春庭Annex カフェらパンセソバージュ~~~~~~~~~春庭の日常茶飯事典

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ぽかぽか春庭「2020年8月目次」

2020-08-30 00:00:01 | エッセイ、コラム


20200830
ぽかぽか春庭2020年8月目次


2020-08-01 00:00:01 | エッセイ、コラム


0801 春庭にっぽにあニッポン語教師日誌>2020教室だより(1)七夕の教室
0802 2020教室だより(2)作文教室-竹のように伸びてゆけ

0804 春庭にっぽにあニッポン語教師日誌>留学生たちの挑戦(1)桜さかそうー大学院入試への挑戦
0806 留学生たちの挑戦(2)不合格にめげず
0808 留学生たちの挑戦(3)夢に向かって

0809 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2020二十重日記ピース(1)黒い雨訴訟勝訴

0811 ぽかぽか春庭ことばのやちまた>8月15日の確認

0813 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2020二十重日記夏GoTo(1)Go! go to つま恋
0816 2020二十重日記夏Go to(2)グランドホテルロイヤルスイートルームと掛川城
0818 2020二十重日記夏Go to(3)竹の丸旧松本家住宅で
0820 2020二十重日記夏Go to(4)お弁当詰め合わせ

0822 ぽかぽか春庭アート散歩>2020アート散歩夏(1)掛川二の丸御殿・竹の丸旧松本家住宅
0827 2020アート散歩夏(2)掛川ステンドグラス美術館
0828 2020アート散歩夏(3)二の丸美術館と掛川報国社
0827 2020アート散歩夏(4)美術館で過ごす時間 in 資生堂アートハウス

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ぽかぽか春庭「美術館で過ごす時間 in 資生堂アートハウス」

2020-08-29 00:00:01 | エッセイ、コラム

 資生堂アートハウス

20200827
ぽかぽか春庭アート散歩>2020アート散歩夏(3)美術館で過ごす時間 in 資生堂アートハウス

 資生堂アートハウスは、1978年(昭和53)に開設されました
 建物は、高宮真介、谷口吉生両氏の設計によるもので、1980年(昭和55)に「日本建築学会賞」を受賞。
 今回の展示は、「夏の館蔵品展ー美術館で過ごす時間」展。
 資生堂が主催した「現代工藝展」(1975-1995)の出品作、、資生堂主催「椿会」(1974-1990)の絵画作品の出品を中心として展示しています。

 夏の館蔵品展 ガラス工芸、竹工芸、油彩
 開催期間:2020年7月21日(火)— 9月22日(火・祝)
 (秋の展示では漆工芸と陶芸)

 ガラス展示コーナー


 絵画展示コーナー
3
 梅原龍三郎(1888-1966)「薔薇 明嘉靖壺」


 企画展。「ガラス工芸と竹工芸」
 竹工芸の人間国宝飯塚小玕齋の作品、近代美術館工芸館などで何点か見てきました。今回の資生堂アートハウス所蔵の小玕齋の作品、ずらりと並んでいたので、圧巻でした。細かい竹の編み目がとても美しく、温かみのある形、竹でこのような「美」が生み出せるんだ、という感激。

「氷裂編沓形白錆花籃」(1980年)


「九葉桝形文八角盆」(1976年)


「束編白花籠 八窓」(1975)


岩田久利「硝子大鉢 牡丹」1982年


岩田久利「瑠璃乳紋高杯」1977年


 常設展示コーナーの舟越桂(1951~)「唐突な山 1975」

 
 入り口から見えるのは「後脚で立つ馬」ペリクレ・ファッツィーニ:1972年




 ガラス工芸を中心に工芸作品が好きな娘も「私はやっぱり絵を見ているより工芸品を見ているほうが好きだな」と、堪能できたようすで、資生堂アートハウスまでかなり歩いてちょっと疲れた気持も収まったようなのでよかったよかった。

 このような時代に、消毒薬やワクチンではない「芸術」がなんの役に立つのか、と思った人もいたかもしれません。しかし、やはり音楽や美術、芸術は人の心を豊かにし、免疫力UPはまちがいなし。薬でウイルスを抑え込むことも必要ですが、このような心豊かにすごす時間も人を治癒すると感じた夏でした。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「二の丸美術館と掛川報国社」

2020-08-27 00:00:01 | エッセイ、コラム


20200827
ぽかぽか春庭アート散歩>2020アート散歩夏(3)二の丸美術館と掛川報国社

 ステンドグラス美術館を見た後、二の丸美術館を見学。よくある郷土資料館と思って入館したのですが、なかなか充実した展示でした。

 二の丸美術館正面


 掛川市にゆかりの文物、江戸期の城主に関わる文書や絵画、着物などが展示されていました。


 二の丸美術館の展示を見終わって、娘はもう一度ステンドグラス美術館へ。光の具合が変わるとステンドグラスの輝き方がどう異なるか、見たいのだと言います。私は、6時の閉館間際に
娘を迎えに行くことにして、ステンドグラス美術館の向かい側にある報国社の社域を歩くことにしました。

 報国社は、二宮尊徳の思想を伝えるための団体です。尊徳は、幕末から明治初期の労農(農業の新しい方法の普及に努めた指導者)の一人です。山縣有朋を中心とした明治の為政者は、国民国家を作り上げるために二宮尊徳の思想を「報国思想」として利用しました。いかに国のために働く国民を作るか、のために利用されたのです。全国の小学校に薪を背負って歩きながら本を読む二宮金次郎の像がおかれ、子どもたちは「♬てほんは、にのみやきんじろー」と歌って勤勉努力を奨励されました。

 戦後は一貫して報国思想は否定されてきたので、校庭の金次郎像も撤去され、報国社も別の目的のために使われたり壊されたりしました。しかし、掛川市の報国社は篤志家が社域全体を残し、今日まで明治時代の建物、昭和前期の図書館などが残されています。

 正門

 講堂

 講堂内部

 図書館




 寮?

 
 娘が報国社の見学をしなかった理由。報国社のHPを見て、「あ、こういうの苦手」とパス宣言。ひとつの考え方に統一され、皆が同じ考え方をすることが苦手なのです。
 戦前は報国思想一辺倒だったかも知れませんが、今は「国に尽くすことが正義」という考えに固まっている人は一部だからと思うのですが、娘と夫は、「ひとりの指導者に心酔し、盲目的にひとつの考えに従う集団がこわい」、という感じ方をしています。夫は大の宗教嫌いで神社で柏手うつのもパス。娘は柏手くらいうつし、神仏に願い事もしますけれど、思想がとういつされることにはかなり抵抗感を持っている。

 私はすべての神仏は私を守るために存在する、という汎神論。報国思想も、そうしたい人が信じればいい、という考え方。多様性を標榜するなら、自分とは合わない考え方の人が寄り集まることも認めなければ、と思っています。多様性が自然を守り、多様性が人類を守る。

 報国社の建物。図書館が廃墟っぽくなっていて、ミステリーの舞台に使ったら面白そうと感じました。金田一耕助やポアロなんかが出てきて、解決してくれるってストーリー。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「掛川ステンドグラス美術館」

2020-08-25 00:00:01 | エッセイ、コラム

 ステンドグラス美術館展示室

20200827
ぽかぽか春庭アート散歩>2020アート散歩夏(2)掛川ステンドグラス美術館

 娘の好きなガラス工芸。掛川にはステンドグラス美術館がある、というのも掛川旅行のもくてきのひとつでした。

 ステンドグラス美術館外観


 ステンドグラス美術館の説明。
 掛川市ステンドグラス美術館は掛川市在住・鈴木政昭氏からの19世紀イギリス、ヴィクトリア時代のステンドグラスなど約70点余り及び美術館建物の寄贈を受け平成27年6月6日、開館します。この美術館はステンドグラス約70点余りを常時公開し、入館される方々にお楽しみいただけます。
 19世紀イギリスのヴィクトリア朝時代の作品約70点と、フランスのバラ窓10点。
 19世紀イギリスを代表するクレイトン&ベル工房、チャールズ・ケンプ工房、ヒートン・バトラー&バイン工房などの名作が多く含まれています。さらにフランスのロワール地方で活躍していたロバン工房の「マリアの生涯」を描いた連作。


 娘は、午前と午後では光の具合が異なる、ということなので、二の丸美術館を見る前と見たあとの、2度訪れました。撮影自由もうれしい。

左:聖フィリポ(1908クレイトン&ベル工房)
中:聖マタイ(1880~90ごろクレイトン&ベル工房)
右:カンタベリーの聖アウグスティヌス(1908クレイトン&ベル工房)


左:聖女マグダラのマリア(1900~25 ジェームズ・パウエル&サンズ工房)
右:ヨブの苦痛と忍耐(1855~65 ジョン・ハードマン&Co.)
  
左:受胎告知大天使ガブリエル(1900頃シュリグリーン&ハント工房)
右:受胎告知聖母マリア(同)


 丸窓「聖母マリアの生涯」(19世紀末トゥールの路盤工房)


 ヨーロッパの教会や貴族館を彩ってきたステンドグラス。それを収集し、掛川市に寄贈した市内在住のコレクター鈴木政昭さんに感謝しつつ、美しいステンドグラスの光を楽しみました。
 娘は、「時間によって光の具合が違うから」と、一度見てから二の丸美術館を見て、夕方もう一度ステンドグラス美術館に入館。もうだれもいなくなった管内で、ひとりゆっくり見ることができて大満足でした。


<つづく>
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ぽかぽか春庭「二の丸御殿と竹の丸松本家住宅」

2020-08-22 00:00:00 | エッセイ、コラム
20200822
ぽかぽか春庭アート散歩>2020アート散歩夏(1)掛川二の丸御殿、竹の丸旧松本家住宅

 掛川の誇る建築物。再建された木造天守閣の掛川城のほかも重要な建物があります。二の丸御殿です。
 明治以後、各地の城郭内御殿建築の多くは残されていません。
 現存する城郭御殿としては、京都府の二条城や高知県の高知城、埼玉県の川越城など、全国でも数箇所しか残されていません。高知城と川越城には本丸御殿、掛川城と二条城に二の丸御殿が残されています。天守閣が見張り台防御の要また城下町のシンボルとして存在したのに対して、御殿は城主夫妻の日常生活の場と政務の建物でした。

 掛川城二の丸御殿は、藩主公邸と執務部屋として使用されました。謁見や執務室、目付・奉行などの役職の部屋など、様々な用途に用いられた二の丸御殿、重要文化財です。
 現存の御殿は、1855(安政2)年から1861(文久元)年にかけて城主太田資功によって再建されました。1854(嘉永7)年に発生した大地震で旧掛川城が倒壊した後の再建です。復元された城郭や藩主御殿は各地にありますが、江戸時代の建物が残されているのは貴重です。

 掛川城天守閣から見た二の丸御殿


 二の丸御殿は維新後、徳川家兵学校と勤番所に転用、さらに明治の廃藩置県後に小学校、女学校、掛川町役場、掛川市庁舎、農協、消防署などに転用され、残されてきました。1972年(昭和47)年)から1975(昭和50)年に修復工事が行われ、1980年に重要文化財指定を受けました。

 二の丸御殿の座敷

 二の丸御殿の廊下


 二の丸御殿から天守閣を見る。雨のため、お城がぼうっと見えます。


 私は、近代洋館見学が好きですが、近代和館も見て歩いています。明治の建築は、接客用の洋館と家族の生活用和館がセットて建てられることが多かった。都内に残されている前田侯爵家住宅や三菱の岩崎家住宅もそうです。洋館見学をして回っていると、ついでに和館も見学するので、和館の建築用語などにも少しずつ詳しくなりました。

 掛川市の「竹の丸松本住宅」は、明治から大正にかけて建てられた和館です。
 掛川市の説明
 掛川市竹の丸は、江戸時代より続く葛布問屋「松屋」を営んでいた松本家が明治36年に本宅として建築しました。
 離れ2階は大正9年頃増築され和洋折衷のつくりとなっています。
 近代和風建築の美しさと、松本家の建築に対するこだわり、それに応える職人の技術の高さをご覧いただけます。


 旧松本家玄関


旧松本家住宅 間取り図 母屋1階


 離れ 1階2階


 旧松本家住宅の室内。


 掛川の名産品、葛布の織機の展示


 明治時代に建てられた母屋ですが、2階は大正時代の増築。2階に新しい気分を与えたかったのか、ベランダの柵はちょっと大正モダンな雰囲気。ベランダ越しに母屋を見る。


<つづく>
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ぽかぽか春庭「お弁当詰め合わせ」

2020-08-20 00:00:01 | エッセイ、コラム
2020820
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2020二十重日記Goto(4)お弁当詰め合わせ

 ロイヤルスイートルームの朝ご飯は、ルームサービスで和御膳と洋食ひとつずつ。
 娘の洋朝食

 私の和朝食
 

 朝からおいしい顔


 グランドホテル「ロイヤルスイートルーム宿泊一日一組限定プライベート安心空間プラン」の最後のイベントは、チェックアウトしたあとに食べる「お持ち帰りお弁当詰め合わせ体験」です。
 
 できあがっているお弁当のおかずを「個性豊かに詰め合わせる」というイベント。ホテルの料理長が指導してくれ、まず、料理長の見本を見てから、自由に詰めていく。

 お弁当素材は、和洋中華とりどりのおかずとご飯。私はまず、玉蜀黍ご飯を一口おにぎりにして4個詰めました。


 それぞれの好みで詰めていく。


完成間近。この日のTシャツは、ユニクロ特売ディズニーキャラTシャツ780円。私にしてみれば昨日の300円Tシャツよりマシな衣装。


 春庭左、娘右。お弁当、「どちらもおいしそう」とのお褒めのことば。ま。自分で食べるんだから、どう詰め合わせてもおいしく食べます。


 私の作ったのが特によく出来たというわけではなくて、親子でつくれば老母に賞が贈られることになっていたのだと思いますが、料理長さんが「お弁当よく出来たで賞」をプレゼントしてくれました。(料理長さん顔出しOKありがとう)




 賞目録の中身は、グループホテルチェーンの中から選んで、2人で2泊できる宿泊券でした。わーい、ホテルに泊まってさらにホテル宿泊券もらえて、おとくな「プライベート安心空間プラン」です。

 掛川城公園を散歩してから、北の丸旧松本家住宅の客室に運ばれていたお弁当、昨晩と同じ旧松本家住宅客室でお弁当をのんびりいただきました。



 テーブルには前日作ったプリザーブドフラワーが飾られていて、庭を眺めながら、自分で詰めたお弁当をいただいたのは、格別な味。


 お庭の緑もきれいでした。


 掛川城公園から見上げる掛川城もすてき。


<つづく>
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ぽかぽか春庭「竹の丸旧松本家住宅で」

2020-08-18 00:00:01 | エッセイ、コラム
20200818
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2020二十重日記夏GoTo(3)竹の丸旧松本家住宅で

 豊臣秀吉によって掛川城主に任命された山内一豊は、それまでの掛川城に郭(くるわ)を付け加え、城を拡張しました。この時に竹の丸も造成されたと考えられます。
 竹の丸は、天守閣や本丸など城の中心部に通じる道筋にあたり、防衛上重要な場所であったことから、家老など重臣の屋敷地に割り当てられていました。
 掛川城公園で、現在の「竹の丸」には、市内の近代和館「松本家住宅」が移築されています。 

 この竹の丸松本家住宅で、一日一組のみ予約を受け付け、懐石御膳を食べるというのが、ロイヤルスイートルームのイベントです。建物見学は私の好み、おいしいもの食べ歩きは娘の趣味です。

 4時の予約で松本家住宅に到着。


 娘は「グランドホテルロイヤルスイートルーム一日一組限定安心空間プラン」というイベント、他の客と離れて一組の客だけでイベントを楽しむプランです。密にはならぬが、わが家のような「かつかつその日暮らし」の家計向けではない。消費拡大経済再生のためと配られた一人分を、娘は一晩の宿泊につぎこみました。政府の言うことをすなおに聞いたよい国民です。

 イベントには「フラワーアレンジメント」「茶道」「懐石料理作り」などがあり、4つの中からフラワーアレンジメントを選択。

 「花はプリザーブドフラワーだというから、おみやげにして家に持って帰れる」という理由でのイベント選択です。 「母、そのTシャツは、どう見てもロイヤルスイートに泊まるようには見えない」と娘。たしかに、去年の夏の終わりに300円で買ったTシャツです。だぶだぶにして着られるので、お気に入りなんです。

 二の丸御殿見学中ずっと雷雨が続きましたが、松本家に着くころには雨も小止みに。
 雨の中、大急ぎで歩いての移動で汗びっしょりになった娘を見て、冷たいおしぼりと冷抹茶のサービスで出迎えてもらいました。
 旧松本家住宅はグランドホテルの経営なので、ロイヤルスイートルーム宿泊に附属したイベント客に、細かい心遣いの「おもてなし」です。
 冷抹茶、氷の入った抹茶をはじめて飲みました。お菓子もおいしかった。
 

 フラワーアレンジメントは、グランドホテルから派遣された先生が教えてくれました。ㇷ゚リザーブドフラワーは、生花に保存の加工がしてあり、数年は色を保っているという花です。
 花に針金をさして土台の「オアシス」に刺していきました。

 フラワーアレンジメント制作中


 「ここはメインのバラで、こちらには色を変えて。間に白いかすみ草のドライフラワーをあしらって」など、先生のアドバイス通りに作り、きれいなアレンジができました。若い頃習った「古流」の華道とはまた異なるアレンジメント、楽しかったです。

 完成!


 花の制作が終わって、お料理の準備をしている間、係の人が建物を案内してくれました。
 私も、これまで見てきた近代和風建築の耳かじりの蘊蓄を娘に聞かせる。「ほら、このガラス、外の景色がちょっとゆがんで見えるでしょう。これは大正時代くらいまでの輸入ガラスなどで、現代のような真っ平らの工業規格ガラスができるまでは、こういうガラスだったんだよ。今では貴重品。ガラスが割れた後に新しいガラスをはめ込むと、ほら、こっちの窓は外の景色がゆがんでないでしょ」なんてことを話ながらお屋敷の中を1階2階と見て回りました。
 あとで、娘に「ガイドの人に案内されているんだから、ガイドさんより詳しいこと話しちゃだめ」と、ダメだしされました。えへッ、知ったかぶりするのは私の趣味。

 懐石料理の準備ができ、庭を眺めながらの晩ご飯。テーブルには、できあがったフラワーアレンジメント作品が飾られていました。




 いよいよお膳が運ばれてきます。

 前菜。茗荷寿司・玉蜀黍豆腐・枝豆の摺り流し・合鴨のコンフィ・鮎南蛮漬け・煮穴子・ボ牡丹海老塩辛


 お造り三種 


 吸い物 鱧葛打ち(梅肉じゅんさい冬瓜酢橘)


 煮物 トマト地鶏を射込んで玉子と汲み湯葉のスープ餡


焼物 赤むつ塩焼 レンコン照り焼き


 強肴 和牛ヒレ マスタードソース 野菜添え


 酢の物 鰻ざく 茄子浸し 袱紗胡瓜 錦糸玉子


 お食事 金目鯛焼き寿司 赤出汁

 
 デザート 掛川茶ゼリー


 「プライベート安心空間プラン」という「限定1組のイベントとお食事」というホテルイベントで、「ほかの客といっしょにならない空間でお食事やイベントを楽しむ」というコース、コロナ時代に対応した「密にならない」企画です。一組の客に、仲居さんほかの竹の丸のサービスもとても細やかで、大満足でホテルのロイヤルスイートルームに戻りました。
 
 娘は和室をチョイス。私は、キングサイズベッド独り占めです。まあ、カプセルホテルのせまいベッドだろうと、ロイヤルスイートのキングサイズだろうと、床に入って目をつむれば3分で寝入るのが特技なので、キングサイズを楽しむ余裕もなかった。
 イケメンプリンスでも隣にいてくれるなら、5分くらいは目を開けていられるのかも。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「グランドホテルロイヤルスイートルームと掛川城」

2020-08-16 00:00:01 | エッセイ、コラム
20200816
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2020二十重日記(2)グランドホテルロイヤルスイートルームと掛川城

 掛川旅行2日目。
 グランドホテルロイヤルスイートルームは、このホテルの最高級の部屋。
 たぶん、一生一度の宿泊かも。やたらに広いリビング。和寝室。洋寝室はキングサイズベッド、ひとりで寝るには広すぎるが、真ん中で大の字で寝ましょう。洋寝室のバストイレ化粧コーナー、玄関脇トイレとキッチン。


 部屋の意匠は、社長の趣味とかで、清王朝風。壁紙や調度品が王朝風で、なぜかドラが置いてある。




 たぶん、このホテルで結婚式を挙げたカップルが新婚旅行に出かける前夜を過ごすのに泊まる、という利用法が一番多いのだろうと想像しました。


 ロイヤルスイートルームをひとまわり見渡したあと、駅前からコミュニティバスに乗り、掛川観光へ。

 まず、資生堂アートハウスへ出かけました。タクシーで行こうという娘に、私は、タクシー代ケチって、「掛川コミュニティバスが、資生堂資料館入り口という停留所に止まる」と主張してバス乗車。

 しかし、停留所名「資料館前」と「資料館入り口」とではかなり違うこと、身にしみました。入り口から資料館に着くまで、上り坂をかなり歩きました。
 「コミュニティバスならひとり100円だから」と言い聞かせてタクシー代をケチりましたから、蒸し暑い中の上りにふうふう言っても弱音は吐けません。

 資生堂の企業資料館で見た「化粧品の瓶」コレクションも、歴代ポスターも面白かった。午前中から見学をはじめて、アートハウスを見終わるまでかなりゆっくり時間をかけて見て回ることができました。資生堂アートハウスの紹介はのちほど。
資生堂アートハウスからはさすがにタクシー利用。掛川城公園の観光、復元されている掛川城へ。 

 掛川城は、室町時代中期の文明年間(1469-1487)に、大名今川義忠の重臣朝比奈泰煕によって築城されたと伝えられる城です。
 今川氏衰退後、豊臣秀吉の命により1590(天正18)年に掛川の地に入封しのが、山内一豊です。山内一豊は大規模な城の改修を行い、掛川城は天守閣、大手門などを備えた近世式城郭となりました。豊臣政権には、土木や建築に強い武将が多かった。城はその美しさから「東海の名城」とうたわれました。

 一豊は、徳川家康に「この掛川城をお使いください」と申し出たことを嘉され、家康によって土佐藩初代藩主となり、掛川をはなれました。
 その後1854(安政元)年、安政の大地震によって崩れて以来、長く天守閣は再建されなかったのですが、1994(平成6)年、市民や地元企業の寄付により日本初の「本格木造天守閣」として復元されました。
 大阪城、名古屋城など、復元城郭の多くがコンクリートで建てられたのに対して、日本で初めて「木造の城」として復元された掛川城は、画期的なことでした。

 東京タワーができたとき、それを見上げる都民国民になにがしかの感慨がありました。タワーは敗戦から立ち上がっていく気概の象徴でもありました。掛川城も掛川市民にとって、我が町のシンボルとしてだいじな存在なんだろうと感じました。城のある町、いいもんです。

 掛川市による城の説明
 室町時代、駿河の守護大名今川氏が遠江進出を狙い、家臣の朝比奈氏に命じて築城させたのが掛川城のはじまりです。
 戦国時代には、山内一豊が城主として10年間在城しました。働き盛りの一豊は大規模な城郭修築を行い、天守閣、大手門を建設するとともに、城下町の整備や大井川の治水工事などに力を注ぎました。掛川は、一豊の人生にとって大きな意味をもつ土地であり、高知城は掛川城を模して作られたとも伝えられています。

 現在の掛川城は、平成6年(1994年)4月に「東海の名城」と呼ばれた美しさそのままに、日本初の「本格木造天守閣」として復元されたものです。
 掛川城周辺には、四季桜、しだれ桜、ソメイヨシノが約130本植えられており、毎年春には多くの人の目を楽しませています。


 私は、建築当時のまま残された城のうち、犬山城、松本城、姫路城を見学してきました。復元された城も大阪城、小田原城を見たのですが、それほど「お城ファン」というわけじゃありませんでした。
 娘は、小田原城見学をした数年前から「旅のテーマのひとつは百名城めぐり」と決めて、百カ所の「お城スタンプ」を集めるといいます。お寺や神社めぐりの御朱印帳を集める人や、百名山登山など、いろんな旅のテーマがありますが、娘が百名城めぐりを思い立ったのなら、私も付き合います。

 掛川城天守閣


 掛川城の城主、山内一豊が務めたのは江戸時代のはじめの10年ほどで、城主は代々変わりました。城内には、城主の歴史や最後の城主から寄贈された甲冑などの展示物がありました。
 四足門も復元されています。

 掛川城天守閣からの眺め


<つづく>
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ぽかぽか春庭「つま恋リゾートでライフル」

2020-08-15 00:00:01 | エッセイ、コラム

つま恋リゾートのイルミネーション

20200820
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2020二十重日記Goto(2)つま恋リゾートでライフル

 掛川第1日目は、つま恋リゾートです。つま恋といえば、かってはソングフェスティバルが有名でしたが、今は中止されて、スポーツリゾートになっています。

 つま恋リゾートホテルチェックイン。4ベットの部屋にふたりで泊まる。


 荷物を置いてさっそくスポーツリゾートに出かけました。
 広い園内、園内バスでスポーツエリアへ移動しました。人の出足は思ったより多い。駐車場の車、横浜ナンバーは見かけたけれど、練馬とか品川ナンバーは見ませんでした。

 宿泊パックに40ポイントのスポーツプレイ券がついています。テニスなど動き回るスポーツは「疲れそう」と敬遠。娘と「アーチェリー」を選択しました。一か所に立って矢を打つのですから、それほど疲れないかと。

 弓の構え方、矢の放ち方を指導員が丁寧に教えてくれました。
 6本矢を放ち、的の点数を記入。これを6回繰り返しました。なかなか真ん中10点には当たらず、私は9点がせいぜい。娘は弓を引く力が弱いので、手前に落ちてしまう矢もあり、女性ハンディキャップ50点を合計しても86点にしかならなかったと残念そう。6本ずつ6回のうち、最後の2回は疲れてしまって、弓を構えるのもたいへんだったと。
 私は、ハンディの50点を足すと126点になり、かろうじて「初級者120点」をクリアしました。


 スポーツ体験ポイントが10点余ったので、私一人でクレー射撃に挑戦。娘は銃を持ってみた時点で「重たい!無理!」となったので、私だけ撃ってみました。空中に飛び出すクレーを狙い、デジタル測定されるのですが、試射の3発、本番の7発、すべて外れました。かすりもしません。娘と「こりゃ、オリンピックの射撃選手にはなれないなあ」と大笑い。



 アーチェリーもそうですが、自分でやってみると、選手たちがいかにすごいことをやっているのかがわかってよい、という教訓を得てスポーツ体験を終えました。

 園内の「森林の湯」の露天風呂で汗を流し、バイキングディナー。まあ、よくあるホテルバイキングの定番ラインですが、スポーツと露天風呂でおなかもすいていたから、おいしくいただきました。


 晩御飯がすんだら、もうつま恋イルミネーションが始まっていました。音楽に合わせてイルミネーションが輝く中を散歩。たくさん写真も撮って、部屋に戻りました。娘のイルミネーション評「ここはここできれいだけれど、伊豆高原グランパル公園のイルミのほうが規模が大きいだけでなく、イルミネーションデザインがよかったと思う」
 つま恋のほうが、伊豆イルミに比べ若い人が多いように思ったのは、スポーツリゾートがあまり年寄り向きではなかったからか。







 4つのベッドのうち、つかったのはふたつでしたけれど、ぐっすり寝ました。
 朝ごはんもバイキング。娘は「ここはイルミネーションのために来たんだから、食事はまあこの程度でよし。ごちそうは、今夜の竹の丸御殿懐石料理だからね」と言う。

 もう一度「森林の湯」に入るつもりだったのに、祝日であっても金曜日だからは午前中は入浴時間外だ、というので、バスで掛川駅へもどりました。
 駅前のホテル。ロイヤルスイートルームに午前中のチェックインができました。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「 Let' ! go to つま恋」

2020-08-13 00:00:01 | エッセイ、コラム
20200813
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2020二十重日記夏GoTo(1)Go! go to つま恋

 「おぼんの帰省も控えて」という呼びかけも行われる事態となったコロナ感染拡大。
 都会の若い世代が田舎に住む高齢の両親に会いに行くのもはばかられる夏になってしまいました。自粛を守り、家にいた方も多いことでしょう。
 テレビのインタビューなど見ていると、「長いこと田舎の両親に孫をだっこさせてやれないでいたので、感染防止につとめて帰省する」という一家もいたし、「旅行予定をキャンセルして自宅ですごします」という人も。都内のホテルでプール利用券つき宿泊プランも人気だとか。

お盆休みの春庭、団地2DKと今住んでいる家を往復して片づけごとに専念しました。団地の火災報知器取り替え工事のお知らせが来て、火災報知器の下に脚立を設置するスペースをつくらなければなりません。しかし我が家、部屋全体がゴミ箱状態。脚立を広げるスペース確保するためには、片づけに3日要しました。疲れた。12日水曜日に工事は10分もかからずに終了。

 そんなお盆休みに甘んじたのも、7月の海の日連休中、感染予防に努めたうえでの外出をして「楽しい思いを重ねて免疫力UP!」を実行して遠出気分はすませていたから。
 お盆の遠出はしないで我慢。都内の美術館など近出はしましたけど。

 7月は、海の日スポーツの日土日4連休になりました。県をまたいでの移動がいったん解禁されたあと、東京都の感染者増加を理由にまたもや都への出入禁止。
 感染がおさまったように見えたころには、7月22日からGoToキャンペーン実施と言われていたので、娘は旅のテーマのひとつ「日本百名城スタンプラリー」を実施しようと掛川城へ出かける旅を予約をしました。

 ところが、東京都だけはGoToキャンペーン仲間外れを政府が決定しました。
 埼玉県民が横浜中華街に出かけるのは半額補助、神奈川県民が千葉に出かけても半額補助。東京を通過しても、降りなければよし。ところが、江戸川区民が青梅市観光に出かけた場合、同じような距離の移動であっても、補助なし。これってどうなんでしょ。

 東京は連日3桁の感染者が出たという理由でGoTo実施は見送りになりましたが、千葉埼玉神奈川3県合わせれば、東京都同様の感染者数です。感染予防というのなら、東京通勤圏いっせいにやらなければ、予防対策としてはなんの意味もない。第一、東京から出るな入るなと言っても、毎日の通勤に首都圏の勤務者は毎日出たり入ったりしています。その数を考えれば、観光・旅行だけ東京から出るな東京に入るなというのが、感染予防になるのか疑問です。

 東京だけGoToキャンペーンから除外したのは、政府の言うことをきく府県は政府の覚えめでたく、なにかと逆らってきた都は仲間外れにするという、子どものけんかのような政府の措置に思われます。10万円全国民へ支給の裏に電通の「儲け取り分」があったり、マスク配布にもなにやらキナ臭い取引があったらしいのと同じように、GoToキャンペーンも感染拡大中にもかかわらず県外旅行OKとなった裏には何か取引があったのだと想像しています。

 国民の不平爆発したら、旅行キャンセルには補助金を出すという、そんなあ。朝令暮改の見本のようなコロコロかわる政府の方針。ついていけません。しかも、キャンセル料補助は、7月10日から17日までに予約したケースだけ。娘は7月10日以前に予約しましたから、対象外です。
 Gotoキャンぺーンもなくキャンセル料バックもなしなので、私と娘は「感染予防措置をしっかりとって旅行する」という意思を貫きました。

 旅好き母子は、こんなことなるまえ、都外移動OKになった時点で「そら!都外へ行けるぞ」とばかりに旅行を予約してしまいました。キャンセル料補助は10日から17日まで1週間の間の予約に限るそうですから、それ以前に払い込んだ前払いの予約金は返金なし。
 Gotoキャンペーンを打ち出し、収入減となっていたホテルやみやげ物屋を助けるようにと、お出かけをあおったのは、だれじゃいな。

 私の旅のテーマは、いくつかあります。「滝・巨樹・橋めぐり」「美術館めぐり」「近代建物めぐり」「世界遺産めぐり」。
 たとえば、前回の伊豆高原旅行では、私の行きたかった20世紀池田美術館へ、絵があまり好きじゃない娘も付き合ってくれました。

 娘の旅テーマは「日本百名城めぐり」「リフトやエレベータで登れる山めぐり」「伝統工芸・手仕事を見る旅」「おいしいもの食べ歩き」「ゆったりルームに泊まる旅」などです。

 旅好き娘は、9月の出雲旅行の相談をするため、6月の伊豆高原旅行をアレンジしてくれた旅行社に立ち寄りました。とても親切な応対で、感じのいい社員さんだったので、伊豆高原グランパル公園のイルミネーションがきれいだった、という話をしたのですって。そしたら、旅行社はさっそく「掛川にもイルミネーションがきれいなところがあるから、行ってください」と。
そりゃ、お客の減っているこの時期ですから、釣れそうな客がいれば、旅行社はあの手この手で釣り上げようとする。
 はい、娘は釣られました。しかも、掛川のホテルの最高級ロイヤルスイートルームというのを予約。7月連休。海の日スポーツの日土曜日、掛川で過ごすことになりました。

 今回の掛川は、「掛川城見学」と「掛川竹の丸御殿で食べる懐石料理」「つま恋イルミネーション見物」「豪華ロイヤルスイートルームに泊まる」がメインで、まったく私のテーマには合いません。そこで「娘から母へのプレゼント旅行にする」というので、娘におまかせの旅になりました。

 行きは、品川から新幹線乗車。掛川に止まるこだまグリーン車です。何度も新幹線を利用している人にとっては、なんでもないことでしょうが、私も娘も、ものすごく久しぶりに新幹線を利用したのです。一昨年京都へ行ったときも、往復夜行バスだった春庭ですが、娘といっしょだとなにかとリッチ旅になります。

 掛川駅に着いたこだま

 こだま8号車前で


 掛川、はじめて駅に降り立ちました。地元の人が「ピラミッド」と呼んでいるらしい掛川駅前の金色オブジェ。キッチュな感じで新興土地らしい駅前ロータリー。
掛川の発展は、新幹線の駅に選ばれて以後のことで、新幹線停車以前は、かっての宿場町が衰えて以後、な~にもない駅前だった、とタクシー運転手さんが言っていました。

 掛川駅前ピラミッド


<つづく>
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ぽかぽか春庭「8月15日の確認」

2020-08-11 00:00:01 | エッセイ、コラム
20200811
ぽかぽか春庭ことばのやちまた>8月15日の確認

 毎年8月15日を中心とした日に春庭が行っている確認事項です。

8月15日の確認。
<日本国憲法前文>
 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

<憲法第9条>
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


ARTICLE 9. Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation and the threat or use of force as means of settling international disputes. (2) To accomplish the aim of the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained. The right of belligerency of the state will not be recognized.

 
 世界的な危機の中、人々が安心して健康で文化的な生活をおくり、人生をまっとうできるための最も基本となる事項の確認を、今年もしっかりしたいと思います。

<おわり>
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ぽかぽか春庭「黒い雨訴訟勝訴」

2020-08-09 00:00:01 | エッセイ、コラム
20200809
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2020二十重日記ピース(1)黒い雨訴訟勝訴

 原爆投下後「黒い雨」を浴びて原爆症に苦しんできた人々について、当初に「原爆被害者」として設定したに地域よりはるかに広範囲に原爆症被害が広がっていたことを、長年の裁判を経てようやく「申し出のあった地域で放射線を含む雨を浴びた人々を原爆症被害者として認定する」という判決が下されました。判決に喜ぶ人々、みなお年寄りです。被爆者として認定されても、もう亡くなっている方々も多かったのではないかと思います。もっと早く原爆の後遺症に悩む人々に手を差し伸べられなかったのかと思いますが、なにはともあれ、画期的な判決が出たこと、よかったです。

 原爆投下直後に降った「黒い雨」を浴びたのに、援護区域外だったため、被爆者健康手帳の交付申請を却下されたとして、広島市などの男女84人が処分の取り消しを求めた訴訟で、が7月29日、広島地裁は、原告全員を被爆者と認める判決を言い渡しました。

 被害者は、1945年8月6日・8月9日から75年という長い歳月を、被害者として認められないまま原爆症に苦しみ、仕事にも結婚にも差別を受けて人生を過ごしてきたのです。多くの被害者は認定されないまま亡くなってしまいました。

 「黒い雨」とは、原爆投下後に広範囲に降り注いだ雨の色が真っ黒に見えたことから名づけられました。原爆の放射能を含む塵が舞い上がり、雨に含まれたためその色が黒くなったのです。
 井伏鱒二の小説『黒い雨』、それを原作とした映画などによって、「黒い雨」という言葉は原爆被害の象徴となりました。
 8月9日、長崎への原爆投下の日から、75年たちます。
 8月6日の広島、8月9日の長崎、この日を忘れないために、後世に伝えていくために、小説の一部をコピーします。井伏鱒二が1993年に亡くなってからまだ著作権は残されていますが、もし、一部分のコピーも許されないのであれば、削除いたします。

『黒い雨』
 八月六日の午前八時十五分、事実において、天は裂け、地は燃え、人は死んだ」「広島はもう無くなったのだ。それにしても広島という町が、こんな惨状で末路をつげるだろうとは思いもよらなかった。

 矢須子さんのあの日記、あそこのところ、省略した方が宜しいのじゃないでしょうか。あの頃なら、黒い雨のことを人に話しても、毒素があることは誰も知らんので、誤解されなんだでしょう。でも、今じゃ毒素があったこと、誰でも知っています。あそこのところを清書して出すと、先方で誤解するんじゃないでしょうか。


 「黒い雨に打たれた」ということを人に話すと、誤解差別が生まれる、ということを懸念している部分です。被爆者であることが「差別」につながったこと、井伏は見ています。結婚や就職で差別を受けることを恐れて、被爆者であることを隠し続けた人も多かったようです。
 今回の黒い雨訴訟、高齢の被爆者が、今後十分な医療と生活を保っていけるよう願っています。

 「コロナ」罹患者や医療を仕事としている人々への差別を聞くにつれ、被爆者が身を潜めていた日々のつらさが思われます。
 だれの身にも、いつふりかかるかもしれない厄災。厄災から逃れることだけを考えるのではなく、不運にも、身に黒い雨を、ハンセン氏病を、コロナ肺炎を負ってしまった人がいたとして、その人々に寄り添えるだけの強さを持っていけるように、というのが8月9日の感慨です。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「夢に向かって」

2020-08-08 00:00:01 | エッセイ、コラム
20200808
ぽかぽか春庭にっぽにあニッポン語教師日誌>大学院入試に挑戦(3)夢に向かって

 春庭の日本語教師日誌を再録しています。
 中国赴任中に教えた学生たちとは、日本に留学後も交流をしてきました。メールのやりとりだけの人もいるし、食事にいったり、自宅に招いたり。
 昨日写真にうつっていた日本語学校理事長とは、音楽趣味が共通していて、いっしょにコンサートに行ったこともありました。
 留学期間を終えて帰国してしまうとなかなか出会うこともなくなりますが、日本留学の経験を生かして、それぞれの地域で活躍していることを信じています。
~~~~~~~~~~~~~
2008/05/13
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>来年も桜さかそう(4)夢にむかって

 ジュンさんのクラス「博士3斑」の15人、私が担任した「博士2班」の22人、北海道から九州まで、日本各地の大学へ留学しました。
 ジュンさんは、2006年10月から2007年9月まで、中国教育部直属の教育機関で日本語を学びました。
 中国人大学教授たちと、文科省より派遣された日本人講師が協力して日本語を教える、国家プロジェクト。私は2007年度の文科省派遣教師でした。

 毎年100人前後の学生が、このプログラムで日本国文部科学省国費留学生となり、日本に留学しています。
 100人は、20人ずつ5つのクラスに分かれて日本語を学んでいました。「博士一斑」から「博士五班」まで。

 日本に来てしまうと、なかなか、かって同じクラスだった友達にも、会うチャンスはありません。
 私のクラス「博士二斑」は、年末とお正月に、東京で「ミニ・クラス会」をして、餃子パーティや「日本の家見学会」をしました。
 これは、「博士二斑」の担任リー先生が、現在日本の大学で研究研修期間中で、いっしょに日本にいるおかげ。担任の先生と教え子が同時に日本へやってきた、めずらしいケースです。

 ジュンさんのクラス「博士三斑」の担任先生は大阪在住なので、まだ、東京に住むクラスメートたちのクラス会は行われていません。

 トンシャオさんは、ジュンさんのかってのクラスメートのひとり。
 私は、二人が在籍しているクラス博士三斑の読解授業を担当しました。
 日本のロボット工業の文章を読解するときはアトムやアシモの写真、鎌倉の歴史について読むときは、大仏や鶴岡八幡宮の写真など、さまざまな画像を読解の助けとして読んでいきました。

20191222
ぽかぽか春庭にっぽにニッポン語教師日誌>再録・日本語教師日誌()

 今はインターネットから拾えるので、読解参考資料づくりが13年前に比べればずっと楽でしたが、それをパワーポイント教材にととのえるのに、一晩がかりだった。これも、1年たつ今では、なつかしい思い出。

 読解という名の授業なのに、文章を読みとることよりも、「日本文化紹介」の授業になってしまいましたが、ジュンさんもトンシャオさんも面白そうに、日本の生活のあれこれについて聞いてくれました。
 トンシャオさんは、私が出講している国立大学のひとつに留学しました。工学部大学院で工業デザインの研究をしています。
 理系の彼は、2月の入試に無事合格し、博士後期課程の大学院生になりました。

 大学院の研究と同時に、国際教育センターで日本語を学ぶトンシャオさん。
 彼と話をしていたら、ジュンさんが2007年後期に留学先の大学で日本語を習ったY先生と、4月からトンシャオさんが学ぶ日本語クラスのY先生は、同じ先生だということもわかりました。

 非常勤講師はあちこちの大学を掛け持ちするので、大学が異なっても、同じ先生に習うこともありえます。
 私も、国立大学2校と私立大学2校を掛け持ちで週5日授業をしています。
 以前から劣悪な条件で働いていた語学教師は、国立公立大学の法人化により、ますます過酷な条件であちこち掛け持ちしています。それでも食べていけません。

 ジュンさんとトンシャオさんが1年前、私の教え子だったことについて、偶然のことながら、「これもご縁ですね」と、Y先生と講師室で話しました。
 こんな偶然を知ると、100人の留学生が日本全国に散らばってすごしていても、どこかにつながりがあるもんだなあ、と思います。

2008/05/14
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>来年も桜さかそう(5)加油!

 トンシャオさん、去年は、研究留学生だったから、朝お弁当をつくって持ってくる余裕もあったけれど、2月に博士後期課程に合格し、4月から博士後期課程大学院生になったら、本当に毎日忙しくて、あまりお弁当を作れなくなった、といいます。
 大学内の食堂で、お昼ご飯をいっしょに食べることにしました。

 5月2日、トンシャオさんとランチ。
 図書館近く、大学会館のレストランで。あまりおいしくはないけれど、ワイワイしている生協学食よりは落ち着いて食べることができます。

 トンシャオさんの悩みのタネは、やはり日本語。
 大学院の指導教官と話すときは、先生が気をつかって専門用語などを説明しながら言ってくれるので、大丈夫だけれど、問題は、大学院生同士のディスカッション。

 日本人院生たちの会話は、とても早いし若者言葉も混じるし、専門用語の解説なしに話がすすむので、ディスカッションなのに、自分の意見を言うこともできない、と、トンシャオさんは嘆いていました。
 だんだんに耳がなれてくるし、若者言葉も覚えていくから大丈夫、と励ましました。

 トンシャオさん、若者言葉の会話に悩みつつも、とても元気で、研究の抱負を語っていました。
 また、北京オリンピックに日本人を連れて行くボランティアスタッフに応募したので、運がよければ、スタッフに選ばれるかもしれない。そしたら、この夏にはボランティアとして日本人といっしょにオリンピック見物ができるんだけれど、、、と、言っていました。

 「北京オリンピックも見たいけれど、なにより、日本人といっしょに行動していれば、自分の日本語の勉強にもなると思うので」と、語るトンシャオさん。
 応募する中国人留学生はとても多いそうなので、「宝くじ」みたい、ということですが、うまく当たるといいね。

 「ジュンさんトンシャオさんのクラスもそのうち集まってコンパをすることがあるでしょう、そのときはまた、私やチュンツォン先生も呼んでね」と、トンシャオさんに話しました。

 14年前に中国で教えたときの教え子のひとりに、耐震構造の研究をしている女性がいました。
 自分が子供のころに経験した四川省の大地震を心にきざみ、地震に耐える建物を研究しようと志したのです。

 たぶん、政府の建物などには、耐震構造の研究成果が生されていることだろうと思います。
 でも、一般の人の家までは、まだ耐震構造がいきわたってはいない。
 彼女が望んだ「二度と地震のために人が死なないように、丈夫な家を研究する」という志が、かなうのはいつの日でしょうか。
 きっとその日をめざしていることでしょう。

 留学生たち、みな日本での研究生活、かんばっています。
 私も授業と研究、がんばるよ。

 加油!チャーヨゥ!

~~~~~~~~~~~~
20200808
 中国に3回赴任した内、最初の年1994年に教えた学生は、今中国社会の中枢で活躍していることと思います。四半世紀の年月は、彼らにとってどんな日々だったことでしょうか。一方春庭は、相変わらずの日本語講師。
 今は、中国から来日できない留学希望者に、オンライン授業を行っています。パソコン操作もままならない私には、うまくいかないことの多い授業になりますが、学生たちは、Zoomを利用して元気に授業に参加しています。
 コロナ感染が収束しないと、入国許可がでません。一日も早く、4月入学だった学生たちが来日できるように願っています。

 かいこうずの花


かいこうずは、別名アメリカデイゴ。沖縄などにもデイゴの花が咲きますが、かいこうずは鹿児島県の県花になっています。名前はアメリカですが、原産地はブラジル。江戸時代に日本にもたらされ、南国に花を咲かせました。今では鹿児島県の花。
 これは、外国から日本にやってきて、日本語を学んだ留学生と同じですね。鹿児島県を代表する花になったかいこうず。留学生の中にも、故国と日本の架け橋となって花を咲かせる人がいると思います。

<おわり>
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ぽかぽか春庭「大学院入試に挑戦ー不合格にめげず」

2020-08-06 00:00:01 | エッセイ、コラム
20200806
ぽかぽか春庭にっぽにあニッポン語教師日誌>大学院入試に挑戦(2)不合格にめげず

 春庭の日本語教師日誌を再録しています。2007年に来日した学生からの近況報告を2008年に受けた記録の再録です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
2008/05/12
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>来年も桜さかそう(2)めざせ博士号

 今年はダメでした、来年もう一度受験します、というメールも届いています。
 国立大学の博士後期課程の入学試験、文系は日本語力が重視されます。日本語で博士論文を書く研究科が多いからです。

 博士後期課程の入試に落ちてしまったジュンさんが、「ひとりぼっちで、不合格のつらさに耐えているのではないか」という心配は、杞憂でした。
 昨年10月に来日したときから、先に日本に来てエンジニアとして働いているの恋人といっしょに住んでいたのです。
 「あらあ、恋人といっしょだったのなら、心配しなくてもよかったわね」と、ひとまずほっとしました。

 中国での教え子のうち、ほとんどの人がが結婚していましたが、80%は同じ大学で学んだ同窓生、あるいは大学同僚との結婚でした。
 クラス最年長、名古屋で大学経営論を研究するリューさんにいたっては、「妻は中学、高校、大学、ずっと同級生。今は銀行の副頭取をしています」といっていました。
 ジュンさんの恋人も、同じ大学の人。

 ジュンさんは、博士課程に合格したら結婚の届けを出す予定だったので、結婚届の提出もちょっと延期になりました。でも、希望をもってすごして、来年は博士課程合格と、結婚のふたつの花が咲くことでしょう。

 昨年、中国では、自分のクラスの学生コンパのほか、いつもジュンさんのクラスのコンパにも招いてもらい、カラオケでうたったり、おいしい中華料理を食べたりしてきました。全部学生たちのおごりでした。
 中国ではコンパに先生を呼ぶ場合、完全にご招待です。先生がお金を出したりしたら、失礼なことになるのです。
 
 ジュンさんの出身大学は、私の、若い友人ランランが日本語講師をしている大学です。
 ランランも準教授の試験をめざしてがんばっています。去年、はじめて挑戦した昇任試験に不合格だったときは、ずいぶん落ち込んでしまったようですが、娘さんシンシンちゃんに励まされて、再チャレンジを決意した、というメールをくれました。
 そう、一度うまくいかなかったからといって、あきらめることはない、何度でも夢にむかって挑戦を!

 ランランが住む町は、ジュンさんのふるさと。一人っ子のジュンさんを日本へ送りだし、心配しながらも応援してくれる故郷の両親の顔を思い浮かべ、日本語を共に習った学友たちの顔を思い浮かべながら、ジュンさんは、来年へ向けてまた新しい一歩を踏み出しました。

2008/05/11
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>来年も桜さかそう(3)再チャレンジ食事会

 2006年の10月から日本語の初歩を学びはじめて、1年半ですばらしい上達をみせた教え子たちのその後。
 日常生活で不自由なくなった日本語でも、博士論文を書く日本語力となると、そうは簡単に身につきません。やはり、文系の学生にとっては、試験は難関でした。

 ジュンさんは、教育学を専攻する留学生。
 私の受け持ちクラスではなく、隣のクラスだったのですが、何回か読解の授業を受け持った縁で、隣のクラスの学生たちとも知りあいました。
 ジュンさんは、日本語の文を朗読するのもじょうずで、いつもニコニコと愛らしい女性研究者でした。

 来日以来、半年間、日本語能力向上に切磋琢磨してすごしてきても、すんなり博士後期課程に入学するのは難しい。ジュンさんも、2008年4月の入学はかないませんでした。

 ジュンさんからのメール。
================
 先生  最近いかがでしょうか。お元気でしょうか。
 桜が咲いて、お花見しましたか。
 本当に申し訳ありませんでした。遅く先生に連絡しました。

 先生の手紙を見ると、私の心はとても暖かくなりました。
 そのとき、私は日本語の期末テストと博士の入学試験のために、頑張りました。
 私は先生から力をいただいて、何も言わずにけれども、腹から感謝の気持ちを持っています。本当に先生に直接にありがとうございますと言いたいです。

 ですから、もし先生はいつかご時間があったら、連絡していただけませんか。とても先生とお会いしたいです。
 楽しみにしています。
ジュンウェン(Mon, 7 Apr 2008 21:37:29 +0900)

 入学試験については、残念ながら、合格できなかった。これから、来年の試験のために、もっと頑張りたいと思います。先生は心配しないでください。
 私も困るとき、先生に連絡させていただきます。
 では、集まる日を楽しみにしますね。
ジュンウェン(Tue, 8 Apr 2008 23:11:32 +0900)

==============

 他の中国教え子の留学生たちは、ほとんどが医学工学などの理系で、同じ大学に友達がいる人も多く、ストレス発散のおしゃべりもできます。でも、ジュンさんは教育専攻なので、一人で教員養成系の大学に留学しました。

 4月、新学期が始まってから、吉祥寺のロシア料理店にジュンさんをおさそいしました。
 来日してから、今まで博士後期課程の試験勉強や、修士論文を日本語に翻訳する作業をつづけてきたのに、不合格になってしまったジュンさん、がっかりしているかも知れない、と心配しながら会ったのですが、ジュンさんは、「先生、私はだいじょうぶ、来年がんばります」と、明るかったです。
 「日本では、学生と教師がいっしょに食事したら、教師がおごるんだよ」と、日本の習慣について説明し、「今日のロシア料理は、私のおごりだから、たくさん食べてね!」

 ジュンさんは、「グルジア式チーズパイ」を頬張りながら、「先生に教えていただいたのは、読解の授業を10回くらいでした。でも、わたしにとっては、この10回の授業は、人生のなかでとても大きいものになりました。いつも元気で、にこにこしていた先生の授業が大好きでした」と、言ってくれます。(そりゃ、おごられている時に、あなたの授業はつまらなかったとは言えないけれどね)

 東京で忙しい留学生活を送っていると、中国で日本語学習に励んだ日々がなつかしい、とジュンさんは言います。日本語学習で切磋琢磨、助け合い競い合った1年間。
 クラスメートそれぞれ、自分の夢にむかってすすんでいます。ジュンさんも、しっかりと来年へ向けて歩んでいくことでしょう。

~~~~~~~~~
20200806
 2009年に中国赴任したとき、私の読解授業を受けた学生のひとりが、10年後、日本永住権を得て「日本への恩返しとして日本語学校を設立し、学生を育てたい」と決意しました。彼は、現在私が勤務している日本語学校の理事長です。
 客員研究員として大学研究室に籍をおくと同時に日中合弁のIT企業を興し、日本と中国を行き来しています。
 今年の1月に中国に行ったきり、日本に戻ることができず、半年間中国にとどまらざるを得ませんでした。

 ようやく日本入国ができた理事長と。


 中国で結ばれたご縁によって、古稀をすぎても働く場を与えてもらったこと、本当に人生のえにしは巡りめぐっているなあと感じます。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「桜咲かそうー大学院入試への挑戦」

2020-08-04 00:00:01 | エッセイ、コラム
20200804
ぽかぽか春庭にっぽにあニッポン語教師日誌>留学生たちの挑戦(1)桜さかそうー大学院入試への挑戦

 春庭担当の現在の学生たちは、夏に行われる大学院入試に向かって受験勉強の真っ最中です。頑張っている学生たちですが、日本人学生と同じ試験を受けるのは、きつい。小論文を日本語で書くにあたって、論題は当日知らされるのですから、準備万端とはいきません。

 たとえば、ある時の論題「あなたは、海外からの留学生のチューターに選ばれ、博士前期博士後期5年間の研究を手伝うことになった。まず、ひとりの担当留学生の選考過程をしるし、なぜ、この学生を担当したいのか述べなさい。次に5年間の研究計画を、年次ごとに書きなさい」
 
 このような課題に対して2000~3000字で論述すること、おそらく日本人学生にも高度な論述能力が必要です。それを、学び始めて1、2年の日本語学習の力では、とても不利です。合格できるよう祈っていますが、ダメでもともとでの受験です。

 これまで担当した日本語学習者のうち、中国に赴任して担当した学生は、中国の大学で修士課程を修了し、日本の大学院の博士課程への留学を目指していました。ほとんどの学生は進学先指導教官との連絡が済み、博士課程進学を確実にしてからの留学でしたから、医学工学系の学生で、大学院試験に落ちた学生はほとんどいませんでしたが、文科系の学生のうち、教育や歴史学など、着実な日本語力が必要な科目を専攻する学生のうち、「日本語力不足」として不合格になった者もいました。

 春庭の日本語教師日誌の再録です。2007年に中国で担当した留学生の、日本留学後のようす、2008年に受信したメール、発信者の許可を得ての引用です。
~~~~~~~~~~~~~

2008/05/10
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>来年も桜さかそう(1)留学生から合格メール

 桜前線、北海道最北端までのぼり、全国の花見シーズンがおわりました。
 来年もまた花見が楽しめますように。

 桜さくのを待っているころ、仙台で学ぶリーエンさんから、うれしい「桜咲くメール」が届きました。
========== 
(リーエン より)
合格しました  Date: Fri, 21 Mar 2008 04:52:45 +0000

先生、お久しぶりですね。お元気ですか?
もうすぐ春が来ますね。東京の桜が咲いてくるそうですね。私達は四月13日に大河原で花見の計画があります。初めてなんですから、期待しています。

私やっと試験が終わって、四月から入学になります。来週は入学試験のためにスーツを買うに行くつもりです。
これから英語の論文や実験のことも山のようにきます。もっとがんばらなければなりません。

ご健康を祈るように。
リーエン
================

 昨2007年に、中国で受け持った教え子たち。中国全土の大学若手教師から選抜され、日本で博士号を取得すべく留学してきた留学生です。
 昨年10月に来日し、半年間、日本語の上達と研究準備、大学院博士課程入試準備に没頭してきました。ほとんどの人が、2月を中心に博士後期課程の試験を受け、4月入学を決めています。

 上記のリーエンさん、東北地方の大学でナノテクノロジーの研究をしています。
 まさに今、桜爛漫と咲いたようなメールをくれました。はじめての花見を楽しみにしているというメールでしたが、きっと楽しい春満開のお花見を堪能したことでしょう。
 博士課程に入学した教え子たち、よい研究が実るように祈っています。

 今年はダメでした、来年もう一度受験します、というメールも届いています。
 国立大学の博士後期課程の入学試験は、とても難しい。
 特に、文系の場合、大学内のポストが少なくて、オーバードクター(博士号を得ても就職先がない、フリーター状態の博士たち)がどんどん増えていることなどもあって、試験はいっそう厳しくなっています。

 全中国から選ばれて国費留学生となった教え子たち、それぞれの研究で博士号をとるため、博士後期課程の入試を受けても、全員が合格できるという保証はありませんでした。
 専門の研究と英語力が重視される理系に比べ、文系は日本語力が重視されます。日本語で博士論文を書く場合が多いからです。


<つづく>
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