「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

オーディオ談義~周波数200ヘルツ以下の世界

2012年01月31日 | オーディオ談義

先日、何気なくテレビを観ていたら「建もの探訪」(テレビ朝日)という番組が放映されていた。

首都圏近郊の洒落た新築の建物を外観、内部の構造、機能などに亘って細かく紹介する番組で、1000回を超える長寿番組(ウィキペディア)だそうだから、きっと何度かご覧になった方も多いことだろう。

「もっと快適な家に住みたい」というのは、誰もが永遠に抱く「夢」のようなものだから長寿番組というのも十分頷ける話で、たとえば自分だって、30畳程の天井の高い大広間でウットリと音楽を聴いている姿を今でもときどき夢見ることがある!ああ、一度でいいから「宝くじ」に当たらないかなあ~。

今回、テレビに登場している建物は広さはそれほどでもなかったが、機能的にはうらやましくなるほどの設備を備えていて、たとえば壁面全体をガラスにして採光を十分なものにし、その一方で夏の暑さをしのぐため壁面の上からシャワーのように水を垂れ流す家庭内循環システムを取り入れてあった。

見た目にも「これは涼しそうだなあ~」と、思わず感心ながら観ていると、そのうち、2階にある家主の6畳ほどの書斎にテレビカメラが侵入したところ、それほど大きくもない机の上の左右両端に高さ30cm、幅20cmほどの小さなバスレフ型のスピーカーが設置され、中央付近に小型の真空管アンプが鎮座しているのを映し出した。

探訪者(俳優の渡辺篤史さん)が「ご主人はオーディオをされるんですか」との問いに(家主が)「ハイ」と”にっこり”。書棚にはCDもたくさん収めてあったし、地元の「第九を歌う会」のリーダーも務められているそうで、さぞや音楽が好きな方なのだろう。

しかし、改めて「え~っ、これがメインのオーディオ装置なの?」と、あまりのミニチュアぶりにいささか驚いてしまった。

人間が聞こえる周波数帯域は周知のとおり、20~20000ヘルツとされており、オーディオ装置で音楽を再生するとき、30~15000ヘルツぐらいをカバーできれば、まずは上等の部類に入るだろうが、この装置だとスピーカーの口径からしておそらく下の帯域が200ヘルツ程度も行けば上出来だろう。

まるで箱庭や盆栽を楽しむような趣といったところだが、もしかすると自分が知らないだけで、これが現代の「オーディオの一般的な姿」なのかもしれないと思ったことだった。

オーディオの目的が音楽を聴くことにあるのは言わずもがなだが、(音楽に)感動する仕組みは各自の脳の中にセットされているので、オーディオ装置のレベルに言及するのはあまり意味がないと思っている。

つい先日も小さなラジカセでモーツァルトの「ファゴット協奏曲第二楽章」を聴いて胸を打たれたばかりなので、赤の他人が軽々に装置の良し悪しの価値判断を出来ないことは分かっているが、こういうシステムだと「オーディオの楽しみ」というものが半分くらいしか味わえないのではないかという気がする。

「周波数200ヘルツ以下の世界」がオーディオで最も”おいしい”ところなのにそれを味わっていないなんて、実に”もったいない”。


従来からの、これは独り勝手の個人的な思いだが、オーディオの醍醐味の一つは「量感」と「分解能」の「程よい調和」にあるような気がしてならない。

「量感」とは読んで字のごとく「豊かな音」を指し、「分解能」については、自分なりの理解ではたとえば再生中の音場で個別の楽器の位置とか、奥行き、音色をくっきりと表す能力を指す。

この両者を「いかにバランスよく両立させるか」にオーディオマニアとしてのセンスが一番問われると勝手に思い込んでいるのだが、この命運を文字通り左右するのが、およそ「周波数200ヘルツ以下の世界」なのであ~る。

この周波数帯域を具体的に分割して言えば、30~60ヘルツの「最低音域」部分、60~100ヘルツの「低音域」部分、100~200ヘルツの「中音低域」部分となる。

自分のオーディオ人生を振り返ってみると、結果的にこの帯域をいかにうまく再生するかという部分に「血(お金)と汗と涙」の70%近くを注ぎ込んだような気がする。

以上、前置きが随分と長くなったが我が家の第一システムの再生装置に話を移そう。

このシステムの中高音域に使っている「Axiom80」には今のところまったく不満はないが、問題は中低音域のフォステクスの「SLEー20W(口径20cm)4発」にあって、周波数帯域の受け持ち範囲がまさにこの200ヘルツ以下に該当しているのだが、どうもこの辺りの「分解能」がいまいちで、オーケストラの響きが団子の塊りのように聴こえることがあり、最近、第二システムの「JBL軍団」が急成長してきたこともあり、とみにその弱点が目立つようになってきた。

これまでも、6か月おきぐらいに「4発」にしたり「3発」にしたりと試行錯誤してきた経緯があり、今回もその”繰り返し”というわけだが、今回は新たにアイデアを思いついたので「善は急げ」とばかり
28日(土)の午前中から現状のウーファー「4発」から「3発」に容れ直す作業に取り掛かった。

いつも土曜、日曜にオーディオの作業が集中するようだが、休日はカミさんが家に居るのでスピーカーを降ろしたり上げたりするときに「お~い、加勢してくれ~」と言えるから便利。


              

今回の作業の順番を写真で説明すると、一番左が取り掛かる前のウーファー「4発」。

中央がウーファー1発を取り除いた後にスペアとして保管している「Axiom80」を試しに容れたもので、これでとりあえず試聴してみたが、まったく冴えなかった。この縦長のボックスは内部にそれぞれユニットごとに分厚い板で斜めに(定在波を防ぐために)仕切っているのだが、「Axiom80」にとっては、なにぶん容積が足りなかったとみえて「高域がキャンキャン」して聴きづらかった。

改めて、SPユニットに応じた適切な容量のボックスの重要性を考えさせられたわけだが、以前はこの状態で聴いていたこともあるので「あの頃はよくもまあ、こんな音で我慢して」という感じ。もしかして自分の耳が急成長したのかな?

結局、一番右の写真が最終形となった。今回のアイデアというのは取り除いたユニットの穴を板で塞ぎ、がっちり裏からネジ止めしたもので、使わないユニットをそのままにしておくと、全体の響きが悪くなるそうなのでやはりこれが現在のところベストの処置のような気がする。

これで試聴してみると、音に適度に締りが出て、「量感」と「分解能」のバランスが程よく取れ「バッチリ、200ヘルツ以下もOK!」だが、これまでの経験上、あまり早く結論を出さないほうがよさそうなので、まあ1週間ほどいろんな音楽ソースで試してみようかな。



  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

独り言~今冬、一番の寒波が襲来~

2012年01月27日 | 独り言

26日(木)はこの冬一番の寒波が襲来。

あまりの寒さに震え上がってしまい、一日中、家に閉じこもったままで「小人、閑居して不善」(?)をなしてみた。

この一日の経過を追ってみることにしよう。
まずは早朝からオーディオで一仕事。

このところ、ブログに登場することの多い我が家のJBLのシステムだがまだまだ大切なことをやり残していた。

それは各SPユニットの前後の位置の「振動板合わせ」。

市販のスピーカーシステムをそのまま利用している方は、メーカーのほうで各ユニットの振動板をきちんと合わせているのでまったく縁のない話だが、自作派にとっては(3ウェイシステムの場合)低音、中音、高音のユニットの振動板の位置を合わせることは「いい音」を得るための大切な要件の一つ。

なぜかといえば、音声信号が入ったときに各ユニットの振動板が同時に同じ位置で動いた方が音が濁らず”スッキリ”するわけだからまずは当たり前の話。

ただし、低音と中音のユニットの振動板の位置合わせについては、そりゃあ合わせるに越したことはないが、クロス1000ヘルツの場合で34cm近くの波長になる(音速340m/sec÷周波数1000ヘルツ)のであまり神経質になる必要はないものの、中音と高音のユニットばかりは「cm単位」で合わせることが必要。

この辺は基本的な事項としてオーディオをやり始めたころに仲間から口を酸っぱくして教えてもらった。


とにかく我が家の場合は中音ユニット(JBL-LE85ドライバー)と高音ユニット(JBL-075ツィーター)の位置合わせをまだやってなかったが、まあ、それほど音が大きく変わることはないだろうと”たか”をくくっていたこともある。

とにかく、「075ツィーター」に専用の台を作り前後に動かせるようにして簡単に調整ができるようにしていたので、まずLE85の位置決めをしてから、075を適当に前後に動かして調整し左右両チャンネルについて30分ほどで終了。

                   

これで聴いてみると、普通の音量で聴く分には以前と変わりがないような気がするが、「ガツン」と大きなアタック音が入ったときに音がまとまってスッキリ抜けていく感じがなかなかよろしくて、やはり明らかに”効果あり”だった。

こんなことなら、もっと早くやっておくべきだった。やはりオーディオはズボラはいけない!

☆ 由紀さおりのテレビ番組

音が良くなったところで、昨晩(25日)録画しておいた「由紀さおり」のテレビ番組を試聴。

NHK総合テレビの「SONGS」という午後10:55~11:25の30分番組で、「欧米でも人気沸騰!由紀さおりニューヨークでライブ」の解説があったのを目ざとく見つけて録画予約しておいたもの。

彼女のニューアルバム「1969」については、以前のブログでも触れたが、朝日新聞の12月初旬の「人」欄の記事により12月12日からアメリカ公演とあったので、その模様をかねてから知りたいと思っていたのでまさにグッドタイミング。

                    

ニューヨークのタウン・ホールで行われた実況ライブと彼女のこれまでの歌手としての歩みを織り交ぜた非常に見ごたえのある内容だった。

63歳という年齢を感じさせない歌声(ハイの伸びがもっと欲しい気もするが年齢からして贅沢は言えない!)と場馴れした堂々たる態度に”さすが”と唸ったが、共演の「ピンク・マルティーニ」という楽団もすごくうまくて、これはまさに絶妙のコンビ。

           

公演終了後、帰途に就くアメリカの観客数人にインタビューをしていたがいずれも大好評で、彼女の面目躍如といったところだろう。

番組の終わり頃のインタビューで「これからも、このエネルギーに満ち溢れたニューヨークでもっと攻勢をかけたい」という趣旨のことを言っていたが、世界的に大ブレークした彼女の今後の活躍が楽しみで、おそらく2枚目のアルバムも発売されることだろうが、その時はすぐに「買い」!

☆ 「幸福な生活」百田 尚樹(ひゃくた なおき)著

                      

午後は、もっぱら読書三昧。

本を購入すると狭い我が家では置き場所に困るので(お金もないが!)4か所の図書館から借りてきた新刊を中心に、毎日ざっと目を通していく感じだが、始めの10頁ほど読み進むとおよそ自分と相性のいい著者かどうか分かるので時間が節約できて大いに助かる。

「幸福な生活」は短編集だが、ちょっと読んだだけで「これは面白い」とすぐに惹きこまれた。いずれも幸福な夫婦生活を題材にしながらも、最後の”どんでん返し”というか「ブラック・ユーモア」が強烈で、ものすごく印象的。

「百田尚樹」という作家はどうしてこうも、うまいんだろう!

☆ 夜の会合

夜の7時からは地元自治会の毎月の定例役員会議。何かと忙しい「会計」事務を担当してからもう丸4年にもなる。懇意にしている方から説得されて仕方なく引き受けたが、もう義理は十分果たした。

任期は今年の3月までで現在、役員の改選手続き中だから絶対に辞めさせてもらう決意でいるが、はたして後任がうまく見つかることやら、ちょっと不安~。
 

 


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オーディオ談義~「ツィーター」の出番がやってきた~

2012年01月24日 | オーディオ談義

「出来の悪い子供ほど可愛い」という言葉があるが、オーディオ装置も似たようなところがあって、手がかかれば、かかるほど可愛くなるところがある。

現在、第二システムとして位置付けているJBLのユニット群がまさしくそういう存在。

タンノイのボックスにJBLのユニットを収めているので、本家筋はタンノイのユニットにあたり、JBLは分家筋になるので当初から不憫な役回りなのもその理由のひとつ。

改めて、システムの概要を紹介しておくと、現在、クロスを1000ヘルツ前後に設定して中低域ユニットを「D130」(口径38cm)、高域ユニットを「LE85ドライバー+ウッドホーン」の2ウェイシステム(D130のボックスはタンノイ・ウェストミンスター)のラインアップ。

既製品と違って自分勝手に編成したシステムなので愛着もひとしおで、未開拓地を耕すような気分にさせられ、今のところいい遊び相手になっている。

つい先日の21日(土)の午前中も、(オーディオの)お師匠さんの湯布院のAさんと一緒に「LE85ドライバー」を駆動している「WE300Bアンプ(モノ×2)」の真空管の入れ替え実験をやってみた。

            

試聴する曲目は最近、お気に入りのモーツァルト「ファゴット協奏曲第二楽章」。ちなみに「ファゴット」という楽器は木管楽器の一つだが、「ウィキペディア」にこう但し書きがあった。

「ファゴット」は英語圏では「バスーン」と呼ばれており、もし「ファゴット」と発音してしまうと、同性愛者の侮蔑的呼称「オカマ」を意味するので十分に注意しなければならない。


さて、実験の対象となった出力管は正真正銘の「WE300B」(1950年代製造)と「GD4300BC」(ゴールデンドラゴン)の2種類。

後者は言わずと知れた中国製の近代管で値段からすると前者の1/5以下なので、はじめから勝負は見えているようなものだが、ところがどっこい、「オーディオは値段ではありませんよ」と言わんばかりに、そうは問屋が卸さなかったのが(オーディオの)面白いところ。

高域方向への抜けはWE300Bの方に分があったが、中域あたりの解像力はGD4300BCの方がむしろ上回っていて、「私は総合力ではGD4300BCの方が好きです。我が家のWE300Bのスペアとして欲しくなりました」とAさん。

もちろん、我が家の周辺機器の使用する範囲で相性が良かったということに過ぎないし、GD4300BCのエージングが完全に済んでいるという条件下の話なのでどちらが優れているとかいう断定は厳禁だが、「カーボン・プレートと金メッキ端子」の装備は伊達ではないようで、この善戦ぶりには思わず頬の筋肉が緩んでしまった。

実を言うと、今回の実験の背景にはWE300Bの寿命は定数以下で余裕をもって使ってやると30年近く持つという実話が存在しており、自分のこれからの寿命となると、とてもそれほどまでには保てないので、今回の実験を通じてこれまで(大事にするあまり)ほとんど使ってこなかったWE300Bが圧倒的に上回れば、これからずっと使ってやろうと思っていたというわけ。

これでGD4300BCの寿命が尽きるまで精一杯使って、それからWE300Bを使うことに決めた。

とにかくこれで実験は一段落、今度は第一システムの「Axiom80」の試聴に移った。試聴曲目は引き続き「ファゴット協奏曲」。

「ファゴットが音響空間をゆったり漂っているように聴こえてきます、まったくオーディオを意識させない自然な音です。何か、聴いてはいけないものを聴いてしまいましたね~。これに比べるとJBLは残念ですがちょっと落ちます・・・・」とAさん。

どこをどう押してもJBLのユニットからはこういう「漂う感じ」は出てこない気がするが、ジャズなどのメリハリのきいたストレートな再生は得意中の得意なので、何とかこの分野に活路を見い出してやりたいものだ。

我が子の不得意科目を時間をかけて克服するよりも、むしろ得意分野をさらに伸ばしてやった方が総合得点は上がる!

結局、第一システムのお蔭でJBLシステムのアラがもろに見えてきたというわけだが、結論としては「高域の伸びにちょっと問題あり」ということに落ち着いた。こうなると、いよいよ「ツィーター」の出番となる。

一晩おいて、ゆっくり作戦をめぐらして翌22日(日)の早朝から作業に取り掛かった。

このところ、ずっと待機中の悲哀を味わっていた「JBL075(ステンレス製のリングホーン装備)」さんに専用アンプとして「2A3」真空管のシングル・アンプをもってきて、クロス周波数はウェスタン製のオイル・コンデンサー(ブラック仕様:2.1μF)で9500ヘルツ付近(6db/oct)でカット。

当初、「075」をウッドホーンの上に直接、載せたところあまりの重量のせいかLE85の響きが素っ気なくなったので、近くのホームセンターに行って木材を見繕って専用の台を作りその上に075を載せることにした。

         

「LE85」と「075」のレベル調整にちょっと手間取ったが、どうやら午前中に完了。

午後からテストCDで低域、中域、高域の位相チェックをしたところいずれもOKでバッチリ聴けるようになったが改めてツィーターの威力には驚いた。

音楽全体が非常に瑞々しくなってさらにレベルアップした感がある。

結局、システム全体をもう一度おさらいすると低域は「D130」(アンプは「01-A」)、中域は「LE85」(アンプは「300B」)、高域は「075」(アンプは「2A3」)とオールJBLの3ウェイ・マルチ・システムが完成。

一見ありふれた組み合わせのようだが肝心の低域用ボックスがタンノイだから、こういう組み合わせはおそらく世界でも珍しいことだろう。

問題は「音」のほうだが、「親バカ」ぶりはほどほどにして、いろんなソースを聴いてみて判断するつもりだが今のところ非の打ちどころなし。


 


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

音楽談義~モーツァルトのファゴット協奏曲~

2012年01月20日 | 音楽談義

「作家は自身が一冊の本なんだ。一作だけ翻訳しても彼の身体の一部を切り取ったにすぎない」と、「本の寄り道」(2011年10月30日、鴻巣友季子:翻訳家、文芸評論家、河出書房刊)の228頁に書いてあった。 

                       

「作家」を「作曲家」に言い換えて「作曲家は自身が(すべての)曲目なんだ。一曲だけを聴いても彼の身体の一部を切り取ったにすぎない」と、つくづく思い知らされたのが次の出来事だった。

 以下、その顛末を記してみよう。

先週末に帰省した娘と雑談しながら小さなラジカセでCDを一緒に聴いていたら、実に耳触りのいい音楽が聞こえてきたので「もしかして、これはモーツァルトの作曲かな~」と当てずっぽうで言ったところ、娘から「当たり~、さすがお父さん!」の声が。

            

この”当たり”の曲目は第10トラック「ファゴット協奏曲~第二楽章」だった。

これまで娘が購入したCDを何気なしに聴いて好きになった歌手は結構多い。「エンヤ」、「サラ・ブライトマン」、「エンニオ・モリコーネ」(映画音楽の作曲家)といったところだが、まさかクラシックで気に入った曲目を発見するとは夢にも思わなかった。しかも、モーツァルトの曲目で!

あまりに聴き心地が良かったので、再度リクエストしてじっくり聴かせてもらったが思わず目頭が熱くなるほど心に染み入った。

解説によるとわずか18歳のときの作品だというが、モーツァルトの才能に改めて舌を巻いた。

また、
低音も高音も、音の鮮度もまったく物足りない小さな「ラジカセ」なのに曲目自体がいいとオーディオ装置のレベルなんて関係ないのを改めて実感した。

それにしても「まだまだモーツァルトには隠された名曲が多いんだなあ」と思わず嘆息すると同時に、つい先日のオペラ「魔笛」に関するブログで、知ったかぶりをして小賢しく「魔笛以外のモーツァルトの曲目は才能の浪費ではないか」と言い放った自分が何だか恥ずかしくなってしまった。

たしかに「魔笛」はモーツァルトの最高傑作だとは思うのだが、とても(モーツァルトは)「魔笛」だけで”ひと括り”に出来るような単純な作曲家ではないことを痛切に思い知らされたというわけだが、そういう思いを強くしているときに、たまたま冒頭の言葉を見かけてピタリと胸に収まったというわけ。

そういえば、近年聴いているモーツァルトの曲目は「魔笛」をはじめ「ドン・ジョバンニ」「フィガロの結婚」などのオペラばかりで、それに時々「ピアノ・ソナタ」や「室内楽曲」が加わるぐらいで他の曲はあまりCDトランスポートの卓上とは縁がない。

いまさら聴かなくても「もう分かっている」というわけだが、これを機会にと悔い改めて久しぶりに次の曲目を引っ張り出してきて、娘を誘ってオーディオ装置の前にどっかりと座りこんだ。

「フルートとハープのための協奏曲K299」(ランパル&ラスキーヌ)、「ディベルティメントK136第二楽章」(コープマン指揮)、「ホルン協奏曲K412~」(カラヤン指揮)、「フルート協奏曲K313・オーボエ協奏曲K314」(ベーム指揮)、「ポストホルン・セレナーデ」(マリナー指揮)

このうち白眉なのは、やはり「フルートとハープ・・・」で、「魔笛」からは伺えない洗練された優雅さと華麗さの極みが感じられ、改めてこれほどの名曲だったのかと心の底から唸った。娘も、これと「オーボエ協奏曲」が特に気に入った様子なのでしばらくCDを貸してあげることにした。

ところで、前出した「ファゴット協奏曲」だが、この演奏は指揮者が岩城宏之さんとあって、奏者も日本人だがCDに登場するぐらいだからうまい方には違いないが、海外盤ではどういう演奏があるのだろうかと「HMV」を覗いてみると、カラヤン指揮(ベルリンフィル)とベーム指揮のがあった。

せっかく好きになった曲目なので、せめて最高の演奏と録音で聴きたいというのが人情というもの。

カラヤンは前回のブログ「ヨーロッパの三大オーケストラ物語」によると、ブルリン・フィルの在籍時期によって指揮に少しムラがあるようで、ベームの方が無難と言えば無難だが、はたして、どちらを購入したらいいんだろうかとちょっと迷ってしまう。

むしろポイントはファゴット奏者なのだろうが、こればかりは皆目、見当がつかない~。

それから最後になったが、冒頭に紹介した「本の寄り道」は全部で240冊の本の書評集だが、「紹介してあるすべての本を読みたい」と思わせる著者「鴻巣 友季子」(こうのす ゆきこ)さんの卓抜した文章表現力には驚いた。

世の中にはすごい才能の持ち主がいる!
  

 


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

読書コーナー~「ヨーロッパ三大オーケストラ物語」~

2012年01月17日 | 読書コーナー

本の題名は忘れたが、昨年の11月ごろに「書評はどうあるべきか」についての本を一読したことがあり、書評とは「書いてある内容について自分なりの所感を述べる」ものであって、本に書かれてある内容をそのまま紹介するのは、単なる「受け売り」でとても書評とは言えない、ということが書かれてあった。

たしかに正論で、この「読書コーナー」にしても書評としての位置づけをするのなら「私見を交えての読後感想」なんだろうけれども、自分のような素性の知れない人間がたとえ感想を記したとしても何の値打もないし、おそらく誰も興味を持たないと思う。

というわけで、このコーナーも引き続き「受け売り」させてもらいます~。


さて、今回は「指揮者の役割」~ヨーロッパ三大オーケストラ物語~(2011年9月20日、新潮選書)について。

                         

著者の「中野 雄」(なかの たけし)氏は以前、オーディオ・メーカーの「ケンウッド」の社長をされていたことがあり音楽評論に関しても著書多数で、音楽にもオーディオにも造詣の深い方。

ちなみに「ケンウッド」は今はどうか知らないが昔は良質のユニークな製品を次から次に製品化していた。

たとえば30年ほど前に製造されたプリメインアンプの「01-A」(出力100W)は音質に配慮して筐体が非磁性体(つまり、鉄を使わない)で作られており、電源部も隔離されていて音質も超Good。

このアンプ(トランジスター)は自分も大のお気に入りで、オーディオ仲間ののMさんから「メインアンプ」に改造してもらい、現在の第一、第二システムの低域用に使用しているが中高域用の真空管アンプとの音色のマッチングがいいので実に重宝している。

ただし、何せ古い製品なので、いつ故障してもいいように(半田付けの箇所のひび割れが多いそうだ)順次オークションで購入し続け、今では手持ちが6台(うち3台使用中)にも及んで、ひとまずは安全地帯である。

再び話は戻って、中野氏の著作にはほかにも「モーツァルト 天才の秘密」というのがあってこれは一読後、おおいに感銘を受けて、以前、このブログでも内容の紹介をしたことがあった。

「生まれつきの天才は存在しない、”臨界期”までに本人を取り巻く環境、たとえば適切な教育を受けることなどが大きく影響する」、また「好きで好きでたまらないことに嫌だと思わないで打ち込む才能が天才の条件の一つ」という結論が印象に残っている。

さて、本書の内容は次のとおり。

序章    指揮者の四つの条件

第一章  指揮者なんて要らない?~ウィーンフィルハーモニー管弦楽団

    間奏曲その一  世界一のオーケストラはどこ?

第二章  カラヤンという時代~ベルリンフィルハーモニー管弦楽団~

    間奏曲その二  コンサートマスターの仕事とは?

第三章  オーケストラが担う一国の文化~ロイヤル・コンセルトヘボー管弦楽団~

終章    良い指揮者はどんな指示を出すのか?

写真でご覧のとおり、本書の表紙に副題として「ヨーロッパ三大オーケストラ」とあり、すぐに、ウィーン・フィル、ベルリン・フィルが浮かんだが、残る一つはどこだろう、「ドレスデン・シュターツカペレ」かなと、
思ったところ上記の内容紹介にあるとおりロイヤル・コンセルトヘボー・アムステルダムだった。

認識不足なんだろうが、コンセルトヘボーのCDは手元にないし、地味な存在だと思っていたのだが、2008年の英国「グラモフォン」誌(12月号)の発表した「世界ランキング」で第一位の栄冠を獲得したというから驚き。

いったい、このオーケストラのどこがそんなにいいのだろうと、思っていたところ本書にその回答と思しき部分があったので引用(209頁~)させてもらおう。

「或るオーケストラの弦楽器セクションを評してその良否を口にする場合、何をもってその価値尺度となすか。アンサンブルの精度か、音色か、音量か、はたまた音符を正確に音にする技術的能力のことを指すのか。

基準は聴き手それぞれの美的感性によるのであろうが戦前のコンセルトヘボーの弦楽器群に対する賛辞は、まず何よりも、その厚みを持った艶やかな音色に寄せられていた。」

まあ、こういう良き伝統があるというわけだが、一流のオーケストラになるための必須条件は抜群の力量を持ったコンサート・マスターの存在である。1961年当時、常任指揮者のオイゲン・ヨッフムから当時名ヴァイオリニストだったヘルマン・クレッバースはこう口説かれた。

「現世のことは別として、歴史的に考えてみたら一国の存在意義は軍事力ではない。結局、文化なんですね。或る国、或る民族が人類の歴史に刻む遺産、それは文化しかない。経済的な繁栄も強大な武力も、時が経ってみれば単なる出来事に過ぎない。虚しいものです。

君が生まれ育ったオランダには、かって世界に誇る文化の華が咲き誇りました。たとえばレンブラント、フェルメール、フランツ・ハルス~国立美術館に収められている絵画の巨匠たちの作品群です。近代ではあのヴィンセント・ヴァン・ゴッホ。オランダ人、オランダという国の歴史が彼らの作品の中に芸術にまで昇華されて刻み込まれている。

では、今、この国には何があるか。世界に対して発信できる文化として、われわれは何をもっているか。残念ながら絵画も、文学も、昔日の輝きを失っているとしか言えない。あるのは音楽、うちのオーケストラだけです。この楽団以外にオランダという国は世界に向かって自らの文化を発信する手段を持っていないのです。

私たちのオーケストラはアムステルダムの市民によって創設され、メンゲルベルク(指揮者)が50年という歳月をかけて育て上げ、磨き上げた、生きて現在活動している文化財なのです。

オランダ国民にはこのオーケストラが今もっている演奏の質と名声を保持し、次の世代、いや永遠に伝えていく義務があると思う。コンセルトヘボーの死は、今やオランダという国の文化の死を意味するといっても過言ではないでしょう」

結局、クレッバースはこの殺し文句で口説き落とされるわけだが、ヨーロッパにおけるオーケストラの存在意義、ひいてはクラシック音楽への接し方がよく分かる話である。

ユーロ不安に象徴されるように、もはや落日の一途をたどるヨーロッパだが、これから文化的な伝統と経済的な側面との明暗がどのような跛行的展開を遂げていくのか興味があるところ。

翻って、世界に発信できる文化として現代の日本には
いったいどういうものがあるのだろうかとも考えさせられる。

本書にはほかにもたくさん引用したい部分があったが、長くなりすぎるのでこの辺で打ち止め~。

 


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

魔笛談義~年末のBS放送「ミラノ・スカラ座の魔笛」~

2012年01月10日 | オーディオ談義

「失敗学」の権威「畑村陽太郎」氏(東大工学部名誉教授、現在、福島原発の事故調査・検証委員会委員長)によると、講義の途中で学生たちに過去の「失敗事例」を持ち出すと急に身を乗り出してきて目が”生き生きと輝き出す”という。

「同じような失敗を繰り返したくない」という共通の心理が働き、他人の失敗経験から何らかの教訓を汲み取ろうと前向きになるそうだが、その一方で他人の「成功事例」ともなるとさほど熱心にならないという


「成功するよりも失敗しないことの方が大切」というわけだが、まあ、成功事例といえばサクセス・ストーリーとして小説なんかで読む分には気楽で面白いが、現実の身近な話ともなると、どうしても「自慢めいた話」になりがちなので敬遠されるのは否めない。

正直言って他人の「自慢話」に付き合うのを好む人はあまりおるまい。

「エッセイなんてどうせ自慢話だ」と言ったのはエッセイストの山本夏彦氏だが、ブログだってエッセイなので、「自慢話」を「自慢話」らしくしない配慮が必要だと思っているが、ブログを始めてからもう5年以上にもなるがこの辺がなかなか難しい。

とにかく唐突に自慢話を登場させると「あからさまだ」と嫌われるので「自然な流れの中で」、「表現にも一工夫」しながらさりげなく登場させるように心がけているが、こればかりは読む人次第なので判定がいろいろ分かれるところだろう。

しかし、止むに止まれず、これだけはどうしても自慢させてほしいという「生命線」みたいなものが誰にでも必ず一つか二つはあるもので、そういう場合には「そうか、そうか」と快く頷いてほしいものだ。

そして、それは、自分の場合だとモーツァルトのオペラ「魔笛」のCD、DVDの保有枚数なのであ~る!

実はブログを始めたきっかけというか、拠って立つ所もここにあるわけで、「これだけは絶対に人には負けない」というバックボーンがあると、人間(=ブログ)は結構、打たれ強くなれるものである。

とにかく、現在、所有している魔笛のCDが23セット、CD(ライブ盤)が11セット、DVDが14セットで、すべて合わせると48セットにもなる
!(下の写真はほんの一部)

            

何せ2時間半の長大なオペラだから1セット当たり2~3枚として 、枚数にすると確実に100枚以上は超える。およそ30年近くに亘ってこれだけのいろんな「魔笛」を追い求めて購入し、聴きまくったのは日本全国でも指折りではあるまいか、なんて思うことがしばしばある。

まあ「魔笛」に魅せられた後半生だったといえるが、オーディオにしても「魔笛」を「いい音」で聴きたいばかりにやむなく深みに入り込んでしまった結果でもある。

さて、そこで「魔笛のどこがそんなにいいの?」という話になるわけだが、モーツァルトが35歳で亡くなった年(1791年)に書かれたこのオペラには、彼の音楽のすべてが詰まっているといっても過言ではないほどの快心の出来栄えで、次から次に登場する歌曲(全22曲)が心に染み入る極上のメロディばかり。

(あのベートーヴェンでさえもモーツァルトの「魔笛」を最良の作品だと公言し、心酔のあまり「魔笛の主題による12の変奏曲」を献上している。)

また、生と死、善と悪、明と暗、美と醜、荘厳にして滑稽、などの対立する概念が公平に音楽に反映されているところがこのオペラに深い奥行きを与えている。

たとえば、ほんの一例だが王女(パミーナ)に言い寄って悪さをしかける憎まれ役の黒人の奴隷頭(モノスタトス)でさえも”やさしい眼差し”が注がれ、愛嬌のある歌が捧げられている。

こういうところがこのオペラにこの上ない人間愛の豊かさを感じさせ、いつ聴いても「まったく何という音楽だろう!」と感心する。

もちろん楽譜を読めない素人なので専門的な分析に基づいた鑑賞力にはほど遠いが、情緒的、感覚的に聴く分には大いに自信があり、通しで一度聴けばおよそ「演奏のレベル」が把握できる。


まず聴くポイントは次の主役級の5人の歌手たちの歌唱力の出来具合であり、指揮者とオーケストラとのマッチングである。

タミーノ(王子、テノール)、パミーナ(王女、ソプラノ)、夜の女王(コロラトゥーラ)、パパゲーノ(道化役、バリトン)、ザラストロ(高僧、バス)たち。

ただし残念なことにこれら5人の配役が完璧にそろうことはまず不可能で、誰かが良ければ誰かが悪いといった調子だし、これに指揮者の力量やオーケストラの響き、録音状態が加わるのでまず「魔笛」の完璧な演奏は未来永劫に望めないというのがこれまでの自分の正直な感想である。

まあ、トップクラスの演奏でも80点もいけば満足すべきだというのが偽らざる心境。

また、歌手たちやオーケストラの仕上がり具合とともに、もっと重要な要素なのがこのオペラ全体から受ける印象である。

まず、モーツァルトの最晩年の特徴である「(天高く、雲一つない澄み切った秋の青空のような)透明感、清澄感」が感じられなければならない。次に「死は最良の友達です」(父親あての書簡)を彷彿とさせる物悲しさ、はかなさ」が全編からそこはかとなく漂ってくれば、自分が思い描く「魔笛」はひとまず完結する。

モーツァルト独特の「物悲しさ」とは「悲しさが疾走する」とも「涙が追いつかない悲しさ」とも形容されるほどに有名だが、ピアノ協奏曲やクラリネット五重奏曲などもたしかにいいのだが、全編を通じてこの「透明感」とか「物悲しさ」を「心地よいリズム感覚」とともに味わえるのはやはり「オペラ」を措いてほかにない。

極論すれば、「オペラ」と「ピアノ・ソナタ全曲」を除いた、ほかのすべての作品はモーツァルトの才能の浪費ではないかと、思いたくなるほどに「魔笛」の出来栄えは素晴らしい。

さて、前置きが随分と長くなったが、年末のNHK・BSの深夜放送でミラノ・スカラ座で「魔笛」の放映があったので逃さず録画して、日を改めて2時間半の長丁場をじっくり鑑賞させてもらった。

日     時:2011年12月31日(土) 1:00~3:30

チャンネル :NHK BSプレミアム(103)

題     名:華麗なるオペラの世界 ミラノ・スカラ座歌劇「魔笛」

指揮&演奏:ローランド・ベーア、ミラノ・スカラ座管弦楽団

「スカラ座」でドイツ語による「魔笛」(ジングシュピール=歌芝居)を上演するなんて、「そんなのあり?」という違和感を持ったのが最初の印象だったが、とにかく歌手たちの熱唱さえ聴ければ”どうでもいいや”と開き直ってじっくり耳を傾けた。

結論から言えば残念なことだが「透明感、清澄感」や「物悲しさ、はかなさ」の”かけら”も感じられないような、理想には程遠い「魔笛」だった。

さすがに第二幕終盤のパパゲーノとパパゲーナによる「パ、パ、パ」は圧巻だったが、押しなべて歌手たちに「余裕」というものが感じられず昔と比べると随分小粒になったような印象を受けた。

世界クラスでどのくらいのレベルに位置する歌手たちが出演したのか、その辺がさだかではないので断定は禁物だが、ペーター・シュライアー(タミーノ役)など朗々と歌う往年の名歌手たちと比較するとやっぱり見劣りする。

どうもウィリアム・クリスティ指揮の「魔笛」(1995年録音)以降、気に入った演奏に出会わない、一度でもいいから目の覚めるような「魔笛」が出てこないものか・・・。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オーディオ談義~液晶テレビと真空管アンプ~

2012年01月06日 | オーディオ談義

今回は液晶テレビ(6年前に購入したシャープの「アクオス」45インチ)の近くに置いた真空管アンプがテレビ画面に帯磁した盛大な「静電気」の影響を受けて雑音を発生したという話。

       

現在、4台の真空管アンプ(いずれもパワーアンプ)を持っていて、いろいろ持ち味に応じて使い分けしている。出力管ごとに内訳を記しておくと、WE300B(モノ×2)、PX25(2台)、2A3、VV52Bといずれも三極管のシングル。

真空管は出力が小さいながらも中高域に繊細な表現力を持っているところが一番気に入っている。

したがって、第一、第二システムともに中高域用には必ず真空管アンプを使用しているが、このところずっと第二システムのタンノイ・ウェストミンスターの中高域用には「2A3」を使ってきたが、久しぶりに年も改まったことだし気分転換のために「VV52B」の真空管アンプを使うことにして接続してみた。

(この「気分転換のために」という理由にならない理由が実は大いに問題あり。これまでの経験で、結果的には気付かないうちに何らかの不満が隠されていることが多い!)

すると、いきなりスピーカーから”ジーッ”と嫌な雑音がするではないか。特に、左チャンネル側からの雑音が大きい。

「あれっ、おかしいなあ~、何故だろう?」。

この「VV52B」アンプは中型サイズだが、電源トランスや出力トランスが大きいため重量もかなりあって、置き場所に困り、オーディオラックの上に載せていたもので三極管のシングルにしては出力が20ワット近くあり、高域用のみならず低域用にも使えるので随分と重宝している。 

このアンプは購入してからすでに20年近く経過し、いたるところ接触不良を起こしていたので半年ほど前に奈良県のMさんに全面的に改修してもらったところ、見違えるほど音が良くなり大喜びしたものでそんなに急に悪くなるはずがないし、どうも不思議で仕方がない。

先ず疑ったのが真空管の故障。先ず初段管(テレフンケンのECC82)を左右入れ替えてみたがまったくノイズが変わらず。次に出力管を入れ替えても同じで変わらない。もしかしてケーブル自体の接触不良なのかと点検してみたがこれも不良個所が見当たらない。

とうとう原因が分からないまま、睡魔が襲ってきたので一眠りして、明くる日の早朝、目が覚めたとたんにふと液晶テレビの近くにアンプを置いているのが原因かもしれないとようやく気が付いた。液晶画面に近い方の左チャンネルから特に盛大なノイズがするのもこれで説明がつく。

すぐに、ガバッと跳ね起きて、オーディオルームに駆け込むなりアンプの初段管のECC82にシールドケースを被せて電源スイッチをオンにしたところ、雑音が激減したのでようやく原因が判明した。

今さらながら液晶テレビの画面(スイッチは待機状態)には盛大な静電気が滞留されていることを再確認したが、真空管の素子も単なるガラスケースに覆われているみたいなものなので外部からのノイズの侵略にはめっぽう弱いというのは今さらながらの新発見だった。

それも低域用に使っているときには何らノイズが発生していなかったので高周波ノイズとしての反応が顕著のようである。

とにかく場所を移動させて、2A3アンプを追い出してこのVV52Bアンプをラックの下段に納めて聴いてみたところノイズが皆無になったので先ずはひと安心。

          

それに音質の方も大違いで、「2A3シングル」に比べてスケール感が増大したのには驚いた。中高域用(1000ヘルツ~)のアンプを替えただけで、音楽全体がこんなにガラリと変わるのならもっと早い段階で試しておくべきだった。

やはりオーディオは理屈よりも実験で、やってみなければ分からないところが多々あるが、まあこれまでの経験もあるし2週間ほど聴いてみて慎重に最終結論を出すべきだろう。

ところで、写真をご覧になって目ざとい方は出力管の「VV52B」に何やら黄色い針金が巻きつけてあるのを気が付かれたと思うが、これはこのアンプを低域用として使っていた時に「マイクロフォニック・ノイズ」が盛大に発生していたのでそれを止めるためにガラス管の振動防止用として巻きつけたものである。

「マイクロフォニック・ノイズ」とは音が鳴りやんでも真空管のガラス管が共振して”こだま”のように音が反響してしまい聴きづらくて非常に始末に困る現象。

きちんとしたノイズ防止用としてガラス管に巻きつける防震ゴムが販売されているがVV52Bは大型真空管のため購入するととても高価なので自分なりに工夫して針金で締め付けたものだがこれで8割程度は明らかに防止できたが、今回は高域用として使うためノイズが皆無なのも大いに助かる。

それにしても今回は改めて中高域用のアンプの重要性に気付かされたが、第一システムの「Axiom80」専用に使っているWE300BやPX25アンプを持ってきたら果たしてどういう音がするのだろうかと試してみたくなる。

 


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする