訪れる。そして、日下部が自分にプロポーズするつもりだと思うが、自分はその申し出にイエスと言えない。日下部との最後の食事を楽しみたい。しかし、彼に恥をかかせず、気まずくなることもなく、プロポーズにノーと答える方法を考えて欲しいと言う。虫のいい要望である。ある名称の特別支援学校に勤める教員で狩野妙子という名刺を山岸に渡した。
 さてどうする?
3. 30歳より少し前のカップルが確認したいことがあると山岸に言う。一昨日にチェックイン。昨日は午前に出かけ、ホテルには夜の10時に戻ってきた。部屋の中の彼女のバッグが漁られていた。紛失したものは無かった。バッグの中に入れていたものでお化粧ポーチがバッグの一番下になっていた。そんな入れ方は絶対にしていないという。
 山岸はその状況をハウスキーピングの部署に問い合わせる。ハウスキーピングの際に捜査員が立ち会っていて、その捜査員が荷物に触れたかもしれないと聞く。さてどうする?
4.仲根伸一郎という名前でコーナー・スイートに1月1日までの三泊、二名で予約が入っていた。仲根伸一郎がチェックインする前に、女性がフロントカウンターにやってきた。その女性は宿泊票に仲根緑と記入した。だが、宿泊に見合うデポジットの持ち合わせがないことから、自分のクレジットカードを提示した。氏原が手続きをしている間に、新田はクレジットカードのプリントを確認していた。そのカードは MIDORI MAKIMURA となっていた。その後も仲根伸一郎がチェックインした気配はない。だが、仲根緑はルームサービスをいつも2人分頼んでいた。
 その仲根緑をホテルのラウンジで見かけた日下部は、劇的な別れを経験した翌日に奇跡的な出会いだと言って、この女性を食事に誘いたいので協力してほしいと山岸に要望する。さて、どうする?
 また、仲根緑からは、夕食までに至急に作ってもらいたいものという要望を出される。一枚の誕生日ケーキの写真を見せて、食品サンプルのような本物そっくりの模型のケーキを作ってほしいと言う。今からでは間に合わないとということなら、諦めるけれどと・・・・。さてどうする?

 新田ら稲垣チームの潜入捜査において、タイムリミットが近づく中で、宿泊客の背景情報の確認とホテル内の監視により徐々に不審な人物が絞り込まれていく。勿論、犯人であるかかどうかは定かではないのだが・・・・・。
 このストーリー、様々な攪乱要素が読者の思考を右往左往させていく。それが犯人割り出しに至る関心とおもしろさを引き出す梃子になっている。

 潜入捜査中に新田が聞くことになるホテルマンの視点をいくつか取り上げておこう。
*[氏原]お客様の中には複雑な事情を抱えている方も大勢いらっしゃいます。 p234
    それらを忖度しながら応対するのがホテルマンという仕事です。
*[山岸]お客様にはお客様の事情というものがあるのです。・・・・ならば、その仮面を
    尊重するのがホテルマンの勤めです。  p262
    お客様の仮面が外れたとしても、それに気づかないふりをするのもホテルマン
    の仕事です。 p263
    その思いが強すぎて、お客様との距離を見誤る、なんてことのないようお気を
    つけてください。近すぎ過ぎたら、相手を傷つけてしまうこともあります。p263
 また、山岸が新田に興味深いエピソードをお話していいかと尋ねて語ったことを取り上げておこう。
「ここ数十年で、時計は飛躍的に性格に時を刻むようになりました。少々の安物でも一日に一秒も狂いません。でもその結果、約束の時間に遅れる人が増えた、という説があるのをご存じですか。
 下手に正確な時刻がわかるものですから、ぎりぎりまで時間を自分のために使おうとしてしまうんです。結果、遅刻する。そういう人には、あまり信頼の置けない時計を持たせるといいそうです。遅れているかもしれないと思うから、常に余裕を持って行動しなければなりません。
 時計に頼り過ぎてはいけないのと同様、御自分の感覚だけを頼りにするのは危険です。時間と同様、心の距離感にも余裕が必要だと言いたいのです。」  p263-264
このエピソードは形を変えて、極限の状況にリンクする伏線になっていると本書の読後に思った。それは何かをお楽しみに。

 ご一読いただきありがとうございます。

ふと手に取った作品から私の読書領域の対象、愛読作家の一人に加わりました。
次の本を読み継いできています。こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『仮面山荘殺人事件』  講談社文庫
『白馬山荘殺人事件』  光文社文庫
『放課後』   講談社文庫
『分身』   集英社文庫
『天空の蜂』   講談社文庫

東野圭吾 作品 読後印象記一覧 1版  2021.7.16 時点  26作品

『美術でめぐる西洋史年表』 池上英洋 青野尚子  新星出版社

2022-01-25 14:24:59 | レビュー
 カバーの絵、アングルの≪グランド・オダリスク≫にまず目がとまった。そして、タイトルを読むと、「美術でめぐる」という修飾句付きで「西洋史年表」とある。「年表」という言葉が入っている。ここに本書の特徴の一つが表れている。本書は2021年5月に刊行された。

 「はじめに」に本書の目的が的確に書かれている。「西洋の長い歴史の流れを・・・・・芸術作品で確認しながら概観することにある」と。西洋の5000年の歴史を概観するための方法として「年表」という形式が利用されている。西洋史の時期区分のもとでその各時期全体の歴史の主要な史実をカバーするという意図があると読みながら理解した。西洋全体での多いな歴史の変遷を概括するためである。鍵括弧の引用中で省略した部分は、著者による芸術作品の説明である。「人類の思考の結果であり、創造性と想像力の所産にほかならない」ものを芸術作品とする。
 「おわりに」には、この目的をパラフレーズしていると言える箇所がある。「本書では主にヨーロッパの歴史を西洋美術から読みつつ、社会と芸術の協働関係にも着目している」と。
 つまり、私は読後印象として、西洋史の中でエポック・メーキングとなる重要な事項を解説し、その歴史的事項・状況を西洋美術、芸術作品と関係づけて読み解くというアプローチだと理解した。芸術作品が生み出された歴史的背景を語るという流れである。西洋史の古代から現代までを概観しながら、そこに西洋美術の進展の経緯をとらえている。いわば、西洋史の変遷を軸にしながら西洋美術史も概観する教養書と言える。

 著者のスタンスが明確に記されている。「忘れてならないのは、歴史は常に政治や経済の動きが先行し、後から文化がついていくという法則である」(p101)と。そこでまず歴史の流れの要点が語られる。「いつの世でも経済力を持つ層が文化の中心的な担い手となる」(p101)。芸術作品は文化の担い手が支持してこそ、その時代に受け入れられるということになるのだろう。それ故、そこには協働関係が形成されていくと言える。時代の流れと西洋美術の変遷とを関連付けて理解するといううえで、読みやすい書になっている。逆にいえば、芸術家が生きる時代を超越した作品を創作していたとしても、それを支持する人が居なければ歴史に埋没する。幾世紀かを経て発見される作品は希有であり、発見された時代の文化の担い手に支持されて、時代の後付けで改めて評価されていくということなのだろう。芸術家との同時代人には評価認識されていなかったのだから。
 
 本書では、西洋の5000年の歴史を、古代・中世・近世・近代・現代と5分割する。それぞれの時期の歴史を上記の通り年表という形式で各章の冒頭の見開き2ページで提示している。その年表の中に、どの時点のどの事項・史実を抽出するかが明示されている。
 たとえば、「古代」の年表の最初期箇所からは、まず「1 文明のはじまり」が抽出され、西洋での文明の始まりを概説している。この事項では「太古の人々の暮らしを伝える遺跡群」、つまり文化遺産の代表的な事例を取り上げて説明している。《ヴィレンドルフのヴィーナス》《ラスコーの洞窟壁画》《ウルクの都市遺跡》《ストーンヘンジ》が掲載されている。
 大凡でいえば、一つの歴史的解説事項は見開き2ページに纏められ、その中に芸術作品3~5点が事例として掲載されている。図版にキャプションが記され、本文中にも説明が加えられている。読者にとっては、見やすくて読みやすい形になっている。
 カバーのオダリスクは、「近代」の「9 西欧諸国のアジア進出」解説の中に組み込まれた図版の一つである。ここには、『ガリバー旅行記』の挿絵(フランス語訳初版)が載っている。この箇所を読み、初めて知ったことがある。ガリバー旅行記には、ガリバーが日本の海賊船に捕らえられ「踏み絵はしたくない」と語る場面が出てくるという。唯一実在の国として日本が登場しているという。他にも、本書から西洋史について初めて学んだことが多々あった。勿論、芸術作品と芸術家たちについても同様である。
 美術の鑑賞は趣味の一つなのだが、西洋の芸術家で私がすぐに連想する芸術家たちの名前は、大凡本書に登場している。逆に初見の芸術家名が多い・・・・・。

 本書の時期区分が西洋史の研究分野で定説あるいは一般的な区分なのかどうかは判断しかねる。私には対比する資料が現在手許にはなく、少しネット検索してみた。ここでは本書での区分についてご紹介しておきたい。
 古代(3000BC → 27BC)、中世(9BC → 1431AD)、近世(1347AD → 1569AD)、近代(1545AD → 1879AD)、現代(1871AD → 2020AD)である。時期区分のそれぞれの起点は史実の取り上げ方からだろうが、少し重なっている。

 また、概説する項目数としてとらえれば、古代(13)、中世(22)、近世(16)、近代(21)、現代(11)となっている。古代~近代の各章末には「美術でみる○○の生活」というコラム記事が付いていて、現代には、「現代の諸問題とアートの密な関係」という解説記事になっている。

 本書全体の構成について、もう少しご紹介しておこう。
 本書のタイトルをまさに示すように、冒頭に折り込み(21cm×48cm)両面印刷で「西洋史の5000年」という年表がある。年表は2段組で、後の事項解説に登場する図版事例が年表に併載されている。タイトルに「3分でわかる」という吹き出しが付けてあるから笑える。年表に併載の図版を眺めるだけなら3分でよいかもしれないが、年表に記載事項を読み進めるならばとてもじゃないが3分では読み切れない。ちょっとしたユーモアか。 内表紙、「はじめに」「目次」と続き、最初にグラビア特集として「名建築でたどる西洋文明の歩み」が載っている。ここのページ一杯の写真集を見ていると西洋に旅だってみたくなる。紹介されている建造物を列挙してみよう。
 古代 Chapter 1 パルテノン神殿、パンテオン
 中世 Chapter 2 サン・ヴィターレ聖堂、シャルトル大聖堂
 近世 Chapter 3 ヴェネチア、フィレンツェ
 近代 Chapter 4 エッフエル塔、芸術愛好家の家
 現代 Chapter 5 ロンシャンの礼拝堂、ルーヴル・アビダビ
私が旅行し現地で眺めたことがあるのは3箇所だけだ。未訪地に行ってみたい・・・。

 各章本文の構成は上記の通りだが、掲載図版の多くにはキャプションにプラスして吹き出しが付けてある。ワンポイント・ガイドのようなもの。例えば、上記の《ヴィレンドルフのヴィーナス》の場合だと、22文字4段のキャプションが併記されている。これは、全長11cmほどの石灰岩の小像の図版であり、説明文末尾に「大地母神的な多産・豊穣祈願やお守り」とある。吹き出しは「小さな石像に多産や豊穣の祈りを込めて」という風である。
 カバーに使われているアングルのオダリスクにも吹き出しが付いている。「引き伸ばされた裸体と東方の小道具が生むエキゾチックな官能美」と。表紙に付された吹き出しは、「さあ、歴史の旅へでかけましょう」。美女に語られると、出かけたくなる・・・。
 オダリスクではないが、それに近い裸体画として、「近世」「10 ヴェネチア・ルネサンス」の項に、ティツィアーノ・ヴェチェッリオ作《ダナエ》(エルミタージュ美術館蔵)が載っている。その吹き出しは「神話画に『金貨』という世俗のエッセンスを添えて」。本文には「臆面もない現世利益の追求もヴェネチア・ルネサンスの特徴だ」と記されていることを補足しておこう。

 マルティン・ルターの質問状に端を発して、近世末期に宗教改革が始まり、プロテスタントが台頭していった。それに対して、カトリックは復権をはかるべく対抗宗教改革として内部改革に動き始める。断続的に開かれたトリエント会議がその一つという。その過程で「信仰のために美術を活用することも定められた」(p142)そうだ。そこから生まれてきたのが「バロック美術」だという。バロック美術という言葉やそう称される作品は見聞していた。しかし、その歴史的経緯は知らなかった。「バロック美術は大衆にカトリックの素晴らしさをわかりやすく伝えるため、劇的で濃密な表現が特徴だ。」(p143)バロックという言葉は後付けでの名称のようだが、「『歪んだ真珠』を語源とする、変わったもの、奇妙なものといったニュアンスの言葉だ」(p143)とか。このページには「信仰心を高める過剰な演出と劇的な明暗表現」というフレーズも使われている。まさに、カトリックと画家が協働関係で生み出したのがバロック美術だったようだ。本書で学んだことの一つである。「
 
 末尾「現代の諸問題とアアートの密な関係」は多様化するアートの読み解きへの一つの提示となっている。4ページにわたる興味深い内容である。真っ先にバンクシー作の《愛はごみ箱の中に》という作品、オークション直後の写真が掲載されている。マスコミ報道で話題となった。ここでは、「ビルバオ効果」をキーワードにして、「アートと経済のつながりはますます密接になっている」(p213)ことと、現代の諸問題とアートに密な関係がある点に着目している。その事例として、環境そのものをアートにする動きがあることを指摘する。「社会を映す鏡として変革をもたらすアートの力」に着目している。現在のアートを考える上で興味深い。

 西洋の歴史の流れを改めて再認識する一方で、芸術作品の思考と表現の変遷そのものを学びながら楽しめるところがよい。

 ご一読ありがとうございます。


本書からの関心事項を一部ネット検索してみた。一覧にしておきたい。
オダリスク  :ウィキペディア
ヨーロッパ史   :ウィキペディア
歴史区分について :「司法試験 リンク集」
『思想』2020年1月号 時代区分論  :「たねをまく」
キリスト教会堂建築について :「西洋建築史の部屋」(DEO-HOMEPAGE)
【美検】ロマネスクとゴシックの違い。写真で比べよう! :「アートの定理」
ルネサンス   :「コトバンク」
ルネサンス   :ウィキペディア
ルネサンスと宗教改革  :「NHK 高校講座」
バロック美術  :「コトバンク」
【美検】バロック絵画って何?代表作で感覚を掴もう!  :「アートの定理」
ロココ美術  :「コトバンク」
「ロココ美術」をわかりやすく解説!  :「ARTFANS」
The British Museum  大英博物館 英語版 ホームページ
Louvre  ルーブル美術館 英語版ホームページ
愛はごみ箱の中に  バンクシー :「Artpedia」
ビルバオ・グッゲンハイム美術館 :「Linea_ 」
アブダビにあるもう一つのルーブル美術館  :「Arisa Reisen」
モエレ沼公園  公式サイト

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)

『偽装 越境捜査』  笹本稜平  双葉文庫

2022-01-22 18:14:43 | レビュー
 越境捜査シリーズ第5弾。2015年4月に刊行され、2018年11月に文庫化された。

 まず、文庫本に付されたオビのキャッチフレーズをご紹介しておこう。
「鷺沼&宮野の刑事コンビが仕掛けた罠と殺人犯の裏工作----。」
「警察と犯人、騙されたのはどっちだ!?」
これは第1刷文庫のオビ。今は異なっているかもしれない。未確認。

 第1章の冒頭は、鷺沼が相方の井上巡査部長とマンションの一室で腐敗した死体を覗き込む場面から始まる。死体は木崎乙彦。横浜市港北区大倉山にある高級賃貸マンション。木崎の自宅である。木崎乙彦は、3年前に新宿駅の山手線ホームで起きた傷害致死事件の容疑者だった。しかし、犯人に結びつく手がかりがなく、捜査本部は店仕舞いし、事件は鷺沼が属する特命捜査対策室二係に移管され継続扱いになっていた。
 2週間前、横浜市港北区で車両同士の接触事故が発生。事故の犯人の顔が木崎に似ていたことで、神奈川県警から通報が入った。鷺沼と井上は木崎乙彦の自宅周辺で聞き込み捜査を行った。住人から異臭の苦情を聞き、死体の発見に至る。死体の喉元に黒ずんだ内出血の痕と周囲に引っ掻いたような細かい傷がいくつもあった。
 身辺情報の捜査から、木崎乙彦は一部上場の大手金属加工機メーカー、キザキテック社長木崎忠彦の長男という事実がわかった。祖父の木崎輝正が創業者にして現会長。創業家を中心とする同族色の強い会社である。財力にものを言わせた隠蔽工作の惧れもあり、捜査を慎重に進めていた矢先だった。
 木崎が3年前の事件の犯人と確定できない段階で、被疑者の木崎乙彦が殺人の被害者という疑いが浮上することになった。それも神奈川県警の縄張りである。
 木崎が犯人ならば被疑者死亡で送検落着。一方、もし犯人でなければ、捜査の行き詰まりとなり、真犯人を取り逃すことになりかねない。鷺沼らは、まずい状況に直面する。
 このストーリー、ここからスタートすることになる。
 被疑者が死んだ。何も聞き出せない。何を手がかりにして事件を捜査しようとするのだろうか。読者としては戸惑いとともに関心が蠢く出だしである。

 早速、この事件を知った宮野が鷺沼に電話連絡をしてくる。宮野は神奈川県警瀬谷警察署刑事課所属だが、不良刑事の烙印を押された鼻つまみ者。その宮野は言う。キザキテックの社長の自宅が瀬谷区にあると。
 新宿駅での事件直後、木崎乙彦は留学という目的で渡米してしまい、2ヵ月前に帰国したところだった。乙彦は忠彦の長男として後継者に擬されていたので、乙彦の渡米は木崎一族が手配した隠蔽工作の可能性もあった。
 鷺沼はこのスタートから宮野、福富と再びイレギュラーで密かなタスクフォースを結成するはめになる。今回興味深いのは、井上が交際を始めている彩香がタスクフォースの一員に加わってくることだ。彼女は通常の勤務後や非番の日に協力すると言う。そして、柔道に秀でる彩香がその知識・人脈を役立てるという局面を見せることに・・・・・。一方、彩香が宮野の天敵として描写されるところは、このストーリーの中で一種息抜き的な場面になっていておもしろい。
 
 木崎乙彦が被害者となった殺人事件は神奈川県警の管轄であり、鷺沼たちは関与できない。一方、鷺沼にとり、周辺捜査として木崎一族のような有力者を捜査対象とするときは、決定的な事実を掴むまでは秘匿捜査が鉄則となる。
 捜査を進めると、会長の木崎輝正はキザキテックのグループ内で独裁ぶりを発揮している人物。恐怖政治の体質が社内に見えない亀裂を生じさせているという見方もあることがわかる。キザキテックは万事に機密主義が徹底する会社だった。
 木崎輝正は小規模事業者相手の貸金業を出発点としていた。だが、時代の先を読み、NC(数値制御)工作機のメーカーに貸し込み、その会社を吸収合併する。そしてビジネスの軸足を貸金業からNC工作機メーカーの経営に移して、世界シェアトップの会社に成長さたのだ。勿論、裏では様々な軋轢を経ている。神奈川県内にキザキテックが工場を作るという話も進行しているという微妙な状況も絡んでいた。一方、御曹司である木崎乙彦に関わる事件はキザキテックという会社に影響を及ぼしかねない要因だった。木崎輝正が乙彦に関連して何等かの隠蔽工作に関わっている可能性は高いと鷺沼らは確信する。
 また、乙彦が高校生の頃に家庭教師との間で流血騒ぎを起こしていたということやその周辺情報も明らかになってくる。徐々に木崎一族に関わる情報とキザキテックの情報が累積されていく。
 一方で、宮野は県警の動きがおかしいと感じ始める。

 被疑者・木崎乙彦が既に存在しないこの傷害致死事件に対して、その捜査のために鷺沼は「動機は不純でも結果が正しければそれでいい」(p134)と割り切ったとき、ある作戦を思い浮かべた。
 「我々はイレギュラーな別働隊で、庁内でその存在を知っているのは係長だけです。木崎はこれから鉄壁の防御をしてくるでしょう。懐に入り込むために悪徳捜査チームを偽装するんです。おとり捜査としては使えませんが、内情は探れます。」(p137)
 三好係長に了解を取り、鷺沼の作戦が始動する。勿論、偽装の最適の役者は、宮野と福富となる。彼等はキザキテック・グループの幹部をターゲットにして偽装工作を開始する。
 読者にとっては、この偽装作戦がどのように展開していくのか、それは成功するのか、興味津々となる展開に入る。犯罪すれすれの際どい捜査活動が読ませどころとなる。また、キザキテックの内情を知る上で、柔道という特技を持つ彩香が彼女の人脈を辿って重要な情報を入手することになる。
 宮野と福富を中心にした偽装捜査と鷺沼・井上の捜査は、徐々にキザキテックという会社の違法行為を暴いていくことに進展する。また一枚岩ではないキザキテックの内情が明らかになるとともに、鷺沼たちに有利になる側面も見えて来る。木崎乙彦の傷害致死事件容疑や、乙彦自身が殺害された事件と切り離して考えることができない闇がそこに潜んでいた。傷害致死事件についての意外な事実も解明される。何がどこからどのようにリンクしていくかわからないおもしろさが巧妙に組み込まれている。

 このストーリーの進展で読者を驚かせるのは、さらに別の「偽装」が仕掛けられていたという展開である。木崎一族側にも偽装があった! その意外な展開をお楽しみいただくとよい。それが、冒頭にご紹介したオビのキャッチフレーズにつながる。
 タイトルの「偽装」はダブルミーニングである。

 一点だけ触れておこう。この鷺沼たちの捜査活動は日本国内だけでは決着がつかない状況に進展する。日本国内での偽装捜査とパラレルに舞台がシンガポール、香港に広がっていく。香港に向かったのは、鷺沼、井上、そして有給休暇を取得して加わる彩香の3人。勿論、鷺沼たちには香港での捜査権はない。鷺沼たちがどのように行動するかもお楽しみに。

 事件解決後、この密かなタスクフォースの全員が鷺沼の自宅に集まり、宮野の手料理で晩餐会をする場面でストーリーが終わる。このエンディングが爽やかでよい。

 ご一読ありがとうございます。

この印象記を書き始めた以降に、この作家の以下の作品を順次読み継いできました。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。

=== 笹本稜平 作品 読後印象記一覧 === Ver. 1 2022.1.22 時点 20册


=== 笹本稜平 作品 読後印象記一覧 ===  Ver.1 2022.1.22 時点 20册 

2022-01-22 18:08:21 | レビュー
この印象記を書き始めた以降に、この作家の以下の作品を順次読み継いできました。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。

『逆流 越境捜査』  双葉文庫
『破断 越境捜査』  双葉文庫
『挑発 越境捜査』  双葉文庫
『越境捜査』 上・下  双葉文庫
『強襲 所轄魂』  徳間文庫
『失踪都市 所轄魂』  徳間文庫
『所轄魂』  徳間文庫
『漏洩 素行調査官』  光文社文庫
『白日夢 素行調査官』  光文社文庫
『素行調査官』  光文社文庫
『駐在刑事 尾根を渡る風』   談社文庫
『駐在刑事』  講談社文庫
『突破口 組織犯罪対策部マネロン室』  幻冬舎
『山岳捜査』  小学館
『サンズイ』  光文社
『公安狼』   徳間書店
『ビッグブラザーを撃て!』  光文社文庫
『時の渚』  文春文庫
『希望の峰 マカルー西壁』  祥伝社
『遺産 The Legacy 』  小学館

以上

『約束』  葉室 麟   文春文庫

2022-01-06 16:11:33 | レビュー
 まるで記念写真のような表紙。この絵解きから始めよう。
 ここに登場しているのはこの小説の主な登場人物である。中段の向かって左側は一見で推測できる。そう、西郷隆盛。右側は・・・・「西郷さァ、西郷さァと子供のころに約束しもうしたなあ、国のために命を捨てると。おいは約束を守りもしたぞ」(p275)と最後に著者が語らせる大久保利通(加納謙司)。斜め後の左側でVサインをしている娘は小曾根はる(神代冬美)。右側のラシャ地の制服に革帯を締めているのは薩摩出身の益満市蔵(加納浩太)、警保寮邏卒(のちの巡査)。前の左側に正坐するのは得能ぎん(柳井美樹)。前の右側で右膝を立てて坐っているのは芳賀慎吾(志野舜)である。
 この表紙に登場していないが、主な登場人物が他に幾人か加わる。
 一人は勝海舟。小曾根はるは長崎から上京してきて勝海舟の屋敷に寄寓していた。勝は長崎ではるの父、商人の小曾根乾堂に世話になったことがあるという縁だった。西郷従道もその一人になる。得能ぎんは、西郷隆盛の弟、西郷従道の屋敷に行儀見習いに来ていて、従道の妻清子の実家(得能家)の遠縁にあたる娘である。

 益満市蔵は川路大警視から西郷従道の屋敷の離れ座敷に滞在する西郷隆盛の身辺警護を命じられることから、隆盛との関係が生まれていく。一方で、市蔵は島田千五郎に連れられて巡邏中に、銀座通りを渡ろうとしていた老婆と5,6歳の孫娘が馬車の馬とぶつかる事故を目撃して馬車に駆け寄る。馬車に乗っていたのは勝海舟。名前を尋ねられた市蔵が名乗ると、勝は薩摩の益満休之助を知っている。暇ができたら氷川町の屋敷に遊びに来いと気軽に声をかけた。それを契機に市蔵は勝海舟との縁ができる。
 芳賀慎吾は、九州、小倉藩出身だが、父が司法卿江藤新平と学問の交流があったことから、江藤の書生になっていた。江藤は、明治6年(1873)10月、辞表を出し、西郷同様、野する。そして江藤は明治7年佐賀の乱に加担していく。

 なぜ、括弧書きで人名を併記したのか。それがこの小説のおもしろいところである。
 浩太、舜、冬美は高校生、美樹は高校中退なのだが、9月23日、学校からの帰路にばったり会い、交差点での信号待ちをしている時に、彼等は雷に撃たれたのだ。その交差点で、偶然にも浩太はパトカーに乗る父謙司を見かけていた。この雷に撃たれたことで、彼等は平成の時代から明治6年(1873)にタイムスリップしてしまったのだ。明治時代の日本橋の相模屋という呉服屋の前で雷に撃たれた。彼等は明治政府の高官に仕えていたり、関わりがある人間に転生していたことから、相模屋が親切にも店の奥に運び込んで手当をしてくれたのだ。浩太の意識が戻る前に、舜、美樹、冬美が話し合って出した結論は、明治の人間の肉体にそれぞれの意識が入り込み、明治の人間の意識は回復せずに、舜たちのそれぞれの意識がダブっている。明治の人の意識を感じることはできる状態なのだという。彼等は明治の日本に紛れ込んでしまったのだ。
 この4人以外にさらに2人が転生している。その一人が浩太の父、警視庁捜査一課長の加納謙司である。もう一人が元警察官、刑事で加納謙司の部下だったこともある飛鳥磯雄。彼は懲戒免職になっていた。さらに数日前に銀行を襲った強盗殺人犯で、交差点で止まるパトカーに近づき、浩太の父。謙司に日本刀を振り下ろした瞬間に、彼も又雷に撃たれていた。そして、明治の時代に同様に転生する。誰に転生し、どういう役回りになるかは伏せておこう。

 つまり、明治に生きるある人間に転生し、その人の意識の一端を感じながらも、平成を生きる元の自分の意識を携えている存在。明治の人間としてその時代のただ中に投げ込まれるということになる。彼等は転生したそれぞれの人の立場でこれから明治を生きて、行動していくことになるという次第・・・・・・。がぜん興味が増して行く。
 
 浩太が益満市蔵として意識を回復した段階で、彼等4人は「皆で力をあわせてあっちの時代に戻る」という約束をかわす。「そうしないと、この時代に埋もれてしまって元の僕たちの体に意識が戻らないということになるかもしれない。」「その時は死んだということだろう」と。本書のタイトル「約束」はここに由来する。
 「約束」には、もう一つの意味が含まれていた。
 「正しいと思うことのために戦う。それが俺たちの約束だ。」(p279)このストーリーを通じて、この側面を味わっていただくとよい。

 平成を生きる高校生4人がそれぞれ全く異なる境遇の明治の人間に転生した。だが、ここから彼等がどのように力を合わせて平成の現在に戻るために助け合っていくのか。それがこのストーリーである。
 日本史の授業で明治時代初期の断片的史実の知識として学んだ彼等が、ダイナミックな現実の日常生活の中で起こる事象に関わる者、時代の渦中に投げ込まれた者として明治を生きて行くことになる。つまり、明治日本を生きる同時代体験ストーリーが展開されていく。
 いわば日本史の教科書、歴史年表に記述される断片的事実のを繋ぎ、裏に蠢いている泥臭くダイナミックな人間の思いと行動が、著者の仮説を交えて連続した総体として描き込まれていく。歴史として記録に残る断片的史実が鮮やかに織上げられていく。

 明治4年(1871)11月、岩倉具視全権大使他大久保利通、木戸孝允、伊藤博文ら一団が欧米視察に出発し、明治6年(1873)9月に国内で征韓論が沸騰している渦中に一行が帰国する。征韓論は紆余曲折を経るが、10月に征韓派の敗北となる。西郷隆盛は下野し、鹿児島に帰る。この時点から明治初期の歴史が大きくうねり始める。自由民権運動の展開が始まる一方で、1874年2月の佐賀の乱、4月の征台の役。1875年9月の江華島事件。1876年2月の日韓修好条約(江華条約)調印。10月に神風連の乱ほかが発生し、1877年2月の西南戦争へと突き進む。6月に西郷隆盛が自殺し、西南戦争が終結する。
 このストーリーはこの時代の翻弄にまきこまれ、転生した4人の視点と行動を軸にしながら描き込まれていく。それは西郷隆盛と大久保利通を浮彫にしていくことにもなっている。
 設定のおもしろさとこれら一連の史実の解釈への興味から一気に読んでしまった。

 この小説、葉室麟の没後に発見された未発表原稿である。葉室麟がデビュー前、あるいはデビュー前後に書いた作品という。きれいにプリントアウトされ、右側に穴をあけて綴じられた『約束』の原稿、葉室麟と著名されたものとして発見されたそうだ。つまり葉室麟の小説家の原点としての一冊! 2021年12月、文庫オリジナル作品として刊行された。

 ご一読ありがとうございます。

本書に関連する事項を少しネット検索してみた。一覧にしておきたい。
岩倉使節団  :ウィキペディア
岩倉使節団~海を越えた150人の軌跡~ :「アジア歴史資料センター」
岩倉使節団  :「NHK for School」
西郷隆盛  :ウィキペディア
西郷隆盛  :「コトバンク」
大久保利通 :ウィキペディア
大久保利通 :「コトバンク」
勝海舟   :ウィキペディア
西郷従道  :「近代日本人の肖像」
益満休之助 :「コトバンク」
勝海舟   :ウィキペディア
江藤新平  :ウィキペディア
征韓論   :ウィキペディア
征韓論   :「コトバンク」
「佐賀の乱」で若き命を落とした江藤新平  :「SAGA 賢人ラボ」
神風連の乱  :「コトバンク」
西南戦争   :「コトバンク」
ラストサムライたちの戦い -西南戦争- :「かごしまの旅」

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徒然に読んできた作品の印象記をリストにまとめています。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
葉室麟作品 読後印象記リスト(著作の出版年次順)     2020.3.1 現在 68冊 + 5

『フィールド言語学者、巣ごもる。』  吉岡乾  創元社

2022-01-04 15:54:01 | レビュー
 タイトルが面白そうなので手に取った。「フィールド言語学者」というコトバがそもそも初めて目にした語句である。それに「巣ごもる」というコトバがくっつぃている。なんだろう・・・・・という好奇心。面白くなければ、辞めればいいと、そんな軽い気持ちで読み始めた。
 「言語学」という研究分野に絡めたエッセイ集だった。重たくなりそうなことが、結構かろやかなタッチで書かれているところがおもしろい。著者がこのエッセイ集について自己説明している。それをまず紹介しておこう。
「フィールド言語学者である僕が、高尚さのかけらもなしに、そんなふうに言語学目線で漫(そぞ)ろに思った日々のアレコレを詰め込んだ一冊となっている」(まえがき、p3)
「ことあらば脱線し、あれよあれよと無駄話をする、微熱に浮かされたようにだらっとした語り口のエッセイで、こっそり言語学についての話をする書籍があっても良いのではないかと思う。心への負担が少ない、魘(うな)されない『隠れ入門書』である。」(まえがき、p5)
「本書は平たいものから小難しいものまで、つらつらと言語に関連して考えたエッセイを集めたものとなっている。・・・・さらっとしたものもあれば、ごてっとしたものもある。」(あとがき、p268)
 読み返してみると、ナルホドそうだなと思う。

 フィールド研究者が、コロナ禍でフィールドに出られなくなった。テレワークも推奨される中で「巣ごもり」して、そこで書き出したエッセイだという。
 「まえがき」「目次」の次に、見開きのページで「ざっくり言語学マップ」が模式図として載っている。左から「他の学問との結び付き」「言語をどう考えるか」「言語の何を考えるか」という大括りの研究領域が横に並び、その右下に「どんな言語データから考えるか」という研究領域を位置づけると言う形で図式化されている。そしてそれぞれの領域に細分化された研究分野の名称が記されている。たとえば、「言語をどう考えるか」という領域の中には、理論言語学・比較言語学・歴史言語学・対照言語学があり、左の領域と跨がるところに認知言語学・計算言語学があり、右の領域と跨がるところに記述言語学・類型論があるという。
 「どんな言語データから考えるか」の領域に、コーパス言語学とフィールド言語学という分野があるそうだ。著者はその中のフィールド言語学の研究者だという。なんと2003年から「ブルシャスキー語」の研究を始めて現在に至るとのこと。私には全く初めて知る言語名である。パキスタンの山奥で話されている言語らしい。著者はこれといって日本人による研究はなさそうだというところから研究対象に選んだそうである。これもエッセイの一つのネタになっていて、おもしろい。

 このエッセイ集、その内容が、まさに四方八方へと飛んだり脱線しながらも、全体を眺めると上記のマップと大凡対応する形で、読み進める間に言語学の研究分野の入口に誘うアプローチとなっている。その研究分野がどんなことをしているのか垣間見させてくれる。エッセイのネタはごく身近な言語データが取り込まれ、話の風呂敷を広げていく形になっている。そのネタが実にバラエティに富んでいるので、飽きることはない。
 本書のカバーには擬人化した猫が描かれているが、「喋る猫のファンタジー」というエッセイがある。古今東西の猫の言語の研究なるものを列挙紹介した上で、猫が人語を話せるかを解剖学的に論じている。ここのアプローチには、実は「音声学・生物学」が絡んでいるという次第。
 「日常をフィールド言語学する」というエッセイは、「フィールド言語学・個人語」という視点でのアプローチでありおもしろい。「フィールド言語学というのは、言語使用の現場(フィールド)でネタを見付けて、言語学的に考えるというだけだし、言語学なんてのは単に、科学的に言語を考察するだけなんだから、身構える必要などないのである。」(p78)という軽いのりで始まる。そして、ゲーム実況動画の「『違かった』の字幕」や様々な漫画のコマの吹き出しのコトバ「・・・・なんか 遠くないすかアレ」「あつ 遠くて」「七海先輩のこと すごい好きですよね」「それは 言えないですけど」がネタ(言語データ)として使われて、言語変化の現状を分析し論じている。私はこのエッセイで初めて、この動画や諸漫画のことを知った。そして、「僕は言語学者であって、国語の先生ではないので、こうやってナウいメディアに触れて言語を楽しめる」「我々は、常に言語の現場(フィールド)に生きているのだ。」(p89)という。国語の次元と言語学の次元とは言語に対するスタンスが異なるようだ。興味深い。
 「例のあのお方」というエッセイは、ハリー・ポッターをネタに取り上げる。第1巻が諸外国語に翻訳されていて、著者は53言語への翻訳本を蒐集したという。日本語版の「例のあのお方」、元の英語では「You-Know-Who」の箇所が、各言語への翻訳ではどう訳出されているかを紹介し、また、「ハーマイオニー」「ロン」「スネイプ」など個々のキャラ名の翻訳のしかたにも触れていく。このエッセイ、「敬語・借用語・音韻論」という視点での説明事例になっているのだ。
 最後から2つめの「日本語はこんなにも特殊だった」(類型論)というエッセイでは、日本語が特殊かどうかを科学的に論じている。おもしろい切り口である点はまちがいない。

 このエッセイ集の構成について、著者は「まえがき」で触れている。「読者諸氏の心的負担軽減のために便宜として、各節を(客観性の乏しい)小難しさ度に準じて並べてある。『読みながら慣れていってね』という構成だ」(p5)と。
 ページを追う形で読み進めて行った。やはりそれが順当の流れと言えそうである。

 各エッセイにはかなり細かくふんだんに註釈が付けられている。これはまあ読者の興味度合いで深入りするか、スルーするか、多分ご自由に・・・ということだろう。単なるエッセイストではなく、フィールド言語学者の立場で註釈しているということとみた。私はスルー気味で拾い読み程度にとどまった。

 末尾には、「言語解説」として言語名が7ページに渡って列挙解説されている。アイスランド語から始まり、ワヒー語まで。何と大半が初めて目にする言語名である。地球上には多くの言語があるのだなあ・・・・と思う。
 
 このご紹介の冒頭当たりでお気づきかもしれないが、著者はエッセイ中に意図的にあまり見かけない漢字での表記を織り交ぜているのかな・・・・と感じるところがあった。一般的なエッセイならたぶん漢字表記をしないですますか言い回しを替えるかもしれないなと思うところに、ルビ付きで漢字が使われている。フィールド言語学者の言語データ蒐集の一環なのだろうか。それとも衒学(げんがく)的に使っているのか(この衒学的は「まえがき」に出てくる)、あるいは趣味的な表記なのか・・・・・。いずれにしても私にとっては漢字の使用がおもしろいので、本書の前半部分から上記中のものとは重ならない形で拾い出してみた。勿論、このエッセイの本質とは関係がない。

 憖(なまじ)っか/ 然々(しかじか)/ スーパーコンピューター宛(さながら)に
 ページを捲(めく)って/ 苟且(かりそめ)にも/ 宥(なだ)め賺(すかし)したり
 打(ぶ)ってくれ/ 見付物(みっけもの)/ 夢想に中(あ)てられて/ 齷齪(あくせく)
 折角(せっかく)/ 作用を齎(もたら)すもの/ 袖珍(しゅうちん)辞書
 躓(つまづ)く/ 門戸は鎖(とざ)され/ 孜々汲々(ししきゅうきゅう)
 寧(むし)ろ/ 頓珍漢(とんちんかん)/ 下種(げす)/ 論(あげつら)って
 発想を振り翳(かざ)して/ 寧(むし)ろ/ 憚(はばか)らず/ 弥増(いやま)させる
 狷介不羈(けんかいふき)/ 侃々諤々喧々囂々(かんかんがくがくけんけんごうごう)/ 
 嘘だって吐(つ)ける/ 転(まろ)び出て/ 嘯(うそぶ)く輩/ 攷究(こうきゅう)
 食(は)み出して/ 徐(おもむろ)に/ 迂言(うげん)する/ 打切棒(ぶきらぼう)
 これは言語学とは関係なく、単に国語次元で漢字を知らない私の感想・・・・・である。
 
 さらりと読み通したにとどまるが、けっこう投げ出すことなく飽きずに楽しめた。
 言語学の入口の香りを少し感じることはできたような・・・・・そんな気がする。

 各エッセイには各末尾に執筆時期が記されている。本書は2021年6月に刊行された。

 ご一読ありがとうございます。

本書に関連して、関心事項の一端をネット検索した。一覧にしておきたい。
ブルシャスキー語  :ウィキペディア
ブルシャスキー語  :「コトバンク」
言語学  :「コトバンク」
言語学  :ウィキペディア  
第1回 フィールドワーカーの苦悩:フィールド言語学とは何か :「Word-Wise Web」
言語学とフィールドワーク  内海敦子  ことばと文化のミニ講座 :「明星大学」
コーパス言語学  :「コトバンク」 
理論言語学  :「株式会社 篠研」
社会言語学  :「コトバンク」
ハリー・ポッターシリーズ  :ウィキペディア
Harry Potter  From Wikipedia, the free encyclopedia
認め難い「違くて」「違かった」 :「毎日ことば」
「違かった」を聞いたことがありますか?  :「日本語センター」

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『月下のサクラ』  柚月裕子  徳間書店

2022-01-03 14:51:08 | レビュー
 主な登場人物は、米崎県警捜査支援分析センターの機動分析係の面々である。係長は黒瀬仁人警部だが、このストーリーでの中心人物は森口泉巡査。プロローグは、森口泉が機動分析係配属を希望して、実技試験の追跡テストを受ける、つまりある人物を追跡するという場面描写から始まる。そして「追跡テスト、落第」と宣告される。
 泉は25歳で米崎県警に事務職として採用されたが、4年後にある事件を契機に退職した。その後、30歳で警察官採用試験に合格。警察学校、交番勤務等を経て、33歳で捜査二課の刑事に登用された。泉は追跡テストで落第したが、黒瀬の強引な推しで機動分析係配属が決定する。
 このストーリーは、森口が機動分析係に配属され、黒瀬以下、機動分析係のメンバーの一員として取り組む事件、それも県警察組織を揺るがす大事件についての顛末譚である。

 機動分析係のメンバーにまず触れておこう。彼等は名前を略して呼び合っている。
 仁 黒瀬仁人警部 係長。黒瀬はメンバーから信頼されている。
 哲 市場哲也 50歳、歳年長。メンバー歴8年。捜査第一線の熱さを全身から放つ
 真 日下部真一 メンバー歴6年。一見教師風、きちんとした服装で礼儀正しい
 春 春日敏成 メンバー歴4年。頭が切れセンスがよいと評されている
 大 里見大(まさる) メンバー歴2年。28歳、最年少。整った顔立ちと優しい雰囲気

 泉が部屋に戻ってきた春日に挨拶すると、ぼそりと「スペカンね」と言われる。スペシャル捜査官の略で、刑事になってすぐ県警配属となったのも、機動分析係に異動できたのも、強い引きがあった。特別扱いだと春日に注釈された。泉はこれがここでの共通認識なのだというところから、スタートを切ることになる。

 米崎県警の会計課の金庫から現金がなくなっていた。担当の課員が金庫を開けて気づいた。緊急事態の発生である。報告を受けた会計課の笹塚課長は県警本部長の大須賀に連絡。大須賀から指示を受けた機動捜査隊の捜査員と鑑識が駆けつける。初動捜査が始まって行く。
 賄賂事件で押収した120万円を金庫に納めるために担当者が開けたところ、9530万円の現金がなくなっていた。詐欺事件などで押収した現金だという。事件を捜査する警察内部で盗難事件が発生したのだ。記者クラブの担当者が騒ぎを聞き付けていた。マスコミも大騒ぎをし始める。
 黒瀬以下機動分析係は、まず一定期間を想定して本部周辺の防犯システムの録画映像を分担して分析する捜査から始めて行く。

 このストーリーは、盗難事件を直接担当する捜査一課の捜査活動に焦点を当てるのではなく、機動分析係という捜査支援を行う脇役の部署に焦点を当てていく。機動分析係は、基本は県内に張り巡らされたNシステムや防犯システムなどの監視カメラが記録した映像を分析し、それらの記録映像を縦横に連携させながら、事件に関係する車や人物を分析して抽出していく役割を担う。その上で臨機応変に機動的に現場に出て監視捜査活動に従事する。あくまで捜査の脇役的存在なのだ。県警本部内部で発生したこの事件は、彼等が機動的に行動し捜査を牽引する形で進展していくことに・・・・・。
 そこが警察小説としては、斬新なストーリーの展開を生みだす切り口になっている。その新鮮さが読ませどころの一つになる。

 捜査一課による会計課課員への事情聴取の結果、現金が盗まれた時期が10月1日から事件発覚までの2か月間とまず絞られてくる。さらに、会計課の笹塚課長に対する事情聴取により、捜査の重要人物は会計課の課員および保科前課長と推論されていく。保科は一身上の都合という理由で9月30日付で早期退職していた。
 一方、泉は県警本部の駐車場の映像分析から、保科前課長が退職後の10月に駐車場を出入りしている映像を発見した。
 黒瀬は機動分析係を総動員して保科について身辺調査に取りかかる。何等かの形で事件に関与している可能性が濃厚と判断した。様々な視点から情報を収集するとともに、保科の現在の行動確認に踏み込んで行く。

 捜査一課とは独立した機動分析係の監視行動のプロセスで、泉は保科の車を追うように走る車の存在に気づく。その写真を日下部の指示を受け、黒瀬に画像送信する。泉が署に戻ると、黒瀬に同行し大会議室に行くことに。そこには捜査一課長の阿久津と捜査支援センター長の宮東が居た。彼等の前で、泉は黒瀬から10枚の顔写真を見せられた。その中に車に乗っていた人物がいるかと。
 大会議室を出た後、黒瀬に質問した泉に対して、黒瀬はぼそりと答えた「ソトニ」だと。ソトニとは、警視庁公安部外事二課の隠語である。泉にはさっぱり関係が飲み込めない。だが黒瀬は「この事件、考えていた以上にでかいな」とつぶやいた。
 何らかの仮説を立てた黒瀬はメンバーに指示する一方で、一切話さずに彼独自の動きを取り始める。

 そんな矢先に、保科が死んだという連絡が入る。黒瀬と泉は現場に向かう。移動中に阿久津課長から黒瀬に電話が入る。現場に一番乗りしていたのはサクラだと。なぜか、警視庁の公安が現場に来ていた。この小説のタイトルは、ここに由来するようだ。

 著者はこのストーリーで、このサクラの動きを非常に興味深い視点から描き込んでいる。刑事警察と公安警察の根本的な違いを指摘するかの如くに・・・・・。だが、それは許容できる行為なのかどうか。重大な問題提起を含んだものとなる。このストーリーでは推定にとどめ、その判断は埒外のテーマに留められているように思う。
 このストーリーをお読みいただき、ご判断いただくとよい。

 県警本部内における盗難事件の捜査は、保科の死がトリガーとなる。
 なぜメンバーから信頼されている黒瀬が、敢えて独自の動きをとろうとしていたのか。その点が市場を介して明らかになっていく。そこには黒瀬の過去の捜査経験における自己嫌悪の深い思い、慚愧が内在していた。同じ事態を繰り返さない、機動分析係のメンバーを巻き込みたくないという信念だった。
 だが、黒瀬に想定外の嫌疑が降りかかることにより、黒瀬の仮説は機動分析係の捜査方針の重大な核心となる。機動分析係の監視ターゲットが絞り込まれ、そこから事態が急展開していく。それは米崎県警本部を激震させる事実を暴露する方向に突き進む。

 泉は市場に詰め寄って言う。「一生、罪悪感と自己嫌悪に苦しめられることがどれだけ辛いか、それを知っている黒瀬さんなら、きっと私の気持ちをわかってくれます。行ってこい、あとは俺に任せろ、きっとそう言います」(p344)と。そして泉は市場の了解を取り付ける。
 そんな泉を春日が評する。「まるでコガネムシだな。虫のくせに飛ぶのが苦手で、よく落ちる。が、けっこう根性があって、諦めずになんども飛ぼうとするんだ」(p345)と。 泉のとる捨て身の行動が泉を窮地に追い込むことに・・・・・。

 このストーリー、盗難事件の発生状況が一種異常である。それ故に事件が解明された結果もまた異常というべきものとなる。読者としては、興味深くかつおもしろい。一気読みしてしまった。
 この小説は、週刊「アサヒ芸能」(2019年1月3日号~10月31日号)に掲載された後、加筆修正され、2021年5月に出版された。

 異色な構想の警察小説として、がんばりやさん・森口泉巡査がこの後、登場する機会があるのだろうか。シリーズとしての第2弾を期待したい。

 ご一読ありがとうございます。

 徒然に読んできた著者の作品の中で印象記を以下のものについて書いています。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『暴虎の牙』  角川書店
『検事の信義』  角川書店
『盤上の向日葵』  中央公論新社
『凶犬の眼』  角川書店
『合理的にあり得ない 上水流涼子の解明』  講談社
『蟻の菜園 -アント・ガーデン-』 宝島社
『朽ちないサクラ』  徳間書店
『孤狼の血』  角川書店
『あしたの君へ』 文藝春秋
『パレートの誤算』 祥伝社
『慈雨』 集英社
『ウツボカズラの甘い息』 幻冬舎
『検事の死命』 宝島社
『検事の本懐』 宝島社



『[現代語訳] 法然上人行状絵図』  浄土宗総合研究所[編]   浄土宗

2022-01-01 14:28:26 | レビュー
 かなり以前に京都国立博物館での展覧会で国宝『法然上人行状絵図』(総本山知恩院蔵)のどこかの巻を見たことがある。その後も現在までに断続的に数回眺める機会があった。全部で48巻、235段の詞書と232の絵図で構成され、その長さは548mに及ぶという壮大な絵巻。法然上人の伝記絵図である。過去の拝見で展示されていたのは、その都度1~2巻だったと思う。
 初めて見たとき、絵図は眺めると雰囲気はわかる。が、詞書は残念ながら私には読みこなせない。そこで、何かこの伝記絵図の内容を手軽に読める本はないかと本屋で捜せば一つあった。


 岩波文庫に入っていた。『法然上人絵伝』(大橋俊雄校注)として上・下二冊で刊行されている。この表紙に端的に説明が記されている。引用しご紹介しておこう。
「平安末期から鎌倉時代にかけて、栄西、道元、日蓮、親鸞、一遍ら、新仏教の旗手たちが踵を接して登場した。その先駆けとなったのが、浄土宗の開祖法然(1133-1212)である。他力念仏により極楽浄土に往生することを説き、当寺の天皇・公家から一般の庶民まで、多くの人々に帰依された法然の伝記『法然上人行状絵図』(知恩院蔵)」(上巻・表紙)
「自力ではなく、他力念仏によって極楽往生することを説く、浄土宗の開祖法然上人の伝記。下巻には巻二十八から巻四十八までを収める。巻三十までは上巻に引き続き様々な人々が法然上人に帰依していった経緯。以下、浄土宗への弾圧、迫害、上人の死と続き、巻四十三以降は、重源ら高弟たちの記録が記される。(全2冊)」(下巻・表紙)

 この岩波本は『法然行状絵図』の詞書が活字に起こされているので古文自体は読みやすいが、古文を判読して理解しなければならないというバリアーがある。モノクロで要所の絵図が掲載されてはいるが、上記の絵図数からすればほんの少しが収録されているだけである。結果的に、必要に応じて部分参照するくらいで、書棚に眠ることになった。いつか・・・・と横目に見ながら通読する手がでない。


 あるとき、この中里介山著『法然行伝』(ちくま文庫、2011年2月第一刷)というタイトルが目にとまり、衝動買いして書棚に収まった。が、これもしばらく眠っていた。いつ頃買ったのか定かではない。この本を2018年の5,6月にふと読む気になった。
 内表紙の裏に中里介山が昭和6年に記した文が抜粋されている。「今日、日本においては、外国人の伝記を書いて、日本人に見せるよりは、日本人の伝記を書いて日本人に見せる事の方が遙かに骨が折れることである。」という冒頭から始まり、末尾に『法然上人行状絵図』48巻は、「中古の雅文である上に、仏教について相当の教養を持たぬ今の人の通読に多少の困難があろうと思う。その中に権威的の史実も多いが、宗教的幻怪も少なくはない、それらを要訳して、この雅文の典籍を安易に読ましむることは、現代人に対する一つの親切であると信じて、あえてこれをなした僭越の罪をゆるされたい。」と締めくくる。
 つまり、この一文自体が昭和6年つまり昭和初期の読者を対象に語っている。法然の伝記を中里介山流に忠実に要訳して当時の現代人に提供したのだ。絵巻の詞書原文を読むよりも、中里流の現代文でその要訳を読む方が、更に後代の私たちには勿論のこと楽である。法然伝記の骨格となる内容を現代文で読めるのだから。
 『法然行伝』を通読することで、岩波文庫本に原文でまとめられた内容の大凡をまずは知ることができた。142ページで48巻の詞書の伝記内容が要訳されている。長年、背表紙を時折横目に見ていたもの、その内容に一歩近づけたと言える。
 このちくま文庫には、後半に『黒谷夜話』が併載されている。こちらは、武士の熊谷次郎直実、盗賊の天野の四郎、手越の長者の女、室の遊女などが黒谷の法然上人の念仏に引き寄せられていく様を描いた小説である。
 中里版要訳という形で『法然上人行状絵図』の大凡の全体のイメージができていた。

 そして、つい最近、この『法然上人行状絵図』自体の現代語訳が完訳として出版されていたことを知った。私にとっては、横目に見ていた岩波文庫『法然上人絵伝』のその内容全体を現代語訳で読み通すことができるという大きなメリットがある。

 
また、併せて購入していた岩波文庫版『選択本願念仏集』もまた書棚に眠っていたのだが、こちらもその後に買ったちくま学芸文庫版の石上善應氏による訳・注・解説付の『選択本願念仏集』の訳部分を最近何とか初めて通読を終えていた。

 ということで、本書現代語訳で全巻の内容を具体的に読み進め、先に通読したものと重ねて読み進める動機づけはできていた。

 「あとがき」によると、この現代語化は、「法然上人八百年大遠忌記念事業の一環として平成14年にはじまった。以来、ほぼ10年をかけようやく刊行の運びとなった。」(p513)という。平成25年(2013)3月に初版第1刷が発行されている。手許の本は、平成30年(2018)9月の初版第2刷である。

 本書を通読した読後感想を箇条書きでご紹介したい。
*内表紙の次に4ページ分のグラビアが載っていて、「巻1 冒頭詞書」「巻2 母との別れ」「巻8 頭光踏蓮」「巻31 七箇条起請文を執筆」「巻37 法然上人ご往生」「巻42 法然上人を荼毘に付す」という形で、ポイントになる5つの絵図が併載されている。
 しかし、それだけなので、絵巻という視点からはもう少し絵図を併載してほしかった。その点が残念。
 (岩波文庫にはモノクロの絵図が各所に少し併載されているので合わせると便利)
*詞書は、第○巻と巻順に、そして第○段と区分し順次全訳されている。現代語訳は読みやすいと思う。たとえば岩波文庫版の詞書原文と対照しながら改めて読みたいときに便利である。
 (岩波文庫版には巻の区分はあるが、第○段という表記はない。)
*本書の目次は、「第一巻 誕生」「第一段 行状絵図制作の意図と秦氏の懐妊」「第二段 誕生と奇瑞」「第三段 命名」・・・と言う風に、巻・段の主要点がインデックスとして記述されている。法然の生涯のどの時点を再読したいかという目的志向で読み直す際に便利である。
 また、この目次を読むだけで、法然の生涯の遍歴を大凡知ることができる。なお、現代語訳本文にはこの要訳記述は併記されていない。
 (岩波文庫版は原本に沿った活字本なので、勿論この要約表記はない)
*仏教用語、僧侶名、人名などは初出あるいは適宜、ルビが振られているので一般読者には読みやすい。
 (岩波文庫も同様にルビが付されている。)
*第1巻は行状絵図制作の意図表明と法然の誕生から書き起こされ、第42巻第7段で法然の遺骨を二尊院に納めるところまでで一区切りとなる。ここまでが法然の伝記である。本書のp45~p439であり、395ページに及ぶ。第43巻から第48巻は「上人の門弟」を順番に列挙して、法然との関係並びにその門弟の履歴と考え・立場などが簡略にまとめられている。法然を頂点とする法統を理解する上で役立つと思う。勿論、この辺りは既に研究され法統の図解は多分なされているとは思うが・・・。
*『選択本願念仏集』の訳文で全体の要旨を通読し、称名念仏の選択に至る論理的な思想構成を大凡は理解していた。この行状絵図の現代語訳全文を読むと、法然が称名念仏を選択した意図と意味の核心部分を様々な形で弟子や人々に伝えていることが良く分かる。法然もまた、相手に応じてその説明の仕方を変えていることがうかがえる。釈尊と同様に待機説法を援用されたようだ。
 殆どが、質問されたことに対し返答として法然が書き綴った文からの引用という形で詞書の中に記録されている。法然の思想、信仰が法然自身の言葉として伝わってくるところがよい。
*第42巻までの伝記部分は、法然の仏教思想と信仰の有り様を法然の生涯のプロセスの一環として読み進める形になり、流れとして読みやすい。しかし後半の上人の門弟の記述に至ると、私にはほとんどが初めて知る弟子たちの名前ばかりであり、読むペースが落ちてしまった。一般読者としてはいわば関心が半減してしまうからだろう。特定の弟子に着目し研究する人には興味深いのだろうけれど。後半は何とか通読した感じ・・・・・。
 法然の弟子たちを考える際に、この行状絵図がまず身近なソースになることを知ったことが私にとってのメリットかもしれない。

 思いつくままに感想を述べた。単に通読した域に留まるのだが、長年背表紙を見るだけで書棚に眠らせていた課題本をやっと一応読み終えた。自分としてはめでたし、めでたしというところ。さあ、次の一歩へ・・・・。

 ご一読ありがとうございます。

[追記 2022.1.2]
本書に関連する事項を少し検索してみた。一覧にしておきたい。
法然上人とお念仏  :「知恩院」
法然   :「コトバンク」
法然   :「Web版 新纂 浄土宗大辞典」
法然   :ウィキペディア
法然上人絵伝  博物館ディクショナリー  :「京都国立博物館」
法然上人絵伝  :「e國寶」(国立文化財機構)
法然上人行状繪圖  :「佛教大学図書館 Digital Collection」
法然上人行状絵図. 第5輯 :「国立国会図書館デジタルコレクション」
延年[『法然上人行状絵図』より] 知恩院所蔵 :「文化デジタルライブラリー」
法然上人の生涯と教え  :「仏教ウェブ講座」
特別展「法然と親鸞 ゆかりの名宝」 (2011年10~12月開催):「東京国立博物館」
  展示品の画像掲載 選択本願念仏集、国宝・法然上人行状絵図の一部掲載あり

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

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