味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

博く学ん篤く志、切に問ひて近く思ふ。

2017-10-19 15:16:30 | ブログ
第3216号 29.10.20(金)

『近思録』は宋の朱熹・呂祖謙のキョ共編。『近思録』の「近思」の二字は、『論語』にある子夏の言葉から引用したもの。「博く学んで篤く志し、切に問ひて近く思ふ。仁其の中に在り。」というのがそれである。「切に問ひて近く思ふ。」とは、「切実なことがらを問い、身に引きつけてよく考える」意味であり、学問と日常生活の緊密な関係を示すものである。実際生活を背景にした学問が強調されているといってよいであろう。但し、「近思」とは、「身に引きつけて考える」ことである限り、実践の一歩前で止まり、「考える」ことに重点が置かれていると言わざるをえない。実践に先行する知識の問題が大きく出されているのである。もちろん、その知識はそれだけで終わるものでなく、常に実践を目的とする。しかも考える内容は、わが身についてである。そしてまた「わが身」とは、社会共同体を構成する部分としての「わが身」である。かかる「わが身」をどのように修めていくか、そこに学問の出発点があったのだし、その線に沿った学問こそ真の学問と受け取られたのである。常に身辺の問題について考え、そこに道を求めていくことが「近思」の二字のうちに表現されているのである。『近思録』9
 
 濂渓先生曰く、無極にして太極なり。太極動きて陽を生じ、動極まりて静なり。静にして陰を生じ、静極まりて復(また)動なり。一動一静、互に其の根を為し、陰に分れ陽に分れて、両儀立つ。陽變じ陰合して、水・火・木・金・土を生じ、五氣順布して、四時行(めぐ)る。


 濂渓先生が申された。「無極であって太極である。太極が動いて陽が生まれ、動が極点に達して静になる。静になって陰が生まれ、静が極点に達して再び動になる。あるいは動となり、あるいは静になるが、動静は互いに根基となりあう。太極が陰と陽とに分かれて両儀が成立する。そしてこの陰陽が変化合一して、水・火・木・金・土の五行を生じ、五行の氣が順次に排列して四季のうつりかわりができる。

 【コメント】濂渓先生とは周濂渓のこと、無極而大極は実体は太極であって、それが人の感覚で把捉できない点から無極という。太極は宇宙の原理ともいうべきもので、あらゆる事物の生成・存在・運動の根源になる、とあります。

 過去何回か読んできましたが、冒頭部分を書いてご紹介しました。西郷さんの時代、近思録崩れという学びの団体があったとのことですが、古の青年たちも喧々囂々(けんけんごうごう)議論したことでしょう。

 難解であってもまずは実践することが大事だと思います。

 昨夜の空手道教室も賑わいました。『南洲翁遺訓』を拝誦する子供たちの元気な声が荘内南洲会の先生方にも聞こえたのではないでしょうか。中でも佳那子さまの声はひときわ大きな声でした。こういう元気な子供たちに囲まれて御稽古ができる幸せを感じています。

 子供たちちに空手道修行についてお話しました。全国的にただ、型と組手の稽古をするわけですが、それでは駄目なのです。空手道を御稽古し、精神の錬磨がなければならないのです。それには『南洲翁遺訓』の学修が最適だと信じます。
 
 『南洲翁遺訓』は難解なのですが、日常的に口ずさんでいけば、やがてその意味するところが理解できるようになるのです。
 今日青少年の非違行為は後を絶ちませんが、今こそ『南洲翁遺訓』の精神を教えるべきだと思います。あと20年もたてば、君たちは社会の構成員となるのです。甘えていてはいけないのです、と話したら、それぞれ相槌をうってくれました。

 修行の態度が悪い時、何も言われずいい加減に育った方がいいか、悪い時はホッペタを打たれて立派になった方がいいかと聞いてみました。子供たちは例外なく厳しくして欲しいと答えました。

 昨日は早めに行き、安岡正篤著『日本精神の研究』にある----政道の要諦----西郷南洲の政治思想について---を拝読しました。少しくご紹介します。

 <久しく人間樊籠の裡にあれば泉石や煙霞が恋しくなる。所謂文化が人々を巧言令色にする時、山貌野言に言い知れぬ愉快を覚える。それは元より我々の真情に適するからである。今更煩瑣な文明批評家の言論を假るまでもなく、現代生活は余りに偽巧に勝ち矯飾に走って、殆ど眞趣の掬すべきものがない。何人も今日の様なそらぞらしい偽巧矯飾の生活を断じて眞の文化と考えることは出来ぬであらう。眞の文化は自然の純化であり向上でなければならぬ。我々は現代にもっと純朴な行動を欲し、眞に大地の直接な言葉を聞きたいと思ふ。
 今日政治学者や社会学其他一般思想家学者等の思想言動は果して国民に直接親しい道情を起し得るのであらうか。所謂「性を俗学におさめ、慾を俗思に滑(みだ)って」居る政治家や、飽くを知らぬ概念の遊戯に耽って居る学匠達に依って代表されて居る国家の政教生活は、今や余りに我々から縁遠い。かかる折明治の始尚ほ我々の頼もしい一大先達であった西郷南洲の政治思想を研究してみることは、恰も野に語る眞人に接する様な純な快さや健やかな力を心神に感ずるのである。彼に依って我々は眼前に蠢動する政客や学匠を高く超越して萬世の為に太平を開く工夫努力を教えられる。>『日本精神の研究』238

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『臥牛先生遺教抄』(第41回)

 小子書道を好み、その心掛けを請問せしに、字を書くに先ず心を正しくし、精進斎戒し神仏に祈り而して筆を揮えば、その精神必ず字に顕わるるものと思う。是れ書の以て面白き所なり。書家の中にて独り北島雪山は、その趣を得たるかと思うとのたまえり。
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