「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

オーディオ談義~最近のオークション事情~

2011年04月29日 | オーディオ談義

つい先日のブログでも触れたとおり、安価な投資で大きな効果を上げるのが「オーディオの楽しみ」の一つ。

取り分け、誰もが参加できるオークションには安値で掘り出し物を見つけたり、市場に出回りにくい稀少品を発掘したりする愉しみがあり、これもネット社会の産物として大いに感謝している。

振り返ってみるともう10年以上もコツコツと利用していて、評価のほうも「良い評価206件」、「悪い評価1件」という状況だが、途中で「パスワード」を取り替えたりしたので実際の取引は300件を越えているはず。

そのうち大半が真空管の取引で、したがって現在、手元にある真空管もほとんどがオークションで手に入れたもの。

その重宝してきたオークションも最近はどうも妙味が薄れてきているというのが実感。

昔は随分と”おおらか”だった。稀少真空管を驚くような低価格で落札できた。

たとえば、およそ60年前に生産されたテスラの真空管で新品だったRD27AS(PX25)。

                          

あえて値段を言うと、たしかペアで75,000円だったが、初めはやたらに音が硬かったもののエージングが済んで2ヶ月ほど経った頃から絶妙の音色を奏で始めた。

繊細な表現力が特徴とされるPX25の場合、独特の色彩感を持つテスラの音楽的表現力はGECやオスラムの銘柄を凌ぐと評価されているが、まさにそれを実感している。

つい先日も、湯布院のAさんとPX25真空管の聴き比べをしたところ微妙な音色の肌合いなどで圧倒的にテスラに軍配が上がった。今となっては大変なお買得品だった。

ほかにも当時はマルコーニの整流管などの古典菅を楽々と(入札)競争無しで、出品価格のまま落札できたものだったが、近年は”鵜の目鷹の目”といった感じで、まず掘り出し物が出てきても、あっという間に入札価格が跳ね上がる。

また別に悪いことではないが、出品時からず~っと音無しの構えで、油断(?)させておいて「落札直前」になってドタバタする例も枚挙にいとまがない。まさに「生き馬の目を抜く世界」。

それに入札者のみならず、出品者のほうも世知辛くなっている。

最近購入する真空管にはどうも雑音がするなどの故障が多い。ノークレーム、ノーリターンが条件とはいえ、真空管の場合、初動時の故障は返品がきくが、それにしてもという感じ。

先日もテレフンケンの電圧増幅管(ミニュチュア管ペア)を購入したものの、うち1本から雑音がしたので返品、残る1本だけの代金で処理したものの1ヵ月後ぐらいからこれも雑音が出だして結局使い物にならなかった。

中には”れっき”とした販売店から購入したものでも初めから雑音がする真空管もあった。この販売店はオークションの説明文に、全ての真空管は「エージング済みです」と記載しており、信頼して購入したのにこの有様。

クレームをつけるとあっさり交換してくれたが、何だか日常茶飯事みたいな調子で「エージング済み」という触れ込みもまったく当てにならない印象を受けた。

なお、この球は真空管の足が金メッキタイプの近代菅で値段も高価だったが、音質は凡庸そのものだった。

もう近代管は”こりごり”でやはり真空管は1960年代以前のものが無難のようだ。

しかし、出品者や入札者の責任ではなく、まったく自分の勘違いによるものもある。

たとえば4月15日に落札したマラードの真空管。

          

1本500円で出品されたものの誰も入札者が無くて、そのまま落札期日を迎えた。

イギリスの名門マラードの真空管が1本500円だなんて信じられないが、「たまにはこういう掘り出し物もある」、”しめしめ”と落札。

出品者と連絡がつき、6本購入して振り込みも無事完了。自宅に届いた真空管の元箱を見てビックリ。

「ECC81」(12AT7)を購入したつもりが、何と「EBC81」だった!

1字違い、それもBとCはよく似てる。そもそも「EBC」なんて型番の真空管があるなんて夢想だにしなかった。 

こういう球は使いようが無いので引き取り手を捜したところ、無事に”とあるところ”にもらわれていったので”メデタシ、メデタシ”。

とにかく目も悪くなったし、カンも悪くなったしでオークションは段々「鬼門」になりつつあるところ。

同じ別府市内でクルマで15分ほどの距離にあり、膨大な真空管のコレクションを誇るMさんによると、「オークションなんて、どうせ要らないものが出されるんだから”いい物”は滅多に出ないよ」という言葉が実感として響いてくる今日この頃。

これからは、少々高価でもこれぞと思う真空管を保証付きで購入することにしようかな~。

このほうが結局は「安上がり」につくようである。

 


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読書コーナー~「なぜイギリスはミステリーの宝庫?」

2011年04月26日 | 読書コーナー

「ミステリー好き」という点に関しては、”人後に落ちない”と思っているが、本格ミステリーの宝庫といえばまず「イギリス」に落ち着く。

作家コナン・ドイルの名作「シャーロック・ホームズ」シリーズを嚆矢(こうし)としてアガサ・クリスティ以降、今日に至るまで延々と途切れることなくすぐれたミステリー作家を輩出してきている。

ミステリー作家が多いということは、需要供給の面から商売として成り立つということでその背景にはそれだけ好んで読む国民が多いということになる。

しかし、当然のことながら
「なぜミステリ-がイギリスで発祥し、このように隆盛を極めているのか?」
という素朴な疑問が付きまとう。

この理由について、興味深い記事が下記の本の152頁に書かれてあった。

「イギリス病のすすめ」(2001年、講談社文庫) 

                      

本書の著者は田中芳樹氏と土屋守氏でお二人の対談によって構成されている。

題して
「ミステリーとデモクラシー」。

「ちょっと大げさに言うと、ミステリーとデモクラシーには相関性があるって言いますね。つまり『事件が起きたら証拠なしで怪しげなやつをひっつかまえてきて拷問して白状させる』というような社会では、ミステリーは発達しない。科学的に証拠を固めて、推理して・・・という過程を踏むような社会でこそ発達する~」

ナルホド、なるほど。

中国やアフリカ、南米諸国にはミステリー作家がほとんどいない、したがって読者も少ないという理由もこれでおおかた”カタ”がつく。政治思想犯をとっ捕まえて監禁するなんてまったく論外。

ミステリー発展の根源を求めていくと
「一人ひとりの人権を大切にする社会風土と警察の科学的な捜査手法」に突き当たるなんて、なかなかユニークな見方だと思う。

イギリスの警察は世界で一番歴史が古い。18世紀に始まった市民警察を前身として1829年には正規の警察組織として発足している。(ウィキペディア)

余談だがスコットランド・ヤード(所在地の地名)といえばロンドン警視庁のことだが、これは日本の首都・東京の治安を一手に引き受ける「警視庁」を「桜田門」と呼ぶのに等しい。

とにかく、ミステリー発展のためにはそれなりの環境が必要ということがこれで分かる。


ミステリー作家が活躍し幅広く国民各層で読まれるのは社会がある程度健全に機能している証拠の一つというわけで、ミステリー・ファンのひとりとして世の中に何も貢献しているわけではないが何となくうれしい気分になる。

そういう意味でイギリス、アメリカ、フランス(メグレ警部シリーズ)、スウェーデン(マルティン・ベックシリーズ)、そして我が日本などは大いに胸を張っていい。

もっともその日本でさえ第二次大戦前は江戸川乱歩が「怪人二十面相」を書くことさえ禁止されていたくらいで、あの悪名高い「治安維持法」による共産主義者などへの弾圧、「蟹工船」の作者小林多喜二の拷問死なんかを思い起こせば現代と比べるとまさに隔世の感がある。

何とも「いい時代」になったものだが、さて今日の日本におけるミステリー隆盛の礎を築いたのはもちろんその江戸川乱歩(享年71歳)さん

日本の推理作家の登竜門として有名な「江戸川乱歩賞」(賞金1千万円)は彼が私財を投げ打って1954年に創設したもので以後、西村京太郎、森村誠一、東野圭吾など幾多の人気作家を輩出しながら今日まで55回を数える。

そのほかいろんな新進作家の面倒をみたりして育成に力を注ぐなど(日本のミステリー界で)彼の果たした役割と功績は計り知れない。

その辺のミステリー発展の軌跡について推理作家「佐野 洋」氏によって詳らかにされているのが次の本。

 「ミステリーとの半世紀」(2009.2.25、小学館) 

 
                                 

佐野 洋氏の自伝ともいうべき本だが、日本ミステリー界の歴史についてこれほど内輪話が載っている本も珍しい。

興味津津で読ませてもらったが、江戸川乱歩の思い出と功績については
「乱歩さんとのこと1~4」
までわざわざ4項目を割いて詳述してある。若手作家による原稿料の値上げなどの要求にも真摯に応じる気配りの細やかな乱歩の人間像が見事に浮かび上がってくる。

そのほか
「冷や汗二題」
では次のような面白いエピソードが語られる。

あるホテルのロビーで川端康成氏が座っている前のテレビを三好徹氏と一緒になって中央競馬桜花賞の中継をどうしても見たいがために無断でチャンネルを変えてしまい、後になって関係者からもし相手が江戸川乱歩氏だったら同じようなことが出来たかどうかと詰問される。

そのときは「ううん、乱歩さんだったら、ちょっと躊躇したかもしれません」なんて正直な告白が出てきたりする。

純文学とミステリーの間の落差というか、壁みたいなものを物語っているようで面白い。


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音楽談義~「モーツァルト 天才の秘密」

2011年04月24日 | 音楽談義

ご存知のとおり、人間一人ひとりは生まれながらにして風貌も違えば五感すべての感受性も違うし、運動能力にも天地の違いがある。

そして、その差が遺伝子の相違に起因することは疑いがない。

さらに人間はこの遺伝子に加えて生まれ育った環境と経験によっても変容を遂げていく。

それでは、一人の人間の人生行路に占める遺伝子の働きの割合は”どのくらい”と考えたらいいのだろうか。

この興味深いテーマを天才の代名詞ともいうべきモーツァルトを題材にして解明を試みたのが次の本。

「モーツァルト 天才の秘密(2006.1.20、文春新書)

                           

著者の中野 雄(なかの たけし)氏は東大(法)卒のインテリさんでケンウッド代表取締役を経て現在、音楽プロデューサー。

自然科学の実験結果のようにスパッとした解答が出ないのはもちろんだが、脳科学専攻の大学教授の間でも説は分かれる。

「知能指数IQの60%くらいは遺伝に依存する」との説。「脳の神経細胞同士をつなげる神経線維の増やし方にかかっているので、脳の使い方、育て方によって決まる」との説などいろいろある。

集約すると「およそ60%の高い比率で遺伝子の影響を受けるとしても残り40%の活かし方で人生は千変万化する」とのこと。

モーツァルト級の楽才の遺伝子は極めて稀だが、人類史上数百人に宿っていたと考えられ、これらの人たちが第二のモーツァルトになれなかったのは、生まれた時代、受けた教育も含めて育った環境の違いによるとのこと。

この育った環境に注目して
「臨界期」
という興味深い言葉が52頁に登場する。

これは、一定の年齢以下で経験させなければ以後いかなる努力をなそうとも身に付かない能力、技術というものがあり、物事を超一流のレベルで修得していく過程に、「年齢」という厳しい制限が大きく立ちはだかっていることを指している。

顕著な一例として、ヨーロッパ言語の修得の際、日本人には難解とされるLとRの発音、および聴き取りの技術は生後八~九ヶ月が最適期であり、マルチリンガルの時期は八歳前後というのが定説で、0歳から八歳までの時期が才能開発のための「臨界期」というわけである。

もちろん、音楽の才能もその例に漏れない。

ここでモーツァルトの登場である。
幼児期から作曲の才能に秀で、5歳のときにピアノのための小曲を、八歳のときに最初の交響曲を、十一歳のときにオペラを書いたという音楽史上稀に見る早熟の天才である。

モーツァルトは産湯に漬かったときから父親と姉の奏でる音楽を耳にしながら育ち、三歳のときから名教師である父親から音楽理論と実技の双方を徹底的に叩き込まれている。

この父親(レオポルド)は当時としては画期的な「ヴァイオリン基本教程試論」を書いたほどの名教育者であり、「作曲するときはできるだけ音符の数を少なく」と(モーツァルトを)鍛え上げたのは有名。

こうしてモーツァルトは「臨界期」の条件を完璧に満たしたモデルのような存在であり、この父親の教育をはじめとした周囲の環境があってこそはじめて出来上がった天才といえる。

したがって、モーツァルトは高度の作曲能力を「身につけた」のであって、「持って生まれてきた」わけでは決してない。群百の音楽家に比して百倍も千倍も努力し、その努力を「つらい」とか「もういやだ」と思わなかっただけの話。

そこで結局、モーツァルトに当てはまる「天才の秘密」とは、育った環境に恵まれていたことに加えて、「好きでたまらない」ためにどんなに困難な努力が伴ってもそれを苦労と感じない「類稀なる学習能力」という生まれつきの遺伝子を持っていたというのが本書の結論だった。

これに関連して、随分と昔に読んだことがある小林秀雄氏の著作「モーツァルト」(「無私の精神」所収)の一節をふと思い出した。

「無私の精神」(昭和44年8月30日第五刷、文藝春秋社)  

              

その中で引用されていたゲーテの言葉
「天才とは努力し得る才だ」(エッカーマン「ゲーテとの対話」)に対する解説がそうなのだが、当時はいまひとつその意味がピンとこなかったが、ここに至ってようやく具体的な意味がつかめた気がする。

「好きでたまらない」ことに伴う苦労を楽しみに換える能力が天才の条件のひとつとすれば、かなりの人が臨界期の環境に恵まれてさえいれば天才となる可能性を秘めているといえるのではなかろうか。

天才とは凡人にとって意外と身近な存在であり、もしかすると紙一重の存在なのかもしれない。


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オーディオ談義~クラシック・オーディオとジャズ・オーディオ~

2011年04月15日 | オーディオ談義

オーディオ関係の本を読むのは昔から大好き。

人それぞれにいろんな考えと取り組み方があって、実に参考になる。

つい最近読んだのが「JAZZオーディオ魔境の旅~一歩前進三歩後退」(2011.2、河出書房新社刊)。

            

著者はあの有名な「寺島靖国」氏。ジャズ喫茶「メグ」(東京)のオーナーでオーディオ関係の著書多数。

「一歩前進三歩後退」という副題にオーディオ・マニア特有の自虐性が窺えてほのぼのとしたものを感じさせるが、果たして「本音」かどうかは本書を読んだ人次第~。

同氏の始めのころの著書には名盤紹介などを通じて、ジャズへの傾倒が印象的だったが最近の著書はまったくオーディオ一辺倒のようだ。

とにかく、どこからこんなにお金が湧き出てくるのかと思うほど次から次にオーディオにお金を突っ込む話が続く。

取り分け、電源やライン・ケーブルの類いは相変わらずご熱心で、1セット700万円もするスピーカー・ケーブルが登場するのには驚いた。

それに噂には聞いていたが本書の表紙にもある黄色のアヴァン・ギャルド(ドイツ)というたしか500万円以上もする高価なスピーカーにも注目。

ご本人曰く「オーディオの楽しみは絶対に買うことにある。買おうと決心したときに幸せが訪れる。買って買って買いまくるのが私のオーディオ人生です」。

もちろん、(ご本人は)これで充分楽しんであるので傍からいろいろ言うことはない訳だが、本書を読みながら不思議に”同じものを買いたい”とか”うらやましい”という感情が一切沸き起こってこないのはどうしたことだろうか。

この辺を細かく詰めてゆくと「音楽愛好家」と「音キチ」の区分への言及が必至だが”収まり”がつかなくなるので、オーディオの大先達に敬意を表してここで打ち切り~。

ところで、大いに興味を引かれた記述があった。

寺島さんがティアック本社の試聴室で、オーディオ販売店の社長さんや店長さんを集めての講話の中の一節。

「オーディオ製品はジャズ向きとクラシック向きの二種類が欲しい。ジャズマークとクラシックマークをスピーカーやアンプに付けてほしい。」これまで自分でも飽きるほど繰り返してきた自説をここでも開陳した。

すると、冷静な表情の紳士風の方が、それは、ソフトのほうの問題じゃないかとおっしゃった。オーディオ製品というのは、ある種ソフトに入った音をそのまま拾い上げてそのまま放出する。そういう役割を担っているのだと。美しい音のソフトは美しく、がさつな音はがさつな音のまま。

うーむ、である。これは大変なテーマである。オーディオとは何か、という根幹を揺るがす大問題に発展しそうな気配である。ここは引かなくてはいけない。「やはり、そうですか」などとわけの分からないことを言って幕を引いた。
 

たしかに、これは大きなテーマだと思う。

以前のブログでも記載したことがあるが、クラシックとジャズでは音楽の聴き方がまるで違う。

端的に言えばクラシックは大きなホールの特等席で聴くような感じの音、つまり豊かなホールトーンが理想であり、ジャズは逆に反射音の少ない開放的な部屋(極端に言えば路上)で音が直接聴こえてくるような感じが理想である。

これを敷衍(ふえん)するとクラシックはヨーロッパが発祥の地であり、そもそも教会や大ホールなど石造りの建物で豊かな反射音を利用しながら直接音と間接音が微妙に入り混じった音で鑑賞するように出来ている音楽。

一方、アメリカ発で黒人の苦痛に満ちた”うめき”声から生まれたともいわれるジャズは小編成の楽器からストレートに出てくる音を身近に体で受け止めて鑑賞するように出来ている音楽。

結局、両者は基本的に相反する要素を持っているので両方とも満足させるシステムは難しいというのがこれまでの定説。

したがって、寺島さんのご提言は実によく分かるが、それに対する反論も決して間違ってはおらず、むしろオーディオの本質をついていると思うので、この論争にどういう結着がつけられるのか、実に興味深い。

ただし自分のこれまでの経験ではクラシック向きのシステムでジャズを聴くのはあまり違和感を感じないが、ジャズ向きのシステムでクラシックを聴くのはまず無理である。

何だかこの辺に解決の糸口がありそうな気もするが。


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オーディオ談義~タンノイにツィーター?~

2011年04月12日 | オーディオ談義

「おい、やっぱりタンノイにはツィーター(高域専用のユニット)がいるなあ。安くていいものがあったら買うから教えてくれ。」

つい先日、久しぶりにやって来た長兄(福岡在住)が言う。

20年ほど前に知人から譲ってもらったとかで国産の箱に38cm口径の同軸ユニットを容れたものを後生大事に愛用しているが、ときどき、高域の伸びに不満を感じることがあるそうだ。

ユニットは我が家の第二システムであるウェストミンスターの「HPD385」とたしか同じはずでその悩みはよく分かる。

     

これまで、我が家のHPD385もときどきツィーターを加えたりしたことがあるものの、当座はレンジが広くなって耳当たりがよくなるが、1週間もすると何だか不自然な響きで聴き疲れしてくるので結局、外してしまうということの繰り返し。

(ツィーターがJBLの「075」なので相性が悪いのかもしれないが。)

しかし、高域専用のアンプにPX25真空管アンプを使い出してから一切ツィーターが必要とは思わなくなった。

原因はアンプにあった!

同じような悩みを経験しているので「タンノイに安易にツィーターを付け加えるのは考え物だと思うよ~」と返答した。

ツィーターの扱い方は「駄耳」のせいもあっていまだに明快な解答が見出せないでいる。しかも周波数をカットするために使うコンデンサーの種類によっても音質が”さま変わり”する複雑な世界。

オイルやフィルムなどいろんな材質のものがあるが、最近、マイカ・コンデンサーの評判をよく聞く。


また、オーディオ仲間のMさんによると、システムを聴いていて高域の伸びが物足りず、ツィーターが欲しくなるときはむしろ中域の「立ち上がり」に原因がある場合が多いとの説もある。

こういうときにツィーターを加えると無駄遣いになるし、その上、収まりがつかなくなって果てしない泥沼に陥るという。

これも充分、頷ける話。

たしか長兄の使用中のアンプは、自分が以前使っていて譲ってあげたサンスイのトランジスターアンプ(AUー707)のはず。

「ツィーターを付け加えるよりもむしろアンプに原因がある。アンプを2台使って、低域用にサンスイを使い、安物でいいから真空管アンプを購入して高域専用に使うと、この悩みは見事に解決すると思うよ。」

とはいえ、ことはそう簡単には運ばない。

以下ちょっと専門的な話になるが。

タンノイは低域ユニットと高域ユニットが1000ヘルツ前後でクロスしているのでそれなりのネットワークを作らなければならない。

まずSPボックスの裏蓋を開けて、低域用ユニットと高域用ユニットの線を区分し、前者にはコイルを挿入し、後者にはコンデンサーを挿入してうまい具合に1000ヘルツ前後でクロスさせなければいけない。

そのやり方もこれまでの経験では低域の上限を肩落ち12dbにして、高域の下限は肩落ち6dbでやるとうまくいく。

こういうときにコイルとコンデンサーのストックがものをいう。

この話をしたところ、長兄は「タンノイの裏蓋を開けてネットワークをいじるなんてとんでもない、メーカーのオリジナルが一番いいに決まってる」と強引に言い張る。

それに「オーディオにお金を突っ込むのはもったいないし、最小限にとどめたい」という現実派なので、どうも話がうまくかみ合わない。

やはり「縁なき衆生」である。

総じてタンノイの愛好家は「改造」という冒険を好まない保守派が圧倒的に多いが、タンノイといえども営利企業には間違いない。

いろんなところでコスト面での妥協をしているはずでそれが端的に現われているのがオリジナルのネットワーク。

これはずっと以前から「問題あり」と秘かに思っているが、自分の知っている範囲で改造している方は皆無である。

本人さえ良ければそれでいいのだが、もし音質に不満があって手放される方があれば、念のためネットワークをいじってみたりアンプの2台使用とかを試してみるといいと思うのだが。 


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読書コーナー~「錨を上げよ」上、下巻~

2011年04月10日 | 読書コーナー

「人生は動き回る影法師、哀れな役者、とマクベスに語らせたのはシェークスピアだ。」

いきなり、この言葉で始まるのが「錨を上げよ」上、下巻(2010.11月、講談社刊)

          

著者は「百田尚樹」氏でデビュー作「永遠の0」(2006年)が68万部売れたというベストセラー作家。

本書はその著者の自伝風の物語だが、随分と格調の高い滑り出しに思わず居住まいを正してしまった。

何といっても古典に通暁することは教養の深さを表す尺度のひとつなのだから。

ところが、読み進むにつれて恥も外聞もない赤裸々な記述の連続にビックリ仰天。

ご本人曰く、幼少の頃から大阪の下町丸出しの教養があるとはお世辞にもいえない両親に育てられたせいか、ワルぶりも相当なもので近所の大人たちから「ひどい悪ガキ」「こんな憎たらしいガキはいない」と口をそろえて罵られる始末。

小学校の女教師からも「15年教師をやってきましたが、こんな憎たらしい子は初めてでした」。

「喧嘩と女」に明け暮れる青春時代の細かいエピソードには事欠かず、上品とか体裁とか一切無縁の
その一つ一つが実に面白く、作者を取り巻く人間像の描写も活き活きとしていて、たしかな観察眼を感じさせる。

とにかく
読者をグイグイ引っ張る荒々しい筆力には大いに感心してしまうが、「偽善」を徹底的に嫌う作者の骨太い生き方には賛同できるものの、ちょっと神経のか細い自分にはとても”ついていけない”と思うことがしばしば。

こういう人とは”小説の中だけでのお付き合いで結構”という感じがしてくる。

たとえば、世の中には「本音と建前」があり、上手に使い分けて生きていくのが通常の生き方。

もちろん自己保身もあるものの、そこには相手を傷つけまいとする優しい思いやりも含まれるわけだが、この著者の場合は完全に「本音」の世界で生きていこうとするものだから至るところで、これでもかというほど周囲との摩擦や衝突が起こる。

当然のごとく、何もかもが長続きしない。学校、アルバイト先、女性関係、そして家庭までも・・。

自堕落極まる放浪生活には、ほとほとあきれ返ってしまうが、文中「ジークフリートがヴォータンから自慢の剣をへし折られてしまう」(ワーグナー楽劇「ジークフリート」)といった表現も垣間見られ、まるで掃き溜めの中で鶴に出会ったような表現に「この人、意外とクラシックの素養があるんだ」と思わせるのが印象的。

正直言ってこの分厚い上巻を読み終えたとき、著者のアクの強い人間性に息切れしてしまい、引き続き下巻を読むかどうか大いに迷ってしまった。

しかし、どうせ読み始めたのだからと、ちょっと無理して歩を進めたところ、下巻のちょっと入ったところから(著者が)俄然、己の人生に真摯に向き合って向上していくので面白くなる。

それもクラシック音楽がらみというのが「我が意を得たり」というところ。

著者がホストクラブ、右翼系の運送会社、パチンコ屋の店員など転々と勤め先を変える中でたまたま「求人募集中」の張り紙を見て勤めだしたのがレコード販売店。

それも人気のないクラシック売り場に配置されたのだが、仕事柄仕方なく毎日聴かされているうちにクラシックが大好きになり、とうとうベートーヴェンの弦楽四重奏曲を聴いて感動のあまり涙を流すようになる。

そうなると仕事にも身が入るようになり、これまで常習だった遅刻や欠勤も一切なし、お客への適切なアドバイスや販売方法の改善により、売り場が活況を呈すようになる。

オーナーからも気に入られてポストも給料もアップし、ついにはお店でなくてはならない人物になっていく。

あれほど心身ともに荒れ果てた人間がクラシックに感動することで劇的に人間性が変わっていく、これほどまでに(クラシックが)人間の心を浄化する作用があるのかと改めて驚いてしまった。

クラシックは己の心の中に静謐感がないと鑑賞できない音楽だが、聴くことを通じて自己の内面とじっくり向き合うことでもある。

実際にこういう例に接するとクラシックを好きになることは大きな意味があることに気付くのである。

世の中、クラシック好きはほんの一握りだが食わず嫌いの方も多いと思うので、ダメで元々、クラシックに集中的に接する機会を増やすというのはいかがだろうか。

そこにはオーディオよりもはるかに広くて深い世界が待っている。

さて、現在、下巻のその部分を丁度読みかけの途中だが、果たして今後どういう展開になっていくんだろう?

 


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音楽談義~「マーラーの交響曲4番、今と昔」~

2011年04月07日 | 音楽談義

4月3日〔日〕の早朝、立ったまま靴下を履こうとして右の腰を「ギクッ」。

「アレッ、やったかな」。ギックリ腰にはこれまで度々悩まされている。

一度目は大したことはなかったが、二度目の「ギクッ」がショート・ステイ先から戻ってきた94歳の老母を食事のためにベッドから車椅子に移したとき。

これで、悪化の一途に。

そしてトドメが夕方7時から始まった地元自治会の会議で、役員の選出で辞退者が続出して 紛糾したため、胡坐(あぐら)をかいたまま2時間半。

とうとうその日の夜は寝返りを打つのも痛くて苦しく
、熟睡がまったく出来ないまま、朝を迎えた。

ウ~ン、もうたまらない。

これまでブログで散々言いたい放題、臆面もなく”自慢話”を繰り返してきた報いで罰が当たったのかもしれない!?

とうとう馴染みの柔道整復士「F」さんに電話して11時の予約が取れた。

「クルマの運転は出来ますか?」

「幸い、運転は出来そうです。」

「助手席に乗せてもらうよりも、運転するほうがハンドルの支えがあって、かえって腰には楽なんですよ」

この大分市在住の整復士、Fさんは、以前、半年ほど苦しんだ腰をたった2~3回の施術で直してもらった程の凄腕で施術歴も30年以上のベテラン。

「どうも、お久しぶりです。また腰を痛めてしまって~。ちょっと動くだけで痛くてたまりません。何とかしてください。」

「そ~っと、うつ伏せに寝てみてください。これは大変、筋肉が随分萎縮して緊張してますねえ。神経が過敏になっているのでこういうときは”そっと”しておくに限ります。

ウォーキングなんて、もってのほかですよ。背もたれがついたエアロ・バイクくらいならいいでしょう。全体的に揉みほぐして筋肉を弛緩させておきます。1~2日すればよくなるはずです。」

翌5日には物忘れたしたみたいに見事に回復。やはりFさんは名人である。

さて、本題に入って先日〔3月27日)福岡から我が家に試聴に来てくれた高校時代の同級生U君からメールが入った。

「インバル/フランクフルト響のマーラー4番を持っていますか。

実はこの CD は、DPA というデンマークのマイクメーカー(その道では超有名)の製品で、無指向性マイクでは No.1 の 4006 というマイクを2本だけ使用して録音したものとして有名です。

名録音の条件を全て備えた究極のCDとして、録音のプロたちが自他共に認めているものです。」

へぇ~、そんなに名録音盤なんだ。

たしかインバル指揮の4番なら持っていたはずと探してみるとあった、あった。
                      
              

1985年だから26年前のデンオンのPCMデジタル録音で、たしか発売当時も評判が良くて購入したことを覚えている。

そのときのオーディオ・システムで聴いたときは、何だかこもった感じの録音で「評判ほどではない」とあっさり断定してポイとお蔵入り。

さあ、U君推薦のこのCD盤が現在の「アキシオム80」をメインとしたシステムでどう蘇るのか、興味しんしんで試聴。

第一楽章では、相変わらず篭った感じの印象で、やっぱりダメかなあと、半分落胆しながら聴いていると2楽章あたりから耳当たりがよくなってくる。

3楽章~4楽章になると陶然となって大いに感銘を受け、久しぶりにマーラーを堪能できた。

決して前に出てくる響きではなく、奥のほうでしめやかに音楽が鳴っている印象で非常に地味な録音だが、聴けば聴くほどに味わいが出てきて音楽に引き込まれていく。まったく聴き疲れがしないのもいい。

これが本当に「いい録音」というものだろう!

マーラーの4番はもう一枚持っていて、クレンペラー指揮、フィルハーモニア管弦楽団、ソプラノはシュワルツコップという組み合わせ。

            

通常ならこの鮮明な録音に何ら違和感を覚えないところだが、インバルの演奏を聴いた後では何だか平面的で安っぽく聞こえてしまった。

クレンペラーのマーラーは「大地の歌」が大好きだったのでほかにも4番と9番を購入していたのだが、4番に限ってはインバルのほうが断然好み。

昔と今とのシステムの違いでこれだけ印象が異なって聴こえるマーラーの4番、これこそがオーディオの醍醐味というところだろう。

同じ3月27日に訪問してくれたO君からもメールが到着。

「私も同感です。柔らかく、疲れを感じさせない音楽性がありますね。マーラー嫌いの、うちのネコちゃんが、気持ちよくそっくり返って寝ていたのには驚かされました!」

また、U君からのコメントがさらに(日を置いて)続く。

「インバル/フランクフルト響のマーラー4番を持っていると○○君〔自分のこと)、O君から返信がありました。

大編成のオーケストラを僅か2本のマイクで収録するには、どれ程の努力が積み重ねられたことかと思います。

要はどの位置にマイクをセットするかということになりますが、ステージ上のオーケストラを見下ろす、指揮者の遥か上方からオーケストラ全体を狙ったものと思われます。(いわゆる吊りマイク)

使用されたDPA4006は無指向性なので、オーケストラからの直接音+ホールの残響音を拾っていますが、その割合が絶妙なのです。

2本のマイクの間隔、角度、床からの高さ等、決めなければならないパラメーターが一杯あります。

残響(リバーブ)はカラオケで云うエコーですが、エコーは主にボーカルのアラを隠し美しく聞かせるために使われますが、クラシックの録音での残響は、演奏している場所の空間(の大きさ)を表現する一方、過度の残響は演奏のディテールを消してしまう恐れがあります。

録音エンジニアは残響に細心の注意を払っていますが、再生する側のオーディオ・マニアも残響が綺麗に再生されるように努力していると思います。

今度クラシックを聴くときは、この残響音に注意して聞いてみて下さい。」

U君ご指摘の適度の残響音については我が家のシステムでも思い当たる節があって、実はファンダメンタルな部分での残響音が大きな課題となっている。

中高域(アキシオム80)についてはほぼ満足の状態だが、200ヘルツ付近から下の弦楽器のユニゾンに、ちと問題あり。

どうしても豊かで漂うような雰囲気が我が家のシステムからは出てくれない。

果てしない音響空間の中で鳥の産毛(うぶげ)だったような”さざめき”の響き!

この辺がきっちり出てくれるとまさに「鬼に金棒」なんだがなあ~、しかし、これが実に難しい。

何とかしたいのはヤマヤマだが・・・。


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独り言~「疾風に勁草(けいそう)を知る」~

2011年04月03日 | 独り言

東日本大震災の爪跡がいまだに生々しいが、焦点は福島第一原子力発電所の処理問題に移ってきた感がある。

現地で危険をかえりみず復旧作業に当たっている方々には本当に頭の下がる思いがするが、責任の当事者、東京電力の苦衷は察するにあまりあるところ。

事後処理にこれからどれだけの資金が費やされることか想像もつかず、
これに伴って東京電力の信用力もガタ落ちで1日には株価が一時400円割れの状況に。

ちなみに、大震災前の3月1日現在の株価を調べてみると2,456円で何と1/6に急降下!

以前は株を取得するのでさえ困難を極めた超優良企業が一夜にして転落、(株価の)大幅な下落で保有株数N0.1の「第一生命」などでは評価損が大きな話題になっている。

こういう難局に直面して、陣頭指揮に当たる社長さんはさぞや「大変だろうなあ」と深く同情していたところ、ご本人は高血圧でめまいがして入院という事態でいっさい表舞台に登場してこない。

病気なら仕方がないけどねえ。しかし、ちょっと情ないなあ~。

その代わりにというわけで会長さんがテレビの記者会見でお詫びと今後の方針を述べていたが、この会長さんを見ていて、つい連想してしまった。

                            

第一印象だけで物を言うのはちょっと気が引けるが、「直感はあやまたない、誤るのは判断だ」という文豪ゲーテの言葉(五味康祐著「西方の音」より)もあるので勘弁してもらおう。

何だか高級官僚タイプを思わせて怜悧かつ学究肌の雰囲気だが、ちょっと”覇気”に乏しそうな印象を受けた。

民間企業のトップによく見受けられる野性味があって押しの強いタイプとは程遠い感じ。

この「勝俣」さんという人はたしか社長を経験してから会長に就任された方。

フ~ン、「電力会社」ってこういうタイプが出世するんだ!

電力会社の会長さんといえばたいへんなポストで地方に行けば全て地域財界のトップに就任するのが慣例。

たとえば現在の九経連〔九州経済団体連合会)の会長はたしか九州電力の会長のはずで常に指定席。

東京電力でも、かって「木川田 一隆」さん(元経済同友会代表幹事)という人がいて哲学的財界人として有名だった。

しかし、企業〔株式会社)とはいいながら「電気」という独占かつ公益事業の第一の使命は安定的供給にあり、セコイ利潤追求の方は二の次、いわゆる「殿様商売」の中で育まれた方々ばかりだろう。

こういう企業風土の中で偉くなった会長さんが後継者に選んだ社長さんだからどうせ似たようなタイプだろうとはおよそ想像がつく。

これまでの人生経験からすると、こういうタイプは頭は抜群に切れるもののとかく守勢に回りがち、”蛮勇をふるう”ということになると腰が及びがちで難局に脆い気がする。

これまで我が世の春を謳歌し、順風満帆の企業に突如押し寄せた今回の大きな荒波。

思わず「疾風に勁草(けいそう)を知る」という諺を思い出してしまった。

ご存知の方も多いと思うが、これは中国の「後漢書」の中に書かれている言葉。

激しい風(疾風)に吹かれて弱い草は皆、倒れ伏してしまう。そんな中ではじめて本当に強い草(勁草)の存在を知ることが出来ることから、

「困難や試練に出会って、はじめて人の節操が堅固であるかどうかが分かる」という喩え。

逆に言えば困難や試練に出会ってこそ、はじめて自分の真価が発揮できるという前向きの気持ちを持つことが大切。

昔の中国人は実にいい言葉を残してますね~!

(そういえばこの言葉にちなんで「勁草書房」という出版社があったっけ。政治、経済、法律の勉強を少しでもかじったことのある人なら覚えがあるはず。)

もちろん、一介の市井の徒が口幅ったいことを言える身分でもないし、その資格もないが、こういうときこそトップの資質が問われますよ~。

今からでも決して遅くない、がんばれ、清水社長さん!


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