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ぽかぽか春庭「2023年2月目次」

2023-02-28 00:00:01 | エッセイ、コラム


20230228
ぽかぽか春庭2023年2月目次

0202 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2023文日記2月(1)冬眠続く
0204 ぽかぽか春庭アーカイブ(な)中上健次「岬」
0205 ぽかぽか春庭アーカイヴ(な)夏目漱石「それから」
0207 ぽかぽか春庭アーカイヴ(に)西江雅之『花のある遠景』
0209 ぽかぽか春庭アーカイヴ(の)野上弥生子『秀吉と利休』
0211 ぽかぽか春庭アーカイヴ(は)畑中幸子『ニューギニア高地社会』
0212 ぽかぽか春庭アーカイヴ(は)浜崎紘一「俺は日本兵」
0214 ぽかぽか春庭アーカイヴ(ひ)樋口一葉『一葉日記』
0216 ぽかぽか春庭アーカイヴ(ひ)平塚雷鳥「元始女性は太陽であった」
0218 ぽかぽか春庭アーカイヴ(ふ)深沢七郎『楢山節考』
0219 ぽかぽか春庭アーカイヴ(ふ)藤原新也『印度放浪』
0221 ぽかぽか春庭アーカイヴ(へ)辺見庸『もの食う人々』
0223 ぽかぽか春庭アーカイヴ(ほ)星新一『ボッコちゃん』
0225 ぽかぽか春庭アーカイヴ(ま)丸谷才一『年の残り』
0226 ぽかぽか春庭アーカイヴ(み)三島由紀夫『仮面の告白』

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ぽかぽか春庭「三島由紀夫『仮面の告白』」

2023-02-26 00:00:01 | エッセイ、コラム
20190226
ぽかぽか春庭アーカイブ(み)三島由紀夫

 2003年のアーカイヴです。at 2003 10/30 21:29 編集

~~~~~~~~~~
 春庭千日千冊 今日の一冊No.36(み)三島由紀夫『仮面の告白』

 三島由紀夫が名家の女性との結婚を決めたとき、それは本当に三島にとって自分らしく生きることだったのだろうか、と心配になった。三島は結婚後もさまざまな男性との交際を続け、最後は楯の会の美少年と共に死ぬことを選んだ。
 三島は『仮面の告白』を発表した後も、仮面をかぶり続けた。「三島のあの告白はよくできたフィクションであって、あれは文学上の虚構ですよ」と述べる批評家もいて、三島もその評を利用した節がある。三島は自分を「男性的な男性」へと肉体改造し、高名な画家の娘と結婚した。

 もし、三島の生きたころが、現代と同じようにセクシャリティの多様性やトランスジェンダーに対して理解ある時代であったなら、三島の文学と死は、異なる結果を迎えたかもしれない。
 彼の死や生い立ちや思想的な面から、また文学的社会的な状況からさまざまな解釈が加えられてきた。全共闘との対話や、天皇制に対する考え方や、日本の美意識に対する思想、あらゆることがらが、彼を死へといざなったのだと思う。

 今のようなジェンダーに対する考え方の変化に対して一番論じて欲しい文学者は、三島だったと思うのだ。現在のジェンダー論が、女性学や社会学の方面からの論より以上に、サブカルチャーからのツッコミによって社会に浸透してきたことを考えると、文学の立場から物言える人のジェンダー論を三島に聞いてみたかったと思う。

 三島由起夫が市ヶ谷の自衛隊に突入したというニュースを聞いてすぐ、私はカコちゃんといっしょに野次馬に出かけていった。
 しかし、市ヶ谷自衛隊の中に入れるわけもなく、ワイワイしているだけで、何がどうなっているのか、わからなかった。三島が演説している、というので野次馬に行ったのに、何もわからず、つまらないからすぐ帰った。

 市ヶ谷河田町のフジテレビ前を歩きながら、三島の小説について話した。カコチャンは高校生のとき『金閣寺』を読んだ、と言った。「妊娠した女の腹を踏むんだよ、許せないよ」と言っていた。
 大学病院の隣の寮へ戻り、カコチャンの部屋でテレビニュースをつけたら、三島は割腹自殺した、ということがわかった。三島が女の腹を踏んだわけではないのに、カコチャンは「赤ちゃんがいる女のおなかを踏んだりするから割腹自殺になるんだよ」と、わけのわからない批評をしていた。

 私は『仮面の告白』を読んだ話をした。「おわい屋」を悲劇的だと感じてあこがれたんだって、わけわかんないよね、セバスチャンとかって絵見て、矢が体にいっぱい刺さっているので、興奮するんだって、ますますワケわかんないよね。三島といっしょに楯の会の少年が割腹したんだって、もっともっとわかんない。

 カコチャンはすでに恋人を持っていたから、男と女の恋愛については、私よりずっと詳しかった。そのカコチャンも「仮面の告白の主人公は男が好きなんだって。どうして男が男を好きになるんだろう、ぜんぜんわかんない」と理解できないようだった。
 私は「男と男」も「男と女」もわからなかった。私にわかったのは、私はカコチャンが好きだけど、カコチャンはタロさんが好きだということだった。

 
at 2003 10/30 21:29 編集 市ヶ谷河田町の病院で
 大学病院の隣の職員寮に入寮したとき、4人部屋だった。すぐに私には共同生活ができないとわかった。3人の同室者に気をつかいながら暮らしていると息がつまりそうで、一ヶ月で寮を出て下宿へ移った。
 4人部屋は3人で使うことになった。「あんたが出ていって、部屋が広く使えるからよかった」と言った同室者のひとりは、病院の屋上から飛び降りて死んだ。自殺のしらせに衝撃は受けたが、高橋和己が死んだ時より悲しくはなかった。

 高橋和己が死んで半年後に内科検査室の勤務をやめた。大学病院の仕事は好きだったけれど、「カコチャンがやめてしまったから」だった。カコチャンがやめたあと、病院検査室で働くことがつまらなくなって私は何のあてもなく、退職してしまった。
 カコちゃんが東京から故郷の町へ戻ったのは、恋人と同棲するためだった。カコチャンの恋人タロさんは、カコチャンの出身地の大学で学ぶ医学生。カコチャンはタロさんと暮らしたいと「同棲時代」を実践したのだった。しかし、タロさんの親に「医学生と臨床検査技師では格が違う」と、結婚の許しがもらえない、という悩みを聞いた後、カコチャンの消息は途絶えた。

 トランスジェンダーということば。私が知ったのは、虎井まさ衛さんの本が最初に出版された前後だったと思う。現在では、テレビドラマ『金八先生』のテーマになり、上戸彩が「女性の身体を持っているが、心は男性」である主人公を演じたことで、広く知られるようになった。

 虎井まさ衛さんを知る前、トランスジェンダーという言葉が市民権を得る前から、私は、虎井さんのような生き方の人に関心を持ってきた。仮面をつけて生きることを拒否し、自分らしく生きたいと願う人に共通する姿勢に共感できたからだ。
 雑民党の東郷健が選挙に出てテレビで演説するときは、熱心にその主張を聞いたし、テレビ深夜番組にカルーセル麻紀が出演するのも応援した。三輪明宏がまだ自分自身のセクシャリティを明らかにせず、丸山明宏という名で「よいとまけの唄」を歌っている時代から、彼の不思議な魅力はいったいどこから生まれるのか、と思っていた。

 おすぎとピーコが登場したとき、「ふたごのゲイ」という特長もあり、彼女たち(?)の自己主張が小気味よかった。それまではテレビの中で「キワモノ」「イロモノ」扱いされ、正に対する負、陽に対する陰のイメージを持たされていたゲイの人たちのイメージを塗り替え、「ひとつの生き方」として認められたような気持ちがしてうれしかった。

 ウェブ世界では、リアル社会よりオープンにジェンダーやセクシャリティの問題が語られている。昔に比べれば、若い人たちが自分自身のジェンダー問題について様々な情報を得る機会が多くなった。
 トランスジェンダーの方々、臆することなく社会の好奇な視線に負けることなく「本当の私らしさ」を追求してほしいと思う。
 若い人はもちろんだが、若くない人も、残り少ない自分の人生を「私らしく」生きていかなければ、生きている甲斐がない。「私は私。私らしくあれ!」

at 2003 10/30 21:29 編集
 三島由紀夫は、『仮面の告白』で、絵本の中のジャンヌ・ダルクが美少年ではなく、男装の麗人であったことにがっかりしたと書いた。元祖戦闘美少女ジャンヌダルク、少女でいいんです。ジャンヌダルクは何度も映画化されていますが、ミラ・ジョボヴィッチの迫真の演技が印象に残っている。三島は美少年が好きであったけれど、私はボーイッシュ少女が好き。

 ジェンダーとセクシャリティに対し、社会は50年前40年前とは違う反応を示すようになった。パートナー選びも自由。ヨーロッパでは同性との法的なパートナーシップを認める国も出てきた。
 男と女も、女と女も、男と男も、どんな組み合わせであれ、ベストパートナーといっしょにいられる人は幸福だろう。そして「私らしさ」を失うことなく、「自分は自分」として生きて行けたらそれにまさることはない。

 男であれ女であれ、男性の心を持った身体上の女性も、女性の心を持った男性も、自分らしく人生をまっとうしたい。男と女、女と女、男と男、どのような組み合わせであれ、好きな人を見つけて欲しい。
 「私らしさ」を大切にできたらいいですね。
===============
2010/02/20
 熱戦続く冬季オリンピック。高橋選手の銅メダル、よかったです。フィギュアファンの我が家、ショートもフリーも出場全選手の演技を見ました。フィギュアのほかは、ハイライトシーンだけとか主要選手だけを見るのですが、フィギュアスケートはペアも男子女子、アイスダンス、各国全出場選手の演技を観戦予定。

 開会式も全部みました。北京のオリンピック人海戦術マスゲームオンパレードの派手な開会式パフォーマンスに比べると、「エコ」がテーマのひとつらしいこぢんまりした質実な印象だったけれど、その中で「カナダらしい」と感じたことのひとつは、先住民族のダンス以上に、ハレルヤを歌ったkdラングの歌声でした。ラングはグラミー賞受賞歴を持つシンガーソングライターであり、ベジタリアンレズビアンとしての自分自身を貫いて生きている人です。女性として生まれて、女性が女性を愛情の対象として欲する同性愛者であることを1992年に公表し、その後もカナダでは人気の歌手でありつづけています。

 世界のなかでもカナダは、同性愛者や性同一障害者などにもっとも寛容な国のひとつであることを世界に印象づけました。マイノリティが生きやすい国というのは、マジョリティにとっても生きやすい国。開会式会場の外では、莫大な予算の必要なオリンピック開催に反対するデモも大きく報道されていました。しかし、いっさいの反対運動報道が押し込められた北京オリンピックよりは、「我が国は反対運動も自由」という印象を与えることができました。
2010/02/21
 私の「姉の夫のいとこ」という人が、性同一障害によって悩み続け、ついに女性から男性に身体を変え、裁判所に申し出て戸籍上の性別も変えました。現在では男性として人生をすごしています。幼い頃のスカートを履いていたころの印象が残るだけで、成人してからは会っていないので、現在は男性として生活していると言われても想像がつかないですが、自分の心を取り戻して生きているのだろうと思います。

 職場の知り合いのひとりは、アメリカで法的に男性同士のパートナーシップ(男性と女性の結婚と同等の法的な立場を得る)を結び、左の薬指には「結婚指輪」をしています。彼は「男性」のアイデンティティを持っており、「男性として男性を愛するセクシャリティ」を持って生きている。職場では公表されていないけれど、私は彼の結婚に祝意を伝えました。みな、それぞれの人生を生きられるようになったことは、喜ばしいと思っています。

 私自身のジェンダー&セクシャリティについて言えば、身体的にはヘテロ志向であり、女性というジェンダー&セクシャリティを受け入れ、社会的には母親という役割を引き受けて過ごしてきた。でも、精神的には、「ボーイッシュな女性があこがれ」
  1966年に好きだったのはやっちゃんで、1970年に好きだったのはカコちゃんで、2007年と2009年における私の「ボーイッシュな少女大好き」の女の子は、中国の朋友シャンユエ15歳でした。
 2010年のボーイッシュガールNO.1は、スピードスケートの高木美帆選手15歳です。美帆ちゃん、35位だったけど、よくがんばったよ。これからも応援しています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~
20230226
 世界の潮流にぐんと遅れをとっている日本。同性婚を法的に認めるか否かでも、政治家周辺の中にいまだに「気持ち悪い」とか「憲法は結婚について同性婚を認めていない」とか述べて、政治生命にかかわっているありさま。

 高校時代ボーイッシュ少女だったやっちゃんは、今は69歳の「じいさんっぽいバーさん」です。春庭とやっちゃん、ふたりして「じーさんみたいなバーさん」になって、今は電話でおしゃべりしています。
 まあ、古希すぎれば年齢どうでもよくなるし、じーさんみたいなバーさんもバーさんみたいなジーさんもみんな同じ。ジェンダーどれもアリ。
 
<つづく>
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ぽかぽか春庭「丸谷才一『年の残り』」

2023-02-25 00:00:01 | エッセイ、コラム
20230225
ぽかぽか春庭アーカイヴ>(ま)丸谷才一『年の残り』

 2003年のアーカイヴです。
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at 2003 10/29 06:17 編集
春庭千日千冊 今日の一冊No.35(ま)丸谷才一『年の残り』

 丸谷才一が『年の残り』で芥川賞を受賞した1968年。私は、この小説中の登場人物でいえば、高校一年生の後藤正也の年齢に近かった。正也は、自分の大伯母と若い頃見合いをしたことのある69歳の医師上原から、若い頃描いた絵を見せられる。
 このころ読んだとしたら、少女の私には、旧友を自殺という手段で失った上原の悲しみも、自身の男性能力のおとろえや画才不足の自覚から猟銃で自殺した洋菓子店の大旦那の苦しみも、よくわからなかったろう。

 私がこの本を読んだのは、1976年第2刷の文庫本である。私は中学校の国語教師となっていたが、それでもやはり、よくはわからなかった。
 父親から継いだ和菓子店を洋菓子店に変え、一代で商売を大きくした多比良が、「芸者と夜をすごしたあと、事後の肢体をスケッチする」という楽しみを失うことで、自殺に至るとは、どういうことなのか、それほど重大なことなのか、わからなかった。
 ようやく、老いていく上原の悲しみも、生きる気力を失う多比良の苦しみも、わかる年齢になった。男性の中にはその1点の元気さを生き甲斐としている人もいることがわかってきた。

 最初に読んだ頃の私に理解できたのは、「自分のスケッチ作品がロダンからの間接的な影響下にあることに気づかされ、確実にロダンの才能には及ばない画才しかないことをつきつけられたこと」が、多比良が死を選ぶ原因になったのだろうということだけ。
 「事後、女性肢体を描く、と期待することが、ことに及ぶ興奮材料となり、生きていく元気の源だった」と、老院長が解説するのを読んでも、画才のないのを悲観するのはわかるけど、性的能力の衰えが、生きる活力を失わせるほど重要なものであるという感覚はわからなかった。(このころは私もウブでしたね!)

 母を失った後、「生きる意味」もわからなくなり、父にいわれるままに中学校教師になったものの、自分の資質が教師に向かない性質であったことを自覚する毎日。
 ネクラでオタクな引きこもりでした。「母の作品を集めて句集を出版する」という目標によって、ようやく「あと追い自殺」を思いとどまったけれど、教師の仕事もうまくいかず、生きる希望はなかった。

 中学校で受け持った演劇部の仕事だけが、かろうじて私を生につなぎとめていた。
 演劇の身体訓練を中学生に教えるため、自分でもモダンバレエのレッスンを受け、発声練習のために「視覚障害者のための朗読奉仕員養成講座」を受講した。以来、ダンスと朗読ボランティアは四半世紀続けている。
 中学校は3年で退職した。母校にもどり、大学院の研究生として演劇学、芸能人類学を学ぶことにした。舞踊評論家市川雅に師事して、ダンスを見ることに熱中した。

 民族芸能学、演劇人類学のフィールドワークの地として、パプアニューギニアに行きたかったが、結局、渡航先がケニアになった。
 ケニアで民族ダンスを練習したけれど、教師として能力がなかったのと同じように、民族文化研究者としても何の能力もないことが判明しただけで、帰国。

 ケニアですごした中の唯一の自慢は、テレビドラマのエキストラとして出演したこと。当時大人気だった『熱中時代』という水谷豊主演ドラマのスペシャル篇ロケがケニアで行われ、浅野ゆう子の友だち役としていっしょにテレビに映ったのだ。
 その頃20歳前後で、アイドル歌手としても女優としても中途半端だった浅野ゆう子が、今や押しも押されもせぬ実力派女優になり、活躍している。

 私はケニアから帰国したあとも、自分の方向性を見つけることができず、「アフリカ縦断旅行へ出発する」という目標を作り上げた。旅回り一座の役者、予備校の試験採点係りなど、旅行費用を稼ぐ日々が続く。
 ようやく資金が貯まり、ランドローバーを買って船でフランスの港へと送り出した。ジブラルタル海峡を越えてアフリカへ。モロッコからナイロビまでランドローバーで縦断後、ナイロビで出会ったふたりそろって、記念の地で結婚届けを出す、という計画だった。

 しかし、出発前に「できちゃった婚」をするはめになり、アフリカ縦断はキャンセル。結局それ以来、私がアフリカの地を再訪するチャンスはこなかった。
 なんでそんな結果になったか。そのころ「その1点」は、おおいに元気でありました!
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2010/02/18
  春庭も現在は意気消沈の毎日ではあります。鉄の胃袋の消化力は衰え、髪は白髪、目はショボショボ、糖分炭水化物は控えよと命じられてもオセンベナッツチョコを娘に隠れて食べて叱られ、年を取るのは悲しいこととぼやきながら、スピードスケートの銀銅メダルにきゃーきゃー騒ぎ、カーリングにメジャー計測で勝ったとはらはらし、フィギュアのイケメンスケーターにうっとりし、まあ、そんな「年の残り」の日々です。
~~~~~~~~~~~~~
20230225
 フィギュアスケートのリンクサイドチケット。羽生結弦が出場する回などはまず取れなかった。これまで、世界選手権も日本選手権も、我が家がチケット入手できたのは、女子ショート女子フリーなど。男子はユヅ君が出場していれば、無理だった。
 ところが羽生のプロ転向で、世界選手権さいたまアリーナの席がサクサクと入手できたるようになりました。3月22日女子ショートとペア。3月25日男子フリーとアイスダンス。26日エキシビジョン。どれかひとつ抽選に当たればいいと申し込みをしていたら、3つとも席がとれました。

 そのかわり、東京ドームで行われる羽生結弦単独公演アイスショウ「 GIFT 」は、3月26日ドーム3万枚が完売。我が家は、3万人の当選者になれなかったのです。だから同じ26日の世界選手権エキシビジョンを見ることにしたのですが、この日のたまありエキシビにくるのは「ゆづ君見売られず残念賞」の人ばかりでしょう。え~ん、見たかったよう、GIFT!

 浅田真央は、プロ転向後「これまでチケット高すぎてアイスショウを生で見ることがなかった層」を対象として、手ごろな値段の小規模な会場でのアイスショウを続けています。娘と江戸川区の会場まで見に行ったときはすぐ目の前で真央ちゃんが見られる席がとれました。
 3月18日も真央ちゃんアイスショウを見ます。3月はこうして「氷の祭典」を楽しむ月になります。

 4月からは、「氷よりも冷たい世間」に生きる日々ですが。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「星新一『ボッコちゃん』」

2023-02-23 00:00:01 | エッセイ、コラム
20230223
ぽかぽか春庭アーカイヴ(ほ)星新一『ボッコちゃん』

 2003年のアーカイヴです。
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春庭千日千冊 今日の一冊No.34(ほ)星新一『ボッコちゃん』

 星新一(本名:星親一)のショートショートは、一度はまると、熱にうかされたようにあるいは依存症のように次から次へと読みたくなる。短いお話のなかに、広大な宇宙や深遠な人間心理がぎゅっとつまっています。昔は読解教材として適切なものが少なかったこともあり、よく日本語読解の材料にとりあげました。
 「教科書の中の日本語作品は面白くない」と思っている留学生も、星新一のショートショートなら、「この先どうストーリーが展開するのか」と、楽しみながら読むことができ、90分の授業のなかで起承転結味わいながら読解できますから、ショートショートはいちばん読みやすい読解教材なのです。

 なかでも、「ボッコちゃん」は、中級レベルの学生に人気の作品でした。それほど難しい表現はなく、一文一文、初級文法を理解していれば読みこなせる文章でありながら、「この先どうなるのか、読み続けたい」という気持ちを留学生読者にも持たせてくれるストーリー展開、オチの秀逸さ、どれをとっても、作品のおもしろさを味わうことができます。「ボッコちゃん」のほか、「殺し屋ですのよ」「おーい、出てこい」などもよく読解授業で取り上げました。
 
 星新一は、父や祖父の伝記を書いており、星新一が星薬科大学の創立者である星一の息子であることはよく知られています。星一は、星製薬の創始者として明治から昭和にかけて製薬王と呼ばれた人です。小金井良精(解剖学者)と喜美子(森鴎外の妹、随筆家)の次女せいと結婚して生まれたのが星新一。明治の文豪森鴎外を大伯父に持ち、父は製薬界のドン。

 お金持ちの家庭にはよくあることとはいえ、星一は新一が生まれる前、新一には異母兄にあたる子供を庶子として別の女性との間にもうけていました。出澤家へ養子にだしていた出澤三太です。三太は俳人として活躍しました(筆名:珊太郎)。

  1950年に東京大学農学部農芸化学科大学院博士課程前期(修士課程)を修了するときの星新一の修士論文は「アスペルギルス属のカビの液内培養によるアミラーゼ生産に関する研究」であったそうです。1951年には父の星一が急死したために、経営悪化していた星製薬の社長を務めるも、すでに救う手だても尽きていて会社は人手に渡りました。実業家としては「最初から経営失敗」だった星新一ですが、星
一のアイディアマンの才能と、母方から受け継いだ文才とを併せ持つ「SFショートショートの神」が誕生しました。

 最相葉月による星新一の伝記『星新一  一○○一話をつくった人』(新潮社2007年)も出て、留学生による星新一研究も増えることでしょう。これまでの「日本文学研究」では、SFやショートショートを取り上げる人は少なかった。「純文学」への研究熱に比べれば、SFは「文学主流」とは見なされてこなかったからです。でも、現代では「大衆文学」「純文学」なんていう分類ではなく、「日本語言語文化作品として読むに値するか否か」で作品評価をする時代です。星新一は十分に評価に絶える日本語作品を残したと思います。

 私が担当している「国費留学生クラス」は、世界各国で選ばれた学生が「日本国文科省奨学金給費生」として来日して日本語を学び、国家を背負う研究者として大学院にすすみます。理系の場合はほとんどが国立大学へ配置されます。文系の学生の中には、専門により、少数は早慶上智など私立の大学院へ進む学生もいます。
 2009年10月から2010年2月まで担当した初級クラスのなかに、珍しいことに4月から理系私立大学へすすむ学生が混じっていました。星薬科大学大学院に進学するマレーシアからの留学生です。多民族国家マレーシアの中の中国系。家庭では客家語(はっかご:中国語の南方方言のひとつ)を話し、マレーシアの公用語のひとつ英語で学校教育を受けてきて、日本語も熱心に受講していました。非常に優秀で、癌の新薬開発をめざすそうです。
 
 初級の文法教科書を猛スピードの授業でつっこむために、星新一のショートショートなど紹介している余裕はありませんでしたが、新薬開発の研究の合間に、星新一の小説を楽しむ余裕がでるといいなあ、と思っています。
~~~~~~~~~~
 
20230223
 医学の進歩著しい昨今です。私の持病、夫の療養もいつかよい方向に向くと信じて体調管理頑張ります。
 ips細胞もドンドン進歩して治療が発達しているというテレビ番組をみて、年とれば病気になるのは仕方がないけれど、誰もが安心して病院へ行ける社会であってほしいと願っています。金持ちだけが良い医療を受けられるのではなく。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「辺見庸『もの食う人々』」

2023-02-21 00:00:01 | エッセイ、コラム
20230221
ぽかぽか春庭アーカイヴ(へ)辺見庸『もの食う人々』

 2003年のアーカイヴです。
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at 2003 10/27 06:55 編集
春庭千日千冊 今日の一冊No.33(へ)辺見庸『もの食う人々』
 
 辺見庸。一番好きな男性作家のひとり。講演があれば聞きに行きたいし、テレビに出ていればチャンネルをあわせる。ミーハーファンである。

 ただし、彼の小説は好きじゃない。『自動起床装置』『赤い橋の下のぬるい水』などの文体に少しも感応しない。「ぬるい水」に関して言うなら、発情期のオス犬が、我が家の雌犬の匂いが染みついている私のズボンに飛びついておシッコをひっかけた10歳のときに、「ひゃぁ、おシッコだぁ」と思ったのと同じ感覚。エロスもタナトスもありゃしない。
 おシッコ漏らす話ならば、石田衣良『娼年』の中に出てくる、「おシッコをがまんしていて、がまんしきれずにお漏らしをするのが官能の極致」という70代の女性が出てきて、人と人が関わりあうことのヒリヒリした思いに満ちていた。

 辺見の小説にはあまりピンとこないのだけれど、エッセイ、ノンフィクションの文体には「ビビビッ」と「感じる」のである。男の色気にうっとりするのである。
 保健所が捕獲した犬を屠殺する話だったり、中で死刑が行われている最中かもしれない刑務所の塀の周りをぐるぐる歩き回る話だったり、そんな話を読んで、「ああ、こういう人にひっついていっしょに刑務所の周りをぐるぐる歩き続けたい」と、思ったりする私はいったい、、、、?

 「もの食う人々」も、書かれていることは、放射能を浴びた野菜やきのこを食べるしかない人々や、餓えに苦しむ人々が出てきて、泣きたい気持ちになる内容である。しかし、内容の悲惨さに涙しながら、辺見の文体にうっとりしてしまうのだ。いけませんねぇ。

 講演会も聞きに行った。講演の内容は、「死刑廃止運動に関連して」だったりしたが、ミーハーファンは、話の中味が死刑だろうが犬の屠殺だろうが、顔を見ているだけでうれしいのだった。
 講演会の帰りにラーメン屋によったら、相席になったオバサンが辺見の本を読んでいる。ご同輩!と嬉しくなって、声をかけてみた。

 彼女も辺見ファン。「ええ、なんかよく分らないけど、好きなんですよね」と言う。う~ん、ライバルは多いようだ。
 ライバルに負けずにがんばるぞ!って、何をがんばるんだか。いや、だから、灰になるまで、がんばります。

at 2003 10/27 06:55 編集 灰になるまで燃え尽きたい
 老人ホームで、70歳過ぎの女性入居者が、70代80代の二人の男性を相手に、一回300円で関係を持ち、片方の男性が嫉妬のあまり、もう片方を刺す、という事件があった。
 女性にとって、300円が欲しいのではなかったろう、自分が「恋しい相手」として認められ、その存在を欲求される、そういう自分自身でありたかったのだろう、と想像する。

 大岡越前(だったかな?)が、母親に尋ねた。「女は、いったいいくつまで閨房を共にしたいと思うものでしょうか」母御は黙って火鉢の灰をかきまぜ、大岡は「ははぁ、女性は灰になるまで現役か」と、悟ったという話。さよう、骨になり灰になるまで、女は燃え尽きたいのである。

 私など、酸素不足不完全燃焼のまま、一酸化中毒死しそうである。もっと光りを(by goete)、もっと酸素を!(by haruniwa)。新鮮な空気と光と水を!私だって光合成したい。あれ?光合成に使うのは酸素ではなく、二酸化炭素だったっけな。
===========
2010/02/16
 2004年に病に倒れて以来、脳梗塞や癌と闘っている辺見庸。
  今年ようやく『自分への審問』を読みました。いつまでも私の「闘う良心」であってほしいです。私はどうもグズグズで、自分の半径3m以内のことどもにかかずらわっているだけで精一杯。もっと広く深く世の中を見たくもあるけれど、せいぜい「上村愛子にメダル取らせてあげたかった」と、人様のがんばりを消費して楽しむ程度でございます。
~~~~~~~~~
20230221
働かなければくらしていけない高齢者生活もながくなりました。
夫も腎臓透析患者身体障害者1級生活を続けています。
寒い日々ですが、たぶん我が家に春は遠い。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「藤原新也『印度放浪』」

2023-02-19 00:00:01 | エッセイ、コラム
20230219
ぽかぽか春庭アーカイヴ(ふ)藤原新也『印度放浪』

 2003年のアーカイヴです。

~~~~~~~~~~~
at 2003 10/25 05:43 編集
春庭千日千冊 今日の一冊No.31(ふ)藤原新也『印度放浪』
 
『印度放浪』は、藤原新也の処女作。1944年生まれの藤原、23歳のときの旅の記録である。
 藤原は『インドは、命の在り場所の見えるところである。自然の中のそれぞれの命が、独自の強い個性を持って自己を主張している。』と、書く。
 『地上における生き物の命の在り場所をはっきりと見たし、合わせて自分の命の在り場所もはっきりと見ることができた。それは、私の二十代の一つの革命だった。』

 こんなふうに「命の在り場所」を見ることができた藤原の二十代を、私は羨むばかりだった。母の死に打ちのめされたままの私は、生きているのかいないのかわからないような二十代をすごした。

 ようやく私がケニアへと出発したとき、二十代も終わりになっていた。ケニアのナイロビで30歳の誕生日をむかえた。
 ケニア東側海岸の小さな島で、無数の蛍が一本の木にクリスマスツリーのように群れて輝くのを見つめたり、トゥルカナ地方の半砂漠地帯で、白くされこうべになって横たわるらくだの姿を見たり、サバンナ草原でライオンやキリン、シマウマが、命の連鎖の中で追うもの追われるものの命の限りを尽くしたりするのを見た。

 やっと、私にも「地上における生き物の命の在り場所」を感じ取る感覚が戻ってきた。
 旅について、生と死について、藤原の写真と文章を『チベット放浪』『全東洋街道』『西蔵放浪』と読み継いできた。

 海外放浪篇以外も『東京漂流』『丸亀日記』『僕のいた場所』『沈思彷徨』など、好きな作品が多い。ときには彼の発言に「?」と思ったり、「ちがうんじゃないか!!」と反発したり。

 沢木耕太郎や藤原新也のように旅をして文を書きたい、というのが、「あこがれの生き方」だったけれど、できないまま、もはや林住期を待つ身となった。
 若い時代に旅をするのと、林住期遊行期になって旅をするのでは、感じ方考え方がちがってくるだろうと思うけれど、私の林住期にどんな旅が広がっているのか。今はバタバタと教室を駆け回りながら、林の中に入っていく日を待っている。

 日本語、入門期の教室。ひらがなの書き方練習。
 ほら、「りょこう」は、「りよこお」って書くんじゃないの。「よ」は、小さい「よ」ですからね。「You studied おline' s long vowel system last week.. Don't forget! It's not O. U is お line's long vowel letter. あ、だけどね。 とおいhas a irregular long vowel letter. Don't write とうい。Please write とおい」
 留学生が間違えるのも無理はない。日本人学生さえ、レポートに、漢字のみならず「ひらがなミス」を連ねてくる表記システム。
 「りょこう」できる日は、まだまだ、「とおい」

インドでは、人生を四つの時期に分ける。マヌ法典には人生を4つにわけた四住期が示されている。第3期と4期を分けずに、林住=遊行を同時進行とする考え方もあるそうだが、1から4までを書いておく。
1. 学生期:学問や修業をする期間。
2. 家長期:結婚して家庭生活を送りながら家長としての努めをする期間。
3. 林住期:家長としての努めを果たし終えた後、家督を譲る日を待ちながら遊行に備える期間。
4. 遊行期:解脱を求めて聖地などを巡礼する期間。現在の一生を終え、次の一生の準備に入る。

 「遊行」の中に生きた人々。西行、芭蕉の先達から、現代の尾崎放哉、種田山頭火まで。女性では伝説の八百比丘尼、実在の「とはずがたり」の二条。
 老後を遊行放浪の旅の中ですごす、というのは、インドから伝わる人間の本性にもとずく究極の晩年生活である。

 私も子育てを卒業したら、林住期に入ろうと思っている。遅く生まれた息子は現在15歳。20歳になったら、「あとは、自分の力で好きに生きろ」と、放り出し、私は林に住む。
 あと5年のあいだに、林住期に入る準備が間に合うだろうか。この「おい!老い、笈の小文」執筆も、「心の冬支度」のひとつである。

 子供の頃の「世界中を旅したい」という夢は、まだ「おあずけ」だが、仕事をしながら、世界中の人とふれあうことができた。そして、仕事をリタイアしたら、これらの国を放浪して歩くのが夢だ。

 世界中さまざまな国の留学生に教えてきた。
 あらためて数えてみると、教えたことのある留学生の国は、100ヵ国近い。

「アジア」=韓国、中国、モンゴル、台湾、フィリピン、インドネシア、ブルネイ、マレーシア、タイ、ベトナム、ラオス、カンボジア、ミャンマー、バングラディシュ、インド、ネパール、パキスタン、イラン、トルコ、レバノン、シリア、ヨルダン、パレスチナ、イスラエル、サウジアラビア、クエート、アラブ首長国連邦、オマーン、バーレーン。

「アフリカ」=エジプト、リビア、チュニジア、アルジェリア、モロッコ、セネガル、ナイジェリア、カメルーン、エチオピア、ケニア、南アフリカ。

「ヨーロッパ」=ロシア、ウクライナ、ベラルーシ、ラトビア、エルトリア、フィンランド、スウェーデン、ノルウェー、イギリス、アイルランド、オランダ、ベルギー、フランス、スペイン、ポルトガル、イタリア、オーストリア、チェコ、クロアチア、ハンガリー、ドイツ、ポーランド、ブルガリア、ルーマニア、ボスニアヘルツェゴビナ、ユーゴ、ギリシア。

「南北アメリカ」=カナダ、USA,メキシコ、ドミニカ共和国、ジャマイカ、グァテマラ、エルサルバドル、ホンジュラス、パナマ、コロンビア、ベネズエラ、ペルー、ブラジル、チリ、パラグアイ、ウルグアイ、アルゼンチン。
「オセアニア」=オーストラリア、ニュージーランド、西サモア、パプアニューギニア。

 我ながら、ずいぶんたくさんの国名だなと思う。大学国費留学生コースの教師をしていなかったら、ぜったいに覚えることがなかったろう、と思う国名も多い。
 
 こころおきなく林住期に入り、遊行三昧の日々をおくることができるように、と願いつつ、昨日も今日も、さまざまな言葉が飛び交う教室の中、バタバタと走り回る毎日。
 今日の教室は「インドネシア、タイ、ミャンマー、ベトナム、バングラディシュ、中国、メキシコ」という編成。ひらがな練習を終えたばかりで定着していないクラスに、カタカナを突っ込んだ。

 学生達は同じ「a」の音を書き表すのに、「あ」と「ア」のふたつを使いわけなければならない表記法を持つ日本語に、早くもパニック。来週から漢字授業が始まる。どうなることやら。
==========
2010/02/12
 2010年の「私の留学生国籍コレクション」は、毎年増えている。上記の2003年のリストに加えて、
アジア:シンガポール、アフガニスタン、ウズベキスタン、キルギスタン、イラク
ヨーロッパ:スイス
アフリカ:ウガンダ、ガーナ、マリ、コンゴ共和国 
南北アメリカ:コスタリカ、
オセアニア:ソロモン

 もうそろそろ「お初」の国がなくなってきた地域もあるけれど、アフリカの留学生はまだまだ少ない。これからどんな出会いがあるでしょうか。2月12日の教室は、中国、ベトナム、インドネシア、マレーシア、オマーン、ウガンダという面々で、午前中は最後の音声表現試験。日本語でのプレゼンテーションを採点しなければなりません。ああ、しんど。午後はスピーチ発表会。
 夜は退官する教授の最終講義と懇親会。ああ、しんど。

~~~~~~~~~~
20190217
 出会った学生の国籍コレクション。
 2015年3月で国費留学生に教える仕事は終了しましたから、もう増えません。
ヨーロッパ:マケドニア
アフリカ:モザンビーク アンゴラ  
オセアニア:フィジー  

 忘れてしまった国名の留学生ごめんなさい。
 facebookで交流が続いている学生もいるし、すっかり音信が途絶えた学生もいます。でも、私の心の中には、留学生とすごした日々は残されていますからね。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「深沢七郎『楢山節考』」

2023-02-18 00:00:01 | エッセイ、コラム
20190218
ぽかぽか春庭アーカイヴ(ふ)深沢七郎『楢山節考』

 2003年のアーカイヴです。
~~~~~~~~

at 2003 10/26 06:41 編集
春庭千日千冊 今日の一冊No.33(ふ)深沢七郎『楢山節考』

 去年(2002年)「青春18切符」を使って「ひたすら電車に乗っているひとり旅」をした。篠ノ井線に乗ったとき、電車がスイッチバックして姥捨駅を通過した。ここが有名な姥捨山か、と思いながら、『楢山節考』を思い出した。

 深沢七郎の『楢山節考』。老婆おりんは息子辰平の家族が食いつなぐことを願って、山へ行く。まだ歯が丈夫なことを恥じ入り、老人らしく立派に山で果てることを「人生の花道」とさえ思っている。
 たとえ辰平が母を思う余り、村の掟に反しておりんをどこかに隠してこっそり養おうなどと思ったとしても、おりんはそんな恥知らずな行いを受け入れることはできなかったろう。

 現代の私たちにとって「どんな理由であれ殺人は絶対の悪」と感じる倫理感覚と同じように、貧しい地方では、老人は口減らしのため死んでいくのが「幸福な最後」であり、「人倫の道」だったのだ。
 現代の高齢者福祉の視点で言えば、悲惨な話である。だが、深沢の文体は、おとぎ話をきかせるように、唄をまじえて、語り継ぐ。

 最後に山に入り、雪がふってくると、親を捨てる辰平と、捨てられるおりん二人して、雪を喜ぶ。
 「安らかにあの世へ行くための幸運な雪」として、この世のすべての不浄なものを、清らかな真っ白い世界に変える雪として、雪は天から降りてくる。何度読んでも涙が出る。

 若い頃は親を捨てる子の視点で読んでいたから、この涙の意味を「食えないために親を捨てる悲しみ」であると思っていた。
 しかし、今、親の視点で読める年になってみると、若い頃に流した涙の中に、別の感動も混じっていたことがはっきりとわかるようになった。
 おりんの視点で読めば、流れる涙は「自分の人生をまっとうしようとする強い意志を持った人間の尊厳」を讃える涙でもあることが納得される。
 雪は、人生の最期を凛として受け入れようとするおりんへのはなむけとして降り積もるのだ。

 ギター弾き語りをしていた深沢が作った、文章のあいだあいだにはさまれる唄。この唄のひびきがおりんたちの生を言祝ぐ。最後の頁。雪がふった山に響く唄。
♪なんぼ寒いとって 綿入れを
山へ行くにゃ 着せられぬ♪

 「働き手」としての家長期がおわると、林住期、遊行期として放浪の旅に出るインドの晩年「林住期」を紹介した。
 江戸時代までの日本の農村ではどうだったか。働き手としてのつとめを果たし終えたあと、幸福な隠退生活を送ることのできた老人もいたであろう。しかし、「働き手」としての人生が終わったら、それはそのまま「命の終わり」であるという地方もあった。

 正式な山の名のほかに、「姨捨山」という俗称を持つ山が各地にある。「働き手として役にたたなくなった老人を捨てる」というのは、特殊な話でも、限定された地域の話でもなかったようだ。
 老人を息子が背負い、娘が手をひいて山へ連れて行く。二度と帰らぬ山行きである。老人は静かに子孫の繁栄を願い、口減らしのため、孫や子が十分に食って命をつなぐために、自分たちは山に入って極楽往生を願う。そういう極貧の村が、かって日本のあちこちに存在した。

at 2003 10/26 06:41 編集 姥捨山
 82歳の舅がホスピスに入院したとき、姑は、そこが「最後のひととき」を迎える病院であることを、絶対に夫にさとられぬよう、ホスピスのホの字も言わないよう私たちに釘をさした。
 「もう治療の方法はない、あとは痛みを除き、静かにお迎えを待つのみ」と医者に言われても、姑は「治療をしてくれる病院に入院させたのなら、親戚にも顔向けができるけれど、治療してくれない病院だと、姥捨山に捨てたようだと、言われてしまう」と、気にしていた。

 そして、「免疫療法」という健康保険が適用されない療法に夢中になり、蓄えをつかい果たした。高額な治療費を工面し、どれだけお金をつかっても、一分でも夫の寿命を延ばしたいという姑の気持ちもわかったけれど、そうやって延ばされる方の舅にとって、それが幸福な最後だったのだろうかという、「鬼嫁」と言われそうな感想を持ったこともあった。ホスピス入院期間半年という長期存命記録になったけれど老後資金として長年働いてためてきた貯金を使い込んだ。
 舅姑は二人ともは病気を治すための治療をしている信じていたが、私たちにしてみれば、不治とわかっていても、二人の心の安静のための免疫治療。もし、告知を受けて自分の病状を冷静に判断できる状態だったら、舅の気持ちとしては、姑が安心して老後を過ごせるだけの蓄えを残しておいてやりたかったのではないか、と思ったのだ。二人とも、治療して直ったら姑と二人、静かな老後をすごそうと思っていたのだろうけれど、自分の病が治らないとわかっていたのなら、別の思案もあったろう。それが本人にとって幸福なことかどうかは私には判断できないことであるけれど。

 未亡人となった姑は「今日は、童謡を歌う会、明日はお習字、週末は旅行」と、「一人暮らしになったら、あちこちからお誘いがかかって、かえって、おじいちゃんの相手だけしていた頃より忙しい」と、飛び回っている。

 私も姑から「コンサートへいっしょに行きましょう」などのお誘いを受けることが多くなった。
 「旅行は簡保利用の安ツアー、習い事は区の生涯教育で無料、コンサートも高齢者ご招待のチケット」という。
 「お金はないけど、都内の移動はバスと都営地下鉄が老人パスつかえるし、何とか暮らせる」という毎日をすごしている。
 10月23日は、私の仕事が休みになり平日に映画館へ行ける時間がとれたので、姑を映画に誘った。
 姑といっしょに見た映画は『わらびのこう』。村田喜代子『蕨野行』が原作。恩地日出夫監督。市原悦子主演。友人が「わらびのこう製作を支援する会」の一員で、チケットをおくってくれたのだ。

 内容は「姥捨山」の話と知っていたから、姑を誘っていいものかどうか、ちょっと考えた。「年寄りは、働けなくなったら山に捨てる」なんて映画に、嫁が姑を誘ったりして、世間からはまた「鬼嫁」と言われてしまう。
 私が直接誘うと断りにくいだろうから、中学生の息子を使いにやった。映画の券を持たせて「こういう内容だけど、行くかどうか聞いてきて」と、伺いをたてたら、行くという。
 映画は、全編、姑の出身県でのロケ。「知っている土地が画面にでてくるかもしれないから」というのをお誘いの理由にした。美しい田舎の光景がたくさん出てくると思うので、ストーリーはともかく風景だけ見ていても、姑にとってはなつかしいだろうと。

映画『蕨野行』の舞台は、山の中の小さな農村、押伏村。(日本の原風景として選ばれた蕨野の里、山形県飯豊町でロケが行われました)
 米を作る田はあるが、村の掟で、隠居した老人は「蕨野」へ行くことが決まっている。庄屋の隠居レンも例外ではない。蕨野で、老人達は一夏共同生活を送り、秋から冬へ。食べ物が途絶えると一人、一人と倒れていく。
 レン達が蕨野へ行った年は夏の間雨が続き、里も不作。雪に埋もれた小屋で凍える体を温めあい、レンも息絶える。

 幸田文『エゾ松の更新』を読むまで、私は「古い世代が新しい世代のために自分自身を養分としてさしだす」などということは、許せない、と感じる「若いもん」の側だった。
 今、年を重ねてみると、自分個人の命に執着するより、次の世代がよりよい毎日をすごすために、最後の日々を役立てたいという高齢者の気持ちも理解できるようになった。

 命をとじたあとのレン達が集う最後のシーン。老人達は「体が軽うなった」と、喜んで雪合戦に興じる。嬉々とした顔の老人達。自分の人生をまっとうし、子孫へと命をつなぐ責務を果たした安心立命に満ちている。
 蕨野で命果てるも、ホスピスで最期のときを迎えるのも、場所はどこでもよいのだ。自分自身で満足して、「これでよかった、いい人生だった」と思いながら死ねること。
 映画「蕨野行」が終わると、姑は「明日から旅行。飛行機の出発時間が朝早いから、ゆっくりしていられないの。お夕ご飯をいっしょに食べたりできなくて、ごめんね」と、さっさと帰り仕度。

 嫁は「天気が変わりやすい時期だから、レインコートとか、寒さよけのウィンドブレーカーのようなのも、ちゃんと持って行ってね」と、くどくど繰り返す。姑は「はい、はい、大丈夫。ちゃんとおみやげ買ってくるから」と、駅の階段を上っていった。階段を上る姑78歳の足取りは、毎日の仕事にくたびれてヨレヨレの嫁よりもよほどしっかりしている。
 姑は、まだまだ20年30年がっちり生きていきそうな、メリーウィドウでありました。

 中国現代史の生き証人である蒋介石未亡人宋美麗が106歳で死去(ニューヨーク2003/10/23)。
 世界史近代国家成立以後、最も長命を保ったファーストレディ。未亡人となって以後は台湾に留まらず、アメリカへ移住した。台湾を去ったのは、若い頃留学生活を送った青春の土地を「ついの住処」として選んだからだろう。けっして「姨捨」のためではない。

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2010/02/15
 2010年の今年、姑は2月7日で85歳、ますます健康オタクぶり健在で、健康にいいことは何でもやる。元気です。一方ヨメの私、最近とみに老化を意識してしまい、意気消沈です。何でも消化する鉄の胃袋を誇っていたのに、娘息子と同じ唐揚げを食べて、私だけ胸が焼けて、苦しかった。食べるだけが楽しみなのに、、、、「何でも食う人」だった私、そろそろ健啖家を卒業してそぞろ「もの喰う」ことの下り坂の降り方を考える年にきたようです。

 あっと気づいてみれば、捨てられる方の親の世代になっている。娘息子は「親の介護はしないから、自分の身は自分でなんとかするように」とのたまう世代。我らは、親の介護は一手引き受け肩に背負わざるを得ず、子には捨てられる世代のようです。足腰立たなくなるまでは、せいぜい一人でがんばりますけれど、その先は、、、、、
~~~~~~~~~~~
20190219
 「未亡人生活」を楽しんでいた姑も、2015年12月に90歳で舅のもとへ旅立ちました。
 舅の治療に「全財産使い果たした」と言っていたのに、舅が亡くなって5年目に、老朽化した家の「新築そっくりさん」という改築を、なんと「銀行借り入れなし、いつもにこにこ現金払い」で、ひとりでやってのけました。信託やら株やらで、改築費用を捻出したのだというけれど、ほんとうに見事な晩年でした。

 88歳から90歳まではペースメーカー手術などもあり、介護が必要なときも増えましたが、娘がおばあちゃんの世話を引き受けてくれ、私は相変わらず「一家の稼ぎ手」に徹してくらしました。

 もはや私自身がよぼよぼ高齢者となり、足が痛いの血糖値が高いのとぼやきながらくらしています。なんとかこの晩節を保っていたいものですが。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「平塚らいてふ『元始女性は太陽であった』」

2023-02-16 00:00:01 | エッセイ、コラム
20230216
ぽかぽか春庭アーカイヴ(ひ)平塚雷鳥「元始女性は太陽であった」

 2003年のアーカイヴです

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at 2003 10/24 06:29 編集 
春庭千日千冊 今日の一冊No.30(ひ)平塚雷鳥『元始女性は太陽であった』

 2002年に、雷鳥の伝記ドキュメンタリー映画を岩波ホールで見た。写真やニュース映画に残る雷鳥の姿、雷鳥の周囲の人々の証言フィルムなどで構成された、貴重な記録だった。映画を見終わって、羽田澄子監督の描き出す雷鳥の姿に、ある種の「もどかしさ」のような印象が残った。雷鳥は一度として「労働」に近づいたことのない人だったことを、羽田は鋭く描きだしていていたからである。

 唯一雷鳥が「労働する女達」に近づいたのは、市川房枝の同行を得て、女工が働く場へ足を運んだときだけだった。らいてうは、「若いつばめ」との結婚後も、理解ある母親に庇護され援助される「お嬢様」の暮らしを続けた人だった。
 雷鳥の生涯への証言者として登場する櫛田ふき等、労働の現場から発言を続けた女性に比べると、私にとってはやはり「ちょっと遠い人」という印象をぬぐえなかった。

 『元始、女性は太陽であった』は、平塚らいてう自伝。生い立ち、女性の時代の幕開けを作った青鞜時代、母性保護論争、戦後の平和運動への関わりが述べられている。
 101歳まで現役で女性解放や女性労働者の支援、平和運動の活動を続けた櫛田ふきや、絶望的な政界の中で、ただ一人私の希望の星であった市川房枝らに比べると、雷鳥は親しみが少ない人ではあるけれど、女性が人間として尊厳をもち、自分らしく生きていくための道を切り開いた人として、雷鳥への敬愛は持ち続けている。

 雷鳥はまさしく、「真正の人」であった。
 雷鳥は「青鞜」創刊号に高らかに、こう歌い上げた。
 『元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。(中略)熱誠!熱誠!私どもは只これによるのだ』と。

 東京の夜明け。団地の屋根に四角く切り取られた空の上にも太陽がのぼる。
 元始の太陽に比せられた女性として、今日も「おひさまかあちゃん」で行くぞ!と、毎朝思うけれど、お昼頃にはペシャンコ意志消沈、夕方になれば泥のように疲れて、月を眺める元気もなし。

 ほうら、しっかりしいや、熱誠!熱誠!明日はあしたの日がのぼる、とかけ声かけつつ、夕飯作る。チン!電子の熱誠!私どもは、ただ、これによるのだ!!

at 2003 10/24 06:29 編集 働く女と元始の太陽
 私の女子校クラスメートの多くは教職を選んだ。30年前に男女が差別なく働くことができ、産休などもとりやすかった職場は、教職以外少なかったからである。
 私自身、こうなるつもりではなかったのに、中学校教師、大学講師と、結局は教職を続けている。(転職13回の中で、つまるところ教職が一番長く続いた仕事になった)

 私の母の世代では、専業主婦になることがステイタスであった。
 「月給取り」の妻となった私の母を、人は「幸せ者」と見ていたが、母自身は「専業主婦の座」を不自由なものと考えていた。
 月に一度の句会に出席するときも、夫の酒肴おこたりなく、夕食の準備をすべてととのえ、それでも遠慮しいしい出かけていった母。娘三人には、「女一人で生きていける技能」を身につけるよう、繰り返し説いた。

姉は高校卒業後、専門学校に進学して手に職をつけた。結婚後も離婚後も自分の技術で生きていくことができた。「娘を4年制大学に出したら、嫁に行き遅れる」と、思われていた時代だったが、私は最初から「独身で仕事ひとすじに生きるだろう」と、周囲に思われていた。「こんな愛想のない、かわいげのない子は、勉強でもさせておくほか、使い道はない」と思われていたのだ。

 結婚したとき、お祝いのことばの代わりに「象牙の塔にこもって学者になるんだって言ってたのに、結婚するなんて思わなかった」と、親戚中から「予定外の結婚式ご祝儀出費」についての感想が寄せられた。
 国語科教師を退職するとき、「やっぱり教師じゃなく、学者になる」と言い、大学院へ行くことを退職のいいわけにした。母亡きあと、母がわりにと後見の目を光らせている、うるさがたの叔父伯母を納得させるためだった。
 結婚後は、家から自転車で15分のところにある国立の大学と大学院で勉学を続けることにした。

 修士論文を書いたときは子供を二人抱えていた。育児家事をひとりでこなし、日本語教師の仕事を続ける中での勉学。二足のわらじと下駄と靴をはきかえ脱ぎかえという生活は忙しすぎたが、仕事をすることも、子供を育てることも、どちらも大事な私の人生だった。

 1995年に男女雇用機会均等法が成立して、18年がたつ。私が働き始めた70年代に比べれば、女性が働く環境は、はるかによくなった。まだまだ問題点が多いし、法律と社会の実体は異なるのが実情であるが、少なくとも、法律上、一応は男女の機会均等が保証されている。

 働く女にとって、子育てと仕事の両立は常に大きな問題であった。ときとして大きな議論がわき起こるのも、それだけ重要な話題だったからだろう。
 少し前なら、1988年の「アグネス論争」を思い出す。昔をたどれば、大正時代の与謝野晶子と平塚らいてうの「母性保護論争」が有名。

 家事労働への評価。子育てを社会共通の仕事とするか、母親が単独で責任を負うべき仕事なのか。子育て中の親を社会が支援する方法、などをめぐって、雷鳥晶子の間に、激しい応酬が繰り広げられた。
 この論争を批判的にみれば、双方に論旨のほころびがある。晶子も雷鳥も、当時としては高い教育を受けた恵まれた階層出身の女性であり、自分自身の仕事を継続するために、女中を雇うことのできる人だった。

 らいてうの「社会の為になる子産み・子育て」論は、「国家社会と人的資産の再生産の関わり」に危険をはらむものだったし、晶子の「女子が働けば労働時間が短縮され、男女とも経済以外の分野に創造性を発揮できる」という論も、その前に解決すべきさまざまな障害を前にして、楽観的すぎた。

 晶子の主張する自助努力ができる女性は、当時限られた存在であり、大多数の女性は教育を受ける機会もなく、底辺でのたうち回りながら、必死に働き、子を育てるしかなかった。
 とは言っても、現在の視点からのみ、晶子雷鳥を批判することはできない。過去の女性達の闘争や実践によって、現在私たち女性が生きていける環境が作られてきたのだから。

 「子産み・子育ては社会にとって重要な問題であり、それに対して社会は支払いをすべきである」という雷鳥の指摘は、現在の産休育児休暇や保育制度などにつながる重要なものであった。雷鳥の論理は、批判点を多く抱えながらも、後の時代を切り開く視点をもっていたと言えるだろう。

 「青鞜」創刊のことばとして雷鳥が「元始女性は太陽であった」と謳いあげて以来、女性は青白い月として生きるよりも、自ら輝く太陽へと顔を向けて生きることを選べるようになったのだ。
========
2010/02/10
 愚痴はいろいろあるけれど、働く場がまだある私は幸運だと思って働き続けましょう。今期の授業はあと3回です。カフェの中で「苦手なボタン付けを終えて、自分で自分を褒めた」という料理得意だけれど裁縫は苦手という働き者の女性の日記を読んで、「おおいに自分を褒めましょう」とコメントしたのだけれど、実をいうと、私、毎日自分を褒めています。団地9階にある自宅からの行き帰り、エレベーターの中に一人のとき、朝は「朝早くからお仕事行ってえらいね、がんばってね」とエレベーターの鏡に向かって声をかけ、帰りには「今日も朝7時に家を出て帰りは9時過ぎで、よく働いたね。えらいよ」と褒めてやります。

  エレベーターの監視カメラをチェックしている人がいたら、このオバハンなにを鏡に向かってぶつくさ言ってんのかとおもうでしょうけれど、これって、実際に声に出すところが大切。自分の耳で音声として言葉を聞くと、脳が活性化するって聞いたんです。心の中で思うだけでもある程度は効果があるみたいだけれど、声で脳に聞かせるのが大事なんです。じゃ、今日も鏡に向かって「毎日働いて、えらいね、わたし」。

~~~~~~~~~~~~~~
20190216
 今の勤務状況。朝、8時半に家を出て、帰宅は夜9時半です。スーパーで半額になった寿司やお弁当を買う日もあるし、娘が生協配達の半調理品をチンして晩御飯を用意してくれる日もある。水曜日と土日は、私が料理する。
 相変わらず、仕事があるのだから、働かなくては、と思いながら、69歳の身を痛勤電車に身をおきます。相変わらず、行きかえりのエレベータ―鏡に向かって「きょうもよく働きました」と、ほめています。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「樋口一葉『一葉日記』」

2023-02-14 00:00:01 | エッセイ、コラム
20230214
ぽかぽか春庭アーカイヴ(ひ)樋口一葉『一葉日記』

 2003年のアーカイヴ「おい老い笈の小文」再掲載を続けています。
~~~~~~~~~

at 2003 10/23 05:59 編集
春庭千日千冊 今日の一冊No.29(ひ)樋口一葉『一葉日記』

 春庭の初恋は、遠い思い出に霞んだままだけれど、樋口一葉が日記にとどめた「明治の恋」は、今も静かな情熱をきらめかせている。一葉日記は、ひとりの女性が文学に志したビルドゥングスロマンとしても秀逸だけれど、秘めた恋を書き残したことで輝きを増した。恋の相手半井桃水は「一葉は私の前にいるとき、はきはきと物もいわないふうで、恋だの愛だのという間柄ではなかった。あの人は恋することに恋していたのだろう」と、冷たい回顧談を残しているけれど、それじゃあ、夏子さんがかわいそう。片思いでも恋はこい。
 
 桃水への恋心と並んで、一葉日記に際だっているのは、歌塾萩の舎のライバル同士の火花。一葉日記の中に、萩の舎歌会の記述がある。歌の互選で一席を獲得したなつ子(のちの一葉)に、田邊龍子(花圃)が「ああ、にくらしい、新入りに一番をとられた」と悔しがった、というエピソードが書かれているのだ。

 田邊花圃は、萩の舎の姉弟子。一葉の小説が今も愛読されているのに比べて、現在、彼女の小説『藪の鶯』を読む人は、明治女性史女性文学研究をする人だけかもしれない。花圃の文学史上の価値は「花圃の小説の成功が一葉を刺激し、一葉に作家を志すきっかけを与えた」としてであろう。
 草場の蔭から、萩の舎の歌会のときのように「ああ、にくらしい、後輩に五千円札の顔をとられた」と、言っているかどうかわからないが。

 努力だけでもなし、運だけでもない。しかも、才能を神が采配してくれたかどうかは、墓に入った後50年もしないとはっきりとはわからない。死後50年、著作権も切れた後で、その人の作品に価値があるかどうか、後の世の人が決めるだろう。
 一葉忌ねたみ隠さぬ友とゐて  春庭腰折れ

at 2003 10/23 05:59 編集 友が皆、我よりえらく見える日は
  石川啄木
友が皆、我よりえらく見える日は花を買い来て妻としたしむ」『一握の砂』より。

 中高年になると、いそいそとクラス会に出席する人が多くなる。童心にかえって昔の遊び仲間とつるんでみたり、ほのかな恋心を感じた人に再会したり。クラス会の一番の楽しみは、昔好きだった人に会うことだ、という。ときめきが戻ってくるだろうか。

 クラス会の楽しみ、ほかにもいろいろ。学校時代はケムたかったライバルと、今は心おきなく話せるようになってうれしい、と言う人もいるし、かってのライバルから再び自慢話を聞かされるのがいやだから、クラス会など行きたくないと言う人も。
 私がクラス会に出席したのは、小、中、高を通じて1度だけ。数年前に、女子校2,3年持ち上がりクラスの同級生に会った。女子高校3年6組なので「みろく会」と命名されている。
 なつかしい顔、忘れていた顔の近況報告が続く。「教頭職、3年目になり頑張っています」「このたび、校長になりました」「教育委員会へ転出です」
 女子校の50人のクラスメート、半数近くが教職を選んだ。女性が結婚後も働き続けるには、教職を選ぶ以外の選択がむずかしい時代だったのだ。

 主婦になった人の近況報告。「パイロットの夫が早期退職をしたので、夫婦で海外旅行三昧です」「夫の会社が業績順調で、副社長の私も忙しくて」などなど。
 はい、はい、私の近況報告。息子は未熟児生まれで虚弱、娘は不登校。夫が自営する会社は借金まみれ、自分は万年「日雇取り仕事」
 しょうもない自分の人生であっても、けっしてイヤじゃないし、いとおしくさえ思うことがある。だが、「負けっ放し人生」にときどき倦み、アマデウスに嫉妬するサリエリの気持ちがわかる日もある。

 人は人、自分は自分と思ってはいる。だが、「ああいう人生がよかった」と、うらやましく思う人が現実に眼の前にいたら、、、
 私は、自分がそうなりたかった生き方を、すいすいと涼しい顔で実現してしまった同級生を持つ。彼女は、美女で才女。夫もハンサム。かわいい娘もすくすくと成長し、親の思い通りの進路を選ぶ。出版した本は高い評価を受け、大学教授の仕事も順調。
 対する私は、子育てに苦しみ、「家庭向きではない夫」に悩み、仕事はうまくいかず、収入は最底辺、、、花を買う金もなかった。「花を買い来て妻としたしめた啄木は、まだマシじゃわい」と、ぼやく日々。

 私の同級生ライバルは、「悪霊の町」の項で書いた、スター小間物店の娘レイコさんである。中学校の文芸部では、お互いの作品を誉めあったり、けなしあったり。高校の予餞会余興では、隣あって立ち、いっしょに歌い、おどった。
 いつもネクラで愛想のない私に比べて、彼女は商家の娘らしい華やかな愛嬌をふりまき、美人で頭がよかった。彼女が学生結婚したとき、もう一人のまもなく結婚する高校のクラスメートといっしょに結婚式に参列した。若く美しい花嫁だった。すぐに子供に恵まれたが、実家の家族や夫の協力を得て、大学院へ進んだ。
 彼女の出世作『樋口一葉』を読んだとき、半分は内容のすばらしさにうたれ、半分は「私もこういう本を書きたかったのに」という思いにうちのめされていた。

 ライバルが遙か先へ進んでゆくのを横目で見ながら、私は二人の子を抱え孤軍奮闘した。日本語教師をしながら、大学、大学院に通い、家事育児は一人で全部やった。
 年中「父さんは倒産しそう」と言っている夫が自営する会社は、仕事をすればするほど借金が増えていくのみ。日本語教師の仕事の合間、土曜日曜、夏休み冬休みには夫の仕事を手伝って走り回った。

 そんな毎日の中でクラスメートの初出版成功を知っても、ハガキ一枚、祝う余裕もなかった。
  『樋口一葉』が出版されたとき、私はようよう修士号を得たものの、子連れであることや年齢が高いことから、就職先などはなかった。
 修士論文執筆に専念するため日本語学校教師の仕事をやめたあと、再就職のあては何もなかった。紀要に発表した論文は高い評価を受け、「国語学界展望」に名前が載ったが、それだけだった。

 「単身赴任が条件の仕事ならあるけど」と言われたが、すぐには決心できなかった。夫からは「子供を残して行くなら、僕は世話できないから、児童施設に放り込むよ」と言われたからだ。実家にすがるしかなかった。
 「一度でいいから、転校ってしてみたい」と無邪気に「転校生」生活にあこがれる娘に「ねぇ、転校するチャンスがあるんだけど」と、おそるおそる切り出すところからスタートし、中国での単身赴任へと出発した。

 レイコさんに年賀状を書いたのは、それからさらに3年もたってからである。彼女の新著が、またまたすばらしい著作であったことに感激してのハガキだった。
 才能ある人をうらやんでいる才無き人に対して「うらやんでいないで、自分も追いつけるよう努力したらいいじゃない」という人もいる。努力で追いつけたら、うらやんでいない。

 一流の人は、どのような環境であっても、何ごとか成し遂げる人、例をあげるなら樋口一葉。貧困と病苦の中で、あれほどの小説、日記を書き残した。
 努力家だなあ、一生懸命がんばっているなあと、人が感心する人は一流半。田邊花圃は、一葉死後の思い出話を書くときさえ、一葉をライバル視した文を書いたが、ついにライバルには及ばなかった。
 五流にもなれない私の人生だが、吾流として生きていくことにしよう。
 あのね、ここのところは、ごりゅうとゴリュウというのが、その、、、せめて座布団一枚ください。アレレッ、それは最後の一枚、取り上げるなんてひどい、、、

 二流の人は一流の人のすごさがわかる人。どんなに努力しても、自分の才は足りないと自覚できる人は三流にはなれる。努力すればいつか自分も一流になれると無邪気に信じていられる人は、五流にもなれない。
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2010/02/08
 さて、吾流の私、今もとぼとぼと流れています。でも、ま、いいさ。1月からジャズダンスサークルの練習に復帰して、三段腹揺すっております。今年の新曲練習は、アンスクエアダンス(Unsquare Dance)という曲。ラジオ番組のオープニングやウイスキーのCMに使われたことのある曲なので、たぶん一度は耳にしたことがあると思います。ユーチューブで Dave Brubeckの演奏が聞けます。
http://www.youtube.com/watch?v=iFqoPfP1KHc
  演奏は一流ですし、ダンスの先生の振り付けのセンスのよさも一流ですが、HALのダンスは、、、、、手拍子係りになってがんばります。
~~~~~~~~~~~~
20230214
 2003年のぼやきとも2010年の愚痴ともまったく変わらず、いや高齢者になった分、状況はさらに悪化しています。つらい状況の中、「それでも生きていく」しかない。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「浜崎紘一『俺は日本兵』」

2023-02-12 00:00:01 | エッセイ、コラム
20230212
ぽかぽか春庭アーカイヴ(は)浜崎紘一「俺は日本兵」

 2003年のアーカイブ「おい老い笈の小文」を掲載しています。
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at 2003 10/22 09:07 編集
春庭千日千冊 今日の一冊No.28(は)浜崎紘一『俺は日本兵』
 1977年以前に読んだ本を思い出しながらの昔話、というコンセプトである「今日の一冊」だが、台湾国籍の元日本兵簡茂松を描いた『俺は日本兵』は2000年発行。でも、例外として登場。浜崎さんは、私の初恋の人だからである。
 初恋と言っても、おきまりの片思い。
 高校を卒業して地方公務員として働いていた私は18歳。浜崎さんは28歳。新進の新聞記者だった。カッコよかった。あこがれた。

 彼にお茶をいれるときは、特別心をこめた。誕生日は松の内。おしんこに味の素をかけるのがきらい。住んでいるアパートは「太陽荘」そんな情報を知るだけで、うれしくてたまらない乙女でした。
 むろん、浜崎さんは、そんなお茶くみ事務員がそこにいることさえ気づかずに、さっそうと飛び回っていた。後に、ロシア語学科卒を生かしてモスクワ支局長、外信部長と進んでいった。

 その後、テレビ深夜ニュース「明日の朝刊」のキャスターをしている浜崎さんを見た。すてきなすてきなシルバーグレイの髭と髪。かっこよかった。あこがれた。安心した。
 初恋の人が年をとったら見る影もなくなっていた、という話をよく聞くけれど、私の初恋片思いの人、浜崎紘一さんは、現在、山梨にある大学でジャーナリズムを教えている、ロマンスグレイのダンディな教授です。

at 2003 10/22 09:07 編集 初恋の人の本
 父は南の島の戦中生活をおとぎ話のように語って聞かせた。しかし、戦争の苦しみについて子供に決して話さなかった。人間不信になるほど極限のつらい体験をした父。話すこと自体が苦しみでできなかったのだろう。

 五木寛之は、敗戦を外地でむかえた。ロシア兵に母を殺されたときのことを語れるようになったのは、つい最近だという。50年もの間、思い出そうとすると、苦しくてつらくて、振り返ることができなかった。
 高齢者の中に、戦時中の苦しみを抱えたままの方もいるかもしれない。そんな心の中にしまった思い出を、聞き取りすくい取り、つらい思い出も共有できればいいのだけれど。

 日本国内だけでなく、戦争の苦しみを味わったのは、アジアの多くの民も同じ。留学生から「私の家族に、日本兵に殺された人がいる」という話を聞くこともある。「私の町には、死んだ日本人兵士を町の人が埋葬した共同墓地がある。だれもお参りにこないけれど、町の人は、大切に墓を掃除している」という話を聞かせてくれた留学生もいる。

 日本兵として塗炭の苦しみを味わったことは同じなのに、戦争が終わってみれば、「外国籍」の人として、何の国家補償も受けられず、つらい戦後を過ごした人もいる。
 戦争は絶対にイヤ。アフガニスタンでも、イラクでも、よりいっそうつらい思いをしているのは一般庶民だという。
 コスタリカと共に「戦争放棄憲法」を世界中に広めたい。
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2010/02/06
  浜崎紘一さんは、現在山梨県立大学国際コミュニケーション学科の学科長。2006~7年には山梨放送のYBSワイドニュースで金曜日の「今週を切る」というコーナーのコメンテーターをなさっていたそうで、ますますのご活躍をまぶしく見ています。

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20230212
 ウクライナの戦争、1年も続いています。「ロシア人が多く住んでいる地域をロシアに併合する」と言って侵略をはじめたロシアも、すぐに片付くだろうという目論見で始めたのではないかと思いますが、1年たっても終わりが見えません。さまざまな国際的な駆け引きがあって一気の解決がむずかしいことはわかりますが、この寒空に家を失った子供がどうしているか、トルコシリアの地震被害にあった子供たちの暮らしとともに案じられます。
 支援の手がとどくよう祈っています。かの地に春がくるように。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「畑中幸子『ニューギニア高地社会』」

2023-02-11 00:00:01 | エッセイ、コラム
20190211
ぽかぽか春庭アーカイヴ(は)畑中幸子『ニューギニア高地社会』

 2003年のアーカイヴ。{おい老い笈の小文」再録です。

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at 2003 10/21 06:58 編集
春庭千日千冊 今日の一冊No.27(は)畑中幸子『ニューギニア高地社会』初出は「われらチンブー」

 子供の頃、毎晩布団の中で、子守歌がわりに父の「南の島のおはなし」を聞いた。黒い顔の人たちが、椰子を拾ったり、魚をとったり。日本兵の背嚢の中味に興味を示すので、荷物の中からひとつひとつ取り出し、食べ物と交換していった。しまいには何も交換するものがなくなった。おとぎ話のように繰り返される南の島の話。

 真実を言えば、その島ニューアイルランド島で、父たちは「陸軍の捨て子」となって飢えていたのだった。食べ物がなく、カエルもヤモリも何でも食べた。敗戦の報は絶対うそだと思ったが、捕虜になって隣のニューブリテン島ラバウルに収容されたときは、むしろほっとした。
 父が捕虜生活を終えて帰還船に乗ったとき、残されたのは、弱った身体と「一つの食べ物をめぐって人が裏切り合う極限の生活」から得た「人間不信」だけだった。

 それでも生きて帰った父たちは幸運だった。ニューギニア戦線で、大半の兵士は死んだのだから。銃で死に、熱帯の病に臥し、そしてほとんどは飢えて死んだ。大岡昇平が『俘虜記』『野火』『レイテ島戦記』で描いたことがらは、ニューギニア戦線でもそのまま同じことが起きていたのだ。

 本多勝一『ニューギニア高地人』によって、多くの日本人がパプアニューギニアの人の生活を知った。父が出征したニューアイルランド島と、パプアニューギニア本島の山中の民族の暮らしは異なるものだが、私にとっては「ニューギニア」は、自分の住んでいる町の次に親しい地名だった。

 畑中幸子の『ニューギニア高地社会』も、「いつか、この土地へ行って、文化人類学者、民族文化研究家としてフィールドワークしたいなあ」というあこがれをつのらせた一冊だった。
 パプアニューギニアのシンシンなどの祭典、仮面舞踊を研究したかった。いろいろ資料を集めたが、パプアニューギニアに何のツテもなく、結局、従姉妹が海外青年協力隊員としてハイスクール理科教師をしているケニアに行くことになった。1979年のこと。

at 2003 10/21 06:58 編集 遙かなる楽園・南の島、そしてニューギニア戦記
 講談社インターナショナルの取締役、マグロウヒル出版の社長、という職をなげうって、フィリピンセブ島近くの小島カオハガンを島ごと全部買って移住した人がいる。崎山克彦がその人。うらやましい。

 沖縄に惹かれて住みついたり、いっとき住居を移したりする人もたくさんいる。作家では、琉球大学で2年間勉学を続けた澤地久枝を紹介したが、ほかに灰谷健次郎、立松和平、池澤夏樹。演劇界では宮本亜門も沖縄に家を建てた。これまたうらやましい。
 南の島が大好き。いつか、移住したい。三シンもならいたい。アウトリガーカヌーをこいで、珊瑚礁の海をぼんやり見ていたい。

 老後の過ごし方として、ハワイ、マレーシア、ニュージーランドなどで「年金で暮らすロングステイ海外生活」が脚光を浴びている。物価が安く、安全な土地で、異文化交流を楽しみながらロングステイをする。
 日本の高額な年金があるなら、海外では大きな家に住み、ときにはメイドを雇って生活できる。なんだかいいことづくめである。

 しかしながら、現実を見てみると、私には崎山さんが「1000万円の退職金を全部つぎ込んで島を買った」という、その退職金はないのである。非常勤講師がもらえるのは、日当だけ。ボーナスも退職金もない、日雇い仕事なのだ。
 年金で豊かな海外生活というけれど、年金も私にはないのだった。はかない夢を夢見るだけで、目の前の「日雇取り」仕事に励むのみ。

 子供の頃「ヒヨトリ」仕事をしている人は、月給取りの社員に比べて格が低いと言われ、「おまえのお父さんは月給取りでよかったねぇ。おまえもヒヨトリなんかになるな。ちゃんとした月給取りになれ」と、近所のオバサンに諭されたことがある。しかし、その「ヒヨトリ」とは、どんな仕事か分らないでいた。

 漢字で書けば、湯桶読み「日雇ヒヨウ」で、日銭を稼いで取る「日雇取り」であった。現在の、私の雇用形態、まさしく「日雇取り」である。契約は1年ごとに更改だが、支払いはヒトコマなんぼの日銭稼ぎ。
 さて、南の島もさらに遠い。
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2010/02/05
 未だに「日雇取り」を続けている春庭、2010年度は2コマ授業数が減り、ますますの窮乏生活です。2月4日は、ひょんなことから出講先の専任の教授たちの飲み会に「ミソッカス参加」して、専任のセンセーたちの愚痴嘆き大会をたっぷりうかがいました。教授同士の大げんかとか、悪口言い合いっことか、いやはや業界内部の足のひっぱりあいも大変だってことがよくわかりました。

 よくわかったけれど、隣の席にいた教授から「イヤー、非常勤のほうが気楽でいいよ」って言われたのにはちょっとね。古代ギリシャのポリス社会で、市民権持つ人が奴隷に向かって「いやあ、奴隷のほうが投票権とか政治参加とか面倒がなくて気楽でいいよ」と言うような。
  業界ヒエラルキー最底辺にいる者の痛さつらさをわかってもらおうとは思っていないけれど、それにしてもね。と、いつものネタミソネミヒガミヤッカミの立春の夜でした。帰り道、寒かった。山手線は原宿代々木間の人身事故で止まったし。 
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20230211
 東京に降った10日の雪。私の住まい周辺では、午後には雨に変わり、庭が白くなっていたのもごく短い時間でした。テレビニュースでは、青梅線や多摩モノレールの運航停止も伝えられ、八王子駅前の歩道橋からの降雪レポートが報道されていました。
 八王子夢美術館や富士美術館へ出向くとき、この歩道橋を歩き、エレベーターを降りてバス乗り場に行くので、「ああ、あの場所だ」と、かって歩いた時のことを思い浮かべながらニュースを見ていました。
 雪による被害というのが身に及ばない者のたわごとかもしれませんが、1年に1度くらいは雪で一面白くなった景色を見たいと思います。豪雪地帯や車の通行不能の被害に遭った方々には申し訳ないけれど。
 シリアトルコの地震被害もどんどん拡大していく報道が続いています。地震被害も戦災も、つらいニュースです。今のところ、何もできない自分がふがいないですが、災害救助のスペシャリストが日本から派遣されたというので、応援するほかありません。
 (祝日が土曜日に重なってしまい、ちょっと損した気分。)

<つづく>
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ぽかぽか春庭「野上八重子『秀吉と利休』」

2023-02-09 00:00:01 | エッセイ、コラム
20230207
ぽかぽか春庭アーカイヴ(の)野上八重子「秀吉と利休」

 2003年のアーカイブ「おい老い笈の小文」を掲載しています。
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at 2003 10/20 05:21 編集
春庭千日千冊 今日の一冊No.26(の)野上弥生子『秀吉と利休』


  最初に読んだとき、もっとも印象に残ったのは、権力と芸術の相克でもなく、茶の道を究めようとする利休の苦悩でもなかった。一番強く記憶に刻まれたのは、「聚楽第の秀吉の寝室」の描写であった。

 『彼ら(耶蘇会の神父たち)は権威者の歓心をえて布教をさかんにするため、驚き珍重する調度、器物、衣料から、薬品、菓子、酒のあらゆる食べ物飲み物まで、遠く海のかなたから取りよせて思い切った贈物をした。
  聚楽第の寝台も彼らの献上品である。彫刻と鍍金のおもおもしいマホガニ材のもので、竪七尺、横は五尺に及び、その幅にひとしい緋びろうどの長枕に、金糸、銀糸で竜紋を浮き織りにした紫緞子の布団が添っていた
。』

 寝台のほか、室内の調度、椅子やテーブル、テーブルの上のギヤマンの瓶に入った葡萄酒。その描写力。「文の芸」というのは、こういうことを言うのだろうと感じた。どんな歴史家が麗々しく秀吉の権力の強さを並べ立てるより、弥生子の描写は、秀吉の権力のあり方を読者に伝えることに成功している、と感じた。
 南蛮渡来の新御物をはじめとする各所からの到来宝物を並べ立て、金箔をきらめかせて田舎大名を威圧した桃山文化のあり方を生き生きと伝え、秀吉の力とはどのようなものであったかを、想像させた。

 「秀吉の権力」を考えるとき、頭の中に必ずこの、きらびやかで華やかでそして空疎な寝室が浮かぶのである。
 秀吉は女達のあしらい方がうまく、この寝台に朝までいることを許したのは正室おねだけであった、と弥生子は描写する。数多くの側室たちは、房事がすめば、自室に下がらねばならなかった。
 秀吉亡き後、彼が一代で築いた権力を瓦解させることにつながる茶々との睦言も、この寝台でかわされたのであろうか。

 野上弥生子は、「フンドーキン」という調味料会社社主令嬢として生まれ、何不自由なく成長。豊一郎と結婚後も、文学の研鑽を続けた。
 99歳で亡くなるまで現役の作家として書き続けた野上弥生子にとって、晩年とは何歳ころからを言えばいいのだろうか。弥生子にとって晩年とは、90歳過ぎのことであり、70歳ころは、恋に燃える「命の盛り」であったのかもしれない。

  弥生子の70歳代は、哲学者田辺元との恋愛で知られる。
こんな愛人同士といふものが、かつて日本に存在したであろかと手紙を交わし合う、作家野上弥生子と哲学者田辺元はともに70歳。両者とも70代ころの老いらくの恋は、1962年に77歳で田辺が亡くなるまで精神的なつながりを保って、愛は深く強く続いたのである。 

 田辺はハイデッガー研究者、「死の哲学」の構築をめざす。一方、野上は長編大作「迷路」を完成したころ。互いの日常生活を気遣い、思策と創作に強い影響を与え合った両者は、愛情によって繋がり、往復書簡300余通を交わした。
 晩年の田辺元との恋について、大部の日記に詳述されているというので、「老後の楽しみ読書リスト」にいれてある。

 むろん、私の「老後の楽しみ」は、ワイドショウゴシップや、人の日記をワイドショウ的に読むことだけではない。晩年の過ごし方を、野上弥生子に見習うべく、先達の日記は大切に読まねば。

 芸術と権力。権力者と芸術家「西行vs実朝&後鳥羽上皇」「世阿弥vs足利義満」などなど、歴史上、両者はときに和合協力し、ときに反発拮抗してきた。

 長く権力の座にあった者とその側近の関わり合いのうち、秀吉と利休の関係ほど、その破局が謎めいたままのものはないだろう。様々な憶測や歴史上の解釈を生み、結局、なぜ二人の仲が壊れたのかは、はっきりとは分らない。今東光『お吟さま』井上靖『本覚坊遺文』澤田ふじ子『利休啾々』など、この主題をめぐる作品もさまざまな角度から描かれている。野上弥生子『秀吉と利休』もそのひとつ。

 秀吉は、若い頃相思相愛で結婚したおね(北政所)との間には子がなせなかった。権力者となってから側室にした茶々(淀殿)との間にようやく秀頼がめぐまれると、関白から太閤へと引退したはずなのに、権力にしがみついた。関白職をゆずった甥ではなく、我が子に権力の座を継がせたかったからである。いったんは跡継ぎに決めた甥、秀次の一族郎党を容赦なく斬首した。朝鮮への無謀な出兵、利休への賜死、と悲劇が続く。

 秀吉の老いらくの恋は、歴史上では無惨な結果となった。
 老いらくの恋は、晩年を美しくもし、晩節を汚す結果ともなる。

 私は、野上弥生子を見習って「美しい晩年の恋」をめざしてがんばります。10/12に「晩年の恋に1票!」と言ってあるので、今回2票目です。晩年の恋にもう1票!
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2010/02/04
 「権力者の晩年」が描かれているドラマ、今年私が熱心に見ているのは浅田次郎原作の『蒼穹の昴』です。日中共同制作ドラマで、清朝末期の権力者西大后(慈禧太后)を演じているのは田中祐子です。主人公は若い状元(科挙試験一位合格者)の梁文秀(モデルのひとりは梁啓超)とその弟分の春児。文秀は清朝第11代皇帝光緒帝(西大后の妹の子)に仕え、改革派として働きます。春児は京劇役者修行をこなし、宦官として西大后の宮廷に仕えます。

 田中祐子のセリフの中国語は吹き替えですが、なかなか堂々とした大后ぶりで、権力者の孤独と苦悩をよく表現していると思います。これまで中国の映画で描かれていた西大后はやたらに権力乱用と残虐ぶりが強調されており、中国香港合作映画『西大后、続西大后』でも、史実とは異なる残虐ぶり(皇帝の寵愛を受けたライバルの手足を切る、など)を描いているのだそうです。権謀詐術渦巻く末期清朝で、外圧に耐えて国を維持しようとした政治家として西大后を史実に近く描くドラマを見るのは、中国人にとっても初めてなのではないかと思います。

 日中共同製作のドラマの作られ方に興味を持ち、2月2日にBS放送されたメイキングも見ました。浙江省横店というところにできた映画村(京都の太秦みたいな)に、紫禁城の実物大セットが組まれ、ロケが行われているということで、ドラマの中の紫禁城の壮麗な美術を見るだけでも『蒼穹の昴』全25回を見る価値ありです。
 私が紫禁城(北京故宮)を見学したのは1994年に中国へ赴任したときだけで、2007年2009年には行きませんでしたが、1994年以来中国史に興味を持ち、いろいろ学んできたので、次に故宮へ行ったら、前回とはまた違う見方ができるのかもしれません。

西大后が作らせた美術工芸品などのうち、円明園にあったうちのあらかたはイギリス軍の焼き討ちにあって略奪され、一部は大英博物館へ、一部はサンローランコレクションとして競売されるなど、散逸しました。西大后の墓は荒らされて空っぽ。故宮に残された宝物は蒋介石が軍艦に乗せて台湾へ運び出してしまいました。台湾へ行ったおり、台北故宮博物館で遺物を見ましたが、ガイドさんによると「ここに残っているのはほとんどレプリカで、本物は宋美麗がアメリカへ持っていってしまった」というのですが、さて今、西大后の集めた品々はどうなっているものやら。

 西大后がもっとも愛好した芸術は京劇でした。京劇の衣装や小道具類なども贅を尽くしたものであったでしょうが、日本の大名家に能衣装が伝来の宝物として残されたのとは異なり、辛亥革命、日中戦争、国共内戦、文化大革命と続いた嵐のなか、散逸してしまっていることでしょう。

 足利義満と世阿弥、豊臣秀吉と利休のような「権力と芸術」の相克のドラマが西大后と京劇の間には生まれなかったのか、生まれてもそれを伝える人がいなかったのか。西大后の通訳女官を務めた後、アメリカ人と結婚した女性による「西大后の宮廷生活」を伝える本は出されていますが、「西大后と京劇」というような研究もこれからの中国に出てくることを期待します。

 清朝最大の権力者にして中国史上「中国三大悪女」とされた西大后。田中祐子演じる西大后で『蒼穹の昴』を楽しみに見ていくことにしましょう。

 今日は立春。東京にも雪が降ったあとの寒気のなかの立春です。きのうの節分では、「節分福招き、いわしのかわりにチーズケーキ」というなんだかよくわからないメニューでしたが、娘が焼いたチーズケーキ、大好きなデザート、おいしかったです。恵方巻きの流行にはのりませんでした。
  年初のダイエット決意はどうなったかって?心にはとどめているのです。とどめながらのチーズケーキ。西大后のテーブルにのる満漢全席ほどじゃないからだいじょうぶ。

~~~~~~~~~
 20230209
 今日の東京。予報通り、朝の雨から雪に変わり、猫の額庭もうっすら雪化粧。久しぶりの雪です。
 今日予定されていた日本語学校の校外学習「マヨネーズ工場見学」も交通の混乱を考え、中止が決定されました。学生も職員も「臨時休校」。
 せっかくの平日の休みなのに、なにもしないでぐうたらしているうちに、午後には雪はとけてしまいました。 

 <つづく>
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ぽかぽか春庭「西江雅之『花のある遠景』」

2023-02-07 00:00:01 | エッセイ、コラム
20230207
ぽかぽか春庭アーカイヴ(に)西江雅之『花のある遠景』

 2003年の春庭コラム「おい老い笈の小文」再録です。
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at 2003 10/19 06:58 編集
春庭千日千冊 今日の一冊No.24(に)西江雅之『花のある遠景』
 私が夫とケニアを歩き回っていた1979年、同じころにナイロビを歩き回っていた人が西江雅之。
 このときはすれ違いばかりで会うことがなかったのだが、私が「子持ち勤労学生」として二度目の大学生活を送ったとき、学部と大学院で西江先生に言語学を教わることができた。大好きな西江先生。著作はもちろん全部読みました。

 『花のある遠景』、初出は1975年。ナイロビの下町の女たち男たちを、生き生きと描いている。
 『ことばを追って』『異郷の景色』『旅人からの便り』『風まかせ』など、先生は風にまかせて世界中神出鬼没。七つの海をかけめぐるパイレーツさながらである。
 ことばの達人西江雅之は、今日もきっと世界中を駆けめぐっているだろう。

 夫が「偽学生」または「子持ち勤労学生のつきそい」として、いっしょに西江先生の授業を聞きに行っていたころのある日、西江雅之編纂「スワヒリ語辞典」を学校に持っていって、「先生、ご署名をいただきたいのですが」と、お願いしたことがあった。

 先生、ほかの著書にはごきげんでサインしてくれたのに、『スワヒリ語辞典』にサインしながら渋い顔。「これね、海賊版が出回っていて、このあんたの辞書も海賊版だから、こちらには印税一銭も入ってこないの!」
 カリブ海の小島でクレオール言語の研究をした西江先生、カリビアンパイレーツも海賊出版もお嫌いであった。

at 2003 10/19 06:58 編集 ナイロビ--東アフリカの裏町
 毎度若者に「また、あのときの話かよ」と、飽き飽きされても、中高年は青春時代を振り返り、思い出話にふけりたい。
 若者よ!寛恕として「思い出話」を聞きなさい。君たちもいずれは中高年。

 鴎外にとってのドイツ、稲造にとってのアメリカが「青春の地」だったとすると、私の青春の地は、ケニアである。
 1979年7月末の夜、ナイロビに到着。翌朝、まず両替をしようと町に出たら、たちまち迷子になってしまった。そのとき道案内をしてくれた日本人を「親切な人」と勘違いして、2年後に結婚することになった。

 しかし、「外国で親切な人が、家庭でも親切であるとは限らない」ということは、すぐに判明した。
 「ナイロビで迷子になって愛を拾った。今では愛が迷子になってる」という、娘が私のために作ったキャッチコピーを、学生に披露すると大受けだった。
 教師のいいところは、毎年学生が変わるので、同じ思い出話を毎年繰り返しても大丈夫なところ。たまに、同じ話を同じクラスで繰り返して顰蹙を買うこともあるけれど。
 毎年変わる学生に、毎年おなじ自己紹介「ナイロビで迷子になって、、、」を繰り返している。

 ナイロビの下町を、国境の町ナマンガを、海岸の町モンバサを、 後に夫となる人と(その時はそうなるとは思わず)共に歩き回った。サバンナの地平線に沈む夕日を黙って二人で眺めていた時間は、現在「愛が迷子」の状態であるにせよ、私には貴重な思い出だ。
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2010/02/02 
西江先生の公式HP http://gama84ki.hp.infoseek.co.jp/
 大学を定年退職なさったあとも、飄々と風任せにあちこち出没しているらしい西江先生、以前、本屋でばったり出会ったこともあったのだけれど。どこかでバッタリ出会うのを楽しみにしています。

 今朝の東京は久しぶりの雪景色。昨日の昼から降り出した雨がみぞれにやがて雪にかわり、昨晩仕事から帰宅する時は、ぼたぼたと大きな牡丹雪の中でした。道路の上の雪は、雨の上に降ったのでつもっていませんが、芝生の上などには積もって朝も残っていたので、南の国から来た留学生達は白い世界に大喜びしていることでしょう。
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2010/02/02
春庭千日千冊 今日の一冊No.25 (ぬ)沼正三『家畜人ヤプー』
  未だに沼の正体がだれであったか、論争が続いている。沼の代理人として表に出ていた新潮社の校閲部所属の天野哲夫が「私が正真正銘の沼」と名乗り出ても、否定説も根強く、江戸の浮世絵師東洲齋写楽と並んで、今後も「本当はこの人」という説が続いていくことだろう。
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20190205
 西江雅之先生、2015年に亡くなりました。77歳。
 ほんとうにユニークで自由人の先生。よく授業中にお話に出てきた息子さんアレンさんは、チェコのサッカーチームでご活躍だそうです。西江先生も高校生のころ体操競技で優勝なさった方ですから、運動神経を息子さんに残されたのですね。膨大な書籍も残されて、それは明治大学の図書館がまとめて引き取ったとか。

 「親切な日本人だと、ナイロビで勘違いして結婚してしまった人」は、昨年骨折して入院2ヶ月後も、仕事の行きかえりにはタクシー利用、という生活を送っていましたが、ようよう足も元に戻ったようで、相変わらずの「トーさんは倒産しそう」の暮らしを続けています。
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20230207
ナイロビでは親切だったけど、結婚ごはそうではなかった日本人。タカ氏は週3回の腎臓透析を受ける身となり、今の目標は、透析患者の平均余命を超える長生き。食事療法守っています。
私も持病とともに細々と生きてきましたが、最近心折れるできごとが続き、打たれ弱さを実感しています。年中弱いけれど、弱さ抱えて生きていくのが、私。2月末の母の命日までに元気とりもとしたくはあるけれど。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「夏目漱石『それから』」

2023-02-05 00:00:01 | エッセイ、コラム
20230204
ぽかぽか春庭アーカイヴ(な)夏目漱石

 2003年春庭「おい老い笈の小文」再録です。
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at 2003 10/18 09:48 編集
春庭千日千冊 今日の一冊No.23(な)夏目漱石『それから』
 「それから」のラストシーン。三千代を失い、兄から勘当された代助は、「焦げる焦げる」と歩きながら口の中で云った。
 「焦げる、焦げる」のセリフだけが印象に残り、東京のどこ、というトポスはまったく覚えてなかった。

 「代助は自分の頭が焼けつきるまで電車に乗って行こうと決心した」という場面の、電車に乗り込む駅が「飯田橋」であったことに、今日気がついた。
 私は週に3回飯田橋駅で、焦げもせず、東西線南北線有楽町線を乗り換えている。代助の頭の上から真直に射下ろし、「焦げる焦げる」と言わしめたた太陽が、私の頭を焦がすことはない。地下鉄ですから。

at 2003 10/18 09:48 編集 老後は留学生に!
 10月15日は、新渡戸稲造の忌日であった。新五千円札の樋口一葉忌日11月23日一葉忌や、現千円札漱石の忌日12月9日漱石忌は歳時記にのっているが、新渡戸忌とか、稲造忌が季語として使われた句があるだろうか。新渡戸はアメリカのジョンホプキンス大学に留学、メリー・P・エルキントン嬢(後の萬里子夫人)と結婚、逝去の地もカナダのビクトリアと、外国関係が多いから季語にするとバタ臭いイメージの句が作れるかも。

 明治の留学生は、エリート中のエリートであったが、外国へのなじみ方は、人それぞれ。
 夫人を外国で得た新渡戸、ドイツで恋愛したけど、出世にじゃまな恋人は捨ててきた鴎外(エリスのモデルになった女性が、鴎外を追って日本までやってきたが、追い払った)。
 一方、漱石は留学先のロンドンで神経衰弱気味になり、下宿に引きこもっていた。
 新千円札の野口英世夫人もアメリカ人。新渡戸稲造や野口英世に比べて漱石が外国になじめなかったのは、鏡子夫人に頭が上がらなかったという「国産夫人中心主義」だったから?

 「歴史の語り部」澤地久枝の項で、澤地が67歳でアメリカの大学に留学した話を紹介した。
 留学するなど、一部の選ばれた人にしか許されなかった中高年世代。退職後の過ごし方として、「海外留学」という、若い頃にあこがれだった夢を実現する人も多い。
 澤地の母校、早稲田大学のエクステンションセンターにも、海外留学をめざす中高年のための英語教室がある。
 難しい英語論文はどんどん読めたけれど、会話が通じなくて困ったという漱石の時代とは違い、今は中高年も気軽に「Let's study in foreign !」海外留学してみませんか?
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2010/02/01
 「年金暮らしをより豊かに」という暮らし方のひとつの方法として、海外ロングステイという方法があります。日本の年金を受けて、海外の物価が安い地域で暮らす、というもの。日本人年金生活者を歓迎してくれる町も海外に増えているとか。
 ずっと暮らすには躊躇があるという方にも、1年か2年の留学という方法なら、いいんじゃないかしら。

  たとえば、英語語学留学にしても、イギリス、アメリカ、カナダという定番ではなく、地中海の島、マルタ島、アフリカのケニアなど、英語で生活できる国の大学はおすすめです。
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20230205
 年金では暮らしていけず、働き続けてきましたが、限界がきています。體は元気だけれど。やる気が、、、、。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「中上健次『岬』」

2023-02-04 00:00:01 | エッセイ、コラム
20230204
ぽかぽか春庭アーカイブ(な)中上健次「岬」
 
 2003年のアーカイブより、あいうえお順に作者をひとりとりあげ、それにまつわるよしなしごとを書くことからブログをはじめました。(あ)~(と)までは 2018年10月11月に再掲載しています。
 2003年の春庭コラム「おい老い笈の小文」の再録、今回は(な)~(わ)まで つづけていきます。
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at 2003 10/17 06:51 編集
春庭千日千冊 今日の一冊No.22(な)中上健次『岬』
 1975年に中上健次が76年に村上龍が芥川賞を受賞して「文壇も戦後生まれの時代」と言われるようになった。
 村上龍『限りなく透明に近いブルー』を一度読んだあとは、「あ、これ私、ダメ、合いそうもない」と、ギブアップ。再び、村上龍を読む気になったのは、『トパーズ』以後である。

 私よりは年長だが、中上こそが「我らの時代の文学」の騎手だった。『十九歳の地図』『枯木灘』『日輪の翼』路地と秋幸をめぐる物語もそのほかの話も「同時代」を感じながら読めた。
 好きな作品は「中上の作品中、一番の駄作と言われたり、「単なるフツーの恋愛小説」と評されているらしい、『軽蔑』。新聞連載小説だから、中上が気軽に書いたのかも知れず、中上コアファンにはイマイチの評価だったみたい。つまり、『軽蔑』が好きという私は、まだ中上作品の本当のすごさがわかっていないのだろう。
 中上紀の『彼女のプレンカ』が世に出れば「中上の娘だもの」と、律儀に読んでしまう、ただのミーハーファンです。

at 2003 10/17 06:51 編集 ルーツ
 先日のハリケーン「イザベル」関連のニュース写真(2003/09/20付夕)に「洪水に流されるクンタキンテの像」というのがあった。クンタキンテは、アレックス・ヘイリー『ルーツ』の主人公。アメリカ黒人である自分のルーツをアフリカまで遡のぼってたどり、記述した本。

 私のまわりにも、年をとると、にわかに自分の先祖さがしを始める人がいて、家系図などをとくとくと見せてくれたりする。
 「どの家も家系図をたどると、だいたい源氏か平氏か藤原の末流という人が多く、日本人の大半は結局のところ、我が家のルーツは天皇家から分かれているって言うんですよ」と留学生に紹介したことがある。

 個人のアイデンティティにとって、自分が何者で、どこでだれから生まれたのか知ることが大きな意味を持つことは、私が知り合った「中国残留孤児」の方々の話からもわかる。
 我が父祖がだれであり、遠い祖先がどこから来たのか、知らなくても生きていける事ながら、知って確認することで自分の来し方行く末を考えるきっかけになることもあるのだ。

 実は、私も父が亡くなる年の夏に、妹と「先祖の出身地」へ行き、父のかわりに先祖菩提寺で住職の話などを聞いてきた。
 父を育てた父の祖母(私の曾祖母)は、田舎の素封家の家付き娘であった。お乳母日傘で育ちながら、入り婿の放蕩などが重なったあげく、破産して夜逃げをした。
 自分が一人子供を背負い、女中にもうひとりを背負わせての夜逃げであったという。

 「どこまでもお供します」と言ってくれる女中がいなかったら、山越えの夜逃げをする勇気はでなかった、と曾祖母(私が12歳になるまで生きていた)の述懐。
 そんな「夜逃げをして出てきた父祖の地」を訪れたのだ。寺には過去帳が残っていた。役場の人は、一家の現在の戸籍簿を持ってくれば、先祖の分の戸籍をコピーして渡しますよ、と教えてくれた。

 でも、家系図を作るほどの家でもない。破産したあと、祖父は頼る者もない土地で、鳶職になって生きた。流れ着いた土地に根を下ろし、頭として町中の信頼を受ける人になった。子供の頃、鳶の頭として祭りの山車を指揮する祖父が好きだった。父は「鉄鋼労連」。
 労働するより他に財産はない家柄である。ただ、こうやって、先祖代々までたどることができるのだとわかっただけで、よかった。どこの馬の骨であろうと、けっこうなのだ。

 しかしながら、私が「家系などどうでもよい。人間は個人として、現在の自分に何ができ何ができないか、だけ」と言えるのは、自分の家が「どこの馬の骨やら」ながら、馬の骨をたどれるからかも知れない。

 下から読んでもマサコサマの家系図が新聞に載ったとき、同和の人たちが「反対声明」を発表した。このように「由緒正しい家柄である」ということを麗々しく発表するのは「由緒正しくない人々」への圧迫であると。
 それを聞いて、現実に差別を受けている人にとっては、家系図の話もつらいことなのだろうと思った。
 また、同時に、そこに生まれたことを誇りに思えばいいのではないか、とも思ってしまった。出自による差別の痛みを負ったことのない人間の、傲慢な感想かもしれないが、私は、中上健次の「賤と聖との反転による光輝」を好む。

 ちなみに、夫の写真を見せた友人に「そういえば、あなた、中上ファンだったものね」と納得顔で言われたことがある。
 いえいえ、中上に似ているだなんて、そんな大それたこと!正確には「中上健次と北京原人を足して2で割ったような」です!!
 うちのルーツは、北京原人じゃないかしら。もしかして直系?
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2010/01/31
 北京原人直系の夫、本日、誕生日。
  仕事をすればするほど借金だけが増えてきた「趣味の会社経営」ですが、今のところ、借りてきた負債の「利子過払い訴訟」に燃えているらしく、裁判を起こして過払い分を取り戻すと、張り切っています。う~ん、過払い分は取り戻せたとしても、負債はつもりにつもっていて、今年も私は老骨むち打って働かなければなりません。
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20230202
 中上は、1992年に46歳の「執筆最盛期」に46歳で他界しました。惜しいです。

 中上より5歳若い夫は71歳になり、毎週3回の腎臓透析を受ける「身体障碍者手帳1級」を携帯する身となりました。
 私も寒風のなかでなんとか生き抜いていますが、心かじかむことの多い毎日です。

<つづく>
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