味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

古は文を為るを学びしや、と。

2017-11-26 17:57:16 | ブログ
3254号 29.11.27(月)

曰く、古は文を為(つく)るを學びしや否や、と。曰く、人は六経を見れば、便(すなわ)ち以て聖人も亦文を作ると謂ふ。聖人亦胸中に蘊(つ)む所を攄発し、自ら文を成すを知らざるのみ。謂ふ所の徳有る者は必ず言有るものなり、と。『近思録』111

 「昔は作文の稽古をしたのでしょうか。」「人は六経を見ると、聖人も文を綴ったと思うのだが、聖人が胸中に蓄えたものを述べ、それが自然に文章になったことに気づかない。『徳あるものは、必ずりっぱなことを言う。』ということである。」112

 【コメント】現代の考え方とは相いれない部分もあるような気も致します。それでも、ただ真面目に学び続けることが大事ではないかと思います。

 どんなに名を馳せている人でも、最初から万全であったということはないでしょう。だから、せっせと飽くことなく努力することが大事だと思います。

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『不動心』(第118回)

 この人生においてかけがえのないものはただ一つ

 人生を生き抜き死んで名を忘れられてしまった者にしても、それはそれでどうということもない。この人生においてかけがえのないものはただ一つ、それは正しく考え正しくふるまい、虚偽や不正に対しても慈愛の心を失うことなく日々を生き抜いていくことなのである。

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『臥牛先生遺教抄』(第76回)

 何事も難き事は我真先に引き受け、易き事は人をしてなさしむべし。たとえば旨酒嘉肴の席に出ずる時、心なく人より先に手を出す者は徳に入り難し。
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歴史群像シリーズ「西郷隆盛」--幕府軍決戦に臨むも緒戦で潰滅す--鳥羽・伏見の戦い

 幕軍ついに薩軍と対戦を決意

 慶応二年(一八六六)薩長同盟が成立、その核である西郷隆盛・大久保利通は「武力による討幕」を目論む。だが翌年十月徳川慶喜の大政奉還で、討幕派は開戦の機を逸した。
 二か月後の王政復古のクーデターでは会津・桑名両軍を御所から追い、小御所会議で慶喜の「辞官・納地」を決定させたが、あまりにも無理押しな討幕派の策はうまく進展しなかった。それどころか山内容堂ら公議政体派の動きが功を奏し、慶喜の新政権参画という気配まで現れたのである。
 こうした状況下、江戸で薩摩藩邸焼討ち事件が起こった。かねてより西郷の策謀で江戸市中を騒がせていた浪士の巣=薩摩藩邸を、堪り兼ねた幕府方が襲撃したのである。

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荘内での吟詠大会の興奮未だ覚めやらずという気分です。とにかく素晴らしい荘内への旅でした。お世話になりました関係者の皆様、本当に有り難うございました。

 『南洲翁遺訓』素読会を一緒にしてくださった中澤先生から携帯への電話がございましたので、夕刻私の方から電話をしてみました。

 ところが東恵美子先生と秋田へ行っての帰りだと伺いました。西郷隆盛、そして『南洲翁遺訓』の普及に真摯にお勤めして下さるお二人に頭の下がる思いです。是非頑張ってくださいませ。西郷先生もお喜びになられていることと存じます。

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道に趨かんと欲せば、儒者の學を舎くは可ならず。

2017-11-26 10:28:33 | ブログ
第3253号 29.11.26(日)

古の学ぶ者は一にして、今の学ぶ者は三なり。異端は輿(あづか)らず。一を文章の學と曰ひ、二を訓詁の學と曰ひ、三を儒者の學と曰ふ。道に趨かんと欲せば、儒者の學を舎(お)くは可ならず。『近思録』109

 昔の勉学者は一種類だったが、今は三種類ある。ただし異端はこの数に入らない。三種類とは、文章の学に従うもの、訓詁の学に従うもの、儒者の学に従うものをいう。理想の道に進もうとするなら、儒者の学以外にない。

 【コメント】24日夕刻荘内から帰り、今普通の生活状態に戻った心境です。でも荘内での詩吟大会の盛大さの模様が、脳裡に刻みつき興奮の念未ださめずという所です。

 そして24日午前中の致道館での漢籍・『書経』の拝読の心境は大変な心の財産になりました。荘内南洲会の阿曾先生に特にお願いしてご案内した貰いました。大変ご迷惑をおかけしました。素晴らしい荘内での一時でした。有り難う存じました。また高木先生にも送り迎えをして頂き感謝しています。

 22日の晩、中澤今日子先生、東美恵子先生との『南洲翁遺訓』素読会も大変素晴らしい時間でした。

 昨晩は本部道場での空手道教室でした。昨日まですっかり疲れていましたが、子供たちと空手道をしながら、この老人は元気だなと我ながら自分を見直しました。

 子供たちに荘内での大会のことなど説明しました。子供たちも荘内へ行きたいという意思表示をしました。

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『不動心』(第117回)

 太陽が雨の仕事を肩代わりするのか

 太陽が雨の仕事を受け持とうとするだろうか。医術の神アスクレピオスが、農耕の神デメテルの仕事を受け持とうとするだろうか。星についてはどうだろう。それぞれに異なった星が、一つの目標に向かって協力してはいないだろうか。  

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『臥牛先生遺教抄』(第75回)

 予は大筋を以て諸子に教うるも、兎角細かなる事を聞き求むるなり。細かになれば大体に心通い難くして終に大体を失うに至る。大体に志し居れば自然小事にも通うものなり。
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歴史群像シリーズ「西郷隆盛」--薩英戦争--第3回

 死傷者は英国側が上回る

 七月二日は、現在我々が使用している太陽暦では八月十五日にあたる。台風でも接近していたのであろうか。激しい嵐が吹き荒れ両軍を悩ませた。特に海上に浮かぶイギリス艦隊にとってこの嵐ははなはだ不利で、艦は揺れ、アームストロング砲も十分な威力を発揮しなかった。
 それでも、旧式の薩摩藩の大砲を圧倒し、次々と砲台を沈黙させ、集成館・城下を炎上させた。
 だが、この間イギリス艦隊が払った犠牲も大きく、ユーライアラスは集中攻撃を受け、艦長ジョスリン、副長ウィルモットらが戦死。レースホースも祇園洲砲台の目前で座礁し、一時危険な状態になったが、祇園洲砲台の大砲がすべて破壊されていたため無事に離脱できた。そして夜半、艦隊は再び桜島沖に投錨した。
 三日午後三時、イギリス艦隊は抜錨し、再び各砲台と砲撃を交えながら南下していった。途中、沖小島砲台と交戦したときにコースを変更、これが幸いし薩摩藩が電気水雷を仕掛けていた桜島と沖小島の海域を通過せず、あやうく難を免れた。そして、夜半七ツ島に停泊し、応急修理を行って、四日鹿児島湾から退去した。
 二日間にわたる戦闘で、薩摩側のすべての砲台は大破し、イギリス側も薩摩側を上回る六三名もの死傷者をだしたが、この戦闘で互いの力を認識し、薩摩藩が賠償金を支払い、生麦事件の犯人捜査をおこなうという約束をすることで、両者は手を結んだ。
 そして、次第に親密の度を深め、幕末維新期の政局に大きな影響を及ぼすことになった。
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