「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

「将棋と囲碁」そして「有料動画配信」

2020年08月30日 | 独り言

去る28日(金)の午後のこと。

いつものウォーキングコースの途上で逆コースを辿るお隣のご主人とすれ違った。

「あれっ、今日は早く会いましたね」と、お隣さん。

「はい、5時から安倍総理の記者会見があります。日本を左右する一大事なので1時間ほど早く出発しました。」

結局、ご存知のとおり辞任会見だった。8年近い任期中、とりわけ外交面で見るべき功績があったように思うが、安倍さん、長いことお疲れさまでした。ごゆっくり静養されてください。

ちなみに、昨日メル友の「I」さん(東海地方)から次のようなメールをいただいた。

「五大全国紙のうちの一つがなかなか思い浮かばず、やっと出てきました。産経新聞でした。

それにしても、昨日の安倍総理の記者会見でも、ちょっと前の河野防衛大臣の記者会見でも、記者の程度の低さにはあきれます。こんな連中が新聞やTV番組を作っているということは、ある意味読者・視聴者が馬鹿にされているようなものです。

アメリカで警官が容疑者?をパトカーに入れるときに後ろから発砲というのは、確かに怖いことではあるけれど、同時に、どういう状況でのことなのか、また、このような事件(白人、有色)の統計的データなど、すべてすっ飛ばしておいて、ヒステリックに報道する。で、そのうちニュースが「ニュー」でなくなると、次のネタ探しに・・・

私も含めて、一般大衆をいかに馬鹿にしているか。

日本には、ジャーナリズムを批評できるジャーナリストはいないのか!

すみません、また、言ってもしょうもないことを・・・。」

同感です!

閑話休題

今や「将棋界」は空前絶後のフィーバー振りといっていいだろう。

言わずと知れた史上最年少にして二冠を獲得した「藤井聡太」八段の活躍に負うところが大きく、もはや「空前絶後の天才」とまでもてはやされている。いわば「スター誕生!」。

勝利後のインタビューにしても、奢ることなく態度や受け答えが実に素直で変に大人びたところもなく、それかといって幼稚でもなくごく自然体の印象を受けるのも人気がある理由の一つだろう。

そういう中、先日の「日本経済新聞」の記事にこういうのがあった。



「三度の飯より囲碁が好き」というタイトルのもと、昨今の将棋界のフィーバーぶりをうらやまし気に見つめている記事である。

改めて「将棋」と「囲碁」の相剋について考えさせられた。

いったいどちらが人気があるんだろう。

仕方なくネット情報に頼ってみると、競技人口は「将棋」が530万人、「囲碁」が200万人とダブルスコア以上の差があるので勝敗は明らか。

次に競技自体の面白さとなると、ちょっと雲行きが怪しくなる。たとえば「囲碁」をする人は「将棋」もできるが、その一方「将棋」をする人で「囲碁」もできる人はごく一部らしい。

というのも「囲碁」の方がずっと複雑で難しいから。成る程、成る程(笑)。

奥の深さからすると「囲碁」の方に軍配が上がるようだ。それに世界的にも「囲碁」の方が認知度が高い。

以前に、日本囲碁界の第一人者「井山裕太」さんと中国の「第一人者」との対局をテレビで観たことがあるが、残念なことに井山さんの完敗だった。大切な競り合いのところで井山さんが逃げるように緩い手を打った。もうガッカリ。さらに韓国にも凄い実力者がいるらしい。

中国、韓国に負けるのは何につけても絶対ダメ!(笑)

日本囲碁界の人気が将棋と比べてイマイチなのも、その辺に一因があるのかもしれない。

続いて、同じ日経新聞の記事にこういうのがあった。

✰ 有料動画配信サービス



今や「コロナ禍」によって人と人との接触が敬遠される一方で、室内で独りで楽しめる趣味が改めて見直されているようだ。

そのうちの一つがどうやら「有料動画配信」のようだ。

記事の文中に「かって映画はテレビに追いやられて斜陽化していった。いま、そのころつくられた作品が動画配信でよみがえり、テレビの大画面を乗っ取るのだから皮肉なものだ。」とある。

人生と同じで業界の有為転変も計り知れないが、我が家では「ひかりテレビ」(NTT系)で37チャンネル契約(時代劇、洋画、ホームドラマなど)しているので「有料動画配信」は必要ないが、もう一度見たいという映画がないことはない。

たとえば、かって「栗原小巻」ファンだったので「忍ぶ川」などはぜひ(笑)

        

そして、大型テレビで観劇とくれば併せて「自宅シアター」として「音響システム」もぜひ整えたいものだ。

これには、なんといっても低音域のド迫力が鍵を握っている。ドド~ン!

1970年代の「オーディオ全盛期」を知る者にとっては昨今の状況は淋しい限りだが、今後のオーディオの生き残る道としてはこの辺にあるのかもしれないですね。

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「シエピ」の前にも後ろにも「シエピ」なし

2020年08月28日 | 音楽談義

去る8月23日(日)付けの日本経済新聞に「日曜版」として次のような記事があった。



日経新聞は経済専門記事が主体だが、芸術方面にも充実した記事が多いように思う。他紙とはどこか一味違う。

政界、経済界、芸能界、スポーツ界など各分野の一流を極めた方たちの「私の履歴書」も毎日必ず目を通しているし、全国五大紙の中では一番好きな新聞だ。

さて、この記事の冒頭に「数多あるモーツァルトの大傑作の中から一つと言われれば、迷うことなくドン・ジョバンニを挙げる。」とあるが、「迷うことなく」という言葉がちょっと気に障る。

たしかに傑作には違いないが、「魔笛」とは”どっこいどっこい”なので、ぜひ「迷って」欲しかった(笑)。

さて、主役のジョバンニを演じる「シエピ」については「チェザーレ・シエピ追悼!」というタイトルで次のようなブログをしたためたことがある。軽く10年以上も前の記事なので大半の方がお忘れだろう。

せっかくの機会なので再掲させていただくとしよう。

7月8日(木)の新聞(朝刊)の片隅に小さく「死亡」の記事が載っていた。

【チェザーレ・シエピ】(イタリアのオペラ歌手)

5日、米南部アトランタの病院で呼吸器不全のため死去。87歳。20世紀を代表するバス歌手の一人。モーツァルトの歌劇「ドン・ジョバンニ」のジョバンニが当たり役だった。イタリア・ミラノ出身。~中略~94年に引退。長年、米国に居住していた。



「あれっ、”シエピ”ってまだ生きてたんだ!」というのが率直な実感だが、昔から彼のジョバンニ役には”ほとほと”魅了されており今でもその思いは変わらない。

女性は「アルト→メゾソプラノ→ソプラノ」と順に高い声になっていくが、男性の場合は「バス→バリトン→テノール」の順になる。

記事には「バス歌手」とあるがおそらくバリトンに近いバスなので厳密に言うと「バス・バリトン」ではないかと思う。

この記事に接し、はるか東洋の一ファンとして稀代の名歌手にささやかだが哀悼の意を捧げよう。

モーツァルトの音楽はすべて素晴らしいが、取り分け「オペラ」にこそ本領が発揮されていると断言していい。

生涯に亘って沢山のオペラを作曲したが、結局三大オペラとされているのが、作曲年代順に「フィガロの結婚」「ドン・ジョバンニ」「魔笛」。さすがにいずれも甲乙つけ難しの傑作ぞろい。

「フィガロの結婚」は当時の領主の初夜権を風刺し「単に貴族に生まれたというだけで特権を振るうのはおかしい」という反社会的な要素を含有したオペラ。モーツァルトの反骨精神と相反するような美しいメロディが随所に展開される傑作。

「魔笛」はもう言わずもがな。

そして「ドン・ジョバンニ」。2時間50分ほどに及ぶ大作。

スペインの貴族で稀に見る色事師の「ドン・ジョバンニ」が放蕩の限りを尽くし、最後まで己の所業を悔い改めることなく地獄の劫火の中に落ちていくというストーリー。

とにかく、このジョバンニさんは生まれ故郷のスペインでは、1,003人、イタリアでは640人、ドイツでは231人・・と、うら若き乙女からお婆ちゃんまで相手構わず手を出すのだから凄い。(従者レポレロのアリアの中で高らかに謳い上げられていく)。

オペラの劇中でも夜中に貴族の令嬢の家に忍び込んで父親を殺害したり、結婚直前の村の乙女にもちょっかいを出したりとやりたい放題。

女性にこまめだったモーツァルトはこのジョバンニに自分をなぞらえていた節があり、まるで自分が主人公になりきったかのごとく没頭して作曲したといわれるほどの渾身の力作。

次から次に間断おくことなく生身の人間讃歌(?)が飛び出してくる。モーツァルトの音楽の表現力の凄さを極限まで悟らせる作品と言っても過言ではない。

謹厳実直なベートーヴェンが音楽の素晴らしさは別にして、この不道徳な筋書きのオペラを「あの尊敬するモーツァルトが作曲するなんて」と怒り狂ったというのはホントの話らしい。

しかし、モーツァルトのほうがはるかに人間という生き物を知っていた。そうでないとあれほど人間心理を抉ったオペラの作曲はできない。

現在、手持ちのCDは4種類。いずれも3枚組。

    
        1       2       3       4

 フルトヴェングラー指揮、ウィーン・フィルハーモニー
  1953年録音(モノラル)、ザルツブルク音楽祭実況録音
  ドン・ジョバンニ役 → シエピ

 ヨーゼフ・クリップス指揮、ウィーーン・フィルハーモニー
  1955年録音(ステレオ)(原盤:デッカ)
  ドン・ジョバンニ役 → シエピ

 リッカルド・ムーティ指揮、ウィーン・フィルハーモニー
  1991年録音(ステレオ)(原盤:EMI)
  ドン・ジョバンニ役 → ウィリアム・シメル

 ダニエル・バレンボイム指揮、ベルリン・フィルハーモニー
  1992年録音(ステレオ) (原盤:エラート)
  ドン・ジョバンニ役 → フェラシオ・フルラネット

久しぶりに、これら4枚をそれぞれ聴いてみた。

自分の思うところCDの音質の順番は4→3→2→1、ところが、好きな演奏の順番は1→2→4→3でやはりというか、改めて確認したようなものだった。

あえて言わせてもらえれば「ドン・ジョバンニ」はフルトヴェングラー指揮のものでまず
決まり。何といっても実況録音というのが利いている。

フルトヴェングラーはこのドラマティックで人間臭いオペラの指揮をさせたら天下一品。一方で「魔笛」のような絵空事の「おとぎ話」にはまるで向かないタイプ。

要所だけと思って聴きだしたが、途中で止めるのが惜しくなってとうとう最後まで一気呵成に突き進んでしまった。

クリップス指揮盤も素晴らしい。演奏もいいが録音の年数がフルトヴェングラー盤と2年しか違わないのに音質がはるかにいい。デッカ盤恐るべし。

そして、これらの盤はいずれも
ジョバンニ役がシエピなのが決め手。稀代の色事師にふさわしく自信満々で野性味があって野太い声が実にピッタリはまっている。劇的な表現力は言うに及ばず。

このシエピに比べると、
のジョバンニ役は好演だがいずれもちょっと上品すぎて線が細く、遠く及ばない。まるで草食系男子だ。やはりジョバンニ役は肉食系でなくては始まらない。

シエピの前にも後ろにもシエピなし!

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「焼酎+カボス」の季節になりました

2020年08月26日 | 独り言

一般的に家庭で音楽を聴くときには多少のアルコールが入った状態の方が気持ちよく聴けるように思っている。

電気回路を通した音は所詮、生の音とは違う。

そこで、上質なオーディオとはいかに人間の耳(脳)をうまく騙してくれるかに掛かっているが、相呼応して人間の脳も騙されやすいようにアルコールでもって程良く下地を作ってあげると「壺中の天地」の境地となり高価なシステムなんぞはもう要らないようになる(笑)。 

そういえば、先般ご紹介した「素敵なオーディオ愛好家」(2020.8.4)の「W」さん(東京)のメールにも次のような一節があった。

「夜は飲みませんが、缶ビールはお昼の潤滑油としてつきものです。
オーディオルームにはバーボンウィスキーのポケット瓶は常設です。

大して量はいかないのですが、無いと寂しい感じです。朝はバロック、クラシック、昼は女性ボーカル、夕方はジャズという大まかな1日の流れです。」



まったく快適な「音楽人生」を彷彿とさせるようで、実に素敵ですねえ(笑)。

我が家でも午前中はクラシック主体、午後はテレビ録画の鑑賞、夕方以降はジャズ・ポピュラー、演歌といった流れだが、肝心のアルコールは持病持ちとあって晩酌だけにとどめている。

それも季節によって種類を変えており、1月から初夏にかけてはウィスキーのお湯割りを、8月から12月頃までは麦焼酎にしている。

大分で麦焼酎とくればカボスが付きものですよね(笑)。

我が家でも猫の額ほどの広さの庭で玄関側には小振りの「種無しカボス」を、裏庭側には「カボス」と、2本植えている。

そして8月頃から大きくなったカボスを採ってきて麦焼酎に絞り込んでせっせと愛飲している。



毎年のように焼酎の銘柄を変えているが、今年は「西尾」(20度)に決定。

ところで、カボスは大分県の特産品としてまさに県を代表する顔となっており、イメージアップにも随分貢献している。

たとえば、日銀や東京、大阪などに本社のある企業の支店長さんが任期を終えて大分を離任するときに「カボス大使」になっていただき今後とも大分県をよろしくということで送り出している。


弱小県ならではの工夫とイメージアップ戦略を展開しているが、収穫時期が8月~9月と限られているため、年間を通して出回らず全国展開にはなかなか苦労しているようだ。

一県民としてカボスの宣伝に一役買いたいが、これといったセールスポイントがないのが残念。高齢化社会となり、健康ブームなので、ガンによく効くとか新しい効能が発見されると起死回生の妙薬となりそうだが・・・・・・。

ネット情報によると、カボスの薬効は次のとおり。

「カボスにはビタミンCが多く含まれています。 ビタミンCはコラーゲンを合成し、皮膚や骨、血管を丈夫に保つ働きがあるため、シミを防ぎ美肌に役立ちます。

また、強い抗酸化作用により、動脈硬化や心筋梗塞を予防します。
カボスの酸味は「クエン酸」によるもので、疲労物質である乳酸を分解し疲労回復を早める働きをしてくれます。」

最後に、「カボス」の語源として豆知識を一つ。

皮を刻んで 、蚊いぶしに用いたことから「蚊いぶし」がなまって「カブス」になり、カボスはその音転である説が一般的。

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さて、どう料理しようか・・

2020年08月24日 | オーディオ談義

前々回の記事「どうにもとまらない」からの続きです。

オークションに出品されたJBLのスピーカーに触発されて「にわか仕立て」で組み上げたJBLの2ウェイ(D123+175)システム。



さて、どう料理しようか・・。まずはネットワークの設定、そして駆動するアンプの選択などいろいろと工夫が要りそうだ。

これは「頭の体操」にもってこいですね(笑)。

そういえばつい最近購入したのがこの本。



ちょっとした合間を見つけてはこのドリルに取り組んでいるが、ときどき手強い問題があったりしてなかなか根気が要る。たとえば一例を挙げるとこういう問題がある。

左端から順に言葉を連想していき右端の言葉につなげてください。

「コップ」→「  」→「  」→「  」→「チーズ」

最後の言葉から逆に連想するのがコツだが、こういう問題だけでも60題ある。

頭の回転、集中力と忍耐力を養うのにもってこいの本だと思うので「高齢者」にぜひお薦めします~。

さて、オーディオの話に戻って、参考事例として挙げられるのはいまだに人気が高い同じJBLの「ランサー101」。



これも同じ2ウェイ方式で「口径35.5センチのLE14A+175」の組み合わせとなっており、「175」という同じ共通項のもとに肝心のクロスオーバーは1000ヘルツに設定されているので、この辺りがポイントだろう。

そこで、マッチングする手持ちのコイルとコンデンサーを調べてみると次のとおり。



左が「サンガモ」のコンデンサー「10μF」で周波数早見表によると「2000ヘルツ」あたりでローカット(-6db/oct:8Ω)できる。

右が「SOLO」の銅箔コイル「1.2mH」で周波数早見表によると「1000ヘルツ」でハイカット(-6db/oct:8Ω)出来る。

両者とも数値がピッタリとマッチングしないが、このくらいの差は大勢に影響がないので強引に行くとしよう。

問題はアンプの選択になる。

はじめに、2000ヘルツ以上を受け持つ「175」用のアンプとして、「6A3シングル」と71系の「071シングル」を試してみたところ、切れ味の鋭さは前者が優り、後者は穏やかで長時間聴いても疲れないところが気に入った。ヴァイオリンも随分柔らかくなる。

やはりJBLの「075」や「175」系を鳴らすのは「71系アンプに限る」とは我が家の見解だ。

そういうわけで結局「071シングル」を選択。



球の構成は前段管が「A411」(ヴァルボ)、出力管は「071」(ARCTURAS)、整流管は「OK-X213」。持ち主が言うのも何だがいずれも滅多に手に入らない古典管ばかりだ(笑)。

次に、およそ「1000ヘルツ」以下を受け持つ「D123」を駆動するアンプの起用だが、このところあまり出番に恵まれない「2A3シングル」と「6098シングル」を比較してみた。

「D123」の能率は「98db」と比較的高いので小出力アンプでも対応できるので助かる。ちなみに小型フルレンジの「LE8T」は「89db」だからずいぶん違う。

両者を聴き比べた結果、低音域の沈み込みと分解能において僅かに「6098シングル」が優っていたのでこれに決定。



球の構成は前段管がSTC(英国)の「ECC35」(=CV569=6SL7)、出力管はタングソルの「6098」(=6AR6)、整流管は「6BY5GA」。

「6098」(初期版)はウェスタンの「350B」の流れを汲む軍事用のレーダーに使われていたもので、5極管だが「3極管接続」にすると、名管「PX4」と同じ周波数曲線になるということで、特別に組み立ててもらったもの。ボリューム部分は後日、「クラロスタット」式に変更してもらっている。

実はこのブログの最後の校正をしている時点でシステム完成後3日ほど経過しているのだが、その間1度も他のスピーカーに代えようという気が起らなかったほど、実にバランスが良い。

結局、このJBL「2ウェイ方式」と「グッドマンのトライアクショム」の二者択一になるわけだが、両者ともにそれぞれに独特の持ち味があってどちらかに一方的に軍配を上げるわけにはいかないようだ。

強いて言えば、今年の猛暑の中では「スカッとした爽やかさ」が欲しいので「JBLサウンド」を、秋から冬にかけては静かに物思いに耽るのに適した翳りのある「グッドマン・サウンド」の出番ということになるのでしょう。

選択肢が増えたので今回の実験は大成功だった。

とまあ、自分で勝手にそう思っていれば世話はないですけどね(笑)。

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人の心を測る技術

2020年08月23日 | 読書コーナー

「測る技術」(ナツメ社刊)、そして「ものをはかるしくみ」(新星出版社)と相次いで、「測る」という事柄に焦点を当てた著書に巡りあった。

       

「測る」
作業は縁の下の力持ちのようなもので、日常ではあまり人の意識に登場することはないが「文明は測ることから始まった」という。

これは、はるか昔に住まいを建てたり農作物などを交換し始めた頃から発達してきた人間の知恵であり、現代の科学的計測技術も人類の永年にわたる叡智の結晶の一つ。

近年では、スーパーなどで包装されたパック販売がほとんどのため「測る」という作業を具体的に目にすることが減ってきたが、「測る」ことを抜きにして現代の文明は成り立たない。

それに「必要は発明の母」という言葉があるが、これまで測ることのできなかったものを測る方法が次々に考え出されている。

これは長さ、質量、密度、体積など全ての量にいえることで、化学、物理学、電気工学など様々な分野の研究を広げ、進歩の速さもさらに加速している。

おかげで最近では「人の心」を測ることさえ、少しずつではあるが現実のものとなりつつあるという。

心を読み取る鍵を握るのは、「人間の脳波」だそうだ。

脳には多くの神経細胞が存在し、細かな網のようなネットワークをつくりあげているのだが、脳が何らかの働きをすると、この神経細胞に電気信号が流れ、頭皮上に電位変化があらわれる。

これが「脳波」である。

人間がリラックスしているときに脳がα波を出すことはよく知られているが、脳波は人間の精神状態や喜怒哀楽といった感情によってある一定の変化を起こす。

こうした脳波の変化を類型化していくと、脳波から感情の変化がわかり、その人の心の変化でさえも読み取れるようになるという。

この、技術については、犯罪捜査やメンタルケアなどでの活用が期待されているようだが、使い方を間違えると、人の心の中に土足で踏み入る危険性を孕んでいる。

古来、人の心の奥底は解明できない深い闇の部分として、人類が限りなく繰り返してきたドラマや芸術の主要なテーマともなっており、いわば数値では計測できない最後のミステリー・ゾーンである。

たとえば「ブルータス、お前もか」といって殺されたシーザー、日本の戦国時代なんて部下が主君を裏切る話がごまんとある。

織田信長は本能寺で明智光秀に討たれたし、徳川家康の父だって部下から殺されている。天下分け目の「関が原の戦い」では小早川秀秋の寝返りが一因となって東軍の勝利となった。

また、次元はやや異なるが、自分の心の奥底を隠して「本音と建前」を使い分けることにしても、人とのコミュニケーションにおいて周囲との不必要な軋轢(あつれき)を避けるための高度な人間の知恵ともいえる。

この辺はコンピューターがいずれ人間の知性を凌駕できたとしても、最後まで及びそうもない分野だろう。

したがって、「人の心」はできるだけそっとしておきたい領域であり、あまり「進歩して欲しくない技術」なのだ(笑)。

脳波の計測器をつけて上司と部下が、あるいは男性と女性が会話をするなどということはあまり想像したくない光景である。

従来どおり、表情や素振り、声音などによって相手の心理を洞察するほうがずっと豊かな人間生活のように思えて仕方がない。

とはいえ、人の心を読み取るのが不得手で気の利かない自分がそんな偉そうなことを言う資格はさらさら無いのだが(笑)。

そういえばオーディオでも部屋の一定の聴取位置で周波数の測定ができる機器があるようで、もちろん参考にはなるが最後の決断の拠り所は長年聴き馴染んだ「耳」に頼るしかないと思っている。


最後に豆知識をひとつ。

☆ マラソンの「距離」「タイム」はどのように測るのか

まず距離の42.195kmの方は「自転車計測」が主流の計測方法になっている。

その方法は、検定を受けた3台のメーター付き自転車に「自転車計測員」という人が乗り、道路の縁石から一定の距離の場所を走っていく。

そして、この3台の計測結果の平均値を使用する。その誤差が、0.1%以内(つまり42m以内)であれば、公式のコースとして認められる。

次に、タイムだが靴にあらかじめ取り付けられた「チャンピオンチップ」というICタグによって行う。

これは500円硬貨大のプラスチックで作られている、重さ数グラムの小型発信器チップで、靴にチップを装着したランナーがカーペット状のアンテナを通過すると、アンテナから発射された電波によってチップのナンバーをすばやく読み取り、その瞬間の時間をコンピューターに記録する。

このシステムの登場によって、従来計測されていなかったスタートラインの通過時間や5キロメートル、10キロメートルなど各地点の通過タイム(スプリットタイム)、フィニッシュタイムが瞬時に計測されるようになった。

東京マラソンでは大会事務局から貸し出されたICタグを選手が靴につけて走ることで3万人のタイムが精確に計測されている。

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どうにもとまらない

2020年08月21日 | オーディオ談義

その昔、「山本リンダ」という可愛くてどことなく憎めない舌足らずの歌手がいたが、彼女のヒット曲に「どうにもとまらない」というのがあった。

今回はその「どうにもとまらない」というお話。

さて、「オーディオ愛好家」の定義といえばいろいろあるのだろうが、そのうちの一つに「ネットオークションに常に注目していること」が挙げられるのではあるまいか。

現有のシステムにどんなに満足していようとも、常に「隙」あらばもっと「上位の音」を狙いたいという姿勢の証がネットオークションへの拘泥というわけで、
もちろん「隙」というのは「お値段」のことを指す(笑)。

したがって、自分の場合「オーディオ愛好家」を自負しているので、常に真空管、アンプ、そしてスピーカーの分野の「掘り出し物」のチェックはおさおさ怠りないし、特定の好ましい出品者の場合には「アラート」に組み込んでいるので、新規出品をメールで教えてくれる。

そして、このほどそのうちのある業者から出品されたのがJBLの「L88ノヴァ」というSPだ。

随分昔のSPだが、あの伝説の音楽評論家「瀬川冬樹」さんが「ステレオ・サウンド」誌で「さすがにJBL、本格的な低音が出る」として絶賛されていたことを想い出した。



オークションの解説(抜粋)を紹介してみよう。

1978年に発売されたJBLのヴィンテージ・スピーカーでウーファーとスコーカーにアルニコ・ユニットを登載した3ウェイ・3スピーカーです。

 使用ユニットは、低域は30cmコーン型アルニコ・ウーファーの123A-1、

中域は12.5cmコーン型アルニコのLE5-2、高域には3.6cmのツイーターLE25が搭載されております。

スピーカー端子は極太線、Yラグ、バナナまで幅広くご使用頂ける、ターミナル端子に交換致しましたので、お好みのスピーカーケーブルでお愉しみ頂けます。

スタッフからの一言・・

最近のJBLはJBLらしい音がしない....ジャズを聴くなら昔のJBLの方が良い.....
JBLサウンドという言葉があります....

生の音に限りなく近いリニアリティの良さ、艶があり包み込まれるような空気感を伴った音質はとても魅力的です。
その抜群の気持ちの良いメリハリ感のあるサウンドが特徴的なアルニコ・サウンドです。

以上のとおりだが、発売当時はたしか「2ウェイ」だったはずで、その後3ウェイに変更された模様。

まあ、今さら購入する気はさらさら
ないものの昔の「JBLサウンド」に対しては大いに気をそそられるものがある。

英国のグッドマン系は「いぶし銀」のような奥ゆかしさを感じるが、アメリカのJBL系は陽気でスカッとした爽やかさを感じる。

我が家にもJBL系は小振りながら1システムあり、その日の気分によってSPを選択できるのは実にありがたいが、そういえば我が家には口径30センチのJBL「D123」が休暇中であることを想い出した。

このユニットに同じJBLの「175ドライバー」を組み合わせて「2ウェイ」で鳴らしたらどういう音が出るんだろう。

「ノヴァ88」をきっかけにして、いったん思い立つともう「どうにもとまらない」(笑)。

現用中のグッドマン「トライアクショム」(口径30センチ:同軸3ウェイ)にまったく不満はないが、もし入れ代えるとなるとこのユニットしかない。

拙ければすぐに元に戻すだけなので、さっそく作業に取り掛かった。な~に、20分もあれば十分だろう。

というわけで、きっかり20分後には左右両チャンネルとも出来上がり~。



グッドマンの専売特許ともいえる「ARU」(背圧調整器)を取り付けた箱でJBLのコーン型ユニットを鳴らすという前代未聞の取り組み結果やいかに~。

ここから例によって我が家独特の悪戦苦闘が始まった(笑)。

以下、続く。

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日常の暮らしの中の左右学

2020年08月20日 | 読書コーナー

昨日(19日)は恒例の定期検診日だったので猛暑の中、午前と午後に分けてお医者さん巡り。

午前中は内科だったが、恒例の血糖値の検査の結果は前回の「HBA1C=7.0」に対して「6.9」と、またもや改善していた。注射を打たないで内服薬だけでこの結果ですからねえ。

改めて、くどいようだがコロナ禍によって「スポーツジム閉鎖」のため仕方なく始めた「坂道ウォーキング」の効果は測り知れないほどで、まさに、「禍転じて福」となる!

「ずっとこの調子で!」と、お医者さんも太鼓判を押してくれた。

この話を「同病相哀れむ仲」の姉(福岡市)にしたところ、「香港在住者の長生きは有名だけど、その原因の一つに挙げられているのはとても坂道が多くて心臓が鍛えられているからだそうよ」。

なるほどねえ。とはいえ、むやみな長生願望も考え物だが(笑)。

話は戻って、「先生、最近左足の親指の付け根が痛いんですが」と言って、実際に靴下を脱いで患部を見せたところ、少し赤くなって腫れていた。


「これは痛風かもしれないよ!最近酒量が増えたということはありませんか?」「いやあ、実はちょっと思い当たります・・」「そうでしょう。これからしばらく飲酒を控えてください。湿布薬を出しておきます。」とのご託宣。

そして、午後は整形外科へ。

ここでも馴染みの医師に「先生、左足の・・・」と患部を見せたところ、「これは痛風ではありませんよ。赤くなっているのは歩行の際に靴と擦れたときの摩擦のせいでしょう。外反母趾で骨が変形しているかもしれませんので念のためレントゲンをとってみましょう。」

その結果、「骨は変形していないようです。だいたい1日どのくらい歩いているんですか?」

「ハイ、1日に1万2千歩くらいは歩いてます」


「そんなに歩いているんですか!えらい健康的ですね。

「はい、“歩かないと死ぬ”という覚悟で歩いてます(笑)。しかし、どうして左足だけ悪くなるんでしょう?」

「歩くときに自然と左側に重心がかかっているせいでしょう。どうしても個人差がありますが、○○さんは極端のようですね。これからは足の形にあった靴を履くことが大事ですね。適切なインナーソール(中敷き)を入れて足の甲を高くすると負担が少なくなりますよ。」        

「ハイ、わかりました」

それにしても、同じひとつの身体なのに左と右とでどうしてこうも重心が違うのだろうか。

ふと、ずっと以前に「左と右の違い」についてブログで薀蓄を傾けた記憶が蘇った。大半の方が忘却の彼方だろうから、以下、再掲してみよう。

私たちの日常生活の中であらゆる場面に影響を及ぼしている「左」と「右」との区分。

日頃、当たり前のことと受け止めて特に意識することはないが改めてその意義に気付かせてくれたのが次の本。
 

                 

著者は「小沢康甫」(おざわ やすとし)氏。

民間企業の勤務経験を持つごく普通の方で学者さんではない。個人的な興味のもとに長いこと「左右の探求」を両脇
に抱え込んで「病膏肓」(やまいこうこう)に入られた方である。

とにかくあらゆる分野にわたって「左」と「右」の概念が追求される。たとえば、「衣服の右前・左前」「男雛・女雛の並べ方」「野球の走者はなぜ左回りか」「人は右、車は左」「イスラムの右優越」など。

とても全部を紹介しきれないので興味を覚えた部分をごく一部抜粋してみた。

☆ 語源を探る

「右」 ”口”と”ナ”からなり、「口を使い、手を用いて相助ける意」。のちに”佑”(助ける)が本義となり「右」は単なる右手の意となる。

熟語として「天佑」「佑筆(貴人のそばで文書を書く人)」など。

「左」 工具の意を表す「工」と”ナ”からなる。のちに”佐”(助ける)が本義となる。工具を左手に持って仕事を助ける意。

熟語として「補佐」「佐幕」。

筆者註:こうしてみると我が県のお隣の「佐賀県」という県名はたいへん語源がいい。「賀(祝うこと)」を「佐〔助ける)」とある。それに比べてわが大分県は「滑って転んで大痛県」と揶揄されるのが関の山!(笑)

左右はとかく左翼・右翼のように対立の関係で捉えられがちだが語源をたずねると左右双方から人や物事を助けていく、或いは左右相補ってことが進む点にこそ真骨頂がある。

次に、言い回しの由来を記してみよう。

 左うちわ

安楽な暮らしのたとえ。利き手でない左手で仰ぐと力が弱く、いかにもゆったりしている。そこから差し迫っていない、余裕のある暮らしに意味を通わせた。同様の例として、最も信頼する有力な部下を指す「右腕」がある。

 トラック競技の左回り

現在、陸上競技の競争は「規則」により
「走ったり歩いたりする方向は、左手が内側になるようにする」とある。

根拠は不明だが有力な説が7つほどあって、そのうちの一つがこれ。

男性の場合、「睾丸」の左右のうち左の方が低い位置にあり、心臓が左によっていることもあって重心は左にかかる。走るには重心寄りに、つまり左に回った方が楽。

男性にとって日頃まったく意識しない「睾丸」の左右の違いを指摘されて本当に「目からウロコ」だが、これについては別項の「人体ウォッチング」にも次のようにある。

「睾丸」は一般に左の方が右よりも低い位置にある。大島清氏(生殖生理学)によると、その率は日本人で75%、米国人で65%。

その理由をこう述べる。

大半の人は右利き、つまり左脳優位であり右の挙睾筋〔睾丸を上げる筋肉)を収縮させるので右の睾丸が吊上がり、左側が相対的に下がった状態になる。つまり、左右の脳に差のあることが睾丸の高さの左右差をつくり、歩いても走っても激しい運動をしても、睾丸同士が衝突しないようにできている。

左右の睾丸が重なったりぶつかったりすれば、双方とも傷つく恐れがある。睾丸は精子の製造工場だから、これは由々しき一大事。左右差は子孫を残すための「天の配剤」といえる。

以上のとおり、本書は「左右」学の薀蓄(うんちく)極まるところ、通常まったく意識しない人体の微小な差異にまで及び、まことに新鮮味があって面白かった。

というわけで、自分の場合(右利き)も含めて男性たるものどうして左足に重心がかかるのか疑問が氷解した次第(笑)。

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生き返った真空管アンプ

2020年08月18日 | オーディオ談義

これまで度々書いてきたようにブログを始めてから10年以上にもなり、投稿にかなりの時間を費やしてきたが、その間、残念なことに家族(家内と一人娘)から「もろ手」を挙げて励まされたという記憶がいっさいない。

白眼視されるほどではないが「そんな毒にも薬にもならないことをして」という雰囲気が容易に見て取れる。

そもそもオーディオに興味がないのだから共感してくれないのも当たり前だが、それはそれとしてこまめに情報発信をしているおかげで、自然と仲間も増え有益な音楽情報やオーディオ情報が頻繁に舞い込んで来るのには大助かりだった。

これはもうブログの効用の第一といっていいもので、とても「お金」なんかには代えられない!(笑)

今回はオーディオ情報に関しての実例を挙げてみよう。

以前のブログに搭載していた「レイセオンの整流管5Y3G」について、この記事をご覧になった「北国の真空管博士」からご連絡があった。

「実は私は5Y3Gのコレクターなんですよ。手元には長い年月をかけて収集した希少管がかなりありますが、やはりブランドとしてはレイセオンが最右翼だと思います。とても珍しいレイセオンの4ピラーの5Y3Gを2本持っています。10年かけて1本手に入るかどうかの確率でした。

あなたの記事の画像のレイセオンを拝見しますと、比較的近代のものですね。4ピラーは無理ですが、もっと時代が古くてより性能のいい5Y3Gを持っていますのでお譲りしてもいいですよ。」

古典管マニアの垂涎の的である「4ピラー」、しかも5Y3Gを2本も持っておられるなんてといささか驚いた。と同時にこれは願ってもないお話だが、希少な古典管ともなるとお値段が唯一のネックになる(笑)。

恐る恐る「お値段はいかほどでしょうか?」とお伺いすると「ハイ、あなたなら〇千円でいいですよ。」

ウワ~、うれしい!


めでたく商談が成立して、二日後に到着した「5Y3G」がこれ。

    

左側が現用中の5Y3G、右側が今回ゲットしたもので袴の部分には「ZENITH」(ゼニス)と刻印が打ってある。

プリントではなくて刻印が打ってある球は古典管であることの証明みたいなものだが、これまでの経験で刻印球に駄作は1本もなかったので、まずはうれしい兆候だ。

博士によると、当時(1940年前後)のアメリカの業界は「RCA」が覇権を握ろうとしていた頃で、それに対抗しようとしていたのが「ゼニス」というラジオの組み立てメーカーで、自社では真空管を製造していないため、レイセオンから供給を受けていたとのこと。

したがって、「ゼニス=レイセオン」で間違いなし。

さあ、問題は音である。同じレイセオンでも今回の古典管(以下「古典管」)と比較的近代に属する球(「近代管」)とではどう違うのか。

ドキドキ、ワクワクしながら耳を傾けてみた。

すると、まず音量のレベルが違うのには驚いた。古典管の方が音量が大きて、プリアンプのボリュームを一目盛り落としてようやく釣り合ったほどだった。それに明らかに情報量も多い!

さっそく博士にご注進。「おそらく新品に近いものだからでしょうか、随分と整流能力が高いみたいですね。音量と情報量がかなり違うみたいです。」

「ハイ、何といっても大きな違いはプレートのサイズですね。近代管と比べると古典管の方が一回り大きいはずです。需要が多くなればなるほど真空管メーカーは手抜きをしますから初期バージョンにはどうしても及びません。それに音質もさることながら、しっかりしたツクリなので寿命の方も随分伸びると思いますよ。」

このところめっきり出番が少なくなった「171Aプッシュプルアンプ」だが、出力トランスは「ピアレス」だし、インターステージトランスは「パーマロイコア」だし、素性は申し分なし。こうして選択肢が増えることはまことにありがたい限り。

     

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コンヴィチュニー指揮のベートーヴェン交響曲全集

2020年08月16日 | 音楽談義

つい先日のこと、指揮者10名以上に亘る交響曲第6番「田園」の試聴結果を2回に分けて搭載したところ、さっそく四国のSさんからメールが飛び込んできた。

Sさんは「AXIOM80」の愛好者で80Kgにも及ぶ「バックロードホーン」の箱を自作されて楽しまれており、今年の3月頃から同好のよしみでメールの交換をさせていただいている。



どんなSPユニットも容れる箱次第でガラッと音が変わるし、じゃじゃ馬ユニットの「AXIOM80」の場合はなおさらだ。早く試聴に行きたいのはやまやまだが、例のコロナ騒動で日程が伸び伸びになっている。

我が家の御上によると「当事者はともかく相手方の奥様ともなると、こういうご時世でのお客さんは嫌がられるものよ」という横槍が入ってきてどうにも身動きが取れない(笑)。

一般的な傾向として女性は自主防衛本能が強くて男性と比べてことのほか新型コロナへの警戒心が強いみたいですね。

それはともかく、そのSさんから届いたメールがこれ。

「先日の田園の御記事楽しく読ませていただきました。刺激されて久しぶりにベートーヴェンを聴いています。 

〇〇様の御記事には載っていませんでしたが、コンヴィチュニー指揮 ゲヴァントハウスのベートーヴェン全集お聴きになられたでしょうか。 

まるで室内楽のように均整のとれた澄み切った水の中で泳いでいる魚たちが遠くまで見渡せるような演奏だと思っています。 

ネットで調べてみたらメルカリ(使ったことありませんが)にも出ていました破格の千円台でした。

色々ありますが黒いボックスで背中が緑の6枚セットで左手を伸ばした指揮者の写真(白黒)ドイツ版です。

同じ演奏でも国内版は音が良くないようです。ご興味があれば手に入れられてください。損はないと思います。」

以上のとおりだが、Sさんとは「AXIOM80」という
同類項のよしみで信頼度抜群だ。

たとえば「オートグラフ」を使っている人と「AXIOM80」を使っている人のどちらの耳を信用するかといえばもちろん後者であることは論を待たない(笑)。

丁度、ヤフオクに出品されていたのですぐに落札。



程なくして我が家に無事到着。6枚セットによる「1番から9番までのシンフォニー」の全集物で、1959年~1961年にかけてのスタジオ録音である。モノラルではなくステレオ録音だった。

さっそく1番から9番までずっと通しで聴いてみた。システムはSさんと同じ「AXIOM80」にして、駆動するアンプは「71系シングル」。

周知のとおりベートーヴェンの交響曲の奇数番号は「男性的」、偶数番号は「女性的」な傾向の曲風になる。若いときは前者が好みだったが、人生も後半に入ると穏やかな後者を身近に感じるが、皆様はいかがでしょうか。

それにしても「ゲヴァントハウス」オーケストラだから、いかにもハウス的な小編成のこじんまりとした演奏を予想していたら、どうしてどうして、いかにもドイツ風の重量感のあるオケだった。

コンヴィチュニーさん、なかなかやるじゃんと思わず拍手。特に4番に惹かれた。

そして、とうとう最後の「第九」に行き着いた。こうしてまともに「第九」と向き合うのは久しぶりだなあ。

20代のころは、それこそフルトヴェングラー指揮の「第九」(バイロイト祝祭管弦楽団)に熱中したもので1楽章から3楽章までは人間が作ったものだが、「第四楽章」については音楽の神様が創作したものだと勝手に思い込んでいたほどの耽溺ぶりだった。

今となっては、精神的にくたびれるせいか積極的に聴こうという気にはさらさらなれないのだが、はたしてこれは進歩なのか退歩なのか(笑)。

ところがこの「第九」が想像以上に良かった!

Sさんのお説のとおり、「まるで室内楽のように均整のとれた澄み切った水の中で泳いでいる魚たちが遠くまで見渡せるような演奏」だし、へんに気負ったところが無い演奏にも満足。

Sさん、とても良い全集を紹介していただき感謝です~。

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「ヴァイオリン」と「シンバル」の両方をうまく鳴らしたい

2020年08月14日 | オーディオ談義

オーディオは下手に欲張るととんでもない苦労をするというのが相場である。まあ、苦労というよりは楽しみかもしれませんがね(笑)。

具体的な事例を挙げてみよう。

我が家には4系統のスピーカーがあって、図体の大きい順から勝手に長男から四男までと振り分けているが、長男といえば3個のユニットをいずれも「ワーフェデール」(英国:赤帯マグネット)で占めている「ウェストミンスター」(改)になるわけだが、どちらかといえば「総領の甚六」とでもいうのだろうか。



「総領の甚六」とは、ご存知のように「長子は大事に育てられるので、その弟妹よりもおっとりしていたり、世間知らずであったりする」という。

「賢弟愚兄」という別の呼称もあるほどだが、ちなみに自分は四人兄弟の末っ子なのでこんなことが拘りなく言える立場だ(笑)。


どうも我が家の長兄さんは図体は大きいのだが、小回りが利かないところがあって「のんびり屋」さんの趣があるのは確かだ。

大編成の曲目には無類の強さを発揮するものの、ボーカルや小編成の曲目となると、もうちょっと肌理の細かさが欲しくなる。

それに連動してジャズを聴くときにシンバルの輝きがもっと欲しいなあと思うことが再々だ。

まあ、欲を言うとキリが無いのだが、せめて長男なんだから「クラシックもジャズも両方うまく鳴って欲しい」という宿命をはじめから背負わされている存在といっていい。

言い換えると「専門医」よりも「総合医」を全うしてほしい気持ち。

そこで、満を持して登場するのがJBLの「075」ツィーターである。

「110db」とメチャ能率が高いせいか下手なアンプを使うと音が暴れるなど、一つ間違うと「じゃじゃ馬」になるが、こと「シンバル」の輝きの再生となるとこれ以上のツィーターはちょっと見当たらない。

何しろシンバルがチャリ~ンとうまく響いてくれないとジャズは聴けないが、その一方クラシックの雄ともいえるヴァイオリンにとっては大敵で、耳をふさぎたくなるような響きを出すことがあったりして、まるで刑務所の塀の上を歩くようなもので一つ間違うと内側に落ち込んでしまう恐れが多分にある(笑)。

「擦る楽器」と「叩く楽器」の両者が共存できる「すれすれの接点」を探るのが難しいので、ウェストミンスターにはこれまで「075」を持ってくることを敬遠してきたのだが、「クラシックもジャズも」と欲張ると、重い腰を上げざるを得ない。暑い盛りの中だがめげずに頑張ってみようかな。



箱の中に容れているのは「スーパー12」(ワーフェデール:赤帯マグネット)で300ヘルツ以下(-6db/oct)を「300Bシングルアンプ」で駆動している。

箱の上に載せている「スーパー10」(ワーフェデール:赤帯マグネット)はフルレンジで鳴らし、最高音域を付け足す感じで「075ツィーター」の出番というわけ。

駆動するアンプは「PX25シングル」だが、ポイントはどういうコンデンサーでローカットするかが生命線となる。

いわば江戸時代の農業施策のように「(百姓は)生かさず殺さず」で、その無情ともいえる冷徹な施策を行使する道具がこれ。



左がウェスタン製のオイルコンデンサー「1μF(マイクロファラッド)」、真ん中がスプラグ製の「0.39μF」一番右側が同じスプラグ製の「0.22μF」である。

これらを順次SPコードのプラス線に挿入して聴き比べをしたところ、一番小さな値のビタミンQと称される「0.22μF」でも「075」が強すぎるのには驚いた。ヴァイオリンが時折り嫌な悲鳴を上げるのには参った。



そこで仕方なくマイカコンデンサー「0.075μF」を、片チャンネル2個でパラってみたところ、ようやく落ち着いた。

ちなみに、シンバルのテスト盤は「サキコロ」(ソニー・ロリンズ)の1曲目の冒頭の一撃(マックス・ローチ)である。

フ~ッ・・、これがヴァイオリンとシンバルがどうにか両立できる接点だろう。

まったく冷や汗ものでこの「灼熱地獄」の中、「心頭滅却すれば火もまた涼し」でした(笑)。

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指揮者という仕事~最終回~

2020年08月12日 | 音楽談義

前回からの続きです。

☆ 近代指揮者の誕生

19世紀初頭、次々に画期的な交響曲を生み出していたベートーベンの指揮振りが細かく伝えられている。少し長くなるが引用してみよう。

「彼は様々な身振りをして間断なく忙しかった。ディミヌエンド(次第に弱くなる)を表わすために段々低くかがみこみ、ピアニッシモ(きわめて弱い)では机の下にほとんど腹這うばかりになった。

音量が大きくなるとあたかも奈落からせり上がるように立ち上がり、オーケストラが力いっぱい奏するところに入ると爪先で立って巨人もかくやとばかり大きくなり、両腕を振り回して空に舞い上がるかのように見えた。」


いささか滑稽な様子だが、ベートーベンならさもありなんと思えそうな記述である。ここから読み取れるのは、ベートーベンが拍子の指示だけではなく音楽の表現力を楽団員に意識させることを実践していたことだ。

バトン・テクニックは問題ではなくて、意識は全て音楽に向けられ身体全体で表現を試みており、練習中にもテンポはもちろん細かい音のニュアンスにも気を配り一人ひとりの楽員達と話し合っていたそうだ。

明らかに近代指揮者への道をベートーベンは踏み出していた。

19世紀初頭は指揮の歴史の大きな変わり目であり、その方向を決定付けたのはヴェーバー、メンデルゾーン、ベルリオーズ、ヴァーグナーなどだった。彼らは指揮の仕事が作曲家の考えを見極め、音楽を統一体としてとらえ的確にかつ柔軟に表現する、いわば解釈としてのレベルに引き上げた。

なかでも、ベルリオーズとヴァーグナーは「指揮法」に関する著作を有するが、これは自分の作品が時代を超えて完全な表現を求めた結果の産物だった。

☆ 何故、指揮者がそこにいるのか

オーケストラのコンサートで、ひとりの人間が皆より遅れて舞台に登場し中央に立って挨拶もそこそこに聴衆に背を向けて手にした棒を振り回すという図は改めて見直せば奇妙に思えるかもしれない。

しかも、プログラムや広告でオーケストラの前に必ずその人間の名前が特筆大書されるのはどういう理由だろうか。

自ら音を出さない人間がどうしてそれほど重んじられるのか。果たして指揮者は必要なのだろうか。

アプローチのひとつとして指揮者無しの状態を考えてみよう。

小規模楽団の場合→ヴァイオリンの首席奏者の首の動きで奏きはじめる。

大規模編成の楽団の場合→1922年モスクワで人民が主役の政治という発想から指揮者無しのオーケストラがつくられ、コンサートが行われた。

作曲家プロコフィエフはその主要な難点はテンポを変える点にあると見ていたという。音楽の流れを緩急自在に変化させるのは奏者全員の総意にしたがってというわけにはいかず(到底、間に合わない!)、少なくとも演奏の開始は誰かが合図しなければ始まらない。ちなみに、この団体は1932年に解散したという。

しかし、指揮者の存在は全体の始まりやまとめるだけの役割に過ぎないのだろうか。指揮者次第でオーケストラが一変し聴衆を感動の渦に巻き込むのは何故だろうか。

ここで、シャルル・ミュンシュ著の「指揮者という仕事」93頁~95頁にその大事な回答が示されているので要約して引用しよう

「指揮者は楽員達の意欲を刺激し、音楽が自分の中に生じさせるあらゆる感情を楽員達に吹き込むためにその場にいなければならない。指揮者にはそのために使える重要な手段が二つある。身振りと眼差しである。多くの場合、眼差しの表現は手や指揮棒より重要である。」

「身振りについては柔軟さが大切で右手は音楽を”線で描き”左手は”色彩を与える”ようにして、いろんな動きの中に音楽のニュアンスと同じくらい微妙な差異がなければならない」

「こうやって、指揮者からオーケストラへ伝わる火花、電流、霊気、それにリハーサルで入念に準備された演奏がコンサートの晩を素晴らしいものにする。」

以上の記述で指揮者の存在理由が大体説明できそうな気がするがどうだろうか。

☆ オーケストラ楽員は指揮者に何を期待するか

アメリカで実際にアンケートをとった結果があるのでいくつかピックアップして紹介しよう。

・音楽について際立った解釈をして楽員を奮い立たせること。
・ソロ(単独演奏)が力まないでもはっきり聴き取れるようにオケのバランスをとること
・明瞭なビート(拍子の指示)は基本的な役割
・本番中に事故(演奏者が思わず犯すミス)が起きても気づかない振りをすべき。
・トスカニーニの時代は去ったことを悟るべきだ。芸術上の独裁者は良くない。
・指揮者は最小限の「発言」で意思伝達が出来るように。トスカニーニは実に非凡でそれをバトンテクニックの技のうちに秘めていた。
・リハーサルで奏きそこないがあるたびに冒頭に戻る習慣は、楽員たちの反感を買うだけだ。
・奏者と楽器の両方の能力と限界を知っている専門家であるべき。
・教師であり、指導者であり、最高の専門家であり、そして音楽史上の偉大な作曲家達の最も深遠な思想が通り抜けねばならない煙突である。

指揮者トスカニーニが亡くなって(1957年)60年以上経つが、いまだに言及されていることが興味深い。トスカニーニはその強烈な個性もあっていまだに指揮者の象徴的存在なのだろう。

なお、「指揮台の神々」(ルーペルト・シェトレ著)254頁によると、東京のある音楽大学の入学試験で、「尊敬し模範とする指揮者は?」との設問に対して全員がフルトヴェングラーと回答したそうですよ(笑)。

最後に高校時代の同窓生でカメラマンの「T」君が撮影した「棚田の夕陽」(九州)をご覧になっていただこう。



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指揮者という仕事~その1~

2020年08月10日 | 音楽談義

つい先日の「田園」(ベート-ヴェン)の試聴で二日がかりで10名を超える指揮者の演奏を聴き比べたが、高名な指揮者が必ずしも曲風にマッチしているとは限らなかったりで、相性の良し悪しが実に興味深かった。

クラシック音楽の楽しみは楽譜は同じなのに指揮者の解釈次第でどうにでも味付けされるところにあるが、アドリブ主体のジャズではとてもこうはいくまい。


そもそも、指揮者っていったいどういう役割を果たしているんだろうという率直な疑問が湧いてくる。



「指揮者という仕事」(シャルル・ミンシュ著、春秋社刊)は、指揮者からの視点で自分の仕事を分析したものでなかなか興味深かった。

著者のミンシュは昔ボストン交響楽団を指揮していた高名な指揮者(1891年~1968年)であり、小澤征爾氏の師匠だった人である。

さて、この本を一通り読んで後半にさしかかったところ、この本の翻訳者福田達夫氏が付録として巻末に「指揮者とは何か」と題して一文をよせられていた。むしろこちらの方が分りやすかったのでまとめてみた。

☆ オーケストラにおける指揮者の存在

「悪いオーケストラはない、悪い指揮者がいるだけだ」と言った人がいる。逆説的には「良いオーケストラはない、良い指揮者がいるだけだ」といえる。とにかく指揮者とオーケストラは昔からセットにして考えられてきた経緯がある。

ほんの一例だが、

フルトヴェングラーとベルリンフィル、同様にトスカニーニとNBC、アンセルメとスイスロマンド、オーマンディとフィラデルフィア、バーンスタインとニューヨーク、セルとクリーブランド、ライナーとシカゴ、ミンシュとボストン、ムラヴィンスキーとレニングラードといった具合である。

両者の結びつきの主な理由としては「常任指揮者であれば、楽員の採用も含めてオーケストラの運営に関与し得意とする曲目を繰り返し演奏させることで望む響きのイメージと音楽の解釈を楽員の意識に浸透させているから。」と考えられる。

☆ 指揮の始まり

音楽において指揮することはいつから始まったのか。古代ギリシアでは合唱や器楽のリズムは鉄片をつけた右足で大地を踏み鳴らすことで指示したと伝えられる。

そして音楽の発展とともに全体をまとめるために本格的な指揮が必要となり、ヨーロッパでは、初期中世の教会で、聖歌を歌う際に合唱の長が左手に棒を持ち右手を使って歌手に指示したという。

16世紀から17世紀にかけては声楽的な編成にしばられぬ器楽オーケストラが誕生し全体に目を配る指揮者の役割が一層重要となってくる。

☆ 拍子とりから音楽の指揮へ

この指揮棒はおそらく太く長く重い棒であり、床を打って鳴り響く音で拍子をとってい指揮の歴史を顧みるとき必ず取り上げられる挿話がある。それは指揮棒で一命を落とした音楽家の話である。

17世紀フランスのリュリは国王の病気平癒のための「テ・デウム」を指揮している最中に指揮棒で左足の小指の爪を誤って打つが手当てが悪かったので壊疽になり、一命を落とす。

当時の教会の薄暗い照明のもとでは、指揮棒が見えにくいこともあってやむを得なかったのだろう。ロンドンにおいても同様で舞台上の一隅の席で机をたたいて拍子を取っていた。

しかし、イタリアやドイツでは違っていた。

まず、イタリアでは指揮の仕事をつとめるのは普通二人で、一人は鍵盤楽器(チェンバロ)の席で伴奏とともに歌手を担当し、もう一人はヴァイオリンの首席奏者でオーケストラを取り仕切った。

ドイツ・オーストリアでは鍵盤楽器奏者が指揮を取るのが普通だったが、ヴァイオリンの首席奏者が指揮するやり方も行われていた。

☆ 近代指揮者の誕生

18世紀ヨーロッパ音楽(モーツァルトの時代)の大きな変化は、オーケストラが肥大化したことである。当時(1777年)のウィーン宮廷のオーケストラの編成は次のとおり。

ヴァイオリン15、ヴィオラ4、チェロ3、コントラバス3、管がフルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルン、トランペット各2、これに鍵盤楽器奏者2名と打楽器奏者などで全体で40名前後の規模である。

これだけ大きくなると響きに厚みと色彩が加わり、当然の成り行きで通奏低音の役割を担っていた鍵盤楽器が無用の長物になっていった。かわりに、ヴァイオリン奏者が指揮者の役割を担うようになった。

次の「指揮者とは何か~その2」では己の曲を指揮するベートーベンの詳しい様子を見てみよう。

以下、続く。

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最高の職業とは

2020年08月08日 | 独り言

連日の猛暑の中、昨日(7日)は久しぶりに「紙とインク」の匂いを吸わせてもらおうと図書館へ行ってきた。             

             

例によって雑学大好き人間なのでアトランダムに10冊選んだ。

今回の注目の1冊は、(写真の)上段中ほどの文庫本「銀の匙(さじ)」(中 勘助著、角川文庫)。明治時代に書かれた本である。

この本にまつわる経緯を記してみよう。

ずっと以前のことだが新聞の「死亡告知覧」(朝刊)に次のような記事が載っていた。非常に興味が持てたので切り抜いて保管しておいた。

灘中・高「伝説の教師」

橋本 武さん(神戸市の灘中学・高校の元国語教師) 11日死去 101歳

京都府生まれ。21歳から71歳まで教壇に立ち、小説「銀の匙(さじ)」を3年かけて読ませる独特の授業法で知られ、「伝説の国語教師」と呼ばれた。

以上のとおりだが「未来への豊かな可能性を秘めた多感な若者たちに文学を素材にした授業を50年間に亘って行うなんてとても素敵なこと。こんな仕事にずっと携わっていたら心穏やかに101歳まで長生きできるはずだよなあ!」。

とは、この記事を読んだときの感想である。

文部省が定めた教育課程にしばられない私立学校ならではの実践的な授業だろうが、爾来、教科書代わりになったというこの「銀の匙」を一度読んでみたいものだと思っていたので、今回、図書館でたまたま見つけたときはまったくラッキー!

本書の裏表紙に次のような解説があった。

「書斎の本箱に昔からしまってあるひとつの小箱。その中に、珍しい形の銀の小匙があることを私は忘れたことはない。その小匙は小さな私のために伯母が特別に探してきてくれたものだった。

病弱で人見知りで臆病な私を愛し、育ててくれた伯母。隣に引っ越してきた“お恵ちゃん”。明治時代の東京の下町を舞台に成長していく少年の日々を描いた自伝的小説。夏目漱石が“きれいだ、描写が細かく、独創がある”と称賛した珠玉の名作。」


さて、この「伝説の国語教師」にちなんで、似たような話としてつい思い出したのが“クラシック音楽の化身”ともいえる「五味康祐」さんの著作の中の一節である。

「もし自分(五味さん)が音楽教師なら授業時間のすべてを使って“宗教音楽”を生徒に唄わせる」という“くだり”が、たしか「西方の音」か「天の声」のどちらかにあったはず。

宗教音楽と言えば五味さんの場合に思い浮かぶのは「マタイ受難曲」(バッハ)か「メサイア」(ヘンデル)のどちらかなので、項目を目当てにこの二冊の本をザットめくってみるとすぐに該当箇所が見つかった。
                   

「天の声」の
100頁の中ほどにこうある。(抜粋)

「重ねて言う。(メサイアは)素晴らしい音楽である。私が中学校程度の音楽教師なら授業時間のすべてをこの“メサイア”第二部にあるいくつかの合唱曲を生徒に唄わせ続けるだろう。退職するまでそうして、私は、音楽教師たる天職をまっとうしたと思うだろう。」

はたして自分が選んだ職業が正しかったのかどうか、もっと“やりがい”のある職業が別にあったのではないかと、誰しもが晩年になって思うことだが、地位や名誉、そして金儲けなどは論外として「人の心を揺り動かす」「後世への影響力」という面からすると教育者というのは最高の職業のような気がする。それに、ホンネと建前を使い分けしなくて済む唯一の職業でしょうよ。

「人づくりは国家百年の大計」とは月並みな言葉だが、教育の意義は極めて大きいし、携わる教育者の責任も重大だ。

とはいえ、ネットでは「先生によるトイレでの盗撮」「覚せい剤の使用」「先生同士のいじめ」など、この種の話は後を絶たない。

ごく一部なんだろうけど、やれやれ!(笑)

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メーカーの技術を信頼する人、しない人

2020年08月06日 | オーディオ談義

作家の村上春樹さんによると「世の中には2種類の人間がいます。カラマーゾフの兄弟を読んだことのある人と読んだことの無い人です。」とのことだが、ものごとを二分法で単純化すると非常にわかりやすいですね。

これをオーディオに当てはめてみると「世の中には2種類のオーディオ愛好家がいます。メーカーの技術を信頼する人と信頼しない人です」(笑)。

つまり、メーカー既成のシステムを後生大事に守り続ける「オリジナル守旧派」と、それに飽き足らずに「自作したり改造する派」に分けられるというわけ。

これはあくまでも経験から踏まえた推定値だが、その比率となるとおよそ「7:3」ぐらいかなあ。メーカーの技術を信頼する人が圧倒的に優勢だと思っている。

そして、その劣勢の3割の部分に与しているのが我が家のオーディオである。それもアンプに留まらず、スピーカーの分野まで及んでいるのだから何をかいわんや(笑)。

なにしろ現在活躍している4系統のスピーカーとも、すべてオリジナル仕様を変更しているので典型的な「メーカー不信派」に属しているといえるだろう。

もちろん胸を張って自慢できるような話ではないので念のため。

これまで「スピーカーだけはメーカーの技術を信頼してできるだけ弄らないようにしています」という声を聞くことが度々あったし、ずっと以前にも、とある熱心な愛好家(関西)から次のようなご忠告をいただいたことがある。ちょっと長くなるがご紹介しよう。
                                   

「オーディオに日夜努力されている〇〇さん(自分のこと)には、非常に言いにくいのですが、今回のブログを拝読して私は次のような感想を抱きました。

メーカー既成のSPシステムをいじってユニットを入れ替えるのはあなたの趣味ですから仕方ありません。

また、あまり器用でないため怖さのあまりメーカー既成のスピーカーシステムを触(さわ)りきれないでいるブログ読者のために、実験して公開してくださるのですから読み応えはあると思います。

しかし、私は日頃から一流メーカーの技術屋さんには一目も二目も措いております。簡単に改造しようとはとても思いません。たしかに中には、ひどいメーカーもありますが、それは時が自然淘汰してくれているように思います。

ここで、「一流メーカー」の定義についてちょっと補足しておきますと、名前だけで有名なだけなのか、真に一流なのかという点については世間が名器とし(名曲と同様に)、自らの感性で名器と判断したメーカーの技術屋さんという意味ですから、念のために申し添えておきます。

ちょっと話が逸れますが私は『情熱の真空管アンプ』の著者「木村 哲」氏のホームページの文章に心から賛同しています。

結局は、(聴く人間に)「美的感受性」がなければ高額なオーディオ装置を手にして高いから素晴らしい音がする、程度のマニアになってしまうと思います。

長い文章ですので別添資料としますが、趣味の奥深い到達点の本質、根本をついていると思いますのでぜひご覧になって参考にしてください。

(該当箇所は、”私のアンプ設計マニュアル雑学編”「19良い音のアンプやオーディオシステムを実現するには」です。) 

とにかく、繰り返しになりますが私は明らかにコストダウン目的と考えられるもの以外は改造しないことにしています。(特にスピーカーシステム)

スピーカー・システム(五味康祐氏は特に一体であることの意味を込めてスピーカー・エンクロージャーと謂ってます)は、スピーカー+音響設計+木工技術=スピーカー・エンクロージャーと考えております。

(昭和54年発行の”TANNOY”(ステレオサウンド)の五味康祐氏の”わがタンノイオートグラフから"はその意味でたいへん賛同できる文章です。)        

したがって、メーカーが自信を持って世に送り出した製品はもう再来などあり得ないわけです。もし、あるメーカーのスピーカー・システムの音に賛同出来ないのであれば、自作設計し自分の理想とするものを追求すべきでは、と思いますが。」

以上のとおりだが、いやあ、まったく「ご高説」のとおりです。

こういう直截かつご親切な提言をいただくと、まことに清々しく、ありがたく、いたく感じ入ったことだった。

自分のブログは机上の空論が嫌いなのでひたすら「リアリティ」をモットーにしているのは日頃からの読者ならお気づきのとおり。

実際に見聞し、体験し、感じたことをありのままに文章に移し替える作業をしているだけだが、中にはこうして個人の「美的感受性」にまで言及したうえで、メーカーの意図をきちんと思いやり、尊重する「ご意見」もあるわけだ。


いくら個人的な日記風の「ブログ」とはいえ、公開する以上はある程度慎重にならねばとつくづく感じたことだった。

とはいえ、「ブログは当たり障りのないことを書いてもちっとも面白くありませんよ。たとえ常識外れの低次元のことでも自分の信念のもとで思い切ったことを書かないとあなたの個性がうまく出せませんよ」という別のご意見もあることもこれまた事実である。

ウ~ン、なかなか世渡りが難しい(笑)。


また「高額なオーディオ装置を前にして、”高価だから素晴らしい音がする”程度のマニア」とは、これまた実に手厳しい表現。

こういう言葉を聞かされると、音楽好きではない人間が見てくれだけの高級装置の前で自慢げにしているのを見聞すると、その人物まで何だか卑しく見えてくるから不思議だ。

そういえば「粗にして野だが卑ではない」(石田礼助氏)という名言がある。


しかし翻って「お前はどうなんだ?」と問われると、若かりし頃に脛に傷を持つ身としてあまり偉そうなことは言えない(笑)。

そこで冒頭の命題の件に戻るとすれば、「メーカーの技術を信頼しない」というよりも「メーカーの技術以上にいい音を出して見せる」という気概を持っているとだけ言い訳させてもらおう。

と、ここで締めるつもりだったが
「九仞の功を一簣に虧く(キュウジン ノ コウヲ イッキニ カク)」ことが起こった。

昨日(5日)のこと、ツィーターの選別に迷ったので次男坊にあたるグッドマンの「トライアクショム」(口径30センチ同軸3ウェイ)を久しぶりにオリジナルのフルレンジに戻して聴いてみたところ、これまでの3ウェイで聴いていたときよりもずっとバランスがいい! 

駆動したアンプは「PX25シングル」で同じイギリス勢のせいか相性がとても良かった。このアンプは整流管を「WE422A」(1957年製)にしてから見違えるほど元気溌溂になって連日うれしい悲鳴を上げている。



ギャフン、ツィーターなどの要らんものをくっつけて逆に音を悪くしていたのはどこのどいつだ!(笑)

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素敵なオーディオ愛好家

2020年08月04日 | オーディオ談義

オーディオ愛好家にとって一つや二つぐらいは「どうしても忘れられない音」がきっとあるはずだと思っている。

そこで、つい先日のブログで広く募集させていただいたところ、東京都青梅市にお住まいの方からメールをいただいた。仮にWさんとしておこう。

この拙いブログを毎回ご愛読されているそうで、もし何がしかのお役に立てているとすれば、筆者にとってもこの上ない喜びです。

何しろ、(このブログを)「読んでやる」という高姿勢の人が圧倒的に多いですからね。癪に障るけど(相手を)選別してのブラインドは無理だし、ま、いっか(笑)。


それでは、差支えない範囲でブログ投稿へのご承諾を得たので以下のとおり紹介させていただこう。

「ブログを約2年前の2018年9月ごろから拝見し、楽しく勉強させていただいております。

私はWと申します。東京都青梅市というコロナ禍の新宿区歌舞伎町とはほど遠い、多摩川の比較的上流で、水も空気も電気も澄んできれいな環境で楽しく暮らしております。

現在62才で、仕事は民間を56才定年卒業後⇒民間、国の非常勤職員、市の非常勤職員で週に4日を消費生活相談員をしております。

元々、企業の消費者相談部門の仕事が長く、クレーム対応を
しておりましたので(廻りは嫌がる仕事でしたが)、その延長で何とか仕事を続けることができており、今ではクレーム発生元のいわくつきの業者が多数存在していることに薄謝しております。

ところで、2年前にタンノイモニターシルバー15インチの2個セットを幸運にも手にすることができました。



なじみの悪店主にそそのかされて、サラリーマンでしかない私と十分知っていながら、
マランツ#7の1万4千番やらタンノイの英国オリジナルコーナーヨークなど、良い物だと見て分かる品物を見に来い、見に来いと誘因します。悪い業者ですが店舗注文の場合は、クーリングオフ規定は使えません。

今回のモニターシルバーは、既に同SPユニットをお持ちの千葉のお医者様が、店主を通じて英国からオリジナルオートグラフの愛妻を迎え入れた際に、箱は欲しいが邪魔になった子供は要らぬと、お金持ちは下々の迷惑は顧みず、私に引き取らせた次第です。

その後は、箱を探してもらいましたが良いものがなく、私が半年後にオークションでアメリカタンノイのウインザーGRFを見つけ、店主にSPユニットを入替てもらいました。

ところが、ウインザーGRFinモニターシルバーは高域のある帯域にきついアクセントがあり、ヴァイオリンの高い音域がキーキーと金属音が出てしまい、いわゆるいぶし銀の音かとは思いましたが、納得できませんでした。

当時マークレビンソンと予備のクレルのプリ・パワーでしたので、その帯域をいなすようにしながら、倍音の鮮烈さは残したく、再び球のパワーアンプを探していたところ、ヴィンテージオーディオブログの「音楽&オーディオの小部屋」に辿り着きました。

そこでは8月頃に、テレフンケンRS289が凄いアンプだと紹介されていました。1942年製のナチスドイツの送信用真空管に惹かれて、10月過ぎに板橋商会さんに問合せをし、借りて視聴したところ返せなくなりました。

私の実家は新潟県の魚沼米のコメ作り農家で、次男のため東京さ出てきてつい居ついてしまいました。

製作者は同じ
新潟県六日町のチューブオーディオラボという個人メーカーと聞き、オーナーのKさんにお会いし、人柄にも製品にも惹かれました。

私は単線好きで銀線好きなのですが、ヴィンテージ半田で配線が単線だと聞き、購入をお願いしました。

アナログ盤命で、クラシック6>ボーカル2>ジャズ2を、12畳弱の寝室兼用の洋室で楽しんでいます。 

女性ボーカルは、ジョーンバエズが好きでよく聞きます。

部屋のサイズからベストなSP1台を選び、複数の音楽ジャンルを聞くため、色気+鮮烈+質実剛健+音場感を求めています。

そのためにはオーディオはメカトロニクスの総合力なので、拘りは設置時の防振強化、電源強化、部屋の音響づくりですが、最終的に求める音像と音場感を追求すると、音の良いオリジナルアナログ盤にはどうしてもかなわないので、越えられない壁を感じております。

オーディオは17才のときバイトでプレイヤーなどを1つづつ購入していったのが始まりで、音楽は中学生のころ聞いたカーペンターズのスーパースターやヘドバとダビデのナオミの夢なので、これまでが長いです。

文が少し長くなりすぎましたので、中途ですがまた送ります。

本日メールをお送りしたのは、上記のテレフンケンRS289を知るきっかけが主さまのブログでした。遅くなりましたが、お礼を申し上げたいと思います。ありがとうございました、やはり良いアンプです。」



これに対し以下のとおり返信。

「メールありがとうございます。また拙いブログに目を通していただき感謝です。

毎日飽きもせず音楽、オーディオ、読書などに明け暮れていますが、こうして見知らぬ方とやり取りができるのも楽しみの一つです。

わたしの記事が参考になれば幸いですが、「RS289」アンプは凄いアンプでしたがお値段が折り合わず涙を呑みました。正直
うらやましいです。



スピーカーを始め、何から何まで超一流の製品を使われ、さぞやいい音が出ていることでしょう。近隣に在住していればいの一番に駆け付けるのですが残念です。

今後ともどうかよろしくお願いします。

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