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明治維新の整理(10)

2018年01月19日 11時09分55秒 | 明治維新の整理

四国に土佐藩がある、今の高知県全土を領有していて、殿様は山内容堂という人だ

薩摩島津久光、越前松平公、伊予伊達宗城などと並ぶ、幕末の、発言力をもった有力大名である

土佐という国、関ヶ原の合戦で負けた、それも鉄砲一つ撃たないうちに負けてしまった

敵の德川勢と一戦も交えないで山の中で待機しているうちに味方が敗れたので土佐へ逃げ帰った

その時の殿様は長宗我部(ちょうそかべ)という、土佐生まれの土佐育ち、お父上がたいした人で

今で言えば高知市長程度だったのが、あっという間に高知県全域を占領して県知事になり

更に、徳島県、愛媛県、香川県まで攻め込んで占領して、四国の王となったから、当時の

九州の島津とどっこいの強い大名だったのだ。

しかし日本は豊臣秀吉の天下になろうとしていた、秀吉は長宗我部に家来になれと言ってきたが

断った、結局戦争になったけれど、まったく武器も武具も違いすぎて問題にならない

豊臣軍が占領して、長宗我部の兵隊を見たとき、トランプの失言ではないが「おれたちは乞食と

戦争したのか・」というほどお粗末な武具だったという。

それでも秀吉の情けで、土佐一国だけは安堵してもらった、その恩義を感じたのか息子の代でおきた

関ヶ原戦では西軍の石田方に味方して敗れた、そして命は助けられたが領土を全て取り上げられて

殿様が浪人になってしまったのだ。

そして新しく土佐の殿様に赴任してきたのが山内一豊、織田信長の家来だったとき奥方千代がへそくりの

持参金で良馬を買ってくれたおかげで、信長の目に留まり、信長の側近にしてもらったという有名なサムライだ

大河でもありましたよね「功名が辻」、その後、秀吉の家臣となって東海道で5万石の大名に。

その後、関ヶ原の戦いでは東軍の大将、德川家康に「私の城を空けますので、自由にお使いください」作戦

それが、功を奏して、あの長宗我部の出口を見張っていただけで、5倍の領土を得て土佐24万石の大名に

出世したのだ。

そして今の殿様、山内容堂まで移動も無く、ずっと続いてきたのだった。

土佐藩の仕組みは、他の藩とはちょっと違う、それは関ヶ原で負けた長宗我部だが殿様は浪人になって

土佐から出て行った、だが家来はそのまま残って郷士となり百姓半分の生活、けれど一応土佐藩士として

組み込まれていた、山内一豊が連れてきたもともとの山内の家来を「上士(じょうし)」長宗我部の遺臣を

「下士(かし)」と呼んで、明らかな身分の差をつけた、そして様々な差別の制約をもうけて「下士」は人間扱い

されないほど虐げられていた。

幕末、そんな下士の希望の星が現れた、頭脳明晰、腕も立ち、リーダーの資質に恵まれた大男、しかも男前

教養も有り、詩歌に通じる、武市半平太(たけちはんぺいた)という

彼は瞬く間に下士を束ねて、土佐勤王党を結成、その指導者となり藩内でも一目置かれる存在になった

山内容堂も下士といえ西郷同様(使える男)と感じた、但し島津斉彬と西郷のような尊敬し合う間柄では無く

「使い捨ての便利な男」という程度で容堂は武市を見ていた、所詮は卑しき郷士の身分である。

しかし武市はそうは思っていない、自分は殿様に認められたと思って、次々に意見を上申する

それを冷ややかに見ていた仲間が居た、それは一匹狼の坂本龍馬、彼も郷士(下士)だ、親友の中岡慎太郎

ともども土佐を脱藩して京に出た、そして勤王浪士達と交わったが、何かが違う・・・・と感じた

スケールが違ったのだ、坂本もまた世界を見ることが出来る男だった、だが今はまだ勤王の志に燃える若侍だ

武市は優れた志士であるが、暗殺の指示をよくだした、大概は人斬り以蔵の別名をもつ「岡田以蔵」に命じる

だが武市の命令なのかわからないが、ドラマでは坂本龍馬が勝海舟を殺しに、勝の家を訪ねるシーンがあった

龍馬は思想を盲信するような軽い人間でも、岡田以蔵のように命じられたら何も疑問も持たずに実行する

殺人鬼でもない、だから勝の家に行ったときは「ごめん!」と堂々と表玄関から尋ねていっただろう

「はいはい、おや?見慣れぬお人だが、さては俺を切りに来たのかい?」と勝

「事と次第によっては」と龍馬が笑顔で応える、どちらも余裕綽々、もう、互いの人となりにあらまし気づいている

「そうかい、そりゃあごくろうなこった、これじゃおれの首がいくつあってもたりねえな」

「・・・・・・」 「ああ、おれを殺そうってやつあ、いくらでもいらあね、まっ、それもいいが切るめえに話しを聞く

くらいはいいだろ、どうでい」

「急ぐ用事でもありませんから、それでけっこうですよ(土佐弁を標準語に翻訳)」

地球儀を龍馬に見せる、「これはなんですか?」

「これかえ、地球儀といって、オレたちが住んでいる星を小さくした型ってところかな、この大きな島がメリケンだ

こっちがオロシア、ここは清国だ、これが朝鮮」

「朝鮮は小さいですね、われわれの土佐はどこですか」「やはりおまえさんは土佐の人か、そうさなあ土佐はねえよ

この小さな島が日本だから江戸と長崎しかかいてねえな」

「何だって、日本はこんなに小さいのか先生!」「そうさね、こんな小さい島をとったのとられたのとおまえさん達は

毎日忙しく働いているのさ、ごくろな事だよ、世界はこんなに広いのによ」

「見てご覧よ、ごれがエゲレスだ」「これが!・・・・・日本とかわらない小さな島ですね」

「そうよ、その通りさ、だがエゲレス人はてえしたもんさ、こんな小さな島のくせに大船を作って世界の海に乗り出した

この大きな島も、この国もみんな今じゃあエゲレスが占領して自分の国にしてしまった、清国だってエゲレスが占領

したようなもんさ、ちまちました穴蔵住まいの日本人とはおおちげえだろ」

「...........」「おまえさんは土佐人にしては見所がありそうだ、どうでぃ、俺の所で修行してみないかえ」

こうして、勝に出会って世界感を持った坂本龍馬は、勝が創立した海軍操練所に学ぶことになった

ここでみっちりと操船技術や航海術、世界の情勢、先進国の武器や機械、貿易、国際法、天文学まで学んだ

龍馬はそれを活かして活躍して「海援隊」という組織を作り「亀山社中」という商社を後年設立することになる。

海援隊を最初に作ったのは坂本龍馬です、武田鉄矢ではありません、龍馬ファンでまねをしてつけただけです。

(因みに武田鉄矢は「功名が辻」で頑固な古参の家臣役で出ていました)

この操練所が閉校になって、いくところが無くなった龍馬を勝は西郷の所に連れて行く、そして薩摩屋敷でしばし龍馬は

居候した、そこで西郷と日本の未来を語り合ったことだろう。

そして、この勝-西郷-坂本ラインが出来たことで長州を救い、倒幕の起爆剤となるのだった。

                                                  つづく