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ぽかぽか春庭「2022年7月目次 」

2022-07-31 00:00:01 | エッセイ、コラム


20220731
ぽかぽか春庭2022年7月目次

0702 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2022ふたふた日記夏(2)清澄庭園散歩
0703 2022ふたふた日記夏(3)夏の愉しみ

0705 ぽかぽか春庭にっぽにあニッポン語教師日誌>日本語学校夏(1)おくればせながら入学式
0707 2022日本語学校夏(2)HAL先生文化講座・七夕
0709 2022日本語学校夏(3)七夕の願い
0710 2022日本語学校夏(4)校内オリエンテーリング
0712 2022日本語学校夏(5)日本語学校避難訓練
0714 2022日本語学校夏(6)学生発表会夏
0716 2022日本語学校夏(7)留学生バス旅行

0717 2022シネマ夏(1)ドリームプラン
0719 2022シネマ夏(2)クライ・マッチョ
0721 2022シネマ夏(3)大河への道
0723 2022シネマ夏(4)ダーク・ウォーターズ 巨大企業が恐れた男
0724 2022シネマ夏(5)ハウスオブグッチ

0726 ぽかぽか春庭アート散歩>2022アート散歩夏(1)ガブリエルシャネル展 in 三菱一号館美術館
0728・・2022アート散歩夏芭蕉布in大倉集古館
0730・・2022アート散歩夏(2)やさしき明治展 in 府中市美術館

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ぽかぽか春庭「やさしき明治 in 府中美術館」

2022-07-30 00:00:01 | エッセイ、コラム

20220730
ぽかぽか春庭アート散歩>2022アート散歩夏(3)やさしき明治 in 府中美術館

 幕末に来日したワーグマンらの教えを受けて西洋画の技法を最初に身に着けた日本人画家の絵画は、明治画壇の重鎮となった黒田清輝の師匠格高橋由一の事績が伝えられたわずかな例をのぞき、ほとんどが「明治初期中期に日本にやってきた外国人のおみやげ」として買い求められ、海外に流出したままとなりました。日本ではまったく知られてこなかった画家も多い。
 私が学んだ美術の授業で教科書に載っていたのは、高橋由一のみ。五姓田義松を知ったのも、最近のことです。

 これらの海外に残された絵画をひとつひとつ収集したコレクターがいます。そのひとり高野光正は、欧米に散っていた作品を買い戻しました。
 コレクター高野光正は、浅井忠を世に出したコレクター高野時次の息子。時次は、リコーの時計部門の前身であった高野精密工業のオーナーで、明治時代の洋画を集めました。
 
 高野光正によって買い戻され、里帰りを果たしたこれらの絵画を2019年に府中美術館は「おかえり 美しき明治」展として公開。それにに続き、高野コレクションを中心に「やさしき明治」が展示 されました。

 開国まもない明治時代に、イギリスをはじめとした外国から日本を訪れ日本の風景と人々の営みを描いた外国人画家と、かれらに洋画を習い明治の情景を描いた日本人画家、計77人の作品が展示されています。
 これらのほとんどは、明治期にイギリスやアメリカに渡ってしまい、国内にはほとんど残されてきませんでした。高野は生涯をかけて、これら海外流出作品を探し出しオークションなどによって蒐集しました。

 会期:2022年5月21日(土曜日)から7月10日(日曜日)

 府中美術館の口上
 実業家高野光正氏は、コレクションの対象を日本から海外に渡った作品に定め、半生をかけて約700点を蒐集し里帰りさせました。本展では約300点を厳選して紹介します。

 最初のコーナーは、そんな海外流出画家のうち、日本ではほとんど名を知られていなかった笠木治郎吉の作品。私も初めてそのような画家がいたことを知りました。笠木のコーナーは撮影自由。
 実は、笠木の子孫は画廊を経営し、長く絵画にかかわっていたのですが、治郎吉の絵は国内に残されておらず、戦災を受けたことなどにより笠木家に残された下絵なども消失し、治郎吉の作品の手掛かりはほどんどなかったのです。

 笠木治郎吉の息子の嫁和子と和子の息子が経営している鎌倉市の「かさぎ画廊」。
店主和子は2003年に「J・Kasagiというサインの画家を知りませんか 」という問い合わせを受けて、はじめて笠木和子の舅にあたる治郎吉の手掛かりを得たのだそうです。

治郎吉は北陸石川近辺の生まれ。横浜に出て横浜出身の洋画家・矢田一嘯 の助手となる。1890年には渡米。1905年にヨシと結婚。1921年に亡くなりました。かさぎ画廊オーナー和子は、姑にあたる笠木ヨシから治郎吉の話はきいていたそうですが、いかんせん作品が何も残されていなかった。戦災のためほとんどが消失していたからです。 
 
 笠木治郎吉(1862-1921)
 かさぎ画廊による笠木治郎吉の紹介
 石川県に生まれたと言われる笠木治郎吉は、少年期に単身横浜に移り住んだ。治郎吉はワーグマンや五姓田芳柳らの影響を受け画技を磨き、一時欧米に渡ったとも伝えられる。横浜で活動をしていた事情で作品のほとんどが海外に流失し、柳行李いっぱいに保管していた下絵(デッサン)も関東大震災や戦火により消失した。子孫に残されたものは、顔写真1枚と下絵が1点のみであった。しかしその後、高野光正氏という絵画コレクターが治郎吉の作品を約20年に亘って欧米より収集していたことが分かった。
 2006年に、静岡県立美術館を皮切りに数都市で開催された「もうひとつの明治美術展」や2007年に埼玉県立美術館などで開催された「田園賛歌展」にて高野氏所蔵の笠木治郎吉の作品の一部が公開され、大きな反響を得る。その後インターネットの普及により笠木家が治郎吉の作品数点を海外より買い戻すことができた。このため2018年に横浜市歴史博物館にて開かれた「神奈川の記憶展」に笠木家の所蔵作品7点が、2019年には東京都府中美術館で行われた「お帰り美しき明治展」に京都の星野画廊から出品された未公開作品が展示され、笠木治郎吉の画業は注目を浴び始めている。

笠木治郎吉「新聞配達人」
 笠木治郎吉「花を持つ少女」
笠木治郎吉「帰猟」
 笠木治郎吉「猟師」
 
 笠木治郎吉「農家の少女」

 笠木治郎吉「帰途の母子」

 
 幕末に来日したワーグマンはじめ、モーティマー・メンベス、アルフレッド・イースト、ジョン・ヴァーレー・ジュニアらイギリス人画家が次々に来日し、各地を旅して日本の風景を描き残しています。

 アルフレッド・イースト「富士山」


 アルフレッド・パーソンズ「雪中の仏像」
 クレメント・パーマー「漁村」

 外国人の眼に映った明治初期の日本。日本人がすでに忘れ去ってしまった素朴な光景を緻密な描写で活写しています。今回の展示の「やさしき明治」もというタイトルも彼らから日本に注がれるまなざしが、たいへんやさしく温かいものであることからつけられた題名であると思います。

 絵が好きで15歳から60年近く、さまざまな美術館をめぐってきたけれど、これまでまったく知らなかった笠木治郎吉はじめ、明治日本を描いた画家たちを知ることができ、有意義な展覧会でした。
 「チケット自腹のときは図録はがまん」のワタクシルールですが、図録も買いました。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「芭蕉布 in 大倉集古館」

2022-07-28 10:22:37 | エッセイ、コラム

20220728
ぽかぽか春庭アート散歩>2022アート散歩夏(2)芭蕉布 in 大倉集古館

 布仕事を見るのはほんとうに楽しい。
 現代ファッションの意匠豊かで色鮮やかなプリント生地の展示、たとえば東京現代美術館で見た「ミナ ペルホネン/皆川明 つづく 」展(2019年に観覧)もよかっし、今は閉鎖してしまった「アミューズミュージアム 」(2013年に観覧)も楽しかった。田中忠三郎が集めた「津軽・南部のさしこ着物 」は、ぼろぼろになった布地を刺し子でつくろった「ボロ布」を集めて展示してありました。2021年夏に松濤美術館で見たのは「アイヌの装い」展。
 それぞれに興味深い布仕事でした。

 2022年夏の観覧。大倉集古館 特別展 「芭蕉布-人間国宝・平良敏子と喜如嘉の手仕事-」この布仕事もすばらしかったです。

 会期: 2022年6月7日 ~ 7月31日 

 大倉集古館の口上
 芭蕉布とは亜熱帯を中心に分布する植物・芭蕉からとれる天然繊維を原料とした、沖縄を代表する織物です。第二次世界大戦後に消滅しかけた伝統技法を復興させ、現代へ繋いだ女性こそが平良敏子です。その功績により、2000 年には重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されました。
 本展では沖縄本土復帰50 周年に寄せ、平良敏子の情熱と、彼女が本島北部の小さな村・喜如嘉に設けた工房で紡がれる手仕事をご紹介いたします。民藝運動の主唱者・柳宗悦に「今時こんな美しい布はめったにないのです。いつ見てもこの布ばかりは本物です」と言わしめた手織物の数々を約70点にわたり公開いたします。芭蕉の糸が織りなす透けるような風合い、沖縄特有の力強い色彩、バラエティに富んだ絣柄の世界をはじめとする芭蕉布の魅力をお楽しみください。

 人間国宝平良敏子略歴
1921 年 2 月 沖縄県大宜味村喜如嘉(きじょか)に生まれる
1946 年 1 月 岡山県倉敷市にて外村吉之介に師事 (そとむらきちのすけ1898-1993民芸運動家、染織家。甥のひとりは歌人塚本邦夫
1963 年 8 月 喜如嘉に本格的な芭蕉布織物工房を開く 
1972 年 5 月 県指定無形文化財 芭蕉布の保持者に認定 
1974 年 4 月 「 喜如嘉の芭蕉布保存会」の代表となる
      「喜如嘉の芭蕉布」が重要無形文化財に指定       
2000 年 5 月 重要無形文化財保持者 ( 人間国宝 )に認定 
2021 年 2 月 百寿を迎える

 芭蕉の木から繊維がとれるようになるまで3年がかり。それから糸づくり、染色、織り上げ、布を茶碗でこすって滑らかにする作業。一反の着物地が完成するまで途方もない手間暇がかかっています。
糸芭蕉の木の生育具合を見る平良敏子。
 

 芭蕉から取り出した繊維。硬い部分柔らかい部分にわけて、細く裂き、1本1本つないで織り糸に仕上げる。
 芭蕉布の仕事に使われている道具の展示。

 平良敏子、2021年2月に100寿を祝いました。2022年には101歳。すごい!
 これまでの一番の愉しみだったことは、糸目を数えて模様と模様の間を計算し、新しい柄を作り出すこと。平良敏子は代々家ごとに受け継がれてきた模様に新たな工夫を加えて、さまざまな柄を考案してきました。

 さまざまな柄

 仕立てあがった着物
 帯と着物(画像借り物)
  



 大倉集古館観覧の地下1階では、一連の作業を15分にまとめた記録映像が上映されていました。とても興味深かったです。芭蕉布がどのように出来上がるのか、糸芭蕉の栽培から糸づくり、染色、機織りまで。

 さて、7月27日、会期終了も間近い日の観覧で、ハイライトは。なんと、地下で、平良敏子制作の着物をお召しになっていらっしゃるご婦人がいたのです。
 数人のおマダ~ムたちが着物姿の方を囲んで写真をとったり話したりしていたので、好奇心の塊HALも、さっそく近寄ってみると。

 40~50代の娘さんとごいっしょだったので、おそらく60代か70代の方とお見受けしましたが、マダ~ムたちの質問をまとめると、浅草在住の松浦さん。コロナ禍前までは「パッチワーク講師」として、松屋の中などで教えていたのだそうですが、現在はコロナのためパッチワーク教室は閉鎖中。
 平良敏子作の芭蕉布着物を購入したのは、10年以上前。当時着物が350万円、帯が50万円くらいだったけれど、平良さんが100歳を超えもう新作も難しくなった今では、買うとしたらおそらく着物と帯あわせて1000万円以上ださないと買えないのではないか、というお話。マダ~ム一同、ひぇ~~!。
 私でなくとも、とても1000万円する衣装で街中に出てくることはできません。大事にタンスにしまっておくか、どこかの美術館に寄託して保管してもらうか。

 マダムたちの質問のひとつ「着た後の洗濯は?ご自分でなさるのですか」松浦さんのお答え「いえいえ、自分で洗って万が一にも布地を痛めたりしたらたいへんですから、専門家に頼みます」そうでしょうねぇ。クリーニングに数万かかったとしても、1000万の着物をいためるわけにはいかない。

 マダムのひとりが「私は実践女子大の被服科を卒業して、着物に興味があってブログもやっているのですが、お着物の写真、顔を出さないようにしますから、ブログに乗せてもいいですか」
 松浦さんがOKとの返答だったので、私も名刺を渡して「留学生に日本の文化を教えることが仕事の一部です。ぜひ留学生に日本の着物文化のひとつとして紹介させてください。私もブログにお着物の姿を載せたいのですが」と申し出ると、快くOKしてくれました。松浦様、ありがとうございます。
 
 帯 
 美しい柄

 凛としたたたずまいの松浦さんの姿、上品でさわやかで、うつくしゅうございました。7月27日のなによりの眼の保養となりました。

 写真撮影OKは、地下室の芭蕉畑の垂れ幕でした。

 大倉集古館正面門の前で。1戦万円の芭蕉布人間国宝制作の着物とはうってかわって、娘が懸賞で当てたMeijiのTシャツ。チョコだかクッキーだかを買って当てました。


<つづく>
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ぽかぽか春庭「ガブリエルシャネル展 in 三菱一号館美術館」

2022-07-26 00:00:01 | エッセイ、コラム


20220726
ぽかぽか春庭アート散歩>2022アート散歩夏(1)ガブリエルシャネル展 in 三菱一号館美術館

 日本人が「ブランド大好き民族」であることは、ハウスオブグッチの中でも「笑いのタネ」にされていました。アルドグッチが日本進出を果たすために「コニチワ」と日本語のあいさつでロドルフォを迎えたり、ゴテンバにモールを出す話をしたり。
 エルメスとかローレックスとか、ブランドの刻印がついていれば無条件で「よい品」と信じ、大金を出す。買えない人はあこがれる。
 そんなビッグネームを確立したブランドの総大将のひとりがグッチであることは、ブランドにうとい私にもわかります。

 そして、ファッションブランド界において、日本でもっとも広く認知されているのが「シャネル」だと。はい、私でも知っていますから。
 ひところ、PTAなんかに集まるおマダ~ムたちが、子供が制服きてるのと同じように、そろってシャネルスーツを着込んできて、制服かよ!と、突っ込みいれたくなる時代もありました。本物のシャネルもあったし、「シャネル風」もあったことでしょうが。

 ガブリエル・シャネル通称ココ・シャネル(1883-1971)は、ファッション界において、3つの大きな変革を成し遂げた人物として知られています。
 20世紀の女性として最も顕著な功績をファション界のみならず、広く社会全体に与えたのです。

 よく言われているのは、「ココシャネルは、女性の身体をコルセットから解放した」
 20世紀になるまで、女性は「いちばん女らしく見えるように」コルセットを身に着け締め付けることでより細いウエストを確保しようとしてきました。細い腰と豊かなヒップを持つことが「子を産むのにふさわしい女らしいスタイル」とされてきたからです。
 しかし、コルセットを用いないファッションを発表していたのは、シャネルが最初ではありません。

 2009年に庭園美術館で「ポワレとフォルチュニィ」展を観覧し、シャネル以前にもコルセットを使わないファッションが生み出されていたことを知りました。しかし、シャネルの名はファッションにうとい私でも知っているのに対し、庭園美術館の展覧会までポワレの名もフォルチュニィの名も知りませんでした。
 ココシャネルがブランド確立者としてあまりにも有名であるのに対して、ポワレもフォルチュニィも、ブランドとして生き残る道はとらず、一代かぎりのファッションデザイナーとして時代の中に埋没してしまったからです。
 シャネルは卓越したデザイン感覚の持ち主であると同時に自分のブランドを立ち上げ維持する経営感覚も持っていた稀有な女性でした。

 シャネルの伝記物語は、さまざまなメディアの中に描かれており、私もドキュメンタリー番組などで幾度となく、彼女が後年封印して語りたがらなかったその貧しい生い立ちや修道院での悲惨な暮らしなどについて、細かく調査されているのを見てきました。以下は「映像の世紀ー世界を変えた女たち」ほかのドキュメンタリーで知りえたシャネルの生涯です。

 ガブリエルは、貧しく子だくさんな両親の間に生まれました。12歳のとき、生活力のない父にかわって働きづめだった母が貧困の中に亡くなります。父親は男の子は農場に働きに出し、女の子は修道院に放り込みます。

 修道院で6年間裁縫を仕込まれたことが、のちに役立つことになります。
 18歳から20歳すぎまで、昼はお針子として働き、夜は騎兵部隊の集まる店でチップを稼ぐ暮らしを続けます。店での役目は、出し物と出し物の入れ替えの間に舞台でポーズをとってチップをもらう仕事でした。

 一時歌手をめざしますが、自分に歌手として成功する道はないことを自覚。23歳の時、騎兵部隊にいたエチエンヌ・バルサンの愛人となりました。バルサンは親の資産を馬の飼育に使う金持ちでしたが、下層出身のココと結婚する気はまったくありません。バルサンにとっては「馬と同じ、道楽のひとつ」
 バルサンとの暮らしの中で、ココは乗馬を覚えましち。これが洋裁の変革につながります。当時上流社会の女性は、ロングスカートで横乗りをしていました。シャネルは、男性と同じようなズボンの乗馬服を自分のために作成します。裁縫技術が役にたったのです。この斬新な乗馬服を望む女性のために、やはり人気を得ていた新しい帽子とともに、制作に乗り出します。

 やがて、ココはバルサンの友人のカぺルに乗り換えます。カぺルはイギリス人上流階級の金持ちで、やはりココと正式に結婚する気はなく、貴族の娘ダイアナと結婚後もココを愛人のままにしていました。

 1913年、30歳になっていたシャネルは、アーサー・カペルの資金提供でドーヴィルにブティックを開業し成功をおさめます。 シャネルの製品は当時主に男性用下着に使用されていたジャージー生地や下着用のトリコットのような安手の生地で作られていました。高級な生地を仕入れる資金に不足していたからです。
 ドーヴィルのブティックは立地がよかったことに加え、妹と叔母(父親の年の離れた妹にあたる)の協力のもと、帽子、ジャケット、セーター、そしてセーラーブラウスなどのデザインを売り出します。ドーヴィルの目抜き通りを、妹アントアネット と、父方の叔母アドリエンヌ(アントアネットと同い年)は、新しいデザインのドレスを着て歩き、人目を惹いたのです。

 1918年には、ビアリッツの店舗を「メゾン・ド・クチュール 」として登録しました。
この当時、35歳になっていたココの愛人は、ロシア貴族のドミトリー・パヴロヴィチ大公 。大公はロシア皇帝ニコライのいとこです。

 店の大繁盛によって、ココはカぺルから得てきた資金を返済できるようになりました。しかし、1919年ココ36歳のとき交通事故でカペルは死去。
 バルサン、ドミトリーなどの愛人遍歴の中、カぺルを「私がいちばん愛した人」と後年語りますが、それはカぺルが亡くなっていて、ココにとって「不滅の愛」として神話化されていたからでしょう。

 ココはバレエリュスのディアギレフ、作曲家ストラビンスキー、ピカソ、コクトーなどの芸術家と交流を深め1922年よりシャネルNo.5の販売もはじめます。
 詩人やイラストレーターらとの恋愛を経て、40歳からココはイギリス貴族ウェストミンスター公と交際。彼はシャネルに別荘や宝石を与え、正式な結婚を望んだけれど、ココは仕事を捨てて家庭の中にはいることを選びませんでした。いわく「ウエストミンスター公爵は何人もいるけれど、ココはたったひとり」つまり、「愛人として侍らせることができるような男は何人もいるが、デザイナーココはこの世にたったひとり」という強烈な自己主張自己愛の持ち主がココでした。仕事を捨てて「上流階級の妻として枠にはまって生きる」ことなど論外でした。

 1924年5月、交際していたウェストミンスター公爵とグランドナショナル(障害競走)を見物するシャネル。
 

 第2次世界大戦中、ドイツからの侵攻が強まると、ココはドイツ人将校を愛人としました。外交官・諜報員であったハンス・ギュンター・フォン・ディンクラーゲ との親密な交際によって、ドイツに協力的人物として逮捕されます。釈放されたのち、1944年から10年間、スイスに隠遁し、社会から身を潜めて暮らしました。

 1954年、71歳のココは、逼塞していたスイスからパリに舞い戻り、自身のブティックを復活させます。しかし、パリでは「ドイツ人軍人との交際によるスパイ疑惑」の悪評はぬぐい切れませんでした。
 そんなシャネルのデザインを熱狂的に支持したのは、アメリカ人女性たちでした。アメリカにとって、ドイツフランスの確執やスパイ疑惑なんか関係ないからです。

 第2次大戦に出征していた男性に変わった社会進出を果たすようになったアメリカ女性は、シャネルの機能的で軽やかなデザインを好みました。その一人がジャクリーヌ・ケネディです。(JFKが撃たれたときに、オープンカーでジャクリーヌが着ていたピンクのスーツもシャネル製)
 ジャクリーヌのシャネル愛用の効用もあって、アメリカでの人気はどんどん高まり、パリのオートクチュールも劇的に復活しました。
 1971年に87歳で亡くなるまで、ココシャネルはファッションの最前線に君臨したのです。

 最晩年のココ・シャネル


 以上のココシャネル伝記は、シャネル自身が自己美化してマスコミに語ったことも含まれますが、おおむね彼女の生涯に沿っていると思います。
 自己美化のひとつとして、「父によって修道院に放り込まれた」という生い立ちのかわりに、ココは「アメリカへ旅立った父のもとから、父の姉妹に預けられた」という神話を語りましたが、父がアメリカへ行ったこともないし、ココの世話をしたという伯母も叔母も実在していません。

 シャネルがブランドとして生き残ってきた理由のひとつとして「自社素材」を取り入れた点があげられます。たとえば、服地は1928年から「シャネル織物社」がシャネルのコレクションのために特別なプリントを制作しています。自社のみのライセンスにできなかった香水も、さまざまな変遷を経てシャネル社の事業になっています。


 三菱一号館美術館での「ガブリエル・シャネルManifeste de mode展」は、32年ぶりのシャネル回顧展。おもな出品元は、ガリエラ宮パリ市立モード美術館とパリ・ミュゼ。両者の協働による国際巡回展のひとつとして開催されました。そのほかパトリモアンヌ シャネル、ガリエラ宮、そして日本のさまざまな美術館から集められた、1910年代~1971年までの130点以上の貴重な作品 が展示されています。春庭は、7月20日に観覧。
 会期:2022年6月18日(土)~ 9月25日(日)

美術館の口上
 ガブリエル・シャネル(1883~1971)は、「20世紀で最も影響力の大きい女性デザイナー」といわれます。 シャネルのシンプルかつ洗練された服は着る人に実用性と快適さを与えながら、1920年代の活動的な新しい女性像の流行を先導しました。戦後に流行したシャネルのスーツを着こなすことで、彼女自身がファッション・アイコンとして、そのスタイルを象徴しています。本展は、ガリエラ宮パリ市立モード美術館で開催されたGabrielle Chanel.  Manifeste de mode展を日本向けに再構成する国際巡回展です。ガブリエル・シャネルの仕事に焦点を当てる回顧展を日本で開催するのは32年ぶりのことです。 シャネルのスーツ、リトル・ブラック・ドレスを代表に、どれも特徴的な服はシャネルのファッションに対する哲学を体現しています。さらにコスチューム・ジュエリーやシャネル N°5の香水といった展示に当時の記録映像が加わることで引き立てられ、鑑賞者をシャネルのクリエイションの魅力へと誘います。

 婦人服へのジャージー生地の導入、日常生活における利便性とファッション性を両立したスーツ、リトル・ブラック・ドレス(LBD)の概念の普及など、彼女がファッションに残した遺産は現代のファッションにも多大な影響を残しており、これらを通じてスポーティー、カジュアル・シックな服装が女性の標準的なスタイルとして確立されたとされています。

 展示構成
 新しいエレガンスに向けてースタイルの誕生ーN°5:現代女性の目に見えないアクセサリー抑制されたラグジュアリーの表現ースーツ、あるいは自由の形ーシャネルの規範(コード)ージュエリーセット礼賛ー蘇った気品


 1930~1936年に、シャネルは「シャネルスタイル」の服を発表。
 以後、シャネルスタイルは規範としていつの時代にも「決して古びない流行」となる。


 喪服の色とされた「黒」の生地をつかったドレスもつぎつぎに発表。 


1936-1937年秋冬 蝋引きしたレーヨンのクロッケのドレス 
パリ、パトリモアンヌ・シャネル

 シャネルのドレス

 いっとき、だれもが肩にぶら下げていたシャネルバッグ。レプリカも多かったと思うけれど。

 私自身は、レプリカも含めてシャネルの靴も香水もバッグも身に着けたことはなかったけれど、こうして「見るファッション」として眺めて歩けば、とても楽しいひとときでした。
 私が身に着けた場合、絶対に本物には見えず、中国製とかのレプリカにみえるだろうから、以後も買う予定はないが、プレゼントは喜んでいただきます。ください。
 三菱一号館入館者へのミニプレゼントとしてシャネル5番のミニボトルが配布されていたのに、7月10日から24日までの間は「予定以上にプレゼントをももらう人が多かったために配布中止」という憂き目にあいました。
 せっかくのプレゼントだったのに、間が悪いこと。もう一度行ってもらうぞ、と決意。(年間パスがあるのでね)


<つづく> 


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ぽかぽか春庭「ハウス・オブ・グッチ」

2022-07-24 00:00:01 | エッセイ、コラム

20220724
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>2022シネマ夏(7)ハウスオブグッチ

 2021年公開の『ハウスオブグッチ』。2022年7月20日に飯田橋ギンレイで鑑賞。『最後の決闘裁判』と同年の公開を果たしたリドリー・スコット制作監督作品です。1937年生まれ。80歳を超えてこの勢い、次回公開の『ナポレオン』も制作中。

 アダム・ドライバーは「最後の~」と「~グッチ」の両方に出演。両方ともよかったですが、期待以上だったのはレディ・ガガ。歌唱力が生きた「アリー」もよかったですが、欲望に満ちたパトリツィア・レッジアーニの役も見事でした。

 サラ・ゲイ・フォーデンのノンフィクション『ザ・ハウス・オブ・グッチ』が原作 です。しかし、パトリツィアによる「離婚した夫マウリツィオ 暗殺」はイタリアのみならず世界中から注目された事件ですから、新聞記事や裁判記録などを集めて脚本を構成することもできたでしょう。
 リドリースコットは、2000年には原作の映画化権を取得し、20年間企画を温めていたのです。さまざまな女優がパトリツィア候補としてリドリー監督の前に現れたでしょうが、アニーを見て、よしこれでいける、と思ったんじゃないかしら。

 実際に起きた事件をもとにした映画ですけれど、この事件を知らない人には以下はネタバレの紹介です。

監督制作 リドリー・スコット
マウリツィオ・グッチ(グッチ家三代目):アダム・ドライバー 
パトリツィア・レッジャーニ(上昇志向のつよい運送屋の娘):レディ・ガガ
ロドルフォ・グッチ(グッチ家2代目):ジェレミー・アイアンズ
ジュゼッピーナ・アウリエンマ(パトリツィアが頼る占い師、通称ピーナ):サルマ・ハエック
アルド・グッチ(ロドルフオの兄、ニューヨークに進出):アル・パチーノ
パオロ・グッチ(アルドの三男、才能ないのにデザイナー志望):ジャレッド・レト)
ドメニコ・デ・ソーレ(グッチ社顧問弁護士):ジャック・ヒューストン
パオラ・フランキ(マウリツィオの恋人):カミーユ・コッタン

 映画では描かれていませんが、パトリツィアの出生や育ちには諸説あります。パトリツィアが自分で語ってマスコミに流布している話もあるでしょう。
 知られている話では。
 パトリツィアの実父はだれだかわからず、母のシルヴァーナは、シングルマザーとして貧困の中パトリツィアを育てました。
 シルヴァ―ナがフェルナンド・レッジャーニの愛人となり、パトリツィアが12歳のとき正式に結婚。パトリツィアの人生も開けてきます。フェルナンドはトラックひとつから身を起こして運送会社経営者として成功した立志伝中の人物。パトリツィアを正式に養女として籍に入れます。

 「中の上」にまで成り上がったレッジャーニの娘として、以後パトリツィアは有産階級のパーティなどにも出られるようになり、トップ階層への上昇志向を強めていきます。

 映画は、パトリツィアが父の運送会社で働いている頃からはじまります。
 あるパーティでまじめに法律を学ぶ学生と出会い、その男マウリツィオがグッチ2代目の息子とわかると、偶然を装って再会し、手練手管でマウリィツオと結婚。当初は結婚に大反対していたマウリツィオの父親も、パトリツィアが娘を出産するとようやくグッチ家の嫁として認めます。

 実在のマウリツィオグッチとパトリツィア


 父ロドルフォの死後、あとを継いだマウリツィオはだれの目にも経営の才はなく、デザイナーの才能は皆無のいとこのパオロは自分のデザインをごり押しする。グッチが傾くのは当然のなりゆき。
 パトリツィアは、ロドルフォ家とアルド家の内紛を利用しながらグッチ家の支配を目指します。
 マウリツィオは、本性を現したパトリツィアに辟易としてきて、彼女が自分と結婚したのは愛ではなく野心によってであったことに、ようやく気づきます。マウリツィオは、心の癒しとして自分と趣味も知性の方向も同じパオラ・フランキとの仲を深め、パトリツィアと離婚を決意。

 離婚の条件として、娘の養育費と慰謝料分割に、年間数億ずつ支払う契約を結びます。
 パトリツィアがマウリツィオ暗殺を決意した理由は、お金の問題じゃなかったと思います。娘と悠々暮らしていけるだけの財産分与は確定していたのですから、夫を殺しても金銭的な得はない。
 ひとつには、夫のあとグッチ家を継ぐ資格を娘に与えたかった、もうひとつの動機は本気で「パオラに夫を取られたくない」。
 
 占い師のピーナと暗殺を謀り、マフィアにマウリツィオを撃たせる計画。映画のマフィア殺し屋は、いかにも頭の悪そうな、完全犯罪できなさそうな男ふたり。はたして、実際の事件では「殺しの代金が予想より少なかったこと」でもめ、事件が発覚したというお粗末。
 死刑のないイタリアで、実行犯のマフィアと共犯のピーナ&パトリツィアは、それぞれ25~29年の懲役刑を受けます。

 実在のパトリツィアは、服役中に脳腫瘍の手術も受けた、ということなので、懲役刑といってもきつい労働はしなかったでしょうが、服役中に夫からの離婚契約の資産をため込んでいたため、模範囚として懲役18年に刑期が削減したのち社会に戻った彼女は、たちまち数百億円の資産を手に入れ、現在まで悠々と生活しています。
 自分をモデルにして演じるレディガガが「挨拶にこなかった」と拗ねているとか。

 レディガガは、上昇志向をむき出しにしてグッチ家乗っとりを謀る悪女を演じて「嫌悪感を感じさせない」という絶妙な役どころをとてもうまく演じていたと思います。離婚された彼女がマウリツィオに「愛している」と迫るところも、彼女が愛しているのは、資産家の息子であるマウリツィオであって、けっして彼の知性や音楽や絵画の趣味を含めてトータルのマウリツィオであるのではない、ということを自分ではわかっていなかったのだろうと感じさせました。

 グッチ家にはじめて乗り込んだパトリツィアが、グッチ家の壁にかかるクリムトを見て「ピカソ?」とロドルフォに尋ねる顔。実際のレディガガの家にはピカソの絵もクリムトも壁にあるでしょう。レディガガはもともと「アメリカ金持ち階級」の出です。しかし、パトリツィアが「ピカソ?」と答える顔は、ほんとうにピカソとクリムトのちがいもわからない、無教養なしかしかわいい女の子でした。

 このような実在の人物を描き、実際の事件を描くにはさまざまな困難があったことだろうと思います。今も「大ブランド」としてのグッチイメージを傷つけるような描写があったら、グッチの顧問弁護士は黙っていないだろうし、パトリツィアの娘ふたり(映画にはひとりしかでてこなかったけれど)もまだ実在しています。
 リドリースコットの手腕、すごいな、と思います。

<おわり>
 
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ぽかぽか春庭「ダーク・ウォーターズ 巨大企業が恐れた男」

2022-07-23 00:00:01 | エッセイ、コラム


20220723
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>2022シネマ夏(4)ダーク・ウォーターズ 巨大企業が恐れた男

 飯田橋ギンレイでの観覧。
 ダークウォーターときくと、ホラー映画かと思い、見る気がしていなかったのですが、夫タカ氏が併映の「スイング・ステート 」が面白かったという。タカ氏は選挙大好き男で、自分の票読みがどれほど結果と近かったのかということが彼の娯楽のトップなのです。今回の参院選でも、「聞きたくもない」のに、さんざん「ボクの読みがどれほど当たったか」を語りたがり、うざいったらない。

 まあ、シネパスポートをタダで映画見ることができるのだから、スイング・ステートを見ておこうかと、期日前投票をしたついでに飯田橋に寄りました。
 2本とも見ることにしたのですが、私には「スイングステート」は、笑えたけど、夫ほどには面白と感じない。なるほど、アメリカの民主党VS共和党の選挙っていうのは、こんなふうに地方の町長選挙まで入り込むのか、とおもったけれど、夫の選挙話と同じ。選挙の駆け引きやどっちが勝つかについて、興味がないので。面白かったのは、最後の「町の勝利」があきらかになったところだけ。
 でも、併映の「ダーク・ウォーターズ 巨大企業が恐れた男 」がとてもよかった。

 「ダーク・ウォーターズ 巨大企業が恐れた男 」は、環境汚染を40年間隠し続け、化学物質による健康被害を拡大させてきた大企業デュポンに対して、裁判を起こし、法の力で勝利した弁護士の20年にわたる戦いを描いた実話に基づく物語です。
 私は、デュポンが賠償に応じる決定をした、というニュースを見たとき、その背後にこのような壮大な戦いの歴史があったこと、あまり知りませんでした。ああ、アメリカでも環境汚染による賠償がなされたのだなあ、これは『沈黙の春』などの思想が敷衍したからかなあと思った程度。

 化学物質垂れ流しによる環境汚染と巨大企業というと、すぐに思い出すのはチッソによる有明湾汚染とと水俣病の長い闘いです。
 最終的にチッソが患者救済や賠償に応じるまで、やはり30年かかっています。

<あらすじ>
 弁護士のロバート・ビロットは、ウェストバージニア州の農場経営者ウィルバー・テナントから、村で連続して起きている家畜の不審死の調査を頼まれました。牛の体に恐ろしい変質を起こり、190頭もの牛が死んだのです。テナントは、牛の歯や内臓に異変が起きていることを知り、証拠として冷蔵庫に保管しておきました。

 ビロットはテナントに、不審死は化学企業のデュポンが化学物質を川に流出させ、生活水が汚染されていることが原因であると明かされます。病気になり農場経営ができなくなったウィルバー・テナントの弟の土地をデュポンは買いたたき、そこに汚染物質を廃棄することにしたのです。その廃棄物質は川の水を汚染し、その水を飲んだ牛につぎつぎに異変がおこりました。

 調査を始めたビロットは、デュポンが環境汚染を認識しながら隠蔽していることに気付き、訴訟を起こします。しかしアメリカ合衆国を代表する大企業のデュポンに戦いを挑むのは、アリが針を持って象を刺しにいくようなもの。だれもが、すぐに象に踏みつぶされる無謀な戦いと思いました。
 弁護士事務所の上司や部下からも支持を受けられず、デュポンからの脅迫で身に危険が迫ります。妻のサラは、職を失いかねないビロットに不安を募らせ、子育てもひとりで行わざるをえなくなった人生に失望も感じています。

 ビロっとは、開示要求によって手に入れた膨大な書類の中からひとつひとつ証拠となる事実を集め、訴訟を続けていきます。
  • マーク・ラファロ:ロバート(ロブ) ビロット デュポンに対峙した弁護士 
  •  アン・ハサウェイ:サラ・ビロット ロバートの妻
  • ティム・ロビンス:トム・タープ ロブの上司- 
  • ビル・キャンプ:ウィルバー・テナント ロブの母親の知り合いだったことから、牛190頭の死とデュポン化学物質汚染の調査を依頼- 
  • ヴィクター・ガーバー:フィル・ドネリー デュポン方のトップ
  • メア・ウィニンガム:ダーリーン・カイガー デュポンによる健康被害者。訴訟団の代表で、さまざまないやがらせを受ける。 
 最初にウィルバー・テナントが牛の死をロブに知らせた1998年から、2017年2月、デュポン社とその子会社ケマーズが3550件の訴訟で、合計6億7070万ドル(約765億円)の賠償支払いで和解するまで20年。
米化学大手デュポンと同業のケマーズは13日、デュポンの工場から河川に流出した化学物質により健康被害を受けたとする3550件の訴訟で、合計6億7070万ドル(約765億円)の支払いで和解したと発表しました。20年に及ぶ戦いでした。
 主役のマーク・ラファロは、2016年にこの裁判が報じられると映画化を申し込み、2019年に公開。 
 
 依頼のあったウエストバージニアの農場へいやいやながら向かう弁護士ロブの車から、♪カントリーロード♪が流れます。ウエストバージニアは、この歌に代表されるように、美しい自然と人々の素朴な暮らしの土地でした。
 化学製品の会社デュポンはそんな田舎に雇用を生み出し、地元に豊かさをもたらしました。その一方で40年もの間、垂れ流しの化学物質汚染が健康被害を生み出したことを隠し続けたのです。
会社の化学物質によって健康被害を受けた社員は、内部告発ができないでいました。会社から生活を保障されて口をつぐむしかなかったから。
 ロブの20年による戦いの結果、最終的に裁判所は、デュポン社の犯罪であることを認めました。

 2021年12月のニュース。沖縄宜野湾市の米軍基地からPFOAとPFOSが流出しました。発がん物質として使用が禁じられているPFOAとPFOSを飛行機の洗浄用に使っていたのです。
 PFOAとPFOSは、フライパンの加工などに使われるフッ素樹脂「テフロン」の製造過程で使われていましたが、発がん物質であったことからデュポンは既にPFOAの使用を中止しています。
 それが、米軍基地では堂々と使われていました。しかも開示された資料は黒塗りで真実は闇の中。
 弁護士ロブが開示要求をしたデュポン社の内部資料がロブの請求によって公開され、裁判勝利の根拠となったのに比べて、日本の「秘密主義」に暗然とします。

 日本では政治がかかわると真実は最後まで「黒塗り」になる。
 20年の間苦しみ続けたウエストバージニアの人々は最終的に救済されたけれど、日本にロブのような弁護士、いるのかなあ。

 マーク・ラファロは、自ら映画化を望んだ作品で、熱演でした。20年たった最後はだいぶふけたメークになり、妻役アンハサウェイは最後まで若く美しかった。ま、女優だからいいか。

<おわり>
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ぽかぽか春庭「大河への道」

2022-07-21 00:00:01 | エッセイ、コラム


20220721
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>2022シネマ夏(3)大河への道

 夫は読み終わった本をときどき私に回してきます。
 春庭は「私は古本屋で100円で買うから一人で読んでもいいけど、タカ氏は新刊で買うのだから、家族で読んで、元とらなきゃ」という「元とる精神」により、回された本はたいてい読みます。タカ氏が「妻も好むはず」と思いこんでいる本が勘違い!のこともありますが、カズオイシグロとか東野圭吾などはよくまわってきます。最近読んだ東野圭吾本は『クスノキの番人』。ハードカバーなので、電車に持ち込むには重く、「布団の中で寝転んで読書」でしたが、土日で一気読み。

 タカ氏は落語が好きでひとりで池袋演芸場などに聞きに行き、落語家の著作もよく読みます。立川談志の芸談など。
 タカ氏が最近読んだ立川志の輔『大河への道』を回してきました。志の輔の落語「伊能忠敬物語‐大河への道」をノベライズした本なので、それほど長くもないし、ノベライズした人の文体が私の気に障るような文をつづらないライターだったので、電車の中で軽くすぐに読めました。アニメや劇画からのノベライズ本、文体が気に入らないことが多いのですが。


 伊能忠敬「大日本沿海輿地図」が重要文化財から国宝に格上げされました。その前だったかあとだったか忘れましたが、伊能忠敬没後200年にあたる2018年、東京国立博物館ミュージアムシアターで、高精細VR作品『伊能忠敬の日本図』が上映されました。東博入館料は入館料のほか、シアターは別料金。さんざん迷ってシアター入場して、半分居眠りしながら見た覚えが、、、、。延々地図がうつされるので、高校地理の時間にずっと寝て過ごしたくせがブリ返した。別料金、もったいなかった。

 教科書に必ず載っていて、だれでも知っている偉人伊能忠敬。しかし、井上ひさしの『四千万歩の男』は大部。文庫版でも厚めの文庫で1巻から5巻まであります。小説は一気読みするのが私の読書なので、ついつい後回しにしていました。NHKのドラマにもなったのですが、見逃しました。

 『大河への道』は、文庫も薄いし、電車内と「布団の中読書」一気読みできました。
 文庫の帯に「映画化決定」と出ていたので、検索すると、とっくに映画は完成。5月から上映されていました。知らなかった。

 私は、原作のある映画の場合、どちらかというと映画を先に見るほうです。原作を先に読むと、イメージした顔と俳優の風貌が合わないときがっかりするからです。原作先に読んでイメージ通りだったのは、『風と共に去りぬ』のレットバトラーくらい。これは、原作者がクラーク・ゲーブル をイメージしてバトラーの人物像を作り上げたのだから、合っていてあたりまえ。

 原作を先に読んじゃったし、映画はどうしよう。飯田橋ギンレイにくるかテレビ放映されるまで待つか、思案のしどころ。
 ぜひ見たいと思って、木場のシネコンまで「レミゼラブル」見に行ったら、3か月後には飯田橋ギンレイにかかった、というようなこともあったので。
 『大河への道』ギンレイのラインナップにあがりそうな作品です。

 でも、思い立ったが吉日。二子玉川の109シネマに見に行きました。6月22日、ひさしぶりのひとりでの映画、そして、ごくごくひさしぶりのシネコンでの自腹チケット映画鑑賞です。

 シネコン100席くらいの一番小さいところで、11時から一日一回だけの上映。90人くらいは入っていました。平日は高齢者ばかりのギンレイと異なり、けっこう若い人も来ています。そうか、私が「このままじゃ映画は文楽歌舞伎やクラシックコンサートのように、高齢者御用達コンテンツになっていくのだな」と心配することもなく、若い人に受ける映画なら若い人も見るのか。

 『大河への道』は、中井貴一が志の輔の落語にほれ込み、映画化を申し出たそう。

 公式サイトの口上
 千葉県香取市。市役所の総務課に勤める池本保治(中井貴⼀)は、市の観光振興策を検討する会議で意見を求められ、苦し紛れに⼤河ドラマ制作を提案。思いがけずそれが通り、郷土の偉人、伊能忠敬を主人公とする大河ドラマの企画が立ち上がってしまう。ところが企画を進めるうちに、⽇本地図を完成させたのは伊能忠敬ではなかった!?と判明する。
 伊能は地図完成の3年前に亡くなっていた!
という驚きの事実が明らかに……。江戸と令和、2つの時代を舞台に明かされていく⽇本初の全国地図誕生秘話。
そこには地図を完成させるため、伊能忠敬の弟子たちが命を懸けて取り組んだとんでもない隠密作戦があった――。

 以下、ネタバレ含む紹介です。
スタッフ
原作:立川志の輔「伊能忠敬物語―大河への道―」
監督:中西健二
脚本:森下佳子

キャスト
・中井貴一:総務課主任・池本保治 / 高橋景保
・松山ケンイチ市役所総務課員・木下浩章 / 高橋景保の助手・又吉 
・北川景子:観光課の課長・小林永美 / 伊能忠敬の元妻・エイ
・岸井ゆきの:観光課職員・安野富海 / 下女・トヨ
・和田正人:各務修 / 忠敬の測量隊員・修武格之進
・田中美央:吉山明 / 忠敬の測量隊員・吉之助
・溝口琢也:山本友輔 / 忠敬の測量隊員・友蔵
・立川志の輔:梅さん / 医師・梅安:
・西村まさ彦・ 神田三郎 /勘定方密偵・山神三太郎
・平田満:和田善久 / 忠敬の測量隊員・綿貫善右衛門
・草刈正雄:千葉県知事 / 徳川家斉
・橋爪功:大物脚本家・加藤浩造 / 源空寺和尚

 香取市出身「郷土の偉人」伊能忠敬を大河ドラマの主人公にして町おこしをしよう、というプロジェクトのてんやわんや。
 ノベライズ本と違うのは、脚本家がまだこれといった作品のない若手ではなく、20年間筆をとっていない大御所、という設定と、江戸パートに「幕府密偵」をまどわすための祈祷師というのが出てくるところ。ラストエピソードの、中井貴一主任が脚本家めざして橋爪功老作家に弟子入り、というところ。



 本の最後も、輿地図披露の場面では涙ぐみましたが、ストーリー知っているのに、将軍への輿地図披露場面では泣けてしまう。

 四千万歩、日本全国あるきに歩いた伊能忠敬は冒頭で顔に白絹がかけられて登場しただけで、画面には一度も顔が出てこない。
 江戸パートの測量シーンは「伊能がまだ生きていると幕府方に思わせるための測量」です。
 17年間海辺を歩き続けた伊能隊の苦労が「伊能死後の測量」でもわからないことはないですが、東北や北海道の測量、九州四国の測量、各地のようすが1秒ずつでもカットバックして17年間を駆け抜けるのも見たかった。たぶんそれはNHKドラマでやっているでしょうから、そのうちアーカイブで見ます。

 現代パートは落語らしく笑させシーンです。私がいちばん、「そうそうその通り」と笑いつつ共感したのは、松山ケンイチ扮する観光課職員木下が、課長の中井貴一や老脚本家とシナリオハンティングで出かけたシーン。
 まだ風呂からあがってこない木下について脚本家加藤が課長にたずねると、課長は「元とるまで温泉入ってくるんだそうです」と言う。笑えるセリフとして出てくるのですが、「元とる精神」横溢のHALとしては、お台場の大江戸温泉で「元とるまで温泉につからなきゃ」と思ったことを思い出して、木下君に深く共感したのであります。
 すなわち、この「元取るまで精神」がわからない人には、老脚本家が「(ひとりの偉人の陰に)歴史に残らなかった大勢の名もなき人々がいた。偉人を支えてその名も知られず歴史に埋もれていった人を書きたい」と述懐することばが身に沁みないに違いない。
 「元取らなきゃ」と思うような大勢の名もなき人の心がわからずして、名もなき人の偉大さは書けないと思われる。

 ひさしぶりに、チケット1200円払って見た「大河への道」、笑えたし泣けたし、たぶん「元とった」と思います。
 
 ひとつ心残り。大日本沿海輿地図の完成を見届けた高橋景保は、国禁を冒してシーボルトに日本地図を渡しました。シーボルトが持っていた世界各地の地図が欲しくて、交換したかったからです。高橋は、罪を負って獄死しています。

 シーボルトの日本にかかわる著作のおかげで、浮世絵だけでなく、日本の科学力も西欧によく知られるところになり、伊能図のうつしを見たイギリスも、「これほど精細な地図がすでに作られていたのか」と、イギリス人の手による日本測量を断念したという歴史的事実があります。イギリスが中国にアヘン戦争をしかけて香港を分捕ったように、日本にも進出しようとしたことを断念したのは、伊能図があったればこそと言うこともできる。
 伊能隊が決死の覚悟で17年+3年かけて-仕上げた地図は、日本の独立を守った、と言えます。

 東京国立博物館所蔵の「大日本沿海輿地図」中図の北海道東側


 将軍家斉が感嘆したように、地図をながめて「美しい、この国の形は美しい」とつぶやく人がひとりでもいるなら、地図の完成を見ることなく亡くなった伊能忠敬も満足することでしょう。
 わたしは、東博の上映会でこの美しい地図を見ながら寝ちまったけれど。チューケーさん、すまぬ。
 、、、、あのミュージアムシアターは、元とれなかった。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「クライ・マッチョ」

2022-07-19 00:00:01 | エッセイ、コラム

20220719
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>2022シネマ夏(2)クライ・マッチョ

 クリントイーストウッド、初監督から50年目、40作目91歳の監督主演映画です。(監督主演作としては9作目)
 原作は1971年にN・リチャード・ナッシュ(1913-2000 )による『Cry Macho』
 ナッシュが執筆した脚本が映画化されないため、彼は自らノベライズして小説として発表。映画化の機会をうかがいましたが、果たせないまま2000没。私が彼の脚本で見た映画は『ポギーとベス』くらいかな。

 2021年、クリントイーストウッド主演監督により、映画化。2022年1月公開。私は6月にギンレイで鑑賞。

 以下、ネタバレあらすじ
 かつて数々の賞を獲得し、ロデオ界のスターとして一世を風靡したマイク・マイロだったが、落馬事故をきっかけに落ちぶれていき、家族も離散。いまは競走馬の種付けで細々とひとり暮らしを続けています。

 1979年のある日、マイクは元の雇い主からメキシコにいる彼の息子ラフォ(ラファエロ13歳)を誘拐して連れてくるよう依頼されます。
 アル中妻の元で育つ息子を案じてのことではなく「妻の名義で投資しておいた不動産の売却利益を手に入れたい。そのために、妻の弱みをにぎるため息子を手元におきたい」という父親の身勝手な誘拐計画。マイクは父親が息子への愛により会いたがっているのだと思ってメキシコまで出かけていきます。

 親の愛を知らない生意気な不良少年のラフォを連れてメキシコからアメリカ国境を目指すことになったマイクでしたが、その旅路には予想外の困難や出会いが待ち受けていました。

 ラフォは鶏闘による賭け事に入りびたり。彼の相棒は「マッチョ」と名付けたニワトリ。マイクとの旅はマッチョとの旅になり、「息子を取り戻して」と依頼するアル中母の用心棒の襲撃を交わしつつ、メキシコの食堂の一家との交流によってしだいに人を信じる心も取り戻す。
  落ちぶれた元ロデオスターの男が、親の愛を知らない少年とともにメキシコを旅する中で「本当の強さ」の新たな価値観に目覚めていく、というストーリー。ありがちな話ではあり、脚本に驚くような波乱はありません。最初から最後まで予期した通りのストーリーでしたが、安定路線もよいと思いますが。クリント爺が主演監督なら、何をどう撮影してもOK。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「ドリームプラン」

2022-07-17 00:00:01 | エッセイ、コラム

2022017
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>2022シネマ夏(1)ドリームプラン

 3月に行われた第94回アカデミー賞授賞式で、主演男優賞を受賞したウィル・スミスが、プレゼンターのコメディアンを平手打ちした、という事件でより注目を集めた映画『ドリームプラン』
 妻の容姿をからかう発言をしたクリス・ロックへは、なんのお咎めもなしなのに、ウィルスミスは今後10年間授賞式に出入り禁止。3度目のノミネートでようやく受賞したウィルスミスだが、アカデミー会員を辞退。今後ノミネートされても受賞式出席はなし。
 ウィルスミスの妻は、脱毛症のため髪をベリーショート(日本式に言えば坊主頭)に刈り上げていました。その症状を知らなかったのでしょうが、クリス・ロックは笑いのタネにしてしまった。ウィルスミスは妻が不快そうな表情をしたことで怒り、クリスロックに平手打ちした、というわけ。

 と長々平手打ち事件を報じたのは。ウィル・スミスが受賞した作品『ドリームプラン』が、アメリカの黒人問題とかかわる内容だったからです。
 アメリカの公民権運動を指導したキング牧師。
 女子テニス界に革命を起こし「パワーテニス」で10年間女王の座にあったビーナスとセリーヌのウィリアムズ姉妹。姉妹を育て上げた父をキングリチャードと呼ぶのは、キング牧師のように黒人社会に大きな影響を与えたこと、姉妹に対しては、王のように支配をつづけたこと、シェークスピア劇のリチャード王のように、自分のなすべきことに向かって突進し、周りから嫌われることなど歯牙にもかけなかった生き方そのもの。

 今作は、キングリチャードの自伝『ブラック&ホワイト』を原作としていない。しかし、自伝に書かれているような内容は、リチャードがマスコミに向かってさんざん語りつくしてきたことなので、だれでも知っていること。脚本をまとめるにあたって、自伝は参考にすらならなかったかもしれないが、ウィリアム姉妹は、「この映画に出ていることは、全部ほんとうのこと」と認めている。
 以下、ネタバレを含むあらすじ。

1 ウィリアムズ姉妹の父親リチャードは、1942年ルイジアナ州シュリーブポートに生まれました。差別の激しい地域で育ち、幼い時から白人に迫害されて育ったため、上昇志向を食べ白人不信を飲み物にして成長しました。1965年22才でベティ・ジョンソンと最初の結婚。5人の子どもを授かりました。 

2 黒人が白人の上に行くには、スポーツしかない。自分はちゃんとしたトレーニングを受ける環境で育つことはできなかったが、我が子には選手として成功できるトレーニングを与える、と決意。

3 テレビでテニスに優勝した選手が4万ドル受け取るのを見て、我が子はテニス選手に育てようと決める。当時、黒人女性の陸上選手は出ていましたが、テニス界はまだ白人独占のスポーツでした。黒人女性初のプロテニス選手なら注目が集まる、と考えたのです。

4 5人の子を残して離婚。家を捨てる。この最初の結婚の子供たちは、そろってリチャードを非難しています。

5 「エホバの証人」に入信。なぜなら、カトリックもプロテスタントも白人優位の宗教で、黒人をまったく差別していないのは、新興宗教であり、多くの白人から差別されていた「エホバの証人」しかなかったから。

6 看護師として3人の女の子を育てていたオクシーナと結婚。結婚翌年ヴィーナス2年目にセリーナ誕生。治安のよいロングビーチから、スラム街が多いコンプトンに引っ越す。偉大な黒人選手はモハメッドアリもマイケルジョーダンもスラムから這い上がってきたのだから、ビーナスとセリーナも治安最悪の地区で育つべきだと考えたのです。。
 オクシーナは、夫に従うだけの女性ではなかったものの、子育てについては協力しました。

7 テニスの経験がなかったリチャードは、テレビの試合録画とテニス教本により指導法を研究し、セリーナ4歳のころからトレーニング開始。通常のテニス訓練とは異なるやり方での特訓を続けました。

8 宗教の違いから近所の人々とは交際せず、近所の人々はリチャードの特訓法を「児童虐待」ととらえて警察に通報する。ビーナスとセリーナは父をかばい、父が大好きだと証言しました。なぜか。
 エホバの証人の教えでは、「外部の人とは非暴力主義で付き合う。神の教えが絶対で、子供が輸血を必要とする手術を受けるときも、他者の血を親が拒否、家の中では、夫&父親が神のかわり。父は絶対的な存在です。ビーナスもセリーナも父親の絶対性を疑ったことはありませんでした。

9 テニスコーチに売り込みをかけ、よいコーチのいるフロリダに転居。しかし、ジュニア大会への出場を拒否。ジュニア時代の優勝経験が子供を天狗にさせ、周りの大人の金づるになってダメになる例が多かったから。ジュニア大会に出ても、大人になって一人前になれないのを見てきたので、ジュニア大会で有名になる必要はないと考えました。

10 ビーナスが14歳のとき、はじめてプロとして試合に臨むとき、ナイキから100万ドルという新人選手には破格の契約金をしめされましたが、リチャードは拒否。
 最初の試合でビーナスは勝てませんでしたが、予想以上に健闘しました。2時間の試合を戦い抜き、試合終了時には「黒人少女の星」となっていました。試合後に決定した契約金は1200万ドル。12億円。

 「ドリームプラン」は、リチャードが書き留めていた「姉妹を世界一の選手に育てる計画ノート」です。プラン通りにヴィーナスとセリーナは世界一の選手になりました。

 キングの物語はここで終わるので、姉妹のこの後のテニス界君臨は描かれません。姉妹がクイーンとしてテニス界をリードしている間に、オクシーナが結局はリチャードと離婚しました。オクシーナの長女は、母と同じく看護師の資格を得て、セリーナとビーナスのマネジャー格として姉妹を支えたのに、育ってきた治安の悪いコンプトンで不良分子に射殺されるという運命にみまわれます。(このエピソードの前に映画のストーリーは終了していますが)

 キングリチャードは、40歳年下の孫のような女性と再再婚しますが、その若い妻にも離婚されます。
 そんな物語は語られず、ビーナスが黒人少女の星になるところで「偉大な暴君リチャード王」の話は終わり。
 ここまでの話だと、ドリームプランを成し遂げた偉大な父です。

 キングリチャードのふるまいに、非難も集まっています。しかし、この狂信
的な行動がとれる王だったから、テニス界の女王が育ったのだとも言えます。

 幼いころのビーナスセリーナ姉妹とリチャード


 ヴィーナスとセリーナの活躍を見て育った少女がいます。カリブ海ハイチ出身の父と日本人母の間に生まれた大阪なおみです。
 キングリチャードは、女子テニス界を塗り替え革新した革命王であった、という称号は正当なものだと言えます。
 彼が暴君であり3人の妻がいずれも彼のもとでは結婚生活をまっとうできなかったという事実があるにせよ。

  実話を映画にするとき、事実の中のどこを切り取るか、ということが肝要になります。ウィル・スミスがリチャード役になったという時点で、絶対にリチャードを悪い人には描かない、ということは決定したと思う。いいとこどりして、リチャードはテンポ良い運びの中、娘の将来を信じてプラン通りにことを運ぶ、しっかりした父親に描かれていました。
 妻に対して暴力をふるった、なんていう妻側からの主張はカット。現実のスミスが「妻を侮辱されたと感じたら有無を言わさず、相手を平手打ちする」という姿をアカデミー授賞式でみせたこと、私はこの映画にはプロモーションになったとおもうけどな。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「留学生バス旅行」

2022-07-16 00:00:01 | エッセイ、コラム

 富士山麓の忍野八海の湧水池

20220716
ぽかぽか春庭にっぽにあニッポン語教師日誌>日本語学校の夏(7)留学生バス旅行

 2021年はコロナ禍により来日が滞っていましたが、2022年の今年、わが校への留学生は5月からバラバラと授業に参加してきました。

 今年は入学式もできたし、新入生旅行も実施。HALセンセも富士周遊バス旅行に同行しました。
 今回の旅行は「学生引率は、他の先生がやるので、HALセンセーは観光客として楽しめばいい」、ということなので、気楽に参加。私がした仕事は、バスの中で「富士山でゴミを捨ててはいけない。すべて持って帰るように」という注意だけ。

 7月5日は九州に台風もきており、天気予報では「一日雨」でしたが、バスに乗り込むときは、日差しも出ていました。
 バスの中は、シンチャオ班(ベトナム学生7名)、魔法少女班(女子学生5名に「うちの班のパシリにつかってやる」と命じられた一番若い男子学生(18歳りー子ことリー君)が強制的に班員になった6名)など、グループごとに席を占めます。
 HAL先生は当然「道路の曲がり具合を見ていないと酔うから」と、一番前の左側。


 最初の訪問場所は富士山博物館。


 富士山が爆発した時に溶岩がどう流れたかわかる模型や、恐竜模型を眺めました。
 シンチャオ班の学生と。


 「リー子」と呼ばれて魔法少女班のパシリになっているリー君は、宝玉(ムーンストーン?)を3粒買い「中国の両親に、日本のパワーストーンだから身に着けるように」と、贈るのだ、と親孝行ぶりを発揮していました。1粒は自分用。
 魔法少女グループは、宝玉を選んでブレスレットを作ってもらっていて、ひとつ1万円もすると聞いて「ヒャー高い!貧乏な私には買えない」と言うと、「センセーはこの先、何回でも富士山に来ることが出来るでしょうけど、私たちは国に帰るまでにもう一度ここに来ることができるかわからないから、記念に買っておきたいんです」と、おこずかいをつぎ込んでいました。最近の「富裕層子弟」の留学生たち、私より金持ちです。

 富士五合目についたときには、どしゃぶり。
 学生たちは、持参のレインコートを着て、自然散策路のガイドさんに説明を聞きました。私は「年よりは雨の中で説明を聞いていたら風邪ひく」と散策路と五合目にある神社参拝をパス。レストランの中で待っていることに。

 どしゃぶりの富士五合目。


 レストランでほうとうを食す。富士山値段だから、昔、山梨の食堂でたべたのよりは具が少なくて値段は高かったけれど、ま、いいか。

 通常は1時間くらいガイドさんについて自然散策路を歩くということでしたが、あまりの雨だったので、30分ほどでランチタイムになりました。
 学生もそれぞれコンビニ弁当を食べる班あり、ほうとうやラーメンを食べる班あり。

 忍野八海に向かうころ、少しずつ雨が小止みになり、一瞬富士山が山頂まで見えたときがあり、気づいた学生は写真を撮っていました。しかし、私は自然散策路を歩いたわけじゃなく、疲れてもいないのに、8時学校に集合に遅刻できないと早起きしたから、お昼食べたあとのバスの中で少々うとうとしていて、せっかくの五合目からの富士を見るチャンスをのがしました。

 忍野八海についたら、傘なしでも歩けるくらいの小雨になり、ときどきパラつくくらいに。

 湧水池に向かって、川沿いを歩く。


 川の中にいる魚をわいわいと眺める学生たち。
 

 私も留学生も、湧水の水を飲みました。湧水は富士のめぐみ。無料!
 

 雨降り予報の一日でしたが、忍野八海は傘なしに過ごせたので、学生にとっては、富士山五合目より忍野八海のほうが好印象の遠足地になりました。
 「きれいなところだった」と、学生が楽しく過ごせる場所があってよかったです。もっとも、班ごとにバスの中でワイワイやっている時間だって、学生にとっては「学校内では味わえない楽しいひととき」だったと思うので、昨年は中止になった留学生旅行が、2022年は実施できて、ほんとうによかったです。

 忍野八海の湧水池のひとつで。
 池の名前がひとつひとつあったのですが、あとで観光案内を見るからと、覚えてきませんでした。
 

 雨でも安全に一日すごすことができて、なによりのバスハイクでした。

<おわり>
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ぽかぽか春庭「学生発表会夏」

2022-07-14 00:00:01 | エッセイ、コラム
20220712
ぽかぽか春庭にっぽにあニッポン語教師日誌>2022日本語学校夏(6)学生発表会夏

 不定期に行っている「校内日本語発表会」は、学んだ日本語を使って発信していく練習としてパワーポイントを使って他クラスの学生の前で日本語プレゼンテーションを披露するものです。

 2020年12月に入学した学生は、日本語学習半年目のころ「我が国の食べ物・衣服・建物」というテーマで、自国の伝統食伝統衣服などを発表しましたし、1年目には「市民にインタビュー」という活動で、近隣の材木会社社長や市役所職員などに質問を出して答えてもらうという活動をしました。

 日本語活動1年半の今、だいぶなめらかな日本語発表ができるようになってきました。
 2022年6月までの1年半の間に、それぞれが努力を重ね、Aクラス学生は、日本語能力試験1級合格者と2級合格者。3人が7月3日実施の日本語能力試験1級に挑戦しました。

 当校の中では一番上のクラスなので、少々高度な内容を課題としました。教科書のトピックとして取り上げられた「自国の文化のなかで、他国とのかかわりによって変容を受けた歴史的事実の紹介」というテーマです。

 各人のテーマは。
 学生1「ケータイ電話普及によって、中国社会はどのように変容してきたか」PPTなしの口頭発表。
 一般家庭電話の普及が全土に及ばない前に、個人用ケータイ&スマホが普及したため、中国全土、特に田舎の情報獲得には、大きな変容が起きたことについて、  発表したのですが、口頭発表だけだったので、Aクラス(N1レベル)に比べて日本語力がまだ弱いBクラス(N2レベル)の学生には、わかりにくいところもある発表になってしまいました。
 中国ではスマートフォンアプリによって、買い物はほとんどがアリペイなどによって決済されており、日本に来て久しぶりに現金支払いを経験する学生もいます。
 中国の人々の生活は、この10年間で激変しました。

 学生2 中国で近年盛んになった行事がどこから入ったものなのか、を調べて発表しました。PPTの画像が多彩で、日本語力が弱いBクラス学生にも画像の力で興味が持てる発表になっていましたが、画像がにぎやかな分、内容はやや浅く、もう少し掘り下げてあれば申し分なし。

 pptをたくさん準備して、わかりやすい発表になっていました。

 PPTのタイトルページ


 学生3 清朝康熙帝が、中国史上はじめて外国と対等に条約を結んだ「ネルチンスク条約」について発表。
 私も、中国と露西亜の間に結ばれたこのネルチンスク条約について、まったく知りませんでしたので、とても興味深く聞きましたが、日本語力不足のBクラス学生には難しすぎ。
 翌日行われた質疑応答で、日本語での質問「どうしてこの条約について発表しようと思ったのですか」という当然の質問に対して、本人もいきあたりばったりで選んだものだから「私に質問するな」という中国語での回答だったとか。(HALセンセが立ち合っていないときの質疑応答)

 学生4 中国の子供に、日本のアニメがどのように浸透していったか、一休さん、ドラゴンボール、ジブリ作品などの画像を示しながら、初期には日本製アニメが海賊版中国語吹替でテレビに登場し、中国の子供たちは、これが日本製だとはまったく知らずに日本文化の影響下に育った、という解説をしていました。ドラゴンボールなど、だれもが中国製だと信じて疑わなかったのだとか。主人公は孫悟空ですからね。

 現在では著作権問題も解決したうえでのアニメ放映がほとんどですが、現在でも、日本で放映された翌週には不確実な中国語字幕つきで日本の新作テレビドラマがネット放映され、日本のテレビ局などが気づいて「著作権うんぬん」と言い出す前にネット放映終了。

 中国に導入されたアニメについての発表


 学生の発表によって、私自身もいろいろな学びがあります。
 最初は「私は日本語が上手じゃありません」などと、いやがっていた学生も、発表の回数を重ねると日本語による表現の力がどんどんついてきたように思います。
 PPTの文字表現に誤りもあるし、日本語発音の不確実なところもあるのですが、「習うより慣れろ」の面も多々あります。
 これからも日本語の発表を続けることによって、日本語の発信力が増すことを願っています。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「日本語学校避難訓練」

2022-07-12 00:00:01 | エッセイ、コラム
20220712
ぽかぽか春庭にっぽにあニッポン語教師日誌>2022日本語学校夏(5)日本語学校避難訓練
 
 日本は地震頻発国です。
 地震のない国から来た留学生 が最初に大きな地震を体験すると、ほんとうに驚きます。「私の部屋は揺れました。私は気分が悪いでした」「はい、もう一度言ってください。気分が悪かったです」「はい。先生、気分がわるかったです」

 日本の小中学校では、年に1回ないし2回は地震や火事を想定して避難訓練を実施しています。
 「地震が起きました。慌てずに避難してください」などの放送が入り、子供たちは列を作って教室から校庭へ。校庭が地域の避難指定所などになっている場合は、親の引き取り訓練が実施され、家や仕事場から駆け付けた家族は子供を連れて帰ります。

 そのような避難訓練を自国で受けたことのある留学生はほとんどいません。よほどの地震頻発国でも、学校教育の中で組織的に避難訓練を実施しているところはないように思います。
 
 日本はさまざまな災害に対して啓発も重ねられ、地域での避難訓練を日時を決めて行う自治体が多いです。
 外国人への災害避難の案内も、市役所区役所などで行われています。
 しかし、外国人が多く集まる日本語教育機関で避難訓練をきちんと行っている学校は少ないようです。少なくとも、私が授業を担当してきた大学留学生センターで避難訓練を実施したということはありませんでした。

 春庭勤務の学院では、昨年にも避難訓練を実施しました。昨年に引き続き、2022年6月にも避難訓練を行いました。避難手順は昨年と同じ。
 学生はクラス内でグループに分かれリーダーを決めておきます。人数点呼などでリーダーは班員の顔を確認する役目です。

0 避難訓令前の授業で。
 教師がyoutubeなどで「阪神淡路大地震」などの動画を見せて、日本の地震被害の実際を知らせる。
 「おはしも」の合言葉を確認。「お=押すな」「は=走るな」「し=しゃべるな」「も=もどるな」
 自分の部屋で揺れに遭遇したときの行動も教えます。
第1にガスなどの火を消す。第2にドアを開ける。第3に余裕があれば電源盤のブレーカーを落としておく。停電後に通電した際にショートし発火する例があったため。

1 事務職員が2階の教室で「地震警報発生」を警告する。揺れがはじます。
2 学生は、揺れを感じて手順通り机の下に頭を隠す。
 机が小さいので、頭隠して尻隠さずになるのはやむをえません。

3 学校では、第1波の揺れがおさまった5分後にグループごとに並んで階段を降り1階へ。安全な道を通り避難指定場所へ



4 校長の誘導により、地域の避難所に指定されている近くの小学校へいく。小学校校庭前に設置されている災害備蓄倉庫などを確認したのち、近所の広場へ。
 校長は、「備えあれば憂いなし」という日本のことわざについて解説して、学校に戻る。


 という45分間の避難訓練、学生たちにとっては、「4コマ目で日本語授業も疲れてきたときの学校外散歩」になって、「ま、授業よりはよかったかな」というところ。

 学校としては、日本語学校ではこのようにしっかり災害への備えも行っています、というアピールの行事です。
 HPによって、学校ニュースは随時UPされています。端午の節句に学校でちまきをふるまったなどの記事とともに、避難訓練の記事も「大事な子弟を日本に留学させて不安もあることへの安心材料」になっていれば幸いです。

 なにせ、中国の親が我が子(一人っ子が大半)を遠い地に送り出すについては、なみなみならぬ不安も心配もあります。
 先日は、中国の親が「うちの子の誕生日だから、ケートを買って、お母さんから21歳の誕生日おめでとう、と書いてもらって、息子にあげて。中国からふりこみますから」というメールをしてきたのだそう。経営者の副理事長は、ちゃんとケーキ屋からケーキを買ってきて学生に渡していました。

 富裕層の親のひとりは、息子が「学校の寮を出て、アパートで独り暮らしをしたい」と言い出した時「借家じゃ部屋代は消えてしまうから、家を一軒買ったほうがいい」と息子に言ったのだそう。

 そんな「我が子大事の親」に対して、避難訓練は「きちんと学生の安全に気を配る学校」というアピールが目的の半分ともいえます。

 ほんとうに地震が来たら訓練の通りに整然粛々と行われるかは不明ですが、ともあれ、学生にとっては「生まれて初めての避難訓練」が無事に終了してよかったよかった。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「校内オリエンテーリング」

2022-07-10 00:00:01 | エッセイ、コラム
20220710
ぽかぽか春庭にっぽにあニッポン語教師日誌>2022日本語学校夏(4)校内オリエンテーリング

 学校経営的には、Nテスト過去問などを続けて少しでも試験勉強を強化することのほうがありがたがられる。
 日本語能力試験1級合格者数、2級合格者数を増やすこと、日本留学試験で高得点をマークして、学生の希望大学に進学させることが望まれています。留学生は進学実績などを参考にして日本語学校を選びますから。
 しかし、春庭は試験点数を上げることだけに邁進するのではなく、季節ごとに日本の文化や日本の社会に触れ、日本を知ってほしいと願っています。

 昨年も実施した「クイズを解いて学校内を歩こう校内オリエンテーリング」
 昨年は、江戸東京たてもの園の中をクイズを解きながら回る、というオリエンテーリングの練習として実施したのですが、今回はたてもの園オリエンテーリングから独立して、新入生が校内を知るためのイベントとしました。去年より少し問題が増えました。

 クイズ形式で校内をまわり、新入生が日本語で教職員や先輩学生に質問し、答えを聞き、日本語コミュニケーション能力を蓄えてほしい、という願いで実施しています。

<学校の駐輪場で解くクイズ>(学生に渡す分はふりがなつき)
1)こどもが座る座席をつけた自転車の呼び名は何ですか。
A:母用チャリンコ B:ママチャリ C:ベビーのせ自転車 D:かあさんチャリ
2)自転車置き場に咲いている花の名前は何ですか
A:ひまわり B:あじさい C:もみじ D:さくら
       

<学校の入口で解くクイズ>
3)学校入口に咲いている花の名前は何ですか。
    
A:スミレ B:チューリップ C:コスモス D:バラ

4)学校のビルの名前は何ですか。
A:東京国際ビル B:東京日本語ビル C:国際東京ビル D:日本語国際ビル

<1階で解くクイズ・先生に質問して答えを書きとる>
先生へのインタビュー問題の一部。日本語で質問する練習。
5)質問例 校長先生の奥様の仕事は何ですか? 
A:画家 B:音楽家 C:建築家 D:政治家
6)質問例 〇〇先生のお子さんの名前は?何年生ですか?
7) 学生が作った質問をグループで1問以上作成する。

<2階で解くクイズ>
8)2階教室1にある笹飾り(七夕のとき飾る)に、願い事を書く紙のなまえは何(なん)ですか。
A:半紙(はんし)B:チリ紙(ちりがみ) C:短冊(たんざく)D:一冊(いっさつ)


9)2階教室3にある楽器の名前は何ですか。
A:オルガン B:鍵盤ハーモニカ  C:ピアニカ D:電子ピアノ


<3階で解くクイズ>
10)3階図書室(自習室)に本がたくさんあります。いちばん厚い本はなんですか。
A:JLPT日本語問題集 B:広辞苑 C:みんなの日本語 D:大学案内

<4階で解くクイズ>
11)4階休憩スペースにある遊具の名前は何ですか。
A:ふたりのブランコ B:ふたごブランコ C:ツインシートブランコ D:ベンチシートブランコ 

12)4階休憩スペースにあるものの名前はなんですか。
A:テーブルパラソル B:日傘パラソル C:夏用パラソル D:お天気パラソル  


 私も、昨年クイズを作ったときに「ベンチシートブランコ」「テーブルパラソル」などの語を知りました。知ったからどうということもないですが、留学生たち、日本語初級の教科書には出てこない「ママチャリ」などの日常用語を知ることもでき、「せんぱい、すみません、これはなんという名前ですか」などの日本語を発する機会にもなります。
 といっても、去年クイズを体験した先輩たち、絵を見ても、去年知った日本語を忘れていますから、てんやわんやの答えさがしになり、グループごとにわいわいと1階駐輪場から4階屋上までを行き来し、答えに頭をひねっていました。班は、避難訓練やバスハイクのためにグループわけしてあります。

 教科書の文型を暗記し、単語を覚える、という勉強も大切ですが、たまには教室を出てクイズを楽しむのも日本語勉強のうち。

 学生が自分で考えた質問に、HAL先生が答えたQ&Aの一部。
 学生には女性に年齢を聞くのはまだ失礼にあたるので、自分のおばあちゃんより若いと思う女性には年齢を聞いてはいけない、と教えてありますが、「先生、何歳ですか」と聞いてきた遠慮のない中国人学生には「中華人民共和国と同じ年齢」と答えました。学生は「2022-1949」を計算して、HALセンセが高齢者であることを確認。
 
 シンチャオ班のベトナム学生の質問「先生、いちばん幸せはなんですか」
 「そうねぇ、学生の日本語がじょうずになること。私の家族も学生たちも健康で元気に暮らすこと」ちょっと建前。
 
 魔法少女班のリー子は単純な質問に限定して、先生全員の答えを聞いて回わる、という効率のよい質問をしていました。「先生の好きな果物は何ですか」「メロン」「りんご」「バナナ」「ライチ」などの回答を回収。(リー子ことリー君は、七夕短冊書き記事の中で、筆ペンで「大学合格」と書いた男子学生です。かわいい18歳は、先輩おねえさん学生のアイドルになり、魔法少女班の一員、実はパシリにされています)

<つづく>
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ぽかぽか春庭「七夕の願い」

2022-07-09 00:00:01 | エッセイ、コラム
20220709
ぽかぽか春庭にっぽにあニッポン語教師日誌>日本語学校夏(3)七夕の願い

 7月7日の授業の1コマで、留学生たちは願い事を書きます。初級のクラスでは「~たい」という文型の応用、中級は「~ように」という文型の応用として、それぞれの願いごとを短冊に書き込みます。

 真剣に筆ペンで書き込んだ願い事は「大学合格」、、、うんありきたりな願いだけど、かなうといいね。

 それぞれ短冊を竹に結びます。


 すでに東京大学博士課程に進学が決定した内モンゴルの学生が書いた願いは「順調に博士課程を卒業できますように」日本語とモンゴル語で書きました。

 最後にHALセンセが解説したyoutubeチャンネルの「七夕の由来」を学生に見せて、午前中クラスの七夕の教室活動を終わりました。


 大勢の人が平和な日本を願い、それぞれの願いを星に祈りを込めたと思うのに、8日の授業中、中国人学生が「センセー!たいへん」と言う。
 なにが大変なのさー!今は「日本のスポーツ」というトピックで相撲柔道剣道弓道についてのビデオを見て、伝統スポーツについて学び、HAL先生が蹲踞や四股踏みの実演をして見せているんじゃないの、しっかり見なさいよ。

 留学生には、授業中わからないことばがあったとき、辞書代わりにスマホを使うことを「机の上に出し、先生になにを調べているのかわかるようにして使用するならOK」と許可しているのですが、「蹲踞」「四股」などを調べるとき、ついつい「緊急ニュース」をクリックしてしまう。
 
 「元そーりがうたれた、意識不明で心肺停止」という安倍元首相の襲撃事件について第一報が入ったのを目ざとく検索してしまう学生によって、事件を知らされました。隣のクラスも同様らしく、教室がざわついていました。

 武力によって他国の領土を侵害するのも、他者の命を暴力によって奪うのもあってはならないこと。
 星への願いの第一にしたいのは、平和な世の中。
 平和で人々が安心して暮らしていける世界でありますように。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「文化講座・七夕」

2022-07-07 00:00:01 | エッセイ、コラム
20220707
ぽかぽか春庭にっぽにあニッポン語教師日誌>2022日本語学校夏(2)HAL先生文化講座・七夕

 春庭勤務の日本語学校は、東京都下の校舎での日本語教育のほか、中国現地校での「高試外国語科目として日本語を専攻する高校生のための日本語教育」も実施しています。
 高試(普通高等学校招生全国統一考試 )外国語専攻の中では、英語が一番人気なのは変わりないですが、日本語を選ぶ高校生がこの10年で10倍近くになったそうです。その理由は、英語はかなり高度な問題が出題されて高得点獲得がむずかしいけれど、日本語のほうが高得点をとりやすい。日本語は英語に比べて共通の漢字もあって、比較的取り組みやすい問題が出るということらしい。日本に興味を持つ高校生が増えていることよりも、「点数を取りやすい」という現実的な理由によります。
 日本への親近感やら文化への興味が格段に増えたというのとは少し事情が異なります。

 それでも、せっかく日本語を学ぶのですから、日本語を学ぶことで入試に有利になる、というだけでなく、日本の文化にも興味を持ってほしい、という学校の願いとして、さまざまな文化講座も実施しています。
 中国旧暦の端午の節句6月3日には、「端午の節句について」という日本語Ⅱよる講座を学校のHPから放映しました。

 HALセンセは、7月7日に向けて、七夕の解説を行いました。
 もともとは中国語「チーシー七日の夜」を表す行事で、乞巧節(きっこうせつ、裁縫や刺しゅうが上手になるように祈る日)」とも呼ばれました。
 古代中国でも布を織ることは大切な仕事。織姫という主人公の伝説を行事にして裁縫や織物の神として祭る行事が乞巧節でした。

 日本では古来からの機織り文化の伝説「棚機津女(たなばたつめ)」と中国の乞巧節の伝説が合体して、平安時代には貴族の年中行事「乞巧奠(きこうでん、きっこうでん、きっこうてん)」となりました。
 現代でも、京都の冷泉家では、文字や和歌の上達を願う行事になって今も続いています。 

 では、春庭による中国在住の日本語を学ぶ学生向けの「㈰本のたなばた」についてのお話をどうぞ。
https://youtu.be/W5bbq6V6A-k 

 日本では、機織り裁縫など、布仕事の上達とともに、習字の上達文章の上達も願う行事になりました。
 留学生たちも日本語も上達を願って、短冊に書き、笹の枝に結びました。

 来日している留学生には、東京近辺の7月の七夕と、東北など地方の月遅れ七夕を紹介しました。夏休みに仙台七夕などを見る機会があるといいですね。

 仙台商店街の七夕飾り
 

<つづく>
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