味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

其の精を極むる有りて、而も亂れず、

2017-10-08 17:10:24 | ブログ
第3205号 29.10.09(月)

問ふ、之を析(わか)って以て其の精を極むる有りて、而も亂れず、然る後之を合せて以て其の大を盡す有りて、而も余り無し、と。此の言如何、と。先生曰く、恐らくは亦未だ盡さず。此の理豈分析を容(べ)けんや。又何を須(まっ)てか湊合せん。聖人、精一を説いて自ら是れ盡す、と。『伝習録』(伝習録巻上)89

 (陸澄)問う、「朱子の大学或問の中に、学問の方法を説いて、『物事の理を分析して精微の極に至り、しかも乱れることがなく、その後でこれを集め合せて、その大を尽くして余りがないというように、まず分析し、次に綜合して、細理と大理とを明らかにすべきだ。』とありますが、この言葉は如何でしょうか。」先生曰く、これはまだ完全な言葉ではないと思う。何となれば理というものはどうして分析したり、綜合したりすることができよう。理はそんなに器用に扱い得るものではない。聖人は惟れ精、惟れ一を説いたが、これこそ理を求める方法を説き尽くしている。」  

 【コメント】その昔若い時、分けが分からないまま、観念論を語り合ったものですが、どんな難解なことであっても、日常的に応用活用できるようにたいものです。

 世の事象は簡単なものの組み合わせから出来上がっていると思います。

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『不動心』(第74回)

 不幸を不幸にしない心の持ち方
 誰にでも不幸は起り得る。だが、それを辛いと思わない人間はそう多くはないだろう。幸運だったこと考えないで、不幸なことだけを思いめぐらすのは、いったどういう理由だろう。。人間性に反しないものなら不幸と呼べないし、人間として当然の意志に沿うものなら人間性に反しているとはいえないだろう。
 人間として当然の意志とは何であるかについては、すでに理解しているはずである。正義、寛大、節度、賢明さ、思慮分別、誠実、謙虚、自立心----人間性はこれらによって完璧なものとなるが、そのうちのどの一つでも損なわれたというのだろうか。だから、以後何か辛い目にあったときにはこういうことにしたまえ。「これは不幸ではない。むしろこの不幸に立派に耐え抜くことは、私にとっては幸運なのだ」と。

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『臥牛先生遺教抄』(第30回)

 過ちは改めざれば初めて過ちになるぞ。故に孔夫子も過って改めざる、是れを過てりというとのたまえり。如何なる聖賢と雖も過ちは必ずあるものなれども、聖賢は人目に見えざる内、自ら反省して改むる故過ちなきように見ゆるならん。独座の中過ちを改むるを楽しと思うようになれば初めて学びの道に入りたる人と言うべし。
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総選挙の公示が明日に迫りました。どの方々が栄誉を勝ち得て国の為働くのでしょう。思うに、選挙前にどの政党がいいということではなく、その座を占めたら、人々に訴えていた言葉を裏切ることの無きよう願いたいものです。

 訴えでは、人あたりのいいことを口にしますが、それが長く続いた時に、人々の頭脳に精神に、どう反映するかということです。

 戦争をしてはなりませんが、先ずは率先垂範して働く勤労精神旺盛な人づくりが大事でしょう。そして勤勉であること、粘り強い継続心があること、勤倹節約の精神を持つこと、忠恕の精神を持つこと、世の人々と真摯的に共存するということ等々、枚挙に暇がありません。

 人は怠けがちです。そういう人を自ら動きだすように指導することも大切だと思います。

 11月22日には荘内へ伺います。荘内南洲会の先生方、何卒よろしくお願い致します。

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