本蔵院 律良日記

熊本県にあるお寺“真言宗 本蔵院 律良のブログ”日々感じるままに活動のご報告や独り言などを書いた日記を公開しています。

東寺の弘法さんと北野の天神さん

2017-08-21 17:06:07 | 住職の活動日記

今日は弘法大師のご命日

東寺の境内にはたくさんの市が

並びます。

今日もとても暑い一日天気は快晴

京都では昔から

「弘法さんが晴れたら

  天神さんは雨や」

「今月は弘法さんの勝ちや!」

ということをいいます。

 

店を出す方にとっては天気は

死活問題です。

でも、

どちらかで店を出せるということは

店の方にとっては大変ありがたい

ことなのでしょう。

 

菅原道真は承和2年6月25日生

延喜3年2月25日亡くなられました。

西暦でいうと845年~903年です。

醍醐天皇の父宇多天皇から重用され

醍醐帝の時にも右大臣になり

ところが左大臣藤原時平の讒訴で

失脚、大宰府へ左遷され

その地で亡くなられます。

 

ところが、その後災難が続きます

延喜9年(909年)時平が病死

延喜13年(913)その首謀者である

源光(みなもとのひかる)が

狩りの最中の泥沼に落ちで溺死、

これは道真の祟りと

早速、

道真の罪を放免、右大臣に復し

延喜23年には正二位を贈っています。

 

ちょうどこの前後して

東寺の空海に対して諡号(贈り名)

を願い出ています。

時の住職・観賢僧正は3回も奏上され

やっと諡号を賜ったのが

延喜21年10月27日です。

天皇にしてみれば

空海よりも祟りが恐い道真を

どのようにするかが大問題だった

ということでしょう。

 

しかし祟りはこれで治まらず

決定的だったのは

延喜30年清涼殿へ落雷

多くの死者が出ます。

ということもあってか

その3か月後には醍醐天皇が崩御

ということになってしまいます。

 

話しはまだ続き

941年、日蔵上人という方が

亡くなって冥土へ行くと

そこで、醍醐天皇に会われる。

その苦しんでおられる様子から

お話を聞くと

自分の罪を懺悔して

菅原道真に対して悔いておられる

どうか千本の塔婆を立てて

供養して欲しい、

ということなのです。

生き返った日蔵上人は

その言葉の通り千本の塔婆を立て

供養したことが

「千本通り」の由来といわれています

 

天暦元年6月9日(947年)

北野天満宮の社殿の造営が始まり

さらに70年後の

正暦4年(993年)には

正一位左大臣が贈られ続けて

太政大臣も贈られています。

 

また面白いことに

「弘法大師」の諡号を頂かれた

観賢僧正は高野山の空海の御廟へ

贈り名の報告と頂かれた衣を

着せ替えられた。

同行したお弟子が淳祐といって

道真の孫にあたる方です。

これも不思議なご縁です。

淳祐は霧がかかったようで

何も見えず、ただ膝に触ったら

その手にいい香りが付いた

ということです。

その手で書かれたお経が

「匂いの聖教」として石山寺に

残っています。

 

21日の命日の弘法大師

25日が命日の菅原道真

仲が悪くて勝ち負けがあるという

ことではなく

とても深い縁がその底には

流れているように感じます。

 

 

 

 

 

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