「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

読書コーナー~カルカッタの殺人~

2019年08月28日 | 読書コーナー

このところなかなか面白いミステリーに出会えなかったが、「待てば海路の日和あり」でとうとう巡り会えたのはうれしい限り。



本書の時代背景は英国がインドを支配統治していた1919年に設定されている。カルカッタの繁華街の路地裏で英国政府高官が見るも無残に惨殺されたが、いったい真犯人は誰か、そして動機は何か・・。

この解決を妻の死とともに人生に疲れ切ってインドに赴任したベテランの英国人警部と、その助手として「インドの独立を夢見るインド人刑事」の二人が当たっていく。

ストーリーが当時のインドの英国からの独立運動を絡めて展開されており、その過程で支配する側の英国人と支配される側のインド人との葛藤が細かく描かれ実に重厚な味を醸し出している。

著者はインド系2世の英国人だそうだが、いわば「民族の興亡」という大きなテーマによって作品の奥行きがより一層深くなっている感がある。

「贔屓の引き倒し」は拙いので、まずは読み終えた方々のネットの読書感想を紹介させてもらおう。

 第一次大戦直後の英領インドで本土出身の警部が政府高官殺害事件の真相を追います。この時代の英国人の複雑な立ち位置を情緒たっぷりの都市描写の中に織り込んで表現しており、推理とかよりもそっちの方の書きっぷりに心奪われました。

良く書けたミステリーなどという評に留めたくない、この舞台ならではの吸引力を持つ作品だと感じます。もし続きがあるならばまた読みたいと思わせてくれた一冊でした。

 イギリス統治時代のインドが舞台で、当時の状況などまったく知らないので、読んでいてとても新鮮だった。ときどき中学校時代の教科書に出てきた事件が出てきて、そういえばこんなのを習ったなあ、などということもあった。

社会的背景が登場人物たちの行動に影響を及ぼし、事件が起こる原因にもなる。知らない国の知らない時代のミステリーは読んでいてまったく飽きない。

 普段ミステリーというと現代の英国か米国のものしか読まないので、舞台がエキゾチックなカルカッタというだけで冒険感がある。そして特筆すべきは何と言ってもテンポの良さ。

その時代の政治が絡む小説は、ともするとくだくだしくなり勝ちだが、この作品は読んでいて失速することが一切ない。文章が軽いというよりもイベント間の繋がりが滑らかなので噛みごたえも充分。密度と軽快さを兼ね備えるというのは簡単なことではないように思う。

イギリス統治下インドを舞台にした一級歴史ミステリー。ほろ苦い終幕にも打たれた。作者の知性が冴え渡る傑作!

これ以上の感想は不要でしょう。たいへん好評ですから「興味のある方は一読されても損はありませんよ」と保証しておきます。

最後に、173頁に次のような一節があった。

当時、インドに在住していた英国人は15万人だが、これだけの人数で3億人ものインド人をなぜ支配できたのか、その理由を「インド独立運動家」は英国人の警部に向かって滔々と次のように述べる。

「それは道徳的な理由が保たれているからです。ごく少数の者が圧倒的多数のものを支配するためには、支配者は被支配者に対しその優位性を示す必要がある。

その中には身体的優位性や軍事的優位性だけではなく、道徳的優位性も含まれる。そしてそれ以上に大事なのは被支配者が自分たちの劣等性を認め、支配されるのが身のためだと信じるようになることです」

ふと、高校時代の社会科の時間に習ったことを思い出した。

民族興亡の歴史における支配と被支配については「支配する側だけの論理ではなく、支配される側にも受け入れるそれなりの理由がある」

英国はインドを百年以上に亘って統治したが、現代のインドがかっての宗主国に対して当時のことについて恨みがましい言動をしたことをいっさい見聞したことがない。

それにひきかえ、お隣の国はたかだか日本国による35年間の統治に対していまだにしつこく何やかや言ってきている。

これは、はたして国民性の違いなのか、それとも国家相互間の地理的な距離のせいなのか、そして「終戦」という他力本願のような形での独立に対してコンプレックスを持ち続けているせいなのか、本書を読んだ後にしみじみ考えさせられたことだった。

簡単に引っ越しするわけにもいかないしヤレヤレ(笑)

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真空管が大きく音質を左右した二つの事例

2019年08月27日 | オーディオ談義

以前といっても2~3年前の話だが「眼光紙背に徹する」ほどに真空管・ネットオークションを見入っていたものだが、このところとんとご無沙汰気味である。

ほぼ欲しい真空管は既に手に入れており、スペアも確保しているという安心感もあるし、それなりのブランドであれば音質的にそう大きな差も無いだろうというのがその理由。

ところが、やっぱり認識が甘かったようだ(笑)。

このほど真空管が音質を大きく左右することをつくづく思い知らされた実例を2点ほど挙げてみよう。

スピーカーに「AXIOM80」を使っての話である。

✰ 71Aシングルアンプのケース

  

出力管に「71系」を使ったアンプだが、出力はわずか1ワットにも満たないのにこのくらい音の素性がいい球も珍しい。音のスピードは速いし、嫌な響きを出すこともいっさい無い。まず、生きてる限り絶対に手放せないアンプである。

ただし、オークションで手に入れたときの当初の仕様には飽き足らず2点ほど改造している。

一つはインターステージ・トランスの挿入、二つ目は前段管を「6SN7GT」から「A411」(ドイツ製:バリウム昇華型フィラメント)仕様へと改造している。これで見違えるほど気に入った音が出てきた。

それはともかく、改造後はずっと出力管に「171」(トリタン・フィラメント)を使っていたのだが、ときどき音が「かすれ気味」になってきた。

息も絶え絶えというか、何しろ1920年代の製造でおよそ100年前の真空管だからそろそろ寿命がきてもおかしくない。

そこで、「171」の芳醇な音に大いに未練を残しながら、仕方なくレイセオンの「71A」(ST管:赤ラベル)に交換したところ、これがまあ段違いの音になったのである。

高域方向への周波数レンジの広がりや繊細さとともに、「AXIOM80」独特のボーカルがちょっと鼻にかかって抜けていくような「得(え)も言われない」魅力的な音に変身した。

いかに名管「171」といえどもヘタってしまうと「老いては駄馬」ですかねえ。

「老兵は死なずただ消え去るのみ」(マッカーサー)の一幕でした(笑)。

おっと、もうひとつ大切なことを忘れていた。

整流管についてだが、いつも使っているSTCの「80A」から「北国の真空管博士」ご推奨の「83V」(刻印)に代えたところ情報量が大いにアップしてうれしさのあまり小躍りしたことを付け加えておこう(笑)。

✰ 6098シングルアンプのケース

  

忘れもしない今から3か月前の5月20日に我が家に到着したアンプである。当初は試聴用として送付されてきたものだったが、我が家の既存のアンプにはない「元気溌溂さ」がとてもユニークだったので、購入を決めたものだ。

あえて区分すれば上記の「71Aアンプ」が「音楽的」だとすれば、このアンプは「オーディオ的」だと言えるかもしれない。

周波数レンジも広く、どこといって音質に不満が見当たらないアンプで、これほど改造する気が起こらないアンプも珍しい(笑)。

ただし、このアンプはインターステージ・トランスが入っていない分、前段管次第でころころと音が変わる。

当初に付いていたシルヴァニアの「6SL7」は我が家のシステム環境ではイマイチだったので、以前のブログにも記した通り、GE、RCA、ムラード、STCなどの銘柄を次から次に実験したうえで最終的には「STC」の「CV569=ECC35」に落ち着いた。

この球でずっと来ていたのだが、この頃やたらに音がキンキンして跳ね上がり気味の感じでどうも聴きづらくなってきた。

おかしいなあ・・・。

そこでムラードの「ECC35」に換えてみたところ、キンキン感がすっかり納まって魅力的なムードに大変身!

「あのテストの時に私は狂っていたとしか思えない」(笑)ほどの変わりようで、この音なら「ウェストミンスター」でも十分通用すると思い、切り替えたところベスト級と唸るほどだった。

STCもムラードも英国製の名だたるブランドだが、当初と比べてどうしてこんなに印象が変わったのだろうか?

さしあたり、思い当たる節を挙げてみよう。

 6098アンプのエージングがすっかり完了して、前段管とのマッチングが変化した

 DAコンバーターの電源を「200V → 100V電源」から「リチウムイオン電池」に交換して音が様変わりしたのも一因か。

 身体の健康度合いが改善し、それに応じて気分が晴れ晴れとして万事に前向きになってきた

以上ぐらいですかねえ・・・。

については本人の健康状態が聴感に及ぼす影響が無視できないので解説が要りそうだ。

以前のブログにも記載した通り、8月上旬の検査で持病の血糖値がハイになり過ぎてしまい慌てて本格的に改善に取り組んだ結果がどうやら功を奏したようなのだ。

たとえば、ここ3週間ほど午前と午後の運動量を2倍にし、間食をいっさい止めるを忠実に実行。

そして「免疫力」を強化するために5つの食品を摂っている。具体的に紹介したいところだがいかにも「健康オタク」みたいで気恥ずかしい(実際にそうだが~笑~)。

もし興味のある方はメール(メルアドは自己紹介欄)をください。詳しくお知らせします。

というわけで、もし、ご高齢の方で現在の音質にご不満があるという方は機器類の交換よりも先に、まずは己の健康改善に取り組まれることをお薦めします(笑)。

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オーボエ奏者から見た指揮者とは

2019年08月25日 | 音楽談義

数ある楽器の中で弦楽器に次いで好きなのが管楽器だが、これを効果的に使う作曲家といえば私感で言わせてもらうと、ワーグナー、マーラーそしてモーツァルト。

モーツァルトはクラリネット協奏曲をはじめ、フルート、ファゴット、オーボエの各協奏曲ともそれぞれのジャンルの代表的な名曲として今でも君臨している。

そして、この中で一番琴線に触れる楽器といえばオーボエだ。何とも表現できない優雅な音色にいつもウットリさせられる。

オーケストラの演奏会では周知のとおり、演奏が始まる直前にオーボエがまずラの音(A音=標準音)を鳴らし、それに合わせて次々と各楽器がラの音を響かせて、オーケストラ全体の音を合わせていくが、なぜオーボエが最初の標準音を担当するのだろうか?

本題ではないし、長くなるので省略(笑)。ネットに詳しく書いてありますので興味のある方はそちらをどうぞ。

さて、このほどN響のオーボエ奏者の「茂木大輔」さんの著書「続オーケストラは素敵だ」に出会った。

              

とても面白かった。著者は音楽家にもかかわらず筆力の冴えにも恵まれておられ何よりも文章にリズムと展開力があって、どうやら「天は二物を与える」ものらしい。思わず熱中して瞬く間に読み終えた。

内容のほうも、自分のような楽譜の読めない素人はもちろん音楽評論家でさえも”うかがい”知れない演奏者の視点からの音楽論がなかなか新鮮。

一番興味を持てたのは、「オーケストラ〔以下、「オケ」)の一員からみた指揮者論」だった。

「悪いオーケストラはない、悪い指揮者がいるだけだ」という有名な言葉があるが、オケと指揮者の関係を赤裸々に綴っているのが出色。

 学生時代に「指揮者なんてものはただの飾りに過ぎないのに演奏会でもレコードでもたいへんに大きく扱われ舞台でも一番偉そうにしているのはなぜなんだろう?」というご本人の素朴な疑問がまず出発点。

そして、実際にオケで演奏するようになってから「素晴らしい指揮者もそうでない指揮者も両方体験して」具体的な指揮者論が次のとおり展開される。

 まずテンポが違う。指揮者の基本的な仕事は「拍」を示すことでそれが最も顕著に影響するのはテンポ。このテンポほど音楽の表情を変えてしまうものも外にはない。

 次に指揮者の動作による音楽の構築。舞台の上でどっちを向いているか、動作全体の大きさ、特に左手はどうしているか。人間は不思議なものでこっちを向かれると思わず真剣になる。また、自分のほうに手をかざされると自然と音は小さくなる。

 N響定期公演にはそれぞれ3日間午前午後2時間ずつのリハーサルが予定されており、この使い方が指揮者の力量によって大きく違う。」 というわけでサバリッシュ、シュタイン、デュトワといったN響の名誉指揮者たちが続々と出てきて練習の仕方が紹介されるがそれぞれ個性的で各人各様なのが面白い。

以上のとおりだが、指揮者論になるといつも出てくるのが、文学、絵画、彫刻などと違って音楽は(楽譜が大元になっている間接芸術なので)指揮者(演奏者)の数だけ作品があるという話。

これが果たして芸術としていいことなのか、悪いことなのか速断できないが、多様性を楽しめるという点では間違いなくいい。

第一、選択肢が増えるし、それに音楽もオーディオも「標準=物差し」のない世界なので比較することで、より本質に近づけることができるのはたしかである。

たとえば、自分の場合大のお気に入りのモーツァルトのオペラ「魔笛」をCD,DVDなど全部合わせて50セット近く手に入れたおかげで、好きなイメージにマッチした演奏を発掘できたし、その過程を大いに堪能出来たのはありがたかった。

最後に、本書を離れて往年の指揮者「シャルル・ミンシュ」の著書「指揮者という仕事」に「オーケストラ楽員は指揮者に何を期待するか」というアンケート結果があるのでその一部を紹介して終わりとしよう。

 音楽について際立った解釈をして楽員を奮い立たせること。

 ソロ(単独演奏)が、りきまないでもはっきり聴き取れるようにオケのバランスをとること

 明瞭なビート(拍子の指示)は基本的な役割

 本番中に事故(演奏者が思わず犯すミス)が起きても気づかない振りをすべき。〔笑)

 トスカニーニの時代は去ったことを悟るべきだ。芸術上の独裁者は良くない。

 指揮者は最小限の「発言」で意思伝達が出来るように。トスカニーニは実に非凡でそれをバトンテクニックの技のうちに秘めていた。

 リハーサルで奏きそこないがあるたびに冒頭に戻る習慣は、楽員たちの反感を買うだけだ。

 奏者と楽器の両方の能力と限界を知っている専門家であるべき。

 教師であり、指導者であり、最高の専門家であり、そして音楽史上の偉大な作曲家たちの最も深遠な思想が通り抜けねばならない煙突である。

「指揮者=煙突」説はユニークだと思う。

長い、短い、直径が大きい、小さいなど様々な煙突の形状の数だけ指揮者がいるし、それぞれに曲目に応じた個性があって簡単にいい悪いが決めつけられないところに妙味がありそうだ。

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エージング効果

2019年08月23日 | オーディオ談義

電解コンデンサーの容量漏れで盛大にハム音が出てしまい仕方なく修繕に出した「300Bシングル」アンプ。

   

我が家には真空管アンプが貸し出し中も含めて8台ほどあるが、その中では有名トランスの使用といい、凝った銅板シャーシ(磁界が生じないのでSN比に有利)といい、音質にも満足している。

中古市場で一番値がつきそうな大切なアンプなのですぐに電解コンデンサーを4本すべて入れ替えてもらい手元に戻ってきたのがおよそ3週間ほど前のことだった。

「電解コンデンサーの中身はアルミ箔がいっぱい詰まってますからエージングに時間がかかりますよ。少なくとも2週間は見ておく必要があります。」との、識者のアドバイスだったが実際にその通りだった。

戻ってきた当初はやたらに音の重心が高くて、重厚な雰囲気に欠けていたのだがこのほどようやく以前の「音の佇まい」に戻ってきたようだ。

エージングの期間中は息も絶え絶えの「WE300B」(1967年製)を使ったりして実験を重ねたが、アンプが本調子となるともったいないので(笑)、スヴェトラーナの300Bに戻して聴いている。

去る18日(日)の午後、近くのオーディオ仲間に試聴してもらったところ「まだ幾分サッパリ気味ですが、どうやら復調したみたいですね」と太鼓判を押してもらった。

ただし、この「サッパリ気味」というのが曲者で、もっとエージングを重ねていけばコクのある音になってくれるのか、それとも元の電解コンデンサー(ウェスタン製)を使わないと出てくれない音なのか、こればかりは予測がつかない(笑)。

   

「電解コンデンサーの役割といえば、音声信号回路とは別で・・・」と、展開したいところだが、素人の生兵法は危険なのでこれ以上深入りしない方が無難だ(笑)。

いずれにしても、はたしてブランド次第でどの程度音質に影響を与えるのか、今後も要観察である。

それはさておき、1か月ほど前に仲間から借りていた「リチウムイオン電池」(ソニー製)の件を覚えておられるだろうか。

   

「新しく容量の大きい降圧トランスを購入したので使ってみませんか」とのご厚意に甘えて現在、2台のDAコンバーターを接続して活躍中である。

電源コードはあの泣く子も黙る「ドミナス」(PAD)とあって役者に不足はなし(笑)。

ようやく念願の「ふわりと音が空気中に漂う感覚!」が出てきたのだから大したものである。我が家にはもはや欠かせない電源機器といっていい。

そこで「200V電源を100V電源に降圧するトランスが古くなったのでそろそろ買い換えたいと思っているんですが、それもこのリチウムイオン電池のお値段次第です。もし譲っていただけるとしたらどのくらいの値段をお考えですか?」と、ストレートにお尋ねした。

すると「ああ、もうタダで差し上げますよ」

エーッと驚いた!

いくら何でも中古とはいえこんな高価なものをタダでいただくわけにはいかない(笑)。

そこで心ばかりの「薄謝」で手を打ってもらった。

今から700年も前の鎌倉時代の随筆「徒然草」(兼好法師)の「第117段」にこういう記述がある。

「友とするに悪き者、七つあり。一つには、(身分)高く、やんごとなき人。二つには、若き人。三つには、病なく、身強き人、四つには、酒を好む人。五つには、猛く、勇める兵。六つには、虚言する人。七つには、欲深き人。

良き友三つあり。 一つには物くるる人、二つには医師、三つには知恵ある友」 

「持つべき友」は昔も今も変わらないようですよ(笑)。

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素人(アマ)と玄人(プロ)の文章の違い

2019年08月21日 | 独り言

大型台風10号が「お盆」とともに去って行ってから朝晩がめっきり涼しくなった。「芸術の秋」の足音が遠くから聞こえてくるみたいで大歓迎です(笑)。

さて、23年前に亡くなられた司馬遼太郎さんは好きな作家の一人なので、折にふれ著作に目を通しているがこのほど「未公開講演録」という本に出会った。

あれほどの国民的大作家なので国内各地で行った講演は数知れないが、その講演録をまとめた本である。

            
                            
何回も推敲ができる小説と違って、講演は聴衆を前にしての一発勝負でいったん発した言葉は放たれた矢と同じで修正、取り消しがきかないので意外と本音が聞ける楽しみもある。

そういえば、以前の国会質疑で安倍首相が自衛隊のことを「我が軍」と言ったとかで物議を醸していた。

元首相の田中角栄さんが「国会の予算委員会ほど怖いものはない、筋書きに無い質問が出てウッカリ言葉を滑らせると大変なことになる」と言ってたが、その懸念通りとなった。

「着込んだ鎧が衣の下からチラリと顔を見せた」ということだろうが、そもそも現実に他国が攻め寄せてきたときには「自衛隊は国防軍」になるんだからそう目くじらを立てることもあるまいと思うがどうだろうか。

閑話休題。

「司馬遼太郎が語る日本~未公開講演録愛蔵版~」は23話の講演録をまとめた本で、構成はつぎのとおり。

「私の小説の主人公達」1~10話、「文学と宗教と街道」11~23話
となっている。

居ながらにして司馬さんの講演が23話も聞ける大変重宝な本でいずれも興味の尽きない話ばかりだが、ここで取り上げるのは第20話にあたる。

期日:1984年11月29日、開催地:大垣市文化会館、テーマ「日本の文章を作った人々」による講演である。

内容は明治維新になっていったん崩壊した文章日本語が夏目漱石に至って成立したこと、文豪漱石の偉大さを讃えるとともにモットーである「則天去私」(天にのっとり私を去る)は生活論ではなくて芸術論であったことを中心に述べている。

はたして漱石は自分の作品の中に「則天去私」をどう発揮したのだろうか。

司馬さんは分かりやすい例として(講演の)冒頭で「素人と玄人の文章の違い」にふれている。

もちろん司馬さん流の「ものの見方」であることが前提だが、「文章なんか相手に判ればいいのであって、そんなに堅苦しいことを言わなくてもいい」という向きにはまったく縁のない話なのでここから先を読む必要はありませんので念のため(笑)。

まず、ここでいう素人(アマ)と玄人(プロ)というのは文脈から推すと必ずしも文筆で生計を立てているかどうかという区分でもないようで、つまるところ文章の背景に起因する精神の問題のようである。

さて、一流の作家からみてアマとプロが書いた文章はどこがどう違うのだろうか?

司馬さんによる見立てはこうだ。

「たとえば一流の学者、実業家が文章を書いた場合にもたしかに上手に書けているけれど、一見してこれはアマが書いた文章だと判るケースがある。

また、逆にこれはプロが書いた文章だと感じさせる場合もある。

文章の技術ということではアマもプロも違いはないが、決定的に違うところがある。それは文章を書くときの精神の問題で「私心」があるかないかということ。

文章は物を表すためだけに、あるいは心を表すためだけにある。正直にありのまま書けばそれでいい、これが基礎だが、アマはつい格好をつけたがる。

「俺が、俺が」と、自己をひけらかしたりするのが私心である。

自己というものは本来、生まれたては清らかだが世間を渡っているうちに競争心が出てくる、負けず嫌いにもなってくるが、文章を書くときにそれを出してはいけない。

漱石にも負けず嫌いの気持ちがあっただろうが、それを押し殺しての“則天去私”である。」

かいつまむと、以上のような内容だがたしかに自分にもアマの文章家のひとりとして大いに思い当たる節がある。

たとえばブログを書くときについ「俺は物知りなんだぞ!」と格好をつけたがるのをはっきり自認している。まったく、いけませんなあ~(笑)

これは明らかに「虚栄心」が頭をもたげている好例だろう。

ただし、「分かっちゃいるけど止められない」のでこれからも改める積もりはなく、したがって自分にはとても漱石のような「則天去私」の心境には及びもつかないことがよく分かる。

結局、これが文章家としても人間的にも大成できない理由なんだろうが、別に(文章で)日銭を稼いでいるわけでもなし、(ブログを)読んでくれと頼んでいるわけでもないし、(人生の)残り時間も限られているし、ま、アマのままでずっと気楽に行かせてもらうことにしましょうかね(笑)。 

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オーディオ機器の実力と市場価値とのバランス

2019年08月19日 | オーディオ談義

お読みになった方も多いと思うが、読売新聞(8月16日付朝刊)の一面に次のような記事があった。

      

「ジョン・メイナード・ケインズ」(英国:1883~1946)といえば「ケインズ学派」を成したほどのマクロ経済学を象徴する巨人だが、当時「美人投票」という説を唱えていた。

「自分が最も優れていると考える企業の株ではなく、他人から最も人気を集めそうな企業の株を推し量り、勝馬に乗るのが有効だとする考え方。当時、英国の新聞紙面上で行われていた美人コンテストにたとえた。」

これには次のように分かりやすい実例があげられている。

小見出しは「買い物 他人の好みで」

「良いブランドだから、他の人も欲しいと思うはず。8月上旬、東京・銀座で都内に住む女性が価格を気にするそぶりを見せずに約2万円のパンツを買った。

何度か着て飽きたらフリーマーケットアプリでの転売を考えているという。自分がほんとうに欲しい服より、後で売ることを見越して中古市場で売れやすい服を買う人が増えている~三菱総合研究所~」

とのこと。

そういえば、クルマを購入するときだってそうですね。たとえば「色」だが、「ホワイトやブラック以外のクルマだと、下取りするときの価格が落ちますよ」と販売員さんからアドバイスを受けたことが何度もある。そういうわけでもないが、我が家の2台のクルマの色はいずれもホワイトだ(笑)。

さて、これを前置きにしてさっそくオーディオの話に移ろう。

我が家のケースだが、オークションで大いに惹かれた機器を購入するときに、万一ハズれた場合でも中古市場で高値がつきそうかどうかをまったく考慮しないと言ったら嘘になりますね。

以前のブログ「オークションの不思議な法則」(2019・6・12)でも述べたとおり、転売したときは不思議にほぼ手取りが4割落ちの価格になるので結局「楽しみ賃が4割だった」との話を覚えておられるだろうか。

つまり、冒頭の話のような例が実際に自分にもあるわけだが、もちろん基本的には「ほんとうに欲しい」が先行し、それに付随して市場価値が高ければ「言うことなし」というわけで、現実としておそらく皆様もそうだと思う。

そこで、ふと思ったのが「はたしてオーディオ機器の実力がきちんとオークション(中古市場)の相場に反映されているのかどうか」、これは実に興味深いテーマだと思いませんか?(笑)

結論から言えば、オークション市場は流石に「生き馬の目を抜く世界」とみえて、ほぼ正確に機器の実力と相場が拮抗しているように思える。

たとえば、つい最近の事例としてタンノイさんの「モニター・シルバー」(口径30センチ)がオークションに出品されていた。

  

タンノイさんのユニットは周知のとおりマグネットの部分の色によって「ブラック」→「シルヴァー」→「レッド」→ 「ゴールド」 →「HPD」・・と変遷していくが、巷の噂によると音質もこの順番に沿っているとされている。

実際に福岡市のSさん宅でコーナーヨークに入った「シルヴァー」(口径38センチ)を数回聴かせていただいたが、透明感が際立っていて他のタンノイさんとはまったく一線を画すものだった記憶がある。

駆動するアンプは「PP5/400シングル」(モノ×2台)。



横にあるのは「AXIOM80」。



というわけで、ブラックは極めて希少で市場にはまず無いとされており、シルヴァーが実質的に最高のユニットになっているので「お値段次第では手に入れてもいいかな、ハズレてもそれほど損はしないだろう」との皮算用で注意深く入札価格の推移を見守った。

落札期日当日まで3万円前後だったのであわよくばと思っていたら、何と直前からみるみる上がって最後は33万円前後へ(落札日:8月16日)。SPユニットとしては桁外れの高値で、所詮は高嶺の花だった。

やっぱり皆さんはよくご存じですねえ(笑)。

実力というか評判が市場価値ときちんと見合っていることに感心した。

ただし、そういう厳しい世界でも穴場というか「お買い得」もあるように思える。

一言でいえば、それは「機器の図体」に尽きる。

どういうことかといえば、市場価値の観点から我が家のオーディオ機器を見回すと、いずれもドングリの背比べでそれほど自慢できるものはいっさい無いが、唯一ユニークと思えるのがウェストミンスターの大型の箱である。

重さが100kgを越えるうえ、大きさからいって現在の住宅事情にはまったくそぐわないし、中身の方もオリジナルからすっかり改造しているのでオークションでの価値はほとんど無いに等しいと思う。

ところが、実際に使ってみるとこのくらい強力な武器も無い。

どんなにいろんな手立てを講じてみても、結局大きな箱の威力の前には無力感を感じてしまうことが再々である。

少なくとも我が家ではワーグナーの雄大な音楽はこの箱じゃないと聴けない。

したがって、オークションで大きな箱を見つけたらお値段もさほど伸びないことだろうから、事情が許す限り真剣に検討するに価すると思いますよ。

結局、オーディオの”とどのつまり”は「箱」に尽きるような気がしている今日この頃です(笑)。

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二つのタイプに分かれる芸術家

2019年08月18日 | 音楽談義

先日、NTTの光テレビ「時代劇専門チャンネル」で黒沢明監督の名作「七人の侍」を放映していた。

過去、何度も観た映画だが今回もつい惹きつけられてしまい、3時間半もの大作を一気に見終った。いやあ、とても面白い!

映画に求められるあらゆる要素がびっしり詰まっていて、改めて黒沢監督(故人)の偉大さに思いを馳せたが、折しもBS放送の「昭和偉人伝」(1時間もの)で黒沢監督特集をやってた。

その中で「七人の侍」の製作裏話が披露されていたが、当時の俳優陣で最後まで生き残られた「土屋嘉男」さん(現在では故人)が出演されていた。

妻を野武士にさらわれた苦悩を一身に背負う難しい役どころで、百姓の中で武闘派の急先鋒となっていた「利吉」の役柄である。

この番組ではほかにも黒沢監督の映画につきものだった俳優「三船敏郎」(故人)との訣別に至った理由などが明かされ、興味深い話が満載だった。

それはいいとして、ここで話題にしたいのは芸術家にも二つのタイプがあるようで、年齢を重ねるにつれて才能をますます開花させる「才能昂進型」と、一方では才能がますます朽ち果てていく「才能枯渇型」とがあるようだ。

たとえば、後者の例として挙げられるのが冒頭の「七人の侍」だ。見終ったときに「こんな完璧な作品を若い頃に作ったら後が大変だろうなあ」というのが正直な感想だった。

事実、黒沢監督は以後、この作品を越える映画を作れなかった。後年の映画にはいずれも緊張感の持続性というのか、根気が続かない中だるみの印象を受けるのは自分だけだろうか。

晩年には「自殺未遂」騒ぎまで起こしているが、理由はいろいろあろうが、この才能の「枯渇現象」が一因であったことは想像に難くない。

芸術家にとって命ともいえる閃きや才能が加齢とともに失われていく苦しみと悲しみは自分のような凡人にはとても想像がつかないが、一方では加齢とともにますます才能を開花させていく芸術家だっている。

江戸時代の浮世絵師「葛飾北斎」が有名だ。今や「神奈川沖浪裏」に代表される「富岳36景」などで世界の「北斎」になっている。

    

88歳という当時ではたいへんな長生きの生涯だったが「死を目前にした(北斎)翁は大きく息をして『天があと10年の間、命長らえることを私に許されたなら』と言い、しばらくしてさらに、『天があと5年の間、命保つことを私に許されたなら、必ずやまさに本物といえる画工になり得たであろう』と言いどもって死んだ」とある。

その意気たるや凄い!

作曲家モーツァルトも35年の短い生涯だったが、わずか10代の頃にあれほど優れた作品を残しておきながら益々才能を開花させていき、とうとう亡くなる年に作曲したオペラ「魔笛」が彼の生涯の集大成となる最高傑作となった。

論議がいろいろあろうが、文豪「ゲーテ」や楽聖「ベートーヴェン」が最高傑作だと言ってるのだからそう決めつけてもおかしくはないだろう。

その一方、作曲家でも「才能枯渇型」が居ることはいる。それは北欧フィンランドが生んだ国民的作曲家「シベリウス」(1865~1957)。

とても長い生涯だったが、40歳ごろを境にプツンと才能が切れてしまった。ご本人の慟哭たるやいかばかりかと思うが、92歳まで生きたのだから過去の栄光にしがみつきながら意外とのんびり余生を送ったのかもしれない(笑)。

以上、こうして二つのタイプの芸術家を分かつものはいったい何だろうか?

もちろん、持って生まれた資質もあるんだろうが、意欲というか向上心とでもいうか、どうも根っこには「現状に飽き足らない貪欲さ」があるような気がしてならない。皆様はどう思われますか?

文豪「森鴎外」の名作「高瀬舟」には「罪人・喜助の足るを知ることの崇高さ」が見事な筆致で描かれているが、こと芸術に関しては「足るを知らない貪欲さ」が必要なのかもしれない。オーディオもしかりだと思うが、ちょっと手前味噌かな(笑)。

それはさておき、前述のシベリウスには代表作として「ヴァイオリン協奏曲」がある。彼がプツンと切れる前の37歳の時の作品である。

           

上段左から順に「ジネット・ヌヴー」盤、「カミラ・ウィックス」盤、「ダヴィド・オイストラフ」盤、下段左から「ヤッシャ・ハイフェッツ」盤、「サルヴァトーレ・アッカルド」盤、「ヒラリー・ハーン」盤の6枚。

じっくり1日かけて聴き比べ~。

この曲の聴きどころは「北欧フィンランドのリリシズム、透明な抒情とほのかな暖かみ、強奏するときのオーケストラが常に保持する暗い、激しい響き。これらはシベリウスの音楽を愛する者を直ちにとらえる要素である」(小林利之氏)

この中で一番感銘を受けたのは「アッカルド」盤だった。オケの指揮がコリン・デーヴィスだが、シベリウスには定評のあるところでたしかに申し分のない演奏とお見受けした。

ヌヴー盤もさすがでとてもいい。第二楽章はダントツといっていいくらいで、もっと録音とオケが良ければ言うことなしだったが惜しい。

カミラ・ウィックス盤は、シベリウスが存命中の録音で「これが一番私の作曲の意図を再現している」と作曲家ご本人が推奨した曰くつきの演奏だが「老いては駄馬」(失礼!)だった作曲家の言うことにしばられる必要はないだろう(笑)。

オイストラフ盤とハイフェッツ盤は巨匠同士だが何だか新鮮味に乏しい。

最後のヒラリー・ハーン盤は期待したほどではなかった。

「プレイズ バッハ」でたいへんなテクニックを披露したものの、同時に若さを露呈したハーンだが、この盤でもまだまだの感がする。

しかし、この人、後年になって「大化け」しそうな未完の大器の雰囲気を感じさせるところがあって今後が注目の存在。

それには、主たる活動拠点をアメリカからクラシックの本場ヨーロッパに移した方がいいと思うが、これは素人風情の余計なお世話かな~(笑)。

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オーディオ実験あれこれ

2019年08月16日 | オーディオ談義

このところ、人気下降気味のオーディオ記事だがようやく6日ぶりの登場です(笑)。

さて、振り返ってみると50年近くオーディオをやってきたものの、残念なことにいまだに山の頂き(理想の音)が見えてこない。

いろんな策を講じてみるのだが、当座は満足するものの時間が経つにつれて何かしら不満が出てくる。近頃は何だか「お釈迦様」の手の平で踊らされているような感じがしてきた。

そういうわけで、むしろ山頂を目指すよりもいろんな回り道をしながらその「道筋」を愉しむのが自分に合っているのかもしれないと思いだした。

つまり、本人が楽しければそれでいいじゃないか!(笑)

というわけで、開き直り気味の「オーディオ実験」のご開陳だが、ここ10日あまりでいろいろ「トライ&エラー」したので記録しておこう。

ちなみに、このところ以前の失敗をすぐに忘れて同じ実験を何度も繰り返す傾向があるのでこうやって残しておくのが一番いいみたい。そろそろボケ始めたのだろうか(笑)。

✰ ウェストミンスター(改)

   

実はこの姿でしばらく落ち着いていたのだが、ヴァイオリンを聴くときに「175」(JBL)がややキツイ音を出すので、およそ2日掛かりであれやこれや実験してみた。

たとえば、コーン型ユニットの口径20センチ(リチャード・アレン)や口径14センチ(テクニクス)に換えてみたり~。

    

担当する周波数の範囲は「800~8000ヘルツ」で、これに合わせて「075」ツィーターも控えに回したりして大忙し~。

が、最後の落ち着き先はやっぱり「175」へ(笑)。

コーン型のいいところは穏やかで聴き疲れしないことにあるが、コンプレッション・ドライバーに比べるとどうしても「スッキリとした爽快感」に欠けるところがありますな。実に惜しい!

そこで、SP対策を諦め今度は方向転換して駆動するアンプの方を換えてみた。「300Bシングル」(モノ×2台)から「PX25シングル」へ。

   

前段管を「LS7」(GEC)にしたうえで出力管は通常の「PX25」から上級管とされる「PP5/400」(英国マツダ:最初期版)に交換。

これまで”もったいなくて”使う気にならなかったが、「はたしていつまでオーディオを愉しめるんだろうか」と思うと、今のうちに精一杯愉しんだ方が得だと思い直した(笑)。


そして、これでようやく愁眉が開いたのであった!「175」がすっかり調教されてヴァイオリンが瑞々しい響きになったのはありがたい。

やっぱりアンプとスピーカーは”持ちつ持たれつ”の関係ですね(笑)。

ちなみに、このアンプはインターステージ・トランス(「UTC」のA19)の能力の許容範囲が辛うじてセーフなので交換した方がベターとのアドバイスを識者から受けているものの、現実問題として「UTC」のパーマロイ・コアを上回る質のものとなるとなかなか見つからない。そして、もしあるとしてもメチャ高い!

もう諦めてこれでずっと行こうかなという気にさせられるような音になったのは幸甚だ(笑)。

そして、次の実験はといえば、

✰ ジェンセンのツィーター

先日、耳のいい仲間と一緒に「出力管300Bの左右ごった煮」の実験で、あえなく冴えない評価をうけた「AXIOM150マークⅡ+ツィーター」だったが、何しろ「グッドマン至上主義者」からみると「そういうはずがない」とばかり、ちょっと”もがいて”みた。

まずはツィーターに問題ありと睨んで、振動版に「フェノリック」を使ったジェンセンに換えてみた。

   

フェノリックはベークライトに近い材質だそうで、あまり刺激的な音を出さないのでコーン型ユニットと相性がいいはずとは、このツィーターを譲ってくれた北国の博士の弁である。

クロスオーバーは4000ヘルツ(-12db/oct)だが、4000ヘルツ以上は既存のネットワークを使わずに、コンデンサーを使って「2.2μF+2.2μF」でローカット(ー6db/oct)したところとてもうまくいった。

駆動するアンプは定番の「300Bアンプ」(銅板シャーシ)がベストだがちょっとマンネリ気味なので久しぶりに「6SN7」アンプの出番。

小出力だし、小振りだけど利点としては大型アンプに比べて音声信号に対するスピード感が一枚上である。

ただし、自分の印象では出力管に「GT」管を使うと、どうも倍音成分に乏しい気がするが、それがやや響きが多めの「AXIOM150マークⅡ」とマッチングが良さそうな気がする。

   

しばらくこの状態で聴いてみて、最終的な判断は音楽ソースをあれやこれや変えていくうちにアンプを代えたくなるかどうかで決めるとしよう。

回り道をしながら、急がず、慌てず、楽しみながらをモットーに~(笑)。

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お盆絡みの三つの話題

2019年08月14日 | 独り言

このところ、このブログの読者層に異変が起きていることに気が付いた。

オーディオの記事よりもその他の記事の方がアクセス数が多くなっているのだ!

かってない逆転現象にいささか戸惑っているが、むしろ歓迎である。

幅広く読者に興味を持ってもらうに越したことはないので(笑)、予定していたオーディオ記事を急遽外し、(お盆休みに乗じて)「お盆絡みの三つの話題」を提供してみよう。

まずは、


✰ 焼酎「魔王」を呑む

「魔王、森以蔵、村尾」とくれば「泣く子も黙る」焼酎の三大銘柄ですよね!

お値段もそれなりに高いので自分のようなビンボー人にはまったく縁がないし、そもそもアルコールはオーディオ機器のように物として残らないので贅沢する気があまり起きないのも事実(笑)。

ところが、この度のお盆休みの帰省で娘が「魔王」をお土産として持ってきてくれた。任地先で、ある機会にたまたま手に入ったものだという。

さっそく、どれどれと晩酌のときに娘と一緒にまず一杯。

  

う~む、のど越しが滑らかでとてもいい、そして飲み込んだ後の爽やかな風味が上品そのもので、いつも飲んでる焼酎がちょっと薬品臭く感じるほどだった。

こりゃお値段が高いはずだ!(笑)

ちょっと食指が動いたが、毎日飲むとなると仮に月2万円くらいとしても年間では24万円にもなる。これなら立派な真空管アンプが買えまっせ!

そういうわけで(毎日飲むのは)ヤーメタ!(笑)

✰ 家内がムカデに噛まれる

娘が帰省したせいで自分の寝室を明け渡し、仏壇のある客間で寝ていた家内が23時ごろにいきなり悲鳴を上げた。就寝中に左手首がチクリとしたので何事かとみれば大きなムカデが!

どうやら仏具の小さな隙間を見つけて入り込んでいたのが夜中に這い出てきたらしい。

急いで叩き殺したのはいいものの、噛まれたところが痛い、痛いと悲鳴を上げる。

たかがムカデとはいえショック症状でも起きたらたいへんなので救急病院に電話して診てくれるかどうか打診。

皮膚科の所管だそうだが当番医は整形外科だそうで満足な治療が出来ないかもしれないがそれで良ければということで、クルマで10分ほどの病院に駆け込んだ。

こういう時こそ亭主の存在感を発揮できる数少ないチャンスではある(笑)。

対応した医師は「なにもムカデくらいで大騒ぎしなくても」という感じだったが、丁寧に診てくれて「塗り薬と化膿止めの内服薬」を処方してくれた。

すると、この塗り薬が劇的に効いて1時間ほどで無事痛みが治まった。

これが特効薬である。

   

我が家だけでなく、ご近所の方々にも「ムカデに噛まれたときは我が家に特効薬がありますよ」と、宣伝しておくことにしよう。

✰ 高い血糖値

お盆前のこと、薬も切れるしと掛かり付けのクリニックを訪れ、およそ3か月ぶりに血糖値を計ってもらったところ、合併症が懸念されるほどの高い数値が出た。

「〇〇さん、いったいどうしたんですか!えらい数値が悪くなってますよ。悪いけど薬を増やします!」

このお医者さんは本人の生活態度にいっさい言及せずにやたらに薬を出したがるのが”浅はか”といえば”浅はか”だ(笑)。

そういえば、最近読んだ本(2019年4月刊)にこういう箇所があった。

   

著者は二人とも医師で、近藤氏は「がん検診は不要だ」など異色のポリシーの持ち主だし、養老氏は「バカの壁」などの著作で有名な方。

22頁に次のような箇所がある。

近藤「”この頃は健康でいたいなら血糖値をコントロールしろ”とか言う医者たちがいるけど、血圧を下げろというのと同じで特に根拠はない。」

養老「何で血糖値をコントロールするの?」

近藤「よくわかりませんが、そもそも血糖値をコントロールするには四六時中測っていないといけない。」

養老「僕、40代から基本的に糖尿だけど血糖値なんかコントロールしてませんよ」

近藤「こういう風に言えばわかりやすいかな。普段から健康に暮らしている人が健康診断で血糖値が高いということになったとする。それで食事療法をしたり、薬を飲んだり、インスリンを打ったりして寿命が延びたというデータは一つもない。逆にしっかり血糖値をコントロールして早く死んだというデータはいっぱいある。」

養老「ハハハ」

近藤「”一日のうちに血糖値が変動するのが身体に良くない”と主張する医者もいるようだけど、それは生きてるのが良くないという話ですよ。」

養老「うん、確かに生きてるのは一番健康に悪い(笑)」

以上、最後の言葉に思わず笑ってしまったが、内容はある程度納得はできるものの、どうも極端すぎるようで「鵜呑み」にするのはどうかなと思う(笑)。

とりあえず、生活管理を次のように改めることにした。

1 午前と午後の運動時間を2倍にする

2 運動の開始時間をそれぞれ食後1時間以内にする

3 いっさい間食をしない

はたして功を奏するかどうか、3か月後の血糖値測定が楽しみ~。

もちろん、ヤブ医者が処方した薬は指示通りには飲まず「1/3程度」に抑える積りだ(笑)。

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「無」の境地

2019年08月11日 | 音楽談義

指揮者にしろ、演奏家にしろ音楽に携わる人物の著作は非常にタメになることが多いので、図書館で見かけたら必ず借りることにしている。

                   

その中でも女性ヴァイオリニスト「千住真理子」(せんじゅ まりこ)さんは雰囲気が好きな演奏家の一人なので「ヴァイオリニストは音になる」(2015.8.1)を興味深く読ませてもらった。

父が慶応大学名誉教授、母が教育評論家、長兄が日本画家、次兄が作曲家、ご本人は慶応大学哲学科卒という絵に描いたようなエリート一家である。

あいにく他人の知的レベルを云々するほどの資格を持ち合わせていないが、並のヴァイオリニストに比べると「一頭地を抜く」方だと常々思っている。

本書は音楽や音響を主な題材にしたエッセイ集だったが、207頁に「バッハは自分を消さないと弾けない」との小見出しのもとに次のような記事があった。

「バッハは私の人生そのものであり、私の心の中にある聖書、神でもある。バッハは一生追い続けていくと思うのですが、バッハを弾くときというのは<お坊さんがミソギをする心境ってこんなかなと思う>そこまでいかないとバッハが弾けないと思っています。

それはどういうことかというと、<自分を表現しよう>と思ったら弾けなくなるのがバッハなのですね。<こう弾こう>と思ったら弾けなくなるし、<こういう音を出そう>と思ったら弾けない。つまり自分というものをいっさい消し去らないと、バッハは入れてくれない。バッハの世界に入れません。

要するに<無になる>ということなのですが、これは大変難しい。これこそなにかお坊さんの修行というのが必要なのかなと思ったりします。<無になったぞ>と思った瞬間は、なったぞと思ったことがもう違います。ふっと無になっていて、するとまた邪念が出てくるのですね。

<あ、次は、二楽章はこう弾こう>と思った瞬間にまた自分に戻ってしまう。<どうやって自分を捨てるか>というのがバッハとの闘いで、たぶん私は生涯バッハを弾くたびに、そうやって修行をしていくのだなと思います。それでも好きな曲がバッハですね。」

以上のとおりだが、「どうやって自分を捨てるか=無になる」というのは、文豪「夏目漱石」が理想とした境地「則天去私」に通じるものがあると思うし、自分の拙い「人生経験」を振り返ってみてもたいへん身につまされる課題だった。

たとえば、人間同士の様々な関係をはじめとして、いろいろ思い当たる節が多いし、このブログの主題になっている「音楽&オーディオ」だってソックリ当てはまる。

なぜなら、王様は音楽でありオーディオは召使いに過ぎないので、(音楽の前では)オーディオは存在感を消して「無」になってもらわないといけない。

言い換えると「スピーカーの存在を意識させない音」これが、オーディオのあるべき究極の姿だといつも思っているが、これが油断するとつい出しゃばってきて主役になってしまうのが難点だ。

この危険な倒錯に「分かっちゃいるけど止められない」のがいまの自分だが、もちろん読者の皆様は違うと思いますけどね(笑)。

さて、これまでいろんな作曲家の音楽を手広く聴いてきたものの、もっとも苦手とするのがバッハの音楽である。どうも肌に合わない。

「平均律クラヴィーア曲集」をはじめバッハの残した作品は、後続の作曲家達にとって常に教科書であり御手本だったという意味から「音楽の父」とも称されるバッハ。

バッハが自分のレパートリーに入ると音楽人生がもっと豊かになるのは確実なので、これまで世評高き「マタイ受難曲」をはじめ、「ロ短調ミサ」などに何度挑戦したか分からないが、その都度、どうしても「お前は縁なき衆生(しゅじょう)だ!」とばかりに場外へはじき出されてしまう(笑)。

前述の千住さんの記事からも伺えるが、どうやらバッハに親しむには「無になる」ことが演奏家のみならず鑑賞する側にも必要かと思うが、どうも自分には邪念が多くてそういう資質が無いのかもしれないと諦めている今日この頃。

そういう自分に最後のチャンスが巡ってきた。同じ千住さんが書かれた先日の新聞記事にこういうのが載っていた。                       

          

バッハの「シャコンヌ」の素晴らしさに言及しつつ、「4分半を過ぎたあたり、小さい音で音階を揺らしながら奏でるアルペジオの部分。涙の音が現れます。~中略~。巨匠といわれる演奏家のCDをひととおり聴きましたが1967年に録音されたシェリングの演奏が別格です。完璧で心が入っていて、宇宙規模でもあり・・・。すべて表現できている。<神様>ですね。」

う~む、ヘンリク・シェリング恐るべし!

幸いなことに、シェリングが弾いた「シャコンヌ」を持ってるんですよねえ(笑)。
                  

何といっても千住さんがべた褒めするシェリング演奏のシャコンヌ、もういつ頃聴いたのかはるか忘却の彼方にあるCDだが、バッハの音楽に溶け込める最後のチャンスとばかり、この程じっくり耳を傾けてみた。

「涙の音」が聴こえてくればしめたもので、ひとつのきっかけになってくれればありがたい・・。

スピーカーは、ここぞとばかり「AXIOM80」の出番だ。

「低音が出ない」など、毀誉褒貶する「AXIOM80」だが、あの濡れたような、すすり泣くような独特のヴァイオリンの音色の再生にかけては、断言してもいいがこのスピーカーの右に出るものはない。

だが、しかし・・・。

真剣になって耳を澄ましたものの、この名演からでさえも「涙の音」どころか、そのかけらさえも感じ取れなかった、無念!

やっぱりバッハは鬼門だ。そもそもバッハとモーツァルトの両立は難しいのかもしれない。

バッハを愛好する人でオペラ「魔笛」が死ぬほど好きという方はこれまでお目にかかったことも聞いたこともないし、まあ仕方がないかと自分を慰めておこう(笑)。

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「ウェルカム・トラブル」の境地

2019年08月09日 | オーディオ談義

前々回からの続きです。

これまでのオーディオ人生を振り返ってみると機器の故障の頻度が半端ないほど高い。

たとえばSPユニットのビビリ音などの不調をはじめアンプでは真空管や部品、さらにはCDトラポのトレイのトラブルなど枚挙にいとまがない。

とはいえ、そもそもオークションで手に入れたときから中古品がほとんどなので、仕方がない面も当然ある。まあビンボー性による自業自得の面もありますかね(笑)。

ただし「ピンチはチャンス」のところがあって、故障のたびに復元過程で何かしら新しい発見があるので、今ではすっかり慣れっこになって徒に慌てることも無くむしろ「ウェルカム・トラブル」の境地だといってもいいくらい。

今回の「300Bシングルアンプ」もその例に漏れなかった。

電解コンデンサー(4本)の故障によって派生した問題点にあれこれ対処するうちに新たな発見があった。

たとえば、左右の両チャンネルに違ったブランドの出力管を挿し込んだときにどのくらいの違和感があるかというテーマは興味深かった。

なにしろオーディオの世界では左右両チャンネルに対して何から何まで同じものを使うという固定観念に対して拭い難いものがあることはご存知のとおりですよね。

    

左側に差し込んでいるのが少々くたびれ気味の「WE300B」(1967年製)、右側が中国製の「ゴールデン・ドラゴン」の「4300BLX」である。

ちなみに、お値段はといえば「WE300B」は衰えたりとはいえ少なくとも時価で10万円以上はすると思うが、ゴールデン・ドラゴンの方はオークションで新品同様を1万円で手に入れたものである。

この対照的な「左右ごった煮」で音楽を聴いてみたところまったくと言っていいほど違和感を感じなかったのは驚きだった。

ただし、自分の耳にはあまり信頼をおいていないので(笑)、仲間に来てもらって確認してもらったのが去る4日(日)のことだった。

初めに、スピーカーを「AXIOM150マークⅡ+ツィーター」にして聴いてもらったところ、「左右の違いは判りませんね」。

次に、同じグッドマンの「トライアクショム」(口径30センチの同軸3ウェイ)にして聴いていただいたものの、これも「いくぶん、全体的に音の明瞭度が上がりましたけど、これも左右の違いは判りません」。

さあ、ここでいよいよ真打の登場である。

繊細極まりない音を出す「AXIOM80」にすれば、はたしてどういう結果が出るか、もう「ワクワク、ハラハラ」である(笑)。

自作のエンクロージャーからバッフルごと「トライ・アクショム」を引っ張り出して「AXIOM80」を取り付けるのに10分くらいかかっただろうか。

   

ちなみに、この自作のエンクロージャーは旧い英国のユニットを適度に箱鳴りさせるために板厚をわざわざ薄めの「1.5cm」にしており、バッフルごとユニットを取り換えられるように「ネジ付きのナット」を6か所埋め込んでいる。自画自賛ながら効果は絶大ですぞ(笑)。

なお、この作業を見守っていた仲間がエンクロージャーの中を見て「凄い補強をやってますね」「ハイ、補強はうまくいったのですが、竹を4隅に取り付けた時に手が滑ってドリルで右手の親指を突き刺してしまい出血が止まらないので夜間に救急病院に駆け込みました。未だに後遺症がありますよ、ほら・・。」

まさに「血と汗と涙」の結晶である(笑)。

さあ、いよいよ音出しである。試聴盤は仲間が持参してくれた古代ギリシャの音楽。

   

古楽器によって宮殿の厳かな雰囲気や佇まいが再現できれば合格というところだが、「やはりAXIOM80の情報量が一番ですね。前後の音声信号が重なって起きる不自然な”潰れ”がありません。音の粒立ちが桁違いにいいです。ただし、これでも左右のチャンネルの違いは判りませんよ」

ああ、よかった!(笑)

高級管と低級管との見事な調和というべきだろうが、ことはそれほど単純ではなく、そして普遍的でもなくアンプのツクリ自体も大いに関与しているであろうことは想像に難くない。

そこでこのアンプを改造していただいた北国の博士に伺ってみたところ、

「左右チャンネルの真空管の違いはモノラルで聴くと違いがわかるでしょうが、ステレオで聴くと分かりづらいかもしれませんね。

何らシガラミのないアマチュアなんですから既成概念にとらわれずジャンジャン風変わりなことを試して楽しまれるといいと思いますよ。

なお、このアンプはエミッションが少なくなった出力管でも十分鳴らせるように特別な対策を施していますから少々”へたった”WE300Bでも長期間いけると思います」


とのことだった。

いわば「太くて短い人生」と「細くて長い人生」のどちらを選ぶかに尽きるのかもしれない。

それにしても、トラブルのたびごとに何かしら新しい発見があるのでとても楽しい~。

また、どこか故障しないかなあ。

ここまでくると、もう”へそ曲がり”の域かもですねえ!(笑)

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モーツァルト「踊れ、喜べ、汝幸いなる魂よ」K・165

2019年08月07日 | 音楽談義

「神秘に満ちた数、素数。 何というその美しさ。 世紀をまたぐ最後の超難問”リーマン予想”の謎に迫る天才数学者たちの挑戦、人間味あふれる姿」と、背表紙に書いてあったのが「素数の音楽」(マーカス・デュ・ソートイ著)。

               

「素数と音楽」に、どういう関係があるのかと興味を引かれて読み始めたところ、数学についてはまったくの素人なのに、実に分かりやすく書かれていて、非常に面白い。

おっと「素数」ってのはお判りでしょうが「2,3,5,7,11・・」と、これ以上素因数分解が出来ない数を指す。平たくいえば、この数値の並びの規則性を探求するのが数学界最大の難問とされる「リーマン予想」だ。

まだ読み終えてなく2/3ほどの進行形だが、どうやら「素数」と「音楽」は「美」という共通項で深く結ばれていることが分かってきた。

それはさておき、188頁に次のような箇所があった。


「20世紀前半に名を馳せた著名な数学者「リトルウッド」(イギリス)は、たいへんな音楽好きでも知られたが、「バッハ、ベ-トーヴェン、モーツァルトの音楽が大好きで、それ以外の作曲家の曲を聴いて時間を無駄にするには、人生は短すぎると考えていた。」

ウ~ン、成る程。これはクラシック音楽愛好家にとっては大なり小なり思い当たる人があるかもしれない。

自分などはもっとラディカルに「モーツァルト以外の作曲家の曲を聴いて時間を無駄にするには、人生は短すぎる。」と、思うことがときどきある(笑)。

3年ほど前に購入した「モーツァルト全集」(CD55枚組)は今でも愛聴盤だが、モーツァルトを聴いていると、あの「天真爛漫」で「天馬空を駆ける」ような世界にどっぷり浸かってしまい、楽聖ベートーヴェンの曲目でさえも、何だか作為的で不自然に思えてくるから不思議。

最晩年の傑作、オペラ「魔笛」にトチ狂ってしまってからおよそ40年が経つが、モーツァルトは「モー卒業した」どころか、次から次に新しい発見が続いてまだ山の頂にはほど遠い気がしている。

改めて、そう認識させられたのが「踊れ、喜べ、幸いなる魂よ」(K.165)。わずか16分ほどの小曲で、ソプラノはあの「バーバラ・ボニー」

   

「アレグロ~アンダンテ~アレグロ」の構成だが、特にアンダンテがこの世のものとは思えないほど美しい。

昨日の午後、日課の運動ジムから戻ってきて冷えたビールを飲みながらこの曲を聴いていたら、思わず”目がしら”がジ~ンと熱くなってしまった。

至福の時間といっていいが、こんな音楽を聴かされると「生きててよかったなあ!地位も名誉もお金も、な~んにも要らない」という心境になる。もちろん一時的なことだが(笑)。

ケッヘル番号が100番台だから、おそらく初期の作品だと思ってググってみると、何と17歳のときの作品だった。

そんなに若いときからこんなに美しい曲を作るんだからまったく脱帽である。

ほかにもケッヘル100番台は「ディベルティメントK.136」という名曲もあるし、名画家にしても名作家にしても「”若書き”にとてもいいものがある」という言葉が見事に当てはまる。

むしろ「功成り名を遂げた」晩年の作品よりも「初々しくて純粋」という面で優っている。

これは宗教音楽だが、音楽家にとって神への思いは様々のようで、有名なバッハの「マタイ受難曲」は何度チャレンジしてもどうしても馴染めないものの、それでも心からの神への信仰の厚さと敬虔な祈りが全編を通して伺われる。

が、しかしベートーヴェンでは「ミサ・ソレムニス」などを聴いていると、神への敬虔な祈りは聞こえてこない。どうも彼は神の言葉よりも自分の音楽の方がさらに高い啓示だと思っている節があると、いつも感じる。これはあくまでも私見だが。

そしてモーツァルトの宗教音楽についても、一筆あってしかるべきだが、とても我が筆力の及ぶところではない。ただ、あまりにも人間離れしていて、音楽の神が彼を通じて書かせた曲目という言い方が一番適切な気がする。

本来宗教曲だった「モテット」をこれほど瑞々しい生命の躍動感に満ち溢れた音楽へと昇華するモーツァルトの才能にはもうただただ「ひれ伏す」しかありませんね(笑)。

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息も絶え絶えの真空管「WE300B」の復活

2019年08月05日 | オーディオ談義

盛大なハム音の原因となっていた電解コンデンサー(4本)の交換で、ようやく息を吹き返した我が家の「300Bシングル」アンプ。

「新品の電解コンデンサーが本調子になるまでに2週間ほどかかります。辛抱して使い続けると、ある日突然のように音が良くなりますよ」との、識者のご意見だったが、たしかに現在1週間ほどが経ったがいまだに音があまり冴えない。

具体的に言うと音にコクがないというのか、従来よりも音の重心がやや上ずっている感じがするとでもいうのかな。

どちらかといえば「せっかち」なので、2週間もじっと待つのは苦手なタイプ(笑)。

そこで現状の打開策として、少しでも良くなればと現用の真空管を代えてみることにした。

となると、本家本元のWE300Bを使うのが一番だが現在のところ3本しか持っていない。内訳は1988年製が2本と1967年製(ロット番号6713)が1本である。

前者は「真打ち」として後日のために取っておきたいので、今回は久しぶりに1967年製を使ってみることにした。

  

実を言うと、物理的にはもう「息も絶え絶え」でいつ音が出なくなっても不思議ではないほどの疲れた球である(笑)。画像をご覧のとおりゲッターもほとんど残っていない。

こんなことではオークションに出しようもないので仕方なく保管してきたが、ありがたいことにこのアンプ自体のツクリが高価な出力管が長寿命になるように控えめな動作に抑えられているので、もしかしてまだ使えるかもしれないと淡い期待を抱いての登場である。

ただし、1本だけなのでどちらのチャンネルに挿すか迷うところだがやっぱり左チャンネルだろう。

なぜなら、自分の「利き耳」は左側だし、オーケストラだってコンマスは指揮者の左側に位置しているから~。

そして残る右チャンネルには仕方なく別ブランドの新品同様の300Bを挿し込んだ。

そして、前段管は控えめな動作をする「471B」(デフォレ:ナス管)に交換、整流管は従来の「4274A」(STC)。

   

これで聴いてみると、あれっ、なかなか聴けるじゃないか!

さすがにウェスタン製だけあって久しぶりに挿しこんでも朗々たる音を出す。微塵も疲労感を出さない音にまずはひと安心。

これなら電解コンデンサーのエージングの進展とともにもっと良くなるだろうし、控えめな動作と相俟って10年以上は持つかもしれないと思わせるほどの安定的な音がする!

つまり自分の健康寿命が尽きるまでは大丈夫かもしれないと、つい舞い上がってしまった(笑)。

そして、もうひとつの心配の種だった左チャンネルの音と右チャンネルの音の違いがそれほど目立たないのも「うれしい悲鳴」。

そりゃあ厳密に言えば細かな違いはあるだろうが、音楽を聴くうえではまず気にならない。別ブランドもなかなかやるじゃないか(笑)。

月とスッポンほどのお値段の違いがある真空管でも”左右ごった煮”にすると聴感上それほどの違いがないというのは、長い間オーディをやってきたうえでの新発見である。

オーディオは、ときにはあまり神経質にならずに”おおらかさ”が必要かもしれないですねえ(笑)。

ただし、個人差があって自分のように経年劣化した耳だからこそ通用する話かもしれないのでその点は割引く必要がある。

また、スピーカーが繊細極まりない「AXIOM80」ではなくて比較的おおらかな「トライアクショム」(グッドマン)だったことも影響しているのかもしれない。

とにかく、一度仲間の「冷静でたしかな耳」に聴いてもらって真偽を確かめることにしましょうかね(笑)。

そして、その実験を昨日(4日)の午後に粛々とやりましたが興味津々の結果が出ましたよ。

まだ文章にしていないので後日のご報告ということで~。

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ガンよりも怖い認知症

2019年08月03日 | 独り言

人間は何時かは心臓が止まって息をしなくなる動物なので、いつでも覚悟はできている積りだがその止まり方が問題だといつも思う。

たとえば老衰により自然のままに息を引き取るのが理想だが、そうは問屋が卸すまじと様々な病気が襲ってきて天命を邪魔してくる。

厚生労働省が発表した最新の「日本人の死因」は次のとおり。

1位 悪性新生物(がん) 27.8% 2位 心疾患 15.2%

3位 脳血管疾患 8.2%) 4位 老衰(7.6%)

となっている。

およそ3人に1人は「がん」で亡くなるというわけだが、実はそれよりももっと怖いと内心思っているのが「認知症」である。

「死」よりも「生き恥」をさらすことの方がもっとつらい(笑)。


「訳が分からない言動をやりだしたら殺してくれ」と、家族に言いたいところだが、実際にはそうもいかないだろうから、現実的な対策としては出来るだけ生活習慣に気を配り、適度な運動や脳トレなんかやって「認知症」になるのを遅らせるしか手がない。

そのうち、きっと「いい薬」が発見されると思っているが、大きな製薬会社が莫大なお金をかけて開発しているもののいまだに特効薬の発見には至らないようだ。せめて自分の認知症に間に合ってくれればと切に願っている。

そういう状況の中、新聞の広告欄に載っていた雑誌の見出しがこれ。

   

「脳トレ」に良さそうだとさっそく書店で「プレジデント」(8/16日号)を購入して読んでみた。

すると、いつものとおりこの種の雑誌は「見出し」と「中身」がそれほど釣り合っておらずガッカリの一幕だったが、ちょっと気になる記事があったのでピックアップしてみた。

✰ 世界の名門校「ハーバード式の地頭の鍛え方」

著者はハーバード医科大学大学院医学博士「川崎康彦」氏(専門は神経生理学)

 記憶には短期記憶と長期記憶があり、前者はITの発達などで代替可能なので人生にとって重要なのは後者である。

 記憶力向上のためにキモとなるのは脳内環境の整備である。つまり脳内の様々な部位すべての細胞内の器官や細胞膜の状態をベストにすることが重要だ。

 そのためのポイントは二つで「ワクワク」「ハラハラ」することだ。

 まずワクワクして物事に取り組むと脳内ホルモンの「ドーパミン」が放出され集中力とパワーが生まれる。

 次にハラハラとはチャレンジすることである。出来ないことにチャレンジして普段は使わないような脳の使い方をする。つまり左脳と右脳をバランスよく使ってパターン化した思考、行動様式から抜け出すことが肝心。

 右脳でインプットしたものを左脳でアウトプットすることが脳の効果的な使い方だが、記憶のためにはインプットよりもアウトプットの方が大切だ。

 「インプット→アイデアが浮かぶ→アウトプット→インプット」のサイクルが記憶力向上のコツである。アウトプットとは人前で発表したり、文章にしたためること。

 チャレンジする際に一つアドバイスを。日本人は完璧を目指しがちだが、何か新しいことをやろうとすると失敗はつきものだ。ハーバードでは失敗はむしろ歓迎されていた。大成功につながるきっかけになるから。

 何かにチャレンジしようと思って実際に行動に移しただけでもその50%は達成したといっていい。そこが大事だ。ヤル気と勇気をもって一歩を踏み出したことを自分で評価しましょう。

10 完璧が求められるのはAIの仕事。私たちは個々の不完璧さの中から自分らしさを確立させていくのが価値創造の上でたいへん重要です。

かいつまむと、以上のとおりだがあまり新味はないかもですね(笑)。

これを自分に当てはめてみると、かなりワクワクすることが多い。

たとえば、昨日(2日)の報道に「韓国を輸出管理のホワイト国(Aグループ)から外すことを閣議決定」の報にヤッタア!(笑)。

それにオーディオで「ワクワク」「ハラハラ」しているのは日常茶飯事のことで、その結果を拙いながらもブログで文章にしているので少しは認知症の到来が伸びるかもしれない。

オーディオに「サムマネー」はつきものだが、少しでも「認知症防止」に役立つと思えば安いもんですかね~(笑)。 

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オーディオ・ハンターの小さな獲物

2019年08月01日 | オーディオ談義

オーディオ仲間に依頼していたオークションの落札代金「54、800円」を受け取ったのは去る26日(金)のことだった。

久しぶりに懐に余裕ができたので(笑)、これを軍資金にして新たな獲物を探してみた。

今のところ取り立てて欲しい機器は見当たらないので、「ひとつ実験でもしてみようか」という軽い気持ちから釣り上げたのが新品のコーラルの口径10センチのユニットだった。

    

コーラルという会社(国産)はとっくの昔に消え去ったメーカーだがいまだに「ベータ8や10」(ダブルコーン型式)などのユニットが愛好家の間で珍重されておりオークションでもかなりの高値を呼んでいるほどで根強い人気がある。

大好きなアルニコ・マグネット型だし、目的はスコーカー(中音域担当)としての活用だが、今どき自作のスピーカーで楽しむ人は少ないとみえて競争者無しで無事落札。

「オーディオの愉しみはスピーカーにあり」といっても過言ではないのに実にもったいないご時世だ(笑)。

このスコーカーをあてがう対象は定番の「ウェストミンスター」(改)であり自己流の3ウェイシステムとして弄るところがいっぱいあるので、実験用のスピーカーとしてまことに重宝している。

そして所定の手続きを終えて、ほどなくスコーカーが到着した。

どのくらいうまくマッチングしてくれるのか早くも胸が早鐘を打つように鳴り響く(笑)。

ちなみにユニットの代金は「1、000円」なり。何だ、最初の獲物というのはたったこれっぽっちか!

何ともまあ、みみっちいこと!(笑)

しかし、送料が1,280円とユニットの代金を上回るのだから恐れ入る。さっそくテクニクスのスコーカーと入れ替えて聴いてみた。

すると、ウ~ン、イマイチかなあ・・・。

コーラルらしく素性が良くて美しい音を出すのだが、800ヘルツからを担当させるのには明らかに無理があったようで、ウーファー(ワーフェデールのスーパー12)との繋がりが薄味になってしまった。

裏蓋が金属で密閉されているので、ドリルで穴を開けてもいいのだがしばらく時間を措いてトライしてみよう。

そういうわけで今回は見事にハズレというわけでまことに残念~。

しかし「七転び八起き」で、どんなに転んでもただで起き上がるような人間ではない積り(笑)。

元のテクニクスのスコーカーに戻すのも癪なので以前使っていた「175ドライバー」(JBL)を再度引っ張り出してきて、ちょっと工夫してみた。

これまで使ってみた経験では能率がメチャ高い(109db)せいで、どうも目立ち過ぎるのが難点。ジャズはいいけどクラシックとなるともっと落ち着き感が欲しい。

基本的にもスコーカーは「生かさず殺さず」が肝心なので、蜂の巣ホーンの出口のところに薄めの「白い人工の綿」を被せて少しばかり音を殺してみた。

   

バッチリだった(笑)。これならクラシックも十分いけるし、これまでで最高の仕上がりといっていいほど。

今回の出費は送料含めて「2、280円」だったが、結果的にはアイデア代としてお釣りがくるほどだったと、精神衛生的にも自分を慰めておこう(笑)。

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