神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

「甲越軍記」を現代仕様で書いてみた 武田家 87

2024年05月02日 08時42分59秒 | 甲越軍記
 さて板垣信形は、上州上杉勢の抑えとして軽井沢に居たが、元来勇気限り無き老将であったから此度の戦に対する兵たちの功労をねぎらおうとして、広い仮屋を建てて、大いに戦功をあげた者も、何の働きも無かった者も一同に招き入れた。
そして、集まった者たちを上中下の三段階に分けて、大いに手柄を立てた上の者には三の膳付、そこそこに働いた中には二の膳付、そして何の働きもない下の者には一の膳のみ
これは黒椀に精進料理が乗っている。 
特にめざましい働きの三科肥前守、広瀬郷左衛門の如き敵の大将首を取った二人には優劣無く、くじにて最上段の左右の座を与えた
そのほかの者は思い思いに座り、功によって三の膳、二の膳を賜った
功ある人々には大椀に溢れるばかりの大鯛の焼き物、功なき者は精進の淡白な豆腐汁に毛も取らぬ山芋の平皿、功ある者の前にあえて座らせたから、面目ないことこの上なし。

板垣信形が酒肴の半ばになって立ち上がって挨拶をした
「功を得た勇士の皆々方は快く食したまえ、また功無き輩は日頃より慈悲深く、後生を願う出家の性である、後生を願うならば精進料理が好きと思い用意させたのである」と言って高笑いしたので、功無き者たちは面目なく面を伏せて屈辱に耐えるしかなかった。

さて信形は十二月朔日までこの地に居たが、一向に上州勢が押し寄せる気配ないので、甲州に立ち帰った。
晴信は信形に対面して「此度の合戦に於いて勝利したのはひとえに汝の功である」と言って報償した。
それから信形はここを辞して信州諏訪の代官所に帰った。

信形の嫡子、弥次郎信里は父より一足先に諏訪に戻っていた。
信形が戻り、信里の部屋に立ち寄り、ふと床の間を見ると打ち釘に扇がかけてあり、よく見ると文字が書かれてある。
信形はつらつらこれを見て信里に「扇に詩歌を書くのは公家の人々、出家の身、当家の屋形の如き人々であって、汝如き若輩が真似をすることではない、よくよく心得よ」と叱れば
信里が申すには「これは某が十日前に甲府に立ち寄った時に、御大将が某の扇を手に取られて自らお書きになられた上で、某によこされたのです」と答えた。
信形は驚いて、改めて書かれた詩歌を読んでみると
『誰も見よ 満つればやがて欠く月のいざよう空や 人の世の中』という者であった。
信形はニ三度、これをそらんじて目を塞ぎしばらく思案してから涙した
去る十月、君病になられたために某が代官として七千余騎を率いて上州勢と臼井峠で戦い、敵の首を実験したことあり、その時、某は君の名代と心得て床几に座りこれを行った
その法式厳重にして主将の如く振る舞い、君恩によって諏訪の郡代としてわが君の御舎弟左馬之助殿の上にも立つように見えたので、『あまりに威に高ぶれば、後には主の上にも立たんとするめざましき志も起る者である、その時は十六夜の月の如くその身の光もそろそろ落ちるものなり』との戒めの詩であろう
我には直接言いかねて、息子の扇に書いて、信形が自然とこれを目にするように仕向けられたものであろう。

(信形相伝の士として、いかに高みに用いられようとも決して主の上に立つような後ろめたい心は持ってはおらぬ
是よりは信形ひとえに大戦あれば、その場に於いて討死を成して腹に一物の不審もない心底をお屋形に見ていただきます、さても浮世に長生きを重ねてしまったものよ)と思った

和歌は目に見えぬ鬼神をも感じさせ、もののふの猛き心を哀れと思わせ
男女の仲を和らぐようにさせるのも和歌の徳なりと序に書かれているが、その心を得ずしてかえってもののふの心に怒りを憤りを起させる仲立ちともなる
果たして晴信が書いた一首によって、信形はその死に場所を第一に思うようになり、ついには上田原の戦において討死してしまったのである。
和歌とは言え、君臣、父子、夫婦の実情を深く考えて詠まなければ、人をあたら殺してしまうことも少なくない。

初編 武田家 終わり


最新の画像もっと見る

コメントを投稿