遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『予知夢』  東野圭吾  文春文庫

2020-04-30 10:49:09 | レビュー
 ガリレオ・シリーズの第2弾である。『探偵ガリレオ』の短編連作ミステリーの後半連作と言うべきかもしれない。短編5作が収録されている。「オール讀物」の1998年11月号~2000年1月号に断続的に発表されたもの。2000年6月に単行本として出版され、2003年8月に文庫化されている。
 目次は章立てになっているが、それぞれ独立した短編なので、どこからでも読める。ただし、この5篇には作品のトーンとして共通点がある。それはこのタイトルにも表出されている。オカルト的要素とミステリーを結合するというモチーフで創作されている短編群であること。おもしろい趣向だ。
 「第1章 夢想る」に草薙刑事が「じゃあ予知夢とか正夢とかってのを信じるのか。それはおまえらしくないんじゃないか」(p29)と発すると、湯川助教授は「そんなものを信じるとはいってない。単なる偶然だといっている」と応答する。また、「第5章 予知る」には数カ所に「予知」「予知少女」という言葉が草薙と湯川の会話の中で使われて、「つまりは予知夢だったと思うわけだ」(p239)という湯川の発言がある。この辺りから、本書の「予知夢」というタイトルが付けられたのだろう。

 この連作のモチーフについて、著者は第5章の草薙に端的に語らせている。「オカルトめいたことを科学的に解き明かそうとすると、意外な真理が見えてくる」(p232)と。
 つまり、一見オカルト的な現象が起こっていると思えそうな事件が発生し、その原因解明ができない草薙が湯川に相談を持ちかける。物理学者の草川は、オカルトなんて鼻から否定する。単なる偶然でなければ、状況と情報を分析し論理的に思考することで必然的な繋がりが認められ真実が見えるというわけである。
 この第2弾でも、一捻りしたストーリーを楽しめる。
 各編毎に少しご紹介してみよう。
 
 「第1章 夢想る ゆめみる」
 1週間前に、江東区に住む坂木信彦、27歳が世田谷で轢き逃げ事件を起こし間もなく逮捕された。だが、その事件は坂木が深夜に森崎という屋敷の娘・礼美の部屋に侵入したところを、母の由美子に猟銃を突きつけられて、あわてて逃げだした直後に引き起こされたのだった。
 草薙が調べた結果、坂木はここ2ヵ月ほど、高校生の森崎礼美を追いかけ回していた。その子が自分との結婚を定められた女性だという事で・・・・。草薙は捜査過程で坂木の小学校時代の同級生中本から卒業間際に記念に作ったサイン帳を入手していた。そこには坂木が少女の人形の絵とともに、相合い傘のマークとその傘の下に坂木信彦・森崎礼美という名前を並べて書いていたのだ。また、坂木は小学校4年の時の作文「僕の夢」にも将来結婚する女の子として、片仮名でモリサキレミと書いていた。
 坂木は森崎礼美から招待状を受けとっていたので彼女の部屋に忍び込んだのだという。
 草薙はこの侵入事件での坂木の動機が不可解なのだ。坂木の予知夢ともいうべき証拠の存在である。この謎解きを湯川に投げかける。
 古いサイン帳が発端となり、意外な真相が解明されていく。この展開は予想できない。また、綱引き必勝法という湯川の研究室での実験がエピソード的に挿入されていておもしろい。

 「第2章 霊視る みえる」
 細谷忠夫は大学時代の友人小杉浩一に誘われて行った新橋の店で働く長井清美を知る。小杉は長井と付き合いたいという。だが細谷は小杉に内緒で長井と交際を始める。
 清美はブランドもの好きで、鮮やかな黄色が好きな色という。最近は小さなカメラを持ち歩き、シャッターチャンスを狙うことを楽しんでいる。清美はそろそろ小杉からのアプローチを拒絶しケリを付けたいと言う。細谷はそれを引き受ける羽目に。
 小杉の住まいに細谷が電話をすると、応答したのは山下である。大学時代のクラブの仲間の一人。スポーツライターの小杉は仕事で大阪に出張し、失業中の山下はアルバイトで留守番を頼まれたという。山下の誘いに応じ、細谷は小杉の住まいに行き、一緒に酒を呑む。
 深夜に、細谷は庭に面した窓のすぐ外、レースのカーテン越しに、レモンイエローのスーツ姿の清美が闇に浮かぶのを発見した。そんなはずはないと、清美と同じマンションに住み、同じ店で働く織田不二子の携帯電話に連絡をとり、清美の部屋を確かめてもらう。清美は殺害されていた。加害者は小杉と判明する。
 細谷が目撃したのは何だったのか。草薙はその謎解きに湯川を巻き込む。その結果は小杉の意外な動機の解明となっていく。思わぬドンデン返しのおもしろさが楽しめる。

 「第3章 騒霊ぐ さわぐ」
 休日に草薙は姉からの電話を受ける。それは姉の友達の妹・神崎弥生の夫の行方不明事件だった。弥生は警察に届け出ていた。5日前に出勤し、ライトバンで八王子にある老人ホームに出かけたのが午後5時頃で、その後行方不明となったという。ライトバンごと消えてしまったのだ。その老人ホームを出た後に、夫が立ち寄りそうな家が一軒あるという。独り暮らしの高野ヒデという老婆の家である。だが、弥生の調べたところ、その老婆は数日前に死んでいた。その家には二組の夫婦が住んでいて、そのうちの一組は高野ヒデの甥夫婦だという。4人は毎夜出かけると言う。弥生はその家を監視していたのだ。草薙は監視行動を共にする。出かけた4人の行動を追跡している草薙に対し、弥生はその間に家に近づき、奇妙な現象に遭遇する。ポルターガイスト現象がその家に発生していたと草薙に告げる。その後、草薙は昼間に近所からの苦情に対する捜査にかこつけて家の内部を実見する機会を作る。
 草薙は行方不明と一連の解けない謎を湯川に相談することになる。勿論、湯川はポルターガイスト現象など歯牙にもかけない。ちゃんと理屈で説明できるはずだと。
 行方不明という発端話から、思わぬ事件が発生していた経緯が明らかになっていく。

 「第4章 絞殺る しめる」
 従業員3人の町工場を経営する矢島忠昭が、日本橋浜町にあるホテル・ブリッジの一室で死体で発見される。死亡推定時刻は13日の午後5時から7時。争った形跡は無く、被害者は睡眠薬で眠らされていて、細い紐のようなもので、一気に絞殺された様子だった。
 13日の午後3時の休憩の後、貸した金の返済を受けるということで矢島は出かけた。ホテルは山本浩一という名前で予約されていた。妻の貴子は同日午後4時から午後8時まで、銀座のデパートに買物に出かけていたという。初動捜査ではアリバイははっきりしない。一方、被害者は最近、5社の生命保険に加入し、総額1億を超える保険金の契約をしていたことがわかる。そのため貴子は容疑者の一人になる。だが、貴子のアリバイが徐々に明らかになっていく。捜査は振り出しに戻る。娘の秋穂は12日の夜、工場の暗い中に父が座っているので、声をかけようとしたら火の玉がパッと飛ぶのを見たと言う。
 草薙は、この事件でも湯川に矢島の工場内とホテルの部屋を実見させた。現場の実見から糸口を掴んだ湯川の謎解きが始まる。実験を行い草薙に見せて謎を解く。さすがガリレオ先生である。

 「第5章 予知る しる」
 菅原直樹のマンションに、大学のヨット部で3年下だった峰村が訪れる。菅原は宣伝部、峰村は製品開発部と同じ会社に勤めている。菅原夫妻と峰村が食事を楽しんでいるときに、菅原の携帯電話に鳴り出す。それは不倫相手の富由子からの電話だった。彼女は事もあろうに、菅原のマンションの窓から見える向かいのマンションに住んでいる。菅原の妻・静子に自分の存在を伝えよと迫る。そして、今すぐ伝える気がないなら、菅原にみえる形で自殺すると宣言し、パイプハンガーを使い首つり自殺を試みた。菅原は愕然とする。窓から静子と峰村も偶然女性のその行動を目にしていた。峰村は菅原に断って、向かいのマンションの管理人に目撃事実を伝えに行く。
 草薙は所轄の刑事の聞き込み情報を知る。菅原の隣の部屋の住人から、娘が向かいの建物に住んでいる女の人が首つり自殺するのを見たと2日前の朝に言っていたと躊躇いがちに告げたというのだ。草薙はそれが気になり調べてみて、不可解なので湯川に相談を持ちかける。「オカルトめいたことを科学的に解き明かそうとすると、意外な真理が見えてくる」と今までの体験を語る草薙の発言に、湯川が動き出す。もちろん自殺現場の実見と少女の話を聞きに出かけて行く。湯川の分析と推理が、そこに巧妙な犯行計画と実行が潜んでいたことを暴き出す。勿論湯川は実験で、狂言自殺のはずが実際の自殺行為になった謎を鮮やかに証明する。
 この短編、最後に再び病弱な少女が予知夢を母に告げるところでエンディングとなるのがおもしろい暗示となっている。

 オカルト風味を利かしたこの連作、ちょっと気分を変えて楽しめるミステリー・シリーズだ。

 ご一読ありがとうございます。

ふと手に取った作品から私の読書領域の対象、愛読作家の一人に加わりました。
次の本を読み継いできています。こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『探偵ガリレオ』  文春文庫
『マスカレード・イブ』  集英社文庫
『夢幻花』  PHP文芸文庫
『祈りの幕が下りる時』  講談社文庫
『赤い指』 講談社文庫
『嘘をもうひとつだけ』 講談社文庫
『私が彼を殺した』  講談社文庫
『悪意』  講談社文庫
『どちらかが彼女を殺した』  講談社文庫
『眠りの森』  講談社文庫
『卒業』 講談社文庫
『新参者』  講談社
『麒麟の翼』 講談社
『プラチナデータ』  幻冬舎
『マスカレード・ホテル』 集英社

『夢も定かに』  澤田瞳子  中公文庫

2020-04-28 11:35:46 | レビュー
 著者は2010年に『弧鷹の天』(2011年:中山義秀文学賞受賞)でデビューし、2012年に『満つる月の如し 仏師・定朝』(2013年:本屋が選ぶ時代小説大賞/新田次郎文学賞受賞)を出版。2013年に本書と『日輪の賦』を出版している。そして本書は2016年10月に文庫本化された。
 上掲の文庫本カバーでイメージが湧くと思うが、平城京の後宮に勤める若き女官たちの生き方を描く宮廷女官青春小説である。神亀元年(724)2月4日に元正天皇の禅(ゆず)りを受けて即位した聖武天皇の後宮が舞台となっている。

 本書は八話の短編連作として、神亀4年(727)10月22日までの数年間が描かれる。
 中心となるのは宮廷の同室で生活する3人の采女(下級女官)。采女とは「後宮に勤務するために上京してきた、地方豪族の娘たち」である。
  若子(わかこ) 18歳。容姿は十人並み。膳司勤務(天皇の食事を準備する役所)
        女官に必要な知性は皆無。妹の代わりで阿波国(現徳島県)出身。
  笠女(かさめ) 19歳。男勝りで姉御肌。能書で文才あり、女官での出世をめざす。
        書司勤務(書籍や文房具類を管理する役所)。伊勢国(現三重県)出身。
  春世(はるよ) 17歳。藤原麻呂と愛人関係になり子(浜足)を産む。魔性の女。
        縫司勤務(衣服の裁縫を司る役所)。出雲国(現鳥取県東部)出身。
勤める司の違う3人が同室で生活しながら、色恋や権謀術数の渦中で騒動を繰り広げる。一方で互いに助け合う乙女たちの後宮での日常生活を描く。

 各短編のテーマを簡単にご紹介しておこう。
 第1話 蛍の釵子(さいし)  釵はかんざし。ふたまたになった髪飾り。
 若子、笠女、春世のプロフィールを導入部で描き込む。そして、若子が春世により仕組まれた縁組話に惹かれて一歩踏み込んだ顛末を描く。采女にとっての縁組の実態は何か。その実質的意味を覚知した若子が自ら破談を決断する。縁組真相譚。
 
 第2話 錦の経巻
 帝が図書寮に、写経所と協力し月内に大般若経六百巻の薬師寺への奉納を指示する。図書頭に笠女は写経の手伝いを頼まれる。書司で雑務を扱う笠女は栄誉と受けとめ、勇んで勤務外に協力する。笠女の写経した経巻が役所組織の柵にはじき出され権謀術数の渦中で意外な利用をされるまでを描く。経巻変遷譚。

 第3話 栗鼠の住む庭
 後宮に勤務する畿内豪族の娘たち、つまり氏女は常に采女を格下と見ている。春世が絡む色恋沙汰で氏女と采女の確執を描く。さらに若子が春世に寄り添い、藤原4兄弟の末弟・麻呂の家刀自(本妻)に引き渡してある春世の子・浜足に会いに出かける顛末を描く。浜足の何気ない発言に幼い子に刷り込まれた聡明さ/狡猾さが現れる。身分意識騒動譚。

 第4話 綵(あや)一端
 内裏の中庭に植えられていた棗(なつめ)が実をつけた。これを寿ぐ詩筵が行われた。詩作で一等になった大官大寺の僧・光延に綵一端が他の下賜品とともに贈られた。だが、その綵一端が届けられたときにはすり替えられていた。これが発端で、9月半ばに酒司付近で起こった物の怪騒ぎに繋がって行く。笠女と若子が事件に巻き込まれる。そこには悲恋話が隠れていた。綵一端が繰り広げる因縁譚。

 第5話 藤蔭の猫
 藤原四兄弟の妹である安宿媛(あすかべひめ)と、長屋王を筆頭とする皇族勢力の後見を受けた広刀自とが、後宮の勢力を二分する。安宿媛には10歳になる安倍、広刀自には11歳と9歳の井上・不破姉妹がいる。井上の愛玩する鶯が、安倍の愛猫に襲われたと決めつけたことから始まった騒動譚。一種の女官代理戦争仲裁譚。
 膳司で猫の食事の準備を整えた若子が、この女官代理戦争に巻き込まれていく。それが若子には、授刀頭藤原房前という人物を知る契機になる。

 第6話 越ゆる馬柵(うませ)
 出仕して日の浅い石上朝臣志斐弖(しひて)と春世が、帝の妃の一人である海上女王の許に訪れている時に、桃酒を飲み過ぎた志斐弖が荒っぽい若駒を乗りこなすというハプニングを引き起こす。この夜、海上女王の所で、安貴王が帝に駿馬の赤駒を引き合わせる予定だったのである。この騒動は春世が帝に己を見初めさせる企みの失敗譚になる。

 第7話 飯盛顛末記
 男遍歴の多かった春世は安貴王を最終的に安住の地と思い定める。だが、膳司の女官で安貴王の妻である紀小鹿はそれを許せず、春世の子・浜足の出生を疑わせる怪文書の投げ文をする。それが後宮内の采女氏女の悶着レベルを越えて、藤原氏・長屋王ら皇族のに勢力の争いに飛び火しかねなくなる。この騒動で笠女が春世の仕返しとして一計を案じる。
 結局、春世は解雇され、因幡国に戻される結末に。それはなぜか、が読ませどころ。政争の実態描写が裏返しのテーマと言えるかもしれない。

 第8話 姮娥孤栖 (こうがこせい)
 神亀4年(727)9月、広刀自の娘・井上が伊勢斎宮として京を旅立つ。その後、遂に春世が因幡国に帰国することに。若子・笠女・志斐弖が藤原房前の立ち合いのもと、寧楽坂下で見送る。この折り、安宿媛が産気づいた報せがきて、房前は急遽後宮に戻る。男児・基の誕生である。
 若子と笠女は帰路、志斐弖から妊娠していることを打ち明けられた。誰の子か。それが大問題だった。密かに出産させる方法はないか。若子と笠女の暗中模索が始まる。最後に、なんと海上女王が大胆な一案を出すという結末に。女の底力反撃隠蔽作戦譚と言える。
 第1話の末尾近くに、「この京は定かならぬ夢。ならば他人に頼るのではなく、自分はこの夢の中で自らの手で真の夢を掴んでやる」(p46)という若子の決意を示す一文がある。本書のタイトルはこの一文に由来するのだろう。

 さて、このストーリーに副次的に現れてくる興味深い点をいくつか列挙しておこう。
1.女官を主体とする後宮の組織がどういう体制になっていたのかがよくわかる。
  いくつかの司(役所)の事例が具体的に書き込まれていく。「内侍司(ないしのつかさ)は、十二ある後宮の官司の束ね。天皇への奏上の取り次ぎ、帝の宣旨の伝達などの重責を果たすとともに、後宮六百人の女官の監視役も務めている。」(p10)、「後宮十二司最大の任務は、天王の生活を支えることに尽きる。」(p48)とあり、「書司には長官である尚書(ふみのかみ)のもと、二人の典書(ふみのすけ)、六人の女嬬(にょじゅ)が配属されている。齢六十を超えた尚書は温厚だけが取り柄で、毒にも薬にもならない老女。」(p48-49)という具合。史実にフィクションを交えて、その中での女官の生き方が描かれていておもしろい。
 膳司の場合だと、尚膳(かしわでのかみ)、典膳である。この当時の尚膳は牟婁女王であり、牟婁女王は藤原房前の正室と書かれている(p298)
 後宮という組織をイメージしやすくなる。

2. 歴史書の記載と重ねていくと、年表的な時系列の事実がフィクション部分の肉づけにより大きな膨らみと奥行を加えて行く。『続日本紀(上) 全現代語訳』(宇治谷孟、講談社学術文庫)から、本書の背景史実を抽出してご紹介しよう。
 神亀3年(726)
  夏5月24日 新羅使・薩飡(さつきん 第八位)の金造近らが来朝した。
  6月5日 天皇は宮殿の端近くに出御し、新羅使は調物を貢上した。
  6月6日 金造近らを朝堂で饗し、地位に応じて物を賜った。
  9月15日 内裏に玉棗(なつめ、神仙薬とされ、瑞祥である)が生じた。天皇は、
      勅を出して朝廷および民間の僧侶・俗人たちに玉棗の詩賦を作らせた。
  9月27日 文人120人が玉棗の詩賦を作って献上した。その出来栄えの等級によって
      それぞれ禄を賜った。一等には?20疋・真綿30屯・麻布30端、・・・・
 神亀4年(727)
  9月3日 井上内親王(聖武帝の娘)を派遣し、斎宮として伊勢大神宮に侍らせた。
  9月29日 皇子が誕生した(母は光明子)。

 余談だが、2年後の天平元年(729)2月10日に、左大臣長屋王が密かに左道(=妖術)を学び国家(天皇)を倒そうとしていると密告があり、六衛府の兵士で長屋王の屋敷を包囲させた旨が同書に記されている。さらに「2月12日 長屋王を自殺させた」と。
また、藤原四兄弟が疫病に罹り次々に没したのは天平9年(737)である。

3. 後宮における女官の間の確執・権謀術数のすさまじさ。フィクションであるとはいえ、リアルに描かれていて興味深い。後宮の有り様と照応する形だが、藤原四兄弟の藤原氏と長屋王ら皇族系統の人々との間の確執もわかりやすく描かれている。当時の宮廷における政治情勢がイメージしやすくなる。
 この小説には、藤原房前と聖武天皇の人物像が断片だが具体的に描き込まれている。その虚実はどのように織り交ぜられているのだろうか。興味のつきないところだ。

4. 文庫本の「解説」(遠藤慶太氏)によると、この小説に登場する3人の采女、つまり若子、笠女、春世には史料に登場するモデルがちゃんといるという。「解説」をお読みいただきたい。

 野望と権謀術数に満ちたドロドロとした後宮を舞台にしながら、3人の采女がめげずに逞しくそれぞれの道を突き進む。その姿が宮廷女官の青春時代物語として明るさを生み出している。
 ご一読ありがとうございます。

本書に関連する事項をネット検索した。一覧にしておきたい。
聖武天皇  :ウィキペディア
光明皇后  :ウィキペディア
長屋王   :ウィキペディア
藤原房前  :ウィキペディア
藤原房前  :「コトバンク」
藤原麻呂  :ウィキペディア
藤原浜成  :ウィキペディア
牟漏女王  :ウィキペディア
井上内親王 :ウィキペディア
安貴王   :ウィキペディア
因幡八上采女 :「コトバンク」
板野命婦   :「コトバンク」
粟若子    :「コトバンク」
飯高笠目   :「コトバンク」
飯高諸高   :「コトバンク」
飯高諸高   :ウィキペディア
律令時代の阿波国  :「歴史総合.com」

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


徒然に読んできた著者の作品の中で印象記を以下のものについて書いています。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『能楽ものがたり 稚児桜』  淡交社
『名残の花』  新潮社
『落花』   中央公論新社
『龍華記』  KADOKAWA
『火定』  PHP
『泣くな道真 -太宰府の詩-』  集英社文庫
『腐れ梅』  集英社
『若冲』  文藝春秋
『弧鷹の天』  徳間書店
『満つる月の如し 仏師・定朝』  徳間書店

『警視庁公安部・青山望 濁流資金』 濱 嘉之  文春文庫

2020-04-26 15:39:35 | レビュー
 この青山望シリーズの第4作をたまたま最初に読んだことから、第1作に戻り読み継いでいる。この第5作では、「同期カルテット」が第3・4作での所轄警察署の課長職から、再び本庁サイドに異動している。それぞれのポジションをまず記しておこう。
   青山 望  公安部公安総務課第七担当管理官
   大和田博  警務部人事第一課監察、表彰担当管理官
   藤中克範  科学警察研究所総務部総括補佐
   龍 一彦  刑事部捜査第二課知能犯第二課捜査担当管理官
藤中は警視庁から科学警察研究所に出向中であり、青山・大和田・龍は警視庁内でそれぞれが管理官になっている。担当事案の実務的な情報の総括と事件捜査のマネジメントを行う立場である。各領域での立場がステップアップしている。それ故に、この同期カルテットが協力関係を密にし連携すれば、今まで以上にパワーを発揮できることになる。
 青山の第七担当管理官のセクションは特異で「その業務は公安部だけでなく全ての警察事象に関する総合的支援」(p31)である。予算は青天井、スタッフと装備資機材が群を抜き、コンピューターで警視庁の全てのデータとアクセスできるという権限を持っている。青山は己の洞察力と実行力を遺憾なく発揮できるポジションに着任したことになる。

 プロローグは、京都・東山にある知恩院近くの一方通行の道で、自家用車での移動途中に運転者が車の不具合に気づき下車した際に銃殺されるという場面から始まる。被害者は武田良一、42歳。新興のIT企業家で京都ゴックスというコンピュータ会社の代表取締役社長だった。自宅から八条の新社屋に向かう途上で殺された。川端警察署に特別捜査本部が設置され、初動捜査が始まる。京都府警備部公安課は事件発生の10日前から被害者の武田良一を視察対象にしていた。
 青山はこの殺人事件発生の短い至急報を読み、世界規模で発生する虞のあるパニックの可能性を早くも見出していた。京都ゴックスは暗号通貨の取引所として有名で、オーナーが殺害されたとなると、何らかの反社会的勢力との繋がりが出てくるはずだと推測した。仮想通貨取引所での決済は通常の外国為替取引に縛られることなく、手数料も安い上に海外送金も容易だからである。青山は、即座に部下に京都ゴックスの取引所の手法や取り扱いの実態調査を指示する。殺人手口はプロのものと判断し、東京への波及と背後に岡広組が関係していないかを懸念したのだ。

 京都ゴックス社長殺害事件が引き金になり、ネット上のビジネスコイン(仮想通貨)250億円が不正アクセスにより失われたという事件が青山に報告されてくる。都内に取引所のある帝国ゴックスで発生したという。同社では「サイバー攻撃」を受けたとしているようだ。しかし、青山はもっと奥の深い闇に繋がるものと推察する。

 このストーリーは、京都府警の特捜部による京都ゴックス社長殺害事件の捜査と帝国ゴックスの仮想通貨消失事件の捜査及び青山による背後関係の公安視点での捜査とがパラレルに進行するところから始まる。帝国ゴックスのバックグラウンドを調べることで、京都ゴックスと帝国ゴックスの関係も明らかになり、青山の分析力が発揮され始める。
 京都府警は藤中の居る科警研にライフルマーク照会をしていた。「本件に使用された弾丸の銃器の特定及び、同じ銃の使用の有無」である。科警研は照会範囲で回答していた。一方、青山は京都の殺害事件で使われた銃と同じような銃が他でも使われている可能性という視点で藤中に問いかけた。藤中がデータ化された記録を、検索ワードを変えて調べる。青山との対話により、絡んでくる反社会的勢力は岡広組であり、共通項に今は堂々と引退している清水保の関わっていた系列が浮かび上がってきた。青山は、清水保の引退後の岡広組の詳細な相関図の確認作業を進めて行く。一方、当然ながら大和田との情報交換が始まる。帝国ゴックスの仮想通貨消失は、勿論、捜査第二課知能犯第二課捜査担当管理官の担当領域であり、青山は龍とコンタクトをとることになる。
 再び、同期カルテットの連携プレーが強力に推し進められていく。読者にとっては、事件が複雑にかつ大がかりに広がる予感がして、おもしろくなる。

 青山は公安部データ分析室で、神宮寺武について検索する。そこから、帝国ゴックス絡みで思わぬ人間関係を発見する。それがトリガーとなり、事件の背後における様々な相関を分析する糸口が明らかになる。勿論、それは背後の闇の広がりの予兆でもある。
 そんな最中に、政界で2人、財界で4人、さらには東大卒の官僚3人が、いずれも急性心不全で10日ほどの間に亡くなっている事態が発生していた。検視が終わり全て病死扱いになっていた。警視庁刑事部長の平野がその不審死に疑問を抱く。その時には、既に青山はこの件に関連しても動いていた。さらに、青山は旧知の帝都医科歯科大法医学教室の高城主任教授から連絡を受ける。不審死11件目になる財界人の遺体から微量の薬物が検出されたという。高城教授は薬毒物の専門だったからでもある。教授は事件遺体と断言する。
 この事件遺体の件で、青山は藤中と連絡をとる。そこから、2つの事件-仮想通貨関連事件と連続不審死事件-の背後に接点が見え始める。一隅から様々な側面とのつながり、過去の事件ともリンクする事実が見え始める。
 さらには、伊豆の河津で、中川郁夫という全国レベルで出張手術等を行う心臓外科の名医が殺害される事件が発生する。
 読者にとっては、政財界絡みで金の匂いがますます濃くなるという興味深い展開へ大きな広がりを帯びていく。

 今回もまた、興味深い視点がストーリーに織り込まれている。
1. ITの先端領域の一角である仮想通貨というシステムがストーリーの発端に組み込まれていること。マネーロンダリングの視点を絡めている点が興味深い。この文庫書き下ろし出版は2014年9月である。時代の先端事象を取り入れているところがおもしろい。
 現実世界では、調べてみると、2014年3月に「マウントゴックス社破綻事件」が起こっている。3日間でおよそ115億円相当のビットコインが消えたという。これは事件時期がわかっている一例だ。日本の大手仮想通貨取引所の一つであるコインチェックから約600億円相当の仮想通貨NEM(ネム)がハッキングにより流出した事件が発生したのは、2018年1月26日である。

2. 藤中が出向した関係で、科学警察研究所という組織の役割や機能など、その内容の一端がストーリーに組み込まれていて、イメージしやすくなる。

3. 大和田が監察、表彰担当管理官となった関係で、警視庁という警察組織内における表彰のシステムがどうなっているのか、その運用実態の大凡がイメージしやすくなる。事実プラスフィクションとは思うが、実態を反映していることと思う。

4. 警察組織及び体制における警視庁と他道府県警との格差、変死体解剖率などの格差など、体制環境面でのギャップが歴然とある実態に触れられている。このあたり、事実を反映させているのだろう。

5. IT技術に関係するが、ビッグデータをフィクションとは言いながら、現実的具体的な事例で取り扱っている。それは情報のデータベース化が何を意味するかの証でもある。
6. 公安畑の捜査手口がストーリーの中に出てくる。こういう手があるのか・・・・である。

 今回の一連の事件の連環が明らかにされ、悪の企みの一側面は未然に阻止でき、一気呵成の逮捕劇で結末を迎える。しかし、神宮寺武は全体相関図の中に姿を見せつつ、するりと圏外に抜け出てしまう。問題事象のスケールがさらに拡大しなければ、神宮寺武が直接表に姿を現し絡んで来ないのか・・・・・。青山の活躍がさらに期待されるところでエンディングとなる。
 
 ご一読いただきありがとうございます。

本書に関連する事項で、現実世界で現出している事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
暗号資産(仮想通貨)とは何ですか?  :「日本銀行」
暗号資産の利用者のみなさまへ     :「金融庁」
Coin List 仮想通貨銘柄一覧 :「Vwnture Times」
仮想通貨投資  :「HEDGE GUIDE」
【仮想通貨ハッキング事件一覧】事件の概要とリスク管理・対策方法 :「仮想通貨部・かそ部」
資金洗浄  :ウィキペディア
パナマ文章で話題になった「マネーロンダリング」。汚いお金をきれいにするって、どういうこと?  :「Lifehacker」
心不全とはなにか  :「日本心臓財団」
国有財産売却情報  :「厚生労働省」

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


こちらの本も読後印象を書いています。お読みいただけるとうれしいです。
『一網打尽 警視庁公安部・青山望』 文春文庫
『警視庁公安部・青山望 機密漏洩』 文春文庫
『警視庁公安部・青山望 報復連鎖』 文春文庫
『政界汚染 警視庁公安部・青山望』 文春文庫
『完全黙秘 警視庁公安部・青山望』 文春文庫

『探偵ガリレオ』 東野圭吾  文春文庫

2020-04-24 11:36:56 | レビュー
 「オール読物」の1996年11月号に載った短編から連作ミステリーとして新シリーズが始まり5篇発表された。それらが1998年5月に単行本として出版され、2002年9月に文庫本となっている。これがガリレオ・シリーズの始まりである。
 
 本書にまとめられた段階で、タイトルが『探偵ガリレオ』とネーミングされたのだろうか。本書では初出の短編のタイトルがそのまま発表順に各章のタイトルとされている。
 第5章の本文に以下の文が出てくる。
 「例のガリレオ先生に相談してこい、といったのは係長の間宮だ。草薙に物理学助教授の親友がいて、これまでにも不可解な事件に遭遇した時には、その人物から貴重なアドバイスを貰っていることは、草薙の所属する班では有名な話だった。」(p285-286)
である。本書のタイトルはここに由来するのだろう。ここに至るまで、ガリレオという名称は出て来ない。
 余談だが、ここにも時代感が出ている。助教授という言葉。かつては助教授といった。今は「准教授」という言葉が使われている。あるとき、この変化に気づいた。調べてみると、2007年4月の法改正による。

 この文に、既に基本的な設定が凝縮されている。少し補足して、この新シリーズの2人の主要な登場人物のプロフィールをまず紹介しておこう。

 草薙俊平は警視庁捜査一課に所属する刑事である。直属上司が間宮係長。その上に課長が居る。独身。愛車はスカイライン。
 ガリレオ先生というのは、草薙の親友であり、名前は湯川。帝都大学理工学部物理学科第十三研究室を運営する助教授である。湯川も独身。そして子供嫌いだという。
 草薙は同じ帝都大学の社会学部で学び、共にバドミントン部に所属していた仲間だった。草薙が担当する殺人事件で、犯行方法などについて不可解な状況・事象に遭遇すると、湯川を訪ねて物理学者の立場からの分析とアドバイスを得るということをしてきた。草薙は湯川のアドバイスによって、事件を解決に持ち込んでいくことができた。

 この第1作は、短編の連作であり、各ストーリーの展開パターンはすごくストレートである。殺人事件が起こると、捜査本部が立つ。草薙は捜査本部に組み込まれ、捜査員として事件に取り組む。事件発生の状況が大凡把握される。事件の核心部分、つまり犯行方法などに不可解な謎が壁として立ちはだかる。草薙が研究室を訪れ、湯川に不可解な謎部分を説明する。そして、湯川は現場に草薙と一緒に赴く。草薙の捜査でわかった事実関係の説明と犯行現場等の実見を合わせて、湯川が分析し謎解きを試みる。研究室で実験を行い草薙に謎を解明し立証を行う。湯川のアドバイスを得て、草薙が犯人を逮捕する。こんな流れが進展していく。
 草薙にとっては不可解な謎の壁となっているところを、物理学等の知識や科学技術を背景として、研究者の分析力で、いわば犯行マジックのネタを解明する。それを実験で立証するプロセスを織り込んでいくのだから、納得性が高まる。ちょっと思いつきにくい意外性のある知識・技術の応用という点がミソである。結構楽しめるミステリーの謎解き連作と言える。
 それでは5つの短編について、簡単にご紹介しておこう。

  第1章 燃える もえる
 道路の突き当たりにバス停があり、その傍に自動販売機がある。バイクで来た数名の若者たちが毎週のようにその場所に夜たむろし騒がしい。その夜は、19歳の向井和彦と他に4人が、楽しいことをする仲間くらいの関係でたむろしていた。騒いでいる最中に、山下の後頭部から炎が上がった。彼は前方にゆっくりと倒れた。その後、自販機の横に4段に積まれていたプラスチックケースの上の新聞紙の包みが燃え始め激しい爆発が起こる。山下は焼死、他の仲間も大火傷をする羽目に。草薙は事件現場に向かいかけた時、前方から来て躓いた少女を助け起こした。母と一緒に火事場見物に来ていたようだ。その少女は母親にしきりに、すごく長い赤い糸を見たと訴えていた。草薙はガソリン臭を嗅ぎ取る。間宮係長の指示を受け、草薙は現場近くの聞き込み捜査を始める。
 草薙は湯川の研究室を訪れ、事件の状況、怪奇現象について説明する。湯川は草薙の案内で事件現場とその周辺を実見に行く。そして発火原因と方法を解明し、犯人逮捕に至るヒントも見つけていた。それが草薙の聞き込み捜査とリンクする。
 少女の発言が湯川には重要な手がかりとなった。そこからは湯川の明晰な分析力と物理学等の知識の応用だった。ガリレオ先生の鮮やかな登場となる。
 
  第2章 転写る うつる
 自然公園のひょうたん池に鯉釣りに行った2人の中学生が、鯉の代わりに奇妙なものを釣り上げる。それが死体発見の発端になる。
 草薙は中学生の姉娘の文化祭で、娘の出演する舞台のビデオ撮影担当として姉にかり出される。その折り、暇つぶしを兼ね『変なもの博物館』の看板を掲げる部屋に入ってみる。そこには『ゾンビのデスマスク』と題する石膏の人間の顔があった。草薙は、そこにリアルな死者独特の表情を見つける。突然2人の女性が入ってきて、その内の一人が、兄の顔に間違いがないと断言する。草薙は聴き取りを進めた。中学生がデスマスクを作るのに使ったアルミ製マスクの出所を突き止め、ガラクタの廃棄場所になっているひょうたん池から死体を発見するに至る。
 殺害し死体遺棄する犯人がデスマスクとしてアルミ製マスクをわざわざ作り捨てる訳がない。では、誰が作ったのか。一方、被害者は誰になぜ殺されたのか。偶然の組み合わせと物理的な因果関係の巧妙な結合が生み出すストーリーがおもしろい。

 第3章 壊死る くさる
 スーパーマーケットの経営者で、身の回りの品に驚くほど金をかけない吝嗇家の高崎邦夫が自宅の浴槽で死んでいた。大学生の息子がほぼ5ヵ月ぶりに、いくつかのパソコンソフトを取りに帰って来て発見したのである。玄関のドアに鍵は掛かっていなかった。母親は早死にしていた。
 高崎邦夫は心臓が弱かったのだが、馴染みの医者が死体を見て奇妙に思い警察に届けた。その奇妙さというのは、右胸に直径10cmほどの灰色の痣ができていて、その部分の細胞が完全に壊死していたのである。それらの細胞は瞬間的に破壊されたらしいのだ。死体から薬物は発見されなかった。感電死と仮定しても、今回みたいな痣にはならないと専門家はいう。警察の扱う事件となるのかどうか、お手上げの草薙は湯川に相談を持ちかけた。
 草薙は湯川を誘い、高崎が行きつけとしていた店に行ってみることにした。そして、高崎が馴染みとしていたホステスが誰かを調べてみる。それが事件解決への第一歩だった。湯川は、草薙に科学者は考え出すというより見つけ出す方が多いと言う。そして、草薙の求めに応じて、同行することから、壊死を起こさせた原因を発見し、謎を解く。
 手術用のメスが殺人の凶器にも使えるように、進歩した現代科学技術が、殺人道具に転用できるという発想転換が、鮮やかな意外性を生み出している。

  第4章 爆ぜる はぜる
 結婚して約1年の梅里律子は、9月の日曜日に湘南の海に来ていた。ピンク色のビーチマットに摑まって海に泳ぎに出た。マットの下に何かが当たった。すぐ下に潜っていた若い男だった。その男が謝って、どこかへ泳ぎ去った。沖に流されていたので、戻ろうと方向を変えた時、何かが彼女を襲った。浜辺ではパニック状態が発生する。
 夫の梅里尚彦は、ピンク色のビーチマットを目印にして眺めていたので、その瞬間を目撃した。轟音とともに妻の姿が火柱に変わったのだ。
 この湘南海岸での爆発事件の報道記事をネタに、研究室で学生を相手に合理的な説明をつけようと言う知的ゲームをしている湯川のところに、草薙が訪問する。
 草薙は、三鷹のアパートで発見された他殺死体事件の件で、大学まで聞き込みに来て、まず湯川のところに立ち寄ったのだ。事件現場の部屋から見つかった直近に撮られた写真が草薙の見知っている建物だった。かつ被害者の元会社員藤川雄一は帝都大学理工学部エネルギー工学科の出身だった。藤川が所属していた研究室の助手は湯川の同期だという。そこで湯川が松田のところに案内する。この時点から湯川が事件解決に協力していくことになる。
 この事件では、湯川が更なる犯罪の発生を阻止し、犯人の逮捕に重要な役割を果たす。その一方で、心の揺らぐ瞬間を草薙に感じさせる局面を見せるというところが興味深い。
  第5章 離脱る ぬける
 生まれつき病弱な小学2年生の植村忠広は、風邪を引き熱を出して寝ていた。フリーライターである父の宏は息子の看病をしながら、期限の迫った原稿書きをしていた。近所に住むクラスメートの母親が、忠広を心配して訪ねてくる。彼女は、枕元のスケッチブックに目を留めた。絵の得意な忠広にしては、何を描いたのか不明な絵が描かれていた。忠広は、急に身体が浮くみたいな感じがして、窓の外を見た時に見えたものを描いたという。上村はその絵を凝視し、窓の外を見る。アパートの2階の窓のすぐ正面には、食品工場の大扉が見えるだけだった。
 この絵が、草薙が捜査する殺人事件で、被疑者が犯行時間帯のアリバイとして主張した場所に車を駐めていたという事実の証拠になり得るかという点でリンクしていく。杉並で起こった殺人事件に関連して、息子が重要な証人になりうる可能性があり、幽体離脱して描いた絵だという写真を入れた文書を作成し、上村宏が捜査本部に送ったことによる。その文書を受け取った捜査本部は捜査に混乱を来す。
 被疑者の主張するアリバイを崩せるのか。聞き込みでは目撃者は見つかっていない。一方、小学生の描いた絵は本当に見たものなのか。父親の言うように、幽体離脱で見たということを信用できるのか。草薙に同行した湯川は、車が駐められていた場所、上村の住むアパート、食品工場とその周辺を実見する。そして、あることに気づく。
 科学者のするどい観察と発見が、事実を解明していき、分析結果を実験で証明していく。事件そのものと幽体離脱により見たという絵は、意外な展開を遂げることになる。
 最初に記した通り、捜査一課の連中も、ガリレオ先生の力を頼りにするというおもしろいストーリーである。

 このシリーズ、直近の『沈黙のパレード』まで、現在合計9作品が出版されている。読み継いでいきたいと思っている。
 お読みいただきありがとうございます。

補遺
准教授 :ウィキペディア

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ふと手に取った作品から私の読書領域の対象、愛読作家の一人に加わりました。
次の本を読み継いできています。こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『マスカレード・イブ』  集英社文庫
『夢幻花』  PHP文芸文庫
『祈りの幕が下りる時』  講談社文庫
『赤い指』 講談社文庫
『嘘をもうひとつだけ』 講談社文庫
『私が彼を殺した』  講談社文庫
『悪意』  講談社文庫
『どちらかが彼女を殺した』  講談社文庫
『眠りの森』  講談社文庫
『卒業』 講談社文庫
『新参者』  講談社
『麒麟の翼』 講談社
『プラチナデータ』  幻冬舎
『マスカレード・ホテル』 集英社

『警視庁公安部・青山望 報復連鎖』 濱 嘉之  文春文庫

2020-04-23 11:52:23 | レビュー
 警視庁公安部・青山望シリーズの第3作である。文庫本として書き下ろされ、2013年3月に出版された。
 「プロローグ」は「北洋商事株式会社 代表取締役 専務」の肩書を持つ古澤健治が、光栄丸の船長、漁師の陣内則幸の自宅を訪れるところから始まる。古澤は陣内と、一本釣りの本マグロを直取引する交渉に来た。その古澤が、ホテル近くの小料理屋で食事を終えた後、ホテルに戻るため、2,3分歩いた暗い路地で、やってきた車をやり過ごそうとしたが、喉に衝撃を受け、死ぬ羽目になった。
 第1章は、築地市場で青森県大間からとどいた本マグロの木箱の蓋を開けるという場面から始まる。本マグロが12本のはずが、13の木箱。8つめの蓋を開けると、氷漬けで全裸の男の死体が出て来た。それも腹部が切り裂かれ、臓器が除去されていた。猟奇的殺人の死体遺棄事件の発生である。
 
 この時点で、龍一彦が築地警察署刑事課長に着任していた。係長からの昇進異動である。同様に、青山望は麻布警察署警備課長、大和田博は浅草警察署組対課長、藤中克範は新宿署刑事課長である。それぞれが都内の警察署に異動して課長職という立場で相互に連携し活動していくストーリーが展開する。
 
 刑事部捜査一課長から築地警察署長に異動していた橋爪署長から尋ねられた龍は、本間と築地を結ぶことから、この事件を先ずマグロ、そして大間原発という2つの観点が考えられると答えた。築地警察署内に特捜本部が設置され、まずは8人の捜査員が函館に飛ぶことになる。大間警察署に到着後の警視庁捜査員の仕事ぶり、そのレベルから描いて行くところが興味深い。
 ホテルから警察署に届いた被害者の遺留品であるスーツケースには資料が隠されていた。辰已係長と現地の鈴木署長が資料に目を通し、とんでもないことになりそうだと判断する。捜査一課の手を離れ、国全体を巻き込む大騒動になりかねない事件になりそうだと憔悴した。
 一方、龍は早速、青山に連絡を取る。青山は死体の状態を聞くなり、ミイラと醢(ししびしお)を連想し、誰かに対する見せしめの様な気がすると直観を伝えた。
 現地で見つけられた資料から中国大使館の公使参事官の名前が出て来て、公安部を巻き込む一大スパイ事件に発展していく。龍は青山の持つ類いまれな情報量に期待し、四人組の信頼感から、捜査本部の入手情報を密かに青山にFAXする。青山が公安部の窓口になって、データベースの統合作業に関わり、再構築したデータベースに記録されているものとの結びつきが出て来たのだ。「麻布龍華会」との繋がりが出て来たのである。青山は、元暴走族グループの「東京狂騒会」やそのライバル的存在だった「龍華会」やチャイニーズマフィアのことを改めて調べ始める。一方、青山は、龍に公総を窓口にするように持っていけと助言する。さらには、四人組・同期カルテットが必然的に連携する方向に状況が展開していくという構図になっていく。
 
 今回のストーリー展開のおもしろいところは、やはり警察組織内での先輩後輩という人脈をうまく利用しながら、刑事部と公安部が協力関係を結び、事件に臨んでいくところにある。その推進力が同期カルテットが培ってきた信頼するにたる実績、それぞれの出身畑での信頼感と人間関係、そして所轄署課長の立場での行動力である。縄張り意識にとらわれない彼らの絆が基盤となっていく。
 石本公総課長は、公安部でかつて青山のもとで働いていた七担の岡田係長のチームを引き抜いて、特命捜査本部を麻布に持っていき、青山課長のところに合流させる判断をする。岡田が石本課長から見せられた資料の写しは「大間原発と六ヶ所村の中間廃棄処分場を巡る政治家、霞ヶ関、独立法人、企業そして反社会勢力の相関図と金の流れ」(p67)を示すものだった。
 東京から大間に捜査員が派遣されている間に、再び仏ヶ浦で腹を割られている死体が揚がるという事件が発生する。連続殺人事件の可能性も出てくる。警視庁公安部から派遣されていた佃が大間署員と聞き込みをしていて、掴んだ情報の一端が青山の調査中の事項との接点が見出されてくる。
 これらの事件が徐々に大きな闇の広がりと深さを露わにし始める。大きな構図の中での一連の事象という様相に変転していく。
 一方、九州の博多では、ホテルで密かに岡広組の清水保が香港マフィアのドン・黄劉亥と接触するという事態が起こっていた。二人の間では中国の経済や政治力学が話材になり、原発技術の話が話題の一つにもなっていた。
 一連の殺人事件は、国際間のインテリジェンスの問題につながっていく。
 読者は、ストーリーの構図が徐々に広がりを見せていく様を楽しむことになる。

 このストーリーのおもしろさは、築地警察署の龍が担当する殺人事件が契機となるが、麻布警察署の青山の視点とその行動を主軸に描きながら進展するところにある。新宿警察署の藤中が所轄内での中国人同士の集団抗争事件が絡んでいくという動きに繋がる。青山が主役、龍・藤中は脇役である。浅草警察署の大和田には青山が情報収集のためにコンタクトすることから、関わりを持ってくる。
 かなり大がかりな形で事件は一応解決する。だが、どこかすっきり感がないままの結末とも言えるところがなんともおかしさを伴う。青山が「実は、今回の捜査はまだ半分が片付いただけなんだ」という発言が「エピローグ」で出てくる。
 今回は、たぶんこれが著者の意図的エンディングなのだろう。

 このストーリーの興味深い点を列挙しておこう。
1. 警察組織内の昇進異動・配置のあり方と人間関係にかなりリアリティを感じさせる巧みさにある。それは、警察組織におけるマネジメント能力の描写にも及び、能力評価という面の描写も点描していておもしろい。力量のある人間の一本釣りの話にも触れている。
2. 警察組織の描写が具体的である。組織図上での描写。例えば、警視庁機動隊の組織編成等の描写である。さらにIT技術の側面。データベースの構築や、公安部の佃の活用事例としての技術描写である。ここにはフィクション部分があるだろうが、著者の実務経験と内部知識が活かされていると思う。

3. 大間原子力発電所、六カ所村、六カ所再処理工場という実在するものと反対運動などの事実事象の上にフィクションを重ねた構想が生み出すリアリティ感である。そこが読ませどころとなっている。

4. 中国の状況と動きをどのようにとらえるか。フィクションという形ではあるが、インテリジェンスの視点での中国の経済行動、政治力学、地政学的発想などが背景として絡んでくるところが、この警察小説の読ませどころとなっている。そこにリアル感が醸し出されている。

5. 青山のもつの能力の一つであるとも言えるが、青山の魅力を引き出す行動場面がエピソード風に織り込まれていておもしろい。たとえば、若い巡査への職質のしかたのアドバイスである。

6. ところどころに、東京の発展史や東京の地域の様相を具体的に書き込んでいるところが、ストーリーに奥行を生み出し、ちょっとしたリフレッシュの挿入、また読者への豆知識の提供にもなっている。たとえば、六本木の地名の由来や発展史(p78)、浅草の発展史(p247)などの挿入である。

 本書のタイトルは『報復連鎖』である。誰が誰に、なぜ「報復」するのか。その報復がどのように、どのような形で「連鎖」し、広がりと深みを見せていくのか。大間のマグロという「食」と原発という「科学技術」がどうつながっているのか。あるいは別ものなのか。日本と中国の関係、それに絡む人間たちの構図並びに東京での変換期にある勢力争いの構図を背景に、一つの殺人事件を発端としてその波紋の広がりを描く警察小説である。

 ご一読ありがとうございます。

こちらの本も読後印象を書いています。お読みいただけるとうれしいです。

『一網打尽 警視庁公安部・青山望』 文春文庫
『警視庁公安部・青山望 機密漏洩』 文春文庫
『政界汚染 警視庁公安部・青山望』 文春文庫
『完全黙秘 警視庁公安部・青山望』 文春文庫

『キリスト教文化の常識』  石黒マリーローズ  講談社現代新書

2020-04-22 09:45:02 | レビュー
 奥書を見ると、1994年10月に出版されている。私はニ刷で読んだ。四半世紀前の出版と言えば、遠い昔の感じだが宗教と文化の歴史からみれば、この新書もほんの昨日に出された本という感じと言えようか。「キリスト教文化」が数十年で常識を覆すことはないだろう。
 この新書の表紙に、本書の意図が明瞭にメッセージとして記されている。全文を引用しよう。「毎日の挨拶や人名・地名、祝祭日、ライフサイクルなどに密接に関連したキリスト教の言葉と精神--その由来と意味を簡明に説き明かす。欧米人の生活と価値観を伝える。国際化のためのガイドブック」である。このキャッチフレーズ、内容を的確に伝えていると思う。
 
 先日、『図解 比べてわかる! 世界を動かす3宗教』(保坂俊司[監修]・PHP)をご紹介した。この本と関連づけるなら、「キリスト教文化」に一歩踏み込んでキリスト教が文化形成にどう関連しているかを理解するのに役立つ手頃な本と言える。語り口調で身近なキリスト教文化圏での「常識」を様々な観点からわかりやすく著者の体験も含めて解説してくれている。文化理解の実用書といえる。著者はカトリックの立場を主体にしながら、時にはプロテスタントの立場との違いに言及するというスタンスで解説している。その点は押さえておく必要があるだろう。

 本書は5章構成になっている。章毎に少しご紹介していこう。

  「第1章 ここにもキリスト教が生きている」
 キリスト教は世界宗教としての広がりを持っている。人名一つもその由来や関連を知っているのと知らないのでは、大きな違いがある。キリスト教の聖人の名前も国により表記が異なる。こんなことも普段そんなに意識していない。本書では9人の聖人について、国毎の違いを例示することから始めていて入りやすい。マリアは比較的各国で似ているが、聖人ヨハネの場合は、信者でないものには、えっそうなの・・・という感じである。ジョン(英語)、ジォン(フランス語)、ヨーハン(ドイツ語)、ジョバンニ(イタリア語)、ホアン(スペイン語、ポルトガル語)、ヨハンナ(アラビア語)という表記になるという。キリスト教文化圏の人には、それが空気のようなものなのだろう。地名の場合も、サンフランシスコ、サンタモニカ、セントルイス、サンディエゴなどのサン、セイントなどは「聖人」を意味する。フランスの暦の例が説明されているが、毎日が聖人の誰かの記念日だという。祝日のほとんどは聖人ゆかりの日なのだと。本書で初めてこのことを知った次第。フランスを中心としたカトリック文化圏では、聖人の日と天気を絡めたことわざがかなりあるという。第1章の最後に具体例が紹介されている。

  「第2章 教会中心の欧米人の暮らし」
 上掲の『世界を動かす3宗教』に、キリスト教のシンボルが十字架であり、その種類がいくつもあるということに触れている。本書でも「いろいろな十字架」(p66)を例示しているが、重なったのは3例だけで、残り6例は全く別。おもしろい。
 カトリックとプロテスタントでは教会の持つ意味合いが違うという。常識中の常識なのだろうが、非キリスト教者には説明されないとわからない。カトリックの聖堂は「神の家」、直接神が宿る聖所。一方、プロテスタントにとっての教会の建物は、基本的には聖書を朗読したり、説教を聞いたりする場。この違いを知っていれば、映画を見ても教会の建物から類推できる広がりが異なることだろう。ミサの意味、七つの秘跡、神父と牧師のちがいなど、基本事項が解説されている。グローバル化の中で、相手の宗教の枠組みを知ることは必須といえる。クロス・カルチュラルな付き合いの手始めだろう。
 余談だが、アメリカ・カリフォルニア州の州都サクラメントという名前は、この七ツの秘跡という言葉に由来すると言う。

  「第3章 メディアの中のキリスト教」
 アメリカ大統領の名演説、マス・メディアの報道、映画の中などで、どのように聖書に由来する言葉やフレースが効果的に使われているかを実例を挙げて説明している。どこまで、何を読み取るか。聖書の内容を理解しているかどうかで、適切な理解ができるかどうかに関わってくることになる。聖書の内容理解はキリスト教文化圏の必須ということだろう。著者は次の一文を記している。「宗教への関心をあまり見せない大統領の場合でも、演説には頻繁に神や聖書が引き合いに出され、その事情は現代にいたるまでそれほど変わっていないのです。」(p103)これは、アメリカの歴代大統領の演説事例の解説の中で記されている。
 映画の事例は古い名作になる。これはまあ仕方が無いことだろう。

  「第4章 知っておきたいキリスト教の知識」
 まず、「キリスト教各派と他宗教」が解説される。ユダヤ教、東方正教会、英国国教会、各宗派のプロテスタントの違いが簡略に解説されている。その後で、「聖書の常識」として、聖書の成り立ち、旧約聖書と主な巻の内容、新約聖書の内容についての最小限の必須知識と言えよう。3つめとして、日常生活の中で、何気なくあたりまえに使われている「神」と言う言葉、これを具体例で解説している。そこに「文化」の表出がある

  「第5章 上手なコミュニケーション」
 まず、God bless you. と I love you. が取り上げられている。その後に、「言葉を越えるもの」、つまりノンバーバル・コミュニケーションの側面に触れ、「キリスト教とコミュニケーション」「ボランティアにおける愛の実践」を語る。
 最後に、「キリスト教に関するジョークあれこれ」と「聖書・聖人に関連したことわざ」で締めているのがおもしろい。
 短いジョークを一つ引用してみよう。:教師が生徒にたずねた。「自分の体のことばかりで、魂については何も考えない人間はどうなるか?」 生徒「太ります」
 ことわざも一つ。:知は力なり(箴言7・1)

 最後に、「結びとして」の前半で著者が記す一文をご紹介して終わりたい。
 「もし、外国語や外国の食べ物やファッション、芸術を学ぶのと同じくらいにキリスト教について学ぶなら、すばらしい結果につながります。西欧の生活や、思考様式を深く理解し、それに適合していけることになり、世界から孤立しないためにも大切なことです。」(p224)

 ご一読ありがとうございます。

本書に関連して、幾つか検索してみた事項を一覧にしておきたい。
キリスト教諸教派の一覧 :ウィキペディア
図解で納得 キリスト教の宗派って  :「毎日新聞」
キリスト教で知っておくべき11の常識【特集まとめ】
ミサ  :ウィキペディア
教会の七つの秘跡 (Sacrament) :「カトリック広島司教区 平和の使徒推進本部」
「ことわざ・慣用句」一覧 :「聖書のことば」

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

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その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)

 こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『知識ゼロからの世界の三大宗教入門』 保坂俊司 幻冬舎
   世界の三大宗教として仏教・キリスト教・イスラム教を扱っている。
『図解 比べてわかる! 世界を動かす3宗教』 保坂俊司[監修]  PHP
こちらはユダヤ教・キリスト教・イスラム教を扱っている。

『図解 比べてわかる! 世界を動かす3宗教』 保坂俊司[監修]  PHP

2020-04-21 11:53:50 | レビュー
 世界の文明と文化を理解していく上で、その根っ子の部分には宗教が厳然と存在している。宗教について基本的な事を知っていないと人々の行動の背景や価値観などを理解できないし、文化が適切には理解できないと言われる。『孫子』の謀攻篇に「彼を知り己を知れば、百戦して殆(あや)うからず」という名言がある。これはここでの文脈にも通じることだろう。
 そこで問題となるのが、本書の「まえがきにかえて」の一文中の小見出しになっている「宗教音痴の日本人の常識は、世界の非常識」である。手軽に「無宗教」という言葉を使う。その言葉が他の国々の人々にはどのように受けとめられるかを気にかけない。その危うさをまず理解することが重要になる。この点で役立つ本として、先日『日本人はなぜ無宗教なのか』(阿満利麿著・ちくま新書)に触れた。「無宗教」という語句を手軽に発信しないこと。きっちりと意味を押さえて使うことの大事さである。
 文明と文化を理解し、相手の行動や考えを理解するうえで、相手の宗教のせめて概略でも理解を深めていくことが求められる。とは言っても、宗教を知るということは容易なことではない。長年日本に生きてきていても仏教や神道を深く理解しているとはとても思えない自分がまずここに居る。また、今までに個別に、部分的にはそれぞれの宗教の一端について読んだり見聞したことはある。だが、それどまりだった。そこで3宗教について頭の整理を兼ねて、読んでみたのがこの本である。著者による類書を一冊先に読んでいたので、この書も読んでみた。

 本書は、「世界を動かす」という視点から、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の3宗教を取り上げている。書名の最初に、図解という言葉がある通り、この3宗教について一貫して図解ベースで対比的に要点を解説している。この点が読者にとってわかりやすいメリットになっている。

 序章では、まず一神教VS多神教、民族宗教VS世界宗教という二軸四象限に世界の宗教をポジショニングしている図解がある。本書に取り上げられた3宗教が一神教という点で共通していて、その根源で捉えると、同じ神を崇めていると説く。その上で、3宗教の相違点を対比し、一覧表にざっくりと要約している。この3宗教を同じ土俵にのせて観点を整理して対比するということをしたことがなかったので、この点頭の整理に役立った。

 この後、4章構成で論旨が展開されていく。その折りに、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教という順番で、基本はほぼ同じ観点に立ち、重要な要点が整理されていく。
 4章の構成と対比されている観点の全体を概観すると次の通りである。
 第1章 3宗教の歴史  創始者の生涯とその後を辿る上でのポイントを押さえる。
    「誕生、迫害/確立、発展、宗派」の観点で順番に図解入り説明を行う。
 第2章 3宗教の教え  深遠な教義の内容理解のためのポイントを押さえる。
    「根本の教え、来世観・終末観」のエッセンスを簡略に抽出する。
    イスラム教については「刑罰」にも触れている。
 第3章 3宗教の生活・文化 日常の中での信仰のあり方を説明
    「聖職者」の位置づけ、「慣習」の主要点を解説。ユダヤ教については「祈り
    の場」と「聖日」にも触れる。
 第4章 3宗教と現代社会  宗教と世界との関係の押さえ所を解説する。
    まとめ方の観点で3宗教に共通するのは「経済」である。後はバラツキがある。    他の項を個別に紹介しておくと、ユダヤ教:社会、事件・紛争、文化でのまとめ。
    キリスト教:政治、イスラム教:政治、事件・紛争、となる。

 図解し対比的に要点をまとめていて、いわば3宗教への入門ガイダンスという位置づけの新書である。しかし、普通の日本人ならたぶん普段考えたことがないような局面も所々で抽出されて説明されている。以下の点を貴方はご存知だっただろうか。該当ページも併記する。試しに、このページをちょっと開いてみると興味深いかもしれない。
*ユダヤ教 アブラハムとモーセの道程  p57
*ユダヤ教 セファルディムの動きとアシュケナジムの動き p31
*イスラム教 ムハンマド誕生以前のアラビア半島の旧宗教 p53
*イスラム教 スンニ派とシーア派の違い p65
*聖地めぐり エルサレム旧市街における3宗教の聖地の位置関係 p66
*キリスト教の終末観は5段階  p83
*ユダヤ教はダビデの星、イスラム教は月と星、キリスト教は十字架がシンボル。
 だが、キリスト教のシンボル。十字架は何種類も存在する。 p112-113

 第4章は宗教を基盤にして、その宗教に属する人々の経済社会での行動面に触れているので、なぜ各宗教の基本を知る必要があるかの応用編ともいえる。
 実際に世界を動かしている3宗教について、アウトラインをまず知るうえで手頃な解説本と言える。

 ご一読ありがとうございます。

入門ガイダンスとしての本書に関連して、ネット情報を少し検索してみた。一覧にしておきたい。
ユダヤ教  :「コトバンク」
ユダヤ教  :ウィキペディア
ユダヤ教 ━ ユダヤ人とユダヤ教  :「ミルトス」
キリスト教 :ウィキペディア
日本人とキリスト教:なぜ「信仰」に無関心なのか? :「nippon.com」
キリスト教が日本で広まらなかった理由 - 島田裕巳(宗教学者):「BLOGOS」
日本キリスト教連合会 
イスラム教  :「TERUO MATSUBARA」
どうしてイスラーム教はわかりいくいの? 危険だと誤解を招く4つの理由:「SEKAI」
ムスリムを知る|イスラム教のルール(信仰、生活規範、服装)とは? :「ストラテ」

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


 こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『知識ゼロからの世界の三大宗教入門』 保坂俊司 幻冬舎
   世界の三大宗教として仏教・キリスト教・イスラム教を扱っている
『日本人はなぜ無宗教なのか』  阿満利麿  ちくま新書


『ビッグブラザーを撃て!』  笹本稜平  光文社文庫

2020-04-20 10:35:01 | レビュー
 笹本稜平の作品を溯り、作家デビュー作を読んでみることにした。2000年9月にカッパ・ノベルス(光文社)から阿由葉稜という名義で出版された。その時のタイトルは『暗号 -Back・Door-』である。2003年9月、文庫本となるに際して標記のタイトルに改題された。初版の文庫本表紙には、「長編謀略小説」「『暗号』改題」と小さな文字で表記されている。そして、モニター画面の前で外国人青年がこちらに顔を向けた写真が使われている。これだけの情報にこの小説の大枠がかすかに垣間見える。IT技術を踏まえてこれだけの長編謀略小説をデビュー作として描ききっていたのはさすがである。

 ビッグブラザーとは国際的謀略組織をさす。端末画面の写真と暗号との組み合わせから、プログラミング・ソフトが絡んでいることがイメージできる。バックドアという言葉からは、まずハッカーを連想してしまう。この小説、実はこのバックドアという言葉がストーリー展開の中でキーワードになっていく。

 ストーリーの舞台は東京なのだが、プロローグはムハンマド・アリ・サッカルというパキスタンの大学生の話から始まる。飛び級を経て、15歳で大学の理工学部に在籍する学生である。彼はハッカーを楽しんでいて、アメリカのある政府機関のサーバーに侵入し怪しげなファイルを盗み出したのだ。その顛末をUSENETに匿名で投稿したことから、ある男のコンタクトを受けた。彼が侵入したローカルネットワークのドメイン名が<ビッグブラーザー>だった。USENETの投稿記事の噂ではビッグブラザーはサイバーネットワークを通じた世界帝国の建設を目論む危険な集団だと言う。コンタクトしてきた男にアメリカでの約1ヵ月の仕事をオファーされる。破格な報酬の仕事に、ムハンマドは乗ってしまう。それが彼の運命を決める。そんなプロローグから、舞台は東京・西新橋にあるソフト開発会社「ロジックソフトシステムズ」に一転する。
 主人公はシステム開発室長をしている石黒悠太である。石黒に滝本吾郎から電話が入る。滝本からの奇妙な依頼を受けて、石黒は赤坂三丁目にある滝本のオフィスに出向く。そしてメモと1枚のMOディスクを預かって欲しいと託される。オフィスが盗聴されている可能性があるからとメモに記されている。その直後滝本が石黒の面前で苦悶して死ぬ。
 刑事の事情聴取を受けた後、会社に戻った石黒悠太はそのMOディスクの内容を確認しようとするが、暗号化された文書ファイルだった。オフィスで手渡されたメモには、「もし俺の身に何かあったら、三日以内に<クロノス>から君に連絡が行く」と書かれていたのだ。 
 
 悠太の人生がこの時点から、急変していくことになる。まずは滝本の死により、オフィスに居て119番に通報した悠太は、事件の重要参考人として、赤坂署の島野刑事の継続的な事情聴取の対象者となる。島野は滝本が業界では毀誉褒貶の多い人物だった点を絡めて悠太にアプローチしてくる。一方、会社では、出身銀行の権威を背景に役員である総務部長が、悠太と滝本の関係をベースに悠太の仕事上でのあら探しを始め、悠太を辞職に追い込んでいく。悠太の自宅の居間が何者かに荒らされる羽目になる。MOディスクを狙った侵入である。そして、遂に<クロノス>からの電子メールが届く。

 クロノスとは滝本が開発していた世界最強と自負する暗号システムだった。滝本はビッグブラザーという組織を知っていた。滝本は、クロノスをビッグブラザーの野望に対して抵抗するために開発したという。インターネットが真に市民の自由と安全を保障する社会基盤としての安全な暗号通信技術になるというのだ。滝本は、クロノスを悠太の手で完成させて欲しいと託したのだ。

 結果的にソフト開発会社を退職する窮地に立ち至った悠太は、滝本の開発した暗号ソフトのプロトタイプを作り、さらに商品化するという道を突き進んでいくことになる。それに対して、ビッグブラザースが立ちはだかってくるという構図である。悠太の家族にもビッグブラザースの魔の手が迫っていくことになる。

 このストーリー展開のおもしろいところとしていくつかの柱がある。
1.クロノスという世界最強の暗号通信技術のソフト開発という商品化のステップを描いていくこと。そのために、悠太は「フォールズソフトウェア」という会社を起業する。悠太と妻の真梨絵が役員という会社だ。
 滝本の自負するとおりの世界最強の暗号ソフトたりうるかの理論的確認がまず不可欠である。そのため、高校時代の友人であり、この領域の研究者で東大理学部数学科助教授となっている平木滋に相談を持ちかけることから始める。そして、プロトタイプ(試用版)の開発、ライセンス契約バージョン、市販バージョンへと広げていくことになる。
 このプロセスが、どのように進展するかというところが興味深い。勿論、そこには障害・危機が発生してくる。だから、おもしろいとも言える。

2. クロノスを開発した滝本とはどういう人物だったのか? 少しずつその全貌が明らかになっていくという、一種謎解きのおもしろさ。悠太は大学の先輩であり、ソフトのことで指導を受けたというだけで、ほとんど滝本のことを知らなかったのだ。
 滝本は一緒に住んでいた宮坂ユリに遺産を残す手続きをしていた。島野刑事はその宮坂ユリが行方不明となったと悠太に告げる。
 島野刑事がこのストーリーでは、脇役ながら重要な役割を果たしていく。最終ステージでは、元刑事という立場になっているのだが。

3.クロノスのことを外部には一切公表していない段階で、ジェイク佐伯と名乗る人物が悠太にコンタクトを取ってくる。ジェイク佐伯は何者か? 悠太は疑心暗鬼の気持ちを抱きつつ、ジェイク佐伯と接触していく。ジェイク佐伯はもちろん、己の背景にある組織のことは一切明かさないで取引を持ちかける。
 だが、悠太に持ちかける取引は、悠太のソフト開発者、プログラマーの信義に関わるものだった。なぜなら、それはクロノスのソフトウエアにバックドア(裏口)をつけるという取引である。裏口を知るのが唯一その組織だけであれば、そのソフトがデファクトになることによってIT世界を支配できるようになる。安全とは真逆の事態に手を貸すということになるのだから。
 ジェイク佐伯は取引を成立させるためには手段を選ばないことを暗示する。悠太が家族を巻き込む可能性が高い苦境にどう対応していくか。それが読ませどころとなっていく。

4.ある時点から、悠太に監視が付くようになる。そして、悠太を威嚇しようとする連中が近づくのを助ける男が出現する。その男は警視庁公安部の笹崎と名乗る。笹崎は悠太に警告する。「あなたは特殊な任務を帯びてこの国に来ているある種の人間たちの間で、今や最重要人物なんです」と。そして、その狙いは<クロノス>にあると。
 滝本が悠太に託した<クロノス>の引き起こす波紋が広がっていく。悠太は笹崎と共同戦線をはる立場になっていく。だが、その笹崎にも裏の顔があった。

5.1のソフト開発と深く関連するが、特許申請手続きを経ての特許取得という局面が重要になってくる。勿論、悠太はこのステップを踏むが、そこでも障壁となる問題が発生してくる。グローバルな特許という視点とやり方が巧妙に組み込まれていて、興味深い。
 
 最終ステージは悠太のソフト開発者、プログラマーとしての発想と能力が遺憾無く発揮されるIT技術上のグローバルな戦いとなっていく。すべてが収斂していき、読み応えがある。おもしろい国際謀略小説である。

 ご一読いただきありがとうございます。

この印象記を書き始めた以降に、この作家の作品で読んだものは次の小説です。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『時の渚』  文春文庫
『白日夢 素行調査官』  光文社文庫
『素行調査官』  光文社文庫
『越境捜査』 上・下  双葉文庫
『サンズイ』  光文社
『失踪都市 所轄魂』  徳間文庫
『所轄魂』  徳間文庫
『突破口 組織犯罪対策部マネロン室』  幻冬舎
『遺産 The Legacy 』  小学館

『「本当の豊かさ」はブッシュマンが知っている』 ジェイムス・スーズマン NHK出版

2020-04-19 11:19:01 | レビュー
 翻訳書のタイトルは、キャッチフレーズとしては人を惹きつける。それは、「本当の豊かさ」という日本語とブッシュマンという言葉の組み合わせで、勝手にイメージを抱いてしまうからだろう。上手なネーミングであるのは事実である。一方、本書の読後印象として、この翻訳書のタイトルが刺激的すぎて、それに少し引きずられたという印象が残る。
 著者は南部アフリカに暮らすサン人(コイサン)とほぼ25年にわたり生活をともにしたと社会人類学者である。「コイ」は「人」を意味し、「サン」は「狩猟採集民」または「放浪者」を意味するという。「ブッシュマン」とも呼ばれるという。著者はサン人の中でも、自称名でジュホアンというコミュニティの人々とともに暮らしてきた。そのため、本文では、ジュホアンという表記で彼らの生活・考え方などが語られていく。

 本書の特徴は、カラハリ砂漠、南部アフリカに何万年も前から営々と狩猟採集民として生きてきたジュホアンの生活・考え方の観察記録を綴るだけではない。大航海時代における南アフリカとポルトガル、スペインなどとの関わりから始まり、ヨーロッパの植民地となった時代をへて、南部アフリカに農耕牧畜業が拡大して行くプロセスでの軋轢を論じる。それは狩猟採集民の生活領域が砂漠の辺境に押しやられていく過程でもあった。その歴史的経緯、さらに、アパルトヘイトならびにアフリカの民族分断の側面をも書き込んでいく。つまり、ジュホアンがどういう状況に至っているかという側面も明確化していく。狩猟採集民のブッシュマンが他の民族(またはエスニックグループ)と遭遇する度にどのような差別に遭ってきたかも明らかにする書である。
 この歴史的経緯の記述と、具体的にジュホアンと生活を観察した記録・彼らの考え方についての著者の見解の記述という2つのテーマを著者は交互に論じていく。この記述スタイルのリズムにはなかなかうまく乗れなかった。

 歴史的経緯の一環として、著者は第一部第一章で、1930年冬、大恐慌の最中にケインズの発表した「孫の世代の経済的可能性」という小論を引用する。その小論で、ケインズは「100年後の2030年までに、先進国の生活水準は今日の4~8倍になるだろう」と述べ、その時には週15時間の労働時間になっていると予想したという。ケインズが夢見た週15時間の労働時間の方は実現していない。
 一方、著者はジュホアンとの生活を通じて、彼ら狩猟採集民にとっては、「週15時間の労働時間は、おそらく現生人類(ホモ・サピエンス)が辿ってきた20万年間の歴史の大半で標準的なものだったことだ」(p27)と論じる。
 このパラドックスといえる部分を明らかにしていくのが、本書の意図のようだ。

 社会人類学者としての著者は、先進経済諸国のあり方、社会経済思想に根本的な問題提起をしている。「狩猟採集社会を通じて見えたことは、マルクスも新自由主義の経済学も人間の本質を誤って捉えているということだ。人間は労働によって定義されるのではなく、別の充足感のある生き方を十二分に送れる能力があるののだ」(p367)と論じている。ケインズもマルクスも、狩猟採集民の生き方とは対極にあるものとして、一視同仁に扱われている。
 その直後に、人類にとって狩猟採集民の方法による豊かさを受け入れる難しさが厳然として存在すると言う。その理由を2つ述べて締めくくる。この2つの理由に至るプロセスが本書の内容と言える。

 本文には、「本当の豊かさ」という語句の記述はなかったと記憶する。狩猟採集民の「原初の豊かさ」という翻訳で語られている。この両者に差異があるのか、イコールなのか、それを考えてみるのも付録の課題と言えるかもしれない。
 原題は「AFFLUENCE WITHOUT ABUNDANCE」である。一例として手許の『ジーニアス英和辞典 第5版』を引くと、affluence は「豊かさ、富裕」、abundance は「大量、豊富:ありあまる量:余分、過多」と説明がある。省略するが、手許の英語辞典を引くと、affluence の語彙説明に abundance が使われているのでややこしい。

 サブタイトルが表紙に記されている。「What We Can Learn from the World's Most Successful Civilization」である。「我々」というのは経済大国側のことだろう。「世界の最も成功している文明」は何万年も同じ生活スタイルを維持してきた狩猟採集民のジュホアン・ブッシュマンをさす。つまり、ブッシュマンから何を学ぶことができるかということである。
 
 その一方で、本文の末尾には、狩猟採集民自体が、今までの生き方をできなくなっている現実に触れている。最後の最後に、著者は己の示唆を読者に投げかけて締めくくる。
 今後の新しい時代がどうあるべきかを考える材料として、刺激的な本であることはまちがいない。「本書は2017年度ワシントン・ポスト紙ベストブック50冊および米公共ラジオ局ベストブックに選ばれた」(奥書より)という。

 最後に、著者が記録するジュホアンの生き方・考え方の一端をご紹介しておこう。
*現在は過去のあらゆるできごとの積み重ねではなく、過去のできごとが新しい形で再び起こるのであって、つねにそんなふうに古い時代では物事がなりたっていたということだった。 p116-117
*獲物の少ないときに備えて多めに狩って肉を保存することもなかった。簡単に獲物を狩れることに感謝はするが、肉をすべて食べつくすまで次の狩りをしない。狩猟採集民ジュホアンの教えによれば、食べきれずに腐らせてしまうほど多くの動物を殺すと、社会的・精神的制裁を受けるおそれがあるという。 p120
*ジュホアンが際限のない食料探しに夢中にならず、いちばん厳しい月であっても必要以上の労力を費やさずに、短期的な最低限のニーズを満たすという暮らしを受け入れていることである。 p169
*最初に獲物の急所を射た矢の所有者が、どんな動物の肉でもその「所有者」になるというものだ。・・・狩人の所有権には条件がつく。肉は大勢の人に分配しなくてはならないのだ。 p263
*狩猟採集民の平等主義は、・・・・個人の利己心が積み重なることを抑制する嫉妬によって、利益を目的とする交換やヒエラルキー、著しい物質的不平等を許容しない厳格な平等社会がなりたっているのだ。 p270-271
*ジュホアンやほかの狩猟採集民にとっては、私有財産自体が問題なのではない。私有財産を不必要に増やしたり、生産と分配を支配したりしたいという欲望こそが問題なのだ。p274

 ご一読ありがとうございます。
 

『マスカレード・イブ』  東野圭吾  集英社文庫

2020-04-18 10:45:02 | レビュー
 2014年8月にオリジナル文庫として出版された。「小説すばる」に発表された短編3作、「それぞれの仮面」(2013/2)、「ルーキー登場」(2013/7)、「仮面と覆面」(2014/2)と、文庫本のタイトルになっている中編(145ページ)「マスカレード・イブ」という書き下ろしが収録されている。
 「それぞれの仮面」と「仮面と覆面」はホテル・コルテシア東京、「マスカレード・イブ」はホテル・コルテシア大阪が舞台である。「ルーキー登場」と「マスカレード・イブ」は新田刑事が濃淡はあるが登場人物として共通する。ホテルという舞台は、いわば仮装した人々がひととき集まる場所。その仮面の裏を描くという謎解きのストーリーである。殺人事件にもどこかに被害者・善人という仮面を被った人々が紛れ込んでいる。捜査はそういう仮面を剥がした先にある事実を追求する。
 収録された4作は、「仮面」がキーワードに組み込まれ、仮面のもとにテーマが設定されているという共通点がある。「マスカレード」という言葉自体、一説ではマスク(仮面)に由来する言葉とも言われ、「仮面舞踏会。仮装大会。仮装。」(『デジタル大辞泉』)という意味である。文庫本のカバーに、象徴的に仮装用のマスクが使われている。
 
  「それぞれの仮面」
 ホテル・コルテシア東京が舞台である。フロントの山岸尚美は一人の女性客を受け付ける。希望は「喫煙可能のデラックス・ダブル」のため、尚美は1105号室を選ぶ。午後8時過ぎに、三人組を受けつける。タレント活動や野球解説をしている元プロ野球選手大山将弘が居た。フロントに手続きに来た男は宮原隆司、尚美の大学時代の先輩だった。その直後に尚美より一瞬早く、上司の久我が当日予約の電話を受けつける。会話から判断し、久我は一泊の正規料金が18万円もするプレジデンシャル・スィートの予約に持ち込んだ。
 午後10時までの勤務を終えて、事務部門のある別館に居る尚美の携帯電話に、宮原から電話が入った。1105号室にいる、助けてほしいと。勤務時間外だが、尚美は部屋に出向く。部屋から女が消えたというのだ。消えた女はホテル内に居るのかどうか。尚美は探索をする立場に立たされる。
 ホテルに宿泊する客は、それぞれの仮面をつけている。ホテル側もまた接客の仮面を付けている。尚美の探索は、入り組んだ人間関係を背景にしたそれぞれの宿泊客の思惑、秘めた素顔を知ることになっていく。仮面の奥に隠された秘密の面白さが読ませどころである。

  「ルーキー登場」
 ホワイトデーの夜、深夜午前2時5分、中央区の高層マンションに住む田所三千代が、夫がランニングにでたまま帰らないと警察に電話をした。捜索の結果、ランニングコースとしている歩道に近い建設現場内で刺殺体として発見された。捜査本部が所轄署に開設される。新人の新田浩介は先輩刑事本宮と組み、捜査に加わる。
 田所三千代に事情聴取したことから、被害者の夫は数多くの飲食店を経営する実業家であり、本人は1回の生徒は数名という料理教室を開いていること、被害者とは3年前の秋に結婚していたことを知る。その後、新田は被害者のランニングコースをマンションの傍から走ってみる。事件現場付近で調べているところを不審者と間違われて警官に捕まる羽目になる。だが、実際に走り事件現場を見ることから、推理により捜査のヒントを発見する。それが犯人逮捕に結びつく。だが、問題はそこから始まった。そして、事件捜査の限界も明らかになる。
 冒頭で、新田が付き合っている彼女が、スッピンと本物のスッピンを区別している発言をした場面が描写される。その発言に新田が感じた思いを彼が捜査プロセスで応用することになる。この殺人事件では、仮面を剥がした先に見えるものが、更に二重だという落とし所がおもしろい。
 もう一つ、『マスカレード・ホテル』で活躍する新田刑事のルーキー時代を描くという点で作品がリンクしている。この『マスカレード・イブ』は、山岸尚美と新田浩介のそれぞれについて、『マスカレード・ホテル』での活躍の前段階(イブ)を描くことで呼応している。

  「仮面と覆面」
 10月8日、金曜日、明日から三連休でホテル・コルテシア東京は予約で満杯になっている。二人の中年男を含む風変わりな男たち5人組がチェックインしてくる。彼らは、このホテルにタチバナサクラと称する覆面作家が宿泊することを嗅ぎつけて、一目会いたくて宿泊し、ホテル内をうろつく。一方、宿泊者・玉村薫で4日間、望月和郎が予約していた。請求先は「一ツ橋出版」。山岸尚美の上司、久我は予約リストを見て、作家が原稿書きでホテルに缶詰になるのだろうと推測する。作家担当者の秘密裏の活動である。
 憧れの作家に会いたい連中と覆面作家の宿泊を知られずに原稿を書いてもらいたい出版社の担当者。その間に立ち、ホテルの品位を落としたくないし、どの宿泊客にも満足して欲しいと願うフロントの山岸。化かし合いのドタバタ喜劇がはじまっていく。
 結果的に、山岸の推理力は覆面作家玉村薫の仮面を剥がしていくことになる。だが、全てがハッピー・エンドに納まるところが楽しい。

  「マスカレード・イブ」
 ホテル・コルテシア大阪がオープンして1ヵ月。山岸尚美はフロントの応援に来ていた。ストーリーは当日予約の若いカップルのチェックインから始まる。このエピソードがまず読者をすんなりとストーリーに乗せていく。その続きに、エグゼキュティブ・ダブルの部屋に一泊する30歳そこそこにみえる美人で、薔薇の素敵な香りを漂わせる女性のチェックインが描かれる。
 だが、場面は一転して、東京の八王子南署所轄域にある大鵬大学理工学部キャンパスの大学教授岡島隆雄殺害事件現場となる。警視庁捜査一課の新田浩介は、所轄の生活安全課所属の穂積理沙と組み捜査に携わることになる。新田は遺体発見者への聞き込みから始めて行く。被害者は、南原准教授と一緒に半導体材料の開発を企業と共同研究していたという。その南原准教授は、学会出席のために京都に出張していた。だが、この研究内容と岡島の殺された日が特定された点から絞り込んでいくと、南原への疑惑が浮かび上がるのだが・・・。南原は己のアリバイ証明の一環として、ホテル・コルシア大阪の名前を明かした。新田は穂積を裏取りのために大阪に出張させる。穂積はホテル・コルテシア大阪で山岸尚美から出所を明らかにしない約束で推理を踏まえた宿泊客についてのある情報を教えられる。そこから、事件の裏付け捜査は意外な方向に展開していく。
 このストーリー、尚美の推理した内容が契機となり、崩せなかった捜査の壁に突破口がみつかる。新田が穂積の何気ない発言から発想の転換によって、ある考え方を進言する。そこから犯人が被っていた仮面が暴かれていくことになる。
 なぜ、「マスカレード・イブ」なのか。それは、『マスカレード・ホテル』において、ホテル・コルテシア東京が事件の犯行現場となり、新田がフロントクラークの山岸尚美と出会うことになる以前の物語という設定だから。新田の「ルーキー登場」に対して、山岸尚美の「マスカレード・イブ」という形で、呼応している。
 また、「マスカレード・イブ」のエピローグで、尚美の思いとして、ホテル接客業の信条の実践エピソードを描いている。それが一層「仮面」というキーワードを鮮烈にしている。

 ご一読いただきありがとうございます。

ふと手に取った作品から私の読書領域の対象、愛読作家の一人に加わりました。
次の本を読み継いできています。こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『夢幻花』  PHP文芸文庫
『祈りの幕が下りる時』  講談社文庫
『赤い指』 講談社文庫
『嘘をもうひとつだけ』 講談社文庫
『私が彼を殺した』  講談社文庫
『悪意』  講談社文庫
『どちらかが彼女を殺した』  講談社文庫
『眠りの森』  講談社文庫
『卒業』 講談社文庫
『新参者』  講談社
『麒麟の翼』 講談社
『プラチナデータ』  幻冬舎
『マスカレード・ホテル』 集英社