遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『検証捜査』 堂場瞬一  集英社文庫

2016-06-29 10:04:24 | レビュー
 本書は集英社文庫のための書き下ろし作品である。警察庁により全国各地から寄せ集められた少人数の警察官がチームを組み、警察庁・刑事企画課の理事官の指揮の下で、ある刑事事件の捜査プロセスについてその適切性を検証捜査する。その捜査プロセスを描くというのがこの小説のテーマである。いわゆる冤罪事件の解明を描くというもの。

 伊豆大島の大島署に左遷された神谷悟郎警部補が、突然本庁の刑事部長から電話で呼び出される。特命事項として直ちに神奈川県警に出頭せよとの命令を受ける。現地では警察庁・刑事企画課の永井理事官の指揮下に入れという。理由を全く知らされないままで神谷は横浜に急ぐ。刑事部長からは、この特命案件でうまく結果を出せば、左遷処分が解除される可能性を匂わされる。
 神奈川県警本部前にやっと辿り着くと、永井理事官が待ち受けていた。連れて行かれたのは県警本部内ではなく、横浜の中心であるがなぜか古びた雑居ビルの一室だった。
 
 1名を除き特命を受けたメンバーは既に揃っていた。神谷が遅れてきた最後の人間だった。最初から、雰囲気が悪い。
 一応メンバーが揃ったところで、永井理事官が目的を参集者に告げる。3年前に発生した戸塚事件に対し高裁で無罪判決が出る見通しがあり、事件が振り出しに戻るという。そこでこの事件の捜査プロセスを検証捜査して、捜査が適切だったかどうかの証拠を集め報告するというのが使命なのだと。そのために警察庁にこの特命チームが編成されたという。「期限はひとまず、一か月。その間は、一時的に警察庁へ出向という人事的措置ががとられます」という説明である。

 戸塚事件は、女性3人が連続して乱暴され、殺された事件で、被害者は横浜市戸塚区の狭い範囲に集中していたという特異なものだった。一審は裁判員裁判となり、死刑判決がだされたが、被告が公訴していたのである。高裁では、弁護側が証拠の不備を突いて、徹底して攻撃をしてきた結果、無罪判決が出ると予測される。世間の目が厳しくなってきている時代でもあり、警察庁はこの事件を検証捜査することに決めたという。
 神谷はその類いは監察官室が取り扱う範疇ではないのかと反論したのだが、身内だと往々にして調べが甘くなるので、今回は神奈川県警以外の警察官でチームを作って検証捜査をするのだという。神谷は警察庁がどこまで本気なのかと問うが、永井は自分が決めたことではないから分からないと答える。検証捜査班の活動は不明瞭な形で始まって行く。つまり、これは前例のない新しい試みである。
 神谷にとってはなぜ左遷されている自分が特命を受けたのかに始まり、東京都ではなく神奈川県警の問題に関わることに、釈然としない思いを抱くのである。この検証捜査の真の目的は何なのか? この捜査の究極の行く末は? 神谷には様々な問いか胸中に沸き起こる。

 捜査を行う前に、それに携わるメンバー間で互いの気心が分からないとチームとして動けないと、神谷は思うが、集まったメンバーで互いに知り合うという手順もなく検証捜査班がスタートしていく。神谷はまずチームとなるメンバーの考えや人物を知ろうとするが、それ自体が一苦労という次第。永井理事官自体が、上から降りてきた命令を黙って受け止めて動く中間管理職の典型のような形で、必要なことしか話さない。この辺りからまず、おもしろい設定である。神谷はこの検証捜査が警察庁の一種のアリバイ作りではないかとも憶測する。
 
 どんなメンバーが各地域から選抜されてこの特命チームに加わったのか?
 最小限のプロフィールを紹介しておく。これすら、徐々に分かっていくという成り行きなのだが。
 永井理事官:警察庁・刑事企画課所属。キャリア。自信無さそうな物腰。
 皆川慶一朗:福岡県警捜査一課刑事、32歳。大学は関東。箱根駅伝をしていたという。       神谷の質問に「体力要員」だろうと自虐気味の返事をする。
 桜内省吾 :埼玉県警捜査一課。ごつい中年男。
 保井凜(やすいりん):北海道警刑事企画課。女性刑事。神谷を寄せ付けない態度。
       性的犯罪被害は自分の専門分野なので選抜されたと解釈している。
 島村:大阪府警・監察官。職務柄、県警刑事の事情聴取を中心に担う役割となる。
       神谷の一見では「デブのオッサン」。
 このメンバーに神谷が加わるのである。

 基本的にストーリーは神谷警部補の目を通し、彼の行動と状況分析を主軸としながら展開していく。そのため、神谷と組む相棒の刑事との関わりが中心になる。そこに検証捜査班の人間関係と捜査の全体進捗状況が織り交ぜられていく。
 勿論、この検証捜査が実施されることは神奈川県警に通告されている。高裁の判決は無罪と出る。ここから検証捜査班の活動が本格化していく。もちろん、「一種のアリバイ作り」ではと疑う神谷は、捜査自体になかなかエンジンがかからない。警視庁で加わっていたある事件の捜査活動を背景にして、神谷が捜査から外され、左遷されたという事実があるために、自分が警視庁から選抜されたということに一種のこだわり、裏に何かあるのではという思いが重なるからである。
 左遷されたという原因が何なのかが、読者にも知らされない。左遷の背景事実を前提に思考する神谷の思いと行動を読者は読み進めることになる。そこに読者を引きこんでいく契機のひとつがある。事件の謎と神谷の左遷の謎が重奏しながら、ストーリーが展開される。チームのメンバーも左遷という表層的な事実は知っているが、その原因までは知らない。神奈川県警の刑事も同様なのだ。
 さらに保井凜という女性刑事の立ち位置である。神谷のスタンスや行動を毛嫌いする感じすら示す。自分自身については一切語ろうとせず、特命班での与えられた課題をシビアに効率よく進めることに専念している。だが、そこに神谷はすこし異質なものを感じるのである。何が保井凜を突き動かしているのか? ここにもまたベールがかかった状態で、捜査活動が進展する。そこに第二の読者を引きこむ要素が含まれる。ぶつかり合う二人の関係がどういう進展を捜査プロセスでみせるのか? それはこの検証捜査自体とどう関わっているのか? 捜査が進むにつれ、二人の立ち位置に微妙な変化が加わり、二人の背景がこの捜査の解明に重要な作用を及ぼしていく。
 また、神谷がこの検証捜査班に加わるために横浜に入った当日に、神奈川県警の刑事らしき男に尾行されるという事態すら発生するから、おもしろい。神奈川県警と検証捜査班は、冒頭から対立関係にあることのシンボルだから。警察組織内の攻防戦である。

 高裁は無罪判決を下す。桜内と皆川の傍聴感想では、一審の事実がほとんどひっくり返された。捜査方法に重大な瑕疵があると指摘。犯罪行為は立証できないと認定された。被告の柳原が事実否認を始めたのは、一審の途中からだったのである。初公判では容疑を認めていたのだ。一審ではそれが裁判員の心証を悪くしたのだろうと桜井は読む。
 「無実だというなら、最初から否認すればいい、と考えるのは自然である。その背後には、警察は無茶をしないという先入観がある。ちゃんと調べて、本人の自供も得ているのだから間違いない。公判の途中で証言をひっくり返すのは、判決が近づいてきて、何とか実刑を逃れようと足掻いているだけだ、と思ってしまう」(p130-131)
また、この日検証捜査班の拠点の部屋で、神奈川県警の現・捜査一課長と管理官の二人に行われた事情聴取の感想として、桜内は、捜査の進め方に「予めシナリオがあった」と感じ取ったと神谷に告げる。神谷は「シナリオも書きたくなるだろうな。こういう事件は、早く解決しないと、プレッシャーが高まる一方だから」と一旦は応じるのだった。

 検証捜査班としては、島村監察官が主に神奈川県警の事件関係者への事情聴取を担当。桜内、皆川、保井、神谷の4人が2人1組となりながら、事件の被害者並びに事件に巻き込まれた人々を対象に仕切り直しの事情聴取と事件記録の検証を始める。尚、神谷にはチームの中ではベテランの部類に入るので、島村と組んで神奈川県警の刑事たちを調べる機会も増えていく。
 一方で、石井弁護士との面談ならびに、石井を介して無罪となった柳原に面談して、被疑者として警察で受けた取り調べの状況について事情聴取することも実施される。それを神谷・皆川が担当していく。柳原に面談し事情聴取した二人は、共に柳原を気持ちの悪い男と感じたのだ。しかし、この戸塚事件に関しては柳原が犯人ではないと神谷は断言する。

 戸塚事件の全貌を一から把握し直し、裁判記録・事件調書記録などとの比較検証をする形で捜査が進められていく。チームとして総合的に検証していくプロセスになる。
 結果的にこの検証捜査プロセスでは、主に、神谷は保井を相棒として行動していく機会が増える。それは二人がそれぞれ己の内に抱える影の部分を明らかにしていく機会にもなっていく。この検証捜査との関わりがそうさせるのだから・・・・。

 被害者及び其の周辺の関係者への事情聴取は、戸塚事件の捜査調書には記録されていない事実を浮彫にしていく。さらに証言者の記憶の曖昧さから刑事の誘導にかかった証言になっていると推定できる記録箇所も分かってくる。漠然とながら、犯人像の見直しを迫られる方向に歩み始める。
 そんな最中にタレコミが入る。神谷がその人物と接触する。タレコミしてきた男は神奈川県警に関係する男だった。検証捜査が急速に進展し始める。捜査は、戸塚事件が発生した折に捜査に携わり、現在は定年退職した元刑事への事情聴取まで、広がって行く。更には、神奈川県警に留まらず、警視庁まで波紋が広がっていく。

 二重三重に複雑な構造になっている。おもしろい構想の小説だ。一気に読み進める結果になった。
 *自ら左遷と言う神谷を警視庁の誰が検証捜査班に選抜する働きかけをしたのか?
  その真意は何か?
 *この検証捜査は、警察庁の冤罪捜査に対するアリバイ作りなのか?
  検証捜査の真の狙いはどこにあるのか? だれが異例な形の捜査を発想したのか?
 *神奈川県警と検証捜査班との間にどういう対立関係が進展するのか?
 *予めの捜査シナリオが書かれていたとするなら、それは誰が書いたのか?
 *無視された事実は何か? 
  無視された事実があるならどこまで犯人像を明らかにすることにつながるのか?
 *戸塚事件が発生した地域限定の様相に何か大きな意味が隠されているのか?
  その地域に集中することで犯人にとってなにか利点があったのか?
 *柳原はやはり犯人ではあり得ないのか?
 *少なくとも神谷と保井の過去に何があったのか? それがこの捜査にどう関わる?
 *永井理事官は指揮者としてどういう行動を取っていくのか?

 様々な疑問が、巧妙な伏線のもとに、捜査プロセスの進展過程で徐々に解かれていく。そして、それらが織り交ぜられて、真犯人へのアプローチは意外な展開になっていく。
 こんな犯人像は警察物の小説というフィクションの世界だけのお話、エンターテインメントにしてほしい。
 紆余曲折、右に左に振り回されながら読む。興味津々・・・・。あとは読み始めるだけである。

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本書の関連で、関心事項をネット検索してみた。背景情報として一覧にしておきたい。
警察庁  ホームページ
警視庁  ホームページ
  犯罪情報マップ 
神奈川県警察  ホームページ
  犯罪統計資料
警察庁刑事局  :ウィキペディア
警察組織の階級
警察組織・機構図
警察人事異動ノート トップページ
警察機構に設置されている監察官の仕事内容  :「キャリアパーク!」
監察官に日本の良心を見た  :「警察おもしろ雑学辞典」
警察本部監察室への手続きを教えてください。  :「教えて!goo」
再審 刑事手続ガイド  :「アトム法律事務所大阪支部」
誤認逮捕や冤罪はどう起きるのか 2014.5.7 日刊大衆  :「livedoor NEWS」
いま、闘われている冤罪事件  :「甲山のとなりに」


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徒然に読んできた作品の読後印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。

『七つの証言 刑事・鳴沢了外伝』  中公文庫
『久遠 刑事・鳴沢了』 上・下 中公文庫
『疑装 刑事・鳴沢了』  中公文庫
『被匿 刑事・鳴沢了』   中公文庫
『血烙 刑事・鳴沢了』  中公文庫
『讐雨 刑事・鳴沢了』  中公文庫
『帰郷 刑事・鳴沢了』  中公文庫
『孤狼 刑事・鳴沢了』  中公文庫
『熱欲 刑事・鳴沢了』  中公文庫
『破弾 刑事・鳴沢了』  中公文庫
『雪虫 刑事・鳴沢了』  中公文庫

『辛夷の花』  葉室 麟   徳間書店

2016-06-26 14:44:07 | レビュー
 表紙のカバーには白い花を咲かせた枝とその白い花を見つめる美女が描かれている。その白い花が「コブシ」の花である。恥ずかしながら、表紙の文字にルビがふられていなければ、この漢字を読めなかった。
 手許の『山契ポケット図鑑1 春の花』(山と渓谷社)を調べて見ると、辛夷はモクレン科の山野に自生する落葉高木で、3~4月に芳香のある白い花を咲かせ、花は直径6~10cmで6個の花弁、花のすぐ下に葉が1個つくのが特徴だという。木は高さ15mほどになるそうだ。北海道から九州まで分布する花だとか。
 辛夷の花言葉は、「友情、友愛、歓迎、自然の愛」と「花言葉ラボ」というサイトに出ていた。「自然の愛」という花言葉が本書の設定に繋がっていく気がする。

 表紙に描かれている美女は、九州豊前、小竹(こたけ)藩六万石の勘定奉行で300石の澤井家の長女・志桜里(しおり)である。彼女は近習200石の船曳栄之進に嫁いでいたが、船曳家から「嫁して3年、子なきは去るが昔よりのしきたりであろう」を理由に離縁となって、実家に戻っている。この志桜里が主な登場人物の一人である。
 志桜里が手に浅黄紐を握っている。この浅黄紐は刀の鍔と栗形を固く結んでいた紐なのだ。誰の刀かというと、志桜里が実家に戻ってきた翌年の正月に澤井家の隣家に引っ越してきた武士・木暮半五郎のものなのだ。刀を浅黄紐で結んでいれば、いざという時即座に刀を抜くことができない。武士が刀を抜ける状態にしていないのである。そこで、彼は「抜かずの半五郎」とからかいを込めた渾名で呼ばれていた。
 横道に逸れるが、浅黄色とは、「緑がかったうすいあい色。水色」(『日本語大辞典』講談社)だそうである。
 この表紙絵がどの場面を描いたものか・・・それは本書をお読みいただいてのお楽しみとしていただこう。

 半五郎は刀を紐で結んでいることについて問われると、「それがしは幼いころより短慮にて喧嘩沙汰が絶えず、時にはひとに怪我をさせたこともありました。それゆえ、母に万一にもひとを傷つけてはならぬと、浅黄紐にて結束するように言われたのでございます」と説明した。「亡き母の言いつけ」という一言で問うた人はそれ以上何も言えない。
 半五郎が紐で鍔の穴を通して栗形を結ぶようになったのは10年ほど前からだった。問われれば「亡き母の言いつけ」と述べる半五郎の決意に何があったか。そこには半五郎の生き様に繋がる重要な背景が潜んでいた。この背景は、澤井家に口入れ屋を通じて傭われた16歳のすみが女中として働き始めて、明らかになる
 つまり、抜かずの半五郎の刀の紐が解かれていること、それはなぜかが明らかになり、半五郎が中核となって活躍するプロセスがこのストーリーの主筋でもある。必然的に木暮半五郎が主な登場人物の一人になる。

 半五郎のプロフィールを少し補足しておこう。
*「背丈は六尺を超える長身で肩幅も厚い。眉が太く、目はすずしげでととのった顔立ちなのだが、覇気を感じさせず、いつも穏やかな笑みを浮かべている」。(p3)
*落ち着いた物腰で40ぐらいに見えるが、まだ30をでたばかりの年齢
*郡方20石だったが、藩主頼近の遠乗りの際、案内役として供をした。その折り万葉集の一首の歌の作者について頼近が質問し、半五郎だけが山上憶良と答えることができたことで、加増される。そして近習50石として、頼近の身近に仕えるようになった。
 ⇒ 藩主頼近がふと口ずさんだ和歌:
  世間(よのなか)を憂しと恥(やさ)しと思へども 飛び立ちかねつ鳥にしあらねば
 ⇒ 実はこの昇進の裏には、重要な事実が隠されているとだけ述べておく。
*城下の鹿島新当流道場で修行している。

 澤井家の庭に辛夷の白い花が咲き、それを志桜里が眺めていた時に、隣との生垣越に立つ着流し姿の半五郎が「辛夷の花がお好きですかな」と声をかける。これがストーリーの始まりである。この会話で、船曳栄之進と同役になったこと、及び船曳が志桜里と復縁したいと思っている旨を話したことを、半五郎は志桜里に告げたのだ。復縁話の意図もまたこのストーリーの伏線となっていく。そこには栄之進の生き方が反映しているのである。二人の会話の最後に、半五郎が船曳栄之進を阿諛する人物と志桜里に断言するのだから、出だしから興味を引かせる。この会話にもストーリー上の重要な伏線が潜んでいる。勿論、それはこの小説を読み進めてなるほどとわかることだが・・・。

 この二人の会話姿を3人の妹たちが部屋から見ていて、長姉の志桜里にいろいろ尋ねられる。その後で志桜里はこう思う。「少しの間、半五郎と話しただけで心持ちがほぐれた気がするのはなぜなのだろう。(あのひとが、のんびりした人柄だから)そんな風に思ってみたが、それだけでもないような気がする。半五郎の人柄はつかみどころがないが、どことなく奧深いものをk感じさせた。『おかしなひとだわ』」(p18)と。
 つまり、知らないうちに「自然の愛」が芽を育み始めるということになる。だがそれは、女人はこう生きなければならないとの思い込み(義)とこう生きたいという己の思いの葛藤となっていく。
 小竹藩に関わる騒動の渦中で志桜里自身の心の内奥を描きあげることが、この小説のサブ・テーマのひとつになっていると想う。

 澤井家の庭に辛夷の花が咲いていた。一方、半五郎が藩主頼近の命により江戸に旅立つ折に、辛夷の花のついた一枝に和歌短冊を添え、家僕に託して志桜里に届けさせる。
 その短冊には、
   時しあればこぶしの花もひらきけり 君がにぎれる手のかかれかし
という和歌が記されていた。
 この歌に詠み込まれた「こぶしの花」に託されたのは「心」である。それは誰の心か。このストーリーの展開では、二重三重に「心」の主が重ねられている。と同時に様々な人の「こころ」がこのストーリーを色づけ、ストーリー全体にわたり情意が重奏、通奏として描き出されていく。
 もう一つ、志桜里が離縁された船曳家の義母鈴代が、重要な文脈で「ひたすら相手を思うだけで見返りを求めることのない、凜として咲く白い花のような心です。」(p273)と語る言葉に、辛夷の花がイメージされている。
 そして小説の巻末の一文が「辛夷の花が朝日に輝いている」で締めくくられている。
この小説のタイトルはこの4箇所に由来すると私は思う。

 それでは、ストーリーそのものに入って行こう。
 このストーリーは小竹藩六万石の藩内で起こる騒動の顛末がテーマとなっている。
 現藩主・頼近は先代藩主に男子がなく親戚である旗本の水谷家の三男から養子縁組として迎え入れられた。小竹藩には、安納(あんのう)、井関、芝垣という重臣の三名家が代々家老職をつとめてきた。養子となって20年近く過ぎる藩主頼近は長年この三家を憚ってきた。そして嫡男の鶴千代が来年には元服を迎えるという時期にきていた。
 頼近はこの三家が藩政を動かす過程で公金を私腹してきた仕組みを暴くために、3年前に三家と繋がりを持たない澤井庄兵衛を勘定奉行に据えて、調べさせてきていた。その証拠を江戸の老中に届け、内諾を得て三家の当主に腹を切らせることを考えていた。そしてそのための秘密の使者を派遣するなども試みてきたが、悉く阻止されている。
 この三家の悪徳を暴き、親政を始めたい藩主と三家老職との確執が水面下の動きから、浮上し、騒動に拡大する。その中での人々の生き様がストーリーとして展開し描き込まれていく。抜かずの半五郎を中軸にしながら、志桜里の思いと行動が主に織り交ぜられて進行する。
 
 その人間関係を図式的に構造化すると、
 [藩主・頼通派]
 澤井庄兵衛:藩主頼近の親政構想により三家老職の私腹の仕組みを暴く勘定奉行
    澤井庄兵衛の長男・新太郎 元服したばかりの16歳も登場する
 木暮半五郎:藩主の知るところとなり、近習に加えられる。江戸への使者となる。
 稲葉幸四郎:学問所の助教。庄兵衛の二女・里江との縁談が進行中だが・・・・。
 稲葉治左衛門:勘定方として出仕。長男幸四郎の縁談を一旦破談にとも考える。

 [家老職派]
 安納源左衛門:江戸家老  嫡男は新右衞門、20歳
 井関武太夫:筆頭国家老  嫡男は弥一郎、18歳
 柴垣四郎 :次席国家老  嫡男は小太郎、16歳
 この三名家の家臣と彼らの権勢に追随する藩の家臣層。

 [浮動する人々]
 船曳栄之進:近習で00石。船曳家を守るために出世第一を志向する生き様をとる。
       小竹藩内で揺れ動く家臣の典型として登場する。
 頼近の近習たち
 
 頼近が養子として藩主に迎えられる少し前に、小竹藩では寅太夫騒動と呼ばれ、藩内の人々の記憶に残る事件があった。前藩主・頼定により藩政を任された樋口寅太夫の藩運営に関わる大問題だった。百姓一揆が起きそうな上に、三名家を巻き込み家中の争いが表面化しそうになった騒動である。
 また、10年前の凶作のとき、藩内で深堀村の騒動と称される強訴問題が発生していた。この折りに、郡方だった半五郎はこの強訴一味を鎮める役割で出向いていた一人だった。
 そして、今、澤井庄兵衛が調べ尽くした証拠により、三名家の私腹問題が表面化せんとしていた。半五郎が藩主の命を受け、江戸への使者となり出立することから事態がいよいよ表面化へと突き進み始める。それがトリガーとなり、三名家から藩主・頼近への御前試合の企画が申し込まれる。それは三名家の実力を示したいがための提案だった。この御前試合のプロセス描写がおもしろい。痛快感がある。
 この御前試合の結果が、「寅太夫騒動」を人々に思い出させる方向へと進展していく。 最終ステージは、正に籠城戦合戦というところ。このプロスが一層おもしろくなる。半五郎の真骨頂が現れる。読ませどころになっている。
 一気に読んでしまったストーリー展開である。

 志桜里の心の動きが興味深い。さらに、なぜ抜かずの半五郎になったのか? 半五郎が真剣を抜き放つのはいつか? 解き放てばどうなるのか? 楽しみながら読み進められる。
 稲葉幸四郎も好感の持てる人物として描かれている。船曳栄之進はまさに凡人である。だが、栄之進像の中に普通の人々が持つ心理の動きが幾通りにも投影されているのではないかと思う。いわば格好良さの対極として、我々読者にとっては一番身近な人物像なのかもしれない。
 
 最後に、この作品から心惹かれる記述を引用し、ご紹介しておきたい。
*半五郎めは、貧しいということがわかるようじゃ。貧しさがわからねば政事(まつりごと)はできぬ。それゆえ、あの男を近習といたしたのだ。  p35
*武士も武門の女子も家のために生き、死ぬのかと思えば苦しく、悲しいだけだが、ひとが生きるとはおのれに与えられた宿命をおのれが選びとったものとして歩み続けることではあるまいか。 p77-78
*家のもととは、そこにいるひとが手をすなぎ合うことだと存じます。たとえどのように家柄が良く、その家に栄誉や富をもたらすひとであろうとも、手をつなぐ気になれぬひととでは家を守っていけません。 p84
*おのれの生き方はおのれの心が決めるものです。ひとが求めているからひとの心で決めては悔いが残ります。不義理も不人情もおのが心を偽らぬためにはやむを得ぬかと存じます。 p98
*さて、里江殿をどのように思っているのか、自分ではわかりません。ただ、それがし、思いは一筋でありたいと思っております。いくつもの生き方を考えるのは、性に合いません。  p137
*ひとは自らの心に従い、行くべき道を切り開かねばならないのではにでしょうか。定められた道がまことの道だとは限らないとわたしは思います。  p142
*ひとへの思いが深い方が勝つとはよい言葉だ。さて、わたしは誰ぞへの思いがあるであろうか。  p169
*ひとは誰もが聖人君子となれるわけではない。時に踏み迷い、誤って心を縛って生きるばかりが道ではないと思うが--。 p191
*志桜里殿、ひとは苦難に遭ったとき本性があらわれると申します。苦難の際、そばに立ってくれるひとがともに生きることができるひとなのだろうと思います。 p228
 わたしは生きていくうえでの苦難は、ともに生きていくひとを知るためのものではないかと思うのですよ。 p229
*女人はこう生きなければならないと思い込んで、こう生きたいという思いを抑えがちです。それが家や家族を守るためにもっともよいことだと思うのでしょうが、時には素直におのれの思いに従って生きてもいいのではないでしょうか。 p230
*わが信じるところは枉(ま)げられぬ。 p244

 ご一読ありがとうございます。

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本書の関連で、関心を持った事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
コブシ  :ウィキペディア
コブシの花言葉  :「花言葉ラボ」
辛夷(こぶし)  :「季節の花 300」
刀に関する専門知識 :「刀剣はたや」
部位の名称と意味  ;「名刀コレクション」
[図鑑代わり] 刀の部位、名称まとめ  :「NAVERまとめ」
栗形  :「コトバンク」

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徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。

『風かおる』  幻冬舎
『はだれ雪』  角川書店
『鬼神の如く 黒田叛臣伝』  新潮社
『決戦! 大坂城』 葉室・木下・富樫・乾・天野・冲方・伊東  講談社

===== 葉室 麟 作品 読後印象記一覧 ===== 更新4版(37+1冊)2016.1.27

『潮流 東京湾臨海署安積班』 今野 敏  角川春樹事務所

2016-06-23 09:59:08 | レビュー
 安積剛志を係長とする「安積班」が活躍するシリーズは、神南署・東京ベイエリア分署・東京湾臨海署と変遷を辿ってきている。私の愛読する著者シリーズの一つである。2015年8月に月刊「ランティエ」に連載発表されてきたものが単行本として新たに出版された。久しぶりに、安積班の面々の個性と能力が相乗効果を出し、チームとしての結束力が発揮される展開を堪能した。「安積班」の好きなところは、捜査活動のプロセスでの安積と部下の間での個性の関わり合い方と感情の交流にある。この作品もそこが遺憾なく描出されている。さらに交通機動隊・速水直樹小隊長との関係の深まりが一層色濃くなったところが実に楽しいところである。ますます安積にとっての何者にも代えがたい僚友という位置づけになっている。

 さて、この小説のタイトル「潮流」は、2つの文脈に由来すると私は思う。
 一つは元ジャーナリストで殺人事件で逮捕され、裁判により4年半の実刑を受け、あと半年ほどで刑期満了を迎えようとしている宮間政一の言葉である。「逮捕されたら、その段階でマスコミは犯罪者扱いです。裁判で有罪判決が出たら、もう被告は為す術がありません。一つの流れができてしまうのです。強い潮の流れのようなものです。何を言おうとそれに押し流されるしかない・・・・。私は、裁判の最中、無実を訴えながらも、そんな無力感を抱いていました」(p347)。「強い潮の流れ」つまり「潮流」。
 もう一つが、次の描写である。
”安積は思った。潮流が変わり、軌跡が起きたのだ。
 それはまた同時に、安積の人生の潮目が変わったことを意味するかもしれなかった。いよいよ責任を取らねばならない日が近づいたのだと、安積は覚悟を決めた。”(p352-353)の文脈に記された「潮流」というキーワードである。

 ストーリーの冒頭は、8月22日月曜日の朝から始まる。東京湾臨海署の強行犯係である安積班と相楽班はともに全員がそろい、事件がなくてのんびりしているシーンの描写からである。午後も呼び出されることなく過ぎようとしていた。ところが、たてつづけに全く異なる場所から急病人が出て、救急車の要請が出た無線が流れたのだ。呼ばれたのは救急車で、パトカーではない。しかし、通信指令センターは無線を流した。最初の無線を聞いた段階では、安積は「地域課に任せておけばいい」と言った。だが、引きつづき2件の救急車要請の無線により、班員とのやり取りで須田が地域課に事情をまず聞くことになる。それがきっかけで、単なる熱中症ではない症状とわかる。安積班は伝染病、あるいはバイオテロ・・・を連想する。そこで須田・黒木が有明にある救急指定病院に念の為に確認に行くことになる。これが事件の始まりだった。

 救急搬送された3人の急病人は全員死亡。伝染病ではない。バイオテロでの細菌の検出もされていない。しかし、病状は毒蛇に咬まれたときの症状に似ているが毒蛇でもない。病院は死因を確かめる解剖をする予定にしたという。
 安積は榊原課長を介して、野村署長にテロの可能性がまだあることを慮り、状況報告をしておこうと判断する。
 
 病院での事情聴取に出かけた安積班の2組の報告で、3人につながりも共通点もないことがわかる。最悪の無差別殺人を考慮し、安積は今のうちに、可能な限り現場付近の防犯カメラの映像収集を指示する。安積は相楽に自分の考えだけは伝えておくことにした。
 翌日の終業時刻間際に、解剖結果が届く。榊原課長から安積はヒマから取れるリシンという猛毒が3人の遺体から検出されたと聞く。その結果、事件として扱うことになる。

 リシンの検出を安積が係員に説明すると、須田が思いあたった事件のことを話す。それはブルガリア出身の作家兼ジャーナリストが亡命先で死亡したというゲオルギー・マルコフ事件だという。マルコフは一人の男にバス待ちの折、傘の先端でつつかれたという。死因がリシンの毒であり、傘に擬装した空気銃で、リシンを仕込んだ金属球を大腿部に撃ち込まれ、暗殺されたのだ。この連想から、リシンを何かの手段で撃ち込まれたのではないかと須田は言う。解剖に見落としがないか、ということが重要になってくる。安積は確認を急がせる。
 愉快犯にしろ、無差別テロにしろ、世間への影響を考え、箝口令が敷かれる。

 その後、被害者たちの皮下から微少な金属球が発見される。
 一方、犯人らしい人物から、臨界署宛てにメールが送信されてきたのである。
 その翌日、東報新聞が「お台場で、救急搬送者三人死亡 毒物か」というスクープ記事を報じる。
 同日午前九時、臨界署に池谷陽一管理官と佐治係長率いる殺人犯捜査第5係がやって来る。捜査本部は立たないが、「管理監室」という名目で小会議室を基盤にして安積班が加わり、事件の捜査が本格的に開始されていく。

 この小説の興味深いところは、3人の被害者が出た殺人事件の犯人の究明・捜査活動の進展経緯を主軸にしながらいくつかの緯糸が交錯しながら織りあげられてく展開となるところにある。
 主軸はゲオルギー・マルコフ事件の殺人手段を模倣したと想定できる犯人の動機の究明・捜査・逮捕である。捜査本部の立たない小規模態勢でどのように捜索活動を進展するか、その方法論を含めた展開局面にある。佐治係長の大捜査本部発想の捜査意識と所轄署の小規模人数での重点思考の安積との意見の対立。勿論、かつての安積からすると、かなり大人になった対応をするように変化してきているが、やはり引けない部分はきっちりと主張する。この点の描写が実に楽しい。安積と佐治の確執を池谷管理官がどううまくコントロールしていくかが読ませどころとなる。池谷管理官の力量が試されるという筋でもある。そして、ある時点で、なんと安積班が捜査活動が降ろされ、佐治の元部下でもあった相楽係長率いる相楽班が捜査活動を引き継ぐのだ。安積との対抗意識が強い相楽だが、東京湾臨海署の相楽という意識が芽生えてきているという背景が加わることで、ストーリー展開がおもしろくなる。

 緯糸はいくつかある。
1. 臨海署内に箝口令が敷かれていたのに、なぜ東報新聞が毒物か?のスクープ記事を報じられたのか?
 まずは臨海署内に情報をリークした者がいないかということが疑われる。特に安積が東報新聞の番記者である山口友紀子記者を優遇しているのではないかと他社の番記者からやっかみを受けていることもある。最初にこの事件に関わった安積班のメンバーが、安積を含めて疑われる羽目になる。勿論、そういうことはあり得ないことなのだが。安積班でなければ、どこから情報が漏れたのか?
 ここでは警察官と番記者の関係がテーマとなって織り込まれてく。その目玉が安積班長と山口記者の人間関係であり、安積の視点を主に思いが描きこまれる。

2.臨海署に犯人らしき者からメールが直接送信されてきたことが、事件の背景にあるのではないか?それならば、事件の捜査方針に影響が出てくるかもしれない。
 1と2の観点、つまり情報漏洩源の探索と臨海署の過去の事件の影響の可能性の捜査が池谷管理官から安積自身に指示された課題となる。
 安積は、同じ警部補である刑事総務係長の岩城の協力を仰ぎ、臨海署で関わりがある犯人の可能性を想定し、過去に臨海署が扱った今回と類似の事件あるいは関係がありそうな事件の抽出を頼む。絞り込まれた事件リストの中に、岩城係長はなぜかなんとなく気になったからという立場で、5年ほど前の事案を加えておいたのだった。
 絞り込まれたリストの事案を安積は精査し、今回の3人の指人事件との関連性を調査していく。その結果、岩城が気になって入れたという事案に、安積もなぜかひっかかりを感じるのだ。
 「当時テレビ局の記者だった宮間政一という人物が、投資ファンド会社の社長を襲撃し、死に至らしめたという事件」だった。宮間は刑が確定して服役中なのだ。今回の殺人事件に宮間自身は明らかに関与できない。シロである。
 なんとなく気になるということを安積が須田に語ると、須田が今回の犯人がジャーナリズムに関係しているかもしれないと言い出す。共通点のキーワードは、ジャーナリストだという。マルコフも宮間もジャーナリストだった。今回の事件は、明らかにマルコフ事件を模倣していると。
 安積は池谷管理官に検討結果を報告する。佐治は憶測の積み上げだと相手にしない。物証の積み上げ第一だと言う。安積は一つの可能性を否定するためにも、この宮間事件を洗い直すべきと主張する。池谷管理官は捜査中の事件との関わりの範囲での捜査継続を安積一人で行う前提で了解する。
 実は、この宮間事件の捜査を担当したのは安積班だったのである。当時の検事の方針のもとで、殺人現場で身柄確保された宮間だったので、関連事実をきっちり調べたはずなのである。そのごの公判過程で犯行事実資料の検討も十分なされて、判決が出ていたのだから。
 だが、もしそこに事実の見落としがあれば、これは冤罪事件だったということになる。その捜査検証の追求は、安積が自ら自分の首を絞めることにもなりかねない。
 冤罪事件であるかどうかの探求という緯糸が重大な要素として絡んでくる。
 なぜなら、宮間は服役中も無罪を主張しつづけている事実があるのだ。
 安積の冤罪の可能性の検証・探求のための捜査が大きな影を投げかけていく。
 スリリングな要素であるとともに、実に興味深い側面が見直されていく。「事実」をどこまで組み合わせるか。都合のいい「事実」で構成されたシナリオという発想視点だ。
 安積班のメンバーが、この宮間事件にどう関わって行くかが、読ませどころになっていく。

3.マスコミの活動の在り方が上記の1とも絡むが、一つの緯糸になっている。知る権利という錦の御旗問題。新聞記者の取材活動と情報源の問題。番記者と遊軍記者の関係。記者の信用と矜持の問題など・・・。様々な要素が織り交ぜられていく。

4.安積班シリーズで、重要な要素は速水小隊長の存在である。本務の交機隊のパトロールの他に、臨海署内のパトロールも欠かさない速水という情報通。組織的には臨海署と交機隊は無関係であるが、安積と速水は一種の僚友である。このシリーズは、脇役である速水が重要なキーポイントに顔をだすという面白さが読み応えの一つにもなっている。
 今回のストーリーでは、速水がスポット的な登場なのだが、色濃く関わってくる。安積に重要なアドバイスを行うのだ。状況を客観的に眺めている情報通の速水だからこそできる助言なのかも知れない。
 速水が安積に言った興味深い言葉をいくつかメモしておこう。
*おまえの最大の花天は、自覚がないことだ。 p43 
   ⇒ 安積発言「俺は別にもてないよ」に対して。
*おまえは、自分で思っているほど人を信用していない。
 人間は不思議なもんだ。追い詰められて、人の助けが必要なときほど、孤立しようとする。・・・・俺を頼りにすればいいんだ。  p315
*ああいうやつは、近くに置いて監視するに限るんだ。  p351

5.主軸のプロセスで発生することであるが、警視庁の刑事と組み捜査中だった須田が被害に遭い入院する羽目になる。この時点では、リシンのことと金属球のことが判明していたが、毒の量によっては大事になる。この須田の入院がきっかけとなり、黒木がキレルという場面が出てくる。こういう場面の登場も私の記憶ではこのシリーズで初めてだと思う。どうキレタかの場面も読ませどころなのだ。
 
6.最後の緯糸は、安積が、榊原課長を介して、指揮命令系統の筋を通して接触する野村署長の存在である。速水が「あの署長は、今どき珍しいサムライだよ」(p276)と評する人物である。その野村署長が、要所要所で安積の報告を受けている。その署長が英断を下し、最後の段階で登場して行くる。こういう点もこのシリーズでは新機軸だろう。
 署長と安積のこんな会話が、最終ステージに至る少し前の段階で交わされる。安積班の性格を表象しているといえるのではないか。(p247)
「黒木が君の影響を受けるのは、いいことだと言ったんだ」
「はあ・・・」
「大人になりきれないんだな?」
「ええと、それは・・・・」
「ならば、そのまま真っ直ぐでいればいい。黒木は、君が内面に秘めている熱い思いを受け継ごうとしているのだろう。いや黒木だけじゃなくて、安積班の部下たちはみんなそうだ」

 このストーリーの最終ステージが感動ものである。
 
 3人の無差別な殺人と須田の受難事件を経糸とすると、宮間事件が緯糸となって交差する。この小説のキーワードはジャーナリスト。そして「潮流」は生み出され、また「潮流」は変わる、いや変えられることもある。
 後は、この小説を手にとって楽しんでいただきたい。次作が楽しみである。1年後だろうか・・・。

 ご一読ありがとうございます。
 
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本書に出てくる語句とその関連事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
ゲオルギー・マルコフ :ウィキペディア
Georgi Markov  :「NNDB tracking the entire world」
Georgi Markov  From Wikipedia, the free encyclopedia
1978 ゲオルギー・マルコフ イギリス・ブルガリア/殺害 :「日本ペンクラブ」
失敗したスパイの歴史  :「NATIONAL GEOGRAPHIC」
猛毒物質リシン(ricin)とは何か? :「身近な野生植物、生薬・薬用植物のページ」
リシン :ウィキペディア
自衛官自宅にあった「猛毒リシン」入り白濁焼酎 別居中の妻が「テロ毒物」を入手できた謎  :「J CASTニュース」
再審 刑事手続ガイド  :「アトム法律事務所大阪支部」
誤認逮捕や冤罪はどう起きるのか 2014.5.7 日刊大衆  :「livedoor NEWS」
いま、闘われている冤罪事件  :「甲山のとなりに」
急性硬膜外血腫  :「脳神経外科疾患情報ページ」
急性硬膜外血腫の症状や原因・診断と治療方法  :「gooヘルスケア」
アコニチン  :ウィキペディア
アコニチン  :「Chem-Station」
アコニチン  :「結晶美術館」

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このブログを書き始めた以降に、徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。

『豹変』 角川書店
『憑物 [祓師・鬼龍光一]』  中公文庫
『陰陽 [祓師・鬼龍光一]』  中公文庫
『鬼龍』  中公文庫
=== 今野 敏 作品 読後印象記一覧 ===   更新5版 (62冊)

『足立美術館』 監修・足立美術館  河出書房新社

2016-06-20 12:02:32 | レビュー
 島根県安来市に足立美術館というちょっとユニークな美術館があるということは、何十年か前に耳にした。意識の隅にあったものの、やはり京都からは少し距離があるのでついそのままで未訪である。だが、最近テレビのある番組でこの美術館の紹介を見た。そんな伏線があったので、この本を偶然見つけて手に取ってみた。テレビの紹介番組で一部知ったことを本書できっちりと概観することができた。
 本書の副題は「四季の庭園美と近代日本画コレクション」である。この副題にこの美術館のユニークさが凝縮されている。
 本書は足立美術館の成り立ちの説明、創立者足立全康氏の「庭園もまた一幅の絵画である」という信念のもとに心血を注がれた庭園美の四季の景色、近代日本画コレクションに特化した作品群の一端の紹介で構成されている。一種の図録を兼ねた紹介本である。

 足立美術館のホームページは、まずごちらから御覧いただくとよい

 このホームページを参照していただくと、これから述べる読後印象記とうまくリンクする部分があると思うからである。
 
 足立美術館が安来市古川町に所在するのは、足立全康氏の生まれ故郷であることに由来する。若いころからの同氏が好きであった庭づくりへの関心の実現並びに「故郷である安来への恩返しと、地元の文化発展の助けになればとの想い」だという。昭和45年(1970)秋に開館されている。2010年には開館40周年を機に、新館をオープンしたという。
 同氏が理想の庭園を思い描いて作庭した日本庭園の規模は五万坪に及ぶのである。

 同館サイトのトップページには、「枯山水庭」と「白砂青松庭」の画像が流れている。そして、併せて冒頭の本書カバーに部分図として使われている横山大観作六曲一双の屏風絵「紅葉」の画像も流れている。

 本書にはまず、「四季の庭園美」の写真紹介がある。「枯山水庭」の春・夏・秋・冬の景色が対比的に載せられている。この庭が主庭となっている。「庭園もまた一幅の絵画である」という信念が具現化したものとして、美術館内から「生の額絵」として巨大なガラスのキャンバス越しに庭が、「まるで琳派の屏風絵を想わせるように」眺められるという次第である。生の絵画は四季折々変化する。その変化の一瞬を来館者は鑑賞できるという趣向のようである。また、「生の掛け軸」として鑑賞できるスペースもべつに設けられている。ホームページには「現在の庭園」をライブの動画で見られるようにもなっている。
 15ぺーじに渡って、四季折々の庭景色が写真と説明文で紹介されている。ここには枯山水庭、白砂青松庭の他に、「苔庭」「池庭」「茶室・寿立庵の庭」が作庭されている。
池庭は「自然のなかの洲浜や荒磯の風景に見立て」られているそうである。
 足立美術館には、茶室が2つあるそうで、その一つが「寿立庵」で、京都の桂離宮の茶室「松琴亭」をモデルにしているという。

 本書の「足立全康」という見出しの見開きページで同氏の略歴とエピソードが記されている。裸一貫で商売の道に進む決心をして大阪で戦前戦後に事業に成功して一代で財をなした実業家である。心斎橋の骨董屋の店先に掛けられた横山大観の「蓬莱山」との出会いが、日本画の魅力に惹きつけられた契機だという。事業に成功し、初めて念願の大観の作品を入手したことが一大コレクターとなる始まりであり、その結晶がこの美術館というわけである。

 本書ではコレクションの一端が、「横山大観の世界」から初めて順次紹介されている。作品写真とその絵の解説が載せられ、作品紹介のページに適宜、画家の略歴説明が載せてある。展覧会の図録だと巻末にまとめて載せられているのが普通だが、本書では作品群と併せて説明欄があるので、読みやすさと言う点では便利である。
 「横山大観の世界」は、足立全康氏のコレクションの原点であるためだろうが、30ページに及び「無我」から始まり「蓬莱山」まで、37点掲載されている。足立美術館には大観の作品が120余点収集されているという。

 本書では、この後6つのセクションに分けてコレクションの一端が同様に紹介されている。これだけ眺めるだけでも、近現代日本画のコレクションとしては、圧巻である。
 セクションの見出し名と、そこに収載されている画家名と掲載点数をここではご紹介しておこう。
◎花鳥画の世界
 榊原紫峰(7)、西村五雲(2)、橋本関雪(4)、竹内栖鳳(3)、土田麦僊(2)、
 菱田春草(1)、松林桂月(1)、小茂田青樹(2)、速水御舟(1)、前田青邨(1)
 川端龍子(1)

◎山水・風景画の世界
 竹内栖鳳(2)、富岡鉄斎(1)、冨田渓仙(1)、結城素明(1)、川合玉堂(3)
 山元春挙(2)

◎人物画の世界
 小林古径(2)、安田靫彦(1)、富岡鉄斎(1)

◎美人画の世界
 上村松園(4)、鏑木清方(2)、伊東深水(2)、菊池契月(1)、寺島紫明(1)

◎現代の日本画
 平山郁夫(1)、後藤純男(1)、宮廻正明(1)、松尾敏男(1)、手塚雄二(1)
 松村公嗣(1)、西田俊英(1)、吉村誠司(1)、小野田尚之(1)、宮北千織(1)
 倉島重友(1)

◎童画の世界
 林 義雄(3)、鈴木寿雄(2)、武井武雄(1)、黒崎義介(1)

 また、日本画の世界を超えて、「陶芸の世界」にもそのコレクションが広がっている。北大路魯山人の作品11点、河井寛次郎の作品8点が掲載されている。魯山人については、扁額と六曲一隻の屏風絵も各1点載っている。

 尚、本書に掲載されている作品群で見る作品の一部が同館ホームページの「コレクション」の諸ページに掲載されている。解説文は内容・ボリューム両面で異なる。本書の方が勿論一層詳しい解説になっている。因みに、「コレクション」に掲載の横山大観の作品3点は、本書に載っている。
 本書を見ていて、惹かれる絵、たとえば川端龍子作「愛染」、上村松園作「娘深雪」、平山郁夫作「祇園精舎」、林義雄作「天使のおひるね」なども「コレクション」のページに載っている。同じページに、河井寬次郎の「三色扁壺」が載っている。この壺の形の面白さと三色の釉薬の奔放なほとばしりと重なり、器の色調などから、太古のダイナミズムを感じて好きである。

 「陶芸の世界」の項には、魯山人と寛次郎の作品だけでなく、この二人のことばもいくつか紹介されていて、含蓄もありまたその思考の切り口もバラエティに富みおもしろい。思考の糧となり、参考になる。北大路魯山人のことばを一つだけ引用しておこう。後は本書を開いてみてほしい。

     人間が出来ている、
     あるいは人間が出来ていない。
     誰が発明した言葉かは知らないが、
     端的によく表現している。
     厳しい言葉である。
     人間が出来ている、いないは、
     人間が出来ている人間だけしか
     分からない問題。

 ご一読ありがとうございます。

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『ブラックチェンバー』 大沢在昌  角川文庫

2016-06-18 07:54:37 | レビュー
 著者の作品群に「特殊捜査班カルテット」シリーズがある。文庫本に入るときに改題され、『生贄のマチ 特殊捜査班カルテット』となった。原題は『カルテット』のシリーズである。これは日本国内における超法規的な特殊捜査班として、カルテットというチームの活動が描かれた。それに対して、この作品はその発想が国際的レベルに広げられ、超法規的な捜査組織「ブラックチェンバー」が描き出されれていく。
 作品の出版時系列でみると、原題のカルテットの単行本第1作~第3作が2010年に連続で出版され、第4作が2011年に出版された。一方で、この『ブラックチェンバー』の単行本が同じく2010年に出版されていたのである。つまり、構想レベルでは、国内レベルと国際レベルの次元の違いがあるが、法を超えた捜査組織を描くという試みがなされいたことになる。

 さて、本題に入っていこう。
 この小説、冒頭は六本木にあるストリップバー「ヘルスゲート」に、警視庁組織犯罪対策二課所属の河合直史(ただし)警部補が客となって入り、ウォッカカクテルを呑みつつステージを見ているシーンから始まる。
 店の表向きの経営者は、広域暴力団山上(やまがみ)連合のフロント、高木である。だが、経営の実権の半分を北海道の水産加工会社社長のロシア人、コワリョフが握っている。北海道にあるコワリョフの水産会社そのものが犯罪組織であり、コワリョフはこのバーで踊る白人ダンサーを送り込んでいる。一方、コワリョフは極上のキャビアを密輸入し、山上連合系商社を経由して都内で売りさばいている。河合は山上連合と組むコワリョフの犯罪行為を曝き、潰そうとしていたのだ。
 その河合がヘルスゲートでコワリョフの指示により拉致されてしまう。山上連合の組員菅谷が検分し、アフリカ系の傭われ外国人が河合を殺すというシナリオである。河合は茂原にある産廃処理場に連れて行かれる。ロシア人、中国人などが加担している。河合は絶体絶命と思った。だが、事態が逆転する。突然現れた小柄な影がサブマシンガンで河合の抹殺を図る菅谷ほか全員6人を一瞬で殺戮した。河合を救ったのは「ブラックチェンバー」と通称される組織だった。
 後で、日本支部の北平と名乗る男が、開口一番「河合さん、河合直史警部補」と呼びかけてきたのだ。河合と承知の上で、救助し、6人を殺戮するという手段を平気で取ったのだ。

 北平は河合に説明する。
・今夜の行動は河合の救出を目的に、あらかじめ決められた計画通りに実行された。
・救出とは別の理由で、秘密を守るために6人が排除され、秘密裏に処理される。
・北平の属する組織は、本部がなく各支部が連携し、行動の責任を負う。
・ブラックチェンバーは一国の法規の枠を超えて存在する組織である。
・あらゆる国際的な違法取引を監視し、その目的とする利益確保を阻害する行動をとる
・国家から情報提供を求めるが、資金は活動を阻害した、違法な国際取引の一部を流用する。⇒ 河合は北平の説明をブラックマネーのピンハネと解釈する。
・複雑化した国際的な違法行為を超法規の立場で捜査し、暴き、潰す。
 そして、ブラックチェンバーは専門家の集団であり、河合に刑事捜査の専門家として加わって欲しいと提案するのだ。ここ2ヵ月間、河合の捜査に注目し観察してきたという。
 警察という国家権力を背景に捜査活動をしてきた河合が、警察組織の後ろ盾のある刑事河合ではなく、日本の法の保護を超える手段により一個人の河合として抹殺されかけたのである。その経緯が河合に法と警察では守れない限界、追求できない限界の存在をまざまざと突きつけたのだ。河合は北原の勧誘に応じる選択をする。

 北平は河合に強欲と正義は両立するかという問いかけをする。ブラックチェンバーの存在の意義と正当性について北平は答える。「国際的な違法取引を阻害することは、法律とは別次元の正義につながる、と我々は考えている。その一方で、阻害の代価として、麻薬や武器の代金を奪うことに問題があるだろうか。・・・我々は強欲に、彼らから資金を奪う。それが正義につながるからだ」と。つまり、一国の法律の枠では取り締まれない違法取引を行う犯罪集団を壊滅させるという正義を実行し続けるために、犯罪で得られた金の一部を強欲に得るという論理である。
 
 この小説はブラックチェンバーに加わった河合が、与えられたミッションに携わるプロセスで抱く元刑事としての思いと捜査過程において疑問を抱き、その解明に邁進していく姿を描き出す。河合の抱く疑問が、北原のいう「強欲と正義が両立する」というテーゼをクリアするかどうか。それがこの小説のテーマとなる。

 河合がブラックチェンバーにスカウトされたのは刑事捜査の専門家としてである。だが直接的には冒頭に長々触れた河合の捜査と繋がって行くのである。つまり、ロシアのマフィアとして、ある地位にいるコワリョフと、それと結託してきた山上連合が大きく関わって行くというストーリーである。コワリョフと山上連合が日本を舞台に考える国際的な違法取引計画の裏には、さらに広がりのある形で二重三重の隠謀が潜んでいた。

 河合が課題を与えられ捜査に乗り出すと、捜査で得られた事実のつながりが、その筋読みを二転三転させていく。そこには正義を判断する基盤に関わる価値観に行きつく問題があった。そのストーリー展開の背後にある構想は実に巧みである。

 河合がブラックチェンバーに加わると、トレーニングを受けるために台湾に飛ぶ。勿論、ビザの更新のため日本との間のトンボ返りをするのだが。そして、1年後、北平の指示でバンコクに飛ぶ。違法取引を牛耳る組織の典型例の見聞を兼ねた観光旅行だと言われる。だが、それは河合に対する一種のテストでもあった。
 その結果、ブラックチェンバーのメンバーであるキム・チヒが現れ、河合はキムと組み、捜査活動を展開していく結果になる。チヒの主任務は「無力化」だという。必要ならば殺人も仕事として即座に実行する。
 チヒを介して、河合はタイ支部のケムポン大佐に引き合わされる。ケムポン大佐から、コワリョフがタイに入国している事実を知らされる。コワリョフがタイで行動を共にしているのは、コワリョフの部下でグルジア人のドルガチと、日本から逃亡してきている元山上連合系落合組組員の北井だった。彼らの行動をケムポン大佐とともに追跡する。そして、バンコクに戻って来た北井に河合が偶然を装って、接触を試みる。
 これがストーリーの展開の始まりとなる。河合は観光旅行どころか、そのまま捜査活動に引きずり込まれていくのである。なぜなら、河合と北井の居るホテルのバーにコワリョフとドルガチが現れ、その二人が4人組に射殺されてしまうのだから。

 北井はコワリョフと何千万ドルにもなるビジネスを企んでいたのだ。それは、コピー商品らしいが、何十億円単位になるコピー商品とは何なのか? タイに逃亡中の北井は単につなぎの役割にすぎないはず。ならば、コワリョフのビジネスの相手は山上連合だったのか・・・・。謎は深まる。この国際的な違法取引が河合の捜査ミッションとなっていく。その捜査において、河合の命を守るのがチヒのミッションとなる。そこに、ブラックチェンバーのメンバーで、元ロシア連邦保安庁に所属していたというバラノフスキが情報捜査の側面で関わってくる。
 コピー商品ビジネスの謎には複雑に犯罪組織が入り組んでいる上に、なぜコワリョフスキが暗殺されたのかという謎も絡まっている。その捜査を続けて行く過程で、河合は新たな謎に突き当たる。コピー商品の謎は、違法取引の表層に過ぎなかったのである。そこには意外な想定が見え始めていく。

 このストーリー展開での興味深いところがいくつかある。それはこのストーリーに惹きつける要素にもなっていく。主要なものを列挙しておく。
*河合とチヒの人間関係が変化するプロセスとその描写
*刑事捜査の専門家である河合が、その根元の刑事魂にどう向き合うか。
*刑事時代からの情報源だったロシア人をこのミッションの中でどう扱うか。
*ブラックチェンバー日本支部の代表という北平の実像は? 北平の真のねらいは?
*コピー商品の謎とコワリョフ暗殺から始まった犯罪の核心は何なのか? 首謀者は?

 クライムサスペンスとして読み応えのある作品に仕上がっている。意外な結末を迎えるのもおもしろい。残念なのは、ブラックチェンバーのシリーズ化はできないだろうと判断できる点だ。著者はちゃんとその理由もストーリーの中で述べていると理解した。その理由が何か、本書を読みながらその記述箇所を見つけるのもおもしろいかもしれない。

 ご一読ありがとうございます。
 

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この作品では、コピー商品が一つの焦点となっている。本書との直接の関係は低いが、そこで少し関心の波紋を広げてみた。ネット検索したリストを一覧にしておきたい。
コピー商品  :ウィキペディア
偽ブランド品、コピー商品等の知的財産侵害物品は国内への輸入禁止!
税関での取締り強化中!
    :「政府広報オンライン」
偽物ブランド、購入者も罰則の対象に?  :「JIJICO」
偽ブランド商品・海賊版等の「コピー商品」を追放しよう!  :「神奈川県警察」
スーパーコピー  :「わかっちゃう! 知的財産用語」(西川特許法律事務所)
法律解釈2:コピーCDとその著作権  :「ECネットワーク」

コピー商品の「購入だけ」は違法?  :「ほ~納得! 困り事よろず相談処」
海賊版・中国コピー品に騙されるな! :「よしぎゅーの”脱サラせどり”」
商品届かない詐欺サイトの見分け方   :「雑記」(Let's EMU)
 確認ポイント2つで通販にダマされない! 

堂々と偽物ブランドを販売するネットショップが人気 :「ROCKET NEWS 24」
コピー大国  :「NAVER まとめ」
アジアはソフトウェアの違法コピー大国、BSA調査 2011.5.13 :「AFP」
ロシアは世界第4位の違法コピー大国  服部倫卓氏

日本だって「コピー大国」なのに、どうして批判されない!?・・・中国ネット民「中国は『イノベーションのないコピー』だからじゃないか」の声    :「Searchina」


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徒然にこの作家の小説を読み、印象記を書き始めた以降のものは次の小説です。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。

『カルテット4 解放者(リベレイター)』 角川書店
『カルテット3 指揮官』 角川書店
『生贄のマチ 特殊捜査班カルテット』 角川文庫
『撃つ薔薇 AD2023 涼子』 光文社文庫
『海と月の迷路』  毎日新聞社
『獣眼』  徳間書店
『雨の狩人』  幻冬舎


『豹変』 今野 敏  角川書店

2016-06-15 10:14:24 | レビュー
 私の知る限り、警視庁生活安全部・少年事件課・少年事件第三係の巡査部長富野輝彦が主な登場人物の一人として現れる小説は久方ぶりだと思う。そう、現在の文庫本の改題名でいうなら、祓師・鬼龍光一シリーズに繋がるストーリーである。改題されて『憑物 祓師・鬼龍光一』(中公文庫)として実質第3作が出版されたのが2009年11月だから、かなりの時間が経過したことになる。

 この小説は、「狐憑き」という心霊現象をIT技術および大脳の構造理論という科学領域と密接に組み合わすという構想に進化し、現代的なアプローチでのストーリー展開となる。この新機軸がおもしろく、ついつい引きこまれて行く。
 普段はおとなしい少年少女たちが、突然にその性格・行動を豹変してしまう。まるで「狐憑き」となった状況に当事者と周囲の人々が巻き込まれていく。そこから「豹変」というタイトルが付けられたのだろう。

 事件は世田谷区内の住宅街にある中学校でまず発生する。所轄の生活安全課少年係の係員が臨場するというので、富野も相棒で30歳の有沢巡査長と現場に行く。中学3年生で14歳の佐田秀人が同級生を刺し、全治1週間の怪我を負わせたという。所轄署の取調室で富田は佐田少年を面談する。少年の眼がぎらぎらしていることが富田の第一印象だった。富田が佐田に事件の事実を確かめる質問をすると、佐田の表情に変化が起き、満足げに微笑んだうえで、まるで老人のような嗄れた声で「邪魔をしたから懲らしめた。それだけのことだ。わしは、やるべきことをやった」と答えたのである。これが始まりだった。
 佐田少年は、取調室から出て行こうとする。富田が制圧しようとして、壁際まで軽々と吹き飛ばされる。2人の係員が押さえようとするのも払いのけ、所轄署から消えてしまう。姿を消してから1時間、緊急配備が敷かれたが、行方はわからない。
 その最中に、警察署の前に、鬼龍が黒づくめの姿で現れる。鬼龍は依頼を受けて、佐田少年を祓うためにやってきたのだった。
 佐田が逃げたときの状況を富田が鬼龍に説明すると、鬼龍は「狐憑き」の祓いの依頼を受けたのだという。富田にももうわかっているはずだろうと。さらに、それは位の高い老狐が憑いているのだと鬼龍は語る。

 富田は鬼龍を伴って、被害者石村健治の入院病棟に出かける。そこで石村の手の甲に「犬」という漢字が油性マジックか何かで記されているのを見る。鬼龍はそれが「狐除之法」をやった名残と見抜く。石村は狐除之法について本やネットで調べた。佐田とは時折SNSでやり取りをする仲だったという。鬼龍は、老狐に憑かれた佐田がSNSでやりとりする仲だった石村を侍者に仕立てていたのだと読み解く。
 少年を見つけるために、富田は佐田の自宅に出向く。勿論、鬼龍は富田に同行する。佐田少年は自分の部屋に戻っていた。勿論、鬼龍が祓いを始め、佐田の憑きものを祓う。ところが、思わぬ関係を佐田から聞くこととなる。鬼龍の読みは真逆だったのだ。
 石村の病室付近で待機する富田の相棒の前に、全身真白な人物、安倍孝景が現れる。これで、このストーリーの役者が揃う。
 傷害事件としては佐田が加害者、石村が被害者であるが、一方心霊現象的には石村が加害者で、佐田が被害者という関係だったのだ。おもしろい状況設定からの始まりである。
 ここで、前作までにはなかったが、老狐が祓われる時に富田が真っ白いまぶしい光を見るという現象を体験するのである。相棒の有沢は、安倍孝景がボディーに一発叩き込んだ現象しか見ていないのだった。孝景はそれを当たり前の如く、大国主の血統であるトミ氏の末裔だから、霊視したのだと言う。

 石村はSNSのアプリで占いみたいなことをしていた事実を富田と有沢に話す。鬼龍が富田の前に現れ、事件はこれで終わらないと予測を告げる。

 そんな矢先、休日の富田が傷害事件の呼び出しを受ける。被害者、加害者とも中学生だったからである。場所は江戸川区の河川敷で京成電鉄の鉄橋下。被害者は下川涼太。金属バットで全身をめった打ちにされたという。救急病院で手当を受けている。
 一方、加害者は同級生だった。凶器を持ってすぐ近くに立っていて、現行犯逮捕の要件を満たす状態であり、無抵抗なまま身柄確保されていた。身柄確保を行った巡査部長は、同級生をめった打ちにしておいて、けろりとした顔をしていたことと、芝居じみた老人のようなしゃべり方をしていたことに、戸惑いを感じていたのである。
 富田は、所轄署の取調室で被疑者の宮本和樹と面談する。そして、その態度としゃべり方から、ピンとくる。この事件もまた狐憑きが起こっていたのだと。
 再び、鬼龍が登場し、小岩警察署の屋上で、祓いを実行する。この時も、富田は白い光を見る。
 宮本もまた、14歳でSNSの占いのアプリをやっているということが判明する。

 更にまた、日曜日の夜中の1時過ぎに、富田は携帯電話が鳴って呼び出される。今度は少女が複数の男たちに連れ去られたという通報を受けた事件だ。
 通報で警察官が指定配備についた後、ほどなく4人の男が車中で血まみれになり倒れていて、車の外から平然と眺めている少女が発見される。発見者の小島巡査部長は、その少女にまるで仕留めた獲物を満足げに眺めているような印象を感じたという。
 少女が一旦入院していたので、富野は病室を訪れるが、一見してやはり鬼龍や安倍の専門分野と判断する。
 祓いをされた少女は、金沢未咲、中学2年生で14歳。
 金沢未咲に質問を重ねた結果、やはりネイムというSNSで占いアプリを使っていたということを告げられる。

 狐憑き現象の当事者の間に、共通点が浮かび上がってくる。つまり、14歳という年齢と、ネイムというSNSおよびそのSNSで使われる占いアプリが関わっているようなのだ。それがどう関わるのかも不明瞭なまま、富野はまずSNSの開発・運営会社を訪ねる行動を取る。ここから、3件の傷害事件が別次元での展開へと突き進んで行くとい次第である。

 この小説の前半のおもしろさは、狐憑きという心霊現象が3つの異なる形態で発現し、それぞれに鬼龍・安倍が富野とともに関わり対処していくところにある。個別の対応ストーリーが描かれる。
 だが、そこには共通した人間関係が生まれる。狐憑きの現象を仕事として祓う立場の祓師、過去の経験から心霊現象が起こっていることを一応認めて、警察官の立場で現実の実務処理との折り合いを付け考えながら歩む富野、狐憑きなどということを受け入れられない有沢を含めた現場の警察官という三者三様の間の関わりである。この関係描写もまた読ませどころとなる。
 この前半では、富田が狐憑きという現象で引き起こされた側面を踏まえて、現実に発生した少年少女の傷害事件に対する対応が主題にもなっている。本人たちが軽微な罪で留まるように、どのように対応するか。そこに力点を置く富野の人間的側面を描き込んで行く。この辺りが単なる刑事事件ものとの違いと言える。富野の暖かなスタンスが描き込まれ、そこに富野の魅力がでている。

 そして、後半は現代のIT技術と大脳の構造に関わる知識、つまり科学的視点が心霊現象と絡められていく展開になる。俄然、ストーリーが不可思議なオカルトチックな戸惑い現象から、科学色の濃い分析的合理的視点での捉え方に進展していく。この飛躍がこのシリーズでの新基軸である。ひと味異なったアプローチとなり、筆者の構想が大きく広がって行く。結構、読み手には合理性での納得感を感じさせるおもしろい展開となる。現代人には受け入れやすさが増すというところか。

 己の特殊能力の開発と分析を前提として、最先端の大脳科学の知識情報を踏まえ、インターネットという情報媒体を駆使し、科学的実験を密かに試みようとする人物との対決へと次元がステップアップしていくのである。
 富野は単独で、ネイルというSNSを開発し運営する会社のトップとの面談を求めていく。代表取締役は与部星光(よぶせいこう)、カリスマ的人物だった。
 富野の訪問目的とその質問に、与部は関心を抱いていく。
 ネイムというSNSで使われている占いアプリが狐憑きに関係するのか、関係しないのか。謎掛けをしてくる与部との対決が展開されていく。おもしろい発想とその展開に引きこまれる。与部と富野の対話が一つの読ませどころである。

 オカルトチックな心霊現象に対して、祓いを仕事とする祓師・鬼龍光一は、その心霊現象の発生原因についての科学的な解明を独自で深めている。それが今回の事件の解決に重要な役割を果たしていくことになる。
 この小説の読ませどころはこの後半にある。富野・有沢の警察官コンビと鬼龍・安倍という毛色の異なる祓師がしっかりと事件解決のために結束するのだ。おもしろくなって当然の展開といえる。
 そして、再び佐田、石村を祓う必要性が発生する・・・。

 前半は、後半への伏線であり、一方で心霊現象に対する様々なリアクションの描写がサブテーマになっているように思う。富野と有沢のコンビの人物描写がもう一つのサブテーマだろう。

 ここまでのまとめから、後半を推測して本書を開けてみてほしい。

 最後に、今回一歩踏み込んだスタンスがきっちりと書き込まれている箇所がある。ご紹介しておこう。

[ 富野輝彦の発言 ]
*受け入れているわけじゃない。だがな、現実に目の前で起きたことを、否定しつづけても仕方がない。あの二人と関わっていると、不思議なことがたくさん起きる。それを、無視し続けることは、俺にはできなかった。だからといってだな、俺はオカルトを信じているわけじゃない。霊だ憑き物だってのも、基本的には信じちゃいない.p95-96
*俺は、これまでの人生を今さら変える気はない。これからも、警察官としていきていく。俺が鬼龍や孝景のような生き方をすることはあり得ない。  p363
*自分の人生は、血筋や能力の有り無しで決められたくはない。
 人生は自分自身で作っていくものだ。今まで、そう考えて生きてきた。これからのそれは変わらない。 p364
*心霊現象や超常現象は、それほど珍しい出来事ではないのかもしれない。そして、たぶん、そういう現象にもちゃんとした理由があるに違いない。
 多くの場合は、人間の脳が作り出す現象なのだろう。鬼龍と孝景は、それに対処しているのだと。 P384


[ 鬼龍光一の発言 ]
*俺の経験から言うと、ある人の意識が、他者の意識と同調、あるいは共鳴してしまうことがあるようなのです。  p285
*世の中のことがすべて解明できると考えるのは、人間の傲慢です。  p286
*心霊現象は実在するが、霊が実在するかどうかはじっしょうできないということです。
 現象そのものは認めています。でも、その現象の原因や理由はわかりません。そして、それを解明する必要もないのです。心霊現象には対処できます。その方法も知っています。それで充分なのです。 p289
*徐霊は、霊を相手にするんじゃないんです。・・・霊に憑かれた、あるいは悪魔に憑かれたとされる人間を相手にするんです。 p290

[ 安倍孝景の発言 ]
*人間の潜在意識には何が潜んでいるかわからない。普段生活しているときの意識なんて、それこそ氷山の一角だ。潜在意識のエリアはべらぼうに広くて深い。  p318


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本書に出てくる用語とその波紋から関心を持ったものを検索してみた。一覧にしておきたい。
超常現象  :ウィキペディア
心霊現象  :ウィキペディア
憑依    :ウィキペディア
憑依現象と除霊について  :「霊性進化の道-スピリチュアリズム」
イタコ   :ウィキペディア
側頭葉   :ウィキペディア
側頭葉の解剖図 :「脳神経外科 澤村豊のホームページ」
側頭葉、後頭葉、頭頂葉、中心溝、前頭葉  :「SORA Shinonome」
外側溝  :ウィキペディア
シルヴィウス溝~心霊現象を感じる脳~その1 :「王子のきつね on line」
みんなで霊界ラジオを作ろう 理学博士 橋本 健  :「日本超科学会」
エジゾンの霊界通信機  :「阿修羅」
霊界ラジオは果たして可能か?・・・ITC(現代版霊界ラジオ)について
   :「霊性進化の道-スピリチュアリズム」
霊界通信   :「月刊SPA!」
臨死体験 人は死ぬ時何を見るのか 4/5   :YouTube
臨死体験 人は死ぬ時何を見るのか 5/5   :YouTube

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このブログを書き始めた以降に、徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『憑物 [祓師・鬼龍光一]』  中公文庫
『陰陽 [祓師・鬼龍光一]』  中公文庫
『鬼龍』  中公文庫
=== 今野 敏 作品 読後印象記一覧 ===   更新5版 (62冊)

『京博が新しくなります』 京都国立博物館 編 クバプロ

2016-06-12 10:55:59 | レビュー
 京博は既に新しくなっている。2014年9月に、新館が「平成知新館」としてグランドオープンし、もうすぐまる2年を迎えることになる。



 これはグランドオープンしたとき、平成知新館オープン記念展として開催された「京へのいざない」に出かけて鑑賞後に購入した図録。京都国立博物館所蔵名品120選が図録化されている。この時が心待ちしていた新しい京博のオープンだった。

 こちらはその図録に付けられていた帯である。

 冒頭の本書カバーにある景色は、それ以降何度も眺めている景色になり、私はすっかり馴染んでいる。長年旧館での展覧を鑑賞してきたので、今のとこころやはり新しい建物という新鮮な感覚は続いている。旧館から比べると、展示スペースがゆったりとしていて、展示も鑑賞しやすくなり、鑑賞する際館内が通路と展示室が分離されているので、まず見たい展示室に直接アプローチできるなど、自由な動きができるようになっている。

 「新しくなります」というタイトルを冠したこの本が出版されているのをごく最近知った。そこで既に京博の平成知新館を利用している経験から、何を語る本なのかと関心を抱き読んでみた。

 本書は、奥書を読むと、2013年10月に東京、2014年1月に京都でと京博の新規グランドオープンの前、建設工事最終段階中に開催された特別シンポジウムの内容をまとめてたものである。2014年8月に第1版が出版されていた。

 本書の印象をひとことで言うならば、博物館所蔵品の鑑賞入門ガイドブックである。
 歴史という視点を踏まえ京博所蔵品、つまり至宝の数々の写真をふんだんに活用しながら、いくつかのジャンル別に鑑賞ポイントやミニマムの基礎知識をレクチャーしてくれている。取り上げられたジャンルは水墨画、仏像、染織品、青銅鏡、漆器である。特定テーマとして、本書の目的から当然ながら「京博の過去・現在・未来」が語られている。さらに国宝『鳥獣戯画』が解説されている。もう一つ、坂本龍馬の特定の手紙の読み解き法が説明されていておもしろい。勿論、それぞれのテーマは京博に勤務する各分野の専門家である。
 本書は特別シンポジウムの聴講者が一般美術愛好家という前提でわかりやすく講演された内容の記録でもあるので読みやすい。そういう意味でも、上記ジャンルの手軽な鑑賞入門書になる。展示品の入れ替えで常に鑑賞できるとは限らないが、京博を訪れれば実物を見られるという確率が高い所蔵品を使った説明というのも特徴の一つになるだろう。

 以下、本書の章立ての順に読後印象と覚書を記して、本書のご紹介をしてみたい。目次には章番号の表記はなく、テーマ名が並んでいるだけである。

【京博の過去・現在・未来】 館長 佐々木丞平(じょうへい)

 京都に生まれ、育ち、長年京博を訪れてきたが、京博の歴史全体を考えるということはなかった。部分的見聞で得た知識もあったが、全体を概観できたことは興味深い。
 *京博の平成知新館は、法住寺跡、六波羅政庁跡、方広寺跡が歴史的に重層している場所だという。法住寺は平安時代後期、白河天皇の御所となった。六波羅政庁は鎌倉幕府が設置。方広寺は秀吉が建立した。つまり、ここに立てば歴史に思いを馳せるのに丁度良い  法住寺跡、方広寺跡の重層は知っていたが、六波羅政庁のことはいままで考えもしなかった。
 *京博の淵源は、『古器・旧物保存方』という太政官布告(明治4年・1871)にあるようだ。これは廃仏毀釈と文明開化の二重の津波により、日本の伝統文化が危機に瀕したために、全国的な実態調査をするためのアクションだとか。京博誕生の直接のルーツは明治21年の臨時全国宝物取調局(宮内庁)の設置にあるそうだ。翌明治22年(1889)に東京・京都・奈良の3博物館設置が定められ、1897年に、帝国京都博物館として開館される。
  これが現在、「明治古都館」と名付けられている赤煉瓦の外観の建物である。このレトロな外観が私は好きだ。京博に行くたびに季節季節の写真を撮っている。
 *平成知新館の建設地から、古い井戸が発掘された。その保存をしつつ、建物を建設。地下部分の壁面コンクリートの厚さは1m以上という。なんと展示ケースはドイツからの輸入だとか。

 この章でおもしろい発見は、初めて見る写真がいくつか載っていたこと。円山応挙筆・眼鏡絵「五条橋より京大仏殿を望む図」、廃物棄釈により壊された仏像群の記録写真および、野ざらしにされた方広寺梵鐘の写真である。
 
【超名作そろいぶみ -室町水墨画編-】 美術室長 山本英男

 *中世の絵画で京博所蔵品と委託品の合計は全部で五百数十件という。そのうち国宝・重文・重美に指定されているのが80件だとか。まだまだ、ほんの一部しか鑑賞していない! 出かけなくちゃ・・・・。
 *雪舟、如拙、明兆、狩野派の選りすぐりの名品について、その由来を含めた紹介と見方のわかりやすい解説である。取り上げられた作品を列挙する。雪舟:国宝『慧可断臂図(えかだんぴず)』(常滑・斉年寺蔵)・国宝『天橋立図』、如拙:国宝『瓢鮎図(ひょうねんず)』(京都・退蔵院蔵)・重文『王羲之書扇面図』、明兆:重文『五百羅漢図』(京都・東福寺蔵)、狩野派:正信筆重文『竹石白鶴図屏風』(京都・真珠庵蔵)・元信筆重文『四季花鳥図』である。

 この解説から特に学んだことは、雪舟の『天橋立図』と等伯の『松林図屏風』がともに下絵であるということ。雪舟は見たときにすばらしいと感じさせることを考えてリアルに名所を描いているという。『瓢鮎図』の背景に、「ナマズが竹竿を上る」という中国の諺があること、図の上部に記された讃が「連句」になっていること、そして中国では「鮎」を「ねんぎょ」といい、ナマズをさすということ。アユは「香魚」というそうである。 一つおもしろい表現を本文で見つけた。「万人受けする、美しくて端正な画法が狩野派の真骨頂です」というもの。

【バラエティゆたかな京都の仏像】 保存修理指導室長 浅湫(あさぬま)

 「仏像の種類と様式」「仏像の様式変遷」という基礎知識を「世界で一番短い仏像講義」と洒落て、ごく簡潔に5分ほどの要点説明で始められている。ページにして3ページと9行である。様式の変遷を大まかに4つの時代に区分して説明した後、京都の仏像を時代の変遷順に紹介している。以下の要点をメモしておきたい。

*奈良時代の仏像は中国の影響を受け、端正で質が揃う。一方、平安時代以降の京都で制作された仏像はバラエティに富む。
*南山城付近は奈良と京都の両方の影響を受けている。
*仏像はできれば正面から拝むだけでなく、360度から眺めるべし。背面も見よ。
*江戸時代の仏師は芸能人の肖像彫刻の制作もしている。 例:『竹翁坐像』
*江戸時代初期の町仏師清水隆慶は僧の宝山湛海のプロデュースのもとに仏像制作をしている。その作品は宝山湛海作と伝えられている。 例:生駒宝山寺の不動明王像

 写真が掲載され説明もおもしろくかつ興味深いのは、重文『宝誌和尚立像』(京都・西往寺蔵)、重文『白光神立像』(京都・高山寺蔵)および洒落っ気のある初代清水隆慶の位牌(個人蔵)である。この位牌は本書を開けて見て欲しい。一度実物を拝見したいものだが・・・。
 
【国宝『鳥獣戯画』-その歴史と作者-】 主任研究員 大原嘉豊(よしとよ)

 日本の絵巻はマンガのルーツとされているが、なかでも鳥獣戯画はまさにマンガのルーツにぴったりである。ここでは鳥獣戯画の成立と作者についての考察が解説されている。鳥獣戯画は現在、甲・乙・丙・丁と番号が付けられた4巻が残っている。甲・乙の両巻は同手に見えるが、乙巻と丙巻はそれぞれ手が異なるという。江戸時代に丁巻は別物とすら考えられていたという。
 ここでは、京博所蔵の狩野探幽が手控えとしてスケッチした『探幽縮図』にスケッチされた甲巻の絵との対比を交えながら、鳥獣戯画の成立プロセスが推定されている。甲巻については、「もとは、二巻構成であったのが、かなり抜き取りされてしまってむちゃくちゃになった後に、まとめられて一巻になったようです」と結論でけている。この考察プロセスが興味深い。

 2014年秋には、鳥獣戯画の修理完成記念として、京博で4巻すべてを展示する『国宝 鳥獣戯画と高山寺』特別展覧会が開催された。このシンポジウムはそのPRの場でもあったようだ。勿論、鑑賞に行ったが長蛇の列だった。しかしやはり実物は見応えがあった。 本書には、12ページを使い、探幽縮図と鳥獣戯画甲巻の写真が載せてあるので、一見していただくとよい。
 展覧会を見に行きながら、なぜこの絵巻に数多くべたべたと高山寺の判子が押されているのか、深く考えていなかった。その理由がこの章を読み納得できた。その理由は・・・・本書を開いて読んでいただきたい。その前にあなたなりの理由を考えてみれば、関心が一層増すかも。

【東アジア染織の宝蔵・日本】 教育室長 山川 暁(あき)

 既に平成知新館の染織展示室を幾度か見ている。展示ケース自体のことを考えたことはない。この展示ケースの設置にあたり、このケース自体に奥行きを変えることのできる工夫が組み込まれたということを本書で初めて知った。次回はその目でケースも眺めてみたい。
 「世界中で京博にしかない大きなコレクションが、多くの寺院からお預かりしている古代、中世の袈裟なのです」ということも初めて知った。

 この章で、袈裟の成立とその伝播、変遷の基礎知識が修得できる。インドで糞掃衣(ふんぞうえ)として始まり、袈裟が特別な聖遺物として日本の寺院で秘蔵されるまでの変遷がよくわかる。秘蔵されてきた袈裟が、箱書きや記録文書、それに似た衣服を着用し年紀のはっきりした肖像画の存在などがあるために、染織の歴史を研究する上での基準作として機能していることを知った次第。今までなんとなく眺めていた袈裟、目からウロコ・・・という感じだ。
 袈裟から見える日中交流、日韓交流の読み解きが興味深い。袈裟を極めると歴史が見える! この章も染織史入門として読み応えがある。
 延暦寺蔵<七条袈裟>、正伝寺蔵<九条袈裟>、京博蔵<応夢衣>を事例に取り上げた解説である。袈裟一つ、奧が深いものである。

【坂本龍馬の奇妙な手紙 -慶応元年九月九日-】 企画室長 宮川禎一(ていいち)

 現在、『龍馬の手紙』(宮地佐一郎著 PHP文庫)として、「坂本龍馬全書簡集・関係文書・詠草」という副題のもとに、手軽にその内容が読めるようになっている。慶応元年九月九日の手紙も、手許の文庫本を見ると、原文の写真掲載と文面の活字本文で内容が読める。ただし、文庫本は手紙が一段で続けられていく。本書の124ページに写真掲載の「上下に貼り込まれた龍馬の手紙」の体裁ではない。
 一つの手紙が上下二段に分かれて巻物に貼り込まれている実物を、坂本龍馬資料に関わるようになったという。引き継いだ折の不思議な印象から始めて、この手紙の体裁の奇妙さの解明プロセスがこのテーマの内容である。この章は、一つの手紙の書き方に秘められた謎解き話である。考古学専門の著者が手紙の読む順序の謎解きをするプロセスを語るのだからおもしろい。その謎解きは本章をお読みいただくとして、次の点をご紹介しておく。
*京博に重要な内容ばかりの手紙10通が所蔵されているのは、北海道に移住されていた坂本家一族の坂本弥太郎氏が昭和6年に京博に寄贈されたことによる。
*この奇妙な手紙は、「もともと1枚の巻紙の表と裏に手紙の文章が書かれていて、それを保存のために表裏を二枚に剥いで巻子に仕立てていた」ものだった。
 なんと、このことが2010年頃に初めてわかったという。宮地氏の編集本は1984年にまず発刊されているから、ここで述べられている知識はない段階と言える。つまり原文のままの紹介だ。
 表裏を二枚に剥いだということのヒントがどこから得られたかも、おもしろい経緯である。読んでいただいてのお楽しみに・・・・。
*この奇妙な手紙の解明で龍馬の人柄がわかるという。
 「龍馬は手紙を書くとき、今の人では考えつかないような、途中でひっくり返して続きを書いて、それが終わったら、またひっくり返して・・・・というふうに書く人であったことがわかりました」という。
 つまり、この龍馬のユニークさ、自由さ、奔放さこそが、日本を動かす原動力だったのではないかと締めくくっている。
*龍馬が最初に書いたのは下段の「京のはなし、しかるに内々なり」だと結論づける。
 京都の楢崎龍の話から書き始めたのだと。
 因みに、上記の宮地佐一郎著の文庫本で言えば、15ページの手紙文紹介の7ページ目に同文の書き出しが出てくる。
 
【古代技術の謎に迫る -青銅鏡にみるハイテク-】 学芸部長 村上隆(りゅう)

 ここでは、古代青銅器の代表として三角縁神獣鏡をとりあげ、その古代技術の謎に現代技術を駆使して調査・研究したケースを取り上げている。
 滋賀県東近江市にある雪野山古墳から三角縁神獣鏡が出土した例を中心に、各地で出土した三角縁神獣鏡の研究成果も紹介しながら、説明が展開していく。
*銅鏡の形状を最新のレーザー三次元デジタイザを駆使して計測する。
*電子顕微鏡を用いて電子線を鏡の断面にあてて、あてた部分からでてくる特性X線の解析により、組成分析をする。
 光学顕微鏡での鏡破片の断面写真、反射電子線像(BEI)の写真が掲載されている。
*「人間の目」と「3次元デジタイザの目」の違いが写真で提示されている。
 そして、「最終的に金属粉体を用いた最新の3Dプリンターによって、忠実に復元された三角縁神獣鏡は顔が映ほど輝きを見せました」とか。
 古代技術に、現代科学の最新技術で迫るというスリリングな話。おもしろい!

【京都から世界へ -漆黒と黄金の宝箱-】  主任研究員 永島明子

 漆器の中でもとくに魅力的な蒔絵(まきえ)をテーマにしている。真っ黒な漆を背景に、黄金の文様が浮かび上がる蒔絵の作品が、如何に人々を魅了したかについて、京都から世界に目を広げていく流れで解説している。というのは、蒔絵が南蛮人渡来の大航海時代以降、日本からの輸出品として世界に搬出され、世界史上の錚錚たる人々に愛されたからだ。
*桃山時代から江戸時代にかけ、蒔絵が大ブレイクした。
*世界各地にコレクターを育んだ。
*交易で渡来した南蛮人からの特注品が製作され、輸出されている。日本に遅れてやってきたイギリス人やオランダ人も漆器を扱い、注文品も手掛けた。

 実際に交易を介して世界各地に広がって行った蒔絵作品の実例写真を豊富に掲載して説明されている。この作品群の写真を眺めるだけでも楽しめる章である。まさに、蒔絵の流通経路と愛好者を眺めれば、京都から世界が見えるということになる。
 本章にでてくる世界の蒔絵コレクターの名前を挙げておこう。マザラン枢機卿、マリア・テレジア、ザクセン侯アウグスト強王、マリー・アントワネット、康熙帝、雍正帝、乾隆帝・・・・。

【美を伝えるために -文化財修理の世界-】 学芸部長 村上隆

 博物館の役割に、文化財修理の側面がある。形あるものは時間とともに変化し滅していく。それを防御するのが修理・修復である。裏方さんの世界、特殊技能の修得を必要とする専門職的世界でもある。1980年に京博の敷地内に文化財保存修理所が設置されたという。そして、京博が独立行政法人になった時点で、文化財保存修理所で仕事をしている人々は協議会をつくり、「彫刻、装潢、模写の分野で、財団法人なり株式会社など民間の方々が仕事をされています」という体制になったという。京博側は保存修理指導室という管理業務主体になったようである。
 仏像と経巻の保存修理事例が写真で説明されていて興味深い。

 写真をふんだんに使った各分野のテーマ講演の最後に、このシンポジウムのまとめとして「特別対談 京博に期待すること」という対談記録が載っている。
 テーマ講演者の一人でもある村上隆氏がコーディネーターとなり、佐々木丞平館長と俳優の井浦新(いうらあらた)氏が対談した内容が載っている。
 本書を読み、井浦氏が京都国立博物館文化大使を引きうけているということを初めて知った次第である。
 博物館と美術館はどう違うか、文化財を触るときのルールはあるのか(手袋/素手)など、おもしろい質問が取り上げられている。

 一般美術愛好者にとって、博物館を楽しむためのガイド・入門書として役立つ本と言える。

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少し、本書関連事項をネット検索して見た。一覧にしておきたい。
京都国立博物館 ホームページ
  博物館ディクショナリー  子供向け展示品解説ページ ←大人にも役立つ!
慧可断臂図(えかだんぴず)  :「京都国立博物館」
天橋立図(あまのはしだてず) :「京都国立博物館」 
南山城の古寺巡礼 京都博物館だより  pdfファイル
京へのいざない  京都博物館だより  pdfファイル
誌和尚(ほうしわじょう)立像:「Japaaanマガジン」
鳥獣戯画  :「高山寺」公式ホームページ
「鳥獣戯画」は誰がどこで描いた? 東京国立博物館に現存作品が集結(画像)
 :「HUFFPOST LIFESTYLE JAPAN」
鳥獣人物戯画から見る、動物たちによる憧憬を分析
銅鏡  :ウィキペディア
古代の青銅鏡づくり 広島市文化財団  :「ひろしまWEB博物館」
SPring-8を利用した古代青銅鏡の放射光蛍光X線分析  :「大型放射光施設」
蒔絵概略史  :「蒔絵博物館 高尾曜のホームページ」

京都国立博物館にある坂本龍馬の遺品 暗殺時に携えていた刀「陸奥守吉行」実物と判明  :「ねとらぼ」

井浦新 :「TEN CARAT」
井浦新 :ウィキペディア


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『真田幸村 逆転の決断術』  野中根太郎   誠文堂新光社

2016-06-10 10:17:38 | レビュー
 本書は、タイトルに「真田幸村」を冠しているが、読んでみると、幸村の祖父・幸隆から父・昌幸、そして幸村への真田三代にわたる真田一族について、読みやすく概説した書になっている。その視点は、真田一族の考え方と生き様にある。慶長20年(1615)の大坂・夏の陣で華と散った武将・真田幸村をその凝縮・結晶ととらえている。
 本書のサブ・タイトルは「相手のこころを動かす『義』の思考方法」となっている。

 時代がどう変わろうと、真田一族が生き残るということを大前提とした戦略が一族の中で貫き通され、その中核の信念が「義」という一語にあるとする。それは己の存在する拠り所との関わりの中での一貫した「義」の在り方といえる。変節することなく、一途に一貫して「義」を貫き通すという生き様が相手のこころを動かしたのだと著者は主張していると理解した。そこに、著者は「生き抜くための智恵と統率力と交渉力」を見つめている。

 著者は真田三代の生きた時代を7区分したステージに分け、7章にして著者のメッセージを見出しとしている。ここでは、真田三代の区分ステージと、そこでの主体になる人物名を先ず記して、著者のメッセージに触れてみる。こんなステージ区分になっている。

 1. 天文10年(1541)~天正10年(1582) 武田家時代  真田幸隆・昌幸
  幸隆が、武田信虎と結託した宿敵村上義清に信濃の故郷を追放され、上野国箕輪城主長野業正に人物を見抜かれ庇護される。この不遇時代に、晃運和尚が幸隆に出会い、彼の才覚を見抜いたという。晃運は後に、松代の真田家菩提寺長国寺の開山となる和尚であると著者は言う。
  そして、その後、幸隆は信虎を追放した信玄に臣従する。幸隆は信玄の生涯唯一の敗戦「砥石崩れ」の後に、砥石城を調略して実績を上げ、信玄の信頼を得ていく。   
  幸隆はその後も戦功を積み、本領だった真田郷を信玄により回復される。幸隆は三男の昌幸を信玄に人質として差し出す。
  昌幸はこの信玄の許での人質時代に、「普通では会得できない多くのものを身につけた」のだと、著者は分析している。昌幸が、信玄を通して、人を見る眼、相手の本質を見抜く眼を磨くことを学んだとみている。
  出典は明記されていないが、著者は昌幸が学んだ信玄の教えを8つ列挙している。参考になるのでそのまま著者の記述を引用する。
 「一 古参や新参の区別なく、手柄話に虚と実の程度がどれほどか。
  二 たとえ手柄があったとしても嘘を常についている人物かどうか。
  三 同僚とのついあい方はどうか。
  四 身分の高い家臣には慇懃であるが、その他には素っ気ない態度をとる人物ではないか。
  五 酒に呑まれる人物か。
  六 人を怒らせるようなことを平気でする人物か。
  七 武具などの手入れや入れ替えにいつも注意を払っている人物か。
  八 武具などに凝るが、鍛錬を怠ってはいないか。」
これって、いまでも少し読み替えればそっくり役立つ教えではないだろうか。真理は不変というところか。
  著者は、「人は、よき師、よき友に出会うことで本物になる」ことを力説する。また、日ごろの行動の大事さと「芯があれば、不利な状況でも動じることはない」という昌幸の生き様を抽出している。

第1章の見出しは「混乱の中で、日本人の礎が築かれた」である。

 2. 天正10年(1582)~天正13年(1585) 真田家苦難の時代  真田昌幸
  武田氏滅亡後に、昌幸が「機を逃さず次の一手を打つ」様の要所を押さえていく。織田信長、北条氏直、徳川家康へと次々に切り替えて従属していく苦難の時代を分析する。ここは昌幸の生き様、思考、戦略として分析した著者のエッセンスのフレーズを引用しておこう。その具体的解説は本書をお読みいただきたい。
  *従属しても、自分の位置は決して見失わない。  p64
  *戦略眼なき者は大将にふさわしくない。  p66
  *たとえ小さくとも存在感を出せば生き残れる。  p68
  *戦略眼の確かさで小が大を破る法 つまり、いい勝負ができるということ。 p70
  *いくつもの策を講じ状況に応じて打つ手を考える したたかに二面作戦 p72,76
  *大勢に帰属しても、譲れないものがある。  家康による沼田領要請を拒絶 p78
  *大と戦っても小が勝つ戦略はある。  p80
 最終的に、昌幸は、家康との決戦に備えるために上杉景勝に帰属している。そして昌幸は家康との戦においては常に優位に立っていたということを、この書で初めて知った。家康にとり、昌幸は苦手な人物だったとは、おもしろい。「強者を恐れない心の余裕」を昌幸はもち続けた人物だったと著者は言う。これがまた幸村にそのまま引き継がれたのだろう。真田一族のDNAなのかもしれない。
  真田一族は不遇の時代に、己の資質の上に、人間力を身につけたようである。

  第2章の見出しは「不遇の時代にこそ、縦横無尽に躍動せよ」である。

 3. 天正14年(1586)~慶長3年(1598) 幸村の修行時代  真田幸村
  昌幸が上杉景勝に帰属したとき、幸村は人質として越後に行く。そこで異例の家臣扱いを受けたそうだ。幸村がそれだけ評価された人物だったということだろう。その幸村が天正14年(1586)後半ごろに、今度は秀吉への人質として大坂に行く。
  一方で、昌幸の長男信之は家康に出仕し、彼もまた家康に気に入られ、家康の養女の形で本多忠勝の娘と結婚することになる。それは真田家が乱世で生き残る盤石の保険をかけることになる。真田のしたたかさだろう。
  著者は、秀吉が北条氏に宣戦布告した契機は小さな名胡桃城を沼田城城代猪俣邦憲が手に入れようと動いたことにあり、そこには「秀吉と昌幸の策略のにおいがしてならない」と分析する。幸村の初陣は真田軍と北条方の大道寺政繁軍の遭遇乱戦の場だったようだ。「幸村は手勢を率いて敵軍に突っ込み、これをしりぞけた」という。
  著者は幸村が人質としてではあったが、秀吉の間近において、さまざまな帝王学や大人物の心の動きを学んだに違いないと分析する。「才覚は人から吸収する」(p116)を幸村は実践できたのだ。この書で認識をあらたにしたことがある。真田昌幸が石田三成とは妻の関係で姻戚関係にあったということと、幸村が秀吉の側近だった大谷吉継の娘を正室に迎えていたということだ。石田三成と大谷吉継が若いときから親友関係だったというのは知っていたが、幸村が吉継の娘を正室にしたことには知らなかった。こういう繋がりも影響があったのだろうか。著者はその点には言及していないが、そんな気がした。
 
  第3章の見出しは「人を見、話を聞き、自らを成長させる」である。

 4. 慶長5年(1600) 関ヶ原の戦い    真田親子(昌幸・信之・幸村)
  関ヶ原の戦いの直前に、真田親子の3人、つまり昌幸、信之、幸村が犬伏(いぬぶし)で「犬伏の別れ」として有名な話し合いをしたという。このとき、真田家の将来の存続に関わる策謀が密かに話し合われたのだろうと著者は具体的に分析している。ここでの密談が真田家の将来のシナリオを決めたようだ。当然のことながら、客観的証拠・資料が残されている訳ではないが、それ以前、その後の各人の行動の軌跡から大凡の類推ができるようだ。ここは本書でも興味深いところである。「家族が敵味方に分かれてでも、家を残す」(p126)。だが、これは大凡どの大名でも考えていたことであると思う。
  関ヶ原の合戦のために、中山道を進んだ秀忠率いる徳川軍と昌幸・幸村との上田城での攻防は、簡潔に状況が説明されていておもしろい。

  第4章の見出しは「大義を貫く決断が、自らを飛翔させる力になる」である。

 5. 慶長5年(1600)~慶長19年(16147) 雌伏の時代  真田昌幸・幸村
  関ヶ原の戦いの後、昌幸は家康に降伏する。昌幸54歳、幸村34歳のときに、紀州高野山麓の九度山に配流され蟄居することになる。当時の紀州和歌山の領主は浅野幸長。彼は関ヶ原の戦で東軍に味方したが、秀吉の親戚筋でもあったようだ。真田親子にはわずかな生活費しか与えないが、それなりの自由は与えていたと著者は分析している。真田親子は信之からの援助を頼みとしたようである。この時期に刀の鞘に巻く独特の組紐から商品化された、いわゆる真田紐が生活の糧として、家臣たちにより行商されたとう伝承がある。これは生活の資を得るという必然的な意味もあるが、この本を読んでいて、昌幸・幸村が蟄居しながらも世間の動きについて情報収集を積極的にするための手段、隠れ蓑ではないかとふと思った。
  昌幸は慶長16年(1611)に没す。著者は「死ぬまでプラス思考 戦略眼を忘れない」人物だったと評している。

  第5章の見出しは「たとえ苦境でも、自らを磨き、高められる」である。

 6. 慶長19年(1614) 大坂冬の陣    真田幸村
  幸村は豊臣方につく。40代後半になっていた幸村は、「いい仕事をして死んでいきたい。ここは一つ、自分というものを示したい、自分の義というものを見せてやろうと思ったにちがいない」と分析する。義のために立ち上がるという、己の生き方を貫くのである。
 前章において、大坂の陣のとき、信州の武士たちの他、猟人たちが志願してつくった鉄砲隊が100人もいたというと記している。幸村が九度山を脱出したのは慶長19年(1614)10月9日だそうである。無事に大坂城に行けたのは、阻止しようとする動きがなかったのだろう。このあたり、興味深いところである。
  著者の説明によれば、幸村は豊臣の姓をもらい官位も従五位下と、大名格になっていたという。
  幸村の統率力を分析し、著者は2点指摘する。(p185)
1. 作戦の見事さ。この人を信じていけば必ず勝つと思えたこと。
2. 幸村の掲げる大義と、幸村の人格を見て、その通りと信じ、自分の戦いに誇りと意義を見出すことができたこと。
つまり、幸村に従えば、己の人生が意味ある人生だったと言える思いにさせたということを著者は指摘する。「義を貫く生き方」(p190)、「品格や道義といったものに価値を置く生き方」(p191)に著者は利よりも尊いものだと賛同している。
  ここには、幸村の冬の陣での働きが要領よく総括されている。

  第6章の見出しは「満を持して、大義を実現する」である。

 7. 慶長20年(1615) 大坂夏の陣   真田幸村
  大坂の冬の陣での真田丸の攻防戦が、幸村の名を知らしめ、英雄伝説を確立する。
  戦いに勝つ基本の策は先手であるが、夏の陣においても、幸村の提案はことごとく軍議で受け入れられなかったという。大坂方には、戦略眼のある人物が居なかったのだろう。その中で幸村はできる範囲での最善の策を考え出し、寄せ集め部隊でも工夫により強くさせて行ったようだ。著者はその経緯を簡潔にまとめている。幸村の取った作戦は、一点に力を結集するという方法だったという。真田軍は徳川家康をあと一歩というところまで追い詰めるところまで行った。それが「真田日本一の兵(つわもの)」という評価を残したのである。
  義を貫き、「大勢は決すとも、決死の覚悟で一矢報いる」(p216)という幸村の生き様である。家康による幸村の首実検の折のエピソードが記されているが、おもしろい。家康の幸村に対する評価が端的に表出していると感じる。

  第7章の見出しは「義に生き、華と散る美しさ」である。

 各章に見開き2ページのコラムが載っている。これが結構おもしろい。その見出しをご紹介しておく。
 「山本勘助」、「真田三代記」、「真田十勇士」、「信之の役割」、「手紙に書かれなかった本音」、「酒好きの幸村」、「真田と忍者」  である。

 巻末に、「真田家略系図」、「真田家年表」、「人物相関図」が資料としている。便利である。

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真田氏に関して、本書を踏まえて少し関心事項を検索してみた。一覧にしておきたい。
真田氏 :「武家家伝」
あの人の人生を知ろう~真田 幸村(信繁)  :「文芸ジャンキー・パラダイス」
真田信繁  :ウィキペディア
幸村だけじゃない!チーとすぎる真田一族まとめ  :「NAVERまとめ」
真田氏歴史館  :「上田市」
御屋敷公園 | 上田城以前の真田氏の館跡  :「はじめての上田城観光旅行レビュー」
上田城跡  :「上田市文化財マップ」
上田城   :「城下町絵図アーカイブ」
大河ドラマ「真田丸」の舞台(3)…真田昌幸が死守した因縁の沼田城
  城郭ライター 萩原さちこ  :「YOMIURI ONLINE」
沼田城戦史Ⅰ~沼田の変遷と真田昌幸~ :「戦国籠城伝」
真田三代記  :「コトバンク」
真田三代記 正伝 臼田亜浪 著  :「近代デジタルライブラリー」
絵本真田三代記 :「近代デジタルライブラリー」
九度山・真田ミュージアム  :「九度山は真田のこころ生きる郷」
真田家の館 ホームページ
安居神社-真田幸村終焉の地-  :「真田丸」
真田丸(真田出丸)概要  :「真田丸」


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『美しい切り絵。』 大橋 忍  エムディエヌコーポレーション

2016-06-07 10:12:44 | レビュー
 繊細で可愛いくて、タイトルにあるように美しさを感じる切り絵の小品が本のカバーに使われている。表紙に惹かれて手に取った本である。切り絵作家というと、私が真っ先に想い浮かべるのは、宮田雅之氏の重厚かつ華麗な切り絵である。井出文蔵氏の切り絵もまた土の香り、郷土色を感じさせる独自の世界。そういうジャンルの切り絵を連想していた。それに対して、軽やかな、身の回りの身近な対象を女性の感性で可愛らしいタッチの切り絵にした小作品の世界もまた、見ていて楽しいというのが第一印象だ。
 
 数えてはいないが、背表紙によると158の図案がこの本に収録されているそうである。
また、表紙裏に記載のプロフィールによれば、「言葉や音をヒントに、植物や鳥をモチーフにした切り絵作品を展開」している切り絵作家で、活動は関東中心のようである。
 本書は、切り絵作家としては、初の図案集となるようである。

 この本の最初に、2012.9~2015.8の「大橋 忍 作品集」として、「一縷」という作品から「紺碧をひとつ」まで15作品がまず掲載されている。私好みで3つ選ぶとするなら、「一縷」「ことのは」「TABOO」というところ。

 本書は、カッター1つで、どのようにして切り絵を創り出すかというプロセスを丁寧に工程写真にキャプションを付してわかりやすく解説を付け、図案の切り絵小品の完成写真が載せられていて、実にわかりやすい。切り絵を手掛けてみようと思いたった人には便利な入門書となる。p20「本書の使い方」には、「図案(PDF)をダウンロードできます」と記されている。完成品を反転した白黒の図案がダウンロードできるようである。そういう点でも手頃と言える。
 本書には「仕上がりがイメージしやすいように図案は原寸・カラーで掲載」されているので、仕上がり作品のページを見ていくだけでも楽しめる本になっている。
 私には、まず切り絵がどのようにして作品として仕上がれていくのかという工程の理解と、しばしの間、原寸としての切り絵図案の小品を楽しむという目的を果たせた本である。そして、切り絵の世界もいろいろあるのかな・・・・という関心から、切り絵の世界への関心の波紋をインターネットを介して、少し広げてみた。宮田雅之、井出文蔵というように、単発に部分的に知っていた切り絵の世界が面的に広がるトリガーとなってくれた本になった。

 本書は作品集の後は、3部構成になっている。目次には部とは記されていないが仮にその形で説明していこう。

 第1部 切り絵を手掛けてみたい人のためのガイダンスがまとめられている。
 「本書の使い方」、「切り絵の準備」、カッターナイフの「持ち方の基本」、「下絵の張り方」、「基本の切り方」、「和紙の貼り方」という形で懇切丁寧な写真入り説明である。
 私には、切り絵作品がどのように作られるかを理解する参考になった。

 第2部 「動物・鉱石を用いた切り絵」について、「作例」「工程」「図案」というステップで載せてある。仕上がった作品を額などにいれて飾ったイメージ写真がまず作例として提示されている。そして、コマ撮り写真にキャプションを付けて、工程が丁寧に開示されている。最後に仕上がった切り絵図案の原寸大写真がカラーで載っているのだ。
 図案名を列挙しておこう。
 やぎ、ひつじ、ミニぶた、ペンギン、キリン、はと、すずめ、白鳥、つばめ、るりびたき、バク、ハリネズミ、猫と柴いぬ、猫ABC、オカメインコとインコ、窓と黒猫、花飾り、とんぼ、ひなたとねこ、けずくろい、さんぽ、おつかい、鉱石とフラミンゴ、鉱石とランプ、鉱石とペンギン、鉱石、花つみ、ハーブティー、鳥かご、オーナメント4種 といった具合である。

 第3部 「花・文字・数字を用いた切り絵」について、第2部と同様のステップでとりあげられていく。図案名は省略するが、最後に花と平仮名1文字および花と数字1文字の図案が列挙されている。切り絵でメッセージを伝えてみては!と提案し、作例を提示しているのもおもしろい。

 切り絵による方言カードを作って手紙に添えては・・・というアイデアも投げかけられている。そして、作例として「まいどさん」「あんやとね」という方言例の切り絵が載せてある。著者は福島県出身とプロフィールに記されているので、この2つの言葉は、たぶん福島の方言なのだろう。「あんやとね」の切り絵は裏表紙の中央にも載せてある。

 最後に少し、補足をしておこう。プロフィール紹介が簡略だったので、ネット検索で少し調べて見た。そのソースは後掲しているが・・・・。
 この切り絵作家をイメージするのに役立つかもしれない。感想を含めて箇条書きで要点を捕捉しておきたい。
 
 *地元(福島)の美術館で、サルバドール・ダリの絵を幾度も見たことが「絵」に対する興味の始まり。中学3年から独学で切り絵を始めたという。
 *専門学校に進学するつもりで、学校に無断で受験し合格。しかし、美術部顧問の先生にしかられ、美術系大学に進学。しぶしぶ受験したというからおもしろい。
  その結果、文星芸術大学で学び、卒業。デザイン専攻10期生。
 *絵が下手でも、「なにかを切りたい」という気持ちが動機にあったとか。切ってみると「味」という点でごまかせるという発言もおもしろい。
 *文学・数字・音などに対する「共感覚」から色を感じ、モチーフを決めるという。
 *ストーリーがかっちりするものよりも、あやふやさを残すモチーフが好き。その結果、植物や動物のモチーフを好むという。
 *漫画・コミックの世界と切り絵の世界は「異文化」だと思うが、それに関わったことで刺激を得た。幸運な出来事。
  ⇒講談社コミックス『聲(こえ)の形』に影響を受け、「切り絵文字」の作品化
 *切り絵は「影も含めて一つの作品」という。
 *切り絵は「必要なものを見きわめるための練習」だという。

 著者はこの本は「図案集」なので、「読んで終わりではなく、切っていただいて完成するものだと思っています」とのこと。なので、私は未完成の状態でこの印象記をまとめたことになる。


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著者に関連する情報を中心に、また印象記に触れたことにも波紋を広げて、ネット検索してみた。一覧にしておきたい。

[美しい切り絵。]大橋忍さんによる切り絵の実演 つばめ編 :YouTube
美しい切絵。  :「MdNの本」
Ohashi Sinobu Profile Site
   トップページでまず作品を鑑賞することができます。
大橋忍 Pickup Creators VOL.81 :「アットクリエイターズ」

アクティビティ 学生の活動  :「文星芸術大学」
《インタビュー》大橋忍 -紙一枚からストーリーを創り出す切り絵作家-
   by MOMO MIURA :「ARTIST PRESS」 
彩りと陰影を切り絵で 若手作家・大橋さんが県内初個展
    2015.9.22  :「東京新聞」
空中で揺れる「文字の切り絵」がツイッターで話題 :「NAVERまとめ」

宮田雅之切り絵の世界 作品紹介 :「宮田雅之切り絵の世界」
ギャラリー BUNBUN ようこそ 井出文蔵きりえの世界へ
GALLERIES :「nahoko KOJIMA」
立体切り絵作家 SouMa の世界へようこそ

日本きりえ協会 ホームページ
富士川・切り絵の森美術館 :「山梨県富士川クラフトパーク」

切り絵のつくり方  :YouTube
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『カルテット4 解放者(リベレイター)』 大沢在昌  角川書店

2016-06-04 14:56:14 | レビュー
 単行本で読んだのでそのまま読後印象記をこの1冊としてまとめておきたい。
 2015年10月に、『解放者 特殊捜査班カルテット2』 (角川文庫) として、このカルテット4と前回書いたカルテット3が合冊本となり、角川文庫化されている。この単行本の副題が文庫本でのタイトルになっている。

 カルテット3は、このカルテット4の特殊捜査任務へのチーム確立の助走だったともいえる。この表紙のイラストは、カルテットつまり4人中の1人、クチナワである。カスミ・タケル・ホウ(=アツシ)というチームに任務を指示し、バックアップする。警察機構という国家権力の中に、特別捜査班を超法規的存在として認めさせている人物である。この第4作でクチナワの背後には、その特別捜査班の任務を承認する8人の委員会という存在が明らかになる。

 カルテット3で、最後にタケルが傷つき、さらにホウがカスミを助けようとして肋骨を折られる怪我をする。そのホウの退院祝いに、ホウの希望したクラブに3人が行った場面からストーリーが始まる。六本木にひと月前にオープンしたばかりで、都内で最もとがっているという評判のクラブだ。ホウはそのクラブのDJは悪くはないがリンの真似だという。そのクラブでホウは知人でダンサーのケンを見つける。そのケンが、最近一番多く行くのは、「解放区」と称する野外イベントだという。携帯電話やパソコンにメールで開催情報が届き、ある日ある場所が、突然にイベント会場に指定され、「解放区」が設定されダンスイベントが始まる。警察が本腰を入れて取締まりに入る直前に、イベントが唐突に終わるという。その会場ではバツ、エス、ボールと称されるクスリがただで配られているという。カスミはケンから、解放区の案内を得るために、ケンとメールアドレスを交換した。解放区の話を聞いたタケルは、きっと何かカラクリがあるに違いないと断言する。

 クチナワがホウの「退院祝い」という名目で六本木にある中華料理店に3人を招待する。そこでクチナワが3人に話したのが、ここ数ヵ月に都内と近郊で発生した連続破壊工作のことである。それはタチの悪いイタズラで、死者や怪我人は出ていないが、何千、何万という不特定多数が被害や混乱に巻き込まれているという。この悪質な妨害行為を行っている者をネット上ではリベレイター(解放者)と呼んでいる人間がいるという。一方、3日前には千葉で送電線を破壊しようとしていて感電死した黒焦げ死体が発見された。その身元を調べた結果、解放区と呼ばれる野外ダンスパーティに参加していたことがわかったという。
 クチナワが3人に与えた任務は、解放区に潜入し、リベレイターとの関係を探ることと、関係が確認されたらその目的を明らかにすることである。

 クチナワと別れたすぐ後で、3人はホウが知っているゴールデンタイガーと称するグループに襲われる。そのことは、クチナワから与えられた任務に関連することと、彼ら3人が六本木にこの日居るということを知っている第三者の存在を意味する。かつ、それはリベレイターの側に関連している人間が警察組織内に存在することを暗示しているといえる。
 3人が解放区に潜入して初期段階はクリアできても、クチナワに3人が連絡した時点で、リベレイターに関係する警察組織内部の誰かに情報が漏れて、リベレイター側に連絡される可能性があることを意味する。このまま何もしない選択をしても、再び誰かに襲われることもあり得る。3人は潜入捜査を引きうける選択をする。
 カスミはメールで、午前2時から、新宿区神宮外苑のグラウンド246の先でイベントが始まるという通知を受信する。そして解放区への潜入が始まる。

 この作品で「解放区」という野外イベントの設定が興味深い。携帯電話やメールアドレスを介した不特定多数の参加者募集という発想にはリアル感がある。それは、インターネットを介した呼びかけで、国会議事堂周辺での大規模デモが繰り返し行われたごく最近の実例を想起させる。つまり、主旨に賛同あるいは興味を持った不特定多数がインターネットを介した情報発信・受信で短時間の間の交信でどこかに集結するということを起こせる時代なのだ。
 「解放区」は若者たちの鬱屈した日常の気持ちを発散できる場を意図的に創り出す。クスリを無料でばらまくという形で、エネルギーを爆発させる環境が助長されるなら、それは一層ある種の若者達を吸い寄せる。単純な口コミでの好奇心がその波紋を増幅するだろう。ここで描かれた野外イベント企画が物語にとどまるのは、それを実現する資金である。ここで描かれた野外イベントの環境設定にかなりの金が要ることだ。だから、リアル感を感じながらも、少しハードボイルドなエンターテインメントとして楽しめるとも言える。

 粗筋は、神宮外苑での解放区に潜入した3人は、ケンがダンスの中心にいることに気づく。カスミはケンに近づいて行く。カスミは潜入捜査という任務の枠を超えてケンに惹かれていく。カスミとケンが接近することになぜかイライラするタケシは、ホウと共に解放区の主宰者に食い込める糸口を探し始める。あるトラブルを見出し、それが契機で主宰者に至る。主宰者はタケシとホウにリベレイターの件をタチの悪いいたずら次元の面白さ目的でやっている認識で、話を持ちかけてくることで、クチナワの推定したシナリオが当たる方向が見え始める。相手に警察内部情報がリークしている危険姓を前提にして、主宰者の話にどう対処しこの先の捜査をどうするか?
 一方、ケンに近づき一線を越えたカスミもまた、任務を放棄した訳ではなく、別の経緯から主宰者に至る。そして、カスミはそのプロセスで、大凡のカラクリを解明してしまう。だが、それは己を窮地に陥らせる契機にもなる。
 
 このストーリー展開の構想で興味深い設定は、セレブの女が金がどれだけかかるかは気にせず、若者に鬱屈した欲求の発散の場を提供し、楽しませてあげるという目的を実現している。お遊び感覚で主宰するその企画の頂点にいて、己のもつ力を楽しんでいる。だがその主宰者は操り人形にしか過ぎない。その楽しみの背後には大きなカラクリが仕組まれていたという次第。
 この解明に至るプロセスがこの第4作の読ませどころである。それがクチナワの構想する特殊捜査班の背後にある委員会も既に蝕まれている部分があったというアイロニカルな設定も含まれていて興味をそそる。
 クライマックスの段階は、ストーリーの始まりから読み進めて行っても、意外性に満ちた展開となっている。さすが、ストーリーテラーである。

 もう一つこの作品の興味深い点は、カスミを指揮官にし、タケルとホウ(=アツシ)を手足として特殊捜査班が行動するストーリー展開に、若者の心に生まれる「愛」の側面を絡ませ、織り込んで行く点である。十代の読者にはこの側面にかなりのウエイトがかかり、感情移入のテンションが高まるかもしれない。
 カスミに対し芽生え始めたタケルの恋心が、ケンの登場で一挙に表に湧出してくる。ホウもまたカスミにある種の感情を抱きつつ己を制御している。それ故に、タケルの思いがホウには分析できる。タケルは己の心の内奥を見詰め、この特殊捜査の任務との葛藤に悩んでいく。カスミはカスミで、タケルとホウの己に対する感情に気づいている面がある。それでいてケンに惹かれていく・・・・。そのプロセスに、分析的視点も加味されていて、なかなかおもしろい感情分析ストーリーという側面があっておもしろい。

 最後の戦いの現場で、タケルが言う。「この中にいたんだ、藤堂は」
 この一言が、どんな展開のプロセスにあるかを、この物語を開いて楽しんでいただくとよい。

 そして、第4作は次の文で締めくくられる。
 「一時間後、カスミを乗せた救急車が付近のどの救急病院にもついていないことが判明した。該当する救急車が発見されたのは翌日で、社内には隊員もカスミの乗った痕跡も、いっさい残されていなかった。」
 これは、このこのシリーズの後急転回が始まる予感を読者に抱かせるエンディングだ。シリーズ映画での常套手段でもある。できるだけ早く、この先を読んでみたい。

 ご一読ありがとうございます。

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徒然にこの作家の小説を読み、印象記を書き始めた以降のものは次の小説です。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。

『カルテット3 指揮官』 角川書店
『生贄のマチ 特殊捜査班カルテット』 角川文庫
『撃つ薔薇 AD2023 涼子』 光文社文庫
『海と月の迷路』  毎日新聞社
『獣眼』  徳間書店
『雨の狩人』  幻冬舎