遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『関西人の正体』  井上章一  朝日文庫

2018-04-29 10:16:10 | レビュー
 調べてみると、2016年7月に文庫本として出版されているので、この表紙をまず引用した。

  私が読んだのは、この表紙の単行本である。
 本書は、雑誌『DENiM』掲載の「関西学」というコラムに執筆されたエッセイを中心に、他誌初出のエッセイ2つを含め、1995年8月に小学館・ DENiM books の1冊として出版されたものである。これは読後に奥書を読んで知ったこと。
 
 この本を読む気になったのは、友人とのやりとりの中で、著者が江戸時代の学者富永仲基の主著である『出定後語』について触れていると知ったことによる。単純に著者がどういうことを書いているのかという関心からだった。本書が何を取り扱っているかも知らずに手に取った次第。

 読後印象の結論を先に言えば、主として関東の人々が発言する、あるいはイメージを抱く「関西人は・・・・・」というステレオタイプに対して、一種もの申すというスタンスで反論を書き連ねているという感じのエッセイである。だが、ここにてんこもりに書き連ねられたものは、結構逆説的でアイロニカルな発言と観点に満ちている。
 著者は言う。「私は、いわゆる大阪論、京都論の常套をこわすことを、めざしている。世間にころがっているゴミのような関西論を茶化したい。こんな気持ちで、書きつづけているのである」(p88)と。
 四半世紀近い前に書かれたエッセイなので、話材に使われている事例などははやなつかしいなあ・・・・と思い出す類いのことが多くある。しかし、ここで論じられているのは、おもに関東から見た関西論、関西人論への問題提起であり、また関西に在住する著者が地元の近畿をどうみて、どうとらえているかの所見でもある。近畿つまりかつて政権の中枢となった「畿内」をそこに住む人間が自らを「関西」と呼ぶことにも、アイロニカルな視点で著者は論じているから、おもしろい。そう言われればそうだな・・・・と思うところが、あちらこちらに出てくる。
 書かれて二十有余年もたつが、問題指摘の点や論点は今も変わらず厳然と続いているように思う。関西論、関西人論がそんなに急変するわけがない。連綿と同じような色眼鏡、ステレオタイプな見方は継続されているように思う。

 私が本書を読むきっかけになった事に関しては、第1章「関西弁の真実」に収録された「関西弁は議論に向かないという知識人」というタイトルのエッセイに出てくる。著者は富本仲基という大坂の商家育ち、ナニワのアキンド、コテコテの大阪弁、バリバリの関西弁の人物が、18世紀に今日風に言えば知識社会学とも言える仏教研究書を出版していて、関西弁がその中に出てくるという事例に取り上げただけだった。私はこの書の内容に触れているのかと想像していたのだが、それは肩すかしだった。だが、「関西弁は議論に向かない」というステレオタイプに対する反論事例として例示しているのはおもしろいと思った。著者は言う。「関西弁でも、抽象的な思考はできる」「思想的営為を積み重ねることは、できる」と。そらそうや、あたりまえやないか・・・・と同意する。
 
 第1章に収録の「オーマン港をなんと読む?」というエッセイがこっけいである。放送禁止用語からみの裏話、著者の体験談といえようか。また、「マスコミのつくる関西弁」は皮肉たっぷりである。

 ステレオタイプの関西論、関西人論について論じた初出のコラム欄が「関西学」だという。『関西人の正体』というタイトルづけもまた逆説的でおもしろい。ステレオタイプな思い込み、偏見的見方に反論し、関西をいわばミソもクソも一緒くたにして一つの見方で論じることに反論しているはずなのに、「関西人の正体」がひとつである様なイメージを与えかねないタイトルのネーミングになっている。さらに、ここでは反論の事例や話材は主に大阪と京都の事例である。近畿地方を関西というなら、その他の県はほとんど出て来ない。著者が関西論、関西人論で反論しているのも、ある意味では地域限定と言えるかもしれない。京都人の一読者としては、限定された範囲内の地域で生活してきているので、わりとすんなり、このエッセイをおもしろ、おかしく、時にナルホドとうなづきつつ読み終えた。

 せっかくなので、単行本と文庫本の表紙関連で少しご紹介しておく。
 単行本の表紙のイラストは、第2章「大阪の正体」に収録の「”大阪のパワー”と人がいうとき」に直接関連する。大阪の町並みが大阪ミナミの町並に直結し、そのイメージがこの人形に直結していくという事例として出てくる。このステレオタイプな見方を俎上にあげる。一方、「江戸こそ食いだおれの街」というエッセイの最後あたりにも、この人形の出番が来る。
 文庫本の舞妓さんの左のオバチャン。「大阪の女はケバい」というエッセイに関連する。だが、著者は関東のマスコミが、大阪のハデな女の映像をステレオタイプに切り出させているに過ぎない、大阪以上に東京の方がハデな人が集まるスポットは多いと論じる。これはマスコミが作り出すステレオタイプの問題点を指摘している。「テレビは、宿命的に紋切型しかうつさないメディアなのである」(p81)と論じている。
 この章に「”風俗発祥の地・大阪”というぬれぎぬ」というエッセイがある。昔なつかしい言葉をここで目にした。「ノーパン喫茶」という語句。なんとこの発祥地は大阪ではなく、京都だったというのを初めて知った。この点に関し自信があると著者はいう。また、「ホルモン焼き誕生秘話」は「ホルモン」の解釈に蘊蓄が傾けられていておもしろい。

 文庫本の僧侶(坊主)のイラスト。これは第3章「京都の正体」に収録の「ぼんさんがへをこいた」というエッセイに関連する。「坊主」という言葉の使われ方を論じるとともに、京都における僧侶の多さに触れ、また「ぼんさん」が坊主にからむのか、丁稚制度の丁稚にからむのかを論じていて興味深い。
 「京都の景観なんて、どうでもいい」というエッセイはまさに反語的な見出しだが、京都の現状を的確にとらえていると思う。景観保護問題の規制についてのいびつな運用を皮肉たっぷりに論じている。京都の伝統的な景観美の頽落をくい止められないのは京都の経済力の有無との二律背反だと論じている。
 「京の町家」というエッセイでは、町屋の景観が破壊されていく必然性を解き明かしている。税制、都市行政が一般の町屋存続を不可能にしている側面を指摘する。そして、他府県で京都村をこしらえてはという声を事例に取り上げる。「きっと、そんなところでは、舞妓や芸妓が、アルバイト学生の仕事になるんやろな」と記す。舞妓さんのイラストはこのエッセイに直接関連しているように思う。ホントの舞妓ではなく、似非舞妓の発生という展開への連想に。イラストの着物に般若の絵が書かれているのは、仮面の連想かも・・・・。本物の舞妓さんならそんな図柄の着物を着るはずがない。そう言えば、最近は借衣裳の舞妓姿の京都歩きはあまりみかけない。一方で見るからに借り物の着物姿京都名所観光組がやたら目につくようになってきた。似非舞妓姿の影が相対的に薄まっただけなのかも・・・・しれないが。似非舞妓姿はブームが下火になったのかな?

 僧侶のイラストの右側に阪神ファンの人物イラストが描かれている。これは第4章「関西全体への大誤解」の中に収録されている「阪神ファンでないひとの運命」に関連しているのだろう。本文は「私は、阪神ファンである」の書き出しから始まるエッセイである。阪神ファンの悲喜劇をおもしろおかしくまとめている。野球に関心のない私には、ファンの心境はわからないが。だがこのエッセイのアイロニカルなおもしろみは楽しめた。

 最後に、エッセイに出てくる著者の所見のいくつかをご紹介しておこう。思考素材になる。
*もちろん、バイタリティを強調するのは、東京からくる論客だけではない。地元のジャーナリズムも、しばしば同じことを力説する。大阪の底力を、うたいあげる。
 ちなみに、底力がうんぬんされるのは、没落地帯の特性である。  p55
*ケバい女が多いからそうなるのではない。彼女たちの集まれるスポットが限られているから、集積度が高くなる。狭いエリアにやってくるから、群がるという印象になる。 p82
*文化の中心地では、ユニークさだけが、クローズ・アップされることはない。標準的な思考、制度的な理念も、じゅうぶんに浮上する。
 中心地には、文化の諸相があるれている。ひとつの相だけが目につくというようなことはない。
 だが、辺境地は違う。そこには、文化の全局面をうきたたせるだけの力がない。浮上してくるのは、一部のものだけである。・・・・
 辺境地が中央にたいして独自性がほこれるのもこの点だ。そこには、中央にはないユニークな部分でしか、自己の存在をアピールすることができないのである。中央に対峙できるのは、ここだけなのだ。 p102
*一方は、東京化の波を関西へ押しつけてきた。そして、もう一方は、その東京化に抵抗しつづける者を、もちあげる。たがいのめざす方向は、まったく逆であるように、見えかねない。だが、この両者、じっさいは共犯関係にあるのではないか。 p186
*政治の力が東へうつる。経済の中心も移動する。文化も右へならへとなる。
 この傾向は、どうあがいてもとめられまい。首都・東京都の格差は、これ以後もひろがる一方であろう。京・大阪は没落を運命として甘受するほかあるまい。  p210

 この本、ところどころに喜多桐スズメさんの4コマ漫画が併載されている。本文のエッセイと呼応していておもしろい。

 ご一読ありがとうございます。


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『津軽双花』  葉室 麟   講談社

2018-04-27 12:34:03 | レビュー
 2016年7月に発行されたこの単行本には、タイトルとなっている『津軽双花』の他に、『決戦! ****』という作家競作シリーズに著者が発表している3つの短編『鳳凰記』、『孤狼なり』、『鷹、翔ける』が併載されている。決戦!シリーズの読後印象記は各々を既にご紹介しているので、ここでは本書タイトルの作品についてだけ、まとめてみたい。
 奥書を読むと、『津軽双花』は2015年8月~12月に毎日新聞で連載されたのが初出のようである。この時代小説は、関ヶ原の合戦の後に、津軽藩4万7000石の津軽信枚に嫁した二人の美貌の女性の心情と葛藤を描くということをテーマとしている。
 二人の女性は、それぞれ関ヶ原合戦を契機として、時代に翻弄される運命にあったともいえる。それはなぜか?

 まず津軽家の位置づけを明らかにしておこう。話は信枚の父、為信の次代から始まる。為信は津軽地方を支配していた南部氏から自立して一家を為した。天正18年(1590)の小田原合戦には、秀吉に味方し、津軽一円の領有を認められる。このとき、本領安堵に石田三成が口添えをしたのである。慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦では、家康に味方して功を上げ、その結果津軽本領を安堵されたうえ、翌年上州大館2000石を飛地として加増される。信枚には兄信建がいたが、信建は父とそりが合わなかった上に、8歳の遺児を残し、父より先に病没する。その結果、為信が信建の後を追うように亡くなると、信枚が家督を継ぐ。そして、家督問題の内紛に粛清の手段を用いてケリをつける。争いが家中に深い傷を残すが、信枚は甘受する。父が豊臣家に仕えている時には、父の命により、信枚はキリシタンの洗礼を受けた。そして、父の没後に、先を見越していち早く棄教する。「家中でのおのれの評判を顧みずに主君に報告いたす家臣は、主君が家臣たちから憎まれるのを防いでおるのだ。それゆえ、まことの忠臣であろう。憎まれてこそ忠臣とはおかしな話だな」(p23)という考えを持つ藩主である。津軽家を守る意志が強く、先を読め、天海が利け者と評価する武将である。
 三成の居城佐和山城が落ちた時点で、津軽信建は三成の息子の一人、隼人正重成をいちはやく津軽に落ち延びさせた。津軽家では、重成をかくまい、杉山源吾と名乗らせ家臣とした。そのことを天海も家康も知っている。

 そんな背景を前提に、秀吉の正室だったねね、落飾後の高台院は、慶長15年、養女にしていた辰姫を津軽信枚の正室として嫁がせた。辰姫は石田三成の娘だった。そして、高台院は津軽家の家督を継いだ信枚と石田の縁が薄い故に、津軽家の家臣となった重成のためを考慮し、信枚と石田の縁を深める意図を秘めたのだ。辰姫は津軽藩の江戸屋敷で過ごすことになる。信枚と辰姫の仲はしっくりと育まれていく。
 勿論、家康と天海は辰姫の素性も知っている。
 
 慶長18年(1613)、このストーリーのトリガーが引かれることになる。徳川家康の姪である満天姫が登場することになる。満天姫は11歳で、安芸50万石・福島正則の養嗣子、政之に嫁し、嫡男直秀を生した。正則の実子忠勝が生まれると、正則は理由を付けて正之を廃嫡し、その後幽閉した。満天姫は正之が廃嫡されると直秀を伴って実家へ戻っていたのだ。下総国関宿から江戸城に呼び出された満天姫は、天海の謀にのり、津軽信枚に嫁がざるを得なくなるのである。満天姫は天海の謀を回避するために、家康から<関ヶ原合戦図屏風>を下げ渡されることを交換条件にしていたのだ。離縁を経験した満天姫は、夫婦が生木を裂かれるように別れる苦しみを辰姫が石田三成の娘だとしても味わわせたくはないという思いを抱いていたのである。
 よもやと思っていたのに、家康は応諾した。それには、大坂攻めを想定した家康の政略が背景にあった。家康は、大坂攻めを前提にし、利け者である津軽信枚を仙台の伊達正宗への押さえとして徳川方の味方であることを外見的にも鮮明にさせたいという狙いがあったのである。「まだ戦の世は終わっていないのだ」という家康の一言が、満天姫の心を動かすことになる。
 「戦の世が終わっていないとすれば、満天姫が津軽家に嫁ぐことは泰平の世を開くための一石かもしれない。だとすると、やりがいはある」(p13)と。

 天海僧正が津軽信枚に満天姫との縁組話を持ち込むと、信枚は加増された結果の飛地である上野国大館の陣屋を整備し、正室辰姫をここに移していたのである。辰姫は江戸屋敷を出て大館に住むことで、石田三成の娘であること、信枚の正室であるとは何かなどについて思いを巡らし始める。

 満天姫は信枚に嫁ぐ前に、一度辰姫に会っておきたいと思う。そして、天海の先導で突然の如くに、大館の陣屋を訪れて二人が会することになる。ここから二人の心情次元での戦が始まっていく。
 辰姫の実兄・杉山源吾が大館に着き、天海僧正の大館来訪予定を報せる直後に、天海と満天姫が追いかけてきたかの如くに、現れる。この面談がストーリー展開の最初の山場になると共に、ある意味でそれぞれの生き様を方向づけていく契機になる。この場面、なかなか面白い展開である。

 慶長18年6月、満天姫は津軽家に輿入れする。津軽藩江戸屋敷に居住することになる。
 徳川家康の肝いりであり、満天姫が外形上は信枚の正室となる。一方、元正室の辰姫は大館の陣屋に住み続けることになる。辰姫は、信枚の正室であるという矜持を保ち続け、石田三成の娘に恥じない存在たらんとする。周りの人々は大館御前と呼ぶようになる。
 一方、信枚に嫁いだ満天姫は、初夜にいきなり大館御前を召し放ってほしいと信枚に告げるが、信枚は満天姫の願いを拒絶する。ここから二人の関係が始まって行く。
 満天姫の反応が興味深い。信枚の拒絶は、妻としては悲しいが、家康が背景に控えていることを承知で、満天姫の要求を拒絶した武士の気概を、慕わしく信ずべき御方とわかり、女子としては嬉しいというのである。そして、祝言は挙げたが、初夜の今宵から直ちに寝所を別にしてほしいと告げる。つまり、家康という大御所の権力とその存在を捨象して、己自身の存在としての関係づくりという道を歩み始めるのだ。満天姫は言う。
 「女子は臨まれてこそ夫とともに生きていけるのです。わたくしは殿に望まれる女子となる道を歩もうと思い定めました。この道を歩めば必ず殿のもとに参れると信じております」(p43)と。
 著者は、政略の道具としての婚姻関係で送り込まれた満天姫に、政略の道具であるという点は自覚した上で、自立した女性の意識で泰平の世への一石として殉じるというスタンスをここに描き出す。かつ誠の心情での夫婦の繋がりを求めるためには、茨の道を辞さない覚悟を持った女性像を満天姫にも投影していく。大館御前と呼ばれるようになった辰姫もまた、信枚の生き方を支えていくために違う意味での茨の道を歩むことになる。

 ここに二人の女性による関ヶ原の合戦が始まっていく。外形上は、家康と三成の更なる代理戦争があらためて二人の間で始まったかのようである。それは大阪城での合戦が家康の脳裡で想定されている時点が事の始まりとなっているからだ。家康が津軽藩のいわば地政学的立地を念頭に置いた布石である。関ヶ原の合戦での家康と三成の真の思いはどこにあったのかが改めて、辰姫と満天姫の関係に重ねられ、投影されていくことになる。
 そして、時の流れとして大坂の冬の陣、夏の陣が進展していくことになる。
 大坂攻めの展開には、辰姫と満天姫の出自とバックグラウンドが再び蘇り、高台院をも巻き込んで、一つの役割を担っていく。津軽藩の双花が投げ込まれ、関わって行くことになる。さらに豊臣の義は何かという視点も高台院を介して語られて行く。ここに著者葉室の歴史的視点があり、それは「決戦!」シリーズで発表された短編小説とも呼応する。

 元和5年1月1日に辰姫は大館の陣屋で男児を生む。平蔵と名づけられる。
 その年6月、新たな問題が発生する。本多正純が画策し、信枚に津軽藩の移封を投げかけてくる。それは広島の福島正則を津軽に移封することとの絡みとして出来する。ここでもまた、満天姫と辰姫が重要な役割を担っていく。
 二人の生き様は、津軽家の存続という観点で、政治の側面への関わりと戦いを余儀なくされていく。そこで双花が連携プレイを行う関係にもなる。興味深い関係である。
 この本多正純の謀に対する、対処の仕方とそのプロセスもまた、読ませどころとなっていく。

 もう一つ読ませどころがある。それは辰姫が労咳を患い、命がのこり幾ばくも無い時点で、できればもう一度満天姫に会いたいと思う辰姫の願いが叶う場面である。二人の関係が何だったかを、二人が確認しあう事になる。そして満天姫は辰姫に重大な決意を告げる。

 元和9年7月25日   辰姫没す  享年32歳
 寛永8年(1631)1月 信枚病没  享年46歳
 寛永15年      満天姫弘前にて没す 著者享年を記さず

 辰姫が没した後、満天姫が亡くなるまでには、津軽藩に様々な事が起こる。著者はその事実を記録する筆致で描いて行く。そこには満天姫が生んだ連れ子の直秀の毒死の背景も語られる。

 この小説のテーマは津軽藩に咲いた双花をはじめ、ここに登場する主な人々の信念・思いとその生き様をも描くことにあるのだろう。己の見出した道の貫徹を描くといえるのかもしれない。
 著者の得意とする領域で筆を振るった作品の一つと言える。
 歴史の事実とフィクションの切り分けは、背景を知らない私には不明である。しかし、この小説を通じて、津軽信枚に関わった二人の女性の存在と津軽信枚及び石田三成の系譜に関心を広げるトリガーとなった。勿論、あらためて徳川家康にも。

 ご一読ありがとうございます。
 

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この作品に関連する事項で関心の波紋を広げてみた。一覧にしておきたい。
津軽氏  :「戦国大名探究」
津軽家歴代藩主  pdfファイル  :「弘前観光コンベンション教会」
津軽家霊屋  :「弘前市」
津軽家 :「日本の墓」
系図で見る近現代史 第17回  :「近現代・系図ワールド」
石田三成に遺児を匿った弘前藩を徳川家康はなぜ黙認したのか?
  [謎解き歴史紀行「半島をゆく」歴史解説編]         :「サライ」
石田三成の子孫が青森にいた理由とは?現在の動向も紹介!:「ヒストリーランド」
津軽為信と石田三成の関係。関ヶ原の戦いの後の恩返しとは? :「ヒストリーランド」
『弘前市のミステリーロマンと徳川家康の実像』 :「栃木産業保建総合支援センター」
1分で知る辰姫 ~辰姫ってどんな人?~ :「辰姫と私」
杉山源吾(石田重成)が匿われた津軽の地に辰姫は源吾と来ていない :「辰姫と私」
満天姫は辰姫の生前も死後も、辰姫を認めていなかった :「辰姫と私」

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


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徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『草雲雀』  実業之日本社
『日本人の肖像』  聞き手・矢部明洋   講談社
『草笛物語』  祥伝社
『墨龍賦』 PHP
『大獄 西郷青嵐賦』   文藝春秋
『嵯峨野花譜』  文藝春秋
『潮騒はるか』  幻冬舎
『風のかたみ』  朝日新聞出版
===== 葉室 麟 作品 読後印象記一覧 ===== 更新5版(46+4冊)2017.7.26


『草雲雀』 葉室 麟  実業之日本社

2018-04-21 12:34:00 | レビュー
 葉室麟が得意とする心情交感の世界が巧みに描き出されているという思いを強くする一冊である。
 まず主な登場人物を挙げておく。
 栗屋清吾  媛野藩6万2000石馬廻り役150石栗屋家三男 28歳で部屋住みの身の上
       片山流若杉道場で随一の使い手。秘技<磯之波>を伝授されている
       剣技を誇ることは性に合わず剣技以外に特に取り柄なし。小心な律儀者
       百姓娘で栗山家の女中となった<みつ>と深い仲になり妻とした
 みつ    清吾の妻。白木屋の遠縁という縁で栗屋家に女中奉公することになった
 山倉伊八郎 勘定方180石山倉兵蔵の五男。清吾と同い年で幼馴染み
       幼い頃は餓鬼大将。豪放な性格だが部屋住みの身の上
       若杉道場で清吾とともに師範代を務める
 栗屋嘉一郎 栗屋家の嫡男。藩校の秀才で将来を嘱望される。三岡派に属する
       栗屋家当主として清吾を支配する
 国東武左衞門 元筆頭家老。国東派の領袖だったが山辺監物に一旦派閥を讓る
 三岡政右衛門 次席家老。国東派に対立する三岡派の領袖
 菖庵    茶道頭。家中の噂に目ざとく、噂を流すのも巧み。藩の内情を知悉する
 梶尾    奥女中取締。黒錘組の頭領
 小萩    梶尾の配下。黒錘組の小頭
 白木屋四郎兵衛 酒造と金貸しを営む大店。清吾の妻みつの遠縁
 菅野新右衛門 菅野刑部の嫡男。刑部は家老昇格が決まりながら下城時に斬殺された
        新右衛門は武左衞門が引退後に国東派に属している
        武左衛門は新右衛門を山辺監物の後を継承する力量の男と評価する
 花田昇平  一刀流の使い手。馬廻り役。小萩は従妹にあたる。三岡派に属する。

 このストーリー、ある秋の夜更け、屋敷の裏口からこっそり帰宅した清吾が妻のみつと語らう場面から始まる。冒頭で清吾とみつ、並びに当主栗屋嘉一郎との間の人間関係が明確にわかる。嘉一郎は清吾がみつと一緒になることをしぶしぶ許すが、栗屋家の世間体を重視する。みつは部屋住みである清吾の妾にしかすぎないこと。みつは今までどおり女中働きをすること。子供を生まないこと、もし生まれれば即座に里子に出すこと。清吾に養子縁組の話でもあれば、みつを屋敷から出すと厳命する。部屋住みで小心な律儀者の清吾はその言に抗えない。しかし、心中ではみつを妻とし、いずれ子を持てる立場を夢見ている。
 そんな清吾が戻ったあと、みつの村の者が竹籠に入れて届けた虫の鳴き声がする。それを聞きつけた清吾が、みつから草雲雀の鳴き声だと聞く。鳴くのは雄で、離れ離れの雌を恋い慕って鳴くのだと村の年よりが話していたとみつは語る。清吾は即座に草雲雀を竹籠から庭に放ってやりたいと言う。みつは清吾の心中を察したのである。
 本書のタイトルはこの草雲雀から名づけられたと言える。兄の命により、妾に位置づけられ、今まで通り栗屋家の女中身分でこきつかわれるみつの姿と境遇に清吾は忸怩たる思いを抱きつづける。清吾がみつを真の妻の立場にしようとすべく、藩の派閥抗争の中で友である伊八郎の約束を信じて行動するプロセスを描くストーリーである。清吾が雄の草雲雀である。
 兄嘉一郎から妾と言われようと、既に一緒に居るのに、なぜ清吾が雄の草雲雀となるのか? それはこのストーリーの展開から一つの成り行きとして清吾が追い込まれていく過程である。どうなることかと読者に気を持たせる種にもなる。そこに著者の心情世界を描写する真骨頂が発揮されていく。

 さて、このストーリーは、ロシアのマトリョーシカ人形の如く、何重にも重ねられた姿の奧に真の姿が隠されていたという筋立てになっていて、そこが読ませどころ言える。
 伊八郎が若杉道場の師範代として道場に出て来なくなり、1ヵ月ほど経過する。それを心配して清吾が山倉家を訪れる。その清吾に伊八郎が事実を告げる。
 伊八郎は山倉兵蔵の五男ではなかったのだ。国東武左衛門が妾に生ませた子で、山倉兵蔵が利害意識も働き己の実子として引き受けたという。国東家の嫡男・彦右衛門は病弱だったので、派閥争いには耐えられないと判断し、武左衞門は山辺監物に派閥を継承させた。ところが、その後に彦右衛門に子がないままに病没してしまった。そこで、国東家では新たに養子を迎える算段を始める。だがその時に、隠居していた武左衛門が、伊八郎がわが子であることを持ち出す。山辺監物に継承させた国東派が三岡派に押され気味の実態も見られるなかで、伊八郎を国東家に戻し家督を継がせるとともに、派閥を取り戻すという企てに出たのだ。
 山倉家五男の部屋住みとして苦い思いで生きてきた伊八郎は、父とも思わない国東武左衛門であるが、国東家に入り込み、派閥も引き継ぎ、己の生き様を新しい立場で築いて行く決心をする。そのために、清吾に用心棒になれという。伊八郎が筆頭家老になった暁には、清吾に別家を立てさせ、藩の剣術指南役に取り立てられるようにすると約束するのである。清吾はみつを己の真の妻とし、二人の間に子供をもうけていける身分になるというささやかな夢を実現させるために、用心棒を引き受ける。

 このストーリーは、伊八郎が国東家を引き継ぐ立場になることにより、媛野藩内の派閥抗争の渦中に飛び込んでいくところから動き始める。伊八郎は三岡派ばかりでなく、国東派を一旦継承した山辺監物をも敵に回す立場になる。
 武左衛門と親子の対面をした伊八郎は、武左衛門から当面の最小限の情報を知らされるだけで己の裁量と能力で事態を切り開けと言わんばかりの対応を迫られる。伊八郎にとり、武左衞門もまた、ある意味で敵同然になる。伊八郎を利用しようとしているに過ぎないとみて間違いがないようなのだから。
 最初に武左衛門が伊八郎に言ったことは、菖庵と梶尾に百両ずつ渡して、まず己の味方に引き入れることが必要だということ。その二百両もまた伊八郎自身の裁量で確保できねば、国東家を引き継ぐ力はないと突き放した形で告げる。その金の工面について清吾にお鉢が回ってくる。みつの遠縁になる白木屋から二百両でなく三百両を借り出すことを清吾は伊八郎から頼まれる羽目になる。藩の藩政事情にも聡い金貸しの白木屋は、みつを借金の担保代わりに預り、白木屋で働かせることを条件にして、清吾に三百両を用立てる。そこには、白木屋の思惑が潜んでいた。みつを白木屋に預ける身になることで、清吾は雄の草雲雀と同じ立場になる。

 このストーリーは、何本かの糸がもつれあい、解き放ちがたくなっている状態をどうときほぐしていくかというストーリー展開になる。その解きほぐしに伊八郎が頭を働かせ、清吾がそれを剣技と行動でサポートするという二人三脚的な行動プロセスとなっていく。あたかもマトリョーシカ人形の如く、一つの人形の殻を取り除くと、その下には別の姿の人形が潜んでいる。その下にも別の人形の姿が・・・・・。という風に別の姿が見え、事態が変貌をみせ始める。読者はそこに引きつけられていくことになる。

 国東家に入り、思わぬ経緯から己の出世の機会を得たことで、清濁併せのんで、己の生き様を切り開くという目的に目覚めた伊八郎と、みつとの家庭を築くというささやかな夢の実現のために友の用心棒を引き受けた清吾がこの先どのように立ちはだかる障壁を乗り越えて行動して行くか。あることが契機で伊八郎に信頼感を抱き、清吾の為には白木屋に担保として預けられても、清吾を信じ切るみつの生き方は酬われるのか? みつに危機が迫ることはないのか? 
 このストーリーの面白さは、糸のもつれ具合が様々な登場人物の心情と意図に深く関わっていくことから生み出されてくる。

 *伊八郎と清吾の友としての間柄は事態が変転する中で変わらず継続できるのか?
 *伊八郎は派閥争いの渦中に飛び込んで、うまく立ち回っていけるのか?
 *隠居した国東武左衛門が、伊八郎を迎え入れて、真に意図していることは何か?
  徹底して支援するのでなく、突き放したような対応で臨むのはなぜか?
 *彦右衛門が病没し養子を迎える話が進み始めた時に、伊八郎の存在を明かした
  武左衛門の心中には、彦右衛門の死因との関連で何か思うところがあるのか?
 *国東派を継承し今また派閥を取り上げられようとしている山辺監物はどう出るか?
 *三岡政右衛門は、伊八郎の出現に対して、どう対応してくるか?
 *栗屋嘉一郎は三岡派に属するのだが、清吾が伊八郎の用心棒となり、国東派に居る
  ということがどう影響するのか?
 *嘉一郎と清吾の関係は今後どのようになるのか?
 *黒錘組という存在は何か?
 *ストーリー展開の半ばで登場する花田昇平がどういう役割を担っていくのか?
  清吾は三岡派に属する花田と死闘をする羽目になるのか? なるなら、何時か?
 *菅野新右衛門が国東派に属していることに意味があるのか?
 *菅野刑部が家老になる直前に斬殺されたという過去の事実は、現在の派閥争いと
  何らかの関係を秘めているのか? それはなぜか?
 *菖庵と梶尾は藩内で本当のところはどのような機能を担っているのか?
  この二人の名前を最初に伊八郎に語った武左衛門の狙いは何か?
 *白木屋がみつを担保として、白木屋で働かせる形で預かった意図は何か?
 *白木屋は金貸しとして、媛野藩の藩政にどういう関わりを持っているのか?
 *みつの運命はどう変転するのか?

 もつれて絡まり合った糸(意図)がうまく解きほぐれていくのか? 解きほぐれるとしたら、その因はどこに潜んでいるのか? 
 このストーリーを別の視点で眺めると、上記した主な登場人物のそれぞれが抱く心情の織りなす世界が確執を生み出す姿がそこにある。著者が描き出したかったのは、その心情の綾であり、心情のきらめきとも言える。それぞれの欲望や夢や怒りなど、様々な心情が、それぞれの意図に結実して行動を生み出していく。相異なる意図と目的の行動がぶつかり合って確執を生み出す。それが外見的には派閥抗争に収斂し、そこで渦巻いていく。
 そして、遂に国東武左衞門が己の心情を伊八郎に語る場に追い込められる。

 最後に伊八郎が語る言葉をご紹介しておこう。
*ひとは日々の務めを懸命に果たしたうえで、生きたいと願っておるはずでございます。されば、それがしは生きたいと願う皆の気持を旨とした家老になります。家老がいつでも死ぬと物騒な覚悟をしていては、家中の者や領民も安心して生きることはできますまい。それがしはいのちが大事と心がける、臆病未練な家老になろうと存じます。 p286
*わたしも国東家の家督を継ぐまでは草雲雀のごとく小さい者として生きておりました。しかし、此度、家督を継ぎ、派閥を率い、家老になる身になってあらためて思い知ったのは、ひとが何事かをなすのは、大きな器量を持つゆえではなく、草雲雀のごとく小さくとも、おのれもひとも裏切らぬ誠によってだということでございます。  p289

 この先はストーリーを読み進めて、楽しんでいただくとよい。

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クサヒバリ(草雲雀):「トッコス爺の身近な花・虫・鳥 撮り」
草雲雀 :「コトバンク」
季語 草雲雀 :「きごさい歳時記」
草雲雀 の俳句  :「575筆まか勢」
クサヒバリ :「音の標本箱」
  鳴き声が聞けるサイトです。
クサヒバリ 鳴き声 :YouTube
クサヒバリ  :「ほくせつの生き物」
クサヒバリ  :「昆虫エクスプローラ」
クサヒバリ(草雲雀) :「自然観察雑記帳」

昆虫の草雲雀/クサヒバリを調べてみて、少し戸惑いが・・・・・残っています。

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===== 葉室 麟 作品 読後印象記一覧 ===== 更新5版(46+4冊)2017.7.26

『オリジン』 上・下  ダン・ブラウン  角川書店

2018-04-18 11:07:11 | レビュー
 今回も、ダン・ブラウンは楽しみながら最後まで一気に読ませるというストーリー・テラーの冴えを発揮してくれたと思う。人工知能というコンピュータの話題性を秘めた領域を中心据えて、宗教象徴学者ラングドンがその推理を発揮して謎解きを推し進めるという両者のタグ・マッチがおもしろい。スペインをまだ訪れたことがない私には、ラングドンの赴くままに、スペインに実在する著名な観光名所を紙上ツアーするという副産物を楽しみながら、読み進めることができた。
 この作品、ダン・ブラウンがスペインに出かける理由と場所からまず興味をかき立てられる。ラングドンは元教え子のエドモンド・カーシュからスペオインのビルバオ・グッゲンハイム美術館内のホールを会場としたプレゼンテーションへの航空券付の招待状を受け取る。カーシュの専門はゲーム理論とコンピュータ・モデリングであり、この分野の業績によりとんでもない資産家になっている。そのカーシュが、「われわれはどこから来たのか」「われわれはどこへ行くのか」という人類の永遠の謎を解明したと言うのである。それをコンピュータの能力・威力を発揮して衝撃的な映像を駆使して謎解きのプレゼンテーションを行うということへの招待状である。元教え子からこんな招待状を受け取れば、ラングドン先生が行かないはずがない。すんなりと、スペインという国に導かれていく。

 この小説の面白さはその全体の構想とストーリー展開の構成にある。
 まず、やはりプロローグの前に記された「事実」についての一行が読者を惹きつける。「この小説に登場する芸術作品、建築物、場所、科学、宗教団体は、すべて現実のものである」という。これがまたもや『オリジン』携えスペイン巡りという気分にもさせることは間違いない。未訪のスペイン故に、ここに登場する建築物や場所を訪れる機会があれば、ここに記載された背景描写の事実部分もついて、たしかにそういう見方ができるのかを確かめたくなる。

 プロローグには、カーシュがカタルーニャにある山の頂にある修道院内のモンセラット図書館で、著名な3人の宗教指導者と面談する場面から始まる。世界に向けた公表は約1か月後と説明して、カーシュは未編集版映像をまず彼らに見せるというのだ。カーシュが世界に向けて発表する内容が、彼ら宗教指導者を一番動揺させるだろうから、事前に見せて、どう受け止められるかを参考に知りたいという意図で、面談を申し込んだと言うのである。カーシュは、宗教指導者の持つ思想・信念を粉々に破壊する内容の発表になると自負している。そしてこの面談に仕掛けたカーシュの企みが大きな伏線となっていく。
 このプロローグ、カーシュの発表する内容は何かに俄然読者を惹きつける書き出しである。このあたりストーリーテラー、ダン・ブラウンの巧みさだろう。そして、ここで面談した宗教指導者3人の内2人が、後に次々と意外な死を遂げていく・・・・。
 一方、カーシュは約1か月後と言いながら、わずか3日後に全世界に向けた発表を実行することを計画していた。読者はどんな形で発表するのかに関心を抱かせられる。

 このストーリーの構成上にいくつかのの特徴がある。
1.章立てはセクション番号だけ。そのセクションに時折、図柄等が織り込まれていく。最初に、心理学の本でポピュラーな「ルービンの盃(壺)」と称される図が登場している。このストーリー展開で伏線となる図柄が順次登場する。複数回現れる図柄もある。それ自体が、宗教象徴学者ラングドンの絵解き材料となっていく。この絵解きがおもしろい。
2.ビルバオのグッゲンハイム美術館の受付で招待状を渡したラングドンは、まずは美術館内を一人で見て回るように案内される。その折、ヘッドセットを手渡される。それが人工知能との対話の契機になる。人工知能はウインストンと名乗る。この出だしはある意味で、ラングドンとウィンストンが後に強力なチームとして行動する準備段階にもなる。
 読者にとっては、人工知能ウィンストンの威力を少しずつ知らされるとともに、ウィンストンの存在と働きに自然に親和していく導入にもなっている。ある時点から、ウィンストンとラングドンの対話は、ヘッドセットではなく、カーシュが特別仕様で作った特大のスマートフォンに切り替わっていく。
 人工知能の情報処理能力とラングドンの分析推理力が強力な組み合わせとなっていく。この両者のやり取りとそこに著者が伏線を敷いていくという点が新趣向である。
3.セクション4を皮切りにして、「コンスピラシーネット・ドットコム」が時折登場する。ここがエドモンド・カーシュの重大発表に関連したプロセスを、速報としてインターネット上に流す。ストーリー展開の途中で、独立セクションとして断続的に挿入されていく。ある意味でストーリーの展開プロセスを要約する役割を果たしていく。
 グッゲンハイム美術館での発表経緯の順次速報とともに、その後の展開の速報だけを追っていくと、あらすじとポイントが見える仕組みが織り込まれている。つまり、芝居における黒子的な機能、ある種の読者サポートの役割をも担っていき、ストーリーの流れの再確認にもなる。この構成はダン・ブラウンの小説では今回初めての試みだと思う。
4.本書では、フィクションとしてではあるが、スペイン王室の家族構成と人間関係が設定されている。それがスペインという国の歴史話をスムーズに織り込む補助線になるとともに、王室自体が大きな影響をストーリーの展開に与えて行くという設定になっている。これがラングドンの謎解きのために行動するプロセスでの制約とともに複雑にしていくという側面となる。
5.このストーリーの展開の中で、人工知能ウィンストンがどこまでのパワーをどういう形で発揮していくのか、その指示は誰が出しているのか、人工知能が自らどこまで思考しているのかなどということをストーリーの節目で読者に考えさせる。自ら動くことのない人工知能ウィンストンの動き・行動力の謎を考える。ここに人工知能の進化と限界という現代的な課題が組み込まれている。同時代性と未来予測性が加えられている。

 そこで、この小説のストーリー展開の大筋である。
 セクション2で、退役軍人であるルイス・アビラ提督がまず登場する。彼は招待客リストに直前に加えられた人物である。その人物をある人から電話での依頼を受ける形でリストに加えたのは、グッゲンハイム美術館の館長アンブラ・ビダル自身だった。彼女はスペインのフリアン王子のフィアンセでもある。この立場が複雑性を加える。
 ルイス・アビラ提督の登場のしかたがちょっとおもしろい。かつ彼が宰輔と称する者の指示を受けて行動するのだが、この宰輔が誰かが最後まで尾を引いていく。
 ビルバオ・グッゲンハイム美術館の中央アナトリウムで未来学者カーシュのプレゼンテーションが始まる。まず、映像と音響によるプレゼンテ-ションのプロセスが描写されていく。これがなかなか読ませる描写になっている。この場面、実際に3DのCG映像化をするとしたら凄い迫力を視聴者に感じさせるだろう。そして、事前に録画されたラングドンの魅力的な導入部の語りが加えられる。
 その後に、カーシュが演台のある場所に現れてくる。だが、それはラングドンが事件に巻き込まれていく瞬間になる。なぜなら、ヘッドセットを介してウィンストンがラングドンに重大な問題が生じたかもしれないと伝えてきたことで、ラングドンが演台の方に近付こうと行動した。だが、時、既に遅し。銃声がする。カーシュが新発見についてプレゼンテーションをする前に、頭部を撃たれて絶命するに至る。ラングドンが疑われる一因になる。王子のフィアンセである館長アンブラ・ビダルの護衛のために会場に居た近衛部隊の隊員にラングドンがとりおさえられてしまう。会場はまさに地獄絵図へと急変する。
 この瞬間から、ラングドンは暗殺犯人を追跡し捕らえて己の潔白を証明するための行動を取らざるを得なくなる。併せて、なぜカーシュの命が狙われたのか、カーシュが新発見として発表しようとしたことは何だったのかの謎解きゲームが進展していくことになる。 一旦捕縛されたラングドンは、ヘッドセットを介して、ウィンストンの分析した情報を隊員に伝える。ルイス・アビラが暗殺者ではないかという。それが状況証拠と一致し始める。だがすぐにラングドンの疑いが晴れたわけではない。後にあらぬ濡れ衣を仕掛けられることにもなる。
 
 このラングドンによる犯人追跡と逃避行に、館長であるアンブラ・ビダルが行動を共にするという展開になっていく。ルイス・アビラの名前が出たことから、アンブラは疑念を抱き始める。一方、ラングドンはスペインのバルデスピーノ司教-3人の宗教指導者のうちの一人-からカーシュに届いていた脅迫じみたメッセージを思い出す。状況はこの暗殺事件に対してどんどん複雑な人間関係へと一旦拡大し、謎が深まっていく。そして、暗殺者は分かっていても、それを誰が指示したのかという点、暗殺の目的という疑念が様々に渦を巻いていく。ラングドンの分析と推理が二転三転していくという事態となる。
 さらに、カーシュ自身の今までの秘密主義的な行動の謎の追究が、カーシュの新発見とは何だったかということと絡んで、重要な要素となっていく。
 
 本書の上巻は、ラングドンがアンブラの案内でバルセロナにある<カサ・ミラ>の最上階に辿り着くところで終わる。カーシュがその最上階のペントハウスをスペインの住まいとして借りていたのだ。そこで、ラングドンはカーシュの秘めていた重大な謎の一つを発見して愕然とする。

 下巻は、<カサ・ミラ>の屋根裏部屋でカーシュが何を思考していたのか、その情報探しから始まって行く。そこでの探求がラングドンとアンブラをサグラダ・ファミリアへと導いていくことになる。ウィリアム・ブレイクの詩集とその中の詞章を素材情報源にして、カーシュの新発見の謎に迫っていく展開となり、その探求プロセスがラングドンが本領を発揮する圧巻となる。このストーリーの推理プロセスとして読み応えのあるところといえる。
 今回もまた、推理ばかりでなくて、サグラダ・ファミリアの内部でラングドンが対決を迫られる、死闘場面のアクションも組み込まれている。このあたり映画化するとエンターテインメント性を盛り上げるシーンとなるだろう。このストーリーに使われた場所を訪れてみたくなる。
 そして、最終段階は二重構造になっている。一つはカーシュが新発見として語りたかった内容の描写である。ラングドンは、カーシュが発見し、世界に発表しようとしていた内容が格納されているコンピュータの所在地を探り当て、その新発見の内容にアクセスするのだ。カーシュに代わり、そのプレゼンテーションの内容を世界に配信する役割を担う。その内容を知ること自体が、ラングドンが謎解きを完了することでもあるのだから。コンピュータを駆使してカーシュが辿り着いた新発見の内容はかなり興味深い知見とも言える。
 もう一つは人口知能ウィンストンの語る内容の意外性である。人工知能ウィンストンがエドモンドの最後の要求は「グッゲンハイムでプレゼンテーションをおこなうにあたって、その宣伝を手伝うこと」ということだった。このカーシュの要求命題に対し、ウィンストンはタスクを確実に完了したということを、ラングドンに淡々と語る。そこに潜んでいた課題達成のための手段の意外性が明らかとなる。
 最先端のコンピュータ利用における二重構造性が明らかになる。カーシュが新発見を導き出したコンピュータの能力と、そのコンピュータに組み込まれた人工知能が要求された課題を達成するためにコンピュータの能力を使い導き出したシナリオである。さらに、人工知能ウィンストンの運命(?)も予め設定されていたのだ。

 この下巻の展開がダン・ブラウンのストーリー・テラーとしての真骨頂だろう。
 そして、著者は、ブレイクの詩の締めくくりの一行についてラングドンにその解釈を語らせることで、最後に科学と宗教の関係についてのオチを付けている。心憎いかぎりである。

 何はともあれ、ダン・ブラウンのこの最新作もまた、これまでのラングドン・シリーズとは異なったストーリー展開の趣向を楽しめることは間違いない。
 
 最後にこの小説に出てくる事実名称の大凡を列挙しておきたい。これはスペイン観光への誘いにもつながるだろう。一度は、行ってみたいなあ・・・・・。
 ビルバオ・グッゲンハイム美術館、モンセラット図書館、アルムデナ大聖堂、
 マドリード王宮、サルベ橋、ビルバオ空港、セビーリア大聖堂、<カサ・ミラ>
 パルマール教会、 飲食店:<エチャノベ>、<マラテスタ>
 サグラダ・ファミリア、”サグラダの螺旋”、<グラン・オテル・プリンセサ・ソフィア>
バルセロナ・スーパー・コンピューター・センター
 エル・エスコリアル修道院、モンジェイック、モンジェイック城

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本書に関連する事項を少しネット検索してみた。一覧にしておきたい。
ビルバオ・グッゲンハイム美術館  :ウィキペディア
GUGGENHEIM BILBAO 英語版ホームページ
サルベ橋  :ウィキペディア
SAGRADA FAMILIA 英語版 ホームページ
サグラダ・ファミリア  :ウィキペディア
スペインの宗教  :ウィキペディア
ウィリアム・ブレイク  :ウィキペディア
3分でわかるウィリアム・ブレイク 18世紀イギリスで活躍した「幻視」を描く鬼才、ウィリアム・ブレイクの生涯と作品  :「ノラの絵画の時間」
ウィリアム・ブレイクの名言集  :「NAVERまとめ」
モンジュイック城=地中海とバルセロナ街を臨む要塞=:「バルセロナ ウォーカー」
モンセラット ~バルセロナ発ショートトリップで一番の人気スポット~:「バルセロナ ウォーカー」
こんな所にスパコンが! --世界の驚くべきデータセンターを写真で巡る- 6/18
トレ・ジローナ礼拝堂--スペイン、バルセロナ
    :「ZDNet Japan」
19世紀の教会を改修したスーパーコンピューティング・センター  :「Gigazine」
バルセロナのスーパーコンピューティング・センター "MareNostrum 4.0" にレノボが採用  :YouTube
2015 バスク・バルセロナ紀行-24~荒天のビルバオにて朝食 :「時には、旅の日常」
第278号 2005/05/17 聖霊降臨後の火曜日 :「マニラのeそよ風 聖ピオ十世会だより」
  セビリア州のパルマール教会について、触れています。
Missa Charles Darwin ? remastered special edition 2017 :YouTube
Missa Charles Darwin : Sanctus
レティシア(スペイン王妃)  :ウィキペディア
民間出身!キャサリン妃も憧れる美しすぎるスペイン王室「レティシア王妃」をもっと知りたい!  :「STYLE HOUSE」
人口知能  :ウィキペディア
What's AI 人工知能のやさしい説明  :「人工知能学会」
人工知能に関する「よくある10の誤解」──すごい人工知能はまだ存在しない :「IBM」
人工知能はもう悪用される段階に 専門家警告 :「BBC NEWS JAPAN」

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『インフエルノ』  角川書店


『日本人の肖像』 葉室 麟  聞き手・矢部明洋  講談社

2018-04-16 12:28:44 | レビュー
 葉室麟作品群の背後にある作家葉室麟の肉声、歴史の見方や考え方に触れることができる本である。作家葉室麟が逝去した現在、彼の考え方の視点や思考について知ることが出来る貴重な1冊になったと思う。
 本書が編まれたソースは、毎日新聞(西部版)に月1回連載された「ニッポンの肖像 葉室麟のロマン史談」である。2014年の1年間は、当新聞社西部本社学芸部の矢部明洋記者が聞き手となり、葉室麟が古代から近代までの歴史人物たちについて語った史談が、本書の第一部となっている。そこに書き下ろしを追加してまとめられた史談集である。2015年の1年間は、各分野の専門家との対談が連載され、そのまとめが本書の第二部になり、対談集として収録されている。
 歴史上の人物あるは歴史の一時代、一局面を取り上げることから、歴史上の人物たちについて語り、それがニッポンという国を考える素材になっている。逆に言えば、葉室麟が歴史上の人物をどのようにとらえていたか、ニッポンをどのように眺めているかを浮彫にしてくれる。今まで葉室麟の作品群を読み継いで来ているだけだったので、葉室麟の素顔を垣間見ることに繋がるこの史談集・対談集を興味深く読めた。

 第一部の史談集で俎上に上った歴史上の人物を列挙してみよう。
 黒田官兵衛/宮本武蔵/坂本龍馬/織田信長・豊臣秀吉・徳川家康/女帝の世紀(注記:持統・元明・元正の女帝時代と孝謙・称徳天皇を語る)/新選組/西郷隆盛/北条政子/天皇と近代/真田幸村(信繁)/千利休/忠臣蔵である。この最後の3項目は史談形式にまとめた書き下ろしと奥書に記されている。

 第二部は専門家との対談集である。連載されたときのテーマが本書の章立ての見出しになっているのだと思う。どんなテーマで誰と対談したのか。対談相手をご紹介する。併せて、どういう内容なのか、その観点などを多少付記しておきたい。
 第1章 大坂の陣四百年     福田千鶴(九州大学基幹教育院教授)
   秀頼の実像と家康の反応。淀殿とその周辺。北政所との関係など。
 第2章 朝鮮出兵の時代     中野等(九州大学比較社会文化研究院教授)
   秀吉の人材登用法。朝鮮出兵における加藤清正と小西行長の関係。秀吉の意図。
 第3章 対外交流からみた中世  伊藤幸司(九州大学比較社会文化研究院准教授)
   遣唐使中止後の中世、民間交流に果たした博多の役割。禅宗と博多の関係。
   宗教と貿易の関係性。戦国大名・大内氏のあまり知られていない実像。
 第4章 国家と宗教       山口輝臣(東京大学総合文化研究科准教授)
   明治以降の天皇と宗教との関係。宗教を個人の信仰問題にした政府の選択。
   日本とキリスト教の関係。道徳的な規範の意義。
 第5章 柳川藩 立花家     植野かおり(立花家史料館館長)
   立花宗茂の甲冑。絵巻について。初代藩主宗茂の人間像。藩主と正室の有りよう
 第6章 日本人と憲法      南野森(九州大学法学部教授)
   日本国憲法の構成。憲法九条と改憲論。constitutionを憲法と訳した不幸。
   平和ボケの定義。日本にふさわしい天皇の在り方。

 第一部・第二部は以上のような構成になっている。
 そこで本書の読後印象を箇条書き風にまとめてみたい。印象の背景となった史談・対談本文中の事例の一部を⇒の箇所で要約し、例示する。
*対談の中で、著者自身の読書経験から過去の著名作家の作品を取り上げて、作家視点からそれらの作品に対する当該作家のスタンスや背後にある著者のコンセプトに対して所見を述べている点が興味深い。歴史関連書にも言及していて、関心の方向がわかる。
 ⇒司馬遼太郎『竜馬がゆく』、山田風太郎『妖説太閤記』、山岡荘八『徳川家康』
  網野善彦『東と西の語る日本の歴史』、吉田茂『日本を決定した百年』  
  山本兼一『利休にたずねよ』

*歴史上の人物について、異なる作家が創作した作品の違いを対比的に取り上げて、所見を述べている部分がなるほど、そういう比較・分析視点があるのかと楽しめる。
 ⇒吉川英治『黒田如水』と司馬遼太郎『播磨灘物語』(p10)
  吉川英治『宮本武蔵』・山本周五郎「よじょう」・司馬遼太郎『真説宮本武蔵』と
  井上雄彦の漫画『バガボンド』
  司馬遼太郎『新選組血風録』『燃えよ剣』・子母澤寬『新選組始末記』と大佛次郎
  『鞍馬天狗』

*歴史上の人物の考え方や行動を、現代社会の会社組織における組織人に見立てて著者が説明するところは、実感しやすくわかりやすい。そういう見立て意識が著者の創作した時代小説に逆にテーマとして採り入れられているのかもしれないと思った。現代の世相を江戸時代という設定の中で描くことにより、時代を超えた人間像を描くという意味で。
  
*自作について、その創作への立ち位置を述べている箇所があって参考になる。
 ⇒官兵衛は棄教したといわれるが、それは違うと思う(p11)
  西郷隆盛が廃藩置県に踏み切れたのは、天皇が德で治める国を実現する理想があっ
  た からである。(p51)
  西郷の政治意識には、徳による統治の復古型革命を隣国(朝鮮・中国)に輸出する
  考えがあったと思う。(p51)
  真田幸村と立花宗茂は、対照的な生き方をしたが、前時代的な懐かしみと反体制的
  なロマンティシズムを内包し、伊達に生きる男の典型がそこにある。(p92)
  ある。
  小堀遠州について執筆する動機に、「利休がつとに好んだ黒楽茶碗は果たして美し
  いのだろうか?」という疑問がある。 (p97)
  『はだれ雪』を新聞に連載していた時は、実際の季節の移ろいに合わせて書いてい
  た。(そのことを誰も気付いてくれなかったとのオチつき。愉快!)(p103)

 最後に、著者の歴史への立ち位置がわかるパラグラフを引用しておきたい。この立ち位置からの作品群をもっと書き継いでほしかった。
「見たいものだけ見て、それ以外は排除して歴史を見るのではなく、自分たちがやってきたことを素直に評価していくことが大事だと思います。ごまかさず、捏造せず、正しく知ろうとする努力を続けていけば、自分たちが生きていく道が浮かび上がると思います。それが歴史に対する自分たちの誠実さであるし、親や祖父、先祖、過去の人への真摯な向き合い方だと思います」(p89)。
 そして、葉室麟は「世の中を変えたければ、人間そのものの考え方を変えなければならない」と言う。理論で社会を変えられない。「何が人間そのものを変えるのか。本居宣長がいう『もののあはれ』というのがひとつの答えではないか」(p216)と。「やはり心が動く、感動することが大事」なのだと。感動することが、世の中を日本を変えていく原動力と確信していた。この視点でもっと作品を生み出して欲しかった。嗚呼!

 葉室麟とその作品を論じる上では、今後貴重な資料的位置づけの一冊になるのではないかと思う。

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本書からの関心の波紋で、ネット検索した事項を一覧にしておきたい。
吉川英治  :ウィキペディア
子母澤寬  :ウィキペディア
子母沢寬  :「コトバンク」
司馬遼太郎記念館 ホームページ
  司馬遼太郎の世界
初めての司馬遼太郎!代表作おすすめランキングベスト10! :「ホンシェルジュ」
山岡荘八  :「コトバンク」

福田千鶴 ← 日本史学研究室 部局組織・運営:「九州大学文学部・大学院人文科学府・大学院人文科学研究院」
中野 等 :「KAKEN」
伊藤幸司 :「研究者情報」
山口輝臣 教員詳細 :「東京大学 大学院総合文化研究科・教養学部」
立花家資料館 立花財団  ホームページ
 館長ご挨拶 植野かおり 
南野森のホームページ 憲法学とフランスのいろいろ

有馬家文書  :「久留米市」
東京大学史料編纂所所蔵島津家文書の情報化 pdfファイル
松浦史料博物館 ホームページ
永青文庫 ホームページ


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===== 葉室 麟 作品 読後印象記一覧 ===== 更新5版(46+4冊)2017.7.26

『北朝鮮を撮ってきた!』 ウェンディ・E・シモンズ 原書房

2018-04-14 14:10:27 | レビュー
 友人のブログ記事で本書を知り、ちょっと興味を惹かれて読んでみた。
 翻訳本には「アメリカ人女性カメラマン『不思議の国』漫遊記」という副題が付いている。本書の原題をまずご紹介しておこう。非常にストレートなタイトルである。
  My Holiday in NORTH KOREA
The Funniest / Worst Place on Earth
である。直訳すれば、書名は「北朝鮮での私の休日」であり、副題は「地球上で最も奇妙で滑稽で、最悪の場所」となる。
 
 奥書によると、著者は2001年からコンサルティング会社を創業しているようであるが、一方で世界中の国々に旅行し冒険をすることが大好きらしく、これまでに85カ国(自治領や植民地や海外領土も含む)を旅してきているという。そして、旅行での冒険譚を、運営する個人サイトの中のブログに書いている。勿論、この本のオリジナル本のカバー写真も載っているし、本書に掲載の写真の大半が公開されている。本書には掲載されていない写真も数葉公開されている。私は、本書の末尾の「謝辞」を読み、このサイトのことを知り、読了後にアクセスしてみた。
 著者のサイト(wendysimmons.com)には、こちらからアクセスしてご覧いただくとよいだろう。
 2018年1月末には、南極への冒険旅行をしてきたようで、著者はそのブログ記事を載せている。2018.4.11現在ではトップページに南極の写真が掲載されている。トップページの上部にメニューバーがあり、GALLERIES(ギャラリー)にマウスを置くと、NORTH KOREA の項目がある。そこをクリックすれば、ノコ(北朝鮮)で著者が撮ってきた写真が公開されている。
 ここを見ると、現時点では北朝鮮の他に「南極、ボリビア、チャド、チリ、エチオピア、インドネシア、モザンビーク、シェラレオネ、チュニジア、ウガンダ」の旅行で著者が撮った写真も公開されている。

 著者は2014年6月25日に中国国際航空121便で平壌の順安空港に着陸し、たった一人での観光旅行としてノコ(著者はノースコリアの省略名称として名づけた)に入った。なんとそれも10日間という滞在期間である。その結果の感想が、原題に付された副題にストレートに表現されていると言える。著者のサイトで公開されている国々は多少なりとも日本のテレビ番組で自由に紹介され、報道もされている。これらの国を旅行し冒険した経験に照らした上で、原文の副題を付けているということを読者は読み取ることができる。著者にとって、自己の体験した比較材料は十分にある上での副題とみるべきだろう。
 翻訳本ではなぜ「不思議の国」漫遊記なのか? もちろん、ノコが著者にとって極端にも不可解不可思議な国であることを吐露しているからでもあるが、本書の中では、『ふしぎの国のアリス』、『鏡の国のアリス』から引用した詞章を、著者がノコで撮った写真に添えている。「不思議の国」はダブルミーニングであり、掛詞のような役割を果たしている。本書を読んでみると、実にこの引用による対比が絶妙であると感じる。うまい!

 冒頭に著者が引用しているのが、『ふしぎの国のアリス』からの詞章だ。
   前によくおとぎばなしを読んでいたころは、書いてあることなんかほんと
   うには起こりっこないと思っていたのに、わたしは今ここで、そういうお
   とぎばなしのなかにいるんだわ! わたしのことを書いた本があっていい
   わけよ、ほんとにそうよ! そして大きくなったら、自分でも一つ書いて
   みるわ。
 
 ホリデイを味わうためのうきうきする楽しい観光旅行とは対極にある「似非観光・準強制・拘束日程ツアー」と要約できそうである。しごく真面目な茶番劇的でおとぎ話のような旅行体験記が本書の内容である。著者が自由意思で身銭を切って、一人旅ならぬ一人旅をノコで過ごした。そうなることを著者は想定していたのだろうか。事前にスパイなどと間違われることがないように情報収集して、持参品にも注意深く準備していったようなので、ノコの観光旅行のスタイルや様子も事前に情報収集していたと思うのだが・・・・・。と、受け止めると、それでも尚かつその10日間の旅行体験をこのように書くことになったということだろう。
 翻訳本には「漫遊記」という言葉が使われている。国語辞典で「漫遊」を引くと、「あてもなく諸方を遊び回ること」(日本語大辞典・講談社)と説明されている。この語義からすれば、副題でのこの漫遊記は皮肉を効かせ反意語として使われていると理解すべきだろう。よくぞ10日間も持ちこたえたな、という気がする。

 本書を読んで、どうノコに観光旅行してみる?と問われたら、 NO! 身銭を切っていきたいとは思わない。費用を一切出されてもこんな旅行になるなら行く気もしない。私の「観光旅行」観には、こんなのは観光旅行じゃないので。ノコ実態調査という視点なら別。だけどそんなリスクをとることはヤバイ、論外だから、旅行として縁が無いお国である。
 そんな思いを抱かせる300ページの本。本書を介して「不思議の国」をちょっと覗いてみるのは、他人事としてはおもしろい。だが、その中に投げ込まれたくはない。

 著者の旅行体験記からこの「不思議の国」への外国人の旅行モードを要約して、ご紹介しておこう。著者はアメリカのジョージ・ワシントン大学を首席で卒業したアメリカ人であり、ユダヤ人である。
*持ち込み可能なカメラとレンズの大きさと種類が決められている。
*入国段階で、携帯電話は検査のために一旦取り上げられる。
*旅行中、著者は「アメリカ人帝国主義者」と呼ばれ続けたという。
*旅行期間中、ベテランと新人の2人のガイドが常時付いた。運転手も同一人が付く。
*宿泊先のホテルからの出発時刻から、ホテルへの帰着時刻まで、「観光」中は一人になることはない。必ずガイド(この場合はいずれか)が一緒に居る。
*宿泊先のホテルから、自由に外に出られない。ホテル内だけ自由にぶらぶらできる。
*「観光」先の現地では、現地ガイドが加わる。ガイドが全員一緒に行動する。
 つまり現地ガイドは国語で説明し、同行ガイドが観光客に伝えたい事だけを通訳する。
*1日の観光日程に、8~10の予定が予めびっしりとスケジュールに組み込まれている。
*撮影が厳しく禁じられている項目が予め示されている。←本当に撮りたいものは撮れない!
*三人の金(キム)がノコを統治していることを早々に悟らされることになる。
*観光先巡りはノコに都合の良いプロパガンダツアーになっている。一方的な説明だけの入れ替わり立ち替わりの言葉の集中砲火となる。
*観光客側の質問にはガイドは答えない。あるいは、はぐらかす。

これがホリディの観光と呼べるのかどうか・・・・。

 著者は明言している。「平壌では、撮りたいと思う写真はたいてい撮ることができる。平壌は朝鮮労働党の輝かしい威光を示すためのショーケースだからだ。とはいえ、党とガイドは公式のツアアールートからそれるような行動は全力で阻止しようとしてくるし、ほとんどあらゆるものは演出されたものでしかない」(p41)。10日間の観光は、ノコが見せたいところだけを見せるプロパガンダツアーだったと。それでも、わずかの見聞の隙間から、実態が見えて来ると。

 本書を読んで初めて知ったこと。
*ノコでは、金日成の誕生日を基準にした暦を採用している。西暦1912年が紀元1年に読み替えられた暦だそうである。
*本書に掲載の写真の数多くに、金日成(故人)と息子の金正日(故人)の銅像や肖像写真などが写っている。
*プロパガンダがいたるところにある。
*妙香山の山腹に敷地面積10万平方メートルの二棟からなる巨大な施設が作られていて、「国際親善展覧館」と称される。過去に金一族に献じられた贈り物すべて、20万点以上の品が160の部屋に収蔵されている。これまたプロパガンダ施設。
 ⇒ここをガイドに案内された著者が書いているエピソードと描写がおもしろい。

 著者はこの旅行記の末尾近くでこう記している。「北朝鮮は秘密とウソと答えのない疑問が渦巻く国」(p283)と。一方で、限られた範囲で著者が接した人々を見つめてみて、「北朝鮮と北朝鮮人を同一視するのは間違ってる。私たち同様、彼らもまた人間。党から切り離し、偉大にして親愛なる指導者から引き離してみれば、北朝鮮人はリアルな人々だ」(p283)と。この文章のニュアンスは、本書を読んで感じていただくとよい。ノコのイメージを一歩踏み込んで感じるために。

 この観光体験記、自分で体験したいとは思わないが、本書を介してイメージを含めて疑似体験をする分には、興味深くてかつおもしろい。アリスの気分が味わえる!

 ご一読ありがとうございます。

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本書からの関心の波紋を広げてみた。検索結果を一覧にしておきたい。
北朝鮮 North Korea :「外務省」
North Korea  From Wikipedia, the free encyclopedia
North Korea BBC NEWS
North Korea CNN
North Korea The New York Times
北朝鮮に列車で入国してみたら「期待を裏切らない風景」が待っていた :「世界新聞」
北朝鮮旅行をオススメしないたった1つの理由  :「世界新聞」
実は近くて普通に行ける、北朝鮮旅行  :「Daily NK」
この目で見たい北朝鮮旅行! 10万円安くする行き方3パターン  :「NAVERまとめ」
「北朝鮮と韓国」の違いを比較した動画が興味深すぎる! 実際に両国を旅行した青年のレポートが見応えタップリ  :「ROCKET NEWS 24」
「この世の地獄」の1歩手前で再会…北朝鮮の4歳男児と母親 :「YAHOO!ニュース」

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『おさんぽ万葉集』 村田右富美  西日本出版社

2018-04-11 12:18:44 | レビュー
 本書の表紙を見ると、横書きの書名の上下にキャプションが付いている。
 上には「あの山に、その川に、この花に。奈良には歌があふれてる」と。勿論、ここでの歌は、『万葉集』に収録されている歌である。下には奈良の名称が列挙されている。「平城」から「飛鳥」まで。名称は7つ。しかし、本書は8つのルートを採り上げていく。7つの名称で8ルートというのは、最後の「飛鳥」が「歩く」と「自転車」の2ルートを解説していることによる。

 本書の特徴と基本はここで紹介されるコースを「線」として歩くという形の中でポイントとなる「史跡」(点)について説明を加えるというスタイルにある。そのルートという道のり(線)から見える大和の景観に触れ、万葉集の歌を採り上げて、その歌に絡めて古代の歴史や当時の人の思いへと読み手を誘っていく。そのコースに含まれる史跡ポイントでは基本的な観光ガイドプラスαの蘊蓄が加わっていく。学者の視点から観光ガイドブックのレベルでは触れない一歩踏み込んだ説明が専門的になりすぎない程度で要所要所で組み込まれている。タイトルに「おさんぽ」とあるように、その語り口は、ところどころに軽いタッチのノリが加わり、ちょっとくだけた話しぶりもあって読みやすい。

 本書の構成のしかたという点にまず触れておこう。各ルートの1ページ目にはそのコースのハイライト的なワン・シーンの写真がどんと載っている。次のページには、「コースのポイント」を一行で説明。スタートからゴールまでの史跡ポイントと所要時間が図式表示され、総距離数が記されている。その下部に、「このコースの楽しみ」という要約文がある。そして、1~2ページでコースの地図が掲載され、行程表示と照応する形で歩くコースが破線入りで示されている。ページ全体を使ったマップなので、これは実際に本書あるいはコピーを持参し現地を歩く際に利用すると便利である。一方、本書を自宅などで読む際には、この地図がヴァーチャルおさんぽの友になる。
 そして、本文説明に入る。本文は冒頭の行程図式に示された史跡名称を使い、そこまでのコースの「線」を語りながら「史跡」(点)に触れる。最初の「平城」コースを事例にすると、「①旧長屋王邸宅跡まで」という説明の中では、スタート地点から長屋王邸宅跡までの道順説明、長屋王がどういう歴史的位置づけにある人物だったか。そして長屋王邸宅がどういう経緯で確定されたのか、などの説明がある。「歴史と考古とのあわいを歩いた」と読者に思わせることには成功していると言える。調査や研究の経緯を含めた詳細までには踏み込んでいないが、事実を理解する助けとなる程度の要点は歴史的視点と考古学的視点の双方から取り込んでいる。そこに『万葉集』を素材にした文学的視点が加えられる。ここでは『万葉集』に収録されている長屋王の歌そのものが引用される。万葉仮名表記ではないのでご安心を。通常の文学全集に記載の歌表記である。引用の歌にはすべて著者の読みやすい訳が付されている。
 引用歌が史跡の説明とコラボレーションしていく。この旧長屋王邸宅跡は冒頭からその一つの典型と言える。なぜなら、現在は碑が立つだけの点(史跡)である。その点の空間に佇み、長屋王の生きた時代という、その場所に「堆積している時間」に思いを馳せるように導いていく。そのためのトリガーが『万葉集』の歌であり、著者の解説となる。そんな感じで本文が進む。
 「はじめに」の末尾において著者が記す文章に、著者の狙いがあるようだ。
 ”「線」にはあなたの歩いた今日の過去があり、「点」には1300年前の過去がある。そして、『万葉集』の歌はその「線」と「点」を「面」にする役割を果たしてくれるはずである”と。つまり、『万葉集』を携えて、大和の現地を歩きましょうよ、という誘いの書である。

 この本文自体は一貫して文字による説明だけにしてある。脚注形式として要所要所に、系図などの図、写真、脚注説明文などを載せている。ある意味で本文は目移りせず、邪魔が入らずに文字面で読み進める形式である。文字を読み進めるときのイメージや思いの途切れを引き起こさないためだろうか。
 「おわりに」を読んでなるほどと思ったのだが、本書の読みやすさは実際に案内人(講師)として講座参加者と共に歩いた経験を踏まえている故のようである。「万葉集講座のバスツアーで、共に大和をめぐって下さった泉北教養講座の皆さん、みなさんと共に歩いた記憶が本書の基礎を形成しています」と著者は述べている。その時の説明に対する参加者の傾聴反応や質問などが役立っているのではないだろうか。

 上記のとおり、本書に載るコースマップを見ながら、その道のりに沿った記述と『万葉集』より引用された関連歌の説明を読み進めて行く分には「おさんぽ」気分である。まちがいなく、楽しみながら読める。だが、これらコースを自分の足で歩くとしたら、ちょっと「おさんぽ」気分ではいられないだろう。たぶんかなりの健脚の人以外は・・・・・。
 本書に採り上げられた8コースの地域名称、起点と終点、歩行距離をご紹介する。
 起点と終点の間は「~」、駅からのバス利用区間は「→」で表記した。
 平城 近鉄新大宮駅~近鉄平城駅               総距離約7.5km
 春日 近鉄奈良駅→破石町(わりいしちょう) バス停~近鉄奈良駅     約12km
 葛城 近鉄御所駅→風の森バス停~宮戸橋バス停→近鉄御所駅     約12km
 山の辺の道 天理駅~JR桜井線三輪駅               約15.5km
 泊瀬(はつせ) JR桜井線三輪駅~近鉄長谷寺駅            約 6.6km
 忍阪(おっさか) JR桜井駅→粟原バス停~近鉄大和朝倉駅       約 6km
 飛鳥 近鉄橿原神宮前駅→豊浦駐車場~飛鳥バス停→近鉄橿原神宮前駅 約 7.0km
 飛鳥(自転車) 近鉄橿原神宮前駅~近鉄飛鳥駅           約13km                
 コースの行程図式を見ていて、一点リクエストしたくなったのは、近鉄あるいはJRから起点までのバス移動の所要時間はどれくらいかを付記して欲しかった。他府県の土地勘のない者にはその部分が記されていると計画を組む上で自宅からの往復の総時間量がイメージしやすくなる。近鉄やJRの幹線はネット検索で手軽に所要時間が分かるが、バス路線などは調べづらいし、手間がかかるので。

 本書には、「おまけ」として「柿本神社」と「かぎろひ」、「ちょっと豆知識」として「古代の色名」がそれぞれ1ページで、「おさんぽひとやすみ」として「二上山」「宇陀」「吉野」がそれぞれ見開き2ページで説明するコラムがついている。これも勉強材料になる。

 最後に、この各コースに誰の歌が引用されているかを記しておこう。作者名を記しているものについてだけの話ではあるが。どの歌かは、本書を「おさんぽ」して、楽しんでいただければよいだろう。
 平城 長屋王、大伴家持、太宰少貳小野老朝臣、山部宿祢赤人、田辺福麻呂、
    磐姫皇后、額田王、柿本人麻呂、聖武天皇
 春日 橘奈良麻呂、笠金村、坂上郎女、光明皇太后、藤原清河、大伴家持
 葛城 丹比真人笠麻呂(記載なし、万葉集確認)
 山の辺の道 柿本人麻呂、中大兄皇子、額田王
 泊瀬 髙市皇子、三輪髙市麻呂、雄略天皇
 忍阪 沙弥女王、間人大浦、額田王、舒明天皇、天智天皇、鏡王女、中臣鎌足
 飛鳥 舎人娘子、柿本人麻呂、有馬皇子、上古麻呂、大伴旅人、志貴皇子、持統天皇
作者の明かな歌の他に、詠み人不詳の歌、『日本書紀』からの引用なども各所に組み込まれている。

 机上での「おさんぽ」読書が終わったので、このガイドを利用して、コースを歩いてみたいと思っている。私にとっては「おさんぽ万葉集」になるのか、しんどいウォーキング万葉集になるのか・・・・どうだろう。

 ご一読ありがとうございます。


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本書掲載のコースと関係する観光案内の公のサイトをちょっと検索してみた。一覧にしておきたい。
なら記紀・万葉  :「奈良県地域振興部文化資源活用課」
パンフレット・マップのダウンロード  :「奈良市観光協会」
平城宮跡歴史公園 ホームページ
平城宮跡  :「なら旅ネット<奈良県観光公式サイト>」
奈良で自転車を楽しもう  :「奈良県」
葛城の道  :「御所市観光ガイド」
山の辺の道(南)コース  :「天理市観光協会」
長谷寺参道へようこそ   :「初瀬観光ガイド」(初瀬観光協会)
第6回忍坂街道まつり  :「桜井市纏向学研センター」
  既に終了2017年10月実施の情報です。
国営飛鳥歴史公園  ホームページ
  パンフレットダウンロード
特集:明日香村万葉歌碑マップ :「旅する明日香ネット」(明日香村観光ポータルサイト)
調査報告等  文化財 :「明日香村」
光明宗法華寺 ホームページ
春日大社  公式ホームページ
新薬師寺  公式ホームページ
白毫寺  :「奈良市観光協会」
三輪明神 大神神社 公式ホームページ
長谷寺 ホームページ
奈良県立万葉文化館  ホームページ

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『アウシュヴィッツの図書係』 アントニオ・G・イトゥルベ  集英社

2018-04-05 23:04:29 | レビュー
 アウシュヴィッツとはあの悪名高き収容所のことである。そこは第二次世界大戦において、ナチス・ドイツがユダヤ人を強制収容し、次々に大量の人々を一括してチクロンガスを使うガス室送りにして殺した絶滅収容所である。ガス室のことは知っていたけれど、チクロンガスが使われたということは本書で初めて知った。本書を読み、アウシュヴィッツの表層だけしか知らなかったということを再認識したとも言える。実はそのアウシュヴィッツという名称と図書係という言葉の繋がりに違和感を感じて、本書を読む気になった。
 この本は実際にアウシュヴィッツで図書係を担当した少女が実在することを知った著者が、その人をモデルとした小説である。「著者あとがき」で「この物語は事実に基づいて組み立てられ、フィクションで肉づけされている」と冒頭に記す。

 著者は、アルベルト・マングェル著『図書館 愛書家の楽園』に記された一節からジャーナリストとして調査を始めた。そして、クラクフのホロコースト博物館の売店でルディ・ローゼンバーグの手記『私は許せない』のフランス語版に偶然出会ったという。さらに、オータ・B・クラウスの小説『塗られた壁』に興味を引かれその本の購入できるサイトが縁となり、ディタ・ボラホヴァー(旧姓)という80歳になる女性と出会うことになったという。この女性こそが、少女時代にアウシュヴィッツの中に設けられた家族収容所に送られた後に、31号棟の図書係となった人物だった。本書では、チェコ出身のユダヤ人少女、エディタ・アドレロヴァ(ディタ)という名前で描かれて行く。

 本書のストーリーは、1944年1月から始まり、1945年の春に連合国軍により収容所から解放されるまでをディタの目と思いを通して描かれて行く。そして、解放後された後のディタの生き方を最後に簡略に付記する。
 アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所、つまりアウシュヴィッツ=ビルケナウ絶滅収容所がどのような状況であり、実態であったか、ディタの見聞と体験を介して、克明に描き込まれていく。
 アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所には、BⅡb区画が<家族収容所>として作られた。それはナチスがスイスにある国際赤十字から収容所の実態を覆い隠し、欺くために戦略的に設けた区画だった。「死体を燃料に昼夜焼却炉が稼働する、命の破壊工場アウシュヴィッツ=ビルケナウ」(p8)にあって、特別な区画だったのである。その区画の中に、ユダヤ人でブロック古参のアルフレート・ヒルシュが、強制収容所のドイツ当局を説得して、区画内の31号棟を子ども専用のバラックとすることを認めさせたのである。家族収容所内の子どもをそこに集めて楽しく遊ばせれば、BⅡb区画の親たちは仕事がしやすくなるという理屈づけによって。つまり、親たちを子どもに対する心配事から切り離すことができ、強制労働に就かせやすくなるだろうという論理を逆用して、子供を守ろうという意図である。勿論、収容所の最高司令部は子ども専用のバラックを設けることを許可した。「ただし、勉強を教えることは一切禁じられた」(p9)。だが、しかしである。ヒルシュはこの31号棟を秘密裏に学校として運営したのだ。兵士のパトロールがある時は、勉強を中断して、ドイツ語のわらべ歌やなぞなぞ遊びで楽しく時を過ごしているポーズをとらせたのだ。子どもたちにユダヤ人としての誇りを失わせないこと、工夫をして勉強を続けさせるという環境を日々命懸けで維持したことになる。
 ストーりーの展開では先の話になるが、そのヒルシュが、レジスタンスから頼まれたことに対して悩み、薬を大量に呑み干して自殺したという噂が収容所内に流れる。ディタはその真相を確かめたいと行動を取る。収容所内に潜むレジスタンスの一人から、家族収容所の存在について、次のことを告げられる。「この収容所は奴らの隠れみのだからさ。ここで虐殺が行われているという噂が立って、国際監視団が事実を確かめにきたときにごまかすためのな。家族収容所と31号棟はお飾りだ。俺たちはそのお先棒をかついでいるのさ」(p310)と。

 ディタと両親はテレジーン・ゲットーからこの家族収容所に移送されてくる。そして、年長で14歳のディタはヒルシュから図書係に任命されたのである。ヒルシュは「しかしこれは非常に危険なことだ。本を手にするのは、ここでは遊びじゃない。本を持っているところをSSに見つかれば処刑される」と付け加える。それを承知でディタは図書係を引き受ける。
 ヒルシュの許には、強制収容所に送り込まれてきたユダヤ人たちが密かに持ち込んだ本が8冊だけ集まっていたのである。この8冊の本をSSに絶対にみつからない形で貸し出しし、管理し、隠すことがディタの仕事となる。そして、ディタはその本の危険な維持管理の間に、それらを密かに読む時間を作り続ける事にもなる。どこで読むのか? 穴が掘られただけのトイレが並ぶという建物の一隅で・・・・。その悪臭の蔓延するトイレにはSSがパトロールに近寄ることがないから。
 
 ヒルシュは本を持ってきた人から、とっておいた食糧と交換して本を手に入れていたのだ。手許に集積された8冊の本とは何か? 何枚かページが抜けているばらばらの地図帳、『幾何学の基礎』、H・G・ウエルズの『世界史概観』、『ロシア語文法』、フランス語の小説1冊、フロイトの『精神分析入門』、表紙のないロシア語の小説1冊、一掴みの紙が何本かの糸で背表紙にどうにかくっついているという状態のチェコ語の小説『兵士シュブェイクの冒険』である。図書館とは言えないほど小さな図書館。アウシュヴィッツ=ビルケナウでは、囚人であるユダヤ人には認められない図書館である。ディタは図書係となった瞬間から、傷んだ本を慈しみ世話する係にもなっていく。見つかれば己の命をかけるという前提のもとに図書係を引き受けたディタの創意工夫と活躍が描き出されていく。

 このストーリーの展開プロセスの構成として、いくつかの軸が織り込まれている。少なくとも、次のようなサブテーマが同時進行していく。
1つは、図書係ディタが何を行ったか。アウシュヴィッツにあってはならない学校で、子供の世話という名目のもとで先生を担当した人々と、本を媒介にしてディタと先生たちの関わりが広がり、深まって行く。そしてSSから本を隠すディタの活躍が描き込まれる。
2つめは、ディタと両親に関わる過去について、ディタの回想と現状の描写を折々に織り込んでいく。それは、ディタが自由な世界で過ごした生活と収容所生活との対比という形になり、当時の状況が描かれることになる。また、ディタが管理する本の一冊『兵士シュブェイクの冒険』からの一節や、ディタの記憶にある本の一節を引用しながら、ディタの思いが描き込まれていく。それは明日殺されるかも知れないという絶滅収容所の過酷な環境に投げ込まれた少女の青春期を描くことでもある。

3つめは、アウシュヴィッツ=ビルケナウでディタが拡げていった人間関係、またその友人の関わる人間関係の状況を、ディタの目を介して描き込む。それはこの強制収容所で人々がどのように生活していたかを様々な事例として描くことになる。

4つめは、強制収容所の運用実態が描かれて行く。アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の記録写真に映像として残る事実の背景の細部が描写されるということにリンクしていく。ナチスが収容所で行ったことの実態の一端を描き込むことになる。

5つめは、31号棟を密かに学校として運営したヒルシュの生き様を描き込むことがテーマの1つであるように思う。ヒルシュという人物を著者がどう受け止めたかが、ディタの目と思いを介して描き込まれていくことになる。フレディ・ヒルシュは実在した人である。ヒルシュの死の真相に一石を投じていると言える。

 1944年7月11日、BⅡb区画の閉鎖作業が始まった。このとき、12,000人の囚人がいて、SSの大尉であり医師のヨーゼフ・メンゲレが31号棟で3日間続けて、囚人の選別を行ったという。つまり、ガス室送りで殺す人々のグループと他の収容所に移送して、強制労働に従事させる人々のグループへの選別である。収容されていたユダヤ人にとっては、運命の岐路となる。メンゲレの判断1つで、親子、兄弟がバラバラにされ、生死の仕分けをされたのである。
 ディタの母はガス室送りのグループに選別されたのだが、偶然の一瞬間の隙に母がディタについて動いたことから、ディタとともに他収容所移送組に組み込まれるという結果になる。
 強制収容所をたらい回しにされて、強制労働を強いられるディタと母は、最後にベルゲン=ベルゼンに移送される。そこの過酷な日常を著者は描き込む。凄絶の極みである。
 著者は、アウシュヴィッツに送られた後に、1944年10月にベルゲン=ベルゼンに送られてきたマルゴットとアンネの姉妹のことをさりげなく書き加える。1ページ分位の挿話である。姉がチフスで死んだ翌日、アンネもまた同じベッドで一人で死んでいったと。このアンネとは、そう、『アンネの日記』を残したアンネである。

 アウシュヴィッツ=ビルケナウの実態に触れること。そこから始まる。平和とは? 戦争とは?人間とは? 民族とは? 人類とは? などを考えるための有益な書である。
 人間の為す計り知れない暴虐さ、想像を絶する環境の中で生き抜く意志と行動、人間の誇りについて思いを馳せるために、本書は現代に生きる我々にとっての必読書の1冊に加えることができるのではないか。ヴィクトール・E・フランクル著『夜と霧』やアンネ・フランク著『アンネの日記』と同様に・・・・・・。

 ご一読ありがとうございます。



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本書からの波紋で、ネット検索した事項を一覧にしておきたい。
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所  :ウィキペディア
アウシュビッツ  :「ホロコースト:学生のための教育サイト」
Holocaust museum From Wikipedia, the free encyclopedia
UNITED STATES HOLOCAUST MEMORIAL MUSEUM HOME PAGE
【悲惨な戦争の現実】アウシュヴィッツ強制収容所の写真【グロなし】 :「NAVERまとめ」
地球上最大級の惨劇…アウシュビッツ強制収容所 :「世界一周写真館」
【狂気の戦時医学】ナチスの人体実験まとめ【ヒトラー・ドイツ】 :「第Ⅲ収容所」
ナチス・ドイツ  :ウィキペディア
ハインリヒ・ヒムラー :ウィキペディア
アドルフ・アイヒマン :ウィキペディア
ルドルフ・フェルディナント・ヘス :ウィキペディア
ヨーゼフ・メンゲレ  :ウィキペディア
ヴィクトール・フランクル :ウィキペディア
アンネ・フランク  :ウィキペディア
アウシュビッツ生存者が語る「死の収容所」、解放から70年 :「AFP BB NEWS」
「アウシュビッツ収容所」 日本人見学客が過去最高(15/08/07) :YouTube
負の世界遺産・アウシュビッツ強制収容所を訪ねて :「GOTRIP!」
アウシュヴィッツ強制収容所  :「VELTRA ポーランド現地オプショナルツアー」

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