飛騨さるぼぼ湧水

飛騨の山奥から発信しています。少々目が悪い山猿かな?

踏切の警報音 ユニバーサルデザイン?

2017-07-05 17:30:46 | エッセイの部屋

朝早く散歩に出かけた。
我が家の前の村の道を北へ100mほど歩くと、右側に広い坂道が見える。
それは子供の頃遊び慣れた村の山寺の参道である。
その参道の坂を60mほど上がるとjr高山本線の踏切がある。
山寺は、その踏切を渡り切ってすぐ正面の階段を登るのであるが、散歩の私は右に曲がってさらに鉄道沿いに村の道を100mほど南へ歩いて、そこから東側の里山へ入る。
里山と言っても平地のような低い山でなく、背後は標高千mほどの山で、飛騨山脈の一部である。
その里山の麓高さ数十m程を農業用水路がほぼ水平に南へ流れていて、その脇に車が通れるほどの広さの散歩路が付いている。
この散歩路は高校生がマラソンの練習をしたり、週末には多くの人達の散歩コースになっている。
私の散歩とは、この道を村の物音や小鳥の声を聞きながら南へ数百mほど歩いて、最初の橋から引き返すのである。
全行程は、ほぼ3000歩である。
この散歩中、時々トイレへ急いでもどる時に踏切で止められて不便を感じる事がある。
どうして山門の手前にjrの踏切なんかがあるのだろう?等と改めて思った。
鉄道と山寺とで、どちらが先にあったかと言えば、もちろん山寺の方が古い。
鉄道工事でこの踏切付近を掘っていた時、たまたま工夫が銅鐸を見つけたと言う話を小学生の頃聞いた憶えがある。
そうなると、山寺の由来は弥生時代まで遡るかも知れない。
一方鉄道の方は昭和初めの開通だから、明らかに鉄道の方がはるかに新参者である。
飛騨川は北から南に流れていて、私の村はその東河畔に位置している。
その東側に鉄道ができて、一部の田畑が鉄道の高い土手で分断された。
きっと一部の地主は反対した事だろう。
もし、この鉄道が無ければと私は元の村の地形を想像してみた。
すると鉄道騒音も無い、よりのどかな風景が想像できた。
が、しかし、今はこのウルサイ鉄道のお蔭で、熊猿猪などが怖がって近づかず、近辺では珍しく農作物の獣害がない。
悪い面ばかりではなかった。
言わば、悪い面が良い面に、つまり短所が長所になった訳だ。
ところがである、ここから本題に入る。
ある日私は急に思い立って、朝早くに散歩に出かけた。
まだ目覚めない静かな村の静かな参道を清々しい気分で歩いていた。
目前の山寺も里山にも早朝の静寂があった。
参道を上り切った時だった。
突然、辺りの静寂を破って頭上で頭を殴るかのような雷鳴?が鳴った。
「カンカンカン!」
「なっ、何だ!」
と私はパニックになった。
特に初めの前触れのない一発音には心臓や体が止まるくらい驚いた。
「カンカンカン!」
「ああ、びっくりした、警報か、冷や汗をかいた、心臓もドキドキしている」
視覚障碍者は目の見えない分だけ耳が敏感だ。
突然の音には、小さな音にもあいさつ声にも驚く。
また心臓病の人にもショックを与えるだろう。
「カンカンカンカン!」
しばらくすると警報音は急に小さくなった。
「ああ、たぶん近所からクレームが来ないように途中から小さい音にしたのだろう」
村中に響くような大きかった音を想い出して、そう感じた。
「だったら・・・」
と少し腹が立ってきた。
設計者に対してである。
うるさいからと途中から音を小さくする配慮ができるなら、どうして鳴り始めも小さくしなかったのか?」
小さな音は、鳴り始めの5発ぐらいでいいのだ。
踏切の警報機は、何の前触れもなく、ある瞬間に突然大音響の鐘音を鳴らす。
すると、たまたま、その瞬間に真下にいた人の驚きはいかがなものだろうか?
と、設計した人達は想像ができなかったのだろうか?
話は変わるが、以前ブラジルにいた時大理石の四角のテーブルの角が尖っているのを見て先輩が言った。
「ああ、日本だったら、この角は面取りをするよ、こんな尖った角は二本の製品にはあり得ないよ、幼い子供が怪我する。それが日本人の繊細さだ」
私も同感だった。
今、日本人のひとりとして強く思う。
(おもてなしの心と共に、こうした繊細さを、あらゆる面で持ち続けてほしいと)
それには「ユニバーサルデザイン」の考え方を深く学ぶ事だろう。
それが実現すれば、日本製品は他国にはない新たな品質を持つ事にもなると思う。
近い内に、警報機の事はjrにも電話で要望しようと思う。

(おわり)

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