遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『エムエス 継続捜査ゼミ2』  今野 敏  講談社

2019-10-25 14:43:24 | レビュー
 「継続捜査ゼミ」シリーズの第2作である。奥書を見ると、「小説現代」の2017年8月号から2018年7月号に連載され、2018年10月に刊行されている。
 主人公は新米教授小早川一郎とそのゼミ生5人である。小早川一郎は、幼馴染みである三宿女子大学長・原田郁子に誘われ、准教授として教鞭を執ることとなり、4年目に教授となった。かつては警察官でバリバリの刑事として活躍し、警察学校の校長を務めるという警察官人生を経るという経験を持つ。三宿女子大学人間社会学部に所属し、新米教授となってから、講義の他にゼミを持つようになった。そのゼミの通称が継続捜査ゼミである。というのは、このゼミでは研究テーマとして、未解決事件を取り上げることにしているからである。1年目のゼミで5名がゼミ生となった。最初にテーマとした事件の研究が一段落したので、次のテーマ、課題を決めようとしている状況から、このストーリーが始まる。
 夏休みが終わり、10月に入り、キャンパスが活気づいてくる。11月2に三女祭と呼ばれる学園祭があり、学生たちがその準備に追われる時期になってきたのだ。
 小早川のゼミは水曜日の午後3時から始まる。ゼミ生が集合し、小早川がテーマの選択について、ゼミ生に意見を求めると、安達蘭子が冤罪の危険姓について考えたいと発案する。他のゼミ生もテーマ設定に賛同し、研究のための具体的な事件の絞り込みを行っていくことになる。
 そんな矢先に、小早川が被疑者扱いを受けるという事件が起こる。この『エムエス』は小早川がゼミでは「冤罪の危険姓」をテーマとして進めようとする一方で、小早川自身が大学内で発生した傷害事件の被疑者扱いをされ、まさに冤罪が引き起こされかねない状況に陥いらされる。この二つの流れがパラレルに進行して行く。おもしろい設定になっている。

 なぜ、小早川が被疑者扱いされる羽目になるのか?
 三女祭では毎年ミス三女コンテストが企画実行されてきた。小早川が大学勤めを初めて三宿女子大での学園祭に接したときに、女子大なのにミスコンを行うということに意外な感じを受けた印象を持っていた。そのミスコンが今年も行われる様子である。だがそれがキャンパス内の騒々しさの元凶ともなるという。小早川が敬意をいだく人間文化部の竹芝教授は、ミスコンに対する開催反対運動が毎年起こり、企画実行する委員会と反対派の学生との間で衝突するからと小早川に説明した。
 小早川は木曜日に『刑事政策概論』の授業を持っていた。少し遅れて教室に行くと、3人の学生がビラ配りをしていた。その内の一人が、自分たちの考えを説明する時間を欲しいと小早川に要求するが、勿論小早川は拒絶する。だが、そのビラを後で読んでみようと思い、ビラを手にして教壇に立ったのが、事の始まりとなる。ビラに興味があるかと一人の学生が質問した。小早川は、授業と切り離すために、話し合いたいなら授業の後にでも研究室に来てくださいと言い、授業を進めたのだ。
 現代教養学科3年の高樹晶という学生が、小早川の研究室を訪ねてくる。彼女はビラの内容に関連し、ミスコンに対する小早川の意見を聞き、討議しにきたのだ。彼女はミスコンは性の商品化だから反対という立場を論じる。ゼミ生と同じ学科なので、後でゼミ生に尋ねるとミスコン反対運動のリーダーが高樹晶だという。
 この高樹が小早川の研究室に討議目的で訪ねてきた2回目、彼女が退室してしばらく後、教授館の建物の脇、キャンパスのメインの通りから離れた人目につかない一角で背後から後頭部を殴打され怪我をしたのだ。制服姿の2人の警察官が駆けつけていた。サイレンを聞いた小早川は1階におり、現場近くに行き、警察官に何があったのか質問した。それがこの傷害事件に巻き込まれる発端となる。それも被疑者とみなされる形で・・・・。

このストーリーの興味深い点がいくつかある。まず、この小説では冤罪の発生するメカニズムとその危険姓をテーマとしているといえる。その上で、ストーリーの構成として、以下の観点で、読者にとっては学びながら楽しめる作品に仕上がっていると言える。

1. 小早川が大滝強行犯係長から任意同行を求められ、被疑者扱いの取り調べを受ける。大滝は小早川の説明を頭から聞こうとしない。己の捜査した範囲の情報を前提に、シナリオを描き、小早川を被疑者として取り調べ、自白させようとする。
 小早川はかつて刑事だった。刑事の取り調べ方は勿論熟知している。つまり、相手の手の内を冷静に見極めながら、小早川は事件とは無関係である主張を繰り返す。
 この両者のやりとりのプロセスが冤罪が発生するプロセスのシュミレーションになっている。また、小早川は己が取り調べられる側に立つことによって、かつての刑事としての己を自省するという側面も語られていく。それは刑事としての大滝係長に対する冷静な評価にもつながっていく。
 ストーリーとして面白いのは、この事件に捜査一課の保科と丸山という二人の刑事が関わってくることである。彼らは勿論、小早川はシロだという前提で、大滝の捜査方向にブレーキをかけようとする。つまり、明かな冤罪発生の防止を警察側の立場から図ろうとする。保科は小早川のゼミ生に協力を求めるという手段にでるのだからおもしろい。これは、大学のキャンパス内での事件ということに関係するからだろう。

2.ゼミ生が次回のテーマとして冤罪の危険姓を研究しようとする。これに関連して、冤罪とは? という問いかけに対する論議点が展開されていく。法規的側面や裁判手続き的側面、過去事例など、客観的側面からのアプローチがゼミの論議として進展する。読者にとっても、冤罪について考える場の提供になっている。
 そして、蘭子がある事件の裁判結果を踏まえて、ゼミの題材に提起する事件が提示される。疑わしきは罰せずの原則が裁判闘争ではどのように適用されるかという局面も内包されている。そして、この事件の判決後に、意外な事実が明らかになるという興味深い問題を含ませているところが、またおもしろい。

3.女子大の学園祭におけるミスコンについてのディベート風討議が織り込まれていく。
 反対運動の先頭に立つ高樹晶の反対主張に、小早川がおのれの立ち位置をどこに置き、高樹の論理展開にどのように対して立論していくかというやりとりの面白さである。小早川が竹芝教授に彼の考えを尋ねるという点もおもしろい。
 大学の運営側は、学生の主催する学園祭と毎年実施されているミスコンには、ノータッチと一線を画している。
 
 さて、この第2作のタイトルは「エムエス」である。本書を通読したが、このエムエスが何に由来するのか、私には分からなかった。それらしきフレーズや文脈に気づかなかったのだ。読み落とした行があるかもしれない・・・・。この点だけ、気分的に落ち着かない。ご一読いただき、エムエスと名付けられた根拠がわかれば、ご教示いただきたい。

 ご一読ありがとうございます。

このブログを書き始めた以降に、徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『プロフェッション』  講談社
『道標 東京湾臨海署安積班』  角川春樹事務所
=== 今野 敏 作品 読後印象記一覧 === 更新6版 (83冊) 2019.10.18

『プロフェッション』  今野 敏  講談社

2019-10-22 13:20:01 | レビュー
 「インポケット」の2015年1月号から6月号に連載され、同年8月に単行本として出版された。2019年9月に『STプロフェッション 警視庁科学特捜班』として講談社文庫化されている。
 
 百合根警部をキャップとするST科学特捜班のメンバーはそれぞれに得意な専門分野をもつプロフェッションである。まずはメンバーを紹介しておこう。
 黒崎勇治 第一化学担当 化学事故などの鑑定 「人間ガスクロ」の異名を持つ
             ガスクロマトグラフィー並に臭覚が発達し鋭い
 山吹才蔵 第二化学担当 麻薬・覚醒剤、医薬品、毒物などの専門家。
             曹洞宗の僧籍を持つ僧侶でもある。
 結城 翠 物理担当   聴覚が並外れて発達し、遠くの些細な音も識別可能
             極度の閉所恐怖症で、服装は露出過多で開放的
 青山 翔 文書鑑定担当 心理学の専門家、プロファイリングを行う
             極度の潔癖症の裏返しとして、秩序恐怖症
 赤城左門 法医学担当  医師免許を持つ。極度の対人恐怖症だったという。
この5人が各自の専門性を発揮して、担当した事件の調査・分析を行い、事件の解決に挑む。5人のリーダーは赤城であるが、本人はその資格がないと主張している。しかし、百合根は赤城がリーダーとして適任と判断している。
 また、捜査一課の菊川警部補がSTと捜査一課の連絡役をしていて、彼は筋金入りの刑事である。

 菊川が科学捜査班の部屋に来て、奇妙な事件に対するSTの出動を要請した。立て続けに3件の誘拐事件が発生していたのだ。同一犯人の犯行と思われる連続誘拐である。被害者は男2人、女1人で、いずれも性的な暴行は受けていず、奇妙にも誘拐された翌日に解放されている。被害者はひどく気味の悪いことをされ、「おまえに呪いをかける」と言われたという。
 事件は世田谷署の管内で発生していた。強行犯係の事件担当者はSTのメンバーに被疑者の共通点を説明した。被害者3人は東京農林大学の同じ研究室に所属していて、そこは土壌の研究をしている研究室である。男2人は大学周辺で連れ去られ、女は大学のそばに借りているアパートの自宅のそばで連れ去られたと言う。
 第1の被害者は、大竹淳哉、42歳。准教授。日曜日に学内の駐車場から誘拐された。
 第2の被害者は、浦河俊介、26歳。博士課程の研究員。大竹の誘拐された3日後に大学の近くの路上から誘拐された。
 第3の被害者は、並木愛衣、30歳。研究室の助手。飲み会を終えての帰り道、深夜0時頃、自宅アパートそばで、浦河が誘拐された5日後だったという。
3人はそれぞれ、誘拐された後、目隠しされて椅子に縛り付けられた状態で、呪いをかけると言われ、ぬるぬるしたひどく不気味なものを口の中に入れられ、呑み込まされたというのだ。
 そして、最初の被害者である大竹は解放されて2週間ほど経った頃、発病し、救急搬送されて入院したという。続いて浦河も大竹より2日後に発病し救急搬送されている。並木は今のところ発病していないが、入院中だという。

 赤城は被害者の入院先を回って、症状などを把握するという。他のメンバーは、まずは誘拐された現場を確認することから始めて行く。
 このストーリーは、青山のプロファイリングを軸にしながら、STが犯人の究明に乗りだすプロセスの進行を描いて行く。被害者が入院していて、直接事情聴取ができない状況なので、STはまず大竹たちの属する研究室の関係者に対する事情聴取から始めて行く。直接に事情聴取するのは青山であり、質問を受ける関係者を結城と黒崎が観察する。この二人はいわば人間ウソ発見器の役割を果たすわけである。
 青山は誘拐された状況から、大学内の関係者、それも研究室の人間あるいはその周辺の関係者の中にいると推定する。

 このストーリーにはいくつかの特徴がある。
1.青山が事情聴取の担当となり、結城と黒崎が人間ウソ発見器の役割を担当して、関係者にアプローチしていくプロセスの描写である。3人のコンビネーションがおもしろい。この事情聴取プロセスが青山によるプロファイリングの進行プロセスとなる。
2.赤城は法医学の専門家として、病院での担当医との面談や3人の症状の分析から始め、被害者3人の担当医との間の情報連携の橋渡し役となる。赤城は浦河の担当医から聞いた髄膜脳炎の疑いという言葉に関心を寄せる。
 大竹淳哉は結局死亡する。赤城はその病院で大竹の遺体を法医学者として速やかに解剖し、死因を突き止めようとする。彼が発見した死因が、この事件の解明への梃子となっていく。死因からのアプローチと青山のプロファイリングとが結合していく。
3.菊川の役割と百合根の役割が興味深い。いかにうまく科学特捜班のメンバーをこの事件に集中させ、効果的に協働させるかという黒子に徹している姿が描かれる。
4.犯人の意外性と、その犯行動機の意外性が興味深い落とし所となっている。
5.アカデミックな研究の場における人間関係の有り様、欲望と泥臭さが描き出される。

 ある意味でSTが終始本領を発揮していくストーリー展開となっている。事件捜査への助っ人という枠を越えて、事件捜査の主体になっているところがおもしろい。

 ご一読ありがとうございます。

このブログを書き始めた以降に、徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『道標 東京湾臨海署安積班』  角川春樹事務所
=== 今野 敏 作品 読後印象記一覧 === 更新6版 (83冊) 2019.10.18

『道標 東京湾臨海署安積班』  今野 敏  角川春樹事務所

2019-10-21 16:34:29 | レビュー
 『炎天夢』を読んで、この『道標』がその前に刊行されていることに気づいた。そこで早速読んでみた。
 安積の警察官人生の軌跡を振り返り、その中で事件と関わり、人と出会い、安積が警察官として成長する過程をエピソード風に綴っていった短編集である。いままでの安積剛志を中心人物としたシリーズの間隙を補い、ある意味で安積の警察官人生をより読者にとって身近なものに感じさせる過去物語集になっている。本書には10本の短編が収録されている。順を追ってご紹介する。

初任教養
 安積が警視庁巡査を拝命し、警察学校に入学。安積は大卒相当のⅠ類採用となる。六ヶ月に及ぶ初任教養の過程の一コマを中心に描く。授業は教場ごとに行われ、一つの教場はさらに5~6人で構成される班に分けられる。警察学校では、この班ごとの行動が基本となり、班単位の競走ともなる。
 この班で安積が一緒になったのが速水直樹である。安積と速水は常に術科でのライバルとなる。ここから、後の安積と速水の人間関係が育まれていく。この班は、ほかに下平祐作、内川靖、と「私」と一人称で登場する人物で構成されている。この短編は「私」の視点から描かれて行く。
 術科の柔道の授業で、班対抗の練習試合をやることになる。安積の属する班が、大学柔道部出身者の前島が率いる班と試合をし、敗戦する。その後、内川が警察官を辞めると言い出す。そのとき、安積・速水がどう対応したか。その対応が読ませどころとなる。卒業式の直前までが描かれる。
 この初任教養で教官から警察官を志した動機を尋ねられる。二人の第一声はこうだ。
   安積「自分は、強行犯係の刑事を志しております」
   速水「自分は、交機隊で白バイに乗ります」

捕り物
 警察学校を出た安積は、卒配で中央署地域課に配属となり、交番勤務に就く。交番での主任が40歳の君島巡査部長、先輩が35歳の辻井巡査長。辻井は要領が良く、任務をこなすが、冷めていると安積は見ている。手本にしたい先輩とは考えていない。だが、君島に誘われた一杯のみの席で、刑事志望のことを確認された後、「今はとにかく、一人前の警察官になることに専念するんだ」と諭される。そして、辻井も刑事を志望していて、勉強も熱心にやっていると聞かされる。デカ専科(捜査専門講習)を受けるには、署長の推薦を必要とし、そのためには警察学校時代の成績に加えて、熱意と実績が必要と言う。
 安積は、地域の餅つき大会に、交番からのボランティアとして参加する役割を担う。安積が職責をしたことから元マル走で補導歴のあるリョウにつきまとわれることになる。安積は餅つき大会後にリョウの話を聞くという約束をした。一方、当日ウチコミが予定されていることを知り、参加できれば実績を積める機会の訪れとなる。餅つき大会での約束とウチコミへの参加上申との二者択一で安積は葛藤する。
 結果的に、これは安積にとって警察官としての生き様の一つの重要な岐路となる。実績を積むという意味の深さを問いかける好編となっている。

熾火
 中央署から目黒署の刑事課長に異動した50歳の増田警部は、中央署地域係所属の安積を刑事課に引っ張った。このとき、安積はすでにデカ専科を修了していた。安積は強行犯係の三国巡査部長と組むように命じられる。三国が安積の教育係を兼ねることになる。
 三国は中央署地域課の26歳の竹下章助巡査に目をかけ、その希望どおりに刑事課に引っぱりたいと思っていた。だが、安積の着任で竹下には当面刑事への道が閉ざされた。
 初めてのウチコミに参加し、しくじった翌日、JR目黒駅近くでの傷害事件が発生する。被害者は仙波辰郎18歳で、非行少年グループのリーダー格だった。半グレだ。三国はこの事件に熱意が持てない。一方、安積は被害者は被害者だとして、やる気を前面に出している。ベテラン刑事と安積の事件に対する思いのコントラストが興味深い。そして、三国は安積のやる気に巻き込まれていく。被疑者が逮捕され、本人も殴ったことを認める。だが、安積はその動機にこだわっていく。
 最後の三国と安積のやりとりがおもしろい。
 「お前は、出世できないだろうな」「そうでしょうか」「だが、間違いなくいい刑事になる。」「ならば、出世はしなくていいです」
 安積の後の生き様のスタンスがここに凝縮されていると言える。

最優先
 プレハブに毛が生えたような庁舎時代の東京湾臨海署が舞台となる。安積は目黒署から異動し東京湾臨海署の強行犯係長になっている。そこに、石黒進が刑事課鑑識係長として赴任してくる。石黒は赴任にあたり鑑識を一から仕込んだ児島巡査を引っ張ってきた。
 この短編は、安積と石黒が出会った最初の事件において、鑑識の結果を出すにあたって事案の優先順位に絡んだエピソードを扱っている。
 埋立地にできた新しい警察署では、盗犯関連の仕事が少なくて、同じ第一方面本部に属する所轄の助っ人仕事が多かった。石黒は月島署の事案に鑑識として関わっていた。そんなとき、臨海署管内で強盗事件が起こる。石黒は勿論、鑑識としての出動を指示される。鑑識係はパンクする状況に陥るのだが、出動しなければならない。安積は石黒に犯行を裏付ける鑑識結果を早急に欲しいと要求する。一方で、児島が月島署の事案に関わる鑑識の資料を紛失するという失策が起こっていた。石黒は頭を抱える苦況に立つ。
 このアクシデントを聞いた安積は、その本領を発揮していく。つまり、読者を楽しませる。この安積班シリーズが好きになる原点の一つが、このエピソードに含まれている。
 短編の末尾はこうである。
 「安積からの仕事の依頼は、いつでも最優先だ。石黒は、密かにそう心に決めていた。」
 
視野
 東京湾臨海署、通称ベイエリア分署に新任の刑事課強行犯係長として安積が着任した。これは上記の「最優先」と一対になる短編だ。同じ強盗事件の捜査プロセスを異なる視点から扱っている。「最優先」を補完する側面を描き込んでいる。
 新設ベイエリア分署には強行犯係長は不在で、刑事課長が兼任していて、実質的な係長役は村雨秋彦巡査部長が果たしていた。彼が一番年上である。この数ヶ月、村雨は大橋巡査と、係で最年少の桜井巡査の面倒をみていた。そして、須田三郎巡査部長と須田と組む黒木がいる。須田は目黒署勤務時代に安積と組んでいたことがある。
 桜井の質問に対し、須田は安積が「熱い人、そして厳しい人、厳しいといってもちょっと違うんだ」と答える。
 鑑識係が月島署の窃盗犯事件に駆り出されているときに、管内で強盗事件が起き、安積班が出動していく。この短編は事件現場を中心に捜査プロセスを描いていく。つまり「最優先」と「視野」は補完関係にある。
 安積の信条とその行動に接して、村雨が己を変えられたと感じるようになる。視野が広くなったと実感する。そこにこの短編のタイトルが由来する。
 上記した安積を好きになる原点がこのエピソードではより具体的な描写で描かれていく。

消失
 第一方面本部からの指示で安積班は三田署生安課の事案に応援するよう指示を受ける。生安課が内偵を続けてきた麻薬の売人柳井のアパートにウチコミをかけるのだ。この短編はウチコミをかける前のアパートの監視から始まり、夜明けとともにウチコミを実行するプロセスの緊迫感を描いて行く。生安課の先鋒がアパートの部屋に突入する。ブツは発見されたが、柳井はいなかった。監視状況から柳井が在室していると判断したのは間違いない。そこから「消失」というタイトルが付いている。
 生安課の小宮山係長は「署に引きあげて、仕切り直しだ」と判断する。それに須田が待ったをかけた。須田の発言に村雨は驚く。結果的に、引き上げなくてよかったと小宮山係長は安堵する。
 この短編には、それまで見た目の行動からどんくさく見えていた須田の秘められた能力に村雨が気づくという側面も含まれている。

みぎわ
 ベイエリア分署が閉鎖され、安積は神南署に異動となる。その後、ベイエリア分署の場所に、新庁舎が建設され、廃止された水上署を組み込み新たな東京湾臨海署が開設された。この新臨界署に再び安積班が戻ってくる。
 新臨海署管内で強盗致傷事件が月曜日に発生する。榊原課長の指示を受けて、安積班が出動する。事件現場は巨大な遊興施設ビルの駐車場だった。被害者は30代の男性で、強盗にあい抵抗したため刃物で刺されたという。通報により地域課の係員が最初に駆けつけた。通報者は現場を離れていたという。
 この時点での安積班は村雨巡査部長、須田巡査部長、水野真帆巡査部長、黒木巡査長、桜井巡査で構成されている。通常、安積・水野、村雨・桜井、須田・黒木というペアで捜査活動に携わる。
 強盗の被疑者が潜伏するアパートが判明する。スピード逮捕ができそうな状況となってくる。安積は一種のデジャビを感じるようになる。安積は新人刑事時代に、先輩の三国巡査部長と組んで、被疑者の住む碑文谷の安アパートを突き止めたときの事件の状況を想起していく。スピード逮捕ができそうな状況で、三国が梃子でも揺るがない口調で「いや。様子を見る。そして、逮捕状と捜索・差押令状が届くのを待つ」と言った。その意味の重さを思い出したのである。三国は最後に安積に言った。「我慢するのも刑事の仕事だ。覚えておけ」と。
 強盗致傷事件の被疑者確保の時点で、安積は言う。「桜井、お前の手柄だ。おまえが手錠を打て」と。
 末尾は、安積が村雨に「ちょっと屋上に行かないか?」と誘い、屋上での二人の会話のシーンとなる。この時の二人の場面が実にいい。ここでも安積の本領が発揮されている。安積ファンを惹きつける場面と言える。

不屈
 水野真帆巡査部長に東報新聞の山口友紀子記者が声をかける場面から始まる。被疑者を確保し、送検した現下の事件についてはノーコメントという水野に対し、山口の質問は意外だった。「須田さんの、若い頃のこととか、聞いてみたいなと思ったんです」
 水野は須田と同期だった。食事をしながら、水野は現場実習のときのことを回顧し、須田のスタンスと行動を語っていく。それは、「確かな証拠がない。このままだと冤罪になりかねない。そう主張しつづけるよ」と語る須田のエピソードだった。
 須田自身が警察を辞めようと思ったことがあると水野は言う。それを思いとどまらせたのは安積との出会いだったのだと。
 この短編、最後に須田が水野に質問する。そして、須田自らの推理を水野に語るというオチがついていておもしろい。

係長代理
 安積は所轄の係長を対象とした研修に出ることで1ヵ月不在となる。それを村雨に告げて、「俺は何も心配していない。おまえがいるからな」と言う。
 この短編は、安積不在中の村雨をリーダーとした安積班の活動を描く。班員は村雨を係長代理と呼んだのである。村雨はそれに抵抗気味となる。
 強盗容疑で被疑者の身柄が確保される。被疑者は木本庸介、23歳。職業はアルバイトで、荒れた少年時代に暴走族のメンバーだったことがある。彼が逮捕された根拠は、被害者が犯人の乗った車のナンバーを覚えていたことにある。
 村雨が木本の取り調べをするところから、逆に犯行の内容を突き詰めてくプロセスが描かれる。冤罪の発生する可能性ということがテーマになっている。
 「村雨は思った。安積係長ならどうするだろう」この思考がこの短編の落とし所になっている。さらに言えば、村雨が自然にそういう思考を取ったというところが読ませどころと言える。

家族
 東報新聞の山口記者が水野を呼び止めて、今度は速水に関連したことで安藤幸織のことを知っているかと質問することから始まる。水野が強行犯係に戻ると、青海ふ頭公園で男性が倒れているのが発見されたとの通報が入る。安積班は現場に出動した。
 強盗事件だったが、被害者にはいわくがありそうなところもあった。この捜査プロセスを描く。一方この事件の夕方に、安積は離婚したもと家族である妻と娘に会う約束があったのだ。安積がどういう行動を選択するかが、この捜査ストーリーに絡んでいく。
 速水は安積に積極的に協力する姿勢を取る。速水のスタンスは、「同じ臨海署の仲間だ。助け合うのは当然だろう」「仲間は仲間だ。」である。
 この事件の捜査経緯を通じて、水野は山口記者がなぜ安積班のメンバーに興味を抱くのかを理解するという、オチがつく。
 やはり、この安積班の雰囲気がこのシリーズに読者を惹きつけるのだ。

 安積班シリーズに惹きつけられる理由の一端を解き明かす短編集とも言える。

 ご一読ありがとうございます。

このブログを書き始めた以降に、徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
=== 今野 敏 作品 読後印象記一覧 === 更新6版 (83冊) 2019.10.18

=== 今野 敏 作品 読後印象記一覧 ===  更新6版 (83冊)

2019-10-18 20:37:16 | レビュー
2019.10.18 時点

「遊心逍遙記」として読後印象を掲載し始めた以降に読んだ印象記のリストです。

こんな作品を興味・関心の趣くままに読み継いできています。
このリストをご利用いただき、お読みいただけるとうれしいです。

更新5版のリストの上に、2019年10月15日までの読後印象記掲載分を追加しました。
出版年次の新旧は前後しています。

『炎天夢 東京湾臨海署安積班』  角川春樹事務所
『呪護』  角川書店
『キンモクセイ』  朝日新聞出版
『カットバック 警視庁FCⅡ』  毎日新聞出版社
『棲月 隠蔽捜査7』  新潮社
『回帰 警視庁強行犯係・樋口顕』 幻冬舎
『変幻』  講談社
『アンカー』  集英社
『継続捜査ゼミ』  講談社
『サーベル警視庁』  角川春樹事務所
『去就 隠蔽捜査6』  新潮社
『マル暴総監』 実業之日本社
『臥龍 横浜みなとみらい署暴対係』 徳間書店
『真贋』 双葉社
『防諜捜査』  文藝春秋
『海に消えた神々』  双葉文庫
『潮流 東京湾臨海署安積班』 角川春樹事務所
『豹変』 角川書店
『憑物 [祓師・鬼龍光一]』  中公文庫
『陰陽 [祓師・鬼龍光一]』  中公文庫
『鬼龍』  中公文庫
『マインド』 中央公論新社
『わが名はオズヌ』 小学館
『マル暴甘糟』 実業之日本社
『精鋭』 朝日新聞出版
『バトル・ダーク ボディーガード工藤兵悟3』 ハルキ文庫
『東京ベイエリア分署 硝子の殺人者』 ハルキ文庫
『波濤の牙 海上保安庁特殊救難隊』 ハルキ文庫
『チェイス・ゲーム ボディーガード工藤兵悟2』 ハルキ文庫
『襲撃』  徳間文庫
『アキハバラ』  中公文庫
『パラレル』  中公文庫
『軌跡』  角川文庫
『ペトロ』 中央公論新社
『自覚 隠蔽捜査 5.5』  新潮社
『捜査組曲 東京湾臨海署安曇班』  角川春樹事務所
『廉恥 警視庁強行犯係・樋口顕』  幻冬舎
『闇の争覇 歌舞伎町特別診療所』  徳間文庫
『熱波』  角川書店
『虎の尾 渋谷署強行犯係』  徳間書店
『曙光の街』  文藝春秋
『連写 TOKAGE3-特殊遊撃捜査隊』  朝日新聞社
『フェイク 疑惑』 講談社文庫
『スクープ』 集英社文庫
『切り札 -トランプ・フォース-』 中公文庫
『ナイトランナー ボディガード工藤兵悟1』 ハルキ文庫
『トランプ・フォース 戦場』 中公文庫
『心霊特捜』  双葉社
『エチュード』  中央公論新社
『ヘッドライン』 集英社
『獅子神の密命』 朝日文庫
『赤い密約』 徳間文庫
『内調特命班 徒手捜査』  徳間文庫
『龍の哭く街』  集英社文庫
『宰領 隠蔽捜査5』  新潮社
『密闘 渋谷署強行犯係』 徳間文庫
『最後の戦慄』  徳間文庫
『宿闘 渋谷署強行犯係』 徳間文庫
『クローズアップ』  集英社
『羲闘 渋谷署強行犯係』 徳間文庫
『内調特命班 邀撃捜査』 徳間文庫
『アクティブメジャーズ』 文藝春秋
『晩夏 東京湾臨海署安積班』 角川春樹事務所
『欠落』 講談社
『化合』 講談社
『逆風の街 横浜みなとみらい署暴力犯係』 徳間書店
『終極 潜入捜査』 実業之日本社
『最後の封印』 徳間文庫
『禁断 横浜みなとみらい署暴対係』  徳間書店
『陽炎 東京湾臨海暑安積班』  角川春樹事務所
『初陣 隠蔽捜査3.5』   新潮社
『ST警視庁科学特捜班 沖ノ島伝説殺人ファイル』 講談社NOVELS
『凍土の密約』   文芸春秋
『奏者水滸伝 北の最終決戦』  講談社文庫
『警視庁FC Film Commission』  毎日新聞社
『聖拳伝説1 覇王降臨』   朝日文庫
『聖拳伝説2 叛徒襲来』『聖拳伝説3 荒神激突』  朝日文庫
『防波堤 横浜みなとみらい署暴対係』  徳間書店
『秘拳水滸伝』(4部作)   角川春樹事務所
『隠蔽捜査4 転迷』    新潮社
『デッドエンド ボディーガード工藤兵悟』 角川春樹事務所
『確証』   双葉社
『臨界』   実業之日本社文庫

『炎天夢 東京湾臨海署安積班』 今野 敏  角川春樹事務所

2019-10-17 10:45:57 | レビュー
 安積班シリーズはこの作家の作品シリーズの中でも好きなものの一つである。この小説を読んでから、見過ごしていた作品があることに気づいた。後追いをする楽しみができた。
 さてこの小説、殺人事件そのものは結果的にそれほど複雑な展開となるものではない。何がおもしろいかというと、東京湾臨海署に捜査本部が立ち、主に本部詰めで事件に取り組む立場になる安積自身の思考と心理を描くという側面にウェイトが置かれている。その上でストーリーが展開していくところにある。捜査プロセスで捜査情報が集積されていき、捜査会議が重なる中での安積の観察眼と状況分析思考、安積の心中が揺れ動く様をクローズアップしていく。私はそのところが読ませどころと思う。そこに、事件に対する須田巡査部長の見方・発想が殺人事件の解明に重要な役割を担っていくところが一つの核になっていく。須田のちょっとした剽軽さのあるところの描写を私は好む。

 江東区の海上に死体が浮かんだという知らせが発端となる。死体が発見されたのは江東マリーナ、夢の島である。村雨たちが臨場し、他殺だと判断する。鑑識の判断では絞殺だという。須田は死体を見るなり、被害者はグラビアアイドルの立原彩花だと断言した。本名は島谷彩子、公称28歳である。須田はネット情報にかなり詳しい。安積には縁遠い世界であるという対比がまたおもしろい。

 その結果、東京湾臨海署に捜査本部が立つ。
 警視庁捜査一課からは佐治係長とその一班がまず出張ってくる。安積は佐治係長の強引な捜査のやり方には批判的である。勿論、正面切って反論するようなことはしないが、捜査にバイアスがかかることを懸念する。
 初動捜査で、被害者のサンダルがマリーナーに停留中の船の甲板で発見された。純白に塗られたプレジャーボートで、アブサラドール号と名付けられていた。持ち主は芸能界の実力者で、プロダクションサミットの社長柳井武春と判明する。柳井に逆らえば芸能界では生きていけないと言われていて、隠然たる力を持っているという。須田はインターネットでそのあたりのかなりの情報を知っていた。また、被害者と柳井とは愛人関係にあるという噂もネット上では公然と流れているという。
 安積が部下の水野に柳井を知っているかと尋ねると、1年前にサミット系列のプロダクションに所属するベテラン歌手で俳優でもある石黒雅雄が覚醒剤で捕まったときに知ったと言う。安積は水野と一緒に、プロダクションサミットの事務所を訪れ、柳井に事情聴取を行う。安積は直接接して、柳井にある印象を抱いた。

 捜査本部での捜査会議に捜査本部長である白河刑事部長が出席した。それも会議の最初に顔を出すだけでなくずっと会議に出席したのである。それ自体が異例なことと言える。さらに、柳井武春の名前が出るとそれに反応したのだ。「柳井さんが被疑者ってことはないだろうな?」という発言までしたのである。安積は刑事部長の態度に違和感をおぼえる。
 この捜査本部には、捜査1課の佐治係長の班ともう1班が担当となった。佐治係長はこの捜査本部に、現在は東京臨海署に所属する相楽が加わることを望んだ。捜査本部の規模は50人、捜査1課からの参加人数と同数の署員を動員するために、安積班に加えて強行犯第2係である通称相楽班も加わることになる。佐治のもと部下だった相楽が加わると、佐治は使いやすいと思っているようだった。一方、捜査本部の舵取りを実質的に行うのは池谷管理官である。
 
 なぜか捜査会議には毎回刑事部長が出席するという異常な状況が続いていく。
 捜査が進展していくと、様々な情報が集まり始める。島谷彩子が殺されたのはアブサラドール号上である状況証拠が積み重なっていく。マリーナーに入場できるのは3種類のメンバーズカードのいずれかの所持者だけであること。マリーナーのメンバーには石黒雅雄も名を連ねていること。芸能界の裏側で柳井社長は隠然たる影響力を持っているということ。柳井社長が売ろうと思えば、人気者に仕立てるのはたやすいと陰ではいわれていること。島谷彩子と柳井とは愛人関係という噂があること。柳井社長は元ヤクザで、いまもその繋がりはあるらしいこと。等々である。続々と周辺情報や事件当夜の確認情報が累積されていく。
 
 捜査会議の席上で刑事部長は柳井を被疑者ではないという立場を匂わせる。捜査1課の田端課長は状況証拠から柳井を被疑者と考える線が濃厚だとみる。
 池谷管理官を補佐する形で本部詰めとなる安積は白河部長の発言態度から、白河部長と柳井社長の何らかの関わりの有無を疑い始める。捜査方針を歪めかねない懸念をいだく。安積は相楽に相談を持ちかける。相楽がどう対応していくか。このストーリーの面白さの一端が相楽の行動にも出てくる。ちょっと楽しめるところでもある。

 そんな矢先に、安積は携帯電話に登録していない番号からの連絡を受ける。目黒署時代の5歳年上の先輩、海堀良一が会いたいという。安積がタレント殺人事件の捜査本部に居るということを知った上での電話だった。
 海堀は今、捜査1課の特命捜査対策室にいて、13年前の事件、ある芸能事務所の社長が変死した事件を継続捜査しているという。殺人及び死体遺棄事件の疑いが浮上してきたという。その事件に柳井社長が絡んでいるのではないかという。また、当時の所轄の署長は今の白河刑事部長だったとも付け加えた。海堀は、密かに機会を作って、柳井から話を聞きたいと言う。安積にその機会を作ってほしいということなのだ。
 捜査が進展し情報が集まり始める中で、客観的な分析をし捜査の筋を見極めようとする安積の思考と心理は揺れ動く。警察という組織の中での行動という制約をどのように捉え直し、どのように対処していくか。余計な忖度などを排し、客観的な捜査を推し進めるにはどうすべきか。足を引っ張られずに正統な行動をとるにはどうすべきか・・・・・。
 安積の抱く信念と自負。客観的で冷静な思考と判断を維持しようとする内心の葛藤。地道に捜査活動に邁進する部下への信頼。もたらされた情報への的確な対応とは何か。安積班の活躍が描かれて行く。相楽は今回、思わぬ脇役的サポーターとして要所要所で安積に協力する。

 この小説の面白さは次の点にあると思う。
1.捜査本部のトップの思いで捜査方針が歪められるのではないかという安積の懸念と心理の変転を描き出していく点。それは警察組織の上位下達体質の弱点を描くことでもある。かつての署で安積の同僚であり先輩の海堀の要望をストーリーに加えることで、一層警察組織内での安積の行動、処し方を複雑にしていくところがおもしろい。
2. 芸能界の内幕を牛耳るドン的存在の影響力を描いていること。いかにもありうそうな・・・・という感じ。それは一方で、噂という虚像がどのように一人歩きしていくかという側面を描き出すことになる。
3. 須田刑事の独特の発想と推理分析が遺憾無く発揮されるストーリーである点。そして、その須田に全幅の信頼をよせる安積との関係が描かれること。
4.今までの安積と相楽の二人の捜査プロセスでの対立とは一転し、相楽が安積に協力するという関係でストーリーが展開すること。相楽の協力発想の立ち位置が興味深い。

 殺人事件は昼間は炎天、夕方になっても全く涼しくならない時季に発生した。事件の起こった船はアブラサドール号でスペイン語の名称。焼け付くように熱いという意味があるという。事件は「炎天」を背景に進展した。その捜査の経緯は、警察組織内の一員、安積にとっては一種の「悪夢」的局面を終始はらんでいた。被害者の島谷彩子にとってもこれは殺人犯の「悪夢」に巻き込まれた結果とも言えるものだった。この小説のタイトルは、こんなところから「炎天夢」となったような気がする。このストーリーを読み通した記憶では、「炎天夢」というキーワードとしては出て来なかったと思う。

 ご一読ありがとうございます。

このブログを書き始めた以降に、徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『呪護』  角川書店
『キンモクセイ』  朝日新聞出版
『カットバック 警視庁FCⅡ』  毎日新聞出版社
『棲月 隠蔽捜査7』  新潮社
『回帰 警視庁強行犯係・樋口顕』 幻冬舎
『変幻』  講談社
『アンカー』  集英社
『継続捜査ゼミ』  講談社
『サーベル警視庁』  角川春樹事務所
『去就 隠蔽捜査6』  新潮社
『マル暴総監』 実業之日本社
『臥龍 横浜みなとみらい署暴対係』 徳間書店
『真贋』 双葉社
『防諜捜査』  文藝春秋
『海に消えた神々』  双葉文庫
『潮流 東京湾臨海署安積班』 角川春樹事務所
『豹変』 角川書店
『憑物 [祓師・鬼龍光一]』  中公文庫
『陰陽 [祓師・鬼龍光一]』  中公文庫
『鬼龍』  中公文庫
=== 今野 敏 作品 読後印象記一覧 ===   更新5版 (62冊)


『神を統べる者 覚醒ニルヴァーナ篇』  荒山 徹  中央公論新社

2019-10-14 10:48:05 | レビュー
 「覚醒ニルヴァーナ篇」は「第三部 揚州」での続きから始まり、「第4部 ナーランダ」、「第5部 タームラリプティ」へと展開する。

 「第3部 揚州」の続きは、拐かされた厩戸がある道観の蔵書室で昼夜も忘れて読書に没頭している場面から始まる。九叔は読書ばかりでは毒気が身体に溜まるばかりだと言い、導引を厩戸に教える。九叔は厩戸(ここでは八耳と名告っている)の霊性を引き出し、神仙になるべき逸材として期待していた。一方、倍達多法師は旧友月浄住持の伯林寺にて、僧が一丸となり読経して法力で、道教団の何処に厩戸がいるか見つけようとしていた。勿論、道教団も霊的防衛の手段を講じていた。道教側と仏教側の霊力対峙の状況が続く。物部商館と蘇我商館の人々もともに厩戸の探索をしている。
 伯林寺が道教団により襲撃される事態に発展する。一方、厩戸の居る道観では、厩戸が蔵書室で広という少年が居ることに気づく。厩戸が足がしびれたという広の手を握ろうとした瞬間、接触した指先から閃光が放たれるという異変が一瞬生じる。それが倍達多に通じ、彼は霊的回路が二筋あったと認識した。道観で厩戸が広と出会ったことが、状況を急変させていく。伯林寺側が遂に、厩戸と広の所在地を真玉山道観と把握し、現地へ奪還に向かう。
 この道教団と伯林寺側との奪還戦並びに厩戸と広の行動についてのオカルト的要素を含む描写は読ませどころとなっている。読み物としておもしろい。

 厩戸と広は救出される。広は密かに従者達と姿を消す。ここで一つ不可思議な現象が起こる。道観が炎上する中で九叔道士も焼死した。だが、九叔の太一つまり、九叔の根源的なものだけを残す得たというのだ。その太一が二分し、厩戸と広に寄生したという。これまたオカルト的である。これが二人にいずれどのように影響するのか。一つの伏線が敷かれることとなる。
 無事救出された厩戸は、インド商船に乗船してナーランダに向けて揚州を出発する。

 「第4部 ナーランダ」は、ウルヴァシー号での外洋航海中の状況から始まって行く。本書ではこの第4部がほぼ半ばのボリュームである。後の2分の1ずつが第3部(承前)と第5部として描写される。つまり、ナーランダでの厩戸の修行と体験が重要な基盤となっていくという展開である。
 このナーランダ行には、柚蔓と虎杖が護衛の剣士として随行する。そこに揚州から真壁速?(はやひ:物部宗家の九州担当連絡統括官)、筑紫物部灘刈(筑紫物部の御曹司)他2名が同行する。
 ここからは、点描風にいくつかのシーンを列挙しておこう。
*航海中に厩戸他はサンスクリット語を倍達多から学ぶ。厩戸は倍達多を師として仏法を学ぶことに明け暮れる。
*怪蛸ヌ・マーンダーリカが出現し、虎杖が大活躍する。
*法顕伝に記された耶婆提の港で一時下船するが、そこでトライローキャム教団のカウストゥパに厩戸が目を付けられる。
*ムレーサエール侯爵の招待を倍達多と厩戸が受ける。師は檀越を大切にせよという。
 この招待が色々な問題を引き起こすことにもなる。一方、侯爵は協力を申し出る。
*ナーランダ僧院に到着後、高僧シーラバドラが倍達多法師により厩戸の指導師となる。厩戸の仏典読破や瞑想修行などは急速に進展していく。それとともに、厩戸の問題意識も引き出されていく。
*ナーランダでの厩戸の修行が始まる。ここでは柚蔓と虎杖は護衛の任が不要となる。
 二人は帰国まで、それぞれの生き方を迫られる。二人がどのように異国の地で、かつ厩戸の近くで生き延びていくかがサブストーリーとして展開されていく。
 この二剣士それぞれの生き様、サブストーリーも読ませどころの一つになる。
*ナーランダで二度目の新年を迎え、11歳になる。ヴァルディタム・ダッタ(倍達多)が死を迎える。その1ヵ月後、師のシーラバドラと厩戸はブッダの足跡を巡る旅に出る。
 この旅が厩戸の修行にとって大きな転換点となっていく。このたびのプロセスを描写することがこの第4部の大きな山場である。勿論、読ませどころである。
 托鉢修行の中で、厩戸は戒律を破り、女犯をおかす結果となる。それは、シーラバドラが己の過去を想起する契機にもなる。厩戸の己との戦いの始まりである。
 つまり、釈迦が王城でのセックスを含めた日常生活を経て、出家し悟りを開いていく歩みとは真逆の厩戸の生き方が始まって行く。仏典を読み、知識を頭に満たした後に、肉体の成熟が始まる中での修行である。
*一旦ナーランダ僧院に戻った後、もはや僧院内で厩戸が学ぶことはないと判断する。
 ただ一人、托鉢修行に出立することをシーラバドラに願い出る。師は許可する。
 この許可は、シーラバドラにとっては、ある意味僧院で己を保つ意味での厄介者払いとなる。
*厩戸の宛のない托鉢修行が始まる。それは破天荒な方向に彼を導いていく。
 強盗団に攫われるという結果となり、それが厩戸を思わぬ境遇に投げ込んでいく。
 そして、最後は強盗団に売られてタームラプティの殷賑で猥雑な都市に舞い戻ることになる。なんと、売られた先が、ムレーサエール侯爵だった。

「第五部 タームラプティ」は、ナーランダ僧院とは隔絶した環境となる。不邪淫戒という概念の存在しない世界が始まるのだ。その中で厩戸は己の肉体を媒体として、独自の自己分析を開始する。釈迦が出家という道に歩み出した原因を究明しようと考える。
 それを実行する環境が、ある意味で奇想天外というのがこの第五部である。
 その内容は読んでのお楽しみというところ。
 
 そして、厩戸は、ブツダとはまったく逆の道筋をたどり、悟りを得たと確信する。
 侯爵はそれを聞き、最後は厩戸の弟子にしてくれと言う。厩戸は自分はもうインドに居る必要と意味が無くなったと語る。
 だが、そのすぐ後に、思わぬ状況が生み出されてくる。「・・・・厩戸は脾腹に痛みをおぼえ、意識が晦冥におちこんだ」でこの篇が終わる。
 えっ、どうなるの・・・・という余韻で、次篇につながるという次第。

 ご一読ありがとうございます。
 
著者の作品で以下の読後印象記を書いています。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『神を統べる者 厩戸御子倭国追放篇』  中央公論新社
『高麗秘帖 朝鮮出兵異聞』  祥伝社
『秘伝・日本史解読術』  新潮社


『神を統べる者 厩戸御子倭国追放篇』  荒山 徹  中央公論新社

2019-10-12 13:13:23 | レビュー
 不可思議なオカルト・ミックスの古代歴史冒険譚が始まった。副題にあるとおり、主人公となるのは厩戸御子である。目次の次の見開きページの右側には年表と天皇家系図が載っている。年表には「574年 厩戸御子誕生」、「622年 厩戸御子薨去」と記され、その下の天皇家系図には、第31代用明天皇の子として「厩戸皇子」と記されている。なぜか系図の中では皇子と記し、他は御子となっている。皇子=御子と受け止めれば終いのことかもしれないけれど、逆に気になる。
 それはさておき、見開きの右ページには、本篇に関連する地図が掲載されている。「厩戸御子倭国脱出関連図」である。本書の篇名とこの関連図名からおわかりになるだろう。これが古代歴史の点的史実を踏まえながらも、著者の想像力を羽ばたかせて、壮大なフィクションを創造していく始まりであると。
 主な登場人物の紹介ページで、「厩戸御子 尋常ならざる力を持つ少年。後の聖徳太子」と記されている。つまり、厩戸御子は厩戸皇子なのだが、歴史上に実在したとされる厩戸皇子-聖徳太子不在説もあるようだが-と識別するために、意識的に厩戸御子と表記して、一旦切り離してフィクションのストーリーを展開するということと理解すればよいのかもしれない。記録に残る史実とこのストーリーでのフィクションとを切り分けるための一方法とも言える。
 いずれにしても、この小説のタイトルは読者を引き寄せるのに魅力的である。

 さて、この小説がどのように展開していくのかわからない。そこで各篇ごとにその読後印象をご紹介したい。
 本書は三部構成になっている。「第一部 大和」、「第二部 筑紫」、「第三部 揚州」である。

 冒頭は、青の鳥居の鎮座する池端で、厩戸が金光明経を禍霊に対して唱えている場面に、布都姫が現れて祝詞を唱える。禍霊が退散すると、二人は少時言葉を交わす。そして、相互に関心を抱き始める。それは二人に共通する異能を認め合う切っ掛けとなった。そこへそれぞれの従者が現れてきて、互いの主人が無事だったことに安心する。彼らには、一瞬それぞれの主人が雲隠れしたかに見えて、探していたのだった。そんなシーンである。
 布都姫には女剣士柚蔓が護衛に付いていた。一方、厩戸には傅役の大淵蜷養と従者細螺田葛丸が護衛に付いていた。これら従者が現れたことにより、厩戸御子が池辺皇子家の皇子の次男であり、布都姫が大連物部守屋の娘であることが互いに分かることになる。この出会いが後にストーリーの展開へのトリガーになっていく。

 厩戸が血縁上、蘇我馬子に繋がる。蘇我馬子の父稲目は天皇から仏像を託され自邸で祀ることになった。仏の効験を明らかにするためという。馬子は父から継承し、崇仏派の筆頭である。厩戸の優れた資質を見抜き、己の所蔵する仏典を厩戸御子が学べる場を順次提供している。いずれ、崇仏派の旗印に厩戸を引っぱり出す肚である。
 一方、大連物部守屋は、日本古来の神々を敬い、排仏派の首魁である。蕃神である仏が我国に広まることを断固反対している。蘇我馬子と物部守屋は政治の場でも常に勢力的に対立する関係である。その物部守屋は排仏のためにも、仏教の弱点を知るために仏典を自邸に密かに幅広く収集して、その内容にもあるていど通じている(と設定されている)。
 つまり、崇仏派と排仏派が対立する狭間に厩戸が存在する。

 このストーリーの興味深いところは、厩戸の能力である。厩戸は3歳から漢籍に親しみ、読む先から諳んじていく能力を身につけている。このとき、厩戸は7歳で、馬子から提供された仏典はすべて読み諳んじているのである。一度目を通して読めば記憶に残り、頭の中で、仏典間の章句の関係性を引き出せるという尋常ならざる能力が備わっていた。7歳の厩戸御子は今は仏典を批判する立場というより、未読の仏典を読みたいという意欲がまさっている段階だった。また、仏典を読むのも、己が禍霊に遭遇し、怖い思いをしたくないということ、また、禍霊を見ることを人には語れないと隠している状態だったのだ。そんな時に、禍霊のことを知る布都姫と出会ったのだから、彼女の考えを知りたくなるのは自然。
 田葛丸の手助けを得て、物部守屋の邸に忍び入り、その気配を事前に感知した布都姫と話をする機会をもつ。それを契機に、厩戸は物部守屋と面談し、守屋所蔵の仏典を自由に渉猟し読んでも良いと許されるという方向に進む。守屋は厩戸がいずれ仏教の瑕疵、排仏すべき事項を発見することに賭ける思いと厩戸を己の方に取り込む意図があった。

 だが国内問題に留まらない事態が出現する。厩戸を抹殺せんとする一団が動き出したのである。現天皇渟中倉太珠敷天皇(敏達天皇)が厩戸について、伊勢神宮に斎宮として居る己の娘を介して天照大神の神意を問わせ神託を受けさせるという行動に出たのだ。神託の結果は「厩戸を逐降(かむやらいやら)え」という。そこで中臣大夫を使い、密かに厩戸を抹殺するという行動を選択する。天皇を護る中臣の存在が浮上する。
 このことが分かると、物部守屋は対立する蘇我馬子の邸に乗り込み、直接交渉をして、それぞれの持つ目論見から、厩戸を護るために急遽連合して、敏達天皇・中臣の企てを阻止する行動に出る。それは何か? 厩戸を大和(倭)国から追放するという名目で外国に逃すという戦略だった。この辺りから、フィクションの独壇場へと転換して行く。

 馬子と守屋は、厩戸の逃走に護衛として従者を付ける。厩戸の従者であった蜷養と田葛丸、そして剣士がさらに二人。守屋は布都姫の護衛であった柚蔓と称する女剣士、馬子は虎杖(いたどり)と称する剣士である。蜷養もまた剣の使い手であり、虎杖とはともに剣を極めようとする繋がりがあった。

 大和を脱して、船でまずは筑紫に向かおうとする。だがその過程で敏達天皇が放った不可思議な追っ手との闘争が海上で起こる。その結果、7歳の厩戸とっては、大きなショックとなる悲劇がまず発生する。この闘争はまさにオカルト場面である。読者にとってはおもしろい。
 第一部には、闘いの場面がけっこう破天荒でエンターテインメント性に富んでいる。

 「第二部 筑紫」では、厩戸は筑紫物部の館に潜み、倭国から安全な海外への脱出への待機となる。安全な海外とは敏達天皇の勢力が及びがたい揚州である。筑紫で厩戸御子は発熱し床に就く。口がきけなくなった。厩戸は大和へ、母の許に戻りたがる。
 筑紫においても、厩戸は中臣の発した暗殺団の襲撃をうけることになる。厩戸危うしということを念力で察知したのは倍達多法師だった。倍達多法師は百済国での布教を断念し、揚州に帰国しようとしたのだが、難破により倭国に漂着していた。揚州への帰国を願っていたのだ。
 危機を脱した厩戸は、倍達多法師を師として、揚州への外洋定期船に乗り込むことになる。厩戸御子の唯一の救いは、この倍達多法師との出会いである。

 「第三部 揚州」では、揚州の広陵という殷賑な港に上陸する。この上陸時点から、次の不穏な動きへの予兆が現れてくる。一つは、道教の道士である九叔師とその弟子正英が監視していた。正英は霊性のある人を識別する能力があった。九叔は倍達多法師に気づく。彼がヴァルディタム・ダッタということを思い出す。かつては九叔が論敵とした人物だった。そして、正英は厩戸御子に霊性を見出す。厩戸御子は彼らの標的となる。一方、下船した後、厩戸御子は広という少年に目を留めていた。
 この広陵で一行は物部商館に入るが、なんと通りを隔てて蘇我商館が真向かいに建っている。どこまでも蘇我と物部は対立関係にある。
 この揚州から天竺への船は倍達多法師が伝手があるという。
 だが、厩戸御子が物部商館の天蓋で覆われた寝台で寝ているときに、そこから拐かされるという事態が発生する。倍達多法師はその行方を追うことになる。
 また、厩戸御子が港で目にとどめた少年もまた、相前後して何者かに拐かされてしまっていた。

 この篇は厩戸御子が揚州に着くなり、道士に拐かされるまでの展開で終わる。つまり、この後、厩戸御子はどうなるのか、気をもませる場面で次篇に引きつがれる。

 世に知られた聖徳太子の幼少年時代を思わぬ方向に展開させていくところがおもしろい。フィクションといえど、納得性を得る為には、いずれ蘇我と物部間の対立が戦争レベルになり、聖徳太子は蘇我に味方し、仏教の公認に進むという方向の史実と整合させることだろう。それまでの展開がどのようにストーリー化されていくのか楽しみである。

 ご一読ありがとうございます。

本書からの波紋としての関心事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
蘇我氏  :「コトバンク」
蘇我氏  :「飛鳥の扉」
聖徳太子とは  :「四天王寺」
あの人の人生を知ろう~聖徳太子  :「文芸ジャンキー・パラダイス」
物部氏  :「コトバンク」
「物部氏論考」⇒ 『越中』に残る物部氏族 :「赤丸米のふるさとから 越中のささやき」
物部氏/石上氏  :「日本の苗字七千傑」
関裕二・物部氏の正体  :「松岡正剛の千夜千冊」
石上神宮 公式サイト
物部氏族の起源の地 高良大社 筑後平野説 :「神旅 仏旅 むすび旅」
筑紫物部、磐井  :「古代史俯瞰」
揚州市  :ウィキペディア

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。


(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


著者の作品で以下の読後印象記を書いています。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『高麗秘帖 朝鮮出兵異聞』  祥伝社
『秘伝・日本史解読術』  新潮社

『金剛の塔』  木下昌輝  徳間書店

2019-10-08 15:24:51 | レビュー
 本書は、大阪にある四天王寺の五重塔、特にその心柱をテーマにし、オムニバス形式で短編を綴った小説と言える。序章が「吾輩は聖徳太子である」と名告る一文から始まる。大阪の四天王寺で売っている木製のストラップ風お守りで、平たい木の表側に、聖徳太子の姿が刻印されているものが登場する。この聖徳太子が吾輩と名告っている。それと一緒に、スカイツリーのストラップが登場する。この2つは、高木悠の所持するスマートフォンにくくりつけられているものである。このお守りの聖徳太子とスカイツリーが対となり、このストーリーの黒子役を演じていく。
 高木悠は、「序章 技術を『盗む』」と「最終章 叡智を『育む』」に登場するだけである。高木悠は一級建築士の資格を持ち、大手ハウスメーカーの設計士だったが、仕事量が悠のキャパシティをオーバーする。過重労働からのストレスで、無断欠勤後辞表を郵送し、小さい頃に住んでいた大阪の四天王寺に行く。子供の頃に「崇史のおっちゃん、おれ、棟梁になる」と言ったときの夢を見たからだ。大阪の四天王寺境内を訪れ、コンクリート製の五重塔を見上げる。境内で偶然にも悠は年老いた崇史のおちゃんに邂逅する。
 悠が関東の中学に通っていた頃、四天王寺の魂剛組は経営不振で倒産した。だが、T建設が助けに入り、そのグループ会社として存続する形になり、木造の堂宮の建築だけを継続している。宮大工の職人たちは別法人を立ち上げ、8人の棟梁がそれぞれ組をひきい、魂剛組専属として仕事をしているという。崇史は瀬戸組をひきいる棟梁である。崇史に誘われて悠は松原の木工団地にある加工場を訪ねる。そして、崇史に尋ねられ、悠は瀬戸組で働く決心をする。宮大工の職人として弟子入りするのだ。

 序章は、高木悠が加工場で働き始めた時の話である。仕事は、箒とチリトリで加工場を掃除し、先輩の指示で道具をとりに走るというところから始まる。日本の伝統的な職人見習いの階梯である。そこで、序章は「技術を『盗む』」というテーマとなる。
 悠のスマートフォンに付けられていたストラップのお守りの聖徳太子がスカイツリーとともに、日本独自の五重塔の淵源へと時代を遡る旅に飛び出していく。様々な時代における「百萬合力の宝塔の完成」を見届けるという形でストーリーが展開していく。

 この本、目次の次に見開きで五重塔断面図がまず掲載されている。
 そして、ストラップの聖徳太子とスカイツリーが黒子となり、様々な時代に飛び、四天王寺の五重塔建立を見届ける旅が始まる。その結果、読者は五重塔がどのような構造になっているか、その細部について少しずつ理解できるようになる。中でも心柱とは何か、どのような役割を果たしているか、心柱の創造の根源に迫っていくことになる。それは、四天王寺の五重塔の建立、焼失・崩壊、再建立の繰り返しという変遷史の概略を知ることにもなる。
 各章がある時代における四天王寺の五重塔の建立過程の断面を切り取ったストーリーであり、一章完結型である。その時代を見届けると、聖徳太子はまた別の時代へとワープする。章順にこのストーリーの大凡をご紹介する。

 第1章 心柱を立てる
1.時代 安土桃山 織田信長による石山本願寺総攻撃~本能寺の変後4年
2.変遷 三代目の五重塔の建立途中で兵火に罹災し瓦解。さらに四代目の五重塔建立へ。
3.組織 魂剛組 正大工:不在 権大工:魂剛広目 
4.内容 魂剛組に弟子入りした四郎と24世を継承する予定の少年、魂剛家嫡男若竹が腕を競う場-四角い材を円柱に削る-に投げ込まれ、その結果若竹が出奔することから事態が展開する。天正4年(1576)に四天王寺が焼討ちされ、五重塔が瓦解してから10年後のストーリーが中心となる。魂剛広目は行方しれず、四郎が権大工となり、五重塔の再建に取り組む。北政所の命で、大和国の額田寺の五重塔を移築することとなる。だが、塔の老朽化から、心柱は新たに立てる必要が出てくる。四郎はそれを源左衛門と名乗る男に託す。
 四郎のこんな言葉が出てくる。「心柱自体では、五重塔を支えない。だからといって不要ではない。欠くべからざるものだ」(p67)。だが、五重塔再建にはもう一つ肝心なものが必要だった。
 心柱立柱の儀式の場面がクライマックスであり、読ませどころとなる。

 第2章 罪業を『償う』
1.時代 平安のはじめ 承和昌宝の刻印のある銅銭が鋳造された2年後の頃
2.変遷 承和3年(836)落雷で五重塔の心柱が損傷し取り壊し、五重塔の再建となる。
3.組織 魂剛組の頭:魂剛琵琶丸
4.内容 浜に漂着した流木を流民たちの住処の板壁材にするために、高真路は魂剛組に道具を借りにでかける。流木を板壁材に割る作業を魂剛琵琶丸に見張られることで、高真路の持つ木を割る目利きの能力を認められる。そして高真路は琵琶丸に木の購入の手伝いを頼まれる。その結果、高真路は魂剛組で番匠としての仕事を得るのだが、かつての悪業の仲間が出現してきて、高真路を窮地に追い込む。
 悪の所業に加担した過去をもつ高真路が、琵琶丸から手渡された南無阿弥陀仏の文字に罪業を償う道を見出すストーリーである。

 第3章 屋根で『泣く』
1.時代 江戸の終わり 文化年間
2.変遷 享和元年(1801)12月15日に落雷により五重塔焼失。12年後の塔再建途次。
3.組織 魂剛組第34世正大工 魂剛伝右衛門、権大工 魂剛太平治
4.内容 淡路屋太郎兵衛という謎の商人が勧進元となるや資金が続々と集り、四天王寺再建の手始めとして五重塔再建が着手された。数え年16歳の正大工伝右衛門は、悪友に誘われて遊び呆けている。権大工の太平治は怒り気味となる。伝右衛門には12,3歳の弟数之輔がいる。伝右衛門のすぐ下の弟で、病弱だが算学に優れている。兄弟仲はすごく良い。
 ある日、悪友の発案で伝右衛門は悪友と一緒に紙屑屋の集めた紙屑類から、絵師が紙屑屋に払い下げた紙屑を見つけそこから絵を盗むという行為に加担する。それが切っ掛けとなり一騒動が巻き起こっていく。それは紙屑屋から盗んだ絵が原因だった。
 伝右衛門が悪業を繰り返すのはなぜか。その解明プロセスが読ませどころとなっていく。伝右衛門には己の行動に秘めた意図があった。
この短編、伝右衛門の行動と心の謎解き並びに淡路屋太郎兵衛という人物の謎解きがおもしろい。そして、”「くずやぁ、かみくずぅ、紙屑屋ぁ」大八車を引きつつ、伝右衛門は高らかに声をあげていた。”という落ちがついていて、ほっとする。

 第4章 心柱を『継ぐ』
1.時代 平安の半ば
2.変遷 10年ほど前の大火災で四天王寺焼亡。1本目の心柱と三重目までの屋根ができた段階。
3.組織 魂剛組 魂剛五良
4.内容 「吾輩は猫である。」という一文から始まる。猫が活躍し五良を助けたことで、2本目の心柱が貝の口の継ぎ手により完全に接合されるに至るというストーリー。当時の四天王寺は施薬院・療病院・悲田院・敬田院という4つの広大な寺域をもち、それぞれの寺域に棟梁が割り振られて、四天王寺の堂宇の再建を手がけていた。魂剛五良は五重塔を含むメインの寺域である敬田院を担当する棟梁であり、五重塔再建を進めていた。
 五重塔再建途中で様々な凶事・忌みすべき事が起きる。そんな悪事の再発の中で、五重塔再建中止という事態になりかねない窮地に展開する。それを助けたのが猫アレルギーの五良が嫌う猫というのがおもしろい。そしてそれらの悪事を働く主犯者が誰だったかという意外性が加わる。
 猫はもともと日本には存在せず、経典の将来とともに、日本に渡来したということをこの短編で知った。猫は鼠から経典を守る守護戦士というわけである。

 第5章 何度も『甦る』
1.時代 江戸のはじめ
2.変遷 慶長20年(1615)、大坂夏の陣の戦火で四天王寺は全焼した。その3年後の話。
二代将軍徳川秀忠の命令で、四天王寺の復興が決まった。
3.組織 魂剛組 25世正大工魂剛伝右衛門、権大工魂剛四郎
4.内容 伝右衛門が五重塔の作事を行い、権大工の四郎が金堂を受け持つ。伝右衛門は四郎の娘・お七と10日後には祝言をあげて夫婦になる予定だった。伝右衛門は祝言の日にも左義長柱のおさまり具合を再確認することに没頭していた。祝言から5年後、いよいよ五重塔作事の最終段階に来ていた。そこで夏の陣の落ち武者が凶事をもたらすことになる。その顛末がこの短編の読ませどころと言える。
 この短編で、心柱は3本の柱が貝の口継ぎ手の技法でピタリと一本の柱であった如くに仕上がることがわかる。そして、左義長柱の重要性も。
 
 第6章 姿形が『変わる』
1.時代 聖徳太子の御代
2.変遷 日本に初めての五重塔が創造されるステージ
3.組織 朝鮮百済国から渡来した造寺工3人:金剛、早水、永路
4.内容 この短編集成の中では、この章が一番濃密とも言える。なぜ、心柱というものを考案し、日本独自の五重塔が創造されたかがテーマになっている。五重塔の美しさというテーマでもある。そこにさらに仏教の変容というテーマと厩戸皇子の存在というテーマが併存する。3つのテーマが絡まり合いこの短編が生み出されている。この小説の中では、圧巻の短編である。
 仏教の変容を当初拒否する金剛とその金剛に語りかける老僧恵便及び前信尼との対話が仏教の変容を俎上にのせるプロセスとなっている。重いテーマだがわかりやすい語り口である。厩戸皇子について著者は独自の仮説を立てている。良く知られた言辞の場面で一瞬違和感を感じたが、その違和感がこんな展開となるのかと思う組み込み方となっていて、実に興味深い。

 最終章 叡智を『育む』
1.時代 現代
2.変遷 現在の五重塔(コンクリート製)
3.組織 丸の内地所の設計部
4.内容 「知られざる日本遺産の活躍」というセミナーが丸の内地所本社ビル8階の大会議室で開かれる。設計部の一番後輩である松本華奈が説明会での説明役に選ばれてしまった。彼女がこのセミナーで講演し質疑応答をうけるというストーリーが展開する。その会場には、高木悠の親友である坂田大規が出席している。大規は華奈と一緒に法隆寺や四天王寺をこの説明会のために旅行していた。
 説明会では、五重塔の心柱が話題となっていく。それが奇しくもスカイツリーとの共通点を結果的に有するという。
 各章を読んでくると、この最後のセミナーの内容は非常に興味深いものである。スカイツリーができた当時、報道で少し読んだ記憶がある共通点について、少し掘り下げて学ぶことになろうとは思ってもみなかった。
 このストーリーの落とし所がおもしろい。

 ご一読ありがとうございます。

本書に関連して、関心を広げて検索したものを一覧にしておきたい。
和宗総本山 四天王寺 ホームページ
四天王寺  :ウィキペディア
東京スカイツリー  ホームページ
  コンセプト 
  設計構造
東京スカイツリー  :ウィキペディア
五重塔  :ウィキペディア
五重塔  :「法隆寺」
京都の誇る4つの五重の塔  :「Open Matome」
五重塔は耐震設計の教科書  :「プラント地震防災アソシエイツ」
1300年前の技術が支える東京スカイツリー :「キッズ・ウェブ・ジャパン」
File54 五重塔 :「NHK 美の壺」
何故、五重塔は倒壊しなかったのか culture :「濃尾・各務原地名・文化研究会」

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
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『KID キッド』  相場英雄  幻冬舎

2019-10-01 22:28:04 | レビュー
 KID(キッド)とは、このストーリーの主人公城戸護のことである。城戸は元自衛官。ある理由で除隊し、傭兵稼業に転じた際に上官が<KIDO>という名札をみて、<KID>と呼び始めた。ニックネームはここに由来する。その後城戸は傭兵稼業を辞めて、香港に定住し中古カメラ店を営みながら、香港の写真を撮るという生活に転じた。だが、傭兵時代の仲間からの紹介というごく限られたケースで、ボディーガードという裏の仕事を引き受けている。このストーリーは裏の仕事を引き受けたことから起こる事件である。

 プロローグは、北緯24度、東経125度に位置する細長い島での戦闘シーンから始まる。不審船の接近で、急遽出動命令が出された。揚陸と制圧作戦に長け、特別な訓練を受けた兵士たち12名が上陸してきて、戦闘状態になった。偵察にでた自衛隊員2名、スパローとターンが眉間を撃ち抜かれて死亡した。隊長のファルコンは速やかな防衛出動を要請した。「このままだと敵に西日本全域の制空権を奪われます!」と叫ぶ。
 プロローグはこの異様な状況から始まる。この戦闘シーンがどう展開するのか、と思いきや舞台は香港に飛ぶ。屋台で食事をしている城戸にアグネスから手渡しメモのメッセージがホイという少年により届けられたのだ。城戸がボディーガードの裏仕事を引き受ける始まりとなって行く。

 城戸は、工作機械部品を専門に扱う中堅商社の専務だという王作民にボディーガードを依頼される。王は中国人だが、上海の大学を出たあと、イギリスの名門大学で経営学を学んだと言う。50歳前後で、目を閉じて会話をすればイギリス人に間違えるかもしれないと城戸は感じた。城戸の元上司アレックスの紹介だった。王は、2週間後に日本へ3日間ほど行き、福岡で開催される精密工作機械の見本市に立ち寄る予定だと言う。その期間のボディーガードの依頼だった。
 なぜ? と感じる城戸に王は言う。王の会社の社長が上海とその周辺地域の黒社会の浄化撲滅運動に協力したことにより、黒社会の筋の人間に恨みを買っている。上海では安全だが、海外では脅されたり乱暴を受けることにつながるかも知れないからだと言う。理由を聞いた城戸はこのボディーガードを引き受ける。そして、ストーリーは日本国内が舞台となっていく。

 福岡国際空港に到着した後、王に突撃インタビュー取材として週刊誌の女性記者大畑が飛び出してくる。城戸は難なくそれを制したが、雲行きが徐々に妖しくなっていく。空港で王が諜報関係者に監視されていることと、刑事風の男たちが居ることに城戸は気づいていた。
 国際見本市を訪れた後、王は東証一部上場の精密機械メーカーの幹部と西中州の高級割烹の個室での食事の席につく。そしてこの店を王が出ようとする時点から、話は急速に思わぬ方向に転じていく。まず、週刊新時代と名乗り、大畑記者が突撃取材を再度試みてくる。カメラマンの清家は城戸という名前を知っていた。そこに、警視庁捜査一課の刑事が出現し、王に任意同行を求めて来たのだ。城戸は王が任意同行に応じる気はないと阻止する。勿論、城戸は刑事に公務執行妨害を言わせない対応をする。一方、警視庁公安部外事二課は終始監視活動を続けている。この辺りの描写がまずおもしろい。城戸が捜査一課の刑事を巧みに排除すると、今度は公安捜査員が銃を構えて、王を保護しろとの命令を受けたと近づいてくる。城戸は中国領事館にスマホをタップして電話をした。すると、王が予想外の行動に出る。指輪に隠し持っていた薬物を飲み込むという挙に出たのだ。
 王は病院に緊急入院させられる。命は取り留めた。だが、後にその病室に城戸が忍び込んで王と会話を試みる。王は城戸の掌に指先で「BAIT」と綴った。その直後、もう一人の侵入者が現れた。何と秘書の陳だった。彼は王を射殺し己も銃で自死する。凄惨な病室に一転する。

 城戸は王のボディーガードを引き受け、そのクライアントが射殺されてしまう羽目になった。なぜか、だれがどう関係しているのか? その真相を究明しなければ、城戸のボディーガードとしての信用は地に堕ちてしまう。王が殺された原因は何か? 城戸はおのれの存在をかけてその真相究明の行動に乗りだす。このストーリー、そのプロセスで城戸自身が王とは直接関係のない事象の繋がりから命を狙われるという問題が絡んでいく。この絡ませ方が実に巧みである。

 このストーリーの構想の複雑で面白いところは、殺された王が影の主人公的な位置づけになっていることである。王を軸に様々な事態が展開していく。
 週刊新時代の大畑記者は、中国と太いパイプを持つという機械専門商社の営業マン、栗澤幸一という情報源を持ち、北朝鮮絡みのネタを入手してスクープを取っている。その栗澤が、王作民が福岡で開催される見本市に来日すること、そして彼には北朝鮮と連携する中国共産党の別働隊だという噂があることというネタを大畑に告げたのだ。大畑はカメラマンの清家と組んで、王作民へのインタビューを試みようとする。そこから、大畑はストーリーに深く絡んでいく。取材の途中で清家は過去の取材で自衛隊時代の城戸のことを思い出す。
 警視庁捜査一課は、東京都内の第二地方銀行・暁銀行錦糸町支店の副支店長が路地裏で刺殺された事件が発生し、それを捜査していた。副支店長は怪しい口座を洗い出していて、本店と金融庁に報告しようとしていた直前に殺された。怪しい口座の一つに王の関連口座があったことが判明した。捜査一課はこの件に絡んで王の任意同行を求め、究明しようとする。実行犯とみられる被疑者と王の関係、王の関与を調べようとしていた。
 警視庁公安部は、王が北朝鮮への国連決議違反を疑われている中国商社の幹部であり、そのバックには中国政府が控えているものと想定していた。外事二課が王をマークしている。王が接触する人物を探ることで、さらに広範で詳細な情報を入手しようとしていたのだ。王を監視する指揮官は公安総務課長の補佐役・志水達也である。その志水を補佐する部下は樽見浩一郎警部補。志水と樽見は、監視カメラを含めた電子機器と巨大な規模の監視システム、および監視スタッフを総動員して、東京で情報収集・分析を行い、現地に指示を発していく。
 だが、そこに総括審議官の高村泰警視監が横槍を入れてくる。彼は近い将来警察庁長官か警視総監就任が確実視されている人物。長期間総理官邸で阪義家官房長官秘書官を務めた経験があり、政治家とも緊密なのだ。高村は、福岡で入国した王を行確し、結果次第で王の身柄を取ることを捜査一課で進めているので、外事二課は一切手出し無用と高飛車に告げて来た。刑事畑を歩み、公安の経歴を持たない総括審議官なのだ。
 刑事部と公安部は水と油の関係でもある。志水は高村の介入に不審を抱き、高村の身辺を調査することをも指示する。なぜ副支店長殺害事件にこれほど関心を示しているのかに疑問を抱いたのである。

 新聞記者、刑事警察と公安警察という三つ巴のストーリーが織り交ぜられ展開していく。この絡み合い自体がまずおもしろい。

 さらに、志水を筆頭とする公安部の調査で、城戸の素性が徐々に明らかにされていくという興味深さが加わる。それがストーリーの進展と呼応する。

 その城戸は王が殺害された病室に居たことから、刑事に追われる身となる。一方、監視システムを駆使し、データ情報を分析する公安は、王殺害に城戸は関与していないと分析した上で、城戸から情報収集をするべく、城戸を第一の監視対象に切り替えていく。興味深いのは、公安部が駆使する巨大規模の監視システム・監視網の状況が描き出されていくプロセスである。フィクションだが、<Dragnet>という日本中の通信情報を捕捉するシステムを登場させてくる。現実の公安警察の監視体制をシュミレーションしているものと考えると、電子監視システム社会の実態が浮き彫りにされているとみることもできる。今や個人情報を建前として云々する背後で、データ収集・集積でいつでも個人を丸裸にする状況にきているのか・・・・という怖さが伝わってくる。
 城戸が己の身を隠しながら、真相解明に立ち向かうためにどういう防御策をとっていくかが、これまたおもしろい。そのやり方には一切触れずにおこう。巨大監視情報網を如何にかいくぐっていくか。そこにある意味で読者は痛快さすら感じることだろう。

 城戸は大畑記者と組むという選択肢をとることになっていく。カメラマンの清家がそのサポート役という役回りになって活躍する。
 城戸はまた、幼馴染みとコンタクトをとり、その協力を有効に己の武器としていく。
 城戸と関わりのある人間との関係が城戸を知る上での読ませどころとなる。

 城戸の真相究明行動は、城戸が自衛隊を除隊する直前の上官で今は退役した人物と面談して話を聞きたいという方向へと進展していく。だが面談を試みる直前にその上司が射殺されるという意外な展開となる。城戸の元上官を殺害したのは、城戸自身を殺すということを己の目的にしている男でもあった。城戸の行動は現役の政治家を問い詰めるという方向に向かう。

 王が城戸の掌に指で書いたBAITという4文字の意味が最後に明らかになる。それは意外な結論でもある。この落とし所がまたおもしろい。

 一気に読ませるおもしろい作品に仕上がっている。この最後の終わり方から推測すると、このKIDの第二弾がいずれ書かれるだろう。未解決にとどまる局面が城戸の前に現れて、残ったのだから。楽しみに待とう。

 ご一読ありがとうございます。


こちらもご覧いただけるとうれしいです。
『震える牛』 小学館