「音楽&オーディオ」の小部屋

クラシック・オーディオ歴40年以上・・身の回りの出来事を織り交ぜて書き記したブログです。

南スコットランドの粋人「ウマさん」便り

2024年04月14日 | ウマさん便り

南スコットランド在住の「ウマさん」からときどきメールをいただく。

いずれもが、気の利いた洒落に思わずにっこりするような微笑ましい内容なので、こういう人こそ「粋人(風雅を好む人)なんだよなあ・・」といつも思う。

幾つか紹介してみよう。

昨日(13日)の「ボーカルの再生」について

「小さな口を小さく説明しようとしましたが長くなりました」…笑っちゃった。こんな方には会って見たいなあ。
ご本人さんに言っといてください。スコットランドの田舎で、おっさんが笑ってます。

さて、ヴォーカルの口のサイズには、常々、かなり気になっています。やはり同軸ですかね。
僕の理想の口のサイズは、まさに、キッスしたくなるような臨場感を感じるサイズです。
そう、目の前に唇が見えるような…

音量にもよるけど、唇が3メートル先にあるか? 1メートル先にあるか?
キッスしたくなるような唇と声には、思わず…「も、もっと、寄ってぇ〜」

次に~「名盤サキソフォン コロッサスの呪縛」(11日付)から

…いわく言い難いような ” 微妙な感情の揺れ ” が訪れてくる…

まさに同感です。いい音楽にはこれがありますよね。その「揺れ」の瞬間に感動を覚えます。

かなり昔ですがNYCでロリンズ氏と握手したことがあります。
彼のアルバムはほぼすべて所有していますが、聴くたびに彼の手の温もりを感じてニヤッとしています。

コンテポラリー盤「WAY OUT WEST」に、カルフォルニアの抜ける空のような録音の良さを感じますが、「SAXOPHONE COLOSSUS」は、ニューヨークを感じさせるモダンジャズ史上の金字塔ですね。

次いで「ヒューマンエラーを防ぐ知恵」(9日付)について

いい本を紹介してくださった。



これ、久しぶりに「読まなければ」と思わせる本です。
ハルバースタム氏の著書、早速注文しました。ありがとうございます。
頭の良い偉い方が間違いを起こす事実は、歴史上、何度もありましたよね。

大学同期で外務省など国の機関に就職した優秀な友人が何人かいます。
僕がアフリカのタンザニアに所用で滞在していた時、日本政府のODA基金が正しく使われていない現実を見ました。大臣クラスの官僚が自分のポケットに入れてるんです。

「日本政府はありがたい」と、平然と僕に云うのには呆れてしまいました。こんな程度の低い人間が政治家をしている国から難民が先進国に押し寄せるのも無理はないとつくづく思いました。

で、そのODAの件を外務省にいる友人に伝えたけど、その返事にも呆れてしまったんです。「ODAを送ったら我々の仕事はおしまい。その先のことは関知しない」。で、思わず「人間としてどう思ってるのか?」と言ってやりましたね。

そして最後に「夜想曲集」について。

「いつも映画の最後のタイトルバックに注目する。まず監督、それからプロデューサーをチェックする。次いで音楽かな。魅力的な女優さんが出てる場合はその名前をメモしておく。

かなり昔の話だけど、映画「日の名残り(ひのなごり、The Remains of the Day)」を観た理由は、怪優?のアンソニー・ホプキンスと、英国の名女優エマ・トンプソンの共演という、この二人の組み合わせに興味を持ったからです。

貴族階級の豪奢な屋敷に仕える執事と女中頭との心の葛藤を描いた映画で、英国の上流階級の様子などもかなり描かれていた。スリラーやサスペンス、そして、アクション物が好きな僕にはかなり地味な映画だったが、しみじみとした余韻が残る良い映画だと判断した。

因みに、僕が今住む家は、中世の貴族が住んだ大きな邸宅だけど、僕ら家族が住んでいるのは、かつて執事やメイドたちが住んでいたテリトリーで、貴族たちが住んだ部分とははっきり分かれている。当時は豪勢な庭園があったけど、庭師の家は別にあり今でも残っている。

で、例の如く「日の名残り」のタイトルバックを見た。そして、まあ驚いた。その原作者の名前にびっくりしたんや。カズオ・イシグロ…誰や?これ?

日系人のようなので驚いたわけやけど、調べてみたら、なんと生粋の日本人や。七歳の時に家族と共に渡英している。さらに、原作の「日の名残り」が、英国最高の文学賞であるブッカー賞を受賞しているのにも驚いた。

シェークスピアやディッケンズを生んだ文学の故郷と言っていい英国では、ブッカー賞にノミネートされるだけでも凄いことやって聞いたことがある。じゃあ、とんでもない人じゃないか、カズオ・イシグロって。

余談だけど、ラグビー仲間だった山下夫妻と改発がうちに来たとき、一緒に寿司を食べた英国最高のラップ・ミュージシャン、ケイト・テンペストも、初めて書いた小説がブッカー賞にノミネートされた。彼女も、とんでもない才女です。

ま、そんなわけで、映画のタイトルバックで、カズオ・イシグロの存在を知ったわけやけど、その作品をいくつか読んでみた。

面白い。不思議なプロットで退屈しない。この先、どうなるのやら?とページをめくって、一気に読み終える。何か浮遊感を覚える作風だとも感じた。のちに、イシグロ氏が音楽に深い憧憬を抱いていることを知り、その作品の通底に音楽の流れを感じたりもした。

彼は、ボブ・ディランの影響を大きく受け、シンガー・ソングライターを目指し、デモテープを音楽会社に送ったこともあるらしい。ボブ・ディランがノーベル賞を受賞した翌年、カズオ・イシグロ氏もノーベル賞を受賞した。憧れの人の次に受賞したことに、本人はとても驚いたと言う。

そんなカズオ・イシグロ氏の初の短編集が「夜想曲集」です。
こんなにしみじみとする読後感の小説はあまりないと思う。プロットの設定が、ありそうでない、或いは、なさそうで実はある…とでも云えばいいのか? 絶妙としか言えない舞台設定なんです。その場にいるような臨場感さえ感じるイシグロ氏の巧みな描写力に驚嘆する。

ほら、覚えてる? 作家・丸谷才一氏の「星のあひびき」…その中に「短編小説は音楽と夕暮れによく似合ふ」と題した一項があり、イシグロ氏の「夜想曲集」が紹介されている。僕がもっとも信頼する書評家でもある彼の批評を一部紹介させていただく。

…このカズオ・イシグロ最初の短編集は、ミュージシャンが語り手の、音楽にゆかりのある話を並べる作り。

「音楽と夕暮れをめぐる五つの物語」といふ副題の通り、哀愁と抒情が基調だが、イギリス小説の伝統に従って喜劇性とユーモアを忘れず、むしろそのことによって憂愁の味を深める。その作風はなんとなくあの「もののあはれ」を連想させ、この日系イギリス作家の血にはやはり日本文学が流れていると思ひたくなる…

名翻訳家・土屋政雄氏の翻訳も素晴らしい。この「夜想曲集」のレビューをアマゾンで見た。概ね評価が高かったけど、この短編集の最初のストーリー「Crooner(クルーナー)」を、土屋氏が「老歌手」と翻訳していることに対し「クルーナーに老歌手の意味はない」と抗議している方がいた。

確かにその通りだけど、この物語を読み「老歌手」以外の適訳はないと僕は思った。ちなみに「クルーナー」というのは、男性歌手でクールな声でクールな唄い方をする歌手のこと。

フランク・シナトラをクルーナーの代表とする音楽評論家が多いけど、僕は、ジョニー・ハートマン(Johnny Hartman)こそ最高のクルーナーだと思っている。サブスクで聴いてみてください。納得してもらえると思う。

「老歌手」の舞台はベニスです。ラグビー仲間だった山下が「海外旅行で一番気に入ったのがベニスやった」とコメントしてたのを思い出した。

ぜひ、ベニスに行って「老歌手」の面影を探してみたい。イシグロ氏の巧みな表現で「老歌手」が狭い運河のどこで歌を唄ったか、大体のイメージは出来ている。

イシグロ氏の奥さんは、僕の女房と同じグラスゴー出身です。彼は、ギターを抱えて、ちょくちょくロンドンから電車に乗り、スコットランド西海岸沿いにある自分のコッテージにやってくるそうですよ。

スコットランドの海を眺めながらギターを奏でる作家っていいよね。柿の種でビールを呑みながらええ加減な文章を書いてる奴とえらい違いや。

カズオ・イシグロ初の短編集「夜想曲」(ハヤカワ文庫)…とても味わい深い五つのストーリー…

脇によく冷えたシャルドネなどをはべらせ、秋の夜長にぜひページを開いてみてください。エッ? 今、春か? ほんだら梅酒でもええなあ。」



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英語の発音と意味の取り違え

2024年02月09日 | ウマさん便り

久しぶりに南スコットランド在住の「ウマさん」からメールが届きました。

以下、海外から見えてくる日本の独自性・・、独特の「ウマさんワールド」をお愉しみください。

作家の五木寛之さんが、昔、「ベテラン」を間違って「ベラテン」と読んでいた事があったとのこと。僕も、女優の「岩下志麻」を「イワシマシタ」と、勘違いしていたのを思い出す。

 
勘違いや見当違いは、世界的な規模でも、たくさんあるね。
コロンブスはインドを目指してポルトガルを出帆した。そして辿り着いたアメリカをインドと勘違いし、そこにいた原住民をインディアン (インド人) と呼んだ。彼らこそ本当のアメリカ人だった。コロンブスさん、反省しなはれ!
 
それと、発音に関する間違いも山ほどある。
例えば、俳優のマイケル・ダグラスは「マイクル」が正しい発音に近い。「マイクウ」がもっと近い。でも、僕は、(日本では)マイケル・ダグラスと発音している。なぜか? 

「人口に膾炙 (かいしゃ) している」と言う表現があるけど、その社会に広く認識されている事由を言う。映画雑誌もすべて「マイケル」と書いているし、淀川長治さんもそう発音していた。まさに「人口に膾炙してる」んですね。
 
英国の高級車として知られるジャガー…この車、日本以外の国で「ジャガー」と発音する人はいない。「ジャギュア」が正しい。でも僕は、(日本では)「ジャガー」と言ってる。わざわざ正しく「ジャギュア」と言っても「なに?それ?」となり、話が進まなくなるのね。

余談だけど…ジャガーは、元々、オートバイ(モーターサイクル)の脇に付けるサイドカーメーカーだった。それが四輪車を作るようになり、安くて高性能の車造りを目指した。だから、昔は「ジャガーは安物」とのイメージがあったようです。

フェラーリを創業したエンツォ・フェラーリ氏が「世界一美しいスポーツカー」と賞賛した1961年デヴューのジャガーE-タイプなど、007御用達のアストン・マーティン以上の性能を誇ったけど、価格は、なんと、ほぼ半額だった。

1961年、大阪で初めての外車ショーで、このE-タイプを目の当たりにした僕は、その姿に釘付けになってしまった。当時の価格を今でも鮮明に覚えている。445万円!…1961年、昭和36年のことです。
 
日本での間違い英語の最たるものは「マンション」ですね。「マンション」の本来の意味は「大邸宅」のことで、もちろん一戸建て。2DKや3LDKのマンションなどあり得ない。

あなたが、日本の事情をよく知らない外国の方に「私のマンションに来ませんか?」と言うと、彼、びっくりするよ。そして「この人、金持ちか?」となる。そして、あなたの2LDKのマンションを訪ねて驚く。「えっ? これがマンション? …なんで?」

広辞苑には「(大邸宅の意)中高層の集合住宅をいう」とあるけど「中高層の集合住宅」は、日本でだけ通用することで、本来の意味とは大違い。この点に関して広辞苑は書き方を間違っている。正しくは「大邸宅のこと。日本では中高層の集合住宅のことを言う」としなければならない。ゴメン、偉そうに言うてしもた。
 
現在、僕が住まわせてもらってる家は建坪約500坪、塔もそびえる中世の貴族の大邸宅です。あっ? 自慢かいな、これ? 

広すぎるのも困りものでっせ。毎日、家の中でケータイが要る。「今、どこにいるー?」「ゴハンやでー!」浮世離れしてるよね。…郵便配達のお兄さんが「立派なマンションですね」

すっかり日本語になった「マンション」だけど、正しく言うと「アパート」「アパートメント」或いは「フラット」になる。でも僕は、日本では、マンションのことを、アパートなどと言わず、やはり、 マンションと言ってる。

NHKも民放も「昨夜、港区のマンションで…」などとニュースで言ってるし、新聞や雑誌も常にマンションと書いている。つまり「マンション」も、日本では、やはり人口に膾炙(かいしゃ)している、いや「膾炙してしまっている」からです。もし、上記のニュースを正しい日本語訳で言うと「昨夜、港区の大邸宅で…」となり、意味が違ってくる。
 
僕の記憶では、1960年代、そうやなあ? 昭和30年代は「マンション」と言う言葉は、まだ一般的じゃなかったように思う。川口松太郎が作った「川口アパート」や「代官山アパート」「同潤会青山アパートメント」など、著名人・芸能人などが住む高級・有名アパートに、一般人が憧れの目を向けた時代があったのを覚えている。じゃあ、なぜ?「アパート」が「マンション」になったのか? 

どっかの不動産業者が「アパートよりカッコええ名前がないやろか? そうや!マンションがええ。大邸宅のことやけど、 かまへんかまへん、マンションにしちゃえ!」

で、高級分譲アパートや高級賃貸アパートを「マンション」と呼びだした。これを考えた奴、いや、考えた方の責任はとても重い。 だって、日本中に間違った名前を広めてしまったんやからね。

ここで思い出すのが「バランタインデー」のチョコレート騒動です。東京大田区のメリーチョコレートの社長の思い付きが、あっと言う間に日本中に広まった。「バランタインデーにはチョコ」ってのは日本だけの現象です。商売!大成功!この珍現象や、さらに、アホらしゅうて悲しくなるのが「ホワイトデー」…商売商売!

これらの思い付きに、日本中、踊らされてる事実に気がつかなければいかんと思うけどなあ。これらの現象は、まさに右に倣え主義で、戦争に突き進んでいった時代の日本人のメンタリティーが、今でも変わっていないことを示している。
でもさ、チョコをもらったらお礼を言うよ…「おおきにね!(ニコニコ…)」
 
さて、この「マンション」…本来の意味を知らないと、あのアメリカのフォークグループ「ブラザース・フォー」の大ヒット曲「七つの水仙」の歌詞にある「僕にはマンションなどないけれど…」の意味がわからなくなる。意味? もちろん「僕は金持ちじゃないけれど…」
 
それと「スマート」も日本では間違った意味で使われている。日本では「見た目や体形」のことを言うけど、本当は「頭が良い。賢い」の意味。

ごく稀に、見た目を言うケースもあるけど、通常、「あの人はスマート」は「あの人は頭が良い、賢い」の意味です。これ、覚えててね。見た目じゃないの。洋画の字幕にもちょくちょく出てくるよ。「She is very smart!」…彼女はすごく頭が切れる…

広辞苑はやはり間違っている…「からだつきや物の形がすらりとして格好が良いさま」…広辞苑はこの項の冒頭に「スマート(smart)」と英語を添えているんや。だから「本来は頭が切れるの意味」を添えなければ、皆さん必ず誤解する。広辞苑ってスマートじゃないねえ。

僕は、日本でもこっちでも「スマート」って言われたこと全然ないけどさ。きっと、頭の程度も見た目もスマートじゃないのねボク…(涙)
 
さて、僕の住むスコットランド、いや、英国では、様々な日本語が英語になっている。「ウドン」「オニギリ」「ボンザイ(盆栽)」「カリオケ(カラオケ)」など誰でも知ってるし、最近、なんと「MOCHI 」と書いた「餅入り」のアイスクリームを見た。そんな英国での間違い日本語を一つ…
 
「カツカレー」です。10年ほど前、やや高級なスーパーで「カツカレーセット」なるものを見た。レトルトのライスとカレーのセットだけど「カツ」がない。全然「カツカレー」じゃないのよ。なんで? 僕は首をかしげてしもた。

その後、この「カツカレー」と言う名称は、間違った使われ方をしたまま一人歩きしている。相変わらず「カツのないカツカレー」です。「カツ」の意味をわからないまま使ってるのは明らか。こちらの人に「カツの意味はポークやビーフカツレツのことです」と言うと、皆さん「へえー、知らなかった」と驚かれる。単に日本風カレーのことを「カツカレー」と呼んでるのかなあ? 
 
おのおの方はポテトチップスはお好き? あまり身体に良いとは言えないポテトチップス…こちらでは「クリスプス」と言う。こちらでのポテトチップスは、フライドポテト、或いはフレンチフライのこと。

だから、皆さんがこちらのパブなどで「ポテトチップス」をオーダーすると、間違いなくフライドポテトが出てくるよ。クリスプスにもいろいろあるけど、代表的なものが、塩味、オニオン味、ビネガー味などです。ところが、最近、スーパーで「カツカレー味」を見た。一体、どんな味やろ? もちろん「カツ」の意味をわかっていないネーミングですね。
「カレー味」のクリスプスならわかるけど「カツカレー味」… はて?
 
 僕は、こっちのスーパーで「カツカレー」を買ったことはない。カツが入ってないしね。そもそもカレーは自分で作る。でも、とんかつもカレーも大好きやから、日本で本物の「カツカレー」食べたいなあ。 どなたか、日本で美味しい「カツカレー」の店を知ってたら教えて? 訪日の折には是非行きたい。ウ〜ム…お腹が空いてきたな…


 
最近見かけた NAKED KATSU CURRY… なんのこっちゃ? カツは入ってません。


 
 
マルコの夜遊びが過ぎるのは、ウサギやモグラ、キジ、イタチと遊んでるから。マルコの遊び相手として猫をもう一匹飼おうかなと考えてます。名前はもう決めてるよ。「チビィー!」

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「シドニー・ベシェ」のクラリネット

2024年02月01日 | ウマさん便り
久しぶりに南スコットランド在住の「ウマさん」から長文のお便りが届きましたのでご紹介させていただこう。

昨夜、Spotifyで、久しぶりにシドニー・べシェのクラリネットを聴いた。
便利な時代になったもんです。様々なミュージックをネットで聴けるなんて、実に有難い事だよね。

1920年代から活躍した黒人ジャズ・クラリネット奏者シドニー・べシェは、トランペット」奏者の「サッチモ」ことルイ・アームストロング同様、かなりの人気ミュージシャンだった。

ヨーロッパにも呼ばれ、彼の地でも人気奏者となり、何度もヨーロッパで演奏機会を持つようになる。
そして、1949年、とうとうお気に入りのパリに移住することを決意した。51歳だった。

ヨーロッパでは、ジャズ・ミュージシャンは芸術家として尊敬される風土があり、アメリカのように酷い人種差別もなかったので、多くの黒人ミュージシャンがヨーロッパに移住し活動の場とした。シドニー・べシェもそんなミュージシャンの一人だった。

彼が吹くクラリネットの、細かく震える独特のビブラートを、パリの知的マジョリティーが愛したんやね。


そして、シドニー・べシェの人生で最大の出来事が起こった…

52歳になったべシェ、なんと、17歳のパリジェンヌに恋をしてしまったのでござるよ。
愛があれば年の差なんて…、ええ歳こいて…なんて言ってるばやいとちゃいまんねん。えらいこっちゃ!でっせ。

彼は、親子ほど年齢差のある彼女に対するその想いを、如何に伝えたのか?
そう、べシェは、その溢れんばかりの恋心を、クラリネットに託して表現したのでござるよ。で、誕生した曲が「Petite Fleur」プチ・フルール…小さな花…

愛する17歳の娘を「小さな花」に例えたんやね。べシェが心を込めて作曲したこの「小さな花」は、後年、日本でも鈴木章治や北村英治など、クラリネット奏者が好んで演奏することとなる。

そして「可愛い花」の題で、あの「ザ・ピーナッツ」のデヴュー曲ともなったので、皆さん、聞いたことあるんじゃないかな?

おのおの方も、べシェの「小さな花」を聴くと「ええ歳こいて…」なんて言えなくなると思うよ。素晴らしい曲です。

あとで、べシェ自身の演奏による「小さな花」と、僕のお気に入りのフランス娘ララ・ルイーズが唄う「小さな花」のYouTubeを、おのおの方に送るんで聴いてみてね。

YouTubeのララの写真を見てると、べシェが愛した若きパリジェンヌって、こんな娘じゃなかったやろか?との思いがする。

ザ・ピーナッツ「可愛い花」も懐かしいね。これもYouTubeでご覧ください。

僕はパソコン操作に疎く、この三つのYouTubeを全部一緒に送る技術を今のところ持ってないので、一つ一つ別々に送ります。送った順番に見てくださいね。


PS: 実はね、ここだけの話なんやけどさ、僕も、ええ歳こいて、今、可愛い小娘に恋してまんねん。女房も公認で、一緒に暮らしてるんやけど、もう、彼女なしの生活なんて考えられないのよ。めちゃシアワセ…ウフッ…

ところがや…


この娘な、午前9時から午後5時までの門限は守らんし夜遊びが過ぎる。ほんで、時々、ちっちゃなモグラの赤ちゃんをくわえて家に帰ってきよるのよ。ほんでな、モグラの赤ちゃんを僕の前に置いて「ウマ!これでイッパイやってね!」だと! 困ったもんや、いやはや。



私も猫が好きです。ずいぶん栄養状態が良さそうですね(笑)。小窓の上の「9~5!」(9時から5時)に思わずアハハ・・。

で、肝心の「シドニー・ベシェ」のクラリネットです。さっそく「You Tube」で聴いてみましたけど、独特のビブラートに痺れ上がりました。

ずっと昔、こんな素敵なクラリネット奏者がいたなんて・・。

最高で~す!



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以心伝心の「ウマさん便り」

2023年10月16日 | ウマさん便り

前々回のブログ「イギリス社会入門」を投稿したときに、ふと閃いたのが「南スコットランド在住のウマさんからタイトルに関連したお便りが来るとうれしいんだけどな・・」。

なにしろ実際にイギリス在住の方からのお話となるととても参考になる。

ところが・・、これを「以心伝心」というのか、すぐにウマさんからメールが届いた。

「イギリス入門」…
面白そうですね。僕も、いずれ、そんな文章を書いて見たいですね。
「スコットランド在住のおっさんが見た英国」ってなタイトルになるかな?
親しい友達に貴族がいるし、毎日のように貴族の私有地を車で通るし、僕の目から見た貴族の存在などなど、書いて見たいことはかなりあります。
皆さん、きっと驚かれる内容になるんじゃないかなあ?
とりあえず、英国について書いた「ウマ便り」を添付しておきますが、すでにお送りしたかと…

PS: 感謝感謝! ローラ・ボベスコ女史のヴィオッティ 22番 素晴らしい!(美女だし…ウフッ…)

では、その「ウマさん便り」をご紹介。

「英国はイングランドではない」 

初めてスコットランドを訪れたのは1980年の夏だった。

グラスゴーのキャロラインの実家で、弟のマーティンが、ある日、やや興奮して言った。「今夜、スコットランドとイングランドのサッカーの試合がある」

 そして、ビールやらウィスキーやらポテトチップス(英語ではクリスプス、ポテトチップスはフレンチフライのこと)などをしこたま用意しテレビの前に座った… 

いよいよゲームのスタート、ところがそのタイトル画面を見て僕は首をかしげた。「スコットランドvsイングランド」、これはわかる。が、そのタイトルの下に「国際試合」とあるんや。なんなのコレ? 「マーティン! なんで国際試合や?」

 「当たり前や。イングランドは外国や!」「エッ? スコットランドもイングランドも同じ英国とちゃうのか?」 「同じ英国やけど、違う国や!」 

英国が「連合国家」であることを知るのに時間はかからなかった。

英国は四つの国で成立している。「イングランド」 「スコットランド」 「ウェールズ」 「北アイルランド」…

この国は、歴史上、ケルト人、ローマ人、それにゲルマン人であるアングロサクソン人やノルマン人その他が入り乱れ、他の欧州の国々同様に、様々な王国を築き集合離散を繰り返してきた。現フランスのほとんどが英国の領地だった時代もある。 

18世紀はじめにイングランドに併合されたスコットランドは、それまではれっきとした独立国家だった。だから、イングランドへの対抗意識や気風・気概は今に引き継がれ、スコットランド独自の法律や銀行制度(独自の紙幣を発行)、或いは教育制度や医療制度など、イングランドとは違う行政制度がある。さらに立派な国会もあるし首相も存在する。 

 「英国」と「イギリス」、この国を呼ぶのにこの二つの名称が日本にはある。ここらもちょっと事情をややこしくしているんじゃないかな。

「英国」は、ブリテン島と北アイルランドを示し、文字通り英国全体を現している。ところが問題は「イギリス」や。もともと「イングランド」が語源のこの言葉、  

「英国」も表わすが「イングランド」を示す場合も多い。

だから僕は、英国全体を示す場合、イギリスという言葉は極力使わないようにしている。 

さてここで、日本の学校の英語の授業をちょっと振り返ってみよう… 

 「英国は英語でイングランド、英国人は英語でイングリッシュ…」

僕は中学で確かにそう習った。いまでもこう教えている先生は多いんじゃないかな。でも、これ、明らかに間違いなんだよね。 

 イングランド人    →  イングリッシュ

 ウェールズ人      →  ウェーリッシュ

 スコットランド人  →  スコティッシュ

 北アイルランド人  →  アイリッシュ 

イングリッシュってのはイングランド人のこと。同じ英国人であるスコットランド人はスコティッシュであり、間違ってもイングリッシュとは云わない。もちろん、ウェールズ人はウェーリッシュでありイングリッシュじゃない。だから、英国人のことをイングリッシュと呼ぶのは間違いだってわかるよね。 

英国には四つの国があり四種類の国民がいる(現実にはおびただしい移民との共生社会だけど)。この四国民を総称して、つまり英国人は「ブリティッシュ」が正解となる。

でも国籍を尋(たず)ねられた場合、「入管」など公的な場以外で自分のことをブリティッシュとみずから言う英国人はあまりいないと思う。「私はイングリッシュです」 「私はスコティッシュです」…が普通でしょう。

「私はイングリッシュです」と云う方を、この人英国人だと捉(とら)えずに、この人、イングランド人だ…と認識すべきでしょうね。

「英国人はイングリッシュ」、これが間違いだということ、わかってもらえました? 

じゃあ「英国」は英語でなんと呼ぶのか? 

 英国の正式名称、実はコレ、世界で一番長い国名なんです。「United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland」

 「グレートブリテンと北アイルランドによる連合王国」 コレ長すぎるよね。だから通常は「United Kingdom」(ユナイテッド・キングダム)と呼ぶ。

キングは王様、ダムは領地のこと、つまり、キングダムは王国の意味。だから、ユナイテッド(連合)とキングダム(王国)で「連合王国」となるわけ。これは御存知の方も多いでしょう。  

これをさらに省略して「U.K.」となる。「英国はユナイテッドキングダム」、これが正解となります。もっとも慣習的に昔から「グレートブリテン」と呼ぶ場合も多いけど、正式名称ではない。 

スコットランドで暮らす僕に、日本からの手紙のほか、時に、本や雑誌、あるいは様々な日本食材を送ってくださる方がかなりいらっしゃる。

手間隙(てまひま)かかる梱包(こんぽう)、そして決して安くはない郵送料…、非常にありがたいことだと、いつも心より感謝している。でもその郵便物を見ると、僕への宛名として、スコットランドのあとにイングランドと記入しておられる方が実は少なくない。つまり国名が二つ並んでいるんですね。

だから皆さん、僕に何か郵送してくださる場合(催促してるんとちゃうよ)、どうか宛名のスコットランドのあとに「U.K.」とご記入くださいましね。 

いつだったか、大阪のラジオで、英国製紳士服地のCMを聞いたことがある。ナレーターが格調高い語り口でこうおっしゃった… 

 「イングランドの誇り…最高級ウール…それが〇×紳士服地…」 

ところが、そのCMのバックに流れていたのはバグパイプなんです。もちろんバグパイプはスコットランドの誇りでイングランドのものじゃない。笑っちゃうよねコレ… 

御存知だとは思うけど、UやKのあとに付いているピリオドは、省略の意味です。そこで思い出した… 

大阪に置いてある僕の自転車は、自転車屋の友人が組上げてくれた特製です。で、彼、わざわざ、フレームに「U.M.A.」とレタリングしてくれた。 

それは嬉しいんやけど、なんでピリオドが付いてるんや? ピリオドなんかいらん筈や。で、その理由を訊いた… 

 「コレなあ、Uは胡散(うさん)くさい、Mはマヌケ、Aはアホ。胡散臭(うさんくさ)いマヌケのアホ…」

…あ、あのなぁー… 

さてさて、日本の英語の先生方! もうやめましょうよ。

「英国はイングランド、英国人はイングリッシュ」と教えるのは、ネッ!

と、以上のとおりでした。

さらに、今朝(16日)いちばんのメールがこれ。

いろんなオーディオ関連の記事を見るけど、「噴火炎上!」「♪人生いろいろ♪ 男もいろいろ」こんなコメント見たことない。後にも先にもこのブログだけやろ。もう、笑うてしまう。
やっぱりおもろいお方や、笑笑笑…


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ここは楽園パクソス、し、しかし・・

2023年09月25日 | ウマさん便り

南スコットランド在住の「ウマさん」からお便りがありました。

「コロナのせいで自粛していたホリデーを四年振りで再開し、今、地中海はアドリア海に浮かぶ小さな島パクソスに滞在している。

こちらの人が、懐具合いに応じて地中海に出掛けるのは、ごく普通のこと。座席指定さえない激安航空が、ほんの2、3時間で、天気の悪いスコットランドから、太陽燦々の地中海へ運んでくれるんや。

おのおの方、地中海をお安く楽しんでいるウマさんが羨ましいかい?チッ、ちゅうかい?

ギリシャ領のこの島パクソスは、観光客誘致の為のインフラ整備など特にしていないせいか、その素朴さがとても快適な雰囲気を漂わせている。コートダジュールのカンヌやニース、モナコなどのスノッブなリゾートより、このパクソスのほうがよほど良い。

ビーチの美しさ、海の水の透明度の高さには目を見張ってしまう。それに、連日、雲ひとつない蒼穹の空。ま、この世の楽園と言えるかな。

ビーチに於ける僕の楽しみはね、何と言っても読書です。
今回携えた本は「音楽とオーディオ」の小部屋の主に教えて頂いた、ミステリーの蘊蓄?満載の「米澤屋書店」…..もう、めっちゃ楽しみでござるのよ。

そして、ワクワクニコニコしながらビーチに座った。脇にビールとワインをはべらせて…..
さ、さあ、読むぞー!

と、ところがや!
な、なんちゅうこっちゃ!
僕の読書の邪魔をする方がおるんや。それも一人や二人とちゃう!
腹が立ったんで、思わず叫びそうになってしもた…..

ちょっと!ちょっとちょっと!
オタクらええ加減にしなはれ!
そこら、ウロウロすんのやめてんか!
ト、ト、トップレスで!」







ということでした。

ウマさん、久しぶりのバカンスを大いに満喫してくださいね~。

それにつけても、南スコットランドから地中海へ ”一っ飛び” (ひとっとび)・・、日本でいえば九州から北海道へ行くような感覚ですかね(笑)。

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ケイト・テンペスト

2023年08月31日 | ウマさん便り

「ウマさん」(南スコットランド在住)からのお便りです。

「ケイト・テンペスト」
 

ラップミュージックって知ってるよね?

音楽に乗せて、速射砲みたいに詩やメッセージを歌う(語る?)んやけど、それ自身にメロディーはほとんどない。アメリカで生まれた音楽の一つのジャンルやと思うけど、この手の音楽、僕は苦手で、とんと興味はない。なぜか?

そもそも、言ってる内容がわからないと聴いてる意味がないからや。自分の奥さんのしゃべる英語がわからなくて聞き返すことは毎日のことです。そんな僕が、ラップミュージシャンの語る早口の英語がわからんのは当たり前や。

ほんでな、普通、音楽ってさあ、メロディ、リズム、そしてハーモニー、この三つの要素があってこそ音楽じゃないの?だから、歌詞にメロディーが付かないラップミュージックって音楽やろか?とも思う。 

ところがね、そんな考えを根底から覆したのが、ケイト・テンペストなんです。2015年6月、世界最大の音楽祭、グラストンベリーフェスティバルで、数万人の前で演奏する長女のくれあをBBCの実況中継で観た。

その時、くれあのすぐ前で歌って(?)いたのが、英国、いや、世界的にも珍しい女性のラップミュージシャン、ケイト・テンペストだったんです。

テレビカメラが映す観客・聴衆の様子を見て僕はびっくりした。中高年が圧倒的に多いその広い会場で、なんと泣いてる人が少なからずいるんや。

僕にはケイトの歌ってる(語ってる)言葉の意味はわからない。でも、その内容が、聴衆の胸に響いている、いや、迫っている事実は十分理解出来た。 

ラップミュージックというのは、韻を多く含んだ歌詞を、音楽、特にリズムに乗せて語る、ま、ダンス用ミュージックやろと思ってた僕に衝撃を与えたのがケイト・テンペストだったのね。

BBCのその映像を観てて、もちろん彼女が語る内容は理解出来なかったけど、僕は思った。この人、ラップミュージシャンとちゃう、詩人、いや、メッセンジャーや! 彼女の語る言葉に涙を流す聴衆は、間違いなく彼女のメッセージに心打たれているんやとも思った。
 

ラップミュージックは音楽とは言いにくいと云った僕やけど、数万人の聴衆を惹きつけ、さらに涙を流させるケイト・テンペストは普通じゃない。さらに、こんなミュージシャンって、そうそういるもんじゃないと、ある種の感銘さえ覚えた。ステージで彼女が語る(歌う?)その意味がほとんどわからないにもかかわらずですよ… 

その後、ケイトと頻繁にワールドツアーに出たくれあが、彼女の価値を述べたことがあった…

「おとーちゃんな、本を丸一冊暗記してそれを朗読出来る人っておるか?ケイトはな、それに近いことをやってるんや。彼女が自分で書いた長い詩やメッセージは、社会、政治、経済、歴史、文化、恋愛、戦争、性、貧困、あらゆるテーマを含んでる。  

それらを30分40分、ときには1時間近くぶっ続けで語るんや、いっさいメモを見ずにやで。わたし、毎回、彼女の後ろで伴奏してて、この人天才ちゃうかと思うねん」 

詩人?ケイトが初めて書いた小説は、出版社の間で取り合いになり、結局、出版社間で入札したそうや。これ、前代未聞とちゃうか?そして、その小説は、英国最高の文学賞にノミネートされた。

とにかく言えることは、ケイト・テンペストは才女、いや、超才女だと云うことですね。さらに、ケイト・テンペストのCDは、毎年、英国で発売されるベスト50に必ず入ってるそうです。
 

いつだったか、ケイトがグラスゴーで公演したとき、僕やキャロラインを招待してくれた。開演前、会場のコーヒーショップでくつろいでいたとき、なんと、ケイトがわざわざ僕らのテーブルに来て挨拶したんや。これにはびっくりした。普通、スーパースターはそんなことせえへんやろ。その時、ケイトは僕の寿司の差し入れに、めっちゃ感激してくれた。

その後、縁があったんやろか、今や、世界的なカリスマメッセンジャーと言えるケイト・テンペスト、そんな彼女がアラントンを訪ねてくれた。もちろん、ウマは、お寿司を作りましたで。細巻きで書いた彼女のキャッチフレーズ「LOVE MORE」を見た彼女、もう目を丸くして、なんとウマにビッグハグやった。

この人は、間違いなく英国社会、いや、そのほか多くの国で、少なからず影響を与えていると思う。その証拠に、彼女が何か政治的発言をすると、必ずメディアが取り上げる。 

2019年のグラストンベリー音楽祭で、ケイトはくれあだけの伴奏でパフォーマンスした。というのは、それに先立つヨーロッパツアーで、くれあだけの伴奏が、より自分を表現出来ると判断したようなんです。

で、今回のBBCの実況中継、巨大なメインステージは、ケイトとくれあだけだった。だから、くれあのアップが頻繁に出てきたんで、親としては嬉しかったですね。 

そして、ケイトが大観衆に向かって「クレア・ウチマー!」と紹介した瞬間、大歓声が上がった。で、ウマはテレビ画面の観客に向かって叫んでしまった。

「クレア・ウチマのおとーちゃんはここにおるでぇー!」

いかんいかん、やっぱりミーハーおやじでござるなあ。反省自省…

BBC実況中継2019年グラストンベリーフェスティバル、くれあとケイト


ウマのお寿司「LOVE MORE」に大喜びのケイト



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ウマさんのミーハー交遊録~最終回~

2023年08月22日 | ウマさん便り

南スコットランドからの寄稿「ウマさん便り」の「ミーハー交遊録」は盛況なアクセスのもと、残念なことに今回が最終回です。

それでは、まず「藤原紀香」さん…
 


神戸に住んでいた故ダンカンさんには、女房のキャロライン共々ずいぶんお世話になった。スコットランド人の彼とは、東京にある「日本スコットランド協会」が関西で催した会で知り合い、急速に親しくなった。

「ウマとキャロライン、おいしいビールを呑みに来ない?」 達者な関西弁を喋(しゃべ)る彼に、時々三宮に呼び出されたりした。もちろん彼が大阪に来た時もよく会っていた。いつも袖(そで)が擦(す)り切れたよれよれのジャケットに、同じくよれよれのネクタイ、靴もゴム底のドタドタ…そしてカシオの黒いプラスチックの安っぽい腕時計… 

ある時、用事があって彼に電話をした。電話に出た女性が「リプトンティー・ジャパンです」と応えた。紅茶で成功したリプトンさんがグラスゴー出身のスコットランド人だというのは知っていた。ダンカンさんってリプトン紅茶にお勤めだったんだ…。で、「ダンカンさんをお願いします」そのあとの彼女の言葉には驚いた。  

「会長は、ただ今、外出しております」 エッ?! ダンカンさんて、リプトンティー・ジャパンの会長?!あの擦り切れた袖のよれよれのジャケットを着ている人がリプトンティージャパンの会長? あとでキャロラインが云ってた。

「ほんとのジェントルマンって、もう格好なんて気にしないの…」 

神戸の西北にある広大なスポーツパークで催された、日本スコットランド協会主催の、スコットランドの伝統行事「ハイランドゲーム」に家族一同で出かけたことがあった。

ジェイミーが三歳ぐらいやったと思う。ダンカンさんの娘で当時高校生だったあやちゃんが、同級生のお友達と来ていた。この二人、ジェイミーの面倒をよく見てくれたなあ。あやちゃんとはその時がきっかけでずいぶん親しくなり、日本スコットランド協会の様々な催しで、ダンカンさんやキャロライン共々いつもいっしょだった。
 

さて、時は流れ、六甲山をトレッキング中のダンカンさんが急逝(きゅうせい)し、その後キャロラインと子供たちはスコットランドへ移住、ウマがせっせと日本でアルバイトに精を出していたある日、そのあやちゃんから電話があった。

「ウマさん、わたし東京で結婚式を挙げたんですけど、地元の神戸でも披露パーティーをするんで来てくれませんか?」 キャロラインと子供達はスコットランドに移住したのでボクだけだけど…「ウマさんだけでもぜひ来てください」

ダンカンさんには本当にお世話になったので、せめてあやちゃんのお祝いの席には顔を出さんとあかんよなと判断した僕は、パーティー会場の、あの有名な北野クラブへ出向いた。

席に着いて驚いた。めちゃ驚いた! 僕のとなりのとなりに、なんと藤原紀香がいるんです。なんでここにあのスーパーアイドルが? もうウマさん、そわそわソワソワ…、アカン、やっぱりミーハーや… 

やがて各テーブルに挨拶回りをしていたあやちゃんが僕らのところに来て藤原紀香に云う。

「紀香、ホラ、むかし、ハイランドゲームの会場で、交通標識の赤いコーンを頭からかぶってウロウロしてた男の子、覚えてる?」

 「ああ、私がダッコしたあの可愛い子」

「そうそう、こちら、あのジェイミーのお父さんのウマさんよ」

だんだん思い出してきた…。そうや、あの時、あやちゃんといっしょにいて、ジェイミーの面倒を見てくれた同級生…。まさか、その高校生がのちに有名タレントになるなんて、そりゃ、あんた、夢にも思いませんよねえ。 

藤原紀香とあやちゃんは、なんと幼稚園から大学まで一緒だったという。

ま、こうして、同じテーブルの紀香さんとはけっこう話が弾んだんです。

彼女と同じテーブルにいて感心したことがいくつかある。ウマと彼女の間に一人おられたせいもあるんやけど、テーブルが長方形だったので、紀香さん、いちいち身を乗り出し、顔を傾けてウマの話を聞いたり話したりするんや。ツンと澄ましたところなどまったくない。 

このパーティー、圧倒的にあやちゃんと紀香さんの同級生が多かった。ところが、懐かしい同窓会みたいな雰囲気のこのパーティーで、紀香さんのほうから同級生に声を掛けてるのを何度も見た。

「ダレダレ、元気やった? 今、なにしてんの?」

ふつう、こんなスターは、ほかの方からワインなど注(つ)いでもらうよね。ところが彼女、ボトルを持ってほかのテーブルへ行き、ワイワイ言いながら元同級生たちに注(つ)いであげてんの。もちろん、ウマにも何度も注いでくれた。

アイドルやスターと一緒に写真を撮りたいのは皆いっしょだよね。ところが、紀香さん、自分が撮られたあと、「わたしが撮ったげるから、みんな並び!」 まるでスター気取りがない。 

関西弁の藤原紀香なんて想像も出来なかったんで、あっと云う間に打ち解けちゃった。エエ人や。人気があるのがよ~くわかった。その昔、ジェイミーがあやちゃんの同級生にダッコしてもらった光景はよく憶(おぼ)えている。たしか写真も残ってる筈や。それが、まさか藤原紀香とは知らなんだよなあ、まったく。

で、ミーハーのおとーちゃん、さっそくスコットランドにいるジェイミーに電話をした。「もしもーし、おい、ジェイミー! ええか!よ~く聞けよ! 驚くなよ! 君なあ、三歳のとき、なんと、あの藤原紀香にダッコしてもらったんやで!」

ジェイミーの返事…

「ダレや、それ?…」  

藤あや子さん… 


2001年に英国で大々的に催されたジャパンイヤー…

その一環の音楽使節として、臨時に編成され、英国全土をツアーしたのが「アンサンブルトーザイ」だった。僕の旧知のヴァイオリニスト木野雅之を始めとする日本を代表する素晴らしいカルテットだった。

和太鼓をヨーロッパに広めたロンドン在住の廣田丈二、同じくロンドンで活躍するピアニスト藤澤礼子、そして、唯一(ゆいいつ)日本から参加したのが、若き尺八(しゃくはち)の名手、加藤秀和さんだった。

 それから、数年後だったかなあ…、ある日、その尺八の加藤さんから思いがけない電話があった。

「ウマさん、今、大阪にいるんですけど、今週末、よかったらイッパイ呑りませんか」…そしてその週末、アラントンでも素晴らしい尺八を吹いてくれた彼と、難波は歌舞伎座すぐそばの地酒の店で、実に久しぶりに会った。

いやあ、久しぶりやねえ、どうして大阪へ?

「ウマさん、歌手の藤あや子って知ってる? 彼女の公演では、僕、かなり以前からずっとレギュラーで尺八を吹いてるんです」

エッ? 藤あや子って、いつも和服の、めちゃ別嬪(べっぴん)さんの演歌歌手とちゃうの?「そうそう、彼女の歌舞伎座公演が今日で終わって、今、スタッフたち全員が打ち上げしてるとこ。で、ウマさんに会うチャンスは今夜しかないんで、僕だけ抜け出して来たんです。でもね、彼女、お酒大好きなんで、スタッフとの打ち上げが終わったらここに来るよ」

エーッ!? ほんとぉー? ミーハーのウマ、もう、ドキドキやー… 

そして夜10時半ごろ、和服のイメージとはまったく違う、ジーンズにTシャツ、眼鏡(めがね)をかけた御本人さんが現れた時は、もう、びっくりしてしもた。二十歳過ぎぐらいの女性と一緒に来られたんやけど、やっぱりめっちゃ別嬪さんや。

加藤さんが僕を彼女たちに紹介した。

「ウマさんと初めて会ったのはスコットランドなんです」

乾杯したあと、ひとしきり、スコットランドに関する話題で盛り上がった。

ところがや、すごく海外に興味があるというその若い女性、なんと、あや子さんの娘さんというんでびっくりしてしもた。こんな大きな娘さんがいるなんて、あや子さんの年齢を想像するととても信じられへん。もちろん、プライベートなことを訊くのは遠慮したけど、かなり若い時に結婚しはったんやろか? 

お酒の好きなあや子さんは、歌舞伎座での公演がある時は、いつもこの店に来るそうです。なるほど、地酒の品揃えが素晴らしい。秋田出身のあや子さん、秋田の銘酒「飛良泉(ひらいずみ)」が大好きだとおっしゃる。いやあ僕も大好きですよ!と調子を合わせるウマは、やっぱりミーハーでござるなあ。

「私の公演には、加藤さんの尺八は、なくてはならないんですよ」

加藤さんをすごく高く評価されているんで、僕もすごく嬉しかった。

 楽しくお酒をいただき盛り上がっていた時、加藤さんが云ったことには驚いた。

「ウマさんね、あや子さんはね、ほんとはロックが大好きなんですよ」

エーッ? 一瞬驚いた僕に、彼女もニコニコして云った。

「そうなんです。私ね、ロックが一番好きなんです」 

ほんまかいな? いやあびっくりしてしもた! 演歌専門だと思ってたら普段はロックばっかり聴いているんだって!自分でロックっぽい曲を作ることもあるともおっしゃる。完全にイメージが狂てしもた。いつも和服の藤あや子とロック!? 

化粧を落としておられたにもかかわらず、やっぱり綺麗な方やなあ。

でも、よくしゃべり、よく呑み、ぜんぜん気取らないその明るい性格は、僕が抱いていたイメージとは大いに異なっていた。娘さんとも、まるで姉妹みたいで、とても親子には見えなかったなあ。

人間ってね、会って話をしてみないとわからんもんやなあとつくづく思いましたね、その夜は… 

ステージから降りた有名歌手の、その素顔に接っすることが出来た忘れられない夜となりました。加藤さん、また、呼んでや! 

次に御登場の方も、まったくそう…、完全にイメージが狂いました、ハイ… 

八千草薫(やちぐさかおる)さん… 


革命前の不穏(ふおん)なイランで、慶応大学のイスラム学者K教授と知り合ったことが、女房のキャロラインさんが日本に来るきっかけとなった。来日直後は、千葉の田舎のK教授の実家にしばらくお世話になったが、その後、彼の妹さんが住む渋谷区代々木上原に引越し東京での生活が始まった。

ある日、キャロラインは、何かとお世話になっているK教授の妹さんに、ランチに呼ばれた。で、ついでに僕も誘(さそ)われたのね。 

妹さん宅のダイニングキッチンには先客がいた。

その顔を見た途端、ウマは、もうビックリしてしもた。なんと女優の八千草薫さんなんです。K教授の妹さんのごく親しい友人だとおっしゃる。近くの代々木公園でテレビドラマのロケがあったので寄ったそうなんです。

いやあ、イメージが狂っちゃったなあ、この有名な女優さん。 

八千草薫っていうと、なんか物静かで日本的、おしとやかなイメージがあるんだけど、ぜんぜん違うのこの人…。まあ、べらべら喋(しゃべ)りっぱなし笑いっぱなしなんです。キャロラインは、彼女のことなどまったく知らないからいいとしても、ウマはこの有名な女優さんを映画やテレビで何度も見てますがな。だから最初は緊張しましたよ。でも、すぐ打(う)ち解(と)けちゃった。

この女優さん、めちゃ面白い人なんや。日本語がまだまだ不自由だったキャロラインに、八千草さん、一生懸命英語を喋(しゃべ)ろうとするんです。ところがや、まあ、そのとんちんかんな英語に、自分でずっこけて笑ってるんです。 

夏の暑い日だったので、食卓に冷奴(ひややっこ)が出てたのね。それを八千草さん、キャロラインに英語で説明しようとされる…

「あの、キャロライン、これね、ヒヤヤッコ、えーとー、そうそう、コールドヤッコ! わかる? コールドヤッコ!」 わかるわけないでしょうが…

そして、キャロラインに食べ方を説明される…

 「ほら、生姜(しょうが)をね、えーとー、そうそう、ジンジャーね、ジンジャーをこう乗っけてね、それでね、えーとー、ウマさん、お醤油(しょうゆ)って英語でなんて言うの? そうそうソイソース、それでね、ジンジャーを乗っけたコールドヤッコにソイソースをこうかけてね…ベリーデリシャスよ!」

ま、こんな調子で、ず~っとしゃべりっぱなしでございましたねこの有名な女優さん… 

でも、駄(だ)じゃれを言い、自分のずっこけ英語に高笑(たかわら)いされたりと、まったく気取りのないその人柄には、ウマは、とても好印象を持ちましたね。大好きや、こんな有名人… 

さらに、いや、驚いちゃった。僕が大阪出身とわかるやいなや、八千草さん、突然、流暢(りゅうちょう)な大阪弁を喋り始めたんです。もう、びっくりしましたがな。彼女、なんと大阪出身だとおっしゃるんや。ぜんぜん知らんかった。

「エッ!ウマさん大阪? ほんま?」 

大阪弁をしゃべる八千草薫…、K教授の妹さんも、目の前で大阪弁をペラペラしゃべる八千草薫さんに「ひとみ(八千草薫さんの本名)が大阪弁をしゃべるの初めて聞いたわ」と、もう目を白黒させておられましたねえ。

有名人のイメージって、ずいぶん違うことがあるんやなあと、僕はランチをご一緒して思いましたね。

K教授の妹さんが八千草さんをキャロラインに紹介した時

「キャロライン、こちら、私の親友のひとみよ」と、本名で紹介したもんだから、キャロラインは、八千草薫さんのことを、ずっと「ひとみ」って呼んでましたね。  

で、キャロライン、「ひとみって本当に女優なの?」って、本気で疑ってた。 

でもその後、何年も経(た)って、大阪の自宅のテレビで、ドラマに出演していた八千草薫さんを見たキャロライン 「あっ、ひとみ!」

やっと、彼女が女優だと信じたみたいですね。 

以上、ウマのミーハー交友録でございました。

あのー…、ミーハーって、ダメ?


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ウマさんのミーハー交遊録~その2~

2023年08月18日 | ウマさん便り

南スコットランド在住のウマさんから「ミーハー交遊録」のお便りがあり、ありがたくこのブログに投稿させていただいたところ、「庇(ひさし)を貸して母屋を取られる」のではないかと心配するほどの大好評でした。

いささか微妙な気持ちのもと「~その2~」といきましょう(笑)


それでは、永島敏行さん…
 


かなり以前のこと… 

大阪は平野区のレストランで、俳優の永島敏行君と二人でワインをしこたま呑んだのはとても楽しい想い出ですね。 

フレンチレストラン「ゴルドナーヒルシュ(金の鹿)」のオーナー木下順子(よりこ)さんは、ある酒の会で意気投合(いきとうごう)して親しくなった方。

ある夜、順子さんから電話があり、今すぐ店に来て欲しい

「今、俳優の永島敏行さんが来てる。ウマさん、ちょっと相手してくれない」

 誰やソレ? あまり気乗りしなかった僕に「あとで加賀まりこさんも来るから」と順子さんがいう。エッ!よっしゃよっしゃすぐ行く!今すぐ行く!

あかん、やっぱりミーハーやボク。で、自転車で駆けつけた。 

その日、永島敏行は、「飛天(ひてん)(旧コマ劇)」での千秋楽(せんしゅうらく)の舞台がマチネーで跳(は)ね、舞台関係者との打上げのあと平野に来たらしい。

順子さんの友人が出演俳優の何人かをよく御存知だそうで、加賀まりこさん始め他の共演俳優たちも、あとでこの平野の店で合流するという。

で、皆さんが来られるまで、僕に、一人で先にやってきた永島敏行君のお相手をしてほしいんやなと解釈した。ウーム、やっぱりどっかで見た顔や。

いや、感心しましたねこの人、順子さんが 「こちらウマさんです」と紹介すると同時にさっと立ち上がり(がっちり背が高い 182cm!)「永島です。どうぞよろしく」と軍人みたいに60度のお辞儀(じぎ)をしたあと、ニッコリ大きな手を差し出すんや。いやあ礼儀正しいなあ、その強い握手(あくしゅ)にたちまち好感を持った。 

そして二人がけテーブルの彼の向かい側に座ると、なんと彼、すかさず厨房(ちゅうぼう)に行き、僕のためにワイングラスを持ってきた。

ウェイトレスがいるのにですよ。あと片づけに忙しい彼女たちへの気遣(きづか)いだったんじゃないかな。

僕は基本的に、あるいは個人的に、芸能人はあまり好きじゃない。でも、こういう気遣(きづか)いをする人っていいよね。

で、永島君、僕に丁寧(ていねい)にワインを注いでくれるのはエエんやけど、なんの話をしたらエエんか迷っちゃった。

で、「飛天(ひてん)」ではどんなお芝居だったんですか?と話を向けた。話を聞いてるうちに、彼、永島敏行のことをだんだん思い出してきた。

僕は、週刊誌や新聞の書評・映画評はたいがい目を通す。特に佐藤忠男の映画評には常に注目していた。その佐藤忠男が、たしか永島敏行主演の「サード」っちゅう映画のことを書いてた筈や。それを思い出したんや。僕は、音楽や映画のこととなると、もう、めちゃ記憶力がエエんだよね。 

ひょっとして「サード」っちゅう映画に出てはったんとちゃいます?

 「ええそうです。二回目の映画出演でした…」 

僕、その映画は観てないんですけど、監督はたしか、桃井かおりさん主演の「もう頬杖(ほおづえ)はつかない」の東監督だったですよね…

僕は、映画はある面で、プロデューサーや監督で観るものだと思っている。

「そうなんです。ウマさんよく御存知ですね」というあたりから、だんだん話が弾(はず)んできた。監督、脚本家、カメラマン、映画音楽などに僕があまりにも詳しいもんだから、永島くん嬉しくなったんでしょうね。顔がそう云ってる。 

NHK大河ドラマを書いたこともある大物脚本家・金子成人(なりと)の話しになった。永島くんも彼のシナリオはとても好きだという。

で、前述の中井貴恵さんの項にも出てきた僕の友人舟橋君、当時、フジテレビの小川ひろしショーのアシスタントディレクターのバイトをしていた彼が、中央線、荻窪(おぎくぼ)の金子さんの小さなマンションへ僕を連れて行ってくれた時の話をした。

その頃、まだまだ駆け出しのシナリオライターだった金子さん宅には書斎がなかった。もちろんワープロなどない時代ですよ。

で、金子さん、キッチンテーブルで僕がビールをいただいている目の前で原稿用紙に向かってましたね。それで二三枚書き上げると「ちょっとNHKまで行ってきます」…下駄(げた)はいて裸の原稿用紙を手にヒラヒラ持って…

今は脚本家として押しも押されもしない大家の金子さんの、まだまだ駆(か)け出し時代の話に、永島くんは興味津々(きょうみしんしん)、耳を傾けてくれた。

「へえー、下駄(げた)はいてNHKですか…」 

それから、監督、脚本、カメラ、音楽、そして俳優…、すべてが完璧だと僕が思っているフランス・イタリア合作映画、永島君も観(み)たという 「太陽がいっぱい」の話になった。

脚本・監督は、「禁じられた遊び」のルネ・クレマン、音楽はニーノ・ロータ、そして、なんと言っても素晴らしいアンリ・デュカエのカメラワークなどを熱っぽく語る僕に、永島くんもすっかり打(う)ち解(と)け、身を乗り出してウンウンと頷(うなず)きながら僕のグラスにワインをどんどん注ぎ、自分もどんどん呑んだ。もう、永島くん、…このおっさん、よう知っとんなあ…ってな顔つきだったですよ。
 

アラン・ドロンがね、ナポリの魚市場をブラブラするシーン、ストーリーとはまったく関係のないすごく穏(おだ)やかなシーンなのに、マリンバを用いたニーノ・ロータの音楽がこの映画で一番緊張感溢(きんちょうかんあふ)れる音楽になってる。

画面のイメージと全然異なる音楽…このシーン、結末を暗示しているようで僕は忘れられないんだよね。ルネ・クレマンの演出に舌を巻いたのがこのシーンなんですよ。

永島くん 「そのシーン、ぜひ観なおしてみます」 

ラストオーダーがとっくに終わってるのに、シェフが気(き)を利(き)かして、ワインに会う前菜風(ぜんさいふう)の色とりどりの肴(さかな)を、きれいな漆(うるし)のボードにたくさん盛り付けてくれた。コレ、めちゃ豪華なアテ(肴(さかな))やないか! と目を瞠(みは)っている僕に 「ウマさん、どれがいいですか?」と永島くん、自分のお箸(はし)で僕のお皿にたくさん取り分けてくれた。

ぜんぜんわざとらしくなく、ごく自然にそういう気遣(きづか)いをする…いいよね、こういう人…。ウマさん、めちゃ気に入った。
 

すっかり打(う)ち解(と)け、和気あいあいとお互いにワインを注(つ)ぎあい、映画の話で随分盛り上っていた時、彼が意外なことを云ったんでびっくりした。

「ウマさん、畑仕事をしたことありますか?」 なんとこの俳優さん、秋田に畑を借り、時々野良仕事に行くと云うんや。さらに稲も地元の方たちと植え、秋には収穫の手伝いにも行くという。

「土や野菜に触れてると気持ちがとても落ち着くんですよ。僕にとって畑で過ごす時間が最高なんですよね。ウマさんもどうですか?」

驚いた。野良仕事が最高やなんて云う俳優さんがいたんだね。

「将来は、農業をやろうかなって思ってるんですよ」

ほんまかいな? なんちゅう俳優や!

後年、僕がアラントンで野菜作りに精を出すことになるとは、その時はもちろん想像も出来なかった。だけどね、今、彼、永島くんの気持ち、もう、すんご~くわかりますよ。

畑にいるとね、どうしても自然と対話することになるんや…そして人間が謙虚になるんやね。畑仕事…こんな素晴らしいものはない。アラントンの野菜は完全無農薬、めちゃ美味しい! で、今となっては、永島君に是非ともウマが栽培したアラントンの野菜を食べてもらいたいよなあ。
 

順子さんが、ポラロイドカメラで写真を撮ってくれるという。

いやあボク…、有名人と一緒に写真に納まってニコニコするほどミーハーじゃないから写真は遠慮しときますよ、ハッハッハッ…で、でも、や、やっぱり撮ってくれる? 僕の右側に立った永島くん、なんと手を差し出して僕に握手(あくしゅ)をするじゃない。

…で、ニコニコと握手をするウマと永島くんの写真がすぐ出来た。さらに順子さん 「ウマさん、写真にサインしてもらったら?」

いやあボク、有名人にサインしてもらって嬉しがるなんて、もうとっくに卒業しましたよ…、ハッハッハッ…で、でも、や、やっぱり、サインしてください…ここで、ちょっと驚いた…

〈ウマさんへ〉や〈日付〉を書くのはまあ分かる。ところが彼、写真の一番下に〈ウマさんへ、会えてよかった。永島敏行〉と、実に丁寧(ていねい)に書いてくれたんや。いやあ嬉しくなりましたねえ。 

永島敏行…素敵な人や。有名人なのに、偉ぶることのない、実直・素朴な人に間違いないとウマは判断した。

「ウマさん今日はありがとう。ぜひまた会いましょう」再会を約束した永島くんのお蔭で、その夜のワインはずいぶん美味(おい)しいものとなった。彼と二人で、かなり高級なワインを三本以上空けたんとちゃうか。

さらに順子さんが、ウマさん、きょうはお勘定(かんじょう)はええのよ、と言ったので、よけい美味しかったなあ (もっと呑んだらよかった)。

ところで、加賀まりこさん、まーだぁー? 

五木寛之さん… 


旧友で、呑み仲間でもある日本唯一のファド歌手・月田秀子と、作家・五木寛之さんのジョイントコンサートが、東京、名古屋、大阪で催されたのは2003年の12月はじめのことだった。

五木さんとジョイントコンサートをしたら?と月田秀子に薦(すす)めたのは、実は、彼女のコンサートを何度も企画してきた僕、ウマなんです。

五木さんが語り詩を朗読し、その合い間に月田秀子が歌う…という構成のステージ…。その夜、大阪サンケイホールは満員だった。 

僕は、あらかじめ、電話で月田秀子に言われていた。

「ウマちゃん(彼女は僕をちゃんづけで呼ぶ)、コンサートが終わったら打ち上げがあるから4階の楽屋に来てね、五木さんを紹介するから…」 

素晴らしいコンサートだった。やっぱり人気作家や。自分では、九州訛(なま)りで口下手(くちべた)だと謙遜(けんそん)しておられるけど、話のだんどりと言うか、お喋(しゃべ)りのその構成が緻密(ちみつ)なんだよね。

決して饒舌(じょうぜつ)じゃない、どちらかと云えば、訥々(とつとつ)とした語り口なんだけど、ツボを得た、しかもユーモアを忘れないそのおしゃべりがとてもいい。引出(ひきだ)しの中に様々な話題を、もう豊富に持っていらっしゃるんやろなあ。

兵庫県加古川市の、五木さんの親戚の中学一年の女の子が電車で痴漢(ちかん)に会ったという。

「彼女が痴漢に敬語を使うんですよ。わたしのオッパイ触(さわ)りはるねん…」サンケイホール、大爆笑でしたね。 

で、コンサートが盛況裏(せいきょうり)に終わり僕は四階の打上げ会場へ行った。

長テーブルが三つほど並べられた立食パーティー。ところが、たった一人だけポツンと椅子に座っておられたのが五木さん。あまりにも大物過ぎて皆さん敬遠してるんやろか。

月田秀子は向こうで取り巻きに囲まれている。五木さんはかなりお疲れの様子です。ウーム、どうしたものかなとウマが思案していると、月田が取り巻きの輪から離れて僕のところへ駆(か)けて来た。そして、サッと僕の腕を掴(つか)んで五木さんのところへ連れて行き

「五木さん、こちら私の後援会会報に連載コラムを書いてくれてるウマちゃんです」と紹介した。とてもお疲れの様子の五木さんだったけど、わざわざ立ち上がって僕に挨拶されたのには恐縮した。で、三人でしばらく話をしたんだけど、僕が、月田秀子に、どうして五木さんと知り合ったの?と訊(き)くと、彼女、呆(あき)れた顔して   

「ウマちゃん、あなた何を云ってるの? 私がファーストアルバムを出した時、あなたが、五木寛之さんに送ってみたらって云ったの憶(おぼ)えてないの?」 それを受けて五木さんがおっしゃった。

「送られてきたCDには驚きましたね。当時、日本にファド歌手がいるとはまったく思ってなかったですから」 

 ここで、月田秀子との出会いを振り返る… 

もう30年ぐらい前になるかなあ。ある酒の会で共通の友人から紹介された。

「ファドを唄ってます」という彼女に、ああ、ファドって云うとアマリア・ロドリゲスですよねと応(こた)えた僕に、彼女はとても驚いていた。

当時、ファドを知る人なんて日本ではほとんどいなかったんじゃないかな。でも僕は知っていた。さらに五木寛之さんの初期のエッセイ集「風に吹かれて」の中で、五木さんが、ファドの女王、ポルトガルの国民的英雄アマリア・ロドリゲスのことを書いておられたのも憶(おぼ)えてたんです。

そんなわけで、月田秀子のファーストアルバムを五木寛之さんに送るように薦(すす)めたんだと思う。そして月田秀子の熱心なファンとなった五木さんは、TBSラジオの自分の番組に、時おり彼女をゲストで呼ぶようになったのね。

さらに、彼は、連載している日刊ゲンダイのコラムに、ちょくちょく月田のことを書いてくれた。ま、そんなきっかけをつくったのが、つまり、ウマだったというわけ。
 

そのあと、五木さんと二人だけで30分ほど、いろいろとお話しした。

スコットランドへは行かれたことありますか?との僕の問いに

 「五回行きました。いつも車で移動するんですけど、もう、うんざりするほどきれいなところですね。そして、ウォルター・スコットやロバート・バーンズなど、作家や詩人の銅像があちこちにある国っていいですね。僕は毎回、グレンイーグルとターンベリーでのゴルフが楽しみなんですよ」とおっしゃる。でも五木さんとゴルフってちょっとイメージが合わないんだけど…

彼との会話中、彼が僕のことをずっと「内間さん」と呼んでいたのが印象深い。月田秀子をはじめ、まわりにいた誰もが僕のことをウマ、あるいはウマさんウマちゃんと呼んでいたにもかかわらずです。そういう礼儀が、彼の矜持(きょうじ)なんでしょうか。

こんな方って、上から目線じゃないんだよね。

続く


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ウマさんのミーハー交遊録~その1~

2023年08月16日 | ウマさん便り

「ウマの、嬉し恥ずかしミーハー交遊録(こうゆうろく)」

娘たちによく云われます。「おとーちゃんはミーハーや…」

女房のキャロラインさんは、どんな有名人に会っても態度が全然変わらない人。だからウマみたいに有名人に会うとわくわくソワソワする人間は、余計にミーハーに見えるんやろなあ。ま、しゃーないよなあ。

 ウマがちょっと口をきいた有名人、ほんのひと言ふた言も含めるとけっこうたくさんいるよ。

坂本九、吉村まり、阿部公房、司馬遼太郎、大原麗子、サミー・ディヴィスJR、(無名時代の)村上春樹、ジュリエット・グレコ、ジューン・アダムス、伊丹十三、コシノヒロコ、市川吉衛門、加山雄三、田中邦衛、桂枝雀、桂三枝、桂文珍、和田アキコ、ディジー・ガレスピー、サラ・ボーン、カウント・ベイシー、横山フック、坂上二郎…、もっといると思う。 

30分以上口をきいたり、一緒に呑んだり食事をした有名人…

 日野皓正、中島らも、中井貴恵、長谷川きよし、小林麻美、高村薫(直木賞作家)、笑福亭鶴瓶、八千草薫、五代目桂米團治(小米朝)、五木寛之、C.W.ニコル、藤あや子、永島敏行、赤井英和、田辺聖子、斉藤由貴、風間トオル、藤原紀香、コシノヒロコ、元ゴールデンハーフのエヴァ…もっといると思う。

これもきりがない。ほんまかいな?と疑う人もいるでしょうね。しかしやね、こんな話、わざわざウソついてでっち上げてもしゃーないでしょうが。自慢にもならんし…

上記の有名人たちと御一緒した経緯(いきさつ)、いちいち、ああなるほどと、あなたが納得出来る説明は出来ますし証明も出来ますよ。ま、どうでもエエことやけど… 

ここでは、いままで御一緒したなかで、特に印象深い有名人…北村英治さん、中島らもさん、中井貴恵さん、永島敏行さん、そして藤原紀香さんの事などを…そうそう、藤あやこさんや八千草薫さんのことも書いとこうかな… 

まず、北村英治さん… 

ジャズ雑誌の人気投票、そのクラリネット部門で、もう半世紀もずっとナンバーワン、世界的に見てもトップミュージシャンです。

このきれいな白髪のクラリネット奏者とは、僕が企画・構成したディナーショーでお会いしたのが最初だった。僕のMC(司会)にずっこけるぐらい感心した彼と、その後、縁あってよくご一緒することとなった。プロモーターの仕事をしていた妹の純子は、仕事上、北村さんとは親しかったらしい。 

で、その日のステージ…、MCの僕はまず… 

…創成期のNHKの技師をしていたお父様が英国留学中に生まれたので英治と名付けられたんですよと切り出し、御両親・御兄弟は皆さんどなたも楽器を嗜(たしな)んだけど、五男坊の英治少年だけは音楽嫌いだった。

戦争で焼け出され、半分焼けたピアノの脇でサンマを焼き「これでピアノの練習をしなくて済む、あゝ嬉しい」…、そんな彼が如何(いか)にクラリネットに出逢い、如何に慶応大学在学中にプロデビューしたか…などなど、様々なエピソードを紹介したあとで彼をステージに呼び出した。

「さあ皆さん、世界最高のクラリネットをお楽しみください。北村家の偉大な五男坊、どうぞっ!」ステージの脇で北村さん、ずっこけてたそうです。 

大いに盛り上がったディナーショーのあとの打上げの席、もちろん北村さんの席は一番奥の上座です。僕はミュージシャンたちにサービスせんといかんから座敷の入り口の脇にいた。

「皆さんご苦労さんでした」と乾杯したあと、北村さんが 「ウマさん、ちょっとこちらに来て」とおっしゃる。で、一番上座の彼のところに行くと、なんと彼、脇の席に移り「ま、ここに座って」と、自分が座ってた席に僕を座らせるんです。つまり一番下座にいた僕が、一番上座に座っちゃったんです。

「ウマさん、きょうはほんとにありがとう」とわざわざおっしゃった(ふつうミュージシャンはそんなこと言わん)。 

「僕ね、長いことミュージシャンしてるけど、あんな風に紹介されたの初めて。もう、びっくりしちゃった」と、ニコニコ顔でかなりご機嫌なんです。そして

「僕ね、こんなの練習してるんですよ」と、ブリーフケースから赤茶けた古いモーツァルトの楽譜を出して僕に見せるんです。さらに

「今でも月に一度、芸大の先生についてクラリネットのレッスンを受けてるんですよ。ところがね、クラシックの世界では日本最高のその先生ね、僕よりうんと若い方なんだけど、彼がクラリネットを始めたきっかけが、僕のクラリネットを聞いたからなんですって。だからレッスンをお願いした時、とんでもないって、最初、断られちゃった。なんかおかしいよね」

この北村さんの話を聞いて、よく似た話を思い出した… 

 ラプソディ・イン・ブルーほか、数々の名曲を残したあの偉大な作曲家ジョージ・ガーシュイン…その彼が、現代音楽最大の巨匠ストランビンスキーに弟子入りを乞(こ)うた時、巨匠は 「あなたに教えることなんてありません」と困惑したという。  

双方どちらもスーパースター、その謙虚さを大いに感じるこのエピソード、僕はとても好きなんですよね。

世界でも最高峰のジャズクラリネット奏者・北村英治さんが、クラリネットを今でも習っておられる…、御本人から、超意外なその話を聞いた僕は、もう上座に座っていることなど忘れて感激しましたねえ。北村さんは

「ホラ、ウマさん、焼けてますよ」と、七輪の炭火焼の丹波ビーフを、僕のお皿に乗っけてくれました。 

 「ずいぶん以前の話なんだけど、ダブリンのジャズフェスティバルで演奏した時ね、一番前の席でハンカチを握(にぎ)りしめ食い入るように僕を見つめてる御婦人がいたのね。その彼女、あとで楽屋に来て、かなり興奮して僕に言うんです。

―エイジ!あなたのクラリネットでわたし失神しそうだわ―って…そして僕に強烈なハグしてほっぺに何度もキッスするんです。で、彼女が僕の歳を訊(き)くので64歳ですって答えたら、彼女、もう、すんごく喜んじゃって、あーらエイジ! 私の息子とおない歳だわ!ですって…」 

北村さんは、大阪での仕事を終えたあと、北新地にあったジャズクラブ、僕も親しいドラマー浜崎衛さん経営の「A-ラック」に寄るたびに僕に電話をくれた

「ウマさん、来ない?」

この店で、僕の親友と言っていいクラシックのピアニスト吉山輝の伴奏でクラリネットを吹いた北村さんには吉山も感激していた。ほんとに偉い人ってぜんぜん偉そうにしてないんだよね。

クラリネットを吹くために生まれてきた北村英治さん…そのクラリネットを支える右手親指に大きなタコがある北村英治さん…とても素敵な方です。いつまでもお元気で! 

中島らもさん… 

らもさんの灘高時代の一番の親友が僕の呑み仲間のシンちゃん。そのシンちゃんの結婚披露パーティーで、らもさんとは同じテーブルだった。

新郎新婦とも、日頃から僕の息子のジェイミーを可愛がってくれたので、ジェイミーもパーティーに呼ばれた。彼は七歳ぐらいだったかな。

らもさんの隣りにジェイミーが座ったのはちょっとまずかった。ジェイミーは好奇心旺盛なやつで、例えば、銭湯で「桜吹雪」や「昇り龍」の背中のおっちゃんをみると、すぐさまそのおっちゃんのところへ行き、「おっちゃんの背中、なんでこんなんやの?」 普通の子供やったら、まず親に訊くやろ「おとーちゃん、あのおっちゃんの背中、なんであんなんやの?」

で、らもさんのとなりに座ったジェイミー、さっそく好奇心を発揮した。

「おっちゃん、なんで毛が馬のしっぽみたいに長いの?」

「おっちゃん、なんで黒いメガネかけてんの?」

「おっちゃん、なんで帽子かぶってんの?」 

はじめ、「おっちゃん散髪代がないねん」などと答えていたらもさん、ジェイミーの止まらない質問の連発に、とうとう 「この子、なんとかしてください」 

当時、朝日新聞連載の「中島らもの明るい悩みの相談室」は、ひょうきんと云っていいその愉快な問答に、僕も含めて多くのファンがいたと思う。で、らもさんにお願いした。

「明るい悩みの相談室」に質問を投稿しようと思ってるんですけど、ぜひ僕の質問を採用していただきたい、つきましては、コレ賄賂(わいろ)です」たまたま持っていた英国の5ポンド紙幣を彼に渡そうとした。もちろん冗談ですよ。ところが、らもさん、超真面目に「そ、そんなん受け取れません」

誰でもわかる冗談を真面目に受け取った彼に、まわりの誰もが大笑いやった。 

そのあと、らもさんとは50年代60年代のアメリカンポップスなど音楽の話で盛り上がり、「このあと、ゴンチチのパーティーに呼ばれてるんですけど、ウマさんとジェイミー、一緒に来ませんか」と誘われた。だけど、その時、ウマは、ゴンチチが有名なギターデュオだとは知らなかった。いまから考えると行っとけばよかったよなあ。ジェイミーがたこ焼き食べたいっちゅうもんやから、らもさんとはご一緒しなかったんや。 

御一緒した席で、彼は一滴も飲まなかった。後年、彼の小説 「今夜、すべてのバーで」を読んで、自身の壮絶なアル中体験を知った。あの作品は芥川賞級の彼の最高傑作だと今でも信じている。

彼が、階段から墜ちるという不慮の事故で亡くなったとき、僕は「あゝ、彼らしいなあ」と思って、別に驚かなかった。

唯我独尊(ゆいがどくそん)とは別の意味で、日本の文壇とは隔絶した孤高の人だったように思う。彼が僕にくれた自宅の住所や電話番号は今でも持っているよ。 

中井貴恵さん… 

1970年代はじめ頃だったと思う。中井貴恵さんと、渋谷の「インデイラ」というカレー屋で食事したあと、東急会館の喫茶店でコーヒーを飲みながら、かなりだべったことがあった。

厳密に言うと、その時、彼女はまだ有名人じゃなかった。彼女が主演した市川昆監督の「女王蜂」の撮影がすべて終わり、来月公開という、つまり女優としてデビュー直前だったんですね。だけど、あの佐田啓二の娘だとは聞いていた。弟の中井貴一はまだ高校生じゃなかったかな。 

当時、早稲田の学生だった彼女は、テニス部のほか「放送研究会」に所属していたが、その同じサークルにいたのが、僕の親しい友人だった舟橋君で、彼の紹介で会ったわけなんです。

カレーを食べてる時、漬物(らっきょや福神漬など)の容器を、わざわざ僕の前に置いてくれたり、お水を注(つ)いでくれたりした。この人、気配(きくば)りする育ちのええ人やなあ、というのが第一印象。

そのあと、場所を変え、コーヒーを飲みながら映画の話になった。映画の話ならウマに任せなさい。 

「カサブランカ」で、ハンフリー・ボガードが、自分の経営する店のピアニストに、「その曲は弾くなと言ってあるだろ」と、アズ・タイム・ゴーズバイを止(や)めさせる有名なシーンのことを彼女は知らなかった。女優を目指すんだったら、イングリッド・バーグマンやキャサリン・ヘップバーン、ダイアン・キートンの映画は観なくちゃだめですよなんて偉そうに云っちゃった。

「第三の男」のアントン・カラスによるテーマ、ニーノ・ロータによる「太陽がいっぱい」のテーマも、彼女、知らなかった。でも「是非、聴いてみます」 その素直さにはすごく良い印象を持ちました。もちろん、一世を風靡(ふうび)した菊田一夫の名作「君の名は」で、岸恵子の相手をした彼女のお父さん、佐田啓二さんの話をするのは遠慮した(彼女が幼い時に交通事故でなくなったからね)。 

自分の父親が有名俳優だったことなどおくびにも出さないその控(ひか)えめな性格に、ウマはとても好感を持ちましたね。のちに有名女優になることがわかってたら、もっと仲良くしておくんだった。いや、いかんいかん、やっぱりミーハーやウマは…

そうそう、前述の舟橋君とはぜひ再会したいと願ってるけど、一緒に中井貴恵さんともまた会いたいなあ… 

続く


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青天のへきれき物語

2023年08月01日 | ウマさん便り

南スコットランドからの「ウマさん便り」です。

「ウマの、あゝ青天のへきれき物語」
 

時々、訊かれることがある。

「どうして、スコットランド人と結婚したんですか?」 

ところが、そんな質問にどう答えていいのか自分でもよくわからない。でね、以下の文章を読んでいただいたら、皆さんにも、なんとなくその理由がわかっていただけるような気がするんだけど…さあ、どうかなあ?

そもそも僕の場合、結婚に至る経緯(いきさつ)がちょっと普通じゃないんだよね。ま、それはともかく、結婚したからにはその相手との出逢(であ)いというものがある。ちょうどいい機会だから、とりあえず、まず、そこらへんから振り返ってみようかな… 

…1978年9月の始め頃のことだった…(と思う)。その頃、世田谷の僕のアパートに、エリックというフランス人が居候(いそうろう)していた。その彼が「パーティーがあるから一緒に行こう」と僕を誘った。かなり蒸(む)し暑(あつ)い日だった。あまり気が進まなかったけど、ま、暇(ひま)だったので出かけた。

ペットボトルなどなかった当時、コカコーラの1リットル入り瓶(びん)とナビスコのクラッカーを手にJR中央線に乗り、東京の西方、三鷹駅で降りた。そして、駅の南口からかなり離れた、まあ、恐ろしく粗末(そまつ)な、外国人ばかり住んでいるというそのオンボロアパートの、崩(くず)れ落ちそうな階段を上った。

お世辞(せじ)にも綺麗(きれい)とはいえない6畳の間には、車座(くるまざ)に座った外国人の男女が10人ほどいただろうか。 

「よかったらどうぞ」…

僕はコカコーラとクラッカーを、車座の真ん中あたりに置いた。その直後

 「コカコーラは身体(からだ)によくないですよ」と、僕の対面(たいめん)にいた女の子がぬかしはった。ややカチンときた僕は、すごく目の大きいそのブロンド・ロングヘヤーの女の子に軽く反発してしまった…「じゃあ、何が身体(からだ)にいいんですか?」

表情豊かでなかなか可愛い娘(こ)やなあと思ってたけど、ちょっと意地(いじ)を張ったんやろね。ところが、その彼女の返事には面食(めんく)らった。

「玄米(げんまい)が身体(からだ)にいいです」…

ちょっとちょっと君なあ、飲み物と食べ物を混同したらアカン。さらに意地を張った僕「じゃ、あなたは玄米を食べてるんですか?」

ところが「エエ、毎日食べてますと」とぬかしはる。その上さらに「あなたにも食べさせてあげましょうか?」とニコッとしておっしゃる。意地を張ってた僕は、あとに引けなくなっちゃって「じゃ、食べさせていただきましょう」

それが、キャロラインさんとの出逢(であ)いだったですね。

ま、そんなわけで、僕は、わざわざ玄米を食べに、日本にやって来てまだ間がないというキャロラインさんの、渋谷区代々木上原(よよぎうえはら)のアパートを訪(たず)ねる羽目(はめ)になっちゃったんや。ま、武士に二言(にごん)はないっちゅうことでござるよね。

もちろん、独身女性、しかも外国人女性のアパートに、単身で訪(おとず)れるという非礼は避(さ)けたかったので、友人を伴(ともな)ったのは云うまでもないのでござる。

なっ?こういうこころがけ、やっぱり武士とちゃうか? エッ? 尊皇攘夷(そんのうじょうい)を思い出せ!いや、おぬしな、大きなお目目の西洋美人を目にしたウマは開国派(かいこくは)に転向(てんこう)したのよ。勝海舟(かつかいしゅう)や福沢諭吉(ふくざわゆきち)に習(なら)えでござるぞ。

エッ? 情けないニッポン男子や! すんまへんな… 

ところで、玄米(げんまい)が身体(からだ)に良いというのは僕も充分承知していた。でもね、当時、マクロヴァイオティック、つまり、菜食(さいしょく)中心の健康食にいたく興味と関心をもっていたキャロラインさんの、その玄米なあ…小さい鍋にニンジンやキューリをぶつ切りにしたのといっしょにぐつぐつ煮(に)てるんや。そして塩を振っただけのそのお味なあ…ウ~ム、ちょっとコメントは控(ひか)えたい。いっしょに御馳走(ごちそう)になった舟橋君も、ニコニコしながらもちょっと顔をしかめてたね。 

屈託(くったく)のないその笑顔、大きなお目目が印象的な、とても爽(さわ)やかな人だとは思ったけど、でもね、キャロラインさんって、日本から遥(はる)か遠~い西洋からやって来た方や。僕にしたら、スコットランドなんて、地球の裏側の、そう、ネッシーがいるファンタジーの国なんや。所詮(しょせん)、別世界にいる縁のない人だよね。で…

「玄米ありがとう。とても美味(おい)しかったです(一応な)」

それで、彼女とはそれっきりになってしまったと思った。 

ところが、一週間後ぐらいだった。おおぜいの人でごった返す渋谷駅のハチ公前で、ばったりキャロラインさんと再会したんや。

「ウマッ!」うしろから声をかけられたので振り返ったら彼女だった。

当時は今と違い、東京でもまだまだ外国の方は少ない時代やった。だから、ブロンド・ロングヘヤーの彼女はハチ公前でもかなり目立ってたね。

僕は、道玄坂(どうげんざか)の百軒店(ひゃっけんだな)にある行きつけのジャズ喫茶で、たった今買ったばかりの話題のハードボイルド、ギャビン・ライアル著 「深夜プラス1」 を読もうと、ワクワクしながら向かうところやった。

でもね、偶然(ぐうぜん)とはいえ予期せぬ再会じゃない。ちょっと迷ったけど、ダメもとで誘ってみた。「良かったら一緒に来ませんか?」

いや驚いた。なんと彼女、一緒に来ると言うんや。エッ? ほんまかいな? 予想外の反応に僕はちょっとうろたえた。でも、あとで気が付いたことなんやけど、日本に来たばかりの当時のキャロラインさん、たぶん、日本人の友達が欲しかったんやろね。少しは英語が通じる日本人の友達がいたら、なにかと便利やもんな。 

ジャズ喫茶というものは日本独特のもので外国にはないということは僕も承知していた。そのせいかキャロラインさん、巨大なスピーカーや、壁一面のおびただしい数のLPレコードに目を瞠(みは)っていた。しかし、その大音量の中ではとてもお話など出来ないので早めに出て、すぐ隣りのカレー屋さんで食事をした。

彼女との再会はまったく想定外(そうていがい)の出来事だったけど、その時が、彼女と、まあ少しはプライベートなお話をした最初だったんじゃないかな。いや、ウマにとって、西洋人の女性と二人きりでお話したのはその時が最初だったんで、ちょっと緊張(きんちょう)した。 

パーレビ当時の革命直前、外出もままならない超不穏(ちょうふおん)なイランの、その軍学校で彼女は英語教師のアルバイトをしていた。教員宿舎のとなりにいた、当時の慶応大学教授で、イスラム学者として知られたK教授と出逢(であ)ったことが日本に来るきっかけとなった。

でもその時、彼女は、日本がアジアのどの辺にあるのか、はっきりとは知らなかったと言う。来日直後は、千葉の田舎の、K教授の実家にお世話になり、その後、代々木上原(よよぎうえはら)に住む教授の妹さん宅の近くにアパートを見つけてもらったことなど、日本に来た経緯を教えてくれた。

僕と出逢(であ)ったのは、どうやら、その代々木上原に住み始めてすぐの頃だったようやね。 

渋谷・百軒店(ひゃくけんだな)のその老舗(しにせ)のカレー屋さんで、美味(おい)しそうに日本のビールを飲む当時23歳の彼女を眺(なが)めながら、正直言って、素敵な外国人女性と少しはお近づきになれて、ま、嬉しいなとは思った。しかし、いつかは国に帰りはるやろし、もちろん、きっとハンサムな外国人の彼氏もいてはるやろし…

彼女ってやはり縁のない人だと思った僕は、再会の約束なんてもちろん遠慮した。ま、彼女とはそれっきり…と、再び思ったわけやね。 

が、ところがや…、やはり一週間後ぐらいだった。中央線四谷駅で、なんと、またまたバッタリ出くわしたんや。電車に乗ると、すぐそこに彼女が立ってたんだよね。ほんとにびっくりした。彼女も大きなお目めをさらに大きくして驚いていた。 

巨大都市巨大人口の東京で、またまた偶然の再会や。なんなのこれって? 

ちょうどその週末、居候(いそうろう)のエリックが、アメリカ人やニュージーランド人カナダ人など友人を呼んで「鍋(なべ)」パーティーをする計画を立てていた。

で、彼女に「鍋」のことを説明してみた。野菜なども含め、もうなんでも放り込んで煮て、それを皆でつっつく。そうそう豆腐(とうふ)も入れるよと云うと、彼女、途端にニッコリ「豆腐をぜひ食べたい」…で、是非パーティーに参加したいとおっしゃる。

豆腐には格別に興味があったんやろか。そこで「彼氏も連れて来たらどうですか?」と云うと「もし彼氏がいたら連れて行きます」との返事…

でも、鍋パーティーには彼女一人でやって来た。そして「こんなに美味(おい)しいものはない」と、豆腐が大好きになった様子。

その時、この人はきっと日本が好きなんやろなと思った。 

その鍋パーティー以後かな、彼女と週に一度ぐらい会うようになったのは。お互いに便利なので渋谷近辺が多かったと思う。

忘れもしないのは、ガード下のおでんの屋台だった…

屋台で、初めてのおでんと日本酒を楽しんだ彼女、もう感激してたね。

「こんなお店見たことない。素晴らしい!」と、豆腐はもちろん、初めて食べるこんにゃくやハンペンに大感激してた。屋台のおじさんも、「この外人さん、日本人みたいだね」と、おでんもお酒も特別にサービスしてくれた。

その時、また思った…この人、やっぱり日本が好きなんやな。 

会うたびに彼女は、愛するスコットランドのことや、グラスゴーに住む自分の家族のこと、伯母(おば)さんたちや従姉妹(いとこ)たちのことを語り、大学を休学してヒッチハイクでスペインやギリシャなどへ行った思い出話を、楽しそうに話してくれた。

伯母(おば)さんたちや従姉妹(いとこ)たちには独身者が多く、独身生活を謳歌(おうか)している彼女たちの暮らしぶりを見てきたせいやろか、僕には「私は結婚しない人」ってよく云っていた。

つまり独身主義者というわけやね。最初、僕と一定の距離をおくための発言じゃないかと思ったけど、何度も「私は結婚しません」と真剣に云うんで、やっぱりほんまの独身主義者だと信じたね。
 

時々会ってたとは云え、交際しているという感覚は、実はあまりなかった。彼女もそう感じてたと思う。ま、遠い国から来た方に、いろいろ日本のことを教えてあげることが出来て嬉しいなってなスタンスで接していた部分が大きかった。 

キャロラインは、一度訪れた京都の嵯峨野(さがの)にかなり惹(ひ)かれたようで「お豆腐の美味(おい)しい嵯峨野に住めたら最高!」と云ったことがある。健康食に人一倍興味と関心があった当時の彼女が、豆腐ファンになったのは当然やろね。

で、翌年のことだけど、僕が家の事情で大阪に戻ることになった時…

「大阪は京都に近いから、どう? とりあえず大阪に引越してじっくり嵯峨野でアパートを探したら?」と、もちろんダメもとで彼女に話を振(ふ)ってみた。  

すでに慣(な)れ親(した)しみつつあった東京、仕事も順調で友人もたくさん出来た東京、さらに、日本語学校の松尾先生を自分の実の叔母のように慕っていたし…

それらを捨てて大阪に移住するってのは、ま、とても無理な話しだと僕が思ったのは当然だったけど… 

だけど驚いた。彼女、なんと「大阪に行ってみようかな?」と反応したんや。

いやあ、予想外の反応に、ほんまかいな?と思ったね。だから念を押した…

「東京と大阪はまったく違うよ。日本で大阪だけがラテンの国みたいやで」と云うと「大阪はコメディの本場って聞いてるけど、私の育ったグラスゴーも英国ではコメディーの本場、だから大阪には興味がある」と云う。

彼女の好奇心の強さには、もう、ウ~ム…だったね。そもそも、はるか遠い日本にやってきたのも、その好奇心のなせるわざだったんやろね。そしてその好奇心って、異文化に対するものだった。自分の知らない世界、違う文化の国を知りたいという、人一倍強い好奇心… 

聖徳太子建立(こんりゅう)とされる大阪の四天王寺、その東門脇の境内(けいだい)にあった「一音院(いちおんいん)」(今もあると思う)、その住職で画家でもあった坂本さんの奥さんは、歌舞伎が大好きなアメリカ人のヘレンさんだった。

坂本住職夫妻は、その風情(ふぜい)ある「一音院」の中にアパートを設け、近くにあった大阪外国語大学の海外からの留学生を住まわせ、何かとお世話をしておられた。ところが、その大阪外大が郊外に移転したため、その小さなアパートには空(あ)き部屋がたくさん出来ていた。

で、キャロラインのことを坂本夫妻に相談したところ、快い返事をいただき、彼女はめでたく四天王寺の境内に住むことになった。ま、嵯峨野(さがの)じゃないけど、この「一音院」での暮らしは、彼女にとってかなり快適だったみたいやね。 

そして、大阪でのあらたな仕事も順調で、友人も増え、さらに、なんと、東京にいた外国人の友人たちが、続々と大阪に引越してきたりして、日々、とても楽しかったんじゃないかな。

普通の日本人にとっても、由緒(ゆいしょ)あるお寺の境内にあるとても風情(ふぜい)ある院に住むなんて、ちょっと得がたいことだよね。その一音院には、なんと小さいけどプールまであった。
 

そんな大阪での生活が始まってしばらく経(た)ったある日…

「お腹が強烈に痛くて動けない」と、僕に緊急の電話をしてきた。喋(しゃべ)るのもかなり苦しそうな彼女、これは普通じゃないと判断した僕は救急車を要請(ようせい)した。で、運ばれた生野(いくの)区内の民間病院で盲腸の緊急手術を受けた。

ラッキーなことに、ちょうどその三日前、彼女は国民健康保険に加入したところだった。そして、僕はもちろん、僕の母も、入院中の彼女のお世話をすることになったわけです。 

当時の僕の家族、両親はもちろん、おばあちゃんも、言葉など全然通じないのに、彼女のことをかなり気に入ってた。彼女が昼下(ひるさ)がりの縁側(えんがわ)でおばあちゃんの肩を揉(も)んでたこともあった。おばあちゃんがニコニコして云った「エエ娘(こ)や」…

その時思った…この人は人種的偏見をまったく持ってないな。

いや、今、思うんだけど、人を上にも下にも見ない人なんやね。人を見下したり、逆にへりくだったりする彼女を見たことは、今まで一度もない。後年、ダライラマやエリザベス女王と会った時も、態度が普段とまったく変らなかった。

ま、盲腸の手術などは想定外だったと思うけど、東京同様、様々な異文化体験を楽しんだ大阪での生活は、けっこう楽しかったんじゃないかな。 

やがて、スコットランドに帰ることになった彼女を、伊丹空港に見送る日が来た。そしてその時、東京や大阪、京都や奈良、それに、大好きな日本の田舎(いなか)を存分に楽しみ、異文化に対する好奇心をふんだんに満足させた彼女のことだから、多分、もう日本には来ないんじゃないかという予感がした。

でも「ウマ、グラスゴーに遊びに来たら?」との誘いには乗った。

そして1980年8月、僕はグラスゴーを訪れた。初めてのスコットランドは、実に楽しく有意義な体験だった。彼女の家族はもちろん、すべての方が僕を温(あたた)かく歓迎してくれた。そして皆さんどなたも「日本に行ってみたい」とおっしゃるんでびっくりした。キャロラインが「日本は素晴らしい国」だと伝えてたんやね。で、後年、兄弟や妹、それに従姉妹たちが続々と日本にやってくることになる。 

十日ほどの滞在中、例の独身の伯母さんたちや従姉妹たちのおうちにも何度か呼ばれた。やっぱりキャロラインの云う通りや。皆さん独身生活を優雅に楽しんでおられる。

だから「私は独身の人生を歩むつもり」と、 かつて彼女が何度も云ったことにも、ま、納得出来たわけやね。一生独身の人生も、また良きかなだよね。
 

愛する故郷スコットランドに帰り、素晴らしい人たちに囲まれ、幸せに過ごしている彼女を見た僕は、帰りの飛行機の中で、たぶん彼女と会うことは、もうないやろなと思った。そしてそれ以降、手紙のやりとりもうんと少なくなった。 

ところがや… 

なんと晴天のヘキレキや!もうウマは目が点になりましたがな、その、とんでもない手紙を受取った時は…

1981年師走(しわす)に入った頃だった。クリスマスカードに添(そ)えられた、彼女からの、まあ、実に久し振りの手紙…、それを見たウマは、もう、目が点になっちゃったのよ。なんとなんと、あのコテコテの独身主義者が

「わたし来年の二月に結婚することしました」…エーーッ!!! なんやてーー??? 

一生、独身で過ごす云うとったやないか! 

でもな、めちゃビックリしたけど、すぐに思い直した。本人さんがそう云う以上、これはやっぱり祝福(しゅくふく)せんといかん。そうや、ここはひとつ祝福せんといかんよな。で、その衝撃的な手紙の続きを読んだ…

ところがや、驚いた! 驚いた! またまた驚いた!  な、な、なんやこれは?

なんと晴天のヘキレキ第二弾が待っていた。目が天に、アッ、ちゃう、目が店に、アッ、ちゃう、興奮して間違うてしもたやないか。お目目がね、もう一回点になっちゃったのでござる。な、な、なんやこの手紙は? これを晴天のヘキレキと云わずしてなんと云う! 

その手紙の最後にはこうあった…

「…そう言うわけだからウマ、あなたは、遅くとも結婚式の一週間前にはグラスゴーに来て、まず神父さんと会ってください。新郎として着用する服は日本から持ってきてください」ナ? ナ? なんやコレ~~???

以上、我が人生における「晴天のヘキレキ物語」でございました。ああ、しんど… 

いずれにしてもその手紙のビックリ内容に、コレほんまかいな?と若干(じゃっかん)の疑いは持ってた。だから姉や妹には「ひょっとしたらキャロラインさんと結婚することになるかもわからん」ってな言い方をしてたね。 

ま、そんなわけで、翌年二月、若干(じゃっかん)の不安を抱(かか)えながら、グラスゴー行きの飛行機に搭乗した次第です。飛行機の中で気が付いた。結婚ってプロポーズっちゅうもんがあるんと違うか普通は。僕、プロポーズしたっけ? いや、そんな記憶ないで。プロポーズなんかしてませんがな。そもそも彼女が「わたしは独身主義」…何度も云うとったしな。 

では、なぜ彼女がウマとの結婚を決意したのか? これ当然の疑問だよね。彼女の独身主義は、伯母(おば)さんたち従姉妹(いとこ)たちの影響だったのは間違いない。ところが、伯母さんたち従姉妹たちは、そのどちらも姉妹で暮らしてた。

つまり、同じ屋根の下で助け合う相手がいたってことや。で、万が一の事が起こった場合…例えば大阪での盲腸で緊急入院した件などを思い起こすと、やっぱり誰か一緒にいたほうが将来何かと安心ではないか、と考えたんじゃないか。だけど、そうだとしてもやな、そんな相手は、手近(てぢか)なスコットランドで現地調達すればエエやないか?
 

いくら異文化に対する好奇心や、特に、前世(ぜんせ)は日本人じゃなかったか?というほど日本大好きな彼女にしても、だからと言って亭主まで日本産を選ぶかなあ?

異文化に対する挑戦と、その人一倍強い好奇心を考えてもちょっとなあ…


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偶然に左右される人生

2023年07月22日 | ウマさん便り

「届きました、感謝!」の言葉とともに、次の画像が添付されていた。



先日、投稿した「読書コーナー」で採り上げた「先生!」に、いたく共感されて、わざわざ本書を日本から取り寄せられた「南スコットランド」在住の「ウマさん」からだった。

(記事の内容を、ひいてはブログ主を)信用していただいて「ありがとうございます」。

本の代金と日本からの送料を合わせると・・、懐の傷み具合をお察しします(笑)。

そして、次のメールでは・・。

「池上彰編「先生」の前書きに、かなり考え込んでしまいました。
先生って、人の人生を左右するかも知れない存在なんですよね。

僕は中学一年の一番最初の英語の授業で新任の先生と一悶着あり、その後、その先生の授業をほとんど一学期中ボイコットしてしまった。最初の英語の成績はもちろん零点です。今、なんでスコットランドにいるんやろ?

後年、奈良芸術短期大学で、臨時の講師をしたことがあります。秘書学概論という全然面白くない教科だったせいか、女子学生たち、階段教室で寝てましたね。

その短大は、四国や九州など西日本の、割とええとこのお嬢さんが多かったせいか、机の上にはルイ・ヴィトンがかなりありました。

で、「皆さん、テキストをしまってください。今日は、ルイ・ヴィトン少年の話をします」

そしたら、あんた、一斉に起き出すではありませんか。「この先生、なんなの?」ってな感じでしたね。

「家が貧しかったルイ・ヴィトン少年は、14歳の時、パリに奉公に行けと親に言われ、ノルマンディから歩いてパリに向かったんです。途中、お腹が空いてフラフラ…行き倒れになっちゃった。

ちょうど、倒れたところの家から出てきたおっちゃんに助けられ、馬具を作っているその家のお手伝いをすることになった。つまり、その家で、革を扱うことが、今日のルイ・ヴィトンの始まりとなったんです」…女子学生諸君、まあ、実に熱心に聴いてくれましたね。


大阪へ帰る近鉄電車には、今、授業に出ていた女子学生が3名ほどいました。彼女たちが「先生!阿倍野で、一杯やりません?」「よっしゃよっしゃ」…いとも簡単にお誘いに乗っちゃってさあ、彼女たちと阿倍野の「明治屋」へ…

はじめ「先生!」「先生!」と呼べれてたんやけど、そのうち「セ〜ンセ!」「セ〜ンセ!」になっちゃった(ような気がする)。

この「セ〜ンセ!」のあとには、カッコの中に点々が付く…「セ〜ンセ!(………)」
この点々は何か?と言うと…「セ〜ンセ!(このスケベ…)」

思わず、アハハと笑ってしまいました。

それにしても世界に冠たる「ルイ・ヴィトン」の始まりってそういうことでしたか・・。

人生というのは偶然に左右されることが結構ありますね。

「伴侶の選択」に至るいきさつなんか最たるものでしょう。

「あの日、あの時、あの場所で」の偶発性が痛切に偲ばれます。

おっと、「痛切」という言葉は拙いかなあ・・(笑)。

最後に久しぶりに「チャットGPT」の出番です。

「人生は偶然に左右されるのか、段階的に考えてみよう」と打ち込んでみたら、次のような回答が返ってきた。

以下のようなステップが考えられます。

1 遺伝的要因

人生の最初の要素として、私たちは遺伝子によって特定の身体的特徴や性格傾向を受け継ぎます。これは偶然の産物であり、自分で選ぶことはできません。遺伝的な要因は、将来の健康や感情への影響を持つことがあります。

2 出生地や家族環境

誕生する場所や家族環境もまた、偶然によって左右されます。親や周囲の環境によって、教育、価値観、文化的な影響を受けることになります。これらの要素は、将来の選択肢や機会に影響を与えるかもしれません。

3 教育と経験

偶然の要素として、私たちは学校や社会での経験を通じてさまざまな知識やスキルを身につけます。教育の質や偶然の出会いによって、将来のキャリアや人生の方向性が変わることがあります。

4 社会的要因

社会的な要因も偶然の要素となります。社会の価値観、文化、経済状況、政治状況などは、個人の人生に大きな影響を与える可能性があります。特定の時点での社会的な潮流によって、個人の成功や失敗が左右されることがあります。

5 偶発的な出来事

人生には、偶然の出来事がつきものです。偶然の出会い、災害、健康問題、経済的な変動など、予測できない出来事があります。これらの出来事は、人生の転機となることがあります。

6 選択と決定

偶然の要素は存在しますが、人生には自分で選択することができる側面もあります。選択と決定は、偶然にさらされる状況に対して、どう対処するか、自分の人生をどう方向づけるかに大きな影響を与えます。

このように、人生は偶然と選択の相互作用によって形成されます。偶然の要素は避けることができない一方で、自分の選択によって未来を形作ることもできるのです。柔軟性を持ち、自分の選択をよく考えることで、偶然に対処し、自分らしい人生を歩んでいくことが重要です。



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苗字のない国

2023年07月15日 | ウマさん便り

南スコットランド在住の「ウマさん」からのお便りです。

「苗字のない国」 

お役所や病院などの公的書類にニックネームを書く欄がある。それを書かないと誰のことか分からないぐらいこの国ではニックネームが多用されている。

僕はいつもその欄に「UMA(ウマ)」と記入する。僕のまわりで、僕の本名、ウチマヤスノリを知る人間は家族以外まずいない。すべての人が僕のことを「ウマ!」と呼ぶ。僕も彼らのことをニックネームで呼び、苗字はほとんど知らない。

ヨーロッパ諸国もそうだけど英国も苗字のない国と言える。しかも、そのファーストネームも、ほとんどの場合、ニックネームとなる。

キャサリン → キャシー(ケイト)、ジャクリーン → ジャッキー

マーガレット → マギー(ペギー)、エリザベス → ベス(リズ)

ロバート → ボブ、リチャード → ディック(リッチー、リッキー)

アンドリュー → アンディー、ウィリアム → ビル…などなど。

敗戦後、まだまだ貧しかった日本に、戦勝国アメリカの文化がどっと押し寄せてきた時代のこと…

進駐軍のキャンプ(駐留地)でハワイアンを歌ってた佐竹さんにつけられたニックネームはボブだった。ところがアメリカ人の発音の「ボブ」は、日本人の耳に「バァブ」と聞こえた。

で、佐竹さんは「バーブ佐竹」となった。正式に云うと「ロバート佐竹」ですね。なんでロバートがボブになるの?もっとも佐竹さん御本人は、竹の英訳バンブーからバーブ佐竹にしたとおっしゃってるけど…

やはり進駐軍キャンプでジャズを唄ってた峰(みね)さんは、ある時、シャワールームでアメリカの将校に云われた。「君、ナニがでかいな!」つまりペニスが大きいと云われたんです。ペニスのことをスラングでディックと云う。

で、彼のステージ・ネームは「ディック・ミネ」となった。正式には「リチャード・ミネ」ですね。リチャードがなんでディックになるのかなあ? ついでに、ウィリアムがなんでビルになるの? 誰か知ってます?

当時、青山学院高校生だった葉山繁子さんは、大学でクラシックの声楽を学ぶつもりだったけど、アメリカのFEN(Far East Network)ラジオ放送でジャズの虜になり、若くして進駐軍のキャンプで歌うようになった。

誰かが、君はペギーやと云ったのがきっかけでペギー葉山となった。もちろん僕も大好きなペギー・リーからきたステージネームです。このペギー・葉山、正式に云うと「マーガレット葉山」だけど、マーガレットがなんでペギーになるんやろか?

余談だけど、NHK高知放送の開局記念に作られた歌が「南国土佐をあとにして」です。

これを歌ってくれと依頼されたペギー葉山さん、なんで私が歌謡曲を歌わなならんのと嫌で嫌で仕方がなかった。ところが、投げやりで歌ったこの歌が大ヒットして、ペギー葉山の名前は、一躍、誰もが知ることとなったんですね。

さて、この日本スコットランド協会のニュースレター108号で、僕の人生初の入院・手術体験を書いたけど、その至れり尽くせりの医療制度は退院後も続き、CT−スキャンや血液検査の案内が定期的にくる。もちろんすべて無料です。

退院後、初めての血液検査の時、担当の女医さんが、カルテのニックネーム欄にある僕の名前「UMA」を見て驚いておられた。

「これ、ウマと読むんですか? 私の孫娘もウマなんですよ。娘夫婦がハリウッド女優のUma Thurmanの大ファンで、産まれた娘にUMAと名付けたんです。でも、皆、ユマと呼ぶだろうと考え、発音はウマとしたんです。いやあ驚いた。スコットランドにウマは一人だけと思ってたのに…」とニコニコしておられる。

そして「血液検査の結果を病院まで取りに来られませんか? 孫娘を連れて来ますから是非会ってやってください」

もちろん、大喜びでUMAちゃんと御対面しました。大阪のおっさんと違い、めっちゃ可愛い娘で、挨拶もしっかりしている。

「How do you do. My name is Uma. Nice to meet you.」

スコットランドに「ウマ」が二人いるというお話でした。



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音楽家は音楽を聴かない

2023年07月12日 | ウマさん便り
ブログを17年も続けていると、作者もそして読者もどうしてもマンネリ気味になるのは否めない、で、なるべくあの手この手で目先を変えているものの、やはり限界があるようで近年は明らかに「アクセス」が伸び悩みあるいはジリ貧気味~。

対象が「音楽&オーディオ」という極めてマイナーな分野なので、ま、いっか~(笑)。

そういう中で「救世主」ともいえる存在が、南スコットランド在住の「ウマさん便り」だ。



この画像は「ある日あるとき」の「アクセス解析」だけど、「ウマさん便り」の人気のほどが知れますね。

言い換えると、他人のふんどしで相撲をとっているようなものだけどね(笑)。

さて、その新風を吹き込んでくれる「ウマさん」から先日の「音楽は楽譜で読むものなのか?」についてお便りをいただいた。

タイトルは「音楽家は音楽を聴かない」

「音楽家の友人が多い僕の個人的な感慨だけど、彼らの多くは普段あまり音楽を聴いていないなあ。

昔、岩城宏之さんが、飛行機内に流れる音楽を止めてくれと、スッチーのお姉さんに頼んだことがあった。

あの中村紘子さんも、神戸のポートピアホテル最上階のラウンジで、ピアニストのお姉さんに「ピアノを弾くのを止めてくださる?」とおっしゃった。そのピアニストは僕の友人で、彼女から直接その話を聞いた。

僕の長女もミュージシャンで、コンサートツアーでしょっちゅう世界中を回ってるけど、たまに家に帰って来ても音楽を聞いてるのを見たことない。

ロンドンに住む、かなり有名な音楽家の家を訪ねても、ごく普通のコンポはあるけど、ほとんど鳴らさないって言ってた。音楽家の友人で、まともなオーディオ装置を持ってるのは一人もいない。
 
シェーンベルク曰く「音楽というのは楽譜で観念として読むもので実際の音は邪魔だ」

ブログの主曰く「楽譜を読みながら音楽を頭の中で想像することができれば実にいいことに違いない」

ところが、楽譜を見ながら音楽を聴くのが楽しいって言う奴がいるよ。どこに? 

ここに…



まったくの盲点を突かれて、恐れ入りました!(笑)

そういえば、ウマさんはピアニストだしハーモニカもお上手でしたよね。


そして、日をおいて次のお便りもいただいた。タイトルは「修辞力」。

「村上春樹さんの小説は、どちらかと言うと、苦手だけど、彼の音楽に関する表現力、いや、修辞力に、何度膝を叩いたことだろう。ちょっと常人には考えられない素晴らしい能力だと僕は思う。

シェーンベルク「三つのピアノ曲」作品11…ポリーニかグールドか?…

「ポリーニの演奏が、とびっきり鋭利に研ぎ上げた刃物のような切れ味にあるとしたら、グールドの演奏の特徴は、一つの物体をいったん解体して、もう一度新しいやり方で組み合わせたような、コンビネーションの面白さにある」

「ポリーニの提供する刃物の切れ味は、文句のつけようなく見事なものだけど、そこには妖刀のようなあやしさは希薄だからだ」
「グールドのピアニズムには、人の心を構造的に揺さぶる、あるいは惑わせるものが含まれている」…

なるほどなるほど・・。

もし村上さんがオーディオマニアだったら、「オーディオの魅力」についての多彩な修辞力で多くの人に感銘を与え、よって現在のオーディオ人口がもっと増えたかもしれないと思うことが多々ありますよ~。



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南スコットランドからの「ウマさん便り」(2023.7.1)

2023年07月01日 | ウマさん便り

「自主判断の国は右ハンドルの国」

グラスゴウ、エディンバラ、或いはロンドンの賑やかな通りを、信号を無視して渡ったことは何度もある。おまわりさんは何も言わない。だって自分も同じことをしてるんだから。

じゃあ、なぜ信号を無視するのか? 

チャップリンの「モダンタイムス」は、文明の発達によって機械に翻弄される人間を、皮肉たっぷりに描いた映画だった

信号は機械です。自動車が来ないのに機械の指示に従ってじっと待つ。ちょっとおかしいんじゃない?そんな潜在的メンタリティーがあると思う。

地元ダンフリースの街で、信号を無視する歩行者にクラクションを鳴らす車を見たことは一度もない。車は徐行するか停止する。これが大阪だったらあんた… 

観光客なども多いロンドンのトラファルガー広場の交差点で、おまわりさんに聞いたことがある。「歩行者が信号を守らなくていいんですか?」

おまわりさんの返事「ま、自分で判断すればいいんじゃないですか?」だって!

ただし、信号を無視して事故に遭えば自分の責任になる。だから、自己責任のもと自分の判断で行動すると言うことでしょうね。

こちらでは、自主判断の訓練は小さい時から受けているようです。子供達が地元の学校に通っていた頃、授業参観を覗いたことがあった。

印象に残っているのは、先生がしょっちゅう生徒たちに質問していたことです。

「あなたはどう思いますか?」

答える為には自主判断が求められる。 

英国では、センターラインがあって速度標識のない道では、時速60マイル(約100キロ)出していい。買い物でスーパーに行く時など、常に時速100キロは出す。

うちアラントンの前の道は、かつてアニー・ローリーさんも馬車で通った田舎道だけど、時速百キロ出していいんです。ところが、狭くて百キロなんてとてもとても無理です。さらに、追い越しもOKだけど怖くて無理。

実は、そんな道がそこら中にある。お巡りさんは言う…

「百キロ出すのも追い越しするのも、自分で判断すれば?」 

メガネをかけて運転する友人の免許証に「眼鏡使用」の記載がない。

「日本の免許証には眼鏡使用の記載があるよ」とお巡りさんに言ったら、彼は首を傾げていた。

「なぜ免許証に書く必要があるの?メガネをかけて運転するかどうか自分で判断すればいいじゃない」どうです?日本とは随分違いますね。

さて、近年、日本の路上で、右ハンドルのベンツやBMWをかなり見かけるようになったけど、昔は「外車は左ハンドル」が常識だった。

日本は、その昔の日英同盟を受け、郵便制度や道路交通行政など、英国に倣った。で、英国や、そのほかの英連邦の国々同様、左側通行・右ハンドルの国となった。

右ハンドルの外国車が増えてきたと言っても、今でも、わざわざ左ハンドル車を選
んで、得々と乗っている方を見る。これ、実はとても滑稽なことなんです。 

英国では、昔から、ベンツもポルシェもフェラーリもランボルギーニも、右ハンドル車しか売ってないし、そもそも左ハンドル車を欲しがる人などまったくいない。

逆に、アメリカやフランス、ドイツなど左ハンドルの国で、右ハンドル車を欲しがる人がいると思う? 第一、売ってませんよ。 

世界の国の35パーセントは右ハンドルの国です。そんな中で、左ハンドル車をわざわざ選んで乗る人がいるのは日本だけの珍現象です。もちろん左ハンドル車をわざわざ用意する外車デーラーがあるのも日本だけの珍現象です。なぜか?

敗戦後、日本を支配した連合軍総司令部GHQの実体はアメリカで、天皇陛下の命運も彼らが握っていた。敗戦による貧しさでどん底にいた日本人の前に現れたのが、あのでっかい夢のようなアメリカ車です。

そんな夢の車に左ハンドルが付いていたことが、今に至るも左ハンドルへの憧れとなったわけ。つまり左ハンドル車への憧れは、戦争に負けた国民の、貧しい植民地根性だと言える。こんな国は日本だけです。

ついでに言うと、戦争以前、横浜には、フォードなどアメリカの車を生産する工場があったけど、すべて右ハンドル車だった。 

メル・ギブソンのデビュー映画、オーストラリアが舞台の「マッド・マックス」に出てくる車は、でっかいアメリカ車も含め、すべて右ハンドルだったし、クラーク・ゲーブル主演の「一攫千金の男」では、香港の岸壁にキャデラックかシボレーとおぼしきアメリカ車が映ってるいたが、やはり右ハンドルだった。

ハンドル位置こそ優先事項だと言うことです。そんなことも知らず、日本でわざわざ左ハンドルを選ぶ人って…いやはや…。だから滑稽だと述べた。 

左ハンドル車は右ハンドル車とはバックミラーに映る死角が違う。この死角の違いが事故の原因となる。相手の車が右ハンドル車であれば起こらなかった事故を僕は二度経験している。僕の姉も一回経験している。 

スーパーの駐車場で、前にいる左ハンドル車のおばちゃんが、駐車チケットを取るのにわざわざ車から降りて発券機まで行く。これ、後続車にとって迷惑だよね。

交差点で右折するとき、左ハンドル車の場合、対向右折車が保冷車やトラックなどだと前方が見えない。

反対方向から直進して来る車がないのに右折出来ないのでじっとしている。これも後続の車にとっては迷惑この上ない。

つまり、日本に於いて左ハンドル車は社会の迷惑だと言うこと。 

英国に住んだリンボウ(林望)先生はその著書「イギリス観察辞典」で、「一億円やると言われても日本で左ハンドル車に乗るのは嫌だ」…僕もまったく同感です。

自動車史上最も高値がついたフェラーリ250–GTO。



時価
50億円以上!写真のように右ハンドル車も多く生産された

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南スコットランドからの「ウマさん便り」(2023・6・21)

2023年06月21日 | ウマさん便り

「アルマと北斎 」

ダンフリースの街のハイストリート(目抜き通り)を歩いていたら、めちゃ別嬪さんが向こうから歩いて来る。石畳を歩くその背筋の伸びた姿が凛としていて惚れ惚れする。遠目に見てもスラッと背の高い綺麗な人や。

ところがびっくりした。そんな美人が僕を見て「ウマー!」

さらに「ウマー!ゲンキー!」なんと日本語やないか!いったいどないなってるの?頭が混乱してきた。目の前で立ち止まった彼女、僕の困惑した顔を見て、

「私よ、アルマ、アルマよ」

エッ?アルマって、ひょっとして隣村にいたアルマ・フィッツパトリックかいな?そう言えば面影がある。そうや間違いない。確かにアルマや。

僕が知っているアルマは、確か中学二年生だった。すごくちっちゃい娘で、小学校三年生ぐらいにしか見えなかった。でも、大きくなったなあ。そして綺麗になったなあ。で、通りの真ん中でビッグハグです。日頃ハグにはウンザリしてるけど…  

予期せぬ驚きの再会だったので、コーヒーショップで話をした。

「今、何してるの?」

「オックスフォードのグラデュエイト(大学院)で東洋美術史、特に日本の美術史の専攻を終えたところなのでスコットランドに帰ってきたの。来年日本に行くつもりなので、これからその準備をするつもり」

そうや!アルマは小さい時から日本と日本文化にすごく興味を持ってたよね。

ジブリのアニメに夢中になったのが日本に興味を持つきっかけだった。「昔、ウマに日本語を教えてもらったけど、今も勉強を続けてるわよ。」

僕がスコットランドに移住して、しばらくたった頃だった…

アラントンに日本人がいると知った女の子が僕を訪ねてきて日本語を教えてほしいと云う。とても中学生には見えないこの小さな可愛い子、ひらがなとカタカナを一週間でスラスラと書けるようになった。

アルマの家は揃って馬好きで、当時二頭飼っていた。アルマの兄達は、学校から帰ると、自宅の馬場で馬に乗って遊んでいた。僕はそれを車の中からよく見ていたのを思い出す。中学生になったアルマも仔馬を買ってもらったけど、身体がちっちゃくて馬に乗れなかった。で、特別な馬具を作ってもらい乗れるようになった。

アルマはロンドンのギャラリーで見た葛飾北斎の浮世絵に大きなショックを受け「この世にあんな素晴らしい美術があると知って興奮してしまった」


その昔、パリ万博でジャポニズム旋風が起こったけど、北斎をはじめとする日本の浮世絵がそのきっかけだった。その影響を受けた画家は多かった。

ゴッホ、モネ、ドガ、セザンヌ、ルノアールなどなど。後年、アルマが影響を受けても不思議ではない。アルマは、北斎の浮世絵が木版画だとは信じられなかったと言う。そして、その故郷である日本へ行くことが目下のところ最大の関心事…

久しぶりに再会して以降、僕とはずっと電話でも日本語で会話しているが、第三者が聞いたら、外人さんが喋ってるとは思わないだろう。日本へ行く準備として、アルマはさらに敬語も習得したいと云う。で、以降、双方敬語でのやりとりが続くこととなった。

「ウマ様でしょうか?お元気でいらっしゃいますか?」

「はい、アルマ様もお元気でしょうか?」しかし、彼女の習得の早さには、目を見張ってしまった。

「アルマ様のスリーサイズを教えていただけないでしょうか」

「申し訳ございません。それは出来かねます」

なんと「出来かねる」を知ってるんや。参った参った。日本へ行っても、言葉で困ることは、まずないと思う。

さて、ちっちゃかったアルマが仔馬(こうま)を買ってもらった時のこと…

「ウマ!馬のことを日本語で何て言うの?」て聞くもんだから、ホースの日本語はウマや。「エーッ?!じゃ、ウマさんのウマはホースの意味?」

で、彼女、<UMA>と名付けた自分の仔馬に乗って、ちょくちょくアラントンに遊びにきた。彼女が「UMAー!」と叫ぶと、馬のUMAと人間のウマが同時に返事するんや。

「ハーイ!」「ヒヒィ~ン!」 ややこしいてしゃーない。

緊急連絡:ウマさんへ

天才絵師「北斎」にも「春画」があることをご存じでしょうか。代表的なものがこの「海女と蛸」です。



さすがに、上手いっ! 

とはいえ、いくら「春画=芸術」といっても純情可憐な「アルマ」嬢には刺激が強すぎるでしょうからくれぐれもご内分に~(笑)。

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